主体からエージェントへ          1999/2/20                

おことわり:公開にあたって未報告の資料についての言及を避けていますので、実際の報告レジュメとはやや異なったものになっていることをご了承下さい。

1 はじめに:はたして再生産論にこだわる意義はあるのだろうか?

●レイヴらの「実践共同体」論は本当に「周辺から中心への緩やかな移動というテーマによって、組織全体の構造を保ちつつ、しかも徐々に自己革新していく過程」(福島 解説 158頁)を考えるうえで有効か。cf. ハンクスの序文「・・・徒弟の形成によって共同体は自ら再生させるが、同時に変容もすると考えられる。正統的周辺参加ではこういった変化の説明はできない。しかし、こういうことが避け難く生じることをうきぼりにしてくれる。」(9頁)
 再生産理論を克服する鍵は田辺論文に認められる。
●田辺「実践知としての呪術」『民研・呪術特集』
・模倣ではなく差異
 「行為主体は自分の意図にしたがって行為するのではなく、レディメードの原型行為にしたがって行為する場合、その行為はもはや自分の行為のようには感じられない。そのような行為は、原型行為(タイプ)に対するトークンである。
・・・憑依の身体技法は示される手本行為を日常行為のようにくり返すことによって行為のコピーを再生産すること、すなわちたんなる模倣による再生産ではない。・・・憑依を構成するそれぞれの身体動作は、多くの人々によって歴史的に再生産されてきた原型行為をなぞりつつ、多少ともそこから差異化したトークンを生産することである。」(397頁)
 「反省作用を伴う実践知の学習」「日常的な実践知とちがい・・・」(398頁)「差異化を含む再生産」(400頁)
・しかし、「差異化を含む再生産」「差異化したトークンを生産する」、これらの言葉が理論的にどのような意義を持つのか、田辺は明示していない。「ルーティン化されている。しかし、憑依状態での語りや所作は患者、クライアント・・・によって変化することが多い。・・・定まった役作りから離れた即興的な語りや所作が挿入される 。それらは概して滑稽なものであり、権力表象である守護霊のパロディ的な発話や所作であったり、政治ゴシップや社会批評などが盛りこまれてることも多い。このアドリブ部分は象徴システムの表象からズレたものであるが、・・・」(398頁)
・→相互行為(による繰り返し)の重要性とそれが生み出す/生み出される場
・→引用可能性
・→パロディ→パフォーマンス
●アルチュセールのイデオロギー論・主体論
 アルチュセールの問題意識も社会の再生産にあった。
・アルチュセールのアポリアを乗り越えるのが実践知、実践共同体の理論であると、定式化すべき。そうであるなら、そのどこに(再生産の理論としてではなく変革の理論として)注目しなければならないのか。→身体性と共同性、言語の慣習行為的性格→コミュニケーション論の再定式化(田辺による既存の相互行為分析批判をさらに押し進めること)
 社会が個人をいかに規定しているのか、いかに「自由に」ふるまわせているのか、「主体的な生」の実感をもたせるのか、についての議論はアルチュセール以後盛んでもその反対の問題設定、すなわちわれわれの創造・想像力、社会変革力についての議論は満足のいくものはない。一方でなお手放しの自由主義的個人観、無批判的な創造力の賛歌が認められる。この研究会で問われてきたのは、結局のところ生活の構造やそこへの参入のプロセスであり、それをもってして構造主義の克服、行為者(エージェント)の復活(福島)とされてきたのではないか。むしろわたしは参入ではなく構造への抵抗、破壊、変革、脱出のプロセスにエージェントを復活させたい。しかし、抵抗論もなお低迷している。
呼びかけと主体形成(アルチュセール)、規律・訓練、インスクリプション(フーコー)、アイデンティティ構築、正統的周辺参加(レイヴ&ウェンガー)、身体構築(福島)
・これらの概念はいかにして支配の再生産が可能かということを明らかにしている。ただ、正統的周辺参加・身体構築からアイデンティティ/主体形成が漸次的になされるということが強調されてよい。それは警官の呼びかけで瞬時生まれるのではない。通過儀礼の暴力でこと足れり、ではない→バトラー
 →さらにはタンバイア、アハンらのperformativityをめぐる儀礼論などの再検討の道が開かれる。松田が行っている抵抗論はちょうどこの反対。かれはアルチュセールのイデオロギー論に抵抗主体を見いだし、言説の形式性に抵抗を認めるからである。
『人類学の認識的冒険』での解決方向:示唆された外部:今村(身体・感情)、山崎(悪い主体、無意識)
→構造から連鎖へ「イデオロギーの作用圏では、呼びかけ=審判するものは権力であり、それゆえ誰もがそれに呼応すべく、あらかじめ潜在的に主体化されてしまっている。」主体化されない呼びかけ、投企的な呼びかけ誰からか応答されることが少しも保証されていない荒涼たる世界に投げ出された叫び」(加藤 1998 208頁)→「痛み論」へ(田中 1998)
○バトラー(最初の検閲・排除の対象となった領域)→心的、言説的、社会的な他者

