グローバル資本主義に抵抗するアートも資本主義化していく

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年5月10日公開の「ニューヨークで生まれた「武器としての文化」が
やがて権力に取り込まれディストピアになるまで」です(一部改変)。

GSPhotography/Shutterstock

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今回は、ネイトー・トンプソンの『文化戦争 やわらかいプロパガンダがあなたを支配する』(大沢章子訳/ ‎ 春秋社)を紹介したい。

本書の原題は“Culture as Weapon The Art of Influence in Everyday Life”で、『武器しての文化 日常に潜む影響力のアート』になる。著者のトンプソンは、「ニューヨークでもっとも刺激的かつ著名な芸術家集団「クリエイティブ・タイム」のチーフ・キュレーター」で、現代アートの最先端にいるひとだ。本書の面白さは、そんなトンプソンが現場の視点から、反権力のはずのアートが権力(政治や資本主義)に奉仕する現状をシニカルに分析していることにある。

レーガンの「文化戦争」

アートの世界における「文化戦争」はNEA(全米芸術基金)への攻撃として表われた
日本語のタイトルに使われた「文化戦争Culture Wars」は、1981年のロナルド・レーガン大統領就任以降、とりわけ80年代後半に本格化した「文化」をめぐる右派と左派の衝突のことだ。これについては、トッド・ギトリン『アメリカの文化戦争 たそがれゆく共通の夢』( 疋田三良、向井俊二訳/彩流社)が詳しい。

ギトリンは1943年生まれで、ハーヴァード・カレッジ在学中から反核運動に参加し、1962年2月にワシントンで行なわれた大規模な反核集会を主催した。63年と64年には日本の全共闘にあたるSDS(Students for a Democratic Society/民主社会学生同盟)の委員長(President)に就任、ベトナム戦争に反対する1965年4月の大集会(2万5000人が参加)を組織するなどNew Left(新左翼)の代表的な活動家となった。

その後はカリフォルニア大学バークレー校で社会学の学位を取得し、母校で長く社会学を講じた。骨の髄まで“サヨク”だったギトリンは、1995年に出版した『アメリカの文化戦争』(原題は“The Twilight of Common Dreams: Why America is Wracked by Culture Wars”『たそがれゆく共通の夢 アメリカはなぜ文化戦争で難破したか』)で、60年代に自分たちが思い描いた「共通の夢」が失われ、保守派との文化戦争に敗れつつある現状を諦念ととともに描いた。

文化戦争は「政治的な正しさPolitically Correctness」をめぐる価値観の衝突で、人種、性別、宗教などあらゆる差別・偏見を偏執狂的に糾弾する左派(リベラル)に対して、自分たちの文化(古きよきアメリカ)を否定されたと感じた右派(保守派)がレーガンを押し立てて反撃に転じたものだ。いうまでもなく、このときの共和党(保守)と民主党(リベラル)の対立が現在に至る「アメリカの(政治的)分裂」につながっている。

トンプソンによると、アートの世界における「文化戦争」はNEA(全米芸術基金)への攻撃として表われた。NEAは芸術活動を財政的に支援する連邦政府機関だが、助成対象となった現代芸術のなかには保守派を激怒させるものがあった。

ニューヨーク生まれの写真家アンドレス・セラーノは作品「ピス・クライスト」で、尿を満たした容器にキリストの十字架像を沈めた。シカゴ美術館に展示された24歳の美大生による「星条旗の適切な掲げ方は?」と題するアートは、燃やされている星条旗と、棺に掛けられた星条旗の写真を合成した作品の足元に、ほんものの星条旗が敷かれた。作品の下にノートが置かれているのだが、問い(星条旗の適切な掲げ方は?)の答えや作品への批判を書き込もうとすると星条旗を踏みつけなくてはならないのだ。

さらなる議論(というか憤激)を招いたのは、ワシントンDCのコーコラン美術館で行なわれたロバート・メイプルソープの回顧展だった。1989年にエイズで死去したゲイの写真家は、尻の部分がないチャップス(カウボーイの革パンツ)姿で自分の尻の穴にムチを突き刺し、それをつかんで振り返っていたのだ。

カロライナ選出の上院議員ジェシー・ヘルムズは、保守的なひとたちを激怒させるこうしたアートを煽情的に取り上げることで、「猥褻または下品な物品、あるいは特定の宗教を侮辱する物品の製造、販売促進、宣伝のために予算を使うことを禁止する」法律を議会に提出した。

「我々の神を冒涜する作品に(NEAを通じて)公金が投じられている」という保守派の攻撃はきわめて効果的で、美術館やキュレーターなどアート関係者は窮地に追い込まれた。――日本においても、中国人映画監督リ・インのドキュメンタリー『靖国 YASUKUNI』(2008年)に文化庁所管の独立行政法人・日本芸術文化振興会から助成金(750万円)が出ているとして政治問題化した。

だがアートが“武器”として使われるのは、保守派の標的としてだけではなかった。

都市をブランド化する競争

「女は結婚したら家で子育てする」性役割分業が当然とされていた1929年、ニューヨークで行なわれた復活祭のパレードで、(当時としては)肌も露わな女性たちが堂々とラッキーストライクに火をつけた。女性が人前で煙草を吸うことが社会的なタブーだった時代に、それに対する真っ向からの挑戦だった。

