「そうだ!電車に乗ろう“鉄道技術”最前線!」2024-04-26

2024年4月26日 當山日出夫

サイエンスZERO そうだ!電車に乗ろう“鉄道技術”最前線!

もう学校で教える仕事をやめて、京都に行くこともなくなった。東京に行くせこともない。電車(近鉄、京都地下鉄)には、ここ数ヶ月以上乗っていない。

電車の技術の最前線のことだった。なるほど今の電車というのは、こんな技術を使っているいるのかといろいろと興味深かった。

東京などの都市部での場合と、長距離の場合、また、地方都市の場合、それぞれに状況は異なるから、そこに求められる技術も違ってくるにちがいない。ただ、現代の趨勢として、鉄道よりも自動車の方がメインの移動、物流の手段になってきているかとも思える。とはいえ、新幹線などは人の移動に欠かせないものであることも確かである。

燃料電池の開発で日本はどのような位置にいるのだろうか。技術的に可能であっても、行政の規制が厳しくて実用化できないということは、どうかなと思う。まあ、このあたりは、中国の方が、新しい技術について規制がゆるいということもあるのかもしれない。

鉄道には様々な技術が使われている。その国の実情にあった、そして、最先端の技術の総合という面がある。この意味では、日本の鉄道技術は、十分に世界のなかで生きのこっていけるものなのだろうと思う。

2024年4月18日記

100分de名著「フロイト“夢判断” (4)無意識の彼岸へ」2024-04-26

2024年4月26日 當山日出夫

100分de名著 フロイト“夢判断” (4)無意識の彼岸へ

もう隠居ときめているので、ある意味でこのような番組をかなりリラックスして見ることができる。

専門分野はまるでちがうのだが、しかし、学問的に正確なことを、よりわかりやすい一般的な言い方でつたえるのは、かなり難しい。厳格に定義された専門用語で話す方がずっと楽である。

これまでの四回を見てきて、ここのところを実にたくみに話しをしているな、と感じたものである。

フロイトが言っていること、それを現代の観点からはこう解釈できるということ、また、批判があるとしてどのような批判があるのか、さらには、それらについて自分はどのように考えるのか……ここのところが、はっきりと区別する話し方になっていた。こういう複雑なことがらを、明瞭に区別して話すということは、とても難しいことである。しかも、一般の視聴者を相手にしてのことである。その難易度はかなり高い。

フロイトの研究、精神分析が、はたしてサイエンスであるかどうか、このことについては、まったく言及することがなかった。ほのめかすことさえもなかった。このことは、この専門の分野においては、常識的なことなのかもしれない。あるいは、心理学という分野は、現代ではサイエンスとして一般に認識されていると思うのだが、だからあえてまったく、このような方向に話しを持っていかなかったかとも思う。(私は、精神分析がサイエンスでなければならないとは思わない。また、サイエンスだけが学問の方法だとも思わない。ちなみに、今では、私は人文科学という言い方をしない。人文学ということにしている。)

フロイトは、無意識が人間にはあるということを発見した、ということでいいのだろう。では、人間は、無意識からどれほど自由でありうるのか、と考えることができる。

近代的な人間観の根底にあるのは、私の理解では、自由意志を持った独立した個人、という措定である。

人間の自由意志で選ぶことのできないことがら……肌の色であるとか、性別であるとか、どのような文化的環境、社会的経済的環境に生まれたか……このようなことによって、差別されることがあってはならない。これらを超越したところに人権をとらえることになる。はっきり自覚されないとしても、暗黙の前提となっていることかと私は考えている。

では、このような人間観において、無意識の存在とはどういう意味をもつのだろうか。人間は、無意識から自由でありうる、自由に判断し思考することが可能なのだろうか。また、無意識と、文化的な要因や性別などはまったくの無関係といえるのだろうか。このあたりのことが、最後に疑問として残ることになる。

フロイトは人間を装置ととらえていた。今なら、人間はコンピュータにたとえることになる。この一世紀あまりの間に、人間とはどんなものなのか、その根本的なところで大きな変革が起こってきたことも確かである。生成AIの時代、人間の無意識について、どうか考えるようになっていくだろうか。

