BLMを支持した”リベラル”が、反イスラエルデモを弾圧するのはなぜ? 週刊プレイボーイ連載(602)

アメリカの大学で、イスラエルの後ろ盾になっているバイデン政権に抗議するパレスチナ支持の運動が広がっています。

ニューヨークにあるコロンビア大学は、全米でもっともリベラルな大学のひとつですが、4月18日にテントを張ってキャンパスを占拠していた学生たちを大学側が警察を使って排除、100人あまりが逮捕されました。ところがこれによって抗議活動はさらに激化し、イェールなど東部の名門大学だけでなく、UCLA(カリフォルアニ大学ロサンゼルス校)やスタンフォードなど西海岸の大学でも占拠が始まり、40校でデモが起き2000人超が逮捕される事態になりました。

東部や西海岸のリベラルな大学は、社会正義(ソーシャルジャスティス)を求める学生たちの行動を一貫して支持してきました。BLM(ブラック・ライヴズ・マター)では、活動家たちは「白人は生れたときからレイシスト」で、警察を解体すべきだという過激な主張をしましたが、それに比べればイスラエル批判はずっと筋が通っています。

まずなによりも、ガザへの攻撃によって子どもを含む3万人以上の市民が死亡しており、国連が再三にわたって深刻な人道危機を訴えています。そのきっかけがハマスによるテロだとしても、イスラエルの攻撃は正当な報復をはるかに超えており、ICC(国際刑事裁判所)が戦争犯罪などの捜査を進めています(ネタニヤフ首相らに逮捕状が出るとの観測も浮上しています)。

イスラエルに対してはそれ以前に、国際的な人権団体であるHRW(ヒューマン・ライツ・ウォッチ)とアムネスティが、パレスチナ人に対するアパルトヘイト(人種分離)を行なっているとの報告書を出しています。BLMはアメリカにおける「隠された人種差別」を告発しましたが、イスラエルでは明らかな民族差別が堂々と行なわれているというのです。

ところが不思議なことに、アメリカのリベラルな大学は「見えない差別」とたたかう運動にもろ手を挙げて賛同する一方で、学生たちが「(イスラエルの)見える差別」を批判するのを必死に抑えつけています。

その背景には、アメリカにおいてユダヤ人の権利団体が大きな影響力をもっていることや、私立大学がユダヤ系の富豪から多額の寄付を受けていることがあるのでしょう。大学当局は、BLMでは「レイシズムを容認するのか」と批判されることを恐れ、パレスチナ問題では「反ユダヤ主義」のレッテルをなんとしてでも避けようとしているのです。

2011年の「ウォール街を占拠せよ」では、2カ月にわたって路上や公園での座り込みが行なわれ、リベラルはこの運動を高く評価しました。ところが、若者の社会正義を鼓舞してきた知識人たちは、大学がわずか数日、占拠されただけで、(解体されるべきはずの)警察権力で非暴力の抗議運動を弾圧することを黙認しています。

「リベラル」を自称する者たちは、けっきょくは自分の保身しか考えていませんでした。大学占拠でパレスチナ問題が解決できるとは思えませんが、リベラルの欺瞞(きれいごと)とご都合主義を白日の下にさらしたことで、左派(レフト)の純真な若者たちの運動は十分な「成果」をあげたといえるでしょう。

『週刊プレイボーイ』2024年5月13日発売号 禁・無断転載

福祉国家の目的は「権力のコスパ」の最大化

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年6月15日公開の「デンマークという高度化した福祉国家の徹底した「権力のコスパ」政策」です(一部改変)。

Arcady/Shutterstock

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「自分の人生を自由に選択できない社会では、自己責任を問うことはできない」

おそらくすべてのひとがこの原則に同意するだろう。「奴隷が幸福になれないのは自己責任だ」などというひとは、すくなくともいまのリベラル化した社会には居場所がない。

だとすれば、論理的にはこの原則を逆にして、「人生を自由に選択できる社会では自己責任を問われることになる」はずだ。

「自己決定権」を最大限重視する北欧の国で「自己責任」はどのようになっているのだろうか。それを知るために参考にしたのが鈴木優美氏の『デンマークの光と影 福祉社会とネオリベラリズム』(壱生舎)だ。

参考:本人の意志と自己責任が徹底されたデンマークはどういう社会か?

