2024年4月14日日曜日

IKKUBARU:『DECADE』


 海外での再評価を背景に現在も続くシティポップ・ブームにおいて、インドネシアで活動するAOR~シティポップ・バンドのイックバル(IKKUBARU)が、デビュー10周年を記念したサード・アルバム『DECADE』(CA VA? RECORDS / HAYABUSA LANDINGS / HYCA-8070)を4月20日にアナログLP盤でリリースする。
 
 本作は“RECORD STORE DAY 2024”のアイテムであり、前アルバル『Chords & Melodies』からは実に4年振りとなる。 2021年08月の『Summer Love Story』、2022年12月の『Lagoon』の各7インチ、昨年7月の8cm CDの『The Man In The Mirror』といったシングルのタイトル曲も含め全10曲を収録している。
 これまでの作品同様に全曲がフロントマンのムハンマド・イックバル(Muhammad Iqbal、以降ムハンマド)によるソングライティングで、プロデュースとミックスも彼自身が担当しており、マスタリングはマイクロスター佐藤清喜が担当し、上記で挙げたシングル同様である。そして南国感溢れるジャケット・イラストレーションにも触れるが、KADOKAWA発行の隔月刊漫画誌『青騎士』連載中で単行本化もされた「音盤紀行」が、音楽ファンの間でも知られる、漫画家の毛塚了一郎(けずか・りょういちろう)が本作でも担当している。今年1月に弊サイトで紹介した秘密のミーニーズの『Our new town』のジャケットでも、その緻密で印象に残るイラストレーションを描き下ろしていたので記憶に新しいと思う。 


 バンドのプロフィールも紹介するが、彼らはムハンマドを中心として、2011年にインドネシアのジャワ島西部の州都バンドゥンで結成された4人組で、ムハンマドはボーカルとギター、キーボードを担当し、ギター兼ボーカルのRizki Firdausahlan、ベースのMuhammad Fauzi Rahman、ドラムのBanon Gilangの4名から構成されている。2015年に来日公演をして、TWEEDEES、脇田もなり、RYUTistなど国内アーティストとのコラボレーションも多く、昨年7月には日本テレビの番組『世界一受けたい授業』のシティポップ特集にも出演して、その知名度を一般層にも広げていた。
 筆者はムハンマドが作曲し、TWEEDEESの清浦夏実が作詞してRYUTistに提供した「無重力ファンタジア」をいたく気に入って、リリースした2018年に年間ベストソングに選出している。タイムリーにもその「無重力ファンタジア」を清浦がセルフカバーし、ソロ・ミニアルバムBreakfastに収録して、3月15日に配信リリースしたばかりなので、そちらも是非チェックして欲しい。

 
 IKKUBARU『DECADE』Album Teaser 2024 

 ここでは本作収録の全曲を解説していく。
 冒頭の「Horizon」とB面2曲目の「Out of Your Love」は、21年6月リリースの『Amusement Park・Expanded Edition』のディスク2に収録されていた既出曲で、尺が異なるので今回のアナログ用にミックスを変えていると思われる。前者はミッドテンポのシャッフルビートのドラムに、太いシンセベースからなるリズムトラックに、ギターのアルペジオが絡む軽快なポップスで、80年代中期のUKシンセポップにも通じるので懐かしむ読者もいるだろう。後者は左右チャンネルのギター・カッティングのイントロが耳に残り、やはりシンベによるグルーヴが曲を支えている。ムハンマドのボーカルに絡むRizkiのコーラスも効果的だ。
 A面2曲目の「Sound of Rainfall」は、風通しのいいソウル経由ボサノバのリズムと情熱的な歌詞のコントラストが印象的なラヴソングで、女性シンガーのMirna Nurmalaがバッキング・ボーカルで参加して、ストーリーをうまく演出している。
 続く「Catch The Love」はイントロから80年代初期の日本のカシオペアからの影響を一瞬感じさせるが、本編はソウルフルなムハンマドのボーカルをRizkiが高域のコーラスで引き立てた歌ものとして完成度が高い。またゲスト・パーカッショニストのRezki Delian Kautsarによるコンガや、クレジットはないがサックス・ソロ、ムハンマドにプレイと思われるシンセ・ソロなど演奏面でも聴き応えがある。
 ミッドテンポ・バラードの「Karena Cinta」では、再びMirnaがバッキング・ボーカルで参加して、70年代ブルーアイド・ソウルの雰囲気を醸し出した良曲だ。ディレイを効かせたRizkiのギター・リフも効果的である。
 A面のラスト曲「Summer Love Story」はレビュー前文で紹介した通り、2021年8月に7インチで先行リリースされている。故ジェフ・ポーカロが70年代後半に編み出した”ポーカロ・シャッフル”に影響されたドラミングを持つヴァース、ジェイ・グレイドン風のRizkiによる間奏のギター・ソロなどから、アル・ジャロウの「Breakin' Away」(82年/同名アルバム収録)のオマージュというべき良質なサマーAORなので必聴だ。ゲスト・ミュージシャンとしてトランペットのWisnu Mawl、トロンボーンのAldy Nugraha Noor Maasirが参加している。

 
Ikkubaru - Summer Love Story (Official Music Video) 