「自由の松明キャンペーン」と呼ばれたこの出来事はメディアでも大きく報じられ、「女性たちが煙草をふかして『自由』への意思表示」の見出しが『ニューヨーク・タイムズ』を飾り、『ユナイテッド・プレス』は「彼女たちの一服が、女性の自由を求める一撃となった」と書いた。

ところが、女性の権利獲得への大きな一歩とみなされたこのパフォーマンスは、ラッキーストライクを販売するアメリカンタバコの“やらせ”だった。女性たちに出演料を払ったのは“広報(PR)の父”エドワード・バーネイズで、喫煙する女性をメディアに大々的に取り上げさせることで、タバコの消費者を男性から女性に拡大しようとしたのだ。

アートは権力や消費主義に反抗しつつも、広告として企業の利益に貢献し、国家プロパガンダの有効な手法として大衆を動員してきた。ナチスを例にあげるまでもなくこのことはよく知られているが、トンプソンの指摘で興味深いのは、2000年代以降、「文化=芸術」が都市開発の中心に踊り出たことだ。“グル(導師)”となったのは都市社会学者リチャード・フロリダで、2002年の『クリエイティブ資本論 新たな経済階級の台頭』(井口典夫訳/ ダイヤモンド社)で「クリエイティブ・クラスが集まる魅力的な都市が発展する」と説いた。

クリエイティブ・クラスはグローバル化にともなって登場した新興の富裕層(ニューリッチ)で、知的労働者からアーティストやデザイナー、コンピュータプログラマー、エンジニア、科学者など“クリエイティブ”な仕事に従事するひとたちの総称だ。『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、デイビッド・ブルックスは、そんな彼らを「BOBOs」と名づけた。ブルジョアBourgeoisとボヘミアンBohemiansを合わせた造語で、「ボヘミアン的な生活を好むブルジョア」のことだ(『アメリカ新上流階級 ボボズ―ニューリッチたちの優雅な生き方』 セビル楓 訳/光文社)。

フロリダは、シリコンバレーやサンフランシスコを筆頭に、ボールダー(コロラド)、オースティン(テキサス)、ポートランド(オレゴン)からニューヨークまで、急成長する都市には際立った特徴があることを発見した。それは人種的な多様性があり、同性愛者などマイノリティに寛容で、一流大学とスターバックスがあり、そしてなによりも芸術・音楽活動が活発なことだ。クリエイティブ・クラスはこうした刺激的な都市に集まってくるのだ。――フロリダはこれを、「ヒップスター(新しがり屋)を惹きつければGoogleがついてくる」と表現した。

こうして全米で、さらには世界じゅうで(ベルリンのクロイツベルク地区など)「都市をブランド化する」競争が始まった。「ボヘミアン的なブルジョア」を惹きつけるには、美術館や音楽ホールだけでなくモダンアートのギャラリーやライブハウス、大規模な音楽フェスティバルや芸術イベントがなくてはならない。「神を冒涜する」との理由で表現の自由を否定していては、BOBOsは出て行ってしまう。アートこそが、熾烈な都市間競争を生き延びるキーワードになったのだ。

この大きな変化を、トンプソンはこう総括している。

新たな経済階級と経済的な勢力としてのクリエイティビティの台頭こそが、新たな産業やビジネスの出現から、生き方や働き方の変化、さらには日常生活を構成しているリズムやパターン、欲求や期待の変化にいたるまでの、私たちがこれまで目の当たりにしてきた一見何の関係もない偶発的に見える時代の風潮の数々を推進する、根本的要因だった。

アートによってアーティストを追い出す

1980年代からの「文化戦争」によってリベラルは敗退し、アメリカはより保守化・右傾化しているといわれる。トランプ大統領が象徴するようにこれは間違ってはいないが、しかしその一方で、クリエイティブ・クラス(BOBOs)を獲得しようと都市はますます「アート化」し「リベラル化」している。資本主義・商業主義が右傾化を押しとどめているのだ。

しかしこれは、「アートの時代が訪れた」と単純に喜べる話でもない。アートによって成功した都市が、その成功故にアーティストを追い出してしまうのだ。この現象は「ジェントリフィケーション」として知られている。

典型的なのはニューヨーク・マンハッタンのSoHo(ソーホー)で、1950年代には倉庫や零細工場が集まる荒廃した地区だったが、賃料の安さに惹きつけられて若い芸術家やデザイナーたちが集まり、そんな彼らを目当てにレストランやギャラリー、ライブハウスができて、1980年代には「芸術の街」として有名になった。するとボヘミアンな雰囲気に憧れたヤッピーと呼ばれる新興富裕層が移住してくるようになり、地価が大きく上昇し、貧しい芸術家たちは家賃が払えなくなって街を追い出されることになったのだ。こうして現在のSoHoは、若いエグゼクティブたちが集まるアメリカで(というか世界で)もっとも高級な地区のひとつになった(都市開発としては大成功といえるだろう)。

『文化戦争』では、現代のジェントリフィケーションの典型としてテキサス州オースティンが挙げられている。テキサスは保守的な州だが、オースティンにはテキサス大学の本部キャンパスがあり、選挙では民主党候補が勝つリベラルな都市として知られている。

そんなオースティンはアメリカでももっとも成功した都市のひとつで、ミュージシャンやアーティスト、ハイテク企業の天国として注目を浴びただけでなく、「サウス・バイ・サウスウェスト」を世界最大のフェスティバルに育てあげた。