『デンマークの光と影』は2010年の発売だが、ほとんど知られていない「世界でもっとも幸福な国」の内側を在住者の視点で観察したとても興味深い本なので、今回はいまの日本にとって示唆的な箇所を紹介してみたい。

国家の目的は「国民の幸福度を最大化すること」

デンマークが「世界幸福度ランキング」をはじめとするさまざまな指標で常に上位にいるのは、「西欧中心主義」だとか、自分たち(ヨーロッパ系白人)の価値観を基準にしているからではない(そういう影響もすこしはあるかもしれないが)。北欧の社会制度はやはり「進んでいる」し、それは今後、日本が目指すべきものだということを最初に確認しておこう。

デンマーク社会の根本にある思想を、鈴木氏は「最終的な福祉の責任を国が負っているため、国が国民を助ける動機づけがあること」だという。

悲惨な第二次世界大戦が終わって、国家の目的は「敵」を武力で倒したり、植民地を拡大することではなくなった。残された目的は「国民の幸福」だけだ。北朝鮮など一部の例外を除き、いまや国家の存在意義は「国民の幸福度を最大化すること」にある。これが「福祉国家」で、国民は自分たちの幸福度を向上させてくれることを条件として、政治家や官僚に権力(と暴力)を移譲する。

福祉を国家と国民の契約だとするならば、合理的な福祉国家は国民にお金をばらまくようなことはせず(そんなことをするとジンバブエやベネズエラのようなハイパーインフレになる)、最小限のコストで福祉を最大化しようとするはずだ。これが北欧の福祉国家で、ほんとうにヒドいことになる前に介入することで、権力行使のCP(コスパ)をよくしようとしているのだ。

それを鈴木氏はこう説明する。

国民が苦しんでいたり、不幸だと、国の経済的負担が増える。貧困、病気、アルコール問題などで苦しんでいる人も、早く国が助けなければ、最終的に病院などの施設で莫大な公費を使って養わなくてはならない。うつ気味でも無理して頑張って、けっきょく燃え尽きてしまったら疾病手当、治療費用、職場再復帰費用などがかかるため、それよりは軽度のうちに求職してもらったほうがいい、となる。国民が健康で恵まれて、就労し、納税し、幸せな国民生活を送ること(ウェル・ビーイング)が結局、国にとっての最小のコストで済み、国の競争力と成長を伸ばす。

日本においては、“リベラル”は福祉国家を「お母さんのように国民の面倒をみる」ことだと考え、それを保守派は「お母さんに迷惑をかけるな」と批判する。どちらにも共通するのは、国が母親のような存在になっていることだ。だがこれでは、北欧の福祉国家のリアリズムは理解できないだろう。福祉政策とはなによりも「権力のコスパ」なのだ。

スウェーデンなどと同じくデンマークでも「中央個人登録番号」と呼ばれる国民番号ですべてが管理され、電子政府化が進んでいる。これはジョージ・オーウェル『1984』のビッグ・ブラザーと揶揄されるが、彼らは気にしない。福祉のコスパを最大化するには、個人情報を行政に集中させたほうが効率的だからだ。

だがその代わり、情報を悪用させないような仕組みが徹底されている。それが「透明性(トランスペアレンシー)」で、誰がどの情報にアクセスしたかを利用者本人に開示するとともに、国家は権力行使の公正さを国民に説明しなければならない。日本のように行政機関が勝手に公文書を改竄・隠蔽するようなことは、国民の個人情報を独占する高度化した福祉国家ではありえないのだ。

もうひとつ興味深いのは、すべての行政手続きに対して市民に不服申し立ての機会が保障されていることだ。これは試験の結果や判定にも適用されるから、デンマークでは国家試験や公立学校の入学試験などの成績に対して不服申し立てをすることが当たり前になっている。こうした申し立てはかつては無料だったが、案件の処理に時間がかかるため、抑止効果を狙って2010年3月から1件150クローナ(約2400円)の事務手数料を徴収することになったのだという。

1人あたり年間21日の病欠

日本では有給休暇は自分や家族の病気などなにかあったときに「会社にお願いして」取得するもので、有給を使わないことが会社への忠誠心を示すとされている。だが高度化した福祉国家にはこのような前近代的な“掟”はなく、デンマークでは有給休暇とは別に、自分はもちろん子どもの病気やケガが理由でも出勤しない権利が法律で保障されている(子どもが病気の場合は公的に欠勤できるのは両親の片方)。

本人が病気の場合は職場に連絡を入れるだけでよく、病気の社員に「いつから出勤できるか」尋ねて心理的な圧力をかけることは禁止されている。翌日から出勤できそうな場合は本人が昼12時までにその旨を連絡し、連絡がなければ、職場のほうで欠勤は続くものと考える必要がある。所得の保障は契約形態によって異なるが、最初の日だけ、あるいは2日目も有給のこともあり、月固定給の場合には病欠があっても減給されない。

子どもの病気を理由に欠勤する条件は、子どもが18歳未満であること、子どもが同じ世帯に暮らしていること、子どもの看病を理由として在宅勤務が必要とみなされること、自宅にいても職場とのメールや電話などで連絡がとれる状態にあること、などだ。