2 エージェンシーの研究
再生産理論のキーコンセプトである主体(従属主体)の代替としてエージェンシーに注目する。

  エージェンシー(行為主体性、行為体)、エージェント(行為主体、行為者)についてのレビュー。
 ブルデュ自身の問題意識や福島の解説からも明らかなように、ハビトゥスや実践共同体への関心は、構造と個人との排他的な関係を、より現実に妥当する形で理論化したい、という欲求から生まれている。それは構造に完全に支配されていない個人の復権ということになると思うが、これをここではエージェントという概念でとらえておく。訳はいろいろあるが、ここでは行為主体とする。わたし自身の関心からは、アルチュセール流の「主体」とは異なる、呼びかけのシャワーからまったく自由ではないが、だからといって完全に覆われていない存在を想定するための概念である。
定義Emirbayer and Mische (1998: 970)
▽agency: the temporally construdted engagement by actors of different structural environments--the temporal-relational contexts of action--which, through the interplay of habit, imagination, and judgement, both reproduces and transforms those structures in interactive response to the problem posed by changing historical situations.
▽constitutive elements of human agency: iteration, projectivity and practical evaluation.
agent代理人 代理するのはコミュニケーションのネットワークが生みだす場・エージェンシーはコミュニケーションの能力。上述の定義からは定かではないが、彼女たちの議論で強調されているコミュニケーションの能力を踏まえて共同性というものを重視するのが私の立場である。これは田辺明生氏もわたし自身もかつて指摘したことだが、エージェントには代理人という意味があり、そのような意味で使われることが一般的である(開発、観光、スパイ)。代理と考えるとそれはまた、表象や代表(representation)をめぐる問題に陥る可能性がないわけではないが、私はむしろこの代理の概念をより積極的な特質として把握したい。それはエージェンシーのコミュニケーション能力の表れとして理解したいのである。これによって、個人を強調する立場が想定しがちな、かけがえのない私の身体、私にしか分からない痛みや喜び、感情といった場所に安住することをあえて拒否したい。他者とのつながりを可能とするような関係性を強調していきたいのである。代理とはコミュニケーションの対象となるような他者の共同性を示唆するものである。コミュニケーションが個別的、一対一的であるとしても、なおそこには双方向的、交渉的な場ーー共同性ーーが生まれる。エージェンシーとはその場の存在を示唆し、またそのような場を生み出す能力を意味する。 そしてその場が変化する、場を変化させる力を認める。同時にエージェント自体も変化していく。あるいはエージェントとして個人が関与する場は、空間的にも時間的にも多層的であり、ある場が図となり、他の場が地となる。それらの配置が替わることも、替えることも変化である。まとめると、ここでは、一方で人類学の伝統である集団主義・全体論を批判しつつ、他方で近代的個人や実存的な場をも安易に受け入れる立場を拒否する。逆説的ではあるが、個人からの視点・個人への視点とは、あらたな共同性の発見をめざす視点なのである。

したがって、逆説的ではあるがエージェンシーの復権は近代主義、自由主義的な個ではなく、新たな共同性の復権

3 バトラーの射程:キーワードのおさらい

オースティン:行為遂行性(performativity)
    → 言語行為 発話内的力/行為(illocutionary force/act)、
   発話媒介的(prelocutionary force/act)
   発話行為(locutionary act)
サール →構成的規則と統制的規則
儀礼研究→アハン、タンバイア、ブロック cf.福島1993a

 言語に行為遂行的力があるとするなら、それはいったいどこからくるのか。
言語哲学と人類学の儀礼解釈
  →形式性に注目する。形式こそ権威の源泉。儀礼が人を構築する(通過儀  礼への適用)。
ブルデュ その権威は発話がなされる文脈・制度の権威に依拠している。話者がその制度(集団)の代表者であるからその発話に効果がある。
 (Austin) was in fact working out a theory of a particular class of symbolic expressions, of which the discourse of authority is only paradigmatic form, and whose specific efficacy stems from the fact that they seem to possess in themselves the source of a power which in reality resides in the institutional conditions of their procduction and reception (Bourdieu 1991:111).
By focusing exclusively on the formal conditions for the effectiveness of ritual, one overlooks the fact that the ritual conditions that must be fulfilled in order for ritual to function and for the sacrament to be both valid and effective are never sufficient as long as the conditions which produce the recoginition of this ritual are not met: the language of authority never governs without the collaboration of those it governs, without the help of the social mechanism capable of producing this complicity, based on misrecognition, which is the basis of all authority(Bourdieu 1991:111).
 アルチュセールからバトラーへ
(バトラー論文の引用は書物のイニシャルで示している)
アルチュセールの呼びかけinterpellation・イデオロギー論と発話内的行為論を結びつける。(cf. Goffman, スティグマ論、ラベリング論)
 「ひとは<他者>の呼称に根本的に依存することによってのみ、「存在する」ことができる。・・・認識を容易にさせる枠組みこそが慣習であり、またそれは、主体が存在するための言語上の条件を、しばしば排除と暴力によって決定する社会儀式の産物なのであり、社会儀式の手段なのである。/もしも言語が身体を支えているなら、言語が身体の存在を脅威にさらすこともありえる。つまり、言語が暴力をふるう可能性は、すべての語る存在が、呼びかけによってひとを構築する<他者>からの呼び声に根本的に依存していることに深くかかわるものである。」(バトラー11頁)

