最新更新日:2024/03/29
本日:count up23
昨日:26
総数:439586
新規「授業力アップわくわくクラブ」サロン会員のご案内  新規「授業力アップわくわくクラブ」サロン会員のご案内 

笑瀾万丈24 佐々木元太郎先生

画像1 画像1
☆佐々木元太郎先生

 佐々木先生は、東京高等師範学校を卒業し、東京教育大学の附属高等学校に長年勤められていた。現在の筑波大学附属高等学校である。筑波大学附属高等学校は、東京の大塚にある。駅で言えば、丸の内線の茗荷谷である。そこの数学の先生であった。58歳くらいで滋賀大学の教授になられた。主に高等学校の学習指導要領の改定に力をつくされた。65歳で定年退官され、東京の自宅で悠々とされていた。ところが、兵庫教育大学大学院の準備にも少し関わられて、わざわざ兵庫教育大学大学院の教授になられたのである。私の入学試験の面接官であったそうだ。
 とても温厚な方で、私は29歳、先生は66歳くらいであったと思う。佐々木先生は、68歳まで大学院におられたと思う。先生にはかわいがってもらい、自宅までよく送った。奥様が東京から来られているときには、夕食をごちそうになった。二時間くらい、数学の教育のことを話してくださった。人材の本当の育て方は、徒弟制度にある。これはいつの時代でも変わりはない。
 一年目の秋に高血圧で倒れられた。そのため、夕方のお見送りは、私が担当することとなった。佐々木先生は大学から八km離れた大学の世帯寮に住んでいらした。世帯寮は社町のはずれにあり、大学の方がかなり奥の大地に切り開かれたところにあった。
 筑波大学附属小学校に赴任できたのも、佐々木元太郎先生のおかげである。直接的には、大阪教育大学時代の恩師の三輪辰郎先生が筑波大学附属小学校に来ないかと誘ってくださったのであるが、三輪先生と佐々木先生は同じ筑波大学附属高等学校の数学科の先輩と後輩の関係もからんでいた。後で、わかったことだが、私が筑波大学附属小学校に行くに当たっての推薦は、オーストラリアのアデレードで数学教育の学会のときに、佐々木先生と三輪先生が相談されたそうだ。そこで、大学院を修了して、神戸市の学校に勤めていた私に声がかかったのであった。


笑瀾万丈23 横転レシーブ

画像1 画像1
横転レシーブ

☆交通事故
 ガツーン。ふんわり、ドン。と音がした。ガツーンは車が側溝にぶつかった音。ふんわりは車がゆっくりと横転。そして、ドンは車が着地した音である。
 ヒロシが生まれて初めて経験する横転事故である。とても珍しい体験をした。田んぼと道路が接する左側の側溝に乗り上げ、その反動で左側が浮いてしまい、そして、右側に倒れた。ふんわりの瞬間がとても長い時間に思えた。この瞬間に人生の終わりかと思うくらい過去が走馬燈のようによみがえる。なんて、そんなことはないよ。あの世に行くのはまだ早い。気がつけば、体は地面に垂直である。垂直という表現、数学も役に立つねえ。ハンドルはにぎったままである。
 対向車の人がやってきて、左側のドアつまり上からドアを開けて、ヒロシを救いだしてくれた。幸いにもけがはなかった。何とついていることか。
 さて、この事後に至る伏線を述べよう。
ちょうどその日は、大学院の講義の三週目が終わった。教育学などの講義はとても面白くついていけた。ところが、数学の講義はヒロシにとってはとても難しかった。代数学、幾何学、解析学、確率論などの数学の講義を受けた。なかでも、矢吹先生の確率論の講義はレベルがとても高く、頭に入っていかなかった。それで頭はパニックしていた。
よりによって、大学から車で帰るとき、三木市を抜ける近道に挑戦しようとした。それがあの事故につながった。
 そして、ヒロシはどうなったか。
 どういうわけか、知り合ったばかりの佐伯陽先生の宿舎に転がり込んでいた。車の修理まで二週間、佐伯宅にお邪魔していた。出席番号が志水と佐伯は隣であった。だから、懇親会のときに隣り合わせとなり、意気投合したのであった。♪もしかして、もしかして、二人の出席番号は運命の赤い糸だったのかもしれない。神戸の自宅からささやかな食料を差し入れして、大きな顔をして転がりこんだヒロシであった。
 この二週間で佐伯さんにすっかりお世話になった。あの恩義は忘れられない。だから、一生の付き合いとなった。同じ年齢というのも偶然ではあるが気が合った。
 佐伯さんは、現在すでに定年退職した。しかし、退職後、広島大学の附属小学校の副校長、現在、附属中学校の副校長を勤めている。転がり込んだのは30年前とは思えない出来事である。