だがすぐに気づくように、寛容すぎる福祉はフリーライド(ただ乗り)やモラルハザードの温床になる。2000年代に入ってからのデンマークの“右傾化”は、移民問題とともに、こうしたモラルハザードに対処する必要が生じたことで説明できる(「移民のフリーライド」が政治課題になったように、この両者は通底している)。

例えば、コペンハーゲン市が4万6000人の地方公務員(保育士や小中学校の教員、老人ホーム職員を含む)を調査したところ、平均して1人あたり年間21日間病欠していることがわかった。これによって8億3000万クローナ(約132億8000万円)が疾病手当に使われたという(以下、日本円への換算は鈴木氏の著作に準拠した)。

疾病手当の給付期間は基本的に最長1年だが、その後に職場復帰する率は32%というデータもある。長期で病欠する3人に2人は、疾病手当が切れたら「働ける見込みがない」として障害年金手当の受給などに切り替えるのだ。

こうした事態に業を煮やした右派政権は、2009年7月から、疾病手当の受給を開始して9週目以降になっても活性化プログラムに参加していない場合、国は給付にともなう費用の35%しか自治体に償還しないと決めた。活性化プログラムは後述するように、失業者を教育訓練によって労働市場に戻すためのプログラムだ。

病態によっては教育訓練コースに参加できない場合もあるだろうが、そうなると自治体は疾病手当の65%を自腹で賄わなければならない。その結果いまでは、8週間(2カ月)を超えて病欠する者は半ば強制的に職業訓練コースに送られるようになったという。

働かざる者、失業手当を受給すべからず

デンマークの疾病手当からわかるのは、高度化した福祉国家では福祉給付は手厚いが、それを悪用する者にはきわめてきびしいということだ。モラルハザードを防がなくては福祉制度そのものが崩壊してしまうのだから、これは当たり前でもある。

先に述べたように、福祉国家の基本的な戦略は、失業のような不慮の事態に対して素早く介入し、一人でも多くの国民を再教育して労働市場に送り返すことだ。彼らはふたたび働いて税金を納めるのだから、これが国民負担を抑えるもっとも効果的な方法なのだ。

こうした政策は「福祉から労働へ」と呼ばれるが、デンマークではそれが徹底している。失業手当は「次の(よりよい)仕事に就くための準備期間」を支えるためのもので、求職活動だけでなく、大学に戻ってMBAなどの専門資格を取得することも推奨されるが(だから高等教育も無償化されている)、雇用保険料を払った「権利」としてなにもせずに受給することは許されない(日本では多くの場合このパターンだ)。

デンマークの失業手当は1994年には最長給付期間が7年で、それが4年になってからも「世界でもっとも恵まれている」とされていた。OECD29カ国ではベルギーとアイスランドの給付期間がより長いが給付額は低い。隣国のスウェーデンは最長14カ月で、デンマークでも失業手当のモラルハザードが批判されるようになったことで2010年7月に最長2年に短縮された。

失業手当はの受給条件は、過去1年間以上失業保険基金に加入しており、なおかつフルタイムは過去3年間に52週間以上、パートタイムは34週間以上就業していた実績があることで、失業したその日からジョブセンターに求職者として登録し、すぐにでも職に就けるようにしておかなければならない。

給付額は前職の給与の90%を限度額として、フルタイムでは、最大で日に725クローナ(約1万2000円)、週に3625クローナ(約5万8000円)、パートタイムでは最大で日に483クローナ(約8000円)、週に2415クローナ(約3万9000円)となっている(2009年、課税前)。

ちなみに日本の雇用保険は、自己都合の場合給付まで3カ月の待機期間があり、給付は雇用保険の加入期間10年までが最長90日、10年超20年が120日、20年超が150日となっている(会社都合の場合は待期期間がなく、給付期間も最長330日)。給付額の上限は年齢ごとに設定されているが、30歳未満で約6300円、もっとも高い45歳以上60歳未満で約7700円となっている。

デンマーク政府は1人でも多くの失業者を「再労働化」するためにさまざまな活性化プログラムを導入している。失業手当を給付する条件は(1) 自分にできると思える仕事はどんなものでも積極的に探し、活性化プログラムなどには積極的に参加すること、(2) ジョブセンター、失業保険基金、あるいは必要に応じてその他の機関との面談や相談に参加することで、そうしないと受給額減額といった罰則がある。

近年はとくに、30歳未満の者に対して教育訓練を中心としたきびしい内容になっている。2008年9月から、失業手当を受給しはじめて3カ月後には活性化プログラムへの参加が義務づけられるようになり、それに加えて「強化された若者向けの活性化プログラム」では、ジョブセンターが斡旋する同一の職に6カ月間従事することが給付の要件とされるようになった。だが失業者を臨時で長期間受け入れるのは自治体の保育施設などしかなく、嫌気がさした若者は障害年金に流れるようになった。