 B面冒頭の「I Will Be」は、オールド・タイミーなローファイ・ピアノとプログラミングされた簡素なリズムトラックにアコースティック・ギターが絡む、スローなニュージャックスイング系リズムのナンバーで、ここでもソウルフルなムハンマドのボーカルと、それをバックアップするRizkiのコーラスのコンビネーションも良い。
 バラードの「So Real」はドラムレスで、エレピとベースのみのオケで歌われるが、ハンマドのボーカルをバックアップするコーラス・アレンジが素晴らしく、曲の良さを引き出していて何度もリピートして聴き込みたくなる。
 「LAGOON」は2022年12月の7インチで、オーバードライヴが効いたRizkiのギター・プレイから高中正義の「BLUE LAGOON」(1980年)へのオマージュと思しき曲で、高中ファンだった筆者は一聴して好きになってしまった。ゲストのRezkiによるコンガの他、複数のパーカッションも効果的に配置されて、サマーアンセムとして素晴らしい仕上がりである。
 B面ラストで、昨年7月の8cm CDでリリースされた「The Man In The Mirror」は、完全にスウィート・ソウルのサウンドと歌唱であり、IKKUBARUとしては新境地のサウンドになるだろう。この手のソウルも大好きな筆者も一聴して気に入ってしまった。 

 なお本作『DECADE』は“RECORD STORE DAY 2024”のアイテムにより数量限定なので、筆者の解説を読んで興味を持った音楽ファンは、リンク先のオンラインショップ等で早期に予約して入手することをお薦めする。 

 ディスクユニオン予約:https://diskunion.net/indiealt/ct/detail/1008800850 

(テキスト:ウチタカヒデ

2024年4月7日日曜日

なぜ今、「We Are The Wolrd」のドキュメンタリーだったのか――『The Greatest Night in Pop』が伝えたかったこと

歌に魂が吹き込まれた瞬間を、いま、ドキュメンタリー映画で目撃する

 「We Are The World」がリリースされたのは、1985年3月28日。アメリカの音楽界、そして多くのスーパースターが燦然と輝いていた時代だ。



      

                                                           
 私はこの「We Are The World」のシングル盤を持っている。このシングルが発売された頃は、ベストヒットUSAなどで盛んにMVが流れていた。大好きだったミュージシャンが何十人も一堂に会して、顔をつきあわせて歌っているその姿に目をみはり、かっこよくて、テレビで流れるたびに夢中になって見ていた。ちょうどその頃、兄がアメリカに出張に行くという話を聞き、 「買ってきて~!」と頼んだのだった。

 Netflixで、We Are The World」のドキュメンタリー映画『The Greatest Night in Pop』を見ていたら、シングル盤が発売され、レコードショップに並べられて、多くの人が手に取っている場面があった。兄もアメリカのどこかのレコードショップで、こんなふうに買ってくれたのだなぁと、その様子を想像して、ふふっと笑顔になった。

 今日、久しぶりにシングル盤で聴いている。WebVANDAをご覧の皆さまにはこちらをどうぞ。



 今回取り上げるドキュメンタリー映画『The Greatest Night in Pop』は、2024年1月19日、サンダンス映画祭の特別上映の一環としてワールドプレミアが行われ、同月29日からNetflixにて公開された。

 映画では、この企画が生まれた瞬間から、秘密裏に(インターネットも携帯電話もない時代に)コツコツと計画を形づくっていく初期の詳細、レコーディング当日の舞台裏などが、未公開映像を含む当時の多くの映像と、ライオネル・リッチー、ブルース・スプリングスティーン、ヒューイ・ルイス、シーラ・E、シンディ・ローパーや、カメラマンやプロデューサーといったスタッフ、この曲にかかわったさまざまな人への新しいインタビューとともに描き出されている。

  ……にしても、なぜ今、なのだろう。「We Are The World」のメイキングなら、発売された当時に制作され、ビデオになり全世界で発売された。

 また、豪華スターが共演する「エイド」が盛んに行われるようになったきっかけは、1984年、イギリスのミュージシャンたちによる「Do They Know It’s Christmas?」であって、「We Are The World」ではない。ここまで大きなプロジェクトでなくても、1985年のライブ・エイドのためにデヴィッド・ボウイとミック・ジャガーが発表した「Dancing In The Street」もあるし、米国エイズ研究財団のためのチャリティーシングルとして発売された、ディオンヌ・ワーウィック&フレンズによる「That's What Friends Are For」が発売されたのも1985年11月で、これらも大きな売り上げをあげている。

 発売から39年もたった今、どうして、この曲のドキュメンタリーが制作されたのだろうか。ここ数年、1970年代、80年代のミュージシャン、ミュージックシーンを扱うドキュメンタリー映画が数多く制作されているので、その流れに乗って……と邪推できないこともない。しかし、実際に観て思ったのは、「これは、今こそ、表に出るべきものだ」という気持ちだった。

 監督は、バオ・グエン監督。ベトナム系アメリカ人。代表作には、2015年に放送40周年を迎えた番組「サタデー・ナイト・ライブ」を描いたドキュメンタリー『Live From New York!』(2015)、ブルース・リーのドキュメンタリー映画『BE WATER(水になれ)』(2020)がある。


