本人の意志と自己責任が徹底されたデンマークはどういう社会か?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年3月29日公開の「懲罰的な意味合いの強い日本と違う 幸福度世界第3位のデンマークの「自己責任」論」です(一部改変)。

Pcala/Shutterstock

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日本ではこのところずっと、「格差」と「自己責任」が議論になっている。社会学者・橋本健二氏は『新・日本の階級社会』(講談社現代新書) のなかで、SSM調査(1955年以来、10年に一度、全国規模で無作為抽出によって実施されている社会学者による日本最大規模の調査)を用いて自己責任論の広がりを指摘している。

2015年のSSM調査には「チャンスが平等に与えられているなら、競争で貧富の差がついてもしかたがない」という設問があり、その回答をみると、全体の52.9%が自己責任論に肯定的で、とくに男性では60.8%に達する。自己責任論に否定的なのは全体で17.2%、男性では15.6%にすぎず、女性でも18.6%しかいない。

特徴的なのは「格差の被害者」であるはずの貧困層でも44.1%が自己責任論に肯定的で、否定的なのは21.6%にとどまることだ。「貧困層のかなりの部分は、自己責任論を受け入れ、したがって自分の貧困状態を、自分の責任によるものとして受け入れているのである」と橋本氏は述べている。

同じSSM調査から、2005年と2015年で格差拡大を肯定・容認する比率を見ると、富裕層では高く(2015年では37.0%)貧困層では低い(同23.7%)のだが、この10年間で富裕層では1.2ポイント上昇したにすぎないが貧困層では6.3ポイントも上昇している。貧しいひとほど格差拡大を容認するようになったという奇妙な現象の背景にも「自己責任論」がありそうだ。

「日本的雇用を守れ」と叫ぶリバラルは「差別」に加担している

自己責任が「自由の原理」であることはいうまでもない。自分の行動に責任をとれない人間が自由の権利だけ主張できないのは当然のことだ。しかしその一方で、すべてを「自己責任」で片づけることもできない。

奴隷制社会において、奴隷が幸福になれないことを「自己責任だ」というひとはいないだろう。自分の人生を自由に選択できないのであれば、その結果を本人の責任に帰すことはできない。――これもすべてのひとが同意するだろう。

私はこの何年か、「日本は先進国の皮をかぶった前近代的身分制社会」だと述べてきた。日本社会では「正規/非正規」「親会社/子会社」「本社採用/現地採用」などあらゆるところで「身分」が顔を出す。日本人同士が出会うと、まず相手の所属=身分を確認しようとするが、こんな「風習」は欧米ではもはや存在しない。日本ではずっと、男は会社という「イエ」に滅私奉公し、女は家庭という「イエ」で子育てを「専業」にする生き方が正しいとされてきた。

「新卒一括採用」は世界では日本でしか行なわれていない“奇習”で年齢差別そのものだが(日本の労働法でも違法で、そのため厚労省が適用除外にしている)、そこで失敗すると「非正規」という下層身分に落ちて這い上がることは難しい。「(子どものいる)女性」や「外国人」も同様で、会社に滅私奉公する(男性)正社員とは異なる身分として扱われる。このような社会で「自己責任」を強く主張することは、「日本人・男性・中高年・正社員」という属性をもつ日本社会の主流派の既得権を守ることにしかならない。

だがその一方で「リベラル」を自称するひとたちは、自己責任論を批判して「日本的雇用を守れ」と主張することで、結果として「差別」を容認している。いま必要なのは、すべての労働者が身分や性別、国籍に関係なく「個人」として平等に扱われるグローバルスタンダードのリベラルな労働制度に変えていくことだ。――これが私の立場だが、ここではこれ以上「自己責任論」を開陳するつもりはない。

私の興味は、次のようなことだ。

「すべてのひとが自分の人生を自由に選択できない社会では、自己責任を問うことはできない」。この原則に合意するのなら、それを逆にして、「人生を自由に選択できる社会では自己責任を問われることになる」はずだ。

「自由(自己決定権)」と「自己責任」は実際にこのような関係になっているのだろうか。そこでここでは、鈴木優美氏の『デンマークの光と影 福祉社会とネオリベラリズム』(壱生舎)にもとづいて、自己決定権が最大化された北欧の国で自己責任がどのように扱われているのかを見てみたい。鈴木氏がデンマークの大学の博士課程(心理学・教育学研究科)在学中に執筆したもので、2010年の刊行だがいま読んでもとても刺激的な本だ。