障害年金は、いったん受給が決定されればそのまま一生涯受給権があるが、受給者が増えたことで30歳未満の若者には5年ごとに再判定を義務づけるとか、3年分の受給認定とすべきとの議論が起こっているという。「30歳未満の若者」の前には、いうまでもなく「移民出身の」という暗黙の前提がある。

2008年4月からは、失業期間中に週4件の求職活動をしなければ失業手当が停止されるというさらにきびしいルールが課せられることになった。これはさすがに非現実的として社会問題になり、怒った失業者は、この決定をした雇用省の大臣ポストにこぞって応募し、6カ月間に220通もの応募書類が届けられた。

企業の側も失業者からの大量の求職の処理に追われ、ある通信会社は、失業者が応募書類を送ると、「応募ありがとうございました。あなたのプロフィールに適合する仕事はありませんが、政府が週に4通の応募書類を書くことを要件としているうちは、またこちらに応募していただいて結構です」と自動返信を送るようになった。その結果、あまりに不評のこのルールは実施からたった10カ月で廃止されたという。

働かない者は生活保護も受給できない

デンマークでは、失業者は以下の「マッチグループ」に分類される。

・マッチグループ1 3カ月以内に就労する見込みがある者
・マッチグループ2 3カ月以内の就労は見込めないものの、就労に向けたコースに参加すると判定された者
・マッチグループ3 就労にも就労に向けたコースへの参加にも適さないと判定された者

これは労働市場にどれだけ「マッチ」しているかで判定され、もっとも「マッチ」が困難なグループ3では、清掃やコピー取りといった単純作業が斡旋され生活保護の対象となる。それすら不可能な身体的・精神的な障がいがあると見なされた場合は障害年金を受給する。

生活保護の受給資格をもつのはデンマーク国籍のほか、欧州経済領域の国(EU27カ国とノルウェー、リヒテンシュタイン、アイスランド)の国籍をもつ者、およびこれらの者と家族関係をもつ者となっている。家族が滞在許可を得るためには銀行に預託金(6万11クローナ、およそ96万円。2010年基準)が必要で、この口座は永住権が得られるまで通常7年間凍結される。もしその間に生活活保護を受給すると、自治体がこの口座から差し引くことになっている。これは生活保護受給を目的とした移民や偽装結婚を防ぐための措置だろう。

生活保護費は、最初の6カ月の支給額は25歳未満で親と住んでいる場合で2956クローナ(約4万7000円)、25歳以上で実家を出ている場合には6124クローナ(約9万8000円)、扶養家族のいる場合には1万2000クローナ(約20万2000円、いずれも2009年。月額・課税前)。ただし配偶者の収入によって課税される場合もある。

寛大な保護費に対しても、近年はきびしいモラルハザート対策が取られるようになってきた。

2007年4月1日から「300時間ルール」が発効し、夫婦2人が生活保護を受給している場合、今後は2人とも最低過去2年間に300時間働いていないと、1人分の生活保護給付を失うことになった。週37時間フルタイムで働けば8週間ほどで達成できる計算だが、これまでの就労要件が150時間だったことを考えるとかなりの締め付けだ。

その後の調査によって、「300時間ルール」の導入によって生活保護を失った者の92%が、デンマーク以外の民族的背景をもつ「非西洋諸国からやってきた外国人」であることが明らかになった。この規制は、「デンマーク国民の税金で福祉の恩恵を受けている移民・難民を排除する目的でつくられた」ものなのだ。

さらに別の調査は、生活保護を失った400人のうち、その後正規労働に就いた者は2%、時間給労働に就いた者は11%しかいないことを明らかにした。30%は病気や育児休暇を申請し、8%は労働市場で働く能力がまったくないとみなされ、重度の疾病等のため就労が免除される「聖域」に移された。

それにもかかわらず「300時間ルール」は成功とみなされて、2011年7月以降はよりきびしい「400時間」ルールに移行したという。

教育無償化がコスパ至上主義を生んだ

安倍政権がちからをいれる「教育無償化」との関連で興味深いのは、デンマークの教育改革だろう。他の北欧諸国と同様に、デンマークはいちはやく大学までの無償化を実現した。

デンマークはEUの平均である5.2%を大幅に上回る8.5%を小・中学校の基礎教育に充てており、世界でも学校教育に対する公的支出のもっとも高い国のひとつだだ。しかしそれにもかかわらずPISAなどの国際学力調査で期待するほどの成果が出ず、公教育は批判にさらされている。

