「世界でいちばん幸福な」リベラル福祉国家、 デンマークはなぜ“右傾化”するのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年1月21日公開の「「世界でいちばん幸福な」リベラル福祉国家、 デンマークの“右傾化”が突き付けていること」です(一部改変)。

Sven Hansche/Shutterstock

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「世界幸福度指数」は国連が1人あたりGDPや男女の平等、福祉の充実度などさまざまな指標から各国の「幸福度」を推計したもので、2013年、2014年と連続して1位を獲得したのがデンマークだ(2015年はスイス、アイスランドに次ぐ3位)。「経済大国」である日本の幸福度が40位台と低迷していることから、「世界でいちばん幸福な国」の秘密を探る本が何冊も出された。

ランキングを見れば明らかなように、「幸福な国」とは“北のヨーロッパ”、すなわち北欧(スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマーク)、ベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、スイス、アイスランドなどのことで、どこもリベラルな福祉国家として知られている。

ところがそのデンマークで、不穏なニュースが報じられている。難民申請者の所持金や財産のうち1万クローネ(約17万円)相当を超える分を政府が押収し、難民保護費に充当するというのだ(ただし結婚指輪や家族の肖像画など思い出にかかわる品、携帯電話などの生活必需品は除外されるという)。

デンマーク政府の説明では、これは難民を差別するものではなく、福祉手当を申請するデンマーク国民に適用されるのと同じ基準だという。難民を国民と平等に扱ったらこうなった、という理屈だ。

だがこの措置が、ヨーロッパに押し寄せる難民対策なのは明らかだ。財産を没収するような国を目指そうとする難民は多くないだろう。デンマークは、自国を難民にとってできるだけ魅力のない国にすることで、彼らの目的地を他の国(ドイツやスウェーデン)に振り向けようとしている。これではエゴイスティックな「近隣窮乏化政策」と非難されるのも当然だろう――もっともこの措置だと、所持金20万円以下の貧しい難民だけが集まってくる可能性もあるが。

「世界でいちばん幸福な国」が、なぜこんなことになってしまうのだろうか。

福祉国家とは差別国家の別の名前

じつはこれは、まったく新しい問題ではない。私は同じ話題を2004年9月刊の『雨の降る日曜は幸福について考えよう』(その後『知的幸福の技術』として文庫化)で書いていて、10年以上たってもとくにつけ加えることもないので、それをそのまま転載しよう。

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米国では4000万人が医療保険に加入していない。高齢者と貧困層のための公的医療保険はあるが、アメリカ人の多くは企業が提供する医療保険プランを利用している。労働ビザを持たない不法移民はもちろん、自営業者や失業者も自分の身は自分で守るしかない。

米国の貧弱な社会福祉に比べて、ヨーロッパは公的年金や医療保険、失業保険が充実している。日本が目指すのは、そうした福祉国家だと言われる。

ドイツやフランスをはじめとして、ヨーロッパ諸国はどこも極右政党の台頭に悩まされている。それに比べて米国では、人種差別的団体は存在するものの、移民排斥を掲げる政党が国会で議席を獲得することはない。

一見、無関係に見えるこのふたつの話は、同じコインの両面である。米国に極右政党が存在しないのは、福祉が貧困だからだ。ヨーロッパで組織的・暴力的な移民排斥運動が広がるのは、社会福祉が充実しているからである。

国家は国民の幸福を増大させるためにさまざまな事業を行なっている。その中で、豊かな人から徴収した税金を貧しい人に再分配する機能を「福祉」という。

公的年金や医療・介護保険、失業保険は、国家が経営する巨大な保険事業であるが、それ自体は「福祉」ではない(1)。社会保障が福祉になるのは、一部の保険加入者が得をするように制度が歪められているからだ(2)。制度の歪みから恩恵を受ける人たちを「社会的弱者」と言う。

民主政は一人一票を原則とするので、社会的弱者の数が増えれば大きな票田が生まれる。彼らもまた経済合理的な個人だから、自分たちの既得権を守るために政治力を行使しようと考える。その既得権は国家が「貧しい者」に与える恩恵であり、より貧しい者が現れることで奪われてしまう。

アフリカ諸国やインドなど最貧国では、国民の大半が今も1日1ドル以下で生活している。東ヨーロッパの最貧国であるルーマニアでは、1日4ドル以下で暮らす国民が半数を超えるという。先進諸国の社会的弱者は、世界基準ではとてつもなく裕福な人たちだ。彼らが極右政党を組織して移民排斥を求めるのは、福祉のパイが限られていることを知っているからだ。