2024年4月23日記

「なぜ隣人を殺したか〜ルワンダ虐殺と煽動ラジオ放送〜」2024-04-25

2024年4月25日 當山日出夫

時をかけるテレビ なぜ隣人を殺したか〜ルワンダ虐殺と煽動ラジオ放送〜

ルワンダの内戦のこと、ツチとフツの対立、殺戮のことは、記憶にあることである。

番組の意図としては、ラジオというメディアのはたした役割、ということになる。テレビも新聞もない地域で、ラジオだけが、人びとに情報を伝えていた。そのラジオの煽動によって、人びとは虐殺にはしった。

たしかにこれは、今日の問題でもある。池上彰は、SNSのフェイクニュースなどのことを言っていたが、実は、事態はもっと深刻な状況にあるといっていいかもしれない。ハイブリッド戦争ということがいわれるようになった現代、すでに日常のなかに戦争が入りこんできている。日本のなかで宣伝工作活動(ちょっとことばは古いが)にかかわるSNSは、多くあるといってよい。もちろん、そこにはAI技術も使われていくことになる。

実感としていえることは、SNSにおいて一方的な意見が拡散するかたわら、それを打ち消す反対の意見も、少なからずある。このバランスを見ていくしかないということぐらいだろうか。

私は、X/Twitterは、一〇数年以上アカウントを持っているが、ここ一〇年ぐらいフォローを増やしていない。自分の気に入る意見のアカウントをフォローすることをしていってもいいかもしれないのだが、あえて、そのままにしている。自分とは異なる意見を主張するアカウントも眼に入るようにしている。

少なくとも、今のところ、一方的な情報だけで埋まるということは起こっていないとは思っている。

最近になって、特定の偏った意見については、反論のメッセージが出るようにはなってきた。ないよりマシという程度であるが、これも、今後、AIの利用で事実に基づかないフェイクニュースをチェックできるようになる(かもしれない、と思うが、どうだろうか。)

それから、私は、今ではRTを基本的にしない。

それにしても、当時のルワンダのラジオ放送の音声が録音されて残っているということも驚きの一つである。

ルワンダの現在はどうなっているのだろうか。アフリカでは、経済発展を遂げることのできた国の一つということだと思うが、かつての内戦と虐殺の経験は、今にどのように残っているのか。このあたりのことについて、その後のルワンダということで考える番組などあればと思う。

2024年4月24日記

『舟を編む ~私、辞書つくります~』(10)2024-04-25

2024年4月25日 當山日出夫

『舟を編む ~私、辞書つくります~』(10)

『大渡海』が完成した。

辞書を作るには、様々な人びとのいろんな努力が積み重なっている。辞書を作っていく過程を、このドラマは丁寧に描いていたと思う。国語学、日本語学の観点から見ても、よくできたドラマだったと言っていいだろう。

このドラマの第1回のときにも書いたことだが……私の国語学の師匠は、山田忠雄先生である。新明解国語辞典の国語学者と言っていい。慶應義塾大学の文学部の学生のとき、国語学を勉強したいと思った。その当時、慶應の国文科には国語学の先生がいなかったので、慶應での恩師である太田次男先生が山田先生のところに行けと紹介してくださった。渋谷の山田先生の研究室に一緒に連れられて行ったのを憶えている。その後、山田先生に師事することになった。

山田先生から多くのことを学んだが、今でも私のなかに残っていることの一つとしては、辞書の編纂には、批判的精神が必要だということである。特に辞書の編纂にかぎらず、国語学研究、学問一般に言えることでもある。

あるいは、ひょっとしたら、私の人生の選択肢として、辞書の編纂にたずさわるという道があったかもしれないと、今になっても時々ふりかえって思うことがある。もし、そうなっていたとしたら、今では、もう定年ということでリタイアする時期でもある。『大渡海』のようなプロジェクトがあれば、最後の仕事となったかもしれない。

この意味では、このドラマは、まったくの架空の他人事のドラマとは思えないという部分があることは確かである。

COVID-19、コロナ禍のことは、どう人びとに記憶されるだろうか。個人的には、二〇二〇年の春頃、NHKが夕方に朝ドラの『ひよっこ』の再放送をしていた。それを見て、すぐに夕方のニュースになる。その始まりは、きまって渋谷のハチ公前の様子であり、その日の東京の感染者数の発表があった。日に日に、渋谷の街から人がいなくなり、感染者数が増えていった。この先、この世の中、どうなっていくのだろうと思ってすごしたものである。