デンマークでは「本人の意思」がすべて

デンマーク社会の「自己責任」について、鈴木氏は自身の体験から以下の3つの例を挙げている。いずれも日本では考えにくいケースだろう。

(1) ひどく乱雑な部屋で一人暮らしを続ける高齢の女性。彼女の生活が、大きな写真とともにある日の新聞の一面記事で扱われた。彼女はホームヘルプを受けながら暮らしているが、目がよく見えないため掃除も行き届かず。部屋は目を覆わんばかりの状態だ。自治体から派遣されるホームヘルパーは、やるべき仕事だけを済ませるとさっさと帰っていく。コンロに焦げついた鍋があっても、床に何かがこぼれていても、それらに手をつけるのは責任範囲ではなく、ヘルパーたちには余分なことをする時間的な余裕もない。こんな状態であっても、本人が一人暮らしを望みつづけるあいだは「もう自立生活は難しいから、老人ホームに入るべきだ」と干渉することはない。

(2) 交通事故で脳挫傷になり、重篤な状態で入院した(鈴木氏の)友人の男性。開頭手術をくりかえし受けつつ、リハビリを続けていた。しかし、退屈な病院での生活に嫌気がさし、ある日、自主退院を決めて「脱走」。まだ退院が許されたわけではなかったが、本人の意思である以上、強制的に再入院はさせられない。病院からの措置はとられず。その後も彼は予定された手術をすっぽかし、アパートで飲酒・喫煙をする生活を続けた。結局、数か月後にアパートで息を引き取っているのが見つかった。家族もないため、アパートは競売にかけられ、本人は無縁墓地で眠っている。

(3) 軽度の認知症をもち、筆者(鈴木氏)の勤務する老人ホームに入っているある女性。うつの傾向があり、過剰に飲酒をする。ほとんど介護も要らず、足腰も丈夫なため、カートを引いて重い「瓶」をたくさん買ってくる。ホームの職員はそれを承知のうえで、「いってらっしゃい」と送り出すしかない。そして食事をほとんど摂らないままに、朝からビール、昼間からワインという生活を数年間続けている。自分で身のまわりのことができるため、職員がするのはあまり手のつけられることのない食事を運び、抗うつ剤を投与するくらいだ。他の入居者との交流も好まないため、そのあいだもひとり部屋にこもって数知れない空き瓶を生み出していく。本人のお金で、自室で飲んでいるのだから、当人の自由という理解だ。

デンマークでは「本人の意思」がなによりも尊重される。子どもが幼稚園や学校に入る年齢は発達段階に応じて親が自ら決定できるし、学力達成度に不安があれば留年もでき、学区などに関係なく学校は自由に選べ、自分に合わなければ変えられる。子どもを学校に通わせずに個人指導で学習させることも可能だ。

学校にはジュースや果物を間食として持ってきて、授業中でも食べることができる。自由な学習形態を売りにしている学校では、生徒の学び方に合わせて、廊下や床に寝そべって勉強したり、音楽をイヤホンで聴きながら課題に取り組むことも許されるという。

高齢者に対しても同様に本人の意思が最大限に尊重され、ホームヘルプ制度などを利用して自治体は高齢者の自立した生活を支援し、老人ホームに入るのは本人が同意してからだ。その老人ホームでも飲酒や喫煙ができ、訪問者の差し入れや訪問時間が管理されることもない。

「その人なりの生き方を許容するのがデンマーク社会であり、人に価値を押しつけたり、型にはめるために矯正することはない」と鈴木氏はいう。この国では、どんなひとであっても、「あなたはあなたのままでいていい」のだ。

ドラッグ濫用もホームレスになるのも自己責任

個人の意思をなによりも尊重する社会では、食べ過ぎで太るのも、アルコールやドラッグを濫用するのも、ドロップアウトしてホームレスになるのも本人の自由=自己責任ということになる。

デンマークでは「1日に6つの野菜・果物を600グラム食べよう」「魚を週2回食べよう」などの健康キャンペーンがさかんに行なわれているが、過体重や肥満を患う国民は激増している。2001年の調査ではデンマーク人の男性の42%、女性の37%がBMI25から29.9の「過体重」で、成人全体の15%がBMI30を超える「肥満」だった。

子どもの肥満も深刻で、14歳から16歳の過体重は30年前に比べて3倍に増加した。専門家によれば、いまや14%の子どもが過体重にあたり、低年齢の7歳から10歳までの女児では5人に1人以上が過体重だという。