貧乏人の子供は貧乏のまま死ぬのが当然、と考える人はいないだろう。不幸な境遇に生まれた人にも、経済的成功の機会は平等に与えられるべきだ。では、貧しい国に生まれた人にも、豊かな暮らしを手に入れる機会が与えられるべきではないだろうか。

ここに、貧困を解決するふたつの選択肢がある。ひとつは、世界中の社会的弱者に平等に生活保護を支給すること。そのためには天文学的な予算が必要になるだろう。もうひとつは、誰もがより労働条件のよい場所で働く自由を認めること。こちらは、何の追加的支出も必要ない。

北朝鮮や旧イラクのような独裁国家には移動の自由はなく、国民は政治的に監禁されている。福祉国家は厳しい移民規制によって、貧しい国の人々を貧しいままに監禁している。誰もが独裁国家の不正義を糾弾して止まない。では、福祉国家は正義に適っているだろうか。

米国ではベビーブーマーが引退の時期を迎え、社会福祉の充実が叫ばれている。それに伴って、移民規制は年々、厳しさを増している。米国がごくふつうの福祉国家になる時、「移民の国」の歴史は終わりを告げるだろう(3)。

福祉国家とは、差別国家の別の名前である。私たちは、福祉のない豊かな社会を目指すべきだ。

(1)民間保険会社が福祉団体ではないのと同じだ。加入者が支払う保険料と受け取る保険金がバランスしていれば、単なる保険ビジネスである。(2)時には、すべての保険加入者が得をするように設計されていることもある。誰にも損をさせず、みんなが幸福になる保険会社は、構造的に破綻を運命づけられている。日本の公的年金制度がその典型だ。(3)現実には、アメリカは「福祉社会」に移行してきている。その実態は、ミルトン・フリードマンが『選択の自由』(日経ビジネス人文庫)で鋭く告発した。

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「福祉国家は差別国家の別の名前」というのは20年前は奇矯な主張だったが、いまになって振り返れば、現実はここで書いたとおりに進んできた。

EUが「人権大国」を目指す一方で加盟各国に極右勢力が台頭し、いまではデンマークだけでなく、ポーランド、スイス、ベルギー、フィンランド、ノルウェー、オーストリアなどでも移民排斥を掲げる政党が主要な政治勢力になっている。デンマーク国会が難民流入を抑止する法案を成立させれば、これらの国があとにつづくのは間違いないだろう。

オバマケア(医療保険制度改革)に象徴されるように、アメリカはオバマ政権の登場で明確に「リベラル=福祉」に舵を切った。それと同じくしてティーパーティの草の根運動が広がり、いまでは「イスラム教徒を入国禁止にせよ」と主張するドナルド・トランプが次期大統領選の共和党有力候補になっている。

だがここで、自分の先見の明を誇りたいわけではない。これは構造的な問題だから、国家が国民の福祉を充実させようとすればこうなるほかないのだ。こんな当たり前の指摘が珍しいのは、「福祉は無条件に素晴らしい」と信じるひとたちが不愉快な現実から目を背けているからにすぎない。

北欧の「リベラル原理主義」

もちろん私はここで、デンマークがナチスのような人種差別国家になっていく、などと主張したいわけではない。実際に訪れるとわかるが、デンマークは(物価が高いことを除けば)旅行者にとってとても快適な国だ。石造りの古い建物を残しながら、車と自転車、歩行者を機能的に分離した都市はきわめて魅力的で、美食の街としても頭角を現わし(「世界最高のレストラン」Nomaはコペンハーゲンにある)、外国人という理由で差別されるようなことは考えられない。

そんな“リベラル”なデンマークをよく表わしているのが、女性映画監督スサンネ・ビアのアカデミー外国語映画賞受賞作『未来を生きる君たちへ』だ(原題は「復讐」。英語タイトルは“In a Better World”=「よりよい世界のなかで」)。

主人公のアントンは、アフリカの難民キャンプで医師として(明示されていないが「国境なき医師団」だろう)働いている。だがアントンが、デンマークに妻と二人の男の子を残してボランティアに打ち込む理由は善意だけではない。彼の浮気が原因で、妻との関係がうまくいかなくなっているのだ。

アントンの息子のうち、兄のエリアスは前歯が目立つことから小学校で「ネズミ」と呼ばれ、いじめられている。そんなエリアスの親友になったのが、がんで母親を失い、父親との確執を抱える転校生のクリスチャンだった。