2000年代になると都市開発はさらに加速し、オースティン地区の住宅価格は2倍以上に高騰した。地元のDJレッド・ワゼニックは、経済発展によって街の魅力が失われつつあることに危機感を覚え、「Keep Austin Weird(オースティンはおかしな街であり続けよう)」というスローガンをつくった。過度な商業主義を押しとどめ、アーティストたちの活動の場を守ろうとしたのだが、皮肉なことにこのスローガンは、都市のさらなるブランド化を進めるために使われることになった。

「Keep Austin Weird」を考案したワゼニックは法廷闘争に負けてしまい、アウトハウスデザインズと称する企業が著作権を所有することになった。そしていま、このスローガンは観光客用のTシャツやバンパーステッカー、キーホルダーなどに使われ、オースティンじゅうに氾濫しているのだ。

富裕層の「慈善植民地主義」

アメリカで経済格差が拡大していることは間違いないが、しかしその一方で、2013年のアメリカの慈善目的の寄付額は総額3351億7000万ドルで、その後も着実に増加している。慈善のすべてが貧困層を支援するものではないとしても、寄付の額が爆発的に増えているのと同時に貧富の格差が拡大しているのだ。

2013年7月、ウォーレン・バフェットの息子ピーター・バフェットが『ニューヨーク・タイムズ』で「慈善・産業複合体」を批判した。

一握りの者たちのために莫大な富を生み出すシステムによって、より多くの人々やコミュニティが損害を被っている今、『社会に還元する』という言葉がより英雄的な響きをもつようになった。これはいわば『良心ロンダリング』とでも呼ぶべきもので――人一人が生きるのに十分だと思われる額以上の富を貯めこんでいる後ろめたさを、ほんの少しの慈善という名目でばらまくことによってごまかしている。

自らも慈善活動にかかわるピーター・バフェットは、富裕層の「慈善植民地主義」を指摘してもいる。「農耕法であれ、教育実践であれ、職業訓練であれ、新規事業開発であれ、ある状況で成功した方法をその土地の文化や地形、あるいは社会規範などおかまいなしにそのまま移植しようとする」ことで、慈善が富裕層の自己PRである以上、よいことをしたらすぐに結果を出さなければならないのだ。

企業が慈善事業を戦略的に行なうのがCRM(コーズ・リレーテッド・マーケティング)で、「商品やサービスを消費者に提供する際に、社会的な大義(Cause)に結び付くような仕掛けを取り入れるマーケティング手法」のことだ。

2004年の調査では、消費者の91%が「社会貢献活動を支援する企業や製品にはよりよいイメージを抱く」とこたえ、90%が「社会貢献に協力しているとわかればその会社に鞍替えすることを考えている」としている。

トンプソンが挙げるCRMの例は食品会社キャンベルで、毎年10月の乳がん撲滅月間に合わせて赤・白・黒の特徴的なスープ缶をピンクにし、利益の一部を乳がんとのたたかいに寄付すると発表した。これによって売上は2倍になったが、決算が発表されると、現実に寄付されたのは1缶あたりたったの3.5セントだった。

「マス・マーケティングと大規模な社会貢献事業の時代においては、社会貢献と、社会貢献をうたって利益を得ることにはほとんど差はない」のだ。

商業主義に取り込まれた反資本主義運動

現代アートの世界では、1990年代の「リレーショナル・アート(関係性の芸術)」や2000年代のソーシャル・プラクティス(社会的実践)、パーティシパトリー・アート(参加型アート)など新しい試みが急速に広まった。これは1960年代の「ハプニング」の発展形で、「商業化する社会」への抵抗運動だった。――唐突に始まり、一瞬で終わってしまう「ハプニング」は商業化を拒否しているのだ。

しかしその後、こうした手法を企業が取り込むようになる。家具メーカーIKEAの巨大な倉庫型店舗や、都市のクリエイティブ・クラスに社交の場を提供するスターバックス、商品を売るのではなくジーニアスによる「最高のサービス」を体験させるアップルストアなどがその典型で、こうした「経験経済」は参加型の前衛芸術の転用だとトンプソンはいう。

しかしより興味深いのはポリティカルアート(社会の現状を批判的に表現する、あるいは社会改善を目的とする芸術作品)で、1990年代後半にはインターネットベースの市民的不服従運動に結実した。

ハッキングプログラムを公開し、メキシコ南部の先住民の抵抗運動(サパティスタ民族解放軍)を支援するアーティスト/活動家集団エレクトリック・ディスターバンス・シアターは、自分たちの哲学をこう説明した。

コミュニケーションの作り手であるアーティストが結集して、次世代のコミュニケーションネットワークを操る電磁パルス攻撃をつくりあげることによって、より大きな集団が、戦略的パフォーマンスを今以上に増やすことを可能にする。それが、非暴力的な情報戦争が目指すゴールだ。

こうした活動の頂点が、1999年にシアトルで行なわれたWTO(世界貿易機関)総会への大規模な抗議行動だった。

警官隊が集会に向けて催涙ガス弾を撃ち込んだとき、抗議者たちはそれを映像で撮影しながら「世界中が見ているぞ」と叫んだ。この攻防はマスメディアだけでなくインターネットで拡散し、「グローバル資本主義」への抗議活動が世界に広がっていった。これが「アラブの春」を経て、「ウォール街を占拠せよ」の運動へとつながっていく。――新自由主義的なグローバリゼーションではなく、弱者を擁護する、社会正義に見合ったグローバリゼーションを目指すことを「アンテルモンディアリズム(もうひとつの世界主義)運動」という。