その後、四月になっても、大学の授業は始まらず、結局オンラインでの教材送信と電子メールでのレポート提出ということで、前期の授業となった。

国語学、日本語学の観点から考えてみても、この時期、多くの新しいことばが登場した。そもそも「新型コロナウイルス」ということばが新しいものだった。「パンデミック」も日常的に目にするようになった。「手指消毒」も新しく使われ始めたことばであるといっていいだろう。

さあ、この種のことばを新しい辞書に収録するかどうか……これは、判断に悩むところである。

新しいことばが、これから日本語の中に定着して残っていくだろうか、ここをまず考える必要がある。ドラマでは明確に描いていなかったが、もし新しいことばを見出しとして入れるとすると、削らなければならないことばがある。それを、できるかぎり、同じページのなかでやりくりしなければならない。むしろ作業として大変なのは、どのことばを削除するかの判断と、組版の調整ということになるだろう。

妥協的判断としては、さらに見出しの追加はせずに、その後の改訂版の編集のときの課題とする、というあたりになるかと思うのであるが、さてこのあたりのことについては、人によって判断が分かれるとこかとも思う。

これがデジタル辞書ならば、見出し語の追加は、かなり容易である。紙販はそのまま、デジタル版で追加見出しがある……こういう作り方もありうる。そして、デジタル版では最新情報が載っている、これを販売のうりにすることも可能だろう。

新しいことばが使われるようになることには、比較的簡単に気づく。しかし、それまで使われてきたことばの意味用法が徐々に変化していくことは、なかなか気づきにくい。これは、長年にわたる調査研究の積み重ねということになる。

このドラマには、コーパスが登場していなかった。そのようにドラマを作ったということなのだろう。もしコーパスを登場させると、それはどんなものなのか説明に余計な手間がかかる。また、はっきりいってしまえばであるが、国立国語研究所のBCCWJは、『大渡海』の編纂の時点からみれば、すこし古いことばをあつかったものとなっている。コーパスの継続的な拡張が重要である。

一〇回のドラマであったが、見終わって感じることは、このドラマは、ことばを丁寧にあつかっているという印象を持つ。よくできたドラマだったと思う。

2024年4月23日記

ドキュメント20min.「科学ノ怪宴」2024-04-24

2024年4月24日 當山日出夫

ドキュメント20min. 科学ノ怪宴

肉に電気を流すとやわらかくなる。説明されるとなるほどと思う。問題は、実用化するメリット、それから、コスト、ということになるだろうか。肉はやわらかければいいというものではないと思うので、実際に使うとなると人間の感覚でどう判断するかということになるだろう。しかし、現象としては面白い。

人間には聞こえない低周波、高周波の音が、耳では聞こえていなくても、体には影響を与えている。このメカニズムの解明は分かっていないとしても、なんとなくそういうこともあるだろうとは感じるところである。人間の生活環境を考えるうえで、このことの研究は重要なものになる可能性がある。

味覚の再現。これが一番リアルである。人間の味覚を細かく分析するというのもすごいが、それを再現してみるというのもすごい。たぶん、人間がまだ味わったことのない味覚は、この世界に数多くあるにちがいない。また、現実的には、有名レストランの味を、科学的に分析するということが可能ということになるのかとも思う。

これもある種の科学番組なのだが、切り口によってはこのような見せ方もできる、ということになる。面白かった。

2024年4月23日記

新プロジェクトX「約束の春 〜三陸鉄道 復旧への苦闘〜」2024-04-24

2024年4月24日 當山日出夫

新プロジェクトX 約束の春 〜三陸鉄道 復旧への苦闘〜

朝ドラの『あまちゃん』は、三回見ている。最初の放送のときにほとんど見た。その後の再放送のときも見ている。全部で三回ほぼすべてを見ている。やはりドラマのなかに出てきた「北鉄」のことを思ってしまう。

春の学校の入学式に間に合うように、三年で工事を終わらせる。無茶だったかもしれないが、それを成し遂げた人たちがいた。また、それを支える地元の人たちがいたことになる。