クリスチャンは、エリアスをいじめる男子生徒が自分にも手を出そうとしたとき、逆に徹底的に殴りつけ、ナイフを見せて「次は殺す」と脅した。この「復讐」によって、エリアスへのいじめもなくなった。

事件は、アントンが休暇でアフリカから帰国したときに起こった。二人の息子とクリスチャンを公園に連れて行ったとき、遊具をめぐって別の子どもと諍いになり、そこにアントンが割って入った。すると相手の子どもの父親ラース(明示されていないが明らかに中東からの移民)が現われ、「息子に手を出すな」といきなりアントンを平手打ちしたのだ。アントンはそれに対して報復も抗議もせず、黙って子どもたちを車に乗せる。

目の前で父親が殴られたことで、エリアスは大きなショックを受ける。彼が学校で学んだのは、「やり返さなければやられ続ける」というルールだからだ。そこで子どもたちはラースを探し出し、彼の仕事場(自動車整備工場)にアントンを連れて行く。父親に「復讐」の機会を与えるためだが、ここでアントンは思いもかけない行動に出る。

突然職場に現われて「なぜ暴力をふるったのか?」と詰問するアントンを、ラースはにやにや笑いながらふたたび平手打ちする。だがここでもアントンは報復せず、「お前の暴力は恐れない」といいながら理不尽に殴られつづけるのだ(トラブルになるのを恐れた整備工場の同僚が止めに入った)。

その後アントンは、エリアスとクリスチャンセンに次のようにいう。「あいつは暴力をふるうことしかできない愚か者だ。愚か者の暴力に、暴力で報復することになんの意味もない」――ここは「リベラル」の思想信条がよくわかる俊逸な場面だ。

最初の公園の場面だけなら、「バカを相手にしてもしょうがない」という軟弱な知識人の保身にも見える。だがそれなら、わざわざもういちど、それも子どもの前で殴らるようなことはしないだろう。

日本映画で同じ場面が描かれたとしたら、観客はそうとう奇異に感じるはずだ。主人公の行動にまったくリアリティがないからだが、これはアメリカ映画でも同じで、悪漢に殴られた主人公は殴り返さなければヒーロー(主人公)の資格がない。

なぜデンマークでは、右の頬を打たれたら左の頬を出すような(かなり奇妙な)場面が現実=リアルとして受け止められるだろうか。それは観客が、アントンを突き動かしている信条を共有しているからだ。

20世紀後半から、リベラルの新たな潮流が(北の)ヨーロッパを席巻した。それは、人種差別や女性への暴力、子どもの虐待(さらには「動物の権利」の侵害)に対する強い拒絶感情だ。1990年代の凄惨なユーゴスラヴィア紛争を間近で見たヨーロッパのひとびとは、あらゆる暴力を否定するという「原理主義」に急速に傾いた。

父親としてのアントンの奇矯な行動は、こうした背景があってはじめて理解できる。息子が理不尽な暴力を恐れるようになったと危惧したアントンは、「いかなる暴力も問題解決の手段としては使わない」という信念の優越を示すために、わざと子どもたちの前で殴られてみせたのだ。

移民を排斥するリベラルの論理

「いっさいの復讐を自分に禁じ、相手が殴ったら殴られつづける」という原理主義的なリベラルは、いうまでもなくきれいごとにすぎない。映画はそのことも承知していて、アフリカの難民キャンプにおけるアントンの“偽善”を容赦なく暴く。

キャンプの病院には、ときおり腹を切り裂かれた女性が運ばれてくる。「ビッグマン」という地域の悪党が、呪術のために妊婦の腹から生きたまま胎児を取り出すのだ。

ある日、このおぞましい悪党が足に大怪我を負ってやってくる。病院のスタッフや患者たちは、ビッグマンを治療せず死ぬに任せておくべきだと口々に懇願するが、アントンはそれを医師の倫理に反すると拒否する。

だが一命をとりとめたビッグマンはアントンを挑発し、暴言を浴びせるようになる。それに耐えかねたはアントンは、最後にはビッグマンを復讐を叫ぶ群衆のなかに放置してしまう。暴力に対して暴力で報復することを許したのだ。

映画はその後、アントンがデンマークに戻ったところでもうひとつの事件を用意する。「報復は復讐の連鎖を招くだけ」というアントンの理想論に、子どもたちは納得していなかった。そこで彼らは、アントンに代わって自分たちの手でラースに復讐すべく、納屋で見つけた火薬を使って自家製のパイプ爆弾をつくりはじめたのだ……。