子どもの肥満はいじめを受ける最大の原因で、自信喪失や学業の妨げになっている。そのため一部の学校では完全無料の給食制度で肥満を防ぐ試みが始まっており、自治体では栄養学、教育学、心理学など分野を超えた専門家が集まって過体重児の治療をしている。ただしここでも「個人の意思尊重」の原則は貫徹されており、「いかなる援助も子どもに強制するものであってはならず、当人が助けを求めてはじめて発効する」とされている。

デンマークの法律は「16歳未満の若者に対してアルコール飲料を販売してはならない」「レストランやバーなどは18歳未満の若者にアルコール飲料(ライトビールなら可)を提供してはならない」としているだけで、親が買ってきたアルコール飲料を自宅で飲むことにはなんの規制もない。

その結果、14歳以上のデンマーク人は平均して1人あたり年間11.6リットルの純アルコールを消費している。これは毎週フルボトルのワインを2本以上飲んでいる計算で、アルコ―ル関連の疾患は全死因の6%にものぼる。

度を超した飲酒行動に加え、青少年のあいだではエクスタシー、コカイン、アンフェタミンなどの薬物が広がっている。デンマークは薬物濫用による死者の割合がヨーロッパでもっとも高い国のひとつで、人口100万人あたりの薬物関連の死者数は50人を超える。それに対してスウェーデンは20人ほど、大麻など一部のドラッグが合法化されているオランダは10人ほどだ。

薬物中毒の治療にはメタドンという鎮痛剤が使われるが、このメタドン自体も依存性が高く、ヘロインから抜け出すより難しいといわれる。そのためメタドンからより危険性の少ないブプレノフィンに変えることが勧告されているが、最初はあまり効かず、他の薬剤と混合して服用すると気分が悪くなることから患者にはあまり好まれない。

ここでも「患者本人の意思の尊重」は徹底しており。薬物中毒者の約3分の1を抱えるコペンハーゲン市では、「薬物濫用者に治療を受けさせ、治療を継続することが優先事項であるため、患者がメタドンが欲しいといえば与え、ブプレノフィンは嫌だといわれれば強制はしない」方針だという。

「有能な子ども」しか認められない社会

デンマークでは「自立Self-governance」「自由Freedom」「能力Competency」を重視する教育が1960年代にはじまり、90年代には「(自律して自制心をもった)有能な子どもThe competent child」という概念が成立した。「有能な子ども」は自らの行動に責任をもち、自らの望みや利益・関心、気分について筋の通った説明ができる。また社会の要請を敏感に察し、自己洞察を身につけ、周囲から期待されているものを内在化する。

それとともに、これまで親の責任とされてきた「子育て」が、行政と子ども自身で責任を分け合うものへと変貌した。移民のなかには子どもを保育所に入れたがらない親もいるが、「公共保育を通じて言語能力や社会性が培われる」との理由から「親の無責任」は許されず、90年代にはほぼ100%の子どもが保育所に通うようになった。子どもの権利条約が採択されると、「子どもの成長に責任の一端を握るのは子ども自身」という教育論が確立した。

このようにして育てられた「有能な子ども」たちが「自立した市民」になっていくのだが、誰もが社会の要請を理解し、期待に応えていくほど強くいられるわけではない。「国家が規範として求める自立・自律のスタンダード」を満たすことができず、孤独やストレスからアルコール、薬物、過食・偏食などにつかの間の安らぎを見出す者も出てくるのは、ある意味自然なことだ。

こうした反省から、政府は「過剰な個人の自由」を再定義し、新保守主義的な道徳観への転換を試みているという。これがデンマークにおける「ネオリベ化」だ。

「有能な子ども」から「自立した市民」に成長するのは国民の義務なのだから、「デンマーク人以外の民族的背景をもつ」国民、すなわち移民2世・3世にも適用される(ちなみにこれは、デンマークにおける「移民」の政治的に正しい表現だ)。この国では、「自己責任のとれる自律した個人」でなければ居場所はないのだ。

その結果、移民の若者が中等教育をドロップアウトすることが社会問題になると、教育大臣は「子どもに無断欠席を許すのは親の管理が行き届いていないからだ」として、親に罰金を科すことを提案した。18歳未満の子どもをもつ親には「子ども小切手」が支給されるが、子どもが長期欠席している場合はこれを減額あるいは停止するというのだ。「極右」のデンマーク国民党からは、1週間の不当欠席で2000クローナ(約3万2000円)の罰金という提案も出された。「態度が悪かったり、物を壊したり、学校に通わなかったりする生徒やその親に対しては、さらなる措置を検討したい」との教育大臣の発言もあった。

こうしてみると、北欧の国では「自己責任」が移民排斥の正当化に使われていることがわかる。デンマーク社会が寛容なのは、移民の子どもたちが自らの意思で「有能な子ども」になろうとする場合だけなのだ。

自己責任の社会は居心地がいい?