「この夜しか不可能」秘密裏にすすめられた一大イベント

 きっかけは、ハリー・ベラフォンテ。歌手や俳優以外に社会活動家としても知られており、ハリウッドでの影響力はとても大きなものだったそうだ。そのハリーは、世界の貧困問題、特にアフリカの飢餓の問題に目を向けていた。当時、こうした報告がテレビで報道されることはあったが、多くの人にとって他人事だったと、ドキュメンタリーは語る。ハリーは、ハリウッドで芸能事務所をもち、アーティストに負けず劣らず有名人だったケン・クレーガンに相談を持ちかける。ハリーはこう言ったそうだ。「黒人を救う白人はいるが、黒人を救う黒人はいない。私たちが仲間を救わないと……」

 そして、ハリーがクインシー・ジョーンズに声をかけ、クインシーはライオネル・リッチーに連絡をする。これが、198412月のクリスマスの頃の話。

 事は一気に動き出す。曲は誰がつくるのか。誰に声をかけるのか。いつやるのか。売れっ子ミュージシャンたちは、数カ月先までスケジュールが埋まっている。普通に考えたら、その調整など、困難すぎる。

 ケン・クレーガン事務所のスタッフの話から、当時の緊迫感がドキュメンタリーから伝わってくる。プロジェクトは動き出した、もう止めることはできない、行動は今!……とでもいうような。プロジェクトの意味を考えたら、2年先では、もう遅いのだ。

 そして、あるスタッフの目に留まったのが、AMA(アメリカン・ミュージック・アワード)の夜。当時はAMAの全盛期で、ダイアナ・ロス、ホール&オーツ、プリンス、マドンナなどの出演が予想された。AMAが終わったあとの時間を使えば、ミュージシャンたちの予定も、負担も抑えられると考えた(まず出演自体がボランティア。この日以外にレコーディング日を設定すれば、ミュージシャンたちにはさらにスタジオへの移動にかかる費用や時間の負担をかけることになる……)。

 

レコーディングの日が決定した。1985年1月28日。そして、出演交渉がはじまる。

 

 「1985年、ぼくは人気絶頂で、ツアーも大成功だった」ブルース・スプリングスティーンが当時を振り返って語る。「飢餓の救済は解決すべき問題だった。でもいつも遠くから見ていただけだったんだ……」

 スプリングスティーンは1985年1月はツアー中で、AMAの前日がツアー最終日。疲れもあるだろうし、そもそも、普段はコンサート翌日に移動することはないということだったが、「急な話だった。普段はやらないが、大事なことに思えた」と、出演を快諾したそうだ。

 その後も、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、ダイアナ・ロス、ティナ・ターナー、ポール・サイモン、ベッド・ミドラー、ケニー・ロジャース……など、AMAに出演するミュージシャンを中心に、このプロジェクトに必要だと思われるミュージシャンに声がかけられ、どんどんと決まっていく。

 作詞作曲は、クインシーからの依頼で、ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンに託された。

 マイケルは楽器が弾けないため、ハミングでメロディをつくるのだという。その様子を見たライオネルは「神がかって見えた」と語るが、ふたりで知恵をしぼってもなかなか曲ができない。時間は過ぎていき、あのサビ部分「We are the world  We are the children~」が生まれたのが1月18日で、全体の歌詞とメロディが完成して、クインシーに音源を送ったのは1月20日。スタジオで仮歌をレコーディングして(仮歌を歌ったのは、ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソン、スティーヴィー・ワンダー)、必要分のデモ・テープをつくり、依頼書、楽譜の発送が行われたのが1月24日だった。なんと、本番のレコーディングの4日前である。

 ここで、あらためて気がつく。そうだよ、この頃、スマートフォンもなければ、インターネットもない。データで送るなんて、できないんだ。この極秘プロジェクトのデモ・テープと資料は、手紙をつけて郵送する、電話で確認する。あるいは、直接会って、手渡された。

 でも考えてみると、こんなに大きなプロジェクト。短期間の準備で成功したのはむしろ、メールやデータじゃなかったから可能だったのではないかと思う。データは便利だけど、やはりこの、人と人がつながって、企画が進んでいったことで、すでに「この時」から、歌に魂はこもり始めていたのだ。

  

ソロを歌うあの順番を決めたのは

 ソロを歌うミュージシャンは、どう決められたのだろう。人選もさることながら、あの絶妙な組み合わせも。

 デモ・テープ完成の2日後、1月26日。クインシーの自宅に呼ばれたのは、ボーカル・アレンジャーのトム・バーラー。トムはまず、ミュージシャン全員のレコードを聴き、彼らの声、声質、声域の研究を始めたそうだ。

 ドキュメンタリーの中で、トムは当時を回想して語っている。「ソロパートは半小節しかないが、その人らしい歌声やキーを出さなきゃいけない」 これはトムが最も大切にしたことだろう。「ティナ・ターナーはあたたかみのある声」「スプリングスティーンはダミ声。ケニー・ロギンスの声は透き通っていて、スプリングスティーンのあとにピッタリでした」「スティーヴ・ペリー、彼の声域には感動させられます」「シンディの声はパワフル」…………「でも、全員にソロパートはありません」

 声域の問題、声質、声の相性もあるだろうし、1つのマイクで肩を並べ、顔をつきあわせて歌うのだから、性格的な相性も推測できる範囲で熟慮したのだろうと、想像する。なにしろ、レコーディングできるのは、1月28日のAMAが終わったあとから、翌朝までの一晩しかないのだから(結果的には約10時間でレコーディングは終了)。