『未来を生きる君たちへ』が描いたのは、原理主義的なリベラルは現実によって常に裏切られる運命にある、ということだ。それは「リベラル」が絵空事だからだが、その理想を愚直に実践することには絵空事を超えた価値がある。

できるわけがないことをやろうとする人間の前に、現実の壁が真っ先に立ちふさがるのは当たり前だ。だがそんな“愚か者”こそが、「人権」という人工的な(人間の本性に反する)思想を擁護し、暴力のない安全で幸福な社会(Better World)をつくることに貢献してきたのだ――この話の詳細はスティーブン・ピンカー『暴力の人類史』(青土社)を読んでほしい。

だがこの「人権尊重」は、移民を受け入れるときだけでなく、彼らを排斥するときにも方便として使うことができる。妻や娘を平等に扱い、子どもの人格を尊重し、宗教よりも世俗的な価値観を優先する啓蒙思想を拒絶する者は、「リベラルのユートピア」に居場所を与えられないのだ。

このようにして、リベラルな福祉社会はリベラルなまま、「価値観」の異なるムスリムの移民を排除できる。ヨーロッパの“極右”と呼ばれる政治集団は、東欧などからのキリスト教徒の移民への差別は許されないが、近代的でリベラルな世俗社会の価値観に同化できないムスリムの移民への「区別」は正当化できる、と主張しているのだ。

原理主義的なリベラルの信念は、ISによる度重なるテロでも試されることになった。テロに報復してシリアやイラクのISの領土を空爆しても、相手の憎悪を煽るだけで問題はなにひとつ解決しないのは明らかだ。だがテロの犯人に「赦し」を与えたところで、彼らはそんなものを一顧だにせず新たなテロを計画するだろう。

EUというゆるやかな共同体のなかに複数の国家が共存するヨーロッパは、いわば巨大な社会実験をやっているようなものだ。いまやもっとも過激(原理主義的)なリベラリズムは北のヨーロッパから生まれ、それがニューヨークやカリフォルニアのような「リベラルなアメリカ」に伝わり、カナダやオーストラリアなどの英語圏の移民国家(アングロスフィア)に広まって「グローバルスタンダード」をつくっていく。

こうしたリベラルの潮流が(良くも悪くも)世界の基準を決めているのだとしたら、その源流である「世界でいちばん幸福な国」の“右傾化”は、私たちの未来を知るうえで重要な出来事になるだろう。

禁・無断転載

フィッシング詐欺の文面がバカバカしい理由 週刊プレイボーイ連載(600)

ある日、「私たちは警視庁です」というメールが送られてきました。「あなたのお子様は窃盗容疑で逮捕され、被害者に280万円の賠償金を支払う必要があります」との文面のあとに、国内銀行の法人口座が5件ほど列挙されています。明らかな詐欺メールですが、それでも思春期の子どもがいる親のなかには背筋が寒くなったひともいるでしょう。

しかしなぜ、こんな悪質で稚拙なメールを送りつけてくるのでしょうか。それは、スパムメールのコストが実質的に無料だからです。詐欺師にとっては、成功確率がゼロに近くても、誰かがひっかかればそれが収益になるのです。

フィッシング詐欺としてよく知られているのが「ナイジェリアの王子」です。莫大な遺産が腐敗した国家に没収されようとしていると窮状を訴え、その資産を受け取る口座を貸してくれたら高額の謝礼を支払うと約束をする一方で、送金のための「手数料」を立て替え払いしてほしいと依頼するのが定番の手口です。

しかしその文面をちゃんと読むと矛盾だらけで、どうせならもっと巧妙な話を(いまなら生成AIを使って)でっちあげ、返信してくる「潜在顧客」を最大化したほうがいいように思えます。

でもこれは、あさはかな素人考えです。詐欺師は合理的な理由から、わざと稚拙な文面を使っているのです。

2012年に情報セキュリティの専門家が、「なぜナイジェリアの詐欺師は自分自身をナイジェリア人だと言うのか?」という論文でこの謎を解き明かしました。メール詐欺の特徴は、世界中にスパムをまき散らすのがタダであるのに対して、引っかかってきた魚(被害者)をフォローアップして、資金を振り込ませるのに多大なコストがかかることです。詐欺師にとっての最大のリスクは、あの手この手で説得したあげくに、「やっぱりやめます」といわれることなのです。