ここで強調しておかなくてはならないのは、デンマークが「個人の自由と自己責任」を過剰に強要する社会だからといって、それが国民を不幸にしているわけではないことだ。

デンマークはOECDで3番目に抗うつ剤の消費量が多い国(1番はアイスランド)で、自殺率も高い。ただしこれは冬の日照時間が短い影響が大きく、自殺件数は1980年頃のピークから4割程度まで下がった。

それにもかかわらず、2006年に発表されたイギリス・レスター大学の心理学研究者エイドリアン・ホワイトの「世界の幸福度調査」でデンマークは1位になり、2008年にミシガン大学のロナルド・イングルハードらの世界幸福度調査でも「1981年から2007年でもっとも幸福な国」に選ばれたことで一躍注目を集めた。最新の国連「世界幸福度ランキング」(2018年3月14日発表)でも、デンマークはフィンランド、ノルウェーに次いで第3位になっている(日本は54位)。

これは、自己責任の社会でも自由な選択が認められているのなら、ひとびとの幸福度は高いということなのだろう。ネオリベ適性の高いひとにとっては、「福祉が充実した自己責任の社会」は居心地がいいのだ。

デンマークで暮らす鈴木優美氏は、日本語の「自己責任」には「自業自得」「因果応報」というニュアンスが込められているが、デンマーク語では「他人/公への必要以上に拡大した依存心を減らして、自分でできることは自らの力でかなえるべき」という「強い者の(援助なしでの)自立」を謳っているように感じられるという。

「大きな政府がなんでも面倒を見てくれるために、自分で何ができるかを考えてみることもせずに、公にサポートを要求するような無責任な国民を生み出している」という自己責任論の高まりを受けて、デンマーク政府は“ネオリベ”的な小さな政府を目指し、2008年に「私の責任」という会議を開催した。

ここで興味深いのは、「高齢者を大切にして、家族の温かさを取り戻そう」という政府の「道徳キャンペーン」に対してアンケートに答えた75%の国民が、「家族が高齢者の面倒を見ることを法律で義務付けるのは反対」とこたえていることだ。デンマークの息子や娘たちは、親の面倒を見ることで自分たちの「自由」が侵害されることを理不尽だとして、高齢者の面倒はこれまでどおり国・自治体がみるべきだと考えているようだ。

ただしその際には、あくまでも高齢者の意思を尊重して、本人が望まない過剰な世話を焼く必要はいっさいない。このようにして、福祉社会と自己責任は折り合いがつくのだろう。

禁・無断転載

新疆を旅して感じた人権抑圧と宗教からの解放 週刊プレイボーイ連載(601)

3月末から4月はじめにかけて中国西部の新疆ウイグル自治区を旅しました。東アジアと中央アジアが接するこの地域には、ウイグル人、カザフ人、キルギス人、タジク人など多くの少数民族が暮らしています。

新疆では近年、石油や天然ガス、鉱物資源が相次いで発見され、西部大開発で多くの漢族が流入したことで緊張が高まり、2009年には域内最大の都市ウルムチでウイグル人の大規模な暴動が、14年には習近平主席の視察に合わせてウルムチ駅で自爆テロが起きました。

その後、中国政府は徹底した治安強化と“中国化”を推し進め、熱心なイスラーム信者や留学経験のある知識層を再教育施設に収容するなど、人権団体から「完全監視社会の実験場」と批判されています。

私は2010年にもウルムチを訪れていますが、そのときは礼拝の時間が終わるとモスクの前は黒山のひとだかりで、バザールの夜市も地元のムスリムで賑わっていました。

ところがそれから14年で、町の雰囲気は一変していました。女性が全身を覆うブルカはもちろん、髪を隠すヒジャブ(スカーフ)も見かけません。ウイグル人の男性はほとんどがドッパという帽子をかぶっていましたが、その習慣もなくなったようです。