デンマークでは、6歳から16歳までの10年間が義務教育で、それ以降の中等教育は職業教育学校(いわゆる専門学校)、高等学校(商業高校、工業高校、普通高校)、個人の事情にあった特殊教育(見習いとして学ぶ生産学校など)の3つの系列に分かれる。どれも授業料が無料であることはもちろん、奨学金、あるいは見習い賃金のようなかたちでささやかながら生活費が保障されている。

日本と比べればはるかに恵まれているが、それでも2000年には83%だった中等教育の修了率が2006年に80%まで下がってしまった。

中途退学率が高いのは、職業訓練課程の男子生徒が授業のレベルに不満を感じ、修了しなくても就労に支障がないと退学するからだという。そのため業を煮やした教育大臣は、学校への助成金を修了率に比例させ、「経営努力」を促す改革に踏み切った。

こうした事情は高等教育でも同じで、2005年にアナス・フォー・ラスムセン首相は「(大学は)社会が必要としているものを研究すべきであり」「生産物を調達する者に対して資金を出そう」と演説した。科学大臣も「もっとも優れた研究者により多くの資金を与える」との声明を出している。

こうして2010年から、研究者の業績を国際的なジャーナルの引用回数や出版物の数で計り、その数値に応じて研究費を割り当てることが決まった。これは「計量書誌学的研究指標」と呼ばれ、レベル1とレベル2があり、レベル1は(デンマーク語の)論文1本で1ポイント、著書は1冊で5ポイント、レベル2は英語の学術誌の論文が3ポイント、英語圏の有名出版社からの著書が8ポイント、そのほか博士論文は2ポイント、その上の学位となる大博士論文は5ポイント、特許は1ポイントなど細かな数値が指定されている。

こうした改革(改悪)については当然、研究者の非難や怨嗟の声が殺到しており、「自然科学など理系の分野を偏重し、社会科学や人文科学の価値を軽んじる」とか、「英語での研究成果がデンマーク語より格段に高ポイントなのは不公正」だとかいわれているようだ。実際に、英語圏での関心が期待できないデンマークの国内文化や歴史の研究領域では、英語で発表する機会がもてず低いポイントにとどまり、補助金の獲得も難しくなっているという。

日本でも文科省主導の大学改革で、文学部などの人文科学系学部は「組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」とされ、大学教員らが強く反発しているが、こうした改革は先行する欧米諸国を後追いしたものだ。

デンマークにおける一連の教育改革の理由は「国際競争力を強くするため」で、より少ない投資でより大きな成果を上げることが求められている。教育を無償化したデンマークでは、日本より徹底して「教育の自己責任」が問われているのだ。

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本人の意志と自己責任が徹底されたデンマークはどういう社会か?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年3月29日公開の「懲罰的な意味合いの強い日本と違う 幸福度世界第3位のデンマークの「自己責任」論」です(一部改変)。

Pcala/Shutterstock

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日本ではこのところずっと、「格差」と「自己責任」が議論になっている。社会学者・橋本健二氏は『新・日本の階級社会』(講談社現代新書) のなかで、SSM調査(1955年以来、10年に一度、全国規模で無作為抽出によって実施されている社会学者による日本最大規模の調査)を用いて自己責任論の広がりを指摘している。

2015年のSSM調査には「チャンスが平等に与えられているなら、競争で貧富の差がついてもしかたがない」という設問があり、その回答をみると、全体の52.9%が自己責任論に肯定的で、とくに男性では60.8%に達する。自己責任論に否定的なのは全体で17.2%、男性では15.6%にすぎず、女性でも18.6%しかいない。

特徴的なのは「格差の被害者」であるはずの貧困層でも44.1%が自己責任論に肯定的で、否定的なのは21.6%にとどまることだ。「貧困層のかなりの部分は、自己責任論を受け入れ、したがって自分の貧困状態を、自分の責任によるものとして受け入れているのである」と橋本氏は述べている。

同じSSM調査から、2005年と2015年で格差拡大を肯定・容認する比率を見ると、富裕層では高く(2015年では37.0%)貧困層では低い(同23.7%)のだが、この10年間で富裕層では1.2ポイント上昇したにすぎないが貧困層では6.3ポイントも上昇している。貧しいひとほど格差拡大を容認するようになったという奇妙な現象の背景にも「自己責任論」がありそうだ。

「日本的雇用を守れ」と叫ぶリバラルは「差別」に加担している

自己責任が「自由の原理」であることはいうまでもない。自分の行動に責任をとれない人間が自由の権利だけ主張できないのは当然のことだ。しかしその一方で、すべてを「自己責任」で片づけることもできない。

奴隷制社会において、奴隷が幸福になれないことを「自己責任だ」というひとはいないだろう。自分の人生を自由に選択できないのであれば、その結果を本人の責任に帰すことはできない。――これもすべてのひとが同意するだろう。