教訓:事故に会って運が悪いようだが、この後、運の良いことが続いたわけで、新しい運の始まりでもあった。


笑瀾万丈22 兵庫教育大学大学院の生活

画像1 画像1
☆大学院の生活

入学して勉学の日々が始まった。
四月当初は、自宅から大学まで片道50kmを往復した。
 教育カリキュラムは、一般教養、教職教養、自然系数学、数学教育の科目をとって勉学に励んだ。
 自然系の一期生としては50名の定員のところ数学科は11名だった。高校の教師が2名、中学校の教師が4名、小学校の教師が4名、そして主婦が1名いた。
 大学の施設として無い物ばかりであった。授業を進めながら施設を少しずつ建設していた。あるのは、教師陣と学生だけ。これで満足に研究せよというのがおかしいが、そんなことは言っておられない。とにかく一歩ずつコトを進めるほかなかった。
 そこには、創造の喜びがあった。自分たちで行動し、ルールを作っていくのである。
 恩師の三輪辰郎先生(大阪教育大学)は一期生は良いものだと話されたが、このことだと体験してみて初めてわかった。
 教師陣も我々院生に事前に相談を持ちかけてくれた。だから、大学院を作っているという気持ちがあった。教師陣とも仲が良かった。一緒にドライブに出掛けた。勉強の方はきびしかった。かなりしごかれたと思う。大学院だから当然のことであった。

教訓:ある日、全く知らない人が集まり、組織を形作る。初めは器と人の  み。後から中身が形づくられる。


笑瀾万丈21 全く反対の世界

画像1 画像1
全く違うコメント

☆主任教授からのエール
 四月の初め、一階の部屋に自然系の院生50名と教員30人ほどが集合した。自然系(数学と理科)講座の徳永主任教授から我々に挨拶があった。
「皆さん、合格おめでとうございます。これからの皆さんの勉学を期待します。ここは、大学です。学問の自由を保証します。文部省も関係ありません。これからの教育界を担う者として思いっきり学んで下さい。」
この言葉に唖然としたヒロシであった。
 当初から右傾化した大学ということを組合から聞かされていたが、主任教授がきっぱりと自由に勉強せよと指示したのであった。さすが東京大学から来られた教授は違うなあと思った。
とすると、…。これまで聞いていた情報は嘘だったのか?
ヒロシは四月に入学した同僚にこの大学院受験のことを尋ねてみた。
「あなたは、この大学院を受験するときどうだった?」
この質問にKさんは、質問自体の意味が分からなかったようで、
「なんで、そんなこと聞くの?」と問い返される始末であった。
大学院に入学したのは200名、そのうち、反対に会ったのは、兵庫県の40名(特に小学校と中学校)、この他組合の強い県がいくつかあり、50名くらいであった。残りの院生は反対というよりも頑張ってきてほしいと言われて送り出されてきた。岩手県から来た親友のKさんは、「ぼくなんかは、地元の新聞(岩手日報?)に取材を受けてエールを送られました」という。
 ヒロシの頭は何が真実かが分からなくなっていた。
 このことから、ヒロシは全てのことに疑問を持つようになった。当然ということはない。自分の目で見て、自分で考えて判断していこうと心に誓った。