さらに驚いたのはバザールで、再開発によって少数民族テーマパークのようになり、かつての素朴な雰囲気はまったく残っていません。モスクの正面には中国で新年を祝う赤い提灯が飾られ、礼拝の時間になっても訪れるのは数人の高齢者だけで、モスクの1階は宝石などを売る土産物店に改装されていました。

これだけを見ると、たしかにウイグル人の人権が抑圧されていることは間違いありません。しかし、そこからさらに西のカシュガルまで旅するあいだに、最初の印象はすこしずつ変わりはじめました。

私が訪れたときは、イスラームのラマダンに重なっていました。ムスリムにとって重要な宗教行事で、約1カ月間にわたって日の出から日没まで断食を行ないます。イスラーム圏ではホテルを除いてレストランはすべて閉店してしまうので、食事は楽しめないかもと覚悟していたのですが、新疆ではどこも早朝から深夜まで店を開け、ラマダンの気配はまったくありません。

中国の3連休にもあたっていたので、西の果てのカシュガルには漢族の観光客が押し寄せ、たいへんな賑わいでした。中国は時差がないので、西部地区の日没は夜9時過ぎになり、バザールのなかにある小学校から子どもたちが飛び出してくるのは7時頃です。その子どもたちも、観光客に混ざって、露店でパンやお菓子を買っておいしそうに食べています。

イスラーム世界にも、子どもにまで1カ月の断食を強要するのは理不尽だと思っているひとがいるはずです。しかしそんなひとも、宗教的な同調圧力によって、疑問の声をあげるのは難しいでしょう。

ところが新疆では、共産党がラマダンを禁止した(ただし個人的に絶食するのは自由)ことで、宗教のくびきから解放されたのです。

楽しそうに食事をする地元のひとたちを見て、人権問題を論ずる欧米の活動家は、戒律から自由になったサイレントマジョリティの声を無視しているのではないかと思いました。

カシュガルのバザール内にある小学校から出てくる子どもたち(Alt Invest.Com)

『週刊プレイボーイ』2024年4月29日発売号 禁・無断転載

「世界でいちばん幸福な」リベラル福祉国家、 デンマークはなぜ“右傾化”するのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年1月21日公開の「「世界でいちばん幸福な」リベラル福祉国家、 デンマークの“右傾化”が突き付けていること」です(一部改変)。

Sven Hansche/Shutterstock

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「世界幸福度指数」は国連が1人あたりGDPや男女の平等、福祉の充実度などさまざまな指標から各国の「幸福度」を推計したもので、2013年、2014年と連続して1位を獲得したのがデンマークだ(2015年はスイス、アイスランドに次ぐ3位)。「経済大国」である日本の幸福度が40位台と低迷していることから、「世界でいちばん幸福な国」の秘密を探る本が何冊も出された。

ランキングを見れば明らかなように、「幸福な国」とは“北のヨーロッパ”、すなわち北欧(スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマーク)、ベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、スイス、アイスランドなどのことで、どこもリベラルな福祉国家として知られている。

ところがそのデンマークで、不穏なニュースが報じられている。難民申請者の所持金や財産のうち1万クローネ(約17万円)相当を超える分を政府が押収し、難民保護費に充当するというのだ(ただし結婚指輪や家族の肖像画など思い出にかかわる品、携帯電話などの生活必需品は除外されるという)。

デンマーク政府の説明では、これは難民を差別するものではなく、福祉手当を申請するデンマーク国民に適用されるのと同じ基準だという。難民を国民と平等に扱ったらこうなった、という理屈だ。

だがこの措置が、ヨーロッパに押し寄せる難民対策なのは明らかだ。財産を没収するような国を目指そうとする難民は多くないだろう。デンマークは、自国を難民にとってできるだけ魅力のない国にすることで、彼らの目的地を他の国(ドイツやスウェーデン)に振り向けようとしている。これではエゴイスティックな「近隣窮乏化政策」と非難されるのも当然だろう――もっともこの措置だと、所持金20万円以下の貧しい難民だけが集まってくる可能性もあるが。

「世界でいちばん幸福な国」が、なぜこんなことになってしまうのだろうか。

福祉国家とは差別国家の別の名前

じつはこれは、まったく新しい問題ではない。私は同じ話題を2004年9月刊の『雨の降る日曜は幸福について考えよう』(その後『知的幸福の技術』として文庫化)で書いていて、10年以上たってもとくにつけ加えることもないので、それをそのまま転載しよう。