左派の活動家が行なったこうしたパフォーマンスは「暴力ポルノ」と呼ばれている。「ウォール街を占拠せよ」が典型だが、丸腰の若者をぶちのめす警官やブルックリン橋上空を旋回するヘリコプターの動画をYouTubeにアップし、視覚に強く訴える身体的抵抗運動によって「グローバル資本主義崩壊」のイメージをひとびとの心に刻みつけようとするのだ。

だがSNSなどの新たなテクノロジーを使った左派の抵抗運動は、その後、右派やカルトに取り込まれていく。IS(イスラム国)はインターネットの動画やSNSを効果的にPRに使ってヨーロッパや中東の若者たちを勧誘し、アメリカの大統領選挙ではフェイスブックに大量のフェイクニュースが流された。しかしいちばんの皮肉は、TPPなど自由貿易を批判する「アンチ・グローバリズム」の主張をそのままトランプが使い、大統領に当選してしまったことだろう。これによって左派のグローバリズム批判は思考停止に陥り、運動の主体は右派にかんぜんに乗っ取られてしまった。

こうした事態は日本もまったく同じで、インターネットには歴史修正主義の奇怪な陰謀論が蔓延し、「朝鮮人を殺せ」と叫ぶ異様なデモの動画がアップされ、ネットニュースのコメント欄はネトウヨの“愛国”コメントで埋め尽くされている。だがこうした手法は、もともとは左派が「体制=権力とたたかう」ために編み出したものなのだ。

このように考えると、トンプソンがこの本のタイトルを「武器としての文化」とした理由がわかる。「武器」は最初、前衛的なアーティストの手に握られていたが、たちまち利益を生む手段として資本主義(商業主義)に回収され、あるいはポピュリズム(大衆動員)の手法として権力者に利用されていった。それに対抗してさらに斬新なアートを生み出しても、やはり同じことが起こった。それでも世界は右傾化しないのは、商業主義がそれに対抗しているからなのだ。

現代アートはずっと、芸術(アート)を日常と一体化させることを目指してきたとトンプンはいう。そしてまさに、私たちは異形のアートがあふれるユートピア、あるいはディストピアを生きているのだ。

禁・無断転載

「日本人はできない」という自虐史観から決別しよう 週刊プレイボーイ連載(598)

同性婚を認めないのは憲法に反するとした訴訟で、札幌高裁が違憲の判断をしました。

憲法24条では婚姻について、「両性の合意のみに基づいて成立する」としていますが、判決では、目的も踏まえて解釈すれば「人と人との自由な結びつきとしての婚姻を定めている」として、同性間の婚姻も異性間と同じ程度に保障されるとしました。

「法の下の平等」を定めた憲法14条についても、異性間の婚姻は認めているのに同性間には許さないのは「性的指向を理由とした合理性を欠く差別的取り扱い」だと述べています。同じ日に行なわれた東京地裁の6件目の裁判でも、現行制度は「違憲状態」と判断されており、最高裁もこうした判断を覆すのは難しいでしょう。

夫婦別姓については、最高裁はいまも現行制度が合憲であるとの判断を維持していますが、2021年には裁判官15人のうち4人が「不当な国家介入」などで違憲と判断し、徐々に外堀が埋まってきています。また労働者の待遇格差についても、「同一労働同一賃金」の原則が徹底され、合理的な理由がなく、たんに「非正規だから」「契約社員だから」などの理由で手当や有給休暇を提供しないのは違法とされました。

日本社会の価値観も世界と同じくリベラル化しており、世論調査では国民の過半数が同性婚や夫婦別姓を支持していて、とりわけ若者層では8割に達しています。「自分らしく生きる」ことが至上の価値とされる社会では、ジェンダーや性的指向を理由に個人のアイデンティティを否定することはものすごく嫌われるのです。

日本は近代のふりをした身分制社会なので、いたるところに先輩/後輩の序列と、正規/非正規のような「身分」が出てきて、敬語や謙譲語は目上/目下が決まらないと正しく使えません。しかしこれではどんどんグローバルな価値観から脱落し、「ネトウヨ国家」になってしまいます。

興味深いのは、政治家がリベラル化の潮流をほとんど理解していないのに対して、日本では司法が牽引して社会を変えつつあることです。これは法律家が、合理的に説明できないものを支持できないからでしょう。

同じ仕事をしているのに待遇が違うのはおかしいとの訴えに、「あなたの身分が低いから」とはさすがにいえないでしょう。保守派は同性婚を認めると社会が壊れるといいますが、これは同性婚を導入した多くの国で問題なく社会が運営されていることを説明できません。

日本では右派がこれまで、歴史教科書の「自虐史観」をきびしく批判してきました。しかしなぜか、「海外で行なわれていることが、日本人にはできない」という自虐的な主張をして同性婚や夫婦別姓に反対しています。

しかしこれは保守派だけでなく、ウーバーなどのライドシェアは世界中で使われているのに、なぜか日本では「犯罪が多発する」とされます。さらに世界では共同親権が主流になっているのに、リベラル派は日本で導入すると元夫によるDVの温床になると反対しています。日本人は犯罪者で、日本の男が暴力的というのは、控え目にいっても差別・偏見の類でしょう。