私はこの何年か、「日本は先進国の皮をかぶった前近代的身分制社会」だと述べてきた。日本社会では「正規/非正規」「親会社/子会社」「本社採用/現地採用」などあらゆるところで「身分」が顔を出す。日本人同士が出会うと、まず相手の所属=身分を確認しようとするが、こんな「風習」は欧米ではもはや存在しない。日本ではずっと、男は会社という「イエ」に滅私奉公し、女は家庭という「イエ」で子育てを「専業」にする生き方が正しいとされてきた。

「新卒一括採用」は世界では日本でしか行なわれていない“奇習”で年齢差別そのものだが(日本の労働法でも違法で、そのため厚労省が適用除外にしている)、そこで失敗すると「非正規」という下層身分に落ちて這い上がることは難しい。「(子どものいる)女性」や「外国人」も同様で、会社に滅私奉公する(男性)正社員とは異なる身分として扱われる。このような社会で「自己責任」を強く主張することは、「日本人・男性・中高年・正社員」という属性をもつ日本社会の主流派の既得権を守ることにしかならない。

だがその一方で「リベラル」を自称するひとたちは、自己責任論を批判して「日本的雇用を守れ」と主張することで、結果として「差別」を容認している。いま必要なのは、すべての労働者が身分や性別、国籍に関係なく「個人」として平等に扱われるグローバルスタンダードのリベラルな労働制度に変えていくことだ。――これが私の立場だが、ここではこれ以上「自己責任論」を開陳するつもりはない。

私の興味は、次のようなことだ。

「すべてのひとが自分の人生を自由に選択できない社会では、自己責任を問うことはできない」。この原則に合意するのなら、それを逆にして、「人生を自由に選択できる社会では自己責任を問われることになる」はずだ。

「自由(自己決定権)」と「自己責任」は実際にこのような関係になっているのだろうか。そこでここでは、鈴木優美氏の『デンマークの光と影 福祉社会とネオリベラリズム』(壱生舎)にもとづいて、自己決定権が最大化された北欧の国で自己責任がどのように扱われているのかを見てみたい。鈴木氏がデンマークの大学の博士課程(心理学・教育学研究科)在学中に執筆したもので、2010年の刊行だがいま読んでもとても刺激的な本だ。

デンマークでは「本人の意思」がすべて

デンマーク社会の「自己責任」について、鈴木氏は自身の体験から以下の3つの例を挙げている。いずれも日本では考えにくいケースだろう。

(1) ひどく乱雑な部屋で一人暮らしを続ける高齢の女性。彼女の生活が、大きな写真とともにある日の新聞の一面記事で扱われた。彼女はホームヘルプを受けながら暮らしているが、目がよく見えないため掃除も行き届かず。部屋は目を覆わんばかりの状態だ。自治体から派遣されるホームヘルパーは、やるべき仕事だけを済ませるとさっさと帰っていく。コンロに焦げついた鍋があっても、床に何かがこぼれていても、それらに手をつけるのは責任範囲ではなく、ヘルパーたちには余分なことをする時間的な余裕もない。こんな状態であっても、本人が一人暮らしを望みつづけるあいだは「もう自立生活は難しいから、老人ホームに入るべきだ」と干渉することはない。

(2) 交通事故で脳挫傷になり、重篤な状態で入院した(鈴木氏の)友人の男性。開頭手術をくりかえし受けつつ、リハビリを続けていた。しかし、退屈な病院での生活に嫌気がさし、ある日、自主退院を決めて「脱走」。まだ退院が許されたわけではなかったが、本人の意思である以上、強制的に再入院はさせられない。病院からの措置はとられず。その後も彼は予定された手術をすっぽかし、アパートで飲酒・喫煙をする生活を続けた。結局、数か月後にアパートで息を引き取っているのが見つかった。家族もないため、アパートは競売にかけられ、本人は無縁墓地で眠っている。

(3) 軽度の認知症をもち、筆者(鈴木氏)の勤務する老人ホームに入っているある女性。うつの傾向があり、過剰に飲酒をする。ほとんど介護も要らず、足腰も丈夫なため、カートを引いて重い「瓶」をたくさん買ってくる。ホームの職員はそれを承知のうえで、「いってらっしゃい」と送り出すしかない。そして食事をほとんど摂らないままに、朝からビール、昼間からワインという生活を数年間続けている。自分で身のまわりのことができるため、職員がするのはあまり手のつけられることのない食事を運び、抗うつ剤を投与するくらいだ。他の入居者との交流も好まないため、そのあいだもひとり部屋にこもって数知れない空き瓶を生み出していく。本人のお金で、自室で飲んでいるのだから、当人の自由という理解だ。