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米国では4000万人が医療保険に加入していない。高齢者と貧困層のための公的医療保険はあるが、アメリカ人の多くは企業が提供する医療保険プランを利用している。労働ビザを持たない不法移民はもちろん、自営業者や失業者も自分の身は自分で守るしかない。

米国の貧弱な社会福祉に比べて、ヨーロッパは公的年金や医療保険、失業保険が充実している。日本が目指すのは、そうした福祉国家だと言われる。

ドイツやフランスをはじめとして、ヨーロッパ諸国はどこも極右政党の台頭に悩まされている。それに比べて米国では、人種差別的団体は存在するものの、移民排斥を掲げる政党が国会で議席を獲得することはない。

一見、無関係に見えるこのふたつの話は、同じコインの両面である。米国に極右政党が存在しないのは、福祉が貧困だからだ。ヨーロッパで組織的・暴力的な移民排斥運動が広がるのは、社会福祉が充実しているからである。

国家は国民の幸福を増大させるためにさまざまな事業を行なっている。その中で、豊かな人から徴収した税金を貧しい人に再分配する機能を「福祉」という。

公的年金や医療・介護保険、失業保険は、国家が経営する巨大な保険事業であるが、それ自体は「福祉」ではない(1)。社会保障が福祉になるのは、一部の保険加入者が得をするように制度が歪められているからだ(2)。制度の歪みから恩恵を受ける人たちを「社会的弱者」と言う。

民主政は一人一票を原則とするので、社会的弱者の数が増えれば大きな票田が生まれる。彼らもまた経済合理的な個人だから、自分たちの既得権を守るために政治力を行使しようと考える。その既得権は国家が「貧しい者」に与える恩恵であり、より貧しい者が現れることで奪われてしまう。

アフリカ諸国やインドなど最貧国では、国民の大半が今も1日1ドル以下で生活している。東ヨーロッパの最貧国であるルーマニアでは、1日4ドル以下で暮らす国民が半数を超えるという。先進諸国の社会的弱者は、世界基準ではとてつもなく裕福な人たちだ。彼らが極右政党を組織して移民排斥を求めるのは、福祉のパイが限られていることを知っているからだ。

貧乏人の子供は貧乏のまま死ぬのが当然、と考える人はいないだろう。不幸な境遇に生まれた人にも、経済的成功の機会は平等に与えられるべきだ。では、貧しい国に生まれた人にも、豊かな暮らしを手に入れる機会が与えられるべきではないだろうか。

ここに、貧困を解決するふたつの選択肢がある。ひとつは、世界中の社会的弱者に平等に生活保護を支給すること。そのためには天文学的な予算が必要になるだろう。もうひとつは、誰もがより労働条件のよい場所で働く自由を認めること。こちらは、何の追加的支出も必要ない。

北朝鮮や旧イラクのような独裁国家には移動の自由はなく、国民は政治的に監禁されている。福祉国家は厳しい移民規制によって、貧しい国の人々を貧しいままに監禁している。誰もが独裁国家の不正義を糾弾して止まない。では、福祉国家は正義に適っているだろうか。

米国ではベビーブーマーが引退の時期を迎え、社会福祉の充実が叫ばれている。それに伴って、移民規制は年々、厳しさを増している。米国がごくふつうの福祉国家になる時、「移民の国」の歴史は終わりを告げるだろう(3)。

福祉国家とは、差別国家の別の名前である。私たちは、福祉のない豊かな社会を目指すべきだ。

(1)民間保険会社が福祉団体ではないのと同じだ。加入者が支払う保険料と受け取る保険金がバランスしていれば、単なる保険ビジネスである。(2)時には、すべての保険加入者が得をするように設計されていることもある。誰にも損をさせず、みんなが幸福になる保険会社は、構造的に破綻を運命づけられている。日本の公的年金制度がその典型だ。(3)現実には、アメリカは「福祉社会」に移行してきている。その実態は、ミルトン・フリードマンが『選択の自由』(日経ビジネス人文庫)で鋭く告発した。

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「福祉国家は差別国家の別の名前」というのは20年前は奇矯な主張だったが、いまになって振り返れば、現実はここで書いたとおりに進んできた。

EUが「人権大国」を目指す一方で加盟各国に極右勢力が台頭し、いまではデンマークだけでなく、ポーランド、スイス、ベルギー、フィンランド、ノルウェー、オーストリアなどでも移民排斥を掲げる政党が主要な政治勢力になっている。デンマーク国会が難民流入を抑止する法案を成立させれば、これらの国があとにつづくのは間違いないだろう。