「エゴは置いてこいCHECK YOUR EGO AT THE DOOR)」

 スタジオの入り口には、こう書かれた紙が貼られたそうだ。書いたのは、クインシー・ジョーンズ。

 このプロジェクトに参加したのは、ロック界のレジェンドやスーパースター、個性的な若手の歌手、アメリカの音楽界を華やかに彩るスターばかり。自分流のやり方もある。それが50人近く。この言葉、クインシーでなければ書けなかったあろう……。

 でも、ドキュメンタリーを見ていると、みんな、すごく楽しそう(シングル盤ジャケットの裏面を見ても、よくわかる!)。実はミュージシャンたちは、みんな「ひとり」でスタジオに入っていたのである。

 A&Mのレコーディングスタジオはそれなりに広いスタジオだったが、それでも、ミュージシャン、カメラマンや技術スタッフなどを入れたら、相当な数になった。だから、マネージャーもエージェントも、スタジオには入れなかった。

 普段はマネージャーなどまわりに人がいるので、ミュージシャン同士がどこかで会うことがあっても、なかなかフランクには近づけない。まわりの目もあるし、あくまでもアーティストとしてのスタイルで振る舞うだろう。それが、このレコーディングでは、ひとり。みんな無防備だった。

 スタジオの中では、あ!と見つけては近づいていって、ハグをする人、楽しそうに話をする人。まるで、同窓会のような雰囲気。この時点ですでに、スターのヨロイは脱げてきていたのでは?という気もする。



 ……が、時間は夜の10時をまわっていた。いよいよレコーディングが始まる。はじめは、みんなで歌う合唱部分。決められた場所に並んでも、みんな、にこにこ顔。笑顔が悪いわけではないが、どこかオフの集まりのような和やかさ……。

ここでクインシーが、バンドエイドの提唱者ボブ・ゲルドフを紹介。言葉をもらう。

 「これから君たちがこの曲を歌うことで、きっと、何百万人もが救われる。1枚のシングル盤で命を救う経験は、君たちの記憶に刻み込まれるだろう。でもぼくたちは、飢餓を理解しているだろうか。……(中略)……。だからぼくたちは、今、ここにいるんだ。今夜、ここに集まった意義が、歌からにじみ出てくれたらと思う。プロジェクトの成功を祈る」

 

ミュージシャンたちの顔が弾きしまる。

 プロジェクトの意義をあらためて思うのと同時に、初心というと堅苦しいが、自分が音楽を目指そうとした想い、なかなかうまくいかなかった時代、若い頃のピュアな気持ち、歌を通して伝えたいこと、音楽のチカラ、そんなものも思い出していたのではないかという気がする。

そして、レコーディングが始まった。

  

歌に魂が吹き込まれた瞬間を、いま、映画で目撃する

  We Are The World」のMVを見ると、マイケル・ジャクソンが誰もいないスタジオでひとりでソロを歌っている場面がある。ダイアナ・ロスとのデュエット部分は、みんながいるスタジオで歌っているが、このひとりで歌っている場面はなんだろう?と不思議だった。ドキュメンタリーを見て、これは、AMAに出席していなかったマイケル・ジャクソンが、他の人より先にスタジオに入って歌った映像だということがわかった。マイケルはひとりで集中して、自分を歌にシンクロさせようとしていたのだという。

 

このとき、2カ所の歌詞が変わる。

 1つは、「We are the world, we are the children. We are the ones who make a brighter day~」のところ。はじめにマイケルが作詞したときの歌詞は「~who make a better day~」(より良い日に)だったが、メイキング映像でマイケルは、「より明るく(brighter)って歌っちゃったよ」と言っている。「ぼくは魂をこめて、歌ったよ」と。この部分は、このあと全員で合唱する際にも話題に上り、「brighter」への変更で決定した。

  また、「It’s true we’ll make a better day, just you and me」のところでは、「you and me」と歌うのが良いか、「You and I」と歌うのが良いか、どっちがいい?とクインシーにたずね、クインシーが、「you and me だな。より魂がこもる」と答える場面も。

 このニュアンスの違いが私にはわからないので、どなたか、わかる人がいたら、ぜひ、教えてほしいです!

 

 マイケルがひとりでスタジオに入っていたあと、他のミュージシャンたちも加わって、本格的なレコーディングが始まるのだが、レコーディング開始が夜の10時過ぎ。プロのミュージシャンとはいえ、デモテープをもらったのが4日前で、数回の声合わせでレコーディングするわけで、時間もかかる。深夜0時をまわる。食事休憩の時間はあったものの、みんな寝ていない、疲労は相当なものだったと想像する。

 

 途中、スティーヴィー・ワンダーが、「これはアフリカのための歌なのだから、スワヒリ語の歌詞を入れよう」と言い出す。でも、スワヒリ語などすぐに覚えられない。みんなの顔がイライラしてくるのがわかる。誰も、スティーヴィーに意見できずにいた。ここで、あるミュージシャンが「ぼくはスワヒリ語はわからないから歌えない」と言って、帰ってしまって、どんどんまずい雰囲気に……。

 これには、まずはレイ・チャールズが「クインシー、思い出せ!」と声を出す。それがきっかけで「スワヒリ語では先進国の人に意味が伝わらない。つまり寄付に繋がらない」という話になって、スティーヴィーは自分の意見を下げた。