教訓:日本国内でも同じルールとは限らない。だから、慣習は普遍的なも  のだと思ってはいけない。むしろローカルなものだと思う方がよい。


笑波瀾万丈20 ☆職場の雰囲気の変化

画像1 画像1
☆職場の雰囲気の変化

 受験してからのヒロシを取り巻く職場環境は、がらりと変わった。職場の皆さんは、腫れ物にさわるようだった。それまで青年部の集まりで、私の自宅まで遊びに来ていた仲間は去って行った。長いの付き合いでも去って行った。これほどまで、人間とはかくも残酷に豹変できるものかと思った。
 一番辛かったのは、合格通知が届いたときのことであった。職員室で教頭先生に合格しましたと出勤時に伝えた。すると、教頭先生は喜んでくださった。そうか、良かったなと言ってくださり、黒板に祝合格とメモ書きされた。ところが、更衣室から職員室へ戻るとそのメモは消されていた。これで私は決心した。勉強するのだと踏ん切れた。
 そうは言っても、来年の3月まで職場に勤めねばならない。幸いだったのは、同学年の先生は普段通りに付き合ってくださった。これはとても精神衛生に良かった。
 ある日、県内の分会(小学校・中学校)から署名が送られてきた。入学するなという署名である。本当に憲法を知っているのか、護憲護憲と言いながら学問の自由に反対するのだから憲法違反も甚だしい。この署名はヒロシにとって今後の励みとなった。35歳くらいまで持っていた。あるとき、こんなのどうでもいいわと吹っ切れた。それで捨てた。
 「許す」ことができない出来事がある。だから、署名を捨てたのは8年後くらいである。
 合格が決まり、次の準備に入った。自宅から大学まで片道50kmある。鉄道だと時間がかかりすぎる。従って大学院にはクルマで通学しようと、運転免許を取りに教習所に通った。校区に自動車学校があり、そこを3ヶ月くらい通って免許を取得した。
 不思議なことに、合格後には今後のことについてそれほど不安はなかった。反対されて行くのだから、勉強するしかない。この道しか選択の余地がなかったからである。たぶん、心の底で学びたいという欲求を抑えられなかったので、不安はなかったのだと思う。

教訓:人は我が身大事。無情に触れればこそ、温かみが身にしみる。



笑瀾万丈17 ☆一次試験、二次試験

画像1 画像1
☆一次試験、二次試験
 一次試験は、二週間後に発表があった。合格した。やったあ。少しほっとした。次は、二次試験の面接である。八月20日頃だった。
今度は兵庫教育大学大学院のある場所に行った。これが不便な場所で、兵庫県加東郡社町にあった。神戸からバスで90分かかり、それから、またバスに乗り換えて15分のところであった。大学に12時前に着いた。大学の一室で面接があったが、そのときの面接官が一生を左右する出会いとなった。
面接官は三人いた。一人は物理の徳永教授であった。自然系講座の代表である。もう一人は、佐々木元太郎先生だった。この二人に面識があるはずもなかった。佐々木先生はその後、ゼミの指導教官になっていただいた。徳永先生が、卒論のテーマに関して質問された。「関数教育の根本は・・」と尋ねられた。私は、「関数とは、変化と対応のきまりを究明することです。」と答えた。すると、徳永先生は、「そうなんだよな。」と相槌された。自然系数学科の受験生は20名弱だった。そして、合格したのは、13名?くらいだった。
 九月の半ばに合格発表があった。自宅に郵送で合格通知が届いた。後戻りはできないので、合格して本当に良かった。ここで不合格だったら私の人生は敗者のレッテルを貼られていたと思う。運良く合格できた。