オバマケア(医療保険制度改革)に象徴されるように、アメリカはオバマ政権の登場で明確に「リベラル=福祉」に舵を切った。それと同じくしてティーパーティの草の根運動が広がり、いまでは「イスラム教徒を入国禁止にせよ」と主張するドナルド・トランプが次期大統領選の共和党有力候補になっている。

だがここで、自分の先見の明を誇りたいわけではない。これは構造的な問題だから、国家が国民の福祉を充実させようとすればこうなるほかないのだ。こんな当たり前の指摘が珍しいのは、「福祉は無条件に素晴らしい」と信じるひとたちが不愉快な現実から目を背けているからにすぎない。

北欧の「リベラル原理主義」

もちろん私はここで、デンマークがナチスのような人種差別国家になっていく、などと主張したいわけではない。実際に訪れるとわかるが、デンマークは(物価が高いことを除けば)旅行者にとってとても快適な国だ。石造りの古い建物を残しながら、車と自転車、歩行者を機能的に分離した都市はきわめて魅力的で、美食の街としても頭角を現わし(「世界最高のレストラン」Nomaはコペンハーゲンにある)、外国人という理由で差別されるようなことは考えられない。

そんな“リベラル”なデンマークをよく表わしているのが、女性映画監督スサンネ・ビアのアカデミー外国語映画賞受賞作『未来を生きる君たちへ』だ(原題は「復讐」。英語タイトルは“In a Better World”=「よりよい世界のなかで」)。

主人公のアントンは、アフリカの難民キャンプで医師として(明示されていないが「国境なき医師団」だろう)働いている。だがアントンが、デンマークに妻と二人の男の子を残してボランティアに打ち込む理由は善意だけではない。彼の浮気が原因で、妻との関係がうまくいかなくなっているのだ。

アントンの息子のうち、兄のエリアスは前歯が目立つことから小学校で「ネズミ」と呼ばれ、いじめられている。そんなエリアスの親友になったのが、がんで母親を失い、父親との確執を抱える転校生のクリスチャンだった。

クリスチャンは、エリアスをいじめる男子生徒が自分にも手を出そうとしたとき、逆に徹底的に殴りつけ、ナイフを見せて「次は殺す」と脅した。この「復讐」によって、エリアスへのいじめもなくなった。

事件は、アントンが休暇でアフリカから帰国したときに起こった。二人の息子とクリスチャンを公園に連れて行ったとき、遊具をめぐって別の子どもと諍いになり、そこにアントンが割って入った。すると相手の子どもの父親ラース(明示されていないが明らかに中東からの移民)が現われ、「息子に手を出すな」といきなりアントンを平手打ちしたのだ。アントンはそれに対して報復も抗議もせず、黙って子どもたちを車に乗せる。

目の前で父親が殴られたことで、エリアスは大きなショックを受ける。彼が学校で学んだのは、「やり返さなければやられ続ける」というルールだからだ。そこで子どもたちはラースを探し出し、彼の仕事場(自動車整備工場)にアントンを連れて行く。父親に「復讐」の機会を与えるためだが、ここでアントンは思いもかけない行動に出る。

突然職場に現われて「なぜ暴力をふるったのか?」と詰問するアントンを、ラースはにやにや笑いながらふたたび平手打ちする。だがここでもアントンは報復せず、「お前の暴力は恐れない」といいながら理不尽に殴られつづけるのだ(トラブルになるのを恐れた整備工場の同僚が止めに入った)。

その後アントンは、エリアスとクリスチャンセンに次のようにいう。「あいつは暴力をふるうことしかできない愚か者だ。愚か者の暴力に、暴力で報復することになんの意味もない」――ここは「リベラル」の思想信条がよくわかる俊逸な場面だ。

最初の公園の場面だけなら、「バカを相手にしてもしょうがない」という軟弱な知識人の保身にも見える。だがそれなら、わざわざもういちど、それも子どもの前で殴らるようなことはしないだろう。

日本映画で同じ場面が描かれたとしたら、観客はそうとう奇異に感じるはずだ。主人公の行動にまったくリアリティがないからだが、これはアメリカ映画でも同じで、悪漢に殴られた主人公は殴り返さなければヒーロー(主人公)の資格がない。

なぜデンマークでは、右の頬を打たれたら左の頬を出すような(かなり奇妙な)場面が現実=リアルとして受け止められるだろうか。それは観客が、アントンを突き動かしている信条を共有しているからだ。