 このあと、マイケル・ジャクソンも、アフリカの雰囲気を付け加えたいと、コーラスパートの新しいアイデアを出す。でもこれも、スモーキー・ロビンソンの一声で取り下げることになる。

 

 歌詞が変わる、コーラスパートをアレンジする……。徹夜でのレコーディングでも、もっとよい楽曲にしようという、ミュージシャンたちとスタッフの熱意とプライドが感じられる場面が続く。そして全員で歌う部分のレコーディングは終わり、ソロパートのレコーディングに。時間は、朝の4時40分……。

 

終始、不安そうな表情をしていたボブ・ディラン

 結局レコーディングに姿を見せなかったプリンスのソロの代わりを務めたのはヒューイ・ルイスだった。「プリンスのパートは責任重大だよ。あの瞬間から緊張で頭がいっぱいになった」(ヒューイ・ルイス)

 スティーヴィー・ワンダーがピアノを弾き、ソロを歌うミュージシャンたちが全員、ピアノのまわりに集まって、ヒューイのために(と、たぶん自分たちのためにも)、順番に歌ってリハーサルをしてくれたのだ。すごくいい雰囲気が伝わってくる。ヒューイが続けて語る。

 「最初のリハーサルでどんな雰囲気になるのかわかった。一生、忘れない。初めてにもかかわらず、一人ひとりの個性が出ていた。思い出すとゾクゾクする」

 ヒューイ・ルイスとシンディ・ローパー、キム・カーンズの3人がソロをまわす場面では、キム・カーンズが歌う最後の一節を「ハーモニーで歌ったらどうか」と、マイケル・ジャクソンが提案する。マイケル、good job! あの一節のハーモニーとシンディの「yeah! yeah!~」はすごくいい!

「デモ・テープにハーモニーはなかった。私はごまかしながら(笑)ハーモニーを歌ったよ」(ヒューイ・ルイス)

 

 真剣かつ和やかにレコーディングがすすむなか、終始、眉間にしわを寄せ、不安そうな顔をしていたのがボブ・ディランだった。みんなが集まってきたときからずっと、まわりの陽気な雰囲気に入れず、不安そうな顔をしていた。まるで、転校生のような。全員で歌う合唱のパートでも、声域が高くないボブは居心地が悪そうだった。

 その不安そうな顔が極まってしまったのが、アドリブによるソロパートのレコーディングのときだった。アドリブを歌うのは、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、ブルース・スプリングスティーン、スティーヴィー・ワンダー、ジェイムス・イングラム。

みんなが期待するなか、しかしボブはまったく歌えない。

 クインシーが歩み寄って、ボブに声をかける。そして、スティーヴィーをピアノの前に座らせて、「ここで少しリハーサルをしよう」と。スティーヴィーは物まねが上手なのだそうだ。このときも、ボブ・ディランの声や歌い方を真似て、アドリブ部分を歌ってみせる。確かに、上手! 隣で聴いていたボブ・ディランがここでやっと笑顔を見せた。

そして、本番。無事に歌い終えたボブ・ディランは、まだ不安そう。

 「よし! やった!」(クインシー)、「ダメだった……」(ボブ)、「本当に良かったよ!」(クインシー)、「君がそう言うなら、信じる…」(ボブ)「違うよ、完璧だった!」(クインシー)。そして、ふたりでハグ。ボブ・ディランの繊細さと真剣さが伝わってくる感動的な場面だった。

 

 レコーディングの最後は、ブルース・スプリングスティーンによるアドリブソロ。前日までの全米ツアー、徹夜でのレコーディングで、スプリングスティーンの喉はかなり深刻な状態で、レコーディングのスタッフによると、「喉にガラスがささっているようだった」と。

 「We Are The World」のMVを見ると、この歌を愛おしむように、しぼりだすように歌うスプリングスティーンの声と表情が印象に残る。できる限りのチカラを尽くして歌っていたのだ。


だから、歌に魂がこもったのだ。見た直後の私の感想。

 一晩しか時間がないなかで、ミュージシャンがそれぞれいろいろなことを考えて、想いをこめて、チカラの限りを尽くして歌い、スタッフもそれを全力で支えた。それが、レコード盤を通して、レコードプレイヤー、スピーカーを通しても、その魂が伝わってくる。

 冒頭部分でも書いたが、この頃、豪華ミュージシャンによるエイドの企画がいくつもあった。それぞれに背景やさまざまな舞台裏があったはずで、「We Are The World」に限った話ではないと思うのだが、こうした舞台裏を知ると、「音楽のチカラ」をこれまで以上に信じられる、信じたい、そんな気持ちにもなる。

 

「家に帰るのは当たり前のことじゃない」の意味

 一通りのストーリーが終わったあと、再び、ライオネル・リッチーが画面にあらわれた。このときの話が印象的だ。ライオネルは昔、父親から「家に帰るのを楽しめ」と言われたことがあるそうだ。「家に帰るのは当たり前のことじゃない」と。

  たぶん、バオ・グエン監督は、制作前のリサーチか事前取材で、ライオネル・リッチーからこの言葉を聞いて、この映画を今、制作する意味を再確認し、「よし、ラストはこの話でいこう!」と決めたと思う。物語がおさまる、ちゃんと着地する感じ。