デンマークでは「本人の意思」がなによりも尊重される。子どもが幼稚園や学校に入る年齢は発達段階に応じて親が自ら決定できるし、学力達成度に不安があれば留年もでき、学区などに関係なく学校は自由に選べ、自分に合わなければ変えられる。子どもを学校に通わせずに個人指導で学習させることも可能だ。

学校にはジュースや果物を間食として持ってきて、授業中でも食べることができる。自由な学習形態を売りにしている学校では、生徒の学び方に合わせて、廊下や床に寝そべって勉強したり、音楽をイヤホンで聴きながら課題に取り組むことも許されるという。

高齢者に対しても同様に本人の意思が最大限に尊重され、ホームヘルプ制度などを利用して自治体は高齢者の自立した生活を支援し、老人ホームに入るのは本人が同意してからだ。その老人ホームでも飲酒や喫煙ができ、訪問者の差し入れや訪問時間が管理されることもない。

「その人なりの生き方を許容するのがデンマーク社会であり、人に価値を押しつけたり、型にはめるために矯正することはない」と鈴木氏はいう。この国では、どんなひとであっても、「あなたはあなたのままでいていい」のだ。

ドラッグ濫用もホームレスになるのも自己責任

個人の意思をなによりも尊重する社会では、食べ過ぎで太るのも、アルコールやドラッグを濫用するのも、ドロップアウトしてホームレスになるのも本人の自由=自己責任ということになる。

デンマークでは「1日に6つの野菜・果物を600グラム食べよう」「魚を週2回食べよう」などの健康キャンペーンがさかんに行なわれているが、過体重や肥満を患う国民は激増している。2001年の調査ではデンマーク人の男性の42%、女性の37%がBMI25から29.9の「過体重」で、成人全体の15%がBMI30を超える「肥満」だった。

子どもの肥満も深刻で、14歳から16歳の過体重は30年前に比べて3倍に増加した。専門家によれば、いまや14%の子どもが過体重にあたり、低年齢の7歳から10歳までの女児では5人に1人以上が過体重だという。

子どもの肥満はいじめを受ける最大の原因で、自信喪失や学業の妨げになっている。そのため一部の学校では完全無料の給食制度で肥満を防ぐ試みが始まっており、自治体では栄養学、教育学、心理学など分野を超えた専門家が集まって過体重児の治療をしている。ただしここでも「個人の意思尊重」の原則は貫徹されており、「いかなる援助も子どもに強制するものであってはならず、当人が助けを求めてはじめて発効する」とされている。

デンマークの法律は「16歳未満の若者に対してアルコール飲料を販売してはならない」「レストランやバーなどは18歳未満の若者にアルコール飲料(ライトビールなら可)を提供してはならない」としているだけで、親が買ってきたアルコール飲料を自宅で飲むことにはなんの規制もない。

その結果、14歳以上のデンマーク人は平均して1人あたり年間11.6リットルの純アルコールを消費している。これは毎週フルボトルのワインを2本以上飲んでいる計算で、アルコ―ル関連の疾患は全死因の6%にものぼる。

度を超した飲酒行動に加え、青少年のあいだではエクスタシー、コカイン、アンフェタミンなどの薬物が広がっている。デンマークは薬物濫用による死者の割合がヨーロッパでもっとも高い国のひとつで、人口100万人あたりの薬物関連の死者数は50人を超える。それに対してスウェーデンは20人ほど、大麻など一部のドラッグが合法化されているオランダは10人ほどだ。

薬物中毒の治療にはメタドンという鎮痛剤が使われるが、このメタドン自体も依存性が高く、ヘロインから抜け出すより難しいといわれる。そのためメタドンからより危険性の少ないブプレノフィンに変えることが勧告されているが、最初はあまり効かず、他の薬剤と混合して服用すると気分が悪くなることから患者にはあまり好まれない。

ここでも「患者本人の意思の尊重」は徹底しており。薬物中毒者の約3分の1を抱えるコペンハーゲン市では、「薬物濫用者に治療を受けさせ、治療を継続することが優先事項であるため、患者がメタドンが欲しいといえば与え、ブプレノフィンは嫌だといわれれば強制はしない」方針だという。

「有能な子ども」しか認められない社会

デンマークでは「自立Self-governance」「自由Freedom」「能力Competency」を重視する教育が1960年代にはじまり、90年代には「(自律して自制心をもった)有能な子どもThe competent child」という概念が成立した。「有能な子ども」は自らの行動に責任をもち、自らの望みや利益・関心、気分について筋の通った説明ができる。また社会の要請を敏感に察し、自己洞察を身につけ、周囲から期待されているものを内在化する。