教訓:生きるか死ぬかの勝負に勝つことはとても大事である。不退転の   決意でことにあたれば何とかなる。この決意に対して宇宙は応援する。
 

気持ちののせ方

画像1 画像1
3/23 今日のひとこと

教師は、子ども達に話しかける。

その際、言葉に「心」がのっている。

温かい気持ちで話すのか、冷たいとは言わないまでも温かさの心がかじられないで話すのかで大きな違いが出る。

よって、常に自部の気持ちをウェルビーイングの状態でいたいものだ。

笑瀾万丈19 受験の様子

画像1 画像1
笑瀾万丈19  試験当日

☆受験の様子
 兵庫教育大学大学院の受験は、大学のある社町ではなくて、神戸市の甲南女子大学で行われた。
 JR摂津本山駅を降りると駅前の空気が異様であった。組合員(やくざの組合ではない。教職員組合だよ。)が固まっている。また、機動隊も来ている。そんな中に、大学に向かうマイクロバスが到着していた。迷わず乗り込んだ。乗り込んだ瞬間に、ふと外を見ると、組合活動でいっしょに選挙のビラ貼りをした人がヒロシを見た。ヒロシは無視した。機動隊に守られて受験した。こんな体験は他の人には考えられないことである。貴重な体験である。バスに乗り10分ほどで大学に到着した。全く静かである。先ほどの騒ぎが嘘のようであった。まさに茶番劇で笑い話の世界である。
 静寂の中で、試験は開始された。朝の10時から始まり、夕方16時まで、教職教養、専門科目と試験があった。B4の白紙に8枚くらいひたすら解答を書いた。かなりハードな一日だった。だって、一生の問題がかかっているのだから、なんとしても合格せねばならないのである。
 教職の問題、数学教育の問題は解けた。心配なのは数学の問題である。行列式の問題が出て、幸いにも解けた。これで合格できるのかどうかは微妙だった。数学力のみを問われるのであれば、間違いなく落ちていた。ところが、教育の面の配点もあるので、そちらは手応えがあった。

教訓:機動隊に守られての受験風景は、今にして思えば茶番劇だった。
   人生は劇の連続である。そのときは、真剣であるが。


志水廣 1034 動画 夢現大97 算数・巣数学の楽しさ

志水廣 1034 動画 夢現大97 算数・巣数学の楽しさ


笑瀾万丈18 突然の嵐

画像1 画像1
☆夏休み開始早々

 転勤してから四年目のこと。夏休みが始まって、二、三日して、突然、組合の分会会議の招集の連絡がきた。
 8月30日。五位ノ池小学校の会議室に五位ノ池小学校の教職員が集合させられた。
 組合のお偉いさんがやっ来て、「ここにいる志水先生は、兵庫教育大学大学院を受験します。なぜ、受験するのか。ここに問いただしたいと思います。皆さんもご存知のように兵庫教育大学は文部省が推進する大学です。非常に右傾化した大学です。ここを受験すること自体が遺憾なことです。」
 ヒロシは、なぜ受験のことが漏れたのだろうか。校長先生と神戸市の教育委員会しか知らないはずなのにと思い戸惑っていた。誰か漏らした人がいるのは間違いない。でも、目の前にオルグという現実がある。ようするに「つ・る・し・あ・げ」である。揚げ物ならば美味しいが、このつるしてあげは堪らない。集団でのいじめである。
「なぜ、受験したいのか分からない。」
「早く管理職になりたいからか。」
と批判の声が続く。
 27歳の時であるから管理職などということは考えるはずもなく、自分が勉強したいという一念で考え出したことである。世の中には、そういう人たち(若くして管理職願望)がいることを改めて知った。
ヒロシは、立ち上がり、鉄よりも重い重い、重い口を開いた。
「私は、ここ数年間にネタがつきたと思ってきました。もう一度、大学で勉強したいと思いました。もちろん、組合は地区の役員までやっているので組合のことは大事に思っていますが、でも勉強することを誰も止める権利はありません。夏休みなのに、皆さんに集まっていただいたのは申し訳ありません。でも、受験に関しては、謝りません。行きたいから行くのです。」
重い唇ではあったが、軽くはっきりと明言した。
 ヒロシは、普段はこれほどきっぱりと言わない性格である。つまり、ほんわかタイプである。しかし、なぜかメラメラと正義感が沸いてきて、発言した。自分で言うのも何だが、かっこよかった。魂の底からの声が出ていた。
 ♪あの〜、人は言って言ってしまった。あの〜人は言って言ってしまった。もう帰らなーい。いや、戻れなーい。
 長い長い一時間であった。
 この発言をした以上は、後に引くことはできない。こちらは家族を支える必要がある。ヒロシは、「この勝負、決める。」と堅く誓った。受験までの数日、猛勉強に励んだ。そして、合格を勝ち取ったのであった。
 それからも同僚からの嫌がらせは多々あった。それでも付き合っていくしかない。昨日まで、ヒロシの自宅まで来てわいわい騒いでいた同僚が離れていったことにじくじたる思いがあった。
 この分会会議のことは今となっては笑い話である。要するに組合の幹部は、組合のメンツを立てたいからやってきて、話しているだけである。メンツということをもっと知っていれば、違う対応もできたと思う。あれから5年くらいして今度は、組合は兵庫教育大学大学院に賛成の立場をとった。今度は組合推薦でなければ受験できない世界である。これもおかしい。憲法で保証された学問の自由は個人の権利であって、団体の権利ではないのである。