  この作品のなかではライオネル・リッチーは、「(家とは)自分にとっては、この部屋(「We Are The World」を録音したA&Mスタジオ)のことだ。この部屋は俺の家だ」と語っている。自分の原点の1つ、ということだと思う。音楽仲間と夢中になって成し遂げたプロジェクトは、ライオネルに大切な場所と仲間との絆という「家」を残したのだ。

 人生は(と、大きく出ますが…)つらいことも多くて、だから、こうした大切な場所や人間関係があると、生きていく大きな支えになる。1つでも2つでもいいから、そういうものがあったら、人はがんばれるように思う。

 

が同時に、私は別のことも考えていた。

 「家に帰るのは当たり前のことじゃない」という言葉。いま、戦争や自然災害などによって、家や国を失って、帰れなくなっている人が、世界中にいったいどれほどいることか。

 自然災害を人が止めることは難しい。でも、戦争なら人が止められる。人が始めたものだから、止められるはずのものだ。実際にはいつまでもなくならないけど……。

 グエン監督はベトナム系アメリカ人で、両親はベトナム戦争時の難民だと、ネットの記事で読んだ。アメリカ社会のなかで苦労もあっただろう。戦争、難民、肌の色の違い。これらはこのドキュメンタリーの構成のなかで深く掘り下げらている場面はないが、そもそもこの一大プロジェクトが立ち上がった背景と根底には、こうした社会問題がある。

 それを考えたとき、『The Greatest Night in Pop』というドキュメンタリー映画には、ただ単に「We Are The World」の舞台裏に迫る、ポップスが最高に輝いた夜、あるいは、音楽のチカラという意味のほかにも、なにか大事なメッセージが隠されていたのではないだろうか。私はそれを「No War」への願いだと感じたが、それとはちがうメッセージを受け取る人もいると思うし、そうあるべきだと思う。いい作品だった。


(テキスト:大泉洋子

■□大泉洋子□■  フリーのライター・編集者。OLを経て1991年からフリーランス。下北沢や世田谷区のタウン誌、雑誌『アニメージュ』のライター、『特命リサーチ200X』『知ってるつもり?!』などテレビ番組のリサーチャーとして活動後、いったん休業し、2014年からライター・編集。ライター業では『よくわかる多肉植物』『美しすぎるネコ科図鑑』など図鑑系を中心に執筆。主な編集書に『「昭和」のかたりべ 日本再建に励んだ「ものづくり」産業史』『今日、不可能でも 明日可能になる。』、編著書に『音楽ライター下村誠アンソロジー永遠の無垢』がある。

 


2024年3月23日土曜日

Lou Christie:『Gypsy Bells - Columbia Recordings 1967』


 ルー・クリスティがそのキャリアにおいて、MGM RecordsとBuddah Recordsの狭間の短期間所属したColumbia Records時代の未発表音源を多数発掘し、リマスターを施して英Ace Recordsから『Gypsy Bells - Columbia Recordings 1967』(CDTOP 1601)のタイトルでコンピレーション・アルバムとしてCD化リリースしたので紹介したい。

  ペンシルバニア州グレンウィラード生まれのルー・クリスティ(本名:Luigi Alfredo Giovanni Sacco/1943年2月19日生まれ)はハイスクール時代のヴォーカル・グループ、Lugee & The Lions(ルジー&ザ・ライオンズ)を経て、1961年にニューヨークに出てセッション・ボーカリストとして働きながらチャンスを掴むことになる。62年にクリスティとのソングライター・チームでその後もヒット曲を生み出すトワイラ・ハーバートとの共作オリジナル曲「The Gypsy Cried」(Roulette/R-4457)がそれであり、全米で100万枚以上を売り上げヒットとなった。この曲により4オクターブの音域を持つ歌声でスター・シンガー・ソングライターとなったのだ。
 翌63年の「Two Faces Have I」(Roulette/R-4481)もヒットしたが、クリスティが兵役期間に入ったために一時的に低迷するが、除隊した65年にRouletteから大手のMGM Recordsに移籍し、ハーバートとの共作による「Lightnin' Strikes」(MGM/ K13412)を全米ナンバー・ワン・ヒットさせる。
 この曲からアレンジャーとして参加したのが、フランキー・ヴァリ配するフォー・シーズンズの多くのシングル曲を手掛け、業界でもヒット・メーカーとして知られていたチャーリー・カレロである。翌66年の「Rhapsody in the Rain」(MGM/K13473)ではプロデュースもカレロが手掛け、フォー・シーズンズ・サウンドを踏襲する音像でヒットさせた。しかし同年の「Painter」(MGM/K13533)、ジャック・ニッチェがアレンジした「If My Car Could Only Talk」(「もし愛車が話せたら」タイトルが酷すぎる MGM/K13576)、再びカレロで「Since I Don't Have You」(MGM/ K13623)をリリースするも大きなヒットには繋がらなかった。 
 同年クリスティのマネージャーだったスタン・ポーリーはColumbia Recordsへの移籍を計画し(MGM経営陣と関係が良好ではなかったからと推測される)、67年2月16日に正式契約する。翌17日からカレロのプロデュースの下で新曲がレコーディングされた。ここからは「Shake Hands and Walk Away Cryin」など計4枚のシングルがリリースされたが、実際はその3倍以上の曲がレコーディングされていた。 