世界のひとたちがふつうにやっていることは、日本人だってできるでしょう。そういう常識に基づいて、合理的な社会をつくっていきたいものです。

参考:「婚姻の自由 同性婚も」朝日新聞2024年3月15日

『週刊プレイボーイ』2024年4月1日発売号 禁・無断転載

測定は重要だが、過剰な測定は破壊的な問題を引き起こす

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2021年4月16日公開の「「測定され、報酬が与えられるものはすべて改竄される」 測定への過剰な執着が生む「測りすぎ」の時代の弊害とは?」です(一部改変)。

eamesBot/Shutterstock

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近代ヨーロッパの知性史、資本主義の歴史を専門とする歴史学者ジェリー・Z・ミュラーが『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』( 松本裕訳/みすず書房)を書いたのは、私立大学で学科長を務めた経験からだった。

アメリカの大学は10年ごとに「米国中部高等教育委員会」のような認定組織によって評価を受けなければならないが、その測定基準を増やすようにという報告書が発表された。それによってミュラーは、「もっと多くの統計的情報を求めるアンケート」に応えるため、研究や教育、職員の指導といった仕事に使える時間を取られてしまった。そればかりか、卒業生の実績を評価する新しい尺度のために、それまで以上に多くのデータ専門家を雇わなければならなくなった(その後、評価専門の統括責任者を任命するまでになった)。

これだけの努力とコストをかけたにもかかわらず、大量のデータの大部分はこれといった使い道もなく、実際、誰も見ていなかった。「実績の文書化という文化がいったん定着してしまうと、学科長たちは一種のデータ競争のようなものに巻き込まれていった」のだ。

この体験をきっかけに、ミュラーは「時間と労力の無駄遣い」を生み出す力についてもっと深く調べてみようと思った。本書の原題は“The Tyranny of Metrics(測定の専制)”で、「今の時代に広まっている、そしてますます多く組織に浸透しつつある実績の測定とそれに対する報酬という文化」がテーマだ。

救急医療の待ち時間に厳罰を科すと、患者が救急車で放置される

ミュラーは「測りすぎ」の時代を象徴するものとして、HBOの連続ドラマ『ザ・ワイヤー』を取り上げる。ボルティモア(メリーランド州)を舞台に、警察、学校、市政府、報道機関などの仕組みや機能不全を描いて大きな反響があったという。

ドラマでは、警察署長は解決件数、麻薬関連逮捕件数、犯罪率などの数値目標を達成するために、効率を犠牲にするさまざまな手段を用いる。政治家は、警察が犯罪を抑制できていることを証明する数字を要求する。すると警察は、自分たちの管轄内で殺人事件が起こるのを極力避けるようになる。こうして、「麻薬密売ギャングが廃屋に死体を捨てていることが判明すると、殺人課の刑事たちは死体の発見を阻止しようとする。殺人解決率の指標である「検挙率」が下がるからだ」という本末転倒な事態になる。

同様の混乱は学校でも起きている。貧困と薬物乱用、家庭崩壊に苦しむ地域の中学校では、生徒の成績が悪く、テストの点数が上がらなければ学校が閉鎖されるおそれがある。そこで英語の読解と作文の共通テストが行なわれるまでの6週間、教師たちは授業のすべての時間をテストの補習に充て、ほかの科目は完全に無視するよう指示される(この戦略は婉曲に「カリキュラム調整」と呼ばれる)。組織の存続がかかっているため、数値目標の達成以外はどうでもよくなってしまうのだ。

同じような実態は、イギリスの医療ドラマシリーズ『ボディーズ』でも描かれている。着任したばかりの外科医が複雑な併存疾患を抱えた患者を手術して死なせてしまうと、ライバルの外科医から、「上級外科医というものは、自分の上級能力を脅かしそうなどのような状況も、上級の判断力を使って避けるものだ」とアドバイスされる。

実績にマイナスの影響を及ぼしそうなリスクを避けるのは「上澄みすくい(クリーミング)」という古典的戦略で、医療現場では、成功率を維持するために難しい症例を避けることが常態化している。

これはたんなるフィクションではなく、イギリスでは保健省が、救急医療への苦情に対処するため、待ち時間が4時間を超えた病院に罰則を科すことにしたところ、患者を救急車に乗せたままにして、4時間以内に確実に診察できると病院職員が判断するまで待たせる病院が現われたという。

このようなことが起きるのは、わたしたちが「測定された説明責任の時代」「測定された実績に対する報酬の時代」に生きているからだとミュラーはいう。「説明責任は本来、自分の行為に責任を負うという意味のはずだが、一種の言語的トリックによって、説明責任は標準化された測定を通じて成功を見せつけることに変わっていった」のだ。

もちろんミュラーは、アカデミズムに身を置く者として、科学や統計を否定するわけではない。「個人的経験や専門知識に基づく判断よりも標準化された測定に基づく意思決定のほうがすぐれている状況は数多くある」ことも認めている。

だが、「判断=主観的で利己的」、「測定=確実で客観的」とする一種の善悪二元論にとらわれ、経験に基づく判断をすべて標準化された測定で置き換えようとすると、さまざまな問題が噴出する。これが測定への過剰な執着、すなわち「測りすぎ」だ。