こうした“惨事”を避けるには、網で多くの魚(潜在顧客)をつかまえるのではなく、だまされやすいごく一部のひとだけを相手にしなければなりません。いわば、イワシの群れのなかから数匹のタイを見つけるのです。

この選別に役立つのが、誰もがバカバカしいと思うつくり話です。そんな話に興味をもって接触してきたひとは、平均よりもずっとだまされやすいはずです。国際ロマンス詐欺も同じですが、メールの文面が稚拙であればあるほど、詐欺師は有望な“カモ”に出会う確率を上げ、そこに説得コストのすべてを投入できるのです。

誰もが知っているように、世の中には一定の割合で認知的な脆弱性をもつひとがいます。もっともハイリスクなのは陰謀論にはまりやすいタイプで、自分は特別で、そんな自分には特別な機会(奇跡)が訪れるはずだと思っていると、詐欺師の格好のターゲットになってしまいます。

だまされないためにもっとも重要なのは、平凡な自分を受け入れ、人生に“奇跡”など起こらないと納得することですが、これは誰にとっても難しいことなのでしょう。

参考:ダニエル・シモンズ、クリストファー・チャブリス『全員“カモ” 「ズルい人」がはびこるこの世界で、まっとうな思考を身につける方法』児島修訳/東洋経済新報社

『週刊プレイボーイ』2024年4月22日発売号 禁・無断転載

シリコンバレーというカルト

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017年11月17日公開の「東海岸とは全く違うシリコンバレー特有のカルチャーとは?」です(一部改変)。

Photon photo/Shutterstock

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前回は社会学者スディール・ヴェンカテッシュの『社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた』を紹介した。この本のいちばんの魅力は、外部の人間が知ることのできないニューヨークの“アッパーグラウンド”、すなわち若いセレブたちの生態が活写されていたことだ。生まれたときから一生お金に困らない彼らは、信託(トラスト)から「年金」を受け取る「トラストファリアン」と呼ばれ、「わたしにとって気持ちいいこと」を追求し、「わたしにふさわしい評判」を獲得しようと“彼らなり”に悪戦苦闘しているのだ。

参考:ニューヨーク版「セレブという生き方」

そんな東海岸のエスタブリッシュメント文化に対して、今回は西海岸のシリコンバレーに目を向けてみよう。案内役はアレクサンドラ・ウルフの『20 under 20 答えがない難問に挑むシリコンバレーの人々』 (滑川 海彦、高橋 信夫訳/日経BP) だ。

著者のアレクサンドラ・ウルフはウォールストリート・ジャーナルの記者で、『ザ・ライト・スタッフ』や『虚栄の篝火』など世界的ベストセラーで知られる作家トム・ウルフの娘だ。

大学に行かないことに対してお金が支払われる奨学金

20 under 20は、シリコンバレーの著名な投資家ピーター・ティールが始めた奨学金プログラムだ。しかしこれは、高等教育の学費を支援するのではない。大学に行かないことに対してお金が支払われるのだ。ティール・ファウンデーションのこのプログラムでは、起業しようとしている20歳未満の学生20人に10万ドルの資金が与えられるが、その条件は大学からドロップアウトすることなのだ。

このような奇矯な奨学金を考えたピーター・ティールとはどのような人物なのか。

ティールは1967年にドイツのフランクフルトに生まれ、1歳のときに家族でアメリカに移住した。父親は鉱山会社の技師で、10歳まで家族とともにアフリカ南部を点々とし小学校を7回変わった。そのひとつがきわめて厳格な学校で、体罰による理不尽なしつけを受けたことが、後年、リバタリアニズム(自由原理主義)に傾倒するきっかけとなったという。

カリフォルニアで過ごした中高時代は数学に優れ、州の数学コンテストで優勝したほか、13歳未満の全米チェス選手権で7位にランクした。またSF小説にはまり、なかでもトールキンの『指輪物語』は10回以上読んだという。

政治的にも早熟で、高校時代にアイン・ランドの思想と出会い、ロナルド・レーガン大統領の反共主義を支持した。スタンフォード大学哲学科に進学したあとは、当時、全米のアカデミズムを席巻していたマルチカルチュラリズム(文化相対主義)に反発し、保守派文化人の大物アーヴィング・クリストルの支援を受けて学生新聞『スタンフォード・レビュー』を創刊してもいる。