『Gypsy Bells - Columbia Recordings 1967』
ブックレット(表含め全20ページ)より

 本作ではそんな関係者でさえ耳にすることが出来なかった13曲もの未発表曲が発掘され収録されているのだ。これら67年の音源は、弊誌監修の『ソフトロックAtoZ』シリーズ最終版『SOFT ROCK The Ultimate!』(2002年)でも触れておらず、MGM Records(1965年~1966年)とBuddah Records(1968年~1972年)の狭間の短期間に相当し、クリスティの最大ヒット曲「Lightnin' Strikes」と、The Millenniumの「There Is Nothing More To Say(語りつくして)」(『Begin』収録/1968年)の異歌詞カバー「Canterbury Road」(Buddah/BDA-76)を繋ぐミッシングリンクとして、非常に貴重なものであることは間違いないので、弊サイト読者にも強くお勧めする。 

左上から時計回りに「Shake Hands and Walk Away Cryin」
「Self Expression(The Kids on the Street Will Never Give In)」
「I Remember Gina」「Don't Stop Me(Jump Off the Edge of Love)」

 では本作『Gypsy Bells - Columbia Recordings 1967』の主な収録曲を解説していこう。
  冒頭は先に述べた4枚のシングル収録曲のオリジナル・モノ・ヴァージョンで、「Shake Hands and Walk Away Cryin / Escape」(Columbia/4-44062)、「Self Expression(The Kids on the Street Will Never Give In) / Back To The Days Of The Romans」(Columbia/4-44177)、「Gina(I Remember Gina に表記変更される) / Escape」(Columbia/4-44240)、「Don't Stop Me (Jump Off the Edge of Love) / Back To The Days Of The Romans」(Columbia/4-44338)である。
 重複収録されたカップリング2曲を含め計6曲で、全米100位圏内のチャート・アクションがあったのは「Shake Hands ・・・」のみだったが、ビーチボーイズの「Good Vibrations」(66年)の影響下にあるパートを挿入してオマージュするなど、カレロによるアレンジングは冴えていた。因みにこの曲のセッションに参加したミュージシャンはライナーノーツによると下記のメンバーである。

Drums : Buddy Saltzman
Bass : Lou Mauro (ブックレット表記のLou Morrowは誤記)
Guitar : Ralph Casale
Piano : Stan Free
Baritone sax : Joe Farrell and George Young
Trombone : Ray DeSio
Trumpet : Bernie Glow and Pat Calello

 この時期のカレロが仕切ったセッションの常連ミュージシャン達で、その他のシングル収録曲や未発表曲でも同じメンバーが参加していると考えられる。Stan Freeは他の鍵盤もプレイしている可能性があり、編成によってはギターにCharlie MacyやVinnie Bellも参加しているだろう。因みにトランぺッターのPat Calelloはカレロの実父で、George Youngは後にカレロがプロデュースする山下達郎の『Circus Town』(76年)のNew York Side収録「Windy Lady」でのアルトサックス・ソロ、フランキー・ヴァリの「Native New Yorker」(『Lady Put The Light Out』収録 / 77年)でのテナーサックス・ソロ等多くの名演を残すことになるジャズ系の一流サックス奏者だ。
 そしてこのレコーディング・メンバーの中でもドラマーのBuddy Saltzman(バディ・サルツマン)は、当時の東海岸のセッションにおいてファーストコール・ミュージシャンであり、フォー・シーズンズやヴァリのソロ、モンキーズをはじめ多くのヒット曲に参加し、弊サイト読者向けでは、Alzo & Udineの『C'mon And Join Us!』(68年)やMargo Guryanの『Take A Picture』(68年)にも全面的に参加しているので、そのプレイを耳にしているだろう。弊サイト管理人である筆者が選出した、Buddy Saltzmanのベストプレイをサブスクにしたので聴きながら本記事を読んでみるのも一興だろう。

WebVANDA管理人選 Buddy Saltzman BESTPLAY 

 
I remember Gina / Lou Christie

 本作のシングル収録曲で筆者が気になったのは、『Smiley Smile』(67年)~『Friends』(68年)期のビーチボーイズを彷彿とさせる、Denny Randell & Sandy Linzer作の「I Remember Gina」のソフトサイケ感覚だ。この曲では作者であるRandell & Linzerもクリスティと一緒にコーラス・パートに参加しているのが、非常に珍しく聴きものである。
 また「Shake Hands・・・」と重複でカップリングされた「Escape」は、1950年代ジャズのエッセンスを散りばめてモダンに仕上げた感覚が、40年後のWouter Hamel(ウーター・ヘメル)のファースト(2007年)のサウンドにも影響を与えているかも知れない。

 未発表曲は下記の13曲で、前出のシングル曲以上に1967年アメリカのサマー・オブ・ラブという時代背景を反映して、実験性の高い意欲的なサウンドを持つ楽曲も含まれている。

The Greatest Show On Earth
Standing On My Promises
Blue Champagne
Yellow Lights Say
Paper And Paste
You've Changed
Meditation
How Many Days Of Sadness
Tender Loving Care
Gypsy Bells
Rake Up The Leaves
Holding On For Dear Love
I Need Someone (The Painter) 