☆6年生を持ったときの事件 波瀾万丈17

画像1 画像1
☆6年生を持ったときの事件
 2学期の10月だったと思う。休み字間に遊動木という遊具でクラスの子ども達が遊んでいた。そこで事故は起きた。ある女の子が足を骨折したのであつた。すぐに外科に行き入院となった。
 1ケ月近く入院した。当然お見舞いには行く。
 1週間もたたないうちに、教頭先生にお願いした。勤務終了後、勉強を教えに行ってもいいですかと。教頭先生から認めてもらった。週に2回、個人的に病院に通い、1時間近く、国語と算数を教えた。6年生の女子なので恥ずかしそうにしていた。時には、お母さんは、うどんを差し入れしてくれた。出張したときも、わざわざ病院の近くの駅で降りて教えた。帰宅すると、9時は回った。当然、無料である。
 なんだからわからないけれど、そのようにしないと気が済まなかったのだ。
 その子が学校に戻ってきたとき、どうなったか。なんと、学級の雰囲気がよくなったのだった。とてもいい体験をした。



笑瀾万丈16 6年へジャンプ

画像1 画像1
☆ 3年、3年、6年の担任
 なぜ、3年かから6年へジャンプしたのか。それは、5年生が学級崩壊したからであった。普通ならば4年生へ上がるところだけれど、6年へ行ってくれとなった。このジャンプはとても勉強になった。というのは、5クラスあって、4クラスは持ち上がりで、私のクラスだけが担任の交代であった。主任は加藤得子先生で、しっかりしたお方だった。
 崩壊したクラスの難しいところは、マイナスから始まるということである。学級のルールや授業のルールづくりから始まる。子ども達はマンガもつてきてもいいですか、と牽制球を投げてくる。「だめ」という。まあ、この頃のわたしの口癖はだめだめであった。ダメダメ教師であった。一番嫌な気持ちになったのは、修学旅行である。他のクラスは5年生から一緒なので楽しくやっているのに、学級としての雰囲気は固かった。


劣等感   船井幸雄の人間学

画像1 画像1
3/20 劣等感
 劣等感はみんなあります。そこでうく劣等感をうまく乗り越えた人とつき合うのが一番いい。前向きに生きてみたらいいですよ。すぐ消えてしまう。
人を妬むな、羨むな、相手の望みどおりにしてあげなさい。
人のい合わせを自分の幸せと思ってあげる。  (船井幸雄の人生道場 ダイヤモンド社)

解説
 人間の特性は、どうしても人との比較をしてしまうことである。比較することで、エネルギーになるし、また行き過ぎると焼き焦がれることになる。しかにして、嫉妬心として付き合うのかが大事である。松下幸之助は、そのあたりを嫉妬の心は、トースターのパンの焼き加減になぞらえて、こんがりやきなさいと述べている。これは修行ですな。