大学卒業後はスタンフォード・ロースクールに入り、最高裁判所の法務事務官を目指したが採用されず、投資銀行のトレーダーや政治家のスピーチライターなどをしたあと、90年代末のインターネットバブルを好機と見て友人とベンチャービジネスを立ち上げた。それがのちにペイパルとなるコンフィニティで、この会社がイーロン・マスクのエックス・ドット・コムと合併したことで、「ペイパルマフィア」と呼ばれる野心的な起業家たちのネットワークが誕生する。

ペイパルをオークション最大手イーベイに15億ドルで売却したティールは、スタートアップ企業のエンジェル投資家となり、フェイスブックへの初期投資50万ドルを10億ドルにしたことで名を馳せた。だが彼は、シリコンバレーのイノベーションに不満だった。「空飛ぶ車が欲しかったのに、手にしたのは140文字だ」という言葉はよく知られているが、ティールからすればTwitterは知性を無駄なことに使っているのだ。

そんな彼は、自らの体験から、天才にとって大学で学ぶ4年間(博士号まで取得しようとすれば10年近く)は無意味だと考えた。そこでイノベーションを加速するために、高等教育を素通りしていきなり起業するための「奨学金」をつくったのだ。

20 under 20に応募してきた若き天才たち

『20 under 20』でウルフは、ピーター・ティールの野心的な「奨学金」制度に応募する天才(ギフテッド)たちを取材することで、シリコンバレーの内側に迫ろうと試みている。

2010年12月にフェローシップの募集を始めた当初から、ティール・ファウンデーションはソーシャル・ネットワークには興味がないと明言していた。「われわれは次のフェイスブックを探しているわけではない。普通の人間が現在可能だと考えていることの2年から10年くらい先を考えている人を探している」というのが選考基準で、4000人の応募者からオリジナリティと説得力を中心に40人の最終候補者が選ばれ、サンフランシスコのハイアット・リージェンシーの会議室で50人ほどの審査員(大学教授、起業家、投資家など)の前でプレゼンテーションすることになった。

ジョン・バーナムはマサチューセッツに住む17歳の高校生で、プラトンやアリストテレスを読み、ネット上の「新反動主義」の思想家のブログに熱中する独学のリバタリアンで、ロケットを小惑星に飛ばしロボットで稀少な鉱物を採掘して何兆ドルも儲けるというビジネスを考えつづけていた。

ニュージーランド生まれのローラ・デミングはMITで長寿の研究を始めたのが12歳という天才児で、イギリス生まれのジェームズ・プラウドは同じくバイオテックをテーマとし、「天国に行きたいと思っている人たちでさえ天国に行くために死にたいとは思いません」と不死をテーマに選んだ。中国系のポール・グのように、eコマースなどトレンドに乗ったアイデアをもっている者もいた。

最終選考で選ばれたのはこのような若き天才たちで、シリコンバレーのパロアルトに住み、10万ドルを原資にビジネスを起こし、アイデアを投資家に売り込むよう背中を押された。といっても、いきなりそんなことができるわけはなく、彼らの多くは共同生活でお互いに情報交換するようになった。

紅一点のローラ・デミングをはじめとする7人のフェローは家賃5500ドルの5ベッドルームの家を見つけた。

ダイニングルームの大きなディナーテーブルはミーティング用で、そこはイェール大学を2年でドロップアウトしてバイオテクノロジー産業の自動化ロボットを開発している2人が使っていた。キッチンの冷蔵庫はソーセージや野菜、パスタ、フルーツ、パンなど健康志向の食料品スーパー、ホールフーズマーケットで買った食料でいっぱいで、フェローたちは毎晩自炊で外食やテイクアウトはほとんどしない。これは「資金をできるだけ長持ちさせるため」だ。

キッチンの外はレンガ敷のパティオが続いていて、プールサイドのコテージを1人のフェローが使っている。隣にあるガレージには自転車やスクーターといっしょに、メンターの1人がプレゼントしたグランドピアノが置かれていた。

もっとも、こうしたヒッピー風の共同生活を送っているのはフェローだけではない。シリコンバレーは職住一体で、そのうえ家賃が全米でもっとも高い。そのため、「知的なコミュニティに参加して世界を変えたいハウスメイトを求む」というような広告を出して仲間を集めるのが当たり前になっている。ハウスメイトになるには、「世界を変えるために何をしているのか、どうやる計画なのか」の面接をパスしなければならない。