「私たちは測定の時代に生きる宿命にあるが、同時に測定ミス、過剰測定、誤解を招く測定、非生産的な測定の時代にも生きている」のだ。

測定され、報酬が与えられるものはすべて改竄される

「測定基準への過剰な執着(測定執着)」は、次のような(誤った)三段論法によって正当化される。すなわち、「測れないものは、改善できない」「測定されるものは実行される」「測定できるものはすべて改善できる」。

このうち最初(大前提)と2つ目(小前提)は正しいとしても、最後の結論(測定できるものはすべて改善できる)には根拠がない。

しかしいまではこれが常識となり、すべての組織はアカウンタビリティ(説明責任)を求められるようになった。accountabilityには、「責任をとる」と「カウンタブルである(カウントできる)」という二重の意味がある。成功をカウントするときに重要になるのが「透明性」で、「可能なかぎり多くの情報を明らかにし、可視化する」ことだ。

「説明責任」と「透明性」によって異形のものとなった測定執着の病理を、ミュラーは次の3つにまとめている。

・個人的経験と才能に基づいておこなわれる判断を、標準化されたデータ(測定基準)に基づく数値指標に置き換えるのが可能であり、望ましいという執念

・そのような測定基準を公開する(透明化する)ことで、組織が実際にその目的を達成していると保証できる(説明責任を果たしている)のだという信念

・それらの組織に属する人々への最善の動機づけは、測定実績に報酬や懲罰を紐づけることであり、報酬は金銭(能力給)または評判(ランキング)であるという信念

アメリカの社会心理学者ドナルド・T・キャンベルは、「定量的な社会指標が社会的意思決定に使われれば使われるほど、汚職の圧力にさらされやすくなり、本来監視するはずの社会プロセスをねじまげ、腐敗させやすくなる」と述べ、のちに「キャンベルの法則」と呼ばれるようになった。

イギリスの経済学者がつくった「グッドハートの法則」では、「管理のために用いられる測定はすべて、信頼できない」とされる。これは、「測定され、報酬が与えられるものはすべて改竄される」ということだ。それにもかかわらず測定に執着することには、どこか「カルト的な要素」があるとミュラーはいう。

「測定の専制」に直面したとき、それにどう対処しようとするのか。これをミュラーは7つにまとめている。

(1)一番簡単に測定できるものしか測定しない
もっとも簡単に測定できる要素に焦点を絞ることで問題を単純化する。求められる成果が複雑なものなのに、簡単なものしか測定しない。

(2)成果ではなくインプットを測定する
努力の結果を測定するのではなく、プロジェクトに投入された金額やリソースを測定する。

(3)標準化によって情報の質を落とす
本来の概念、歴史、意味をはぎとって無理やり比較可能にする。

(4)上澄みすくいによる改竄
もっと簡単な目標を見つけようとしたり、それほど困難ではない状況の顧客を好む。これによって成功の達成が難しい事例は排除される。

(5)基準を下げることで数字を改善する
高校や大学では卒業率の目標達成のために合格点を下げている。

(6)データを抜いたり、ゆがめたりして改善する
警察は重罪を軽犯罪として記録したり、通報された犯罪をそもそも記録しなかったりすることで犯罪率を「引き下げる」ことができる。

(7)不正行為
測定の結果が重大なほど不正の発生頻度が増える。「落ちこぼれ防止法」で生徒のテストの点数によって学校の存続が左右される状況になったとき、多くの都市の教師や校長が生徒の解答用紙の答えを差し換えるという行為に及んだ。

どうだろう。同じような経験をしたひとも多いのではないだろうか。

教育に予算を投入すると格差が拡大する

ミュラーは「測りすぎ」のケーススタディとして、教育、医療、警察、軍、ビジネスと金融、慈善事業と対外援助を取り上げている。いずれも過剰な測定執着によって本来の目的が歪められたり、組織が機能不全に陥ったりしているが、ここではそのなかから、アメリカの教育現場でなにが起きているのかを見てみよう。

アメリカではリベラルな知識人から保守派の政治家まで、「もっと多くの国民が大学に行くべきで、そうすれば生涯賃金が増えるだけでなく、国の経済成長も生みだすことができる」との信念が共有されている。実際、大卒と非大卒では生涯収入に2倍ちかくの差があり、これが拡大する一方の経済格差の背景にある。

「高等教育こそがゆたかさ(幸福)への道」という教育神話によって、大学が熾烈なランキング競争に放り込まれただけではなく、「大学に行ける備え」ができていない若者までが四年制大学への進学を望むようになった。ACT(American College Test)は英語、数学、読解、化学の4科目からなる適性試験だが、2016年には、受験した高校生の3分の1が、4科目のどれひとつとして基準に到達しなかった。3科目以上で基準をクリアしたのは38%で、「大学に行きたいと思う生徒のほとんどは、大学に行けることを証明できるだけの能力がなかった」とされる。

いまでは多くのコミュニティ・カレッジ(公立の二年制大学)や四年制大学に「開発」コースが設けられ、高校で習ってきたはずの内容を教えている。コミュニティ・カレッジに入学する学生の3分の1が読解の開発コースに、59%以上が数学の開発コースに入れられているという。これが大学に余分な負担をかけさせ、大学教育の費用を引き上げる要因になっている。