同時に言説効果の微視的な作用ととらえる。
 アルチュセール:呼びかけによって人は振り向き(従属)「主体」となる。
 バトラーの修正:それは完全な主体化ではなく、また(それゆえ)一回限りではない。
 BM 122: Although he refers to the possibility of "bad subjects," he doesn not consider the range of disobeidience that such an interpellating law might produce.→主体の多様性
ブルデュ批判、力は慣習、政治的位置による。このため彼は言語行為がこうした慣習を変革する起点を見逃してしまった。
His conservative account of the speach act presumes that the conventions that will authorize the performative are already in place, thus failing to account for the Derridean "break" with context that utterances perform(142).
And are there moments in which the utterance forces a blurring between the two(the imposter and the real authority), where the utterance calles into question the established grounds of legitimacy, where the utterance, in fact, performatively produces a shift in the terms of legitimacy as an effect of the utterance itself(146-47).
The force and meaning of an utterance are not exclusively determined by prior contexts or "positions"; an utterance may gain its force precisely by virture of the break with context that it performs(145).  
キーワードはiterability, reiteration. しかしまだ不十分、言葉の歴史性が無視される。 身体性が問われていない。ブルデュも身体知と発語行為をむすぴ付けてはいない。
I would insist that the speech act, as a rite of institution, is one whose contexts are never fully determined in advance, and that the possibility for the speech act to take on a non-ordinary meaning, to function in contexts where it has not belonged, is precisely the political promise of the perfromative, one that positions the performative at the center of a politics of hegemony, one that offers an unanticipated political future for deconstructive thinking (ES未訳部分161).
 共同性を媒介として学習した身体が生み出す行動様式(慣習的行為)は決して自由なプラクシスではない。それはすでに制約されている、すでに検閲(foreclosure, Verwerfung)されている。つまり、あらかじめ検閲されたなにかがバトラーにとっての外部。
 (T)he norms that govern the inception of the speaking subject differentiate the subject from the unspeakable, that is, produce an unspeakability as the condition of subject formation.(ES 135)
→foreclosure
Althoguh the one who speaks is an effect of such a foreclosure, the subject is never fully or exhaustively reduced to such an effect. A subject who speaks at the border of the speakable takes the risk of redrawing the distinction between wht is and what is not speakable, the risk of being cast out into the unspeakable. Beause the agency of the subject is not a property of the subject, an inherent will or freedom, but an effect of power, it is constrained but not determined in advance. If the subject is produced in speech through a set of foreclosure, then this founding and formative limitation sets the scene for the agency of the subject. Agency becomes possible on the condition pf such a foreclosure. This is not the agency of sovereign subject, one who only and always exercises power instrumentally on a nother. As the agency of the post-sovereign subject, its discursive operation is delimited in advance but also open to a further and unexpected delimitation(ES 139).
転回のモメント;罵倒語・蔑称
「人は蔑称で呼ばれることによって、そのような存在として単に固定されるだけではない。侮辱的な名称で呼ばれると、軽蔑され、卑しめられるが、蔑称には別の可能性もある。逆説的なことだが、蔑称で呼ばれることによって、社会的存在のある種の可能性を獲得し、その名を使いはじめた当初の目的を超える言語の時空に誘われることもある。・・・侮辱的な呼び名は、その呼び名に対抗する言語を使いはじめる主体を、その発話のなかで起動させる危険も有するものとなる。」(触発8頁)
→自己スティグマ化(Lipp)
しかし、繰り返しになるがsubjectそのものがつねに不安定、両義的、
 (T)he subject is itself a site of this ambivalence in which the subject emerges both as the effect of a prior power and as the condition of possibility for a radically conditioned form of agency(PL 14-15).

4 展望 人類学的課題へ

・憑依・儀礼・パフォーマンス・罵倒語・妖術と邪術など人類学の伝統的なトピックを考察することで、従来再生産論の一翼を担っていたこれらの機能主義的・解釈学的分析の限界、さらには抵抗論の混迷を克服して、エージェンシーの復権と変革論の可能性を示唆することになるのではないか。

参考文献