こうしたライフスタイルは、大学のキャンパスにとてもよく似ている。シリコンバレーではとてつもなく知的な若者たちが、ピーターパンのように、「世界を変える」という子どもの頃の夢と戯れつづけることができるのだ。

シリコンバレーのヒッピーカルチャー

20歳以下の20人の天才たちがどうなったのかの顛末は本を読んでいただくとして、『20 under 20』の評価が分かれるのは、ウルフが「シリコンバレーの「風俗」を野次馬的な視点で描いていることだろう。これは父親のトム・ウルフが60年代のヒッピー・ムーヴメントを『クール・クールLSD交感テスト』で描いたのとまったく同じ手法だ。

たとえば、東海岸と西海岸では“女らしさ”の基準がまったく異なる。

パロアルトでは、ヒールの高い靴やドレスやスカートを身に着けている女性はまず見かけない。ランジェリーショップを見つけるのもひと苦労で、日が沈んだあとに羽織るのはスカーフやショールではなくフリースジャケットだ。

シリコンバレーをドレスで歩くことは、高校生が昼からダンスパーティの準備をしているようなものだ。そうでなければ、東海岸からの観光客か、コスプレパーティ客のレッテルを貼られる。ジーンズが男女共通のユニフォームで、男性はスティーブ・ジョブズが好きだったスニーカーを履いている。

女性のジーンズはワイドでもタイトでもいいが、スカートではなくパンツであることは絶対条件だ。コーチやグッチやポロなどのブランドを見せびらかすのはご法度で、ロゴやスローガンは必ずスタートアップのものを使わなくてはならない。2007年につくられたフェイスブックのTシャツを着ていることは、フェラーリに乗っている以上のステイタスになる。――フェラーリは20万ドルほどだが、フェイスブック創業時の2007年の社員なら株式上場後に数千万ドルを手にしているかもしれないのだ。

シリコンバレーの文化では、男女関係も東海岸とは大きく異なる。

パトリ・フリードマンは経済学者ミルトン・フリードマンの孫で、シリコンバレーの思想リーダーの一人と目されている。サンフランシスコの沖、アメリカの領海外に自由都市を建設するシーステッディング・プロジェクトを唱え、ティール・フェローにも企画段階から参加していた。

フリードマンは「ポリアモラス」な関係を実践していた。これは「複数の相手と同時に恋愛関係にある」ことだという。2軒の家で10人が共同生活を行ない、ゲイの「一夫一夫」のカップルを除く8人が自由な異性関係を信条としていた。フリードマンは妻と2人の子どもと暮らしていたが、妻である女性はコミュニティの別のメンバーと関係があり、フリードマン自身もときどき別のメンバーの恋人の女性と関係があった。「彼らは部屋を取り換えるように家を取り替え、恋愛の相手を取り替えたが、結局は「メインの相手」のところに戻ってきた」という。

グループのメンバーは超健康オタクで、食生活についても意識が高かった。糖質制限ダイエットや石器時代人の食生活を手本とするパレオダイエットを試し、ときどき断食もした。グルテンフリーは全員が励行し、食物の摂取量を減らすためにバターやココナッツオイルのスティックを持ち歩いてレストランの食事に振りかけていた。

フリードマンと妻はポリアモラスな関係を10年もつづけたが、フリードマンは妻がコミュニティのメンバーとつき合っていることを不快に思い、妻と衝突してコミュニティを出た。妻は彼がいないのを残念に思うようになり、2人は「試験的別居」を始めた。

「『ポリ』な関係というのはもっと楽しいはずじゃなかったか」とフリードマンが愚痴ると、友人の一人がこうコメントした。

「真剣につき合っている男女が『オープンな関係』で行こうと決める。やがて男は外でほかの女の子とデートするようになる。女性はあまり外に出るチャンスがない。ここまではいい。女性がとうとう別の男を見つけてつき合うようになる。男は仰天して手の平を返す。それからなにもかもめちゃめちゃになる」

これはちょっと意地悪な描写だが、それでもシリコンバレーがどんなところなのかをよく伝えている。彼らは最先端のテクノロジーを駆使しながら、60年代のヒッピーのライフスタイルを実践しているのだ。

ベンチャーというカルト

アメリカのベンチャー企業の「風俗」を描いて同じく評判となったのが、ダン・ライオンズの『スタートアップバブル  愚かな投資家と幼稚な起業家』( 長澤あかね訳/講談社) だ。ただしこちらは、東海岸のボストンの話になる。