大学レベルの学業ができない学生がどんどん入学してくれば、単位をとれずに中退する者が増えてくる。アメリカでは大学生が6年間で卒業する割合が6割程度で、3人に1人が学位を取れずに挫折していることが大きな問題になっているが、これは経済的な問題(学費が高すぎる)というより、大学に入ろうとする学生が多すぎることに原因がある。

「レジャーランド化した日本の大学とちがって、アメリカの大学は学生にきびしく、卒業が難しい」といわれるが、これはアイビーリーグなど一部のトップスクールだけだ。それ以外の大学では、卒業率が低いとランキングが下がるため、教員にはできるだけ寛大になるようにという強いプレッシャーがかけられている。

このあたりの事情は日本のFラン(Fランク大学)と大差ないようだが、それでも中退率が圧倒的に高い(日本の大学の中退率は7%程度)ところにアメリカの高等教育の特殊性がある。

ミュラーによれば、教育における「測りすぎ」は、大学よりも中学・高校などの公教育で大きな問題を引き起こしている。アメリカ社会では長年、「民族や人種グループ間での学業成績の差異」こそがすべての元凶とされ、ブッシュ政権の「落ちこぼれ防止法」やオバマ政権の「すべての生徒が成功する法」につながった。教育こそが「格差解消工場」だと信じられてきたのだ。

だがミュラーは、「何十年にもわたってこうした測定を収集・公表してきてもなお、結果がほとんど変わっていないというのは衝撃だ」という。「落ちこぼれ防止法」が2001年に鳴り物入りで施行されて以来、小学生のテストの点数はほんのわずかしか上がらず、高校生の成績への影響はさらに限定的だった。

アメリカでは、小学4年、中学2年(8年生)、高校3年(12年生)のときに全米学力調査(NAEP)という読解と数学のテストを受ける。全米教育統計センターが『人種および民族グループごとの学業成績の現状と傾向』でその「相対的達成率」を毎年発表しているが、それによると、高校3年のテストで白人とヒスパニックの読解力の差は、1992年と2013年でさほどちがいがなかった。白人と黒人の差にいたっては、同じ期間でかえって広がっていた。――数学についても、白人、黒人、ヒスパニックの差はほとんど変わらないままだった。

この結果は、学校教育の理想主義的「改革」が、成果をより均等にすることにはつながらなかったことを示している。「学校の質の向上は教育的成果全般を引き上げることはできるかもしれないが、人口のさまざまな階層から集まる子どもたちの間では学力格差をなくすどころかむしろ拡大させる可能性が高い」とミュラーはいう。

なぜこんなことになるかは、かんたんな理屈で説明できる。政府が教育に予算を投じ、質の向上を追求すれば(これ自体はもちろん悪いことではない)、その恩恵を真っ先に受けるのは貧困層の子どもではなく、中・上流階級の子どもたちなのだ。――日本の「高校無償化」や「少人数学級」でも同じことが起きるだろう。

「測れないものは、改善できない」のだから、生徒の学業成績を測定し、学校教育や勉強法の改善につなげていくことには大きな価値がある。だがこの原則は、いつのまにか「測定できるものはすべて改善できる」に変わってしまった。

「測定によって問題が見出されたのだから、政府・教育者はその問題をどのように解決するかの“説明責任(アカウンタビリティ)”を負っている」というのは、いまやアメリカだけでなく日本の教育行政でも当然の前提になっている。だが「測定できること」と「改善できること」は別の話であり、「教育格差」が測定によって発見されたからといって、それを「教育」で解決できるとは限らない。ミュラーが示すデータを見るかぎり、「不都合な真実」は、教育にちからを入れれば入れるほど逆に「格差」が広がっていくということのようだ。

下方比較の効果は感謝と軽蔑、上方比較は希望と嫉妬

ペーテル・エールディはハンガリー出身で、アメリカの大学で教鞭をとる物理学者兼心理学者。専門は計算論的神経科学、計算社会科学で、『ランキング 私たちはなぜ順位が気になるのか?』(高見典和訳/ 日本評論社)で、ランキング(順位づけ)とレイティング(評価)について論じている。原題は“Ranking; The Unwritten Rules of the Social Game We All Play(ランキング 私たちがみなプレイしている社会ゲームの書かれざるルール)”。

ランキングとは何か? これについては「まえがき」を寄せている経済学者(複雑系)のスコット・E・ペイジ (『「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』水谷淳訳/ 日経BP)が簡明な説明をしている。ランク(順位)とは、「完備(complete)で、非対称的(asymmetrical)で、推移的(transitive)な関係)」のことだ。

完備は、「すべての項目の中から任意の2つを取り出したとき、その優劣が決定されていること」、非対称は「2つのものが同等ということがないこと」、推移的とは「AがBより好まれ、BがCより好まれるなら、AはCよりも好まれなければならない」という規則で、この3つがすべて満たされたとき、集合内の要素をランキングすることができる。

エールディは、「ランキング」と「レイティング」のちがいについて、レイティングは「対象に、他の対象とは独立に評価(一般には数字の点数)を付与すること」で、ランキングは「各要素に関する体系的評価にもとづいて順位づけること」と定義している。レイティングはランキングの準備作業になることもあるが、レイティングはしてもランキングしない(成績評価はレイティングだが、それによって必ずしも順位を決めるわけではない)とか、ランキングしてもレイティングがない(「一生のうちに行きたい観光地」などのベスト10ものは数値化された評価に基づいているわけではない)ことも多い。