志水廣 1033 動画 夢現大96 算数・数学のスモールステップ


準備期間

画像1 画像1
3/20 今日のひとこと

作日、娘と話していて、うまくいった。

考えてみると、数日前から、娘の方はその準備期にあたり、周りの環境が影響していた。

不思議なんだけれど、お互いにそれぞれが出会う前に準備が整っていた。

だから、話がスムーズに行った。打ち合わせもしていないんだけれどね。

笑瀾万丈15 活動期

画像1 画像1
活動期
 その当時、神戸市や兵庫県では教職員組合が強く、若手の教員は組合の役員になることが求められた。下山手小学校では分会長となった。ストライキもあった。ストとなると、神戸市の教職員は市やしくょの南側の講演に集合した。出勤は3時間目くらいからであった。
 五位の池小学校でも組合の役員になった。はじめは分会長、次に地区の役員である。何もわからないヒロシは先輩から誘われ淡路島に組合の研修旅行に参加した。すると、待ち構えていたのは、地区の役員にならないかというお誘いだった。あのとき、旅館でのおいしい料理は組合への前金だった。
 甘い汁をすうと、後で大変なことになる。
 分会長と地区訳のちがいは、選挙などにときにどういうされることである。例えば、ビラ貼りや電話応援などであった。あるとき、学校から離れたところで、ビラ貼りを20時頃していたら、志水さんと声をかけられた。だれかと思うと、勤務校の養護教諭だった。こんな活動をしているとは思えなかったのだろう。びっくりだった。

教訓 甘い話にのると後が大変である。



ふと左へ

画像1 画像1
3/18 今日のひとこと
昨日、あるスーパーへ行くのに、道を左に曲がった。
しばらくいくと、弘法さんにでた。知立市の弘法大師。
何十年ぶりである。
にぎわいがある。
偶然、寺の市をしていた。
お店がたくさんでていた。

立ち寄ることにした。
境内のお店で軽食をとった。

なんだかミニトリップであった。

志水廣 1032 動画 夢現大95 「算数・数学の問題はなぜ答えが一つなんですか? 」

志水廣 1032 動画 夢現大95 「算数・数学の問題はなぜ答えが一つなんですか? 」


志水廣 1024 音声You Tube 動画 夢現大94 「一枚のプリント」

志水廣 1024 音声You Tube 動画 夢現大94 「一枚のプリント」

笑瀾万丈14 五位の池小学校

画像1 画像1
☆五位の池小学校時代
 神戸市の初任者は、3年間で転勤するという約束になっていた。転勤した学校は長田区にある五位の池小学校であった。学校の規模は、各学年5クラスあった。赴任しておどろいたのは、運動場の向かい側は団地群であった。だから、運動場の声が団地に響くのである。また、団地からフェンス越しに丸見えであった。
 前任校は、各学年2から3クラスであったから職員室の広さ、職員数の多さにびっくりであった。この学校は、ミドルリーダーになる先生が多く、活気があった。当然学年で行動することが多かった。当初、3年生を受け持ったが、ベテラン教師が2人、私、そして新任教師が2人いた。1つの学年に2人の新任とは驚くべき配置であった。学年主任の寺谷先生は書道家でもあった。この先生から斉藤喜博全集をお借りして読みあさった。
 校長先生は、神戸市の校長会の会長であり、その方のもとに優秀な教員が集まっていた。だから、いろんな教科に精通した人が多く職員研修も活発であった。学べきことがたくさんあった。
 住居は、灘区青谷から垂水区の学びが丘に転居した。ここは公団住宅で5階建ての1階であった。ベテランだごしに見える芝生は我が家の庭のようであった。
 通勤はバスと電車で1時間10分かかった。山陽電車の板宿駅から学校までは徒歩で12分ほどであったが、最後の200mの登坂がきつかった。
 五位の池小学校時代は張りきりボーイであった。


          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31