『ニューズウィーク』のテクノロジーライターだったライオンズは、51歳でリストラにあって仕事を失う。そのとき彼には7歳になろうとする双子の子どもがおり、教職の妻は体調を崩して離職したばかりだった。なんとかして家計を支えなくてはならないライオンズは、リンクトインで地元ボストンのスタートアップ企業の求人を見つけた。そこは「インバウンド・マーケティング」の有望株で、MITの卒業生が経営していて、過去7年間にベンチャーキャピタルから1億ドルの資金を調達してIPOを目指していた。

広告を出し、顧客に売り込みの電話をかける「アウトバウンド・マーケティング」の時代は終わった。「ブログやウェブサイトや動画を公開し、オンラインのコンテンツを使って、顧客を自分たちのほうへ引き寄せる」のがインバウンド・マーケティングだ。ライオンズはそこで、ジャーナリズムとマーケティングと宣伝をミックスした新しいブログを任されることになった。

『スタートアップバブル』ではライオンズが入社した会社が実名で出ているのだが、ここで伏せるのは、「愚かな投資家と幼稚な起業家」と副題があるこの本には、「若者たちの楽園」に紛れ込んだ老人(50代男)の悲惨な体験と恨みつらみがえんえんと書かれているからだ。この会社は日本でも事業を行なっており、私はその批判がどの程度正当かを判断する術をもたない。

それでもこの本が興味深いのは、アメリカのベンチャー企業に特有の文化(カルチャー)が、内部に迷い込んだ異邦人の視点から描かれていることだ。ライオンズによるとそれは、「やる気! 元気! スタートアップ・カルト!」ということになる。

会社は、「若くて影響されやすく、大学時代はフラタニティやソロリティ(大学の女子社交クラブ)もしくは運動部に所属していたような人」だけを採用し、社内に黒人はおらず、中流で郊外に住み、大半がボストン地区出身の白人ばかりだ。「ルックスも同じ、ファッションも同じ」というきわめて同質性の高い集団に、“スタートアップ・カルト”の価値観が植えつけられていく。

「ここでぼくらは、ただ商品を売ってるだけじゃない」と、新入社員向けのセミナーでトレーナーはいう。「革命を主導してる。ムーヴメントをね。世界を変えつつあるんだ」

バージニア州でプールの施設業を営む男は、ビジネスが低迷しどうにか食いつないでいるような状態だったが、この会社のソフトウェアを使いだしてから突然ビジネスが軌道に乗り、まもなく全米でプール施工を手がけるようになった。あまりの景気の良さに会社経営を社員に任せ、世界じゅうを旅して「インバウンド・マーケティング」の福音を説いている。

「この男は、スーパースターになったんだ。ロックスターさ。それが、ここでぼくらがしていること。君が、一翼を担っていることだ」と、トレーナーは純真な若者たちを洗脳するのだ。

しかしそうやってスタートアップの“兵士”に鍛え上げられた彼らがやらされるのは、電話営業、すなわち典型的な「アウトバウンド・マーケティング」だ。

50代のライオンズからすれば、大学を出たばかりの若者たちの“ビジネスゲーム”は嘘と欺瞞でべったりとコーティングされており、こんな会社に投資するのは詐欺にあったようなものだ。ところが彼は、ベンチャーキャピタルの投資家の一人から、「創業者が自分たちをダマそうとしていることはわかっている」といわれて仰天する。

「創業者ともめたくないからね。それは最後の手段だから」と、その投資家は説明する。「創業者が去ったり追い出されたりしたら、投資家も驚いて逃げ出してしまう。悪いメッセージを送ることになるんだ」

ライオンズの観察によると、創業者(起業家)はベンチャーキャピタルを必要悪(会社を盗もうとするペテン師)だと見なしている。その一方で、ベンチャーキャピタルは創業者を、音楽レーベルがバンドを、ハリウッドのスタジオが映画を眺めるような目で見ている。投資家にとって創業者はタレントで、スタートアップ企業はアイドルグループ(日本でいえばAKB48)のような存在なのだ。彼らはこのタレントを上手にマネジメントし、メディアや一般投資家の期待感をあおり、巨額の富を手にしようとする。

そのように考えれば、スタートアップ企業が芸能ビジネスによく似ている理由がわかる。創業者と投資家の利害は対立し、ときに憎みあってもいるだろうが、IPOを成功させるまでは、お互いにちからを合わせて「世界を変える革命」という出し物を演じつづけなくてはならないのだ。

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