それとともに、これまで親の責任とされてきた「子育て」が、行政と子ども自身で責任を分け合うものへと変貌した。移民のなかには子どもを保育所に入れたがらない親もいるが、「公共保育を通じて言語能力や社会性が培われる」との理由から「親の無責任」は許されず、90年代にはほぼ100%の子どもが保育所に通うようになった。子どもの権利条約が採択されると、「子どもの成長に責任の一端を握るのは子ども自身」という教育論が確立した。

このようにして育てられた「有能な子ども」たちが「自立した市民」になっていくのだが、誰もが社会の要請を理解し、期待に応えていくほど強くいられるわけではない。「国家が規範として求める自立・自律のスタンダード」を満たすことができず、孤独やストレスからアルコール、薬物、過食・偏食などにつかの間の安らぎを見出す者も出てくるのは、ある意味自然なことだ。

こうした反省から、政府は「過剰な個人の自由」を再定義し、新保守主義的な道徳観への転換を試みているという。これがデンマークにおける「ネオリベ化」だ。

「有能な子ども」から「自立した市民」に成長するのは国民の義務なのだから、「デンマーク人以外の民族的背景をもつ」国民、すなわち移民2世・3世にも適用される(ちなみにこれは、デンマークにおける「移民」の政治的に正しい表現だ)。この国では、「自己責任のとれる自律した個人」でなければ居場所はないのだ。

その結果、移民の若者が中等教育をドロップアウトすることが社会問題になると、教育大臣は「子どもに無断欠席を許すのは親の管理が行き届いていないからだ」として、親に罰金を科すことを提案した。18歳未満の子どもをもつ親には「子ども小切手」が支給されるが、子どもが長期欠席している場合はこれを減額あるいは停止するというのだ。「極右」のデンマーク国民党からは、1週間の不当欠席で2000クローナ(約3万2000円)の罰金という提案も出された。「態度が悪かったり、物を壊したり、学校に通わなかったりする生徒やその親に対しては、さらなる措置を検討したい」との教育大臣の発言もあった。

こうしてみると、北欧の国では「自己責任」が移民排斥の正当化に使われていることがわかる。デンマーク社会が寛容なのは、移民の子どもたちが自らの意思で「有能な子ども」になろうとする場合だけなのだ。

自己責任の社会は居心地がいい?

ここで強調しておかなくてはならないのは、デンマークが「個人の自由と自己責任」を過剰に強要する社会だからといって、それが国民を不幸にしているわけではないことだ。

デンマークはOECDで3番目に抗うつ剤の消費量が多い国(1番はアイスランド)で、自殺率も高い。ただしこれは冬の日照時間が短い影響が大きく、自殺件数は1980年頃のピークから4割程度まで下がった。

それにもかかわらず、2006年に発表されたイギリス・レスター大学の心理学研究者エイドリアン・ホワイトの「世界の幸福度調査」でデンマークは1位になり、2008年にミシガン大学のロナルド・イングルハードらの世界幸福度調査でも「1981年から2007年でもっとも幸福な国」に選ばれたことで一躍注目を集めた。最新の国連「世界幸福度ランキング」(2018年3月14日発表)でも、デンマークはフィンランド、ノルウェーに次いで第3位になっている(日本は54位)。

これは、自己責任の社会でも自由な選択が認められているのなら、ひとびとの幸福度は高いということなのだろう。ネオリベ適性の高いひとにとっては、「福祉が充実した自己責任の社会」は居心地がいいのだ。

デンマークで暮らす鈴木優美氏は、日本語の「自己責任」には「自業自得」「因果応報」というニュアンスが込められているが、デンマーク語では「他人/公への必要以上に拡大した依存心を減らして、自分でできることは自らの力でかなえるべき」という「強い者の(援助なしでの)自立」を謳っているように感じられるという。

「大きな政府がなんでも面倒を見てくれるために、自分で何ができるかを考えてみることもせずに、公にサポートを要求するような無責任な国民を生み出している」という自己責任論の高まりを受けて、デンマーク政府は“ネオリベ”的な小さな政府を目指し、2008年に「私の責任」という会議を開催した。

ここで興味深いのは、「高齢者を大切にして、家族の温かさを取り戻そう」という政府の「道徳キャンペーン」に対してアンケートに答えた75%の国民が、「家族が高齢者の面倒を見ることを法律で義務付けるのは反対」とこたえていることだ。デンマークの息子や娘たちは、親の面倒を見ることで自分たちの「自由」が侵害されることを理不尽だとして、高齢者の面倒はこれまでどおり国・自治体がみるべきだと考えているようだ。

ただしその際には、あくまでも高齢者の意思を尊重して、本人が望まない過剰な世話を焼く必要はいっさいない。このようにして、福祉社会と自己責任は折り合いがつくのだろう。

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