 「The Greatest Show On Earth」はLugee & The Lions のメンバーだったクリスティの姉Amy Sacco Pasquarelliと、Linda Jones Honey、Kay Vandervort Schwemmという3名の女性による前衛的なコーラスを配し、変拍子パートを持ったクセになるソフトサイケなノベルティ・ポップで、Saltzmanの巧みなドラミングも聴きものだ。
 タイトルからして渋いジャズ・テイストの「Blue Champagne」は、同時期フランキー・ヴァリの最大ヒット曲「Can't Take My Eyes Off You」(67年)をBob Gaudioと共同で手掛けたArtie Schroeckがアレンジし、中音域の柔らかい木管を配してクリスティのレイジーなボーカルを引き立てている。
 続く「Yellow Lights Say」は一転して、エレクトリック・ハープシコード(初期クラビネットか?)のリフがリードするアップテンポなシェイクのナンバーで、サイケデリックな転調パートを挟んで進行する。この曲ではクリスティ自身とAmy、Lindaの軽快な三声コーラスが聴ける。
 本作ではバカラック&デヴィッド作も取り上げられており、ディオンヌ・ワーウィックの64年のシングル「Reach Out For Me」のカップリングで、翌年彼女の4thアルバム『The Sensitive Sound Of Dionne Warwick』にも収録された「How Many Days Of Sadness」(「何日間の悲しみを」詩的で素晴らしいタイトル)だ。多くのバカラック・ソングによって埋もれていたこの曲を選曲した審美眼と、ダイヤの原石を磨き上げた荘厳美麗なオーケストレーションもカレロならではである。
 またコーラス・パートでひと際存在感を放つLindaは、クリスティのペンシルバニア時代からの音楽仲間で、3人組ガールズ・グループThe Tammysのメンバーだった。The Tammysはクリスティのバック・コーラスを務めつつ、「Egyptian Shumba」(64年)をローカル・ヒットさせるが、この曲は後の70年代にイギリスでノーザン・ソウルとして発掘され現在でもDJ達に注目されている。


 本作のタイトルになっている「Gypsy Bells」は、クリスティのファルセットを活かしたヴァースから転調していくソフトサイケなポップだ。この曲はベーシック・トラックと歌入れのレコーディング後に、複数のギターやハープシコード、ハープ、ヴィブラフォン、金物パーカッションをオーバーダビングしているので、当初アレンジからモディファイしていったサウンドなのだろう。サビでリフレインするAmyとLinda、Kayによるコーラスの和声もサイケデリックな雰囲気を演出している。
 「Holding On For Dear Love」は、コニー・フランシスの「Vacation」(62年)の作曲をはじめ60年代に多くの名曲を残したソングライターであるGary Knight(Temkin)と作詞家Francine Neimanの作品で、クリスティがレコーディングした翌年にピッツバーグ出身の無名バンド、The Music Combinationがシングル「Crystal」のカップリングで発表している。マイナー・キーのヴァースからメジャー・キーのサビに転回していくドラマティックなポップスで、ここでもSaltzmanらしき巧みなドラミングと、Amy、Linda、Kayのコーラス隊がクリスティのボーカルを盛り上げている。 
 未発表曲ラストの「I Need Someone (The Painter)」は、69年12月の2週に渡り全米ナンバー・ワン・ヒットしたSteamの「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」の作曲で知られるソングライターのPaul Lekaと作詞家のShelley Pinzによるソフトサイケ・ポップで、Vinnie Bellのプレイと思われるエレクトリック・シタールをフューチャーしている。
 Lekaといえば、弊サイト読者にはThe Lemon Pipersの諸作やThe Peppermint Rainbowの『Will You Be Staying After Sunday』(69年)などのプロデュースやアレンジ、ソングライティングで知られたソフトロック紳士録に登録される巨匠だが、この曲はThe Lemon Pipersも翌68年にファースト・アルバム『Jungle Marmalade』(68年)で取り上げ、また無名のサイケ・プログレッシブロック・バンドThe Music Asylumも同年にシングルとしてリリースしている。やはりLeka がThe Lemon Pipers に提供し、68年2月に全米ナンバー・ワン・ヒットさせる「Green Tambourine」も同様だが、当時のアメリカ社会の空気に呼応したサウンドなのだろう。

 本作後半には、シングル収録曲の内「Don't Stop Me (Jump Off The Edge Of Love)」を除く5曲のステレオ・ミックス・ヴァージョンが収録されている。この内「Shake Hands・・・」、「Self Expression・・・」、「Back To The Days・・・」の3曲は、1988年にRhino Recordsからリリースされたクリスティのベスト・コンピ・アルバム『EnLightnin'ment : The Best Of Lou Christie』収録時にステレオ・ミックスされたものだ。残りの「Escape」と「I Remember Gina」は本作のために、当時の8トラックのマルチテープ!から新たにステレオ・ミックスされたということだ。特に前者はalternate vocalヴァージョンなので、モノ・ヴァージョンのトラックとは異なり尺も5秒ほど長く、聴き比べるのも面白いだろう。
 蛇足だが筆者は、Rhinoの『EnLightnin'ment・・・』で初めてクリスティの楽曲群に出会い、現在も大事に所有しているCDアルバムだ。一部の中古盤相場では高騰しているらしいが、本作 『Gypsy Bells - Columbia Recordings 1967』もプレス数が限られるようなので、筆者の解説を読んで興味を持ったら早期に入手し聴いて欲しい。



(テキスト:ウチタカヒデ