20世紀後半から、リベラルの新たな潮流が(北の)ヨーロッパを席巻した。それは、人種差別や女性への暴力、子どもの虐待(さらには「動物の権利」の侵害)に対する強い拒絶感情だ。1990年代の凄惨なユーゴスラヴィア紛争を間近で見たヨーロッパのひとびとは、あらゆる暴力を否定するという「原理主義」に急速に傾いた。

父親としてのアントンの奇矯な行動は、こうした背景があってはじめて理解できる。息子が理不尽な暴力を恐れるようになったと危惧したアントンは、「いかなる暴力も問題解決の手段としては使わない」という信念の優越を示すために、わざと子どもたちの前で殴られてみせたのだ。

移民を排斥するリベラルの論理

「いっさいの復讐を自分に禁じ、相手が殴ったら殴られつづける」という原理主義的なリベラルは、いうまでもなくきれいごとにすぎない。映画はそのことも承知していて、アフリカの難民キャンプにおけるアントンの“偽善”を容赦なく暴く。

キャンプの病院には、ときおり腹を切り裂かれた女性が運ばれてくる。「ビッグマン」という地域の悪党が、呪術のために妊婦の腹から生きたまま胎児を取り出すのだ。

ある日、このおぞましい悪党が足に大怪我を負ってやってくる。病院のスタッフや患者たちは、ビッグマンを治療せず死ぬに任せておくべきだと口々に懇願するが、アントンはそれを医師の倫理に反すると拒否する。

だが一命をとりとめたビッグマンはアントンを挑発し、暴言を浴びせるようになる。それに耐えかねたはアントンは、最後にはビッグマンを復讐を叫ぶ群衆のなかに放置してしまう。暴力に対して暴力で報復することを許したのだ。

映画はその後、アントンがデンマークに戻ったところでもうひとつの事件を用意する。「報復は復讐の連鎖を招くだけ」というアントンの理想論に、子どもたちは納得していなかった。そこで彼らは、アントンに代わって自分たちの手でラースに復讐すべく、納屋で見つけた火薬を使って自家製のパイプ爆弾をつくりはじめたのだ……。

『未来を生きる君たちへ』が描いたのは、原理主義的なリベラルは現実によって常に裏切られる運命にある、ということだ。それは「リベラル」が絵空事だからだが、その理想を愚直に実践することには絵空事を超えた価値がある。

できるわけがないことをやろうとする人間の前に、現実の壁が真っ先に立ちふさがるのは当たり前だ。だがそんな“愚か者”こそが、「人権」という人工的な(人間の本性に反する)思想を擁護し、暴力のない安全で幸福な社会(Better World)をつくることに貢献してきたのだ――この話の詳細はスティーブン・ピンカー『暴力の人類史』(青土社)を読んでほしい。

だがこの「人権尊重」は、移民を受け入れるときだけでなく、彼らを排斥するときにも方便として使うことができる。妻や娘を平等に扱い、子どもの人格を尊重し、宗教よりも世俗的な価値観を優先する啓蒙思想を拒絶する者は、「リベラルのユートピア」に居場所を与えられないのだ。

このようにして、リベラルな福祉社会はリベラルなまま、「価値観」の異なるムスリムの移民を排除できる。ヨーロッパの“極右”と呼ばれる政治集団は、東欧などからのキリスト教徒の移民への差別は許されないが、近代的でリベラルな世俗社会の価値観に同化できないムスリムの移民への「区別」は正当化できる、と主張しているのだ。

原理主義的なリベラルの信念は、ISによる度重なるテロでも試されることになった。テロに報復してシリアやイラクのISの領土を空爆しても、相手の憎悪を煽るだけで問題はなにひとつ解決しないのは明らかだ。だがテロの犯人に「赦し」を与えたところで、彼らはそんなものを一顧だにせず新たなテロを計画するだろう。

EUというゆるやかな共同体のなかに複数の国家が共存するヨーロッパは、いわば巨大な社会実験をやっているようなものだ。いまやもっとも過激(原理主義的)なリベラリズムは北のヨーロッパから生まれ、それがニューヨークやカリフォルニアのような「リベラルなアメリカ」に伝わり、カナダやオーストラリアなどの英語圏の移民国家(アングロスフィア)に広まって「グローバルスタンダード」をつくっていく。

こうしたリベラルの潮流が(良くも悪くも)世界の基準を決めているのだとしたら、その源流である「世界でいちばん幸福な国」の“右傾化”は、私たちの未来を知るうえで重要な出来事になるだろう。

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