ネットの記事では「5つの理由」や「10の方法」といったリスティクル(list=箇条書きとarticle=記事を組み合わせた造語)がよく使われるが、これをランキングするとさらに注目度が上がる。

なぜわたしたちはこれほど「序列」に惹きつけられるのか。その理由をエールディは、「上方比較」と「下方比較」で説明する。「自分よりも優れた(劣った)人と自分を比較すること」だ。

「下方比較の積極的な効果は感謝であり、消極的な効果は軽蔑」「上方比較の積極的な効果は希望や刺激、消極的な効果は嫉妬心」とされ、「満足を感じたいなら自分に有利な比較を探しなさい。自分を追い込みたいなら、自分に不利な比較を探しなさい」などのルールがある。社会的比較をする性向は止められないが、自分の利益になるようにうまく利用することはできるという。

他者との比較は、脳科学のレベルでも研究されている。

脳の画像化を用いて上方比較および下方比較と関係する部位や神経メカニズムを探ると、下方比較では副内側前頭前皮質が活発化し、上方比較では前帯状皮質背側部の活動が増加することがわかった。副内側前頭前皮質は金銭的報酬を考えるときにも活発になり、前帯状皮質背側部は身体的苦痛や金銭的損失のような負の出来事を処理する部位だ。

これをわかりやすくいうと、わたしたちは下方比較を得(報酬)、上方比較を損(罰)と無意識に感じているらしい。その結果、不愉快な上方比較を避け、下方比較によって一時的にでも気分よくなろうとするのだ。このことは、ネット記事で「貧困もの」がよく読まれる理由を説明するだろう。

「絶対に11位になってはいけない」理由

複数の人間が集まれば自然にランキングが生じる。これがヒエラルキー(階層)だが、これには生物学的ルーツがある。序列と命令系統のはっきりした軍隊のような組織は、平等な個人の集まり(烏合の衆)よりずっと強力で生存に有利なのだ。

生得的にヒエラルキーが決まっているのが身分制だが、生まれによって「できること」「できないこと」を決めてしまえば、個人同士の無駄な争いを避けられる。なんの序列もなければ、より大きな利益を求めて殺し合うしかなくなる。

ところが社会がゆたかで安全になると、身分による秩序は差別として否定されるようになった。こうしてすべてのひとが平等な機会をもつようになると(もちろんこれは素晴らしいことだ)、社会は複雑になって利害調整が困難になる。これが、リベラル化が進むほど社会がシステム化され、閉塞感が強まる(ひとつの)理由だろう。

社会的比較でやっかいなのは、低くランク付けされることを極端に嫌うようにヒトが進化してきたことだ。ヒエラルキーの下層に落とされることは重大な脅威で、脳は特大のアラームを鳴らす。他者からの批判は、たとえそれがささいなものであっても、生死を分かつような攻撃と感じられる。

党派的な議論では、証拠(ファクト)を見せられても信念が変わらない。反対証拠を見せられても政治的信念を変更しなかったひとの脳画像を調べると、恐怖や情動的反応を司る脳の部位である扁桃体や島皮質が活性化していた。信念を変えることが敗北=死と同じなら、どんな理屈も通じないのは当然だ。

しかしこのひとたちも、政治とは関係のない話題であれば、証拠に基づいて柔軟に意見を変えることができる。党派性はやっかいな問題だが、エールディは、「簡単には他人に操られない」というよい面もあるという。

わたしたちの判断は、ランキングに強く影響される。19.99ドルが20ドルよりかなり安く思えるのは、最上位桁の1と2を無意識に比較しているからだ。同様に、「業界9位」の代わりに「ベスト10以内」のほうが効果的だ。トップグループのなかにあるという事実を、「他のトップブランドと同列」と誤認させるのだ。こうしたヒトの認知バイアスを考えると、「絶対に11位になってはいけない」とエールディはアドバイスする。

ランキングがもたらす二次的反応には、「自己成就的予言」と「尺度の一元化」がある。

自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)は小さな変化が増幅されるメカニズムで、「評判がバイアスをもたらすことでランキング自体が次回以降のランキングに影響を及ぼす」ことをいう。ランキングが上がれば、それがなんらかの偶然であっても、それに合わせて他者の評価も上がる。

尺度の一元化(commensuration)は、質的特徴を比較可能な数量に変換することだ。数値化できないものはランキングできないからだが、ここで「指標を選択することによるフレーミング(枠付け)プロセス」が生じる。そのフレームが自分にとって有利か不利かでランキングは大きく変わる。逆にいえば、いくらランキングを上げようと努力しても、フレーミングの時点で勝負は決まっているのだ。

フレーミングは数字に変換できない質的特徴を無視し、計測可能なものに対して過剰な注意を向ける。これはミュラーの「過剰測定」への批判と重なる。

デジタル社会では、評判は一種の通貨のようなものとして機能するようになった。そのような「評判社会」で成功するには、ますますマーケティングが重要になっている。エールディは、成功のための3つのルールを挙げている。

  1. 努力を惜しまない
  2. 8割の時間をマーケティングに使い、残りの2割を本来の活動に用いる
  3. 上の2つを両立させる!

評判社会におけるランキングがますます重要になるにつれて、誰もが「ランキング強迫(obsession with ranking)」に追い立てられる時代がやってくるようだ。

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