運転再開のときの地元の人たちの喜びの表情がとてもいい。

たしかに、これは感動的な物語である。この番組の編集として、特に感動的な場面を作り出したということではない(ように感じる)。

二〇一一年の震災の後のことである。今から一〇年ほど前のことになる。この時代のことなら、記録映像、ニュース映像などが、残っている。記録が残っていることの意味を強く感じる。番組のなかで、津波の被害の映像が出ていたが、私は、これは放送すべきことだと思う。

強いて天邪鬼なことを書いてみるならば、この三鉄の将来性はどうなのだろうか。沿線住民の人口はどうなっているのか。観光客は、どれほど来ているのか。これらの将来的な予想は、どんなものなのか。外国人観光客にたよるぐらいなのだろうか。

気にはなることなのだが、このことについては、一切触れていなかった。これはこれで正しい判断であると、私は思う。過疎高齢化の地域である。三鉄の将来がどうなるにせよ、津波被害からの復旧の経験は、今後の三鉄のなかに生きのこっていくにちがいない。これぐらいしか、将来への希望を感じないということなのだが。

2024年4月21日記

フロンティア「恐竜王国 繁栄の秘密」2024-04-23

2024年4月23日 當山日出夫

フロンティア 恐竜王国 繁栄の秘密

恐竜がどうして絶滅したかということについては、巨大隕石の衝突に起因する気候変動ということが、一般的に知られている知識になっているかと思う。しかし、なぜ、恐竜が繁栄することになったのか、ということについては、これまであまりテレビなどで語られることはなかったように思う。

三畳紀のCPEという雨の多かった時代。植物が多くなる。それにともなって、恐竜は生息域をひろげ世界中に(この時代の世界の大陸の地図は現代とはちがっているが)広がって繁栄することになった。

たぶん、おおきな筋書きとしてはこうのなだろうと思うが、競合する他の生物たちに勝てた理由はいったい何なのかということになると、まだ謎は多いようだ。

CPEにおいて雨が降ったのは、火山活動による、CO2、温室効果ガスの増大による水温の上昇によるという。恐竜が繁栄するきっかけになったのも、やはり気候変動によるものになるということらしい。

番組の最後で語っていたことだが、現代の地球にとって気候変動はきわめて重要な課題である。このことを理解するためにも、古代において地球でどのような気候変動があり、それが地球上の生きものにどのような影響を与えてきたのか、俯瞰的な知見が必要になるだろう。今の地球環境問題と短絡的に直結させることはないかもしれないが、しかし、この問題について考える根底に、長い地球の歴史と生命ということが視野に入っている必要がある。

2024年4月19日記

ドキュメント72時間「鹿児島空港 旅立ちの春に」2024-04-23

2024年4月23日 當山日出夫

ドキュメント72時間 鹿児島空港 旅立ちの春に

バスターミナルとか空港とか、この番組では、旅立ちの季節ならではの情景をあつかっている。今回は、鹿児島空港。

なぜ鹿児島空港なのだろうと思わなくもない。特に変わったところがあるという空港でもないようである。強いていえば、鹿児島県内の離島を結ぶ便があるくらいだろうか。

登場してきている人びとは、ごく普通の人たちである。特に劇的な人生を歩んできたという人は出てきていない。それが、この番組のいいところである。(まあ、時としては、こんな大変な人生もあるんだと、驚かされるようなときもあったりするが。)

就職、それから冠婚葬祭で、人はここをおとずれ、また、旅立っていく。

印象にのこるのは、茨城の総合病院に行くという看護師の女性。就職で鹿児島を離れる友達を見送りにきた、男性二人。それから、チリからのホームステイでやってきた少年を出迎える家族、などであろうか。

また、プロペラ機に乗りたいという子どもの希望のために、大阪からやってきたという父と男の子がいた。こんな子どもの夢をかなえてくれる、こういうのもいいと思う。

鹿児島の人は、情に厚いというべきなのか。空港まで多くの人が見送りに来ている。これが東京だったら、就職で旅立つとしても、玄関先で別れて終わりということが多そうである。

そのように編集してあるのか、総じて、鹿児島を離れる人が多いように感じた。たぶん、全国的な人口の移動からするならば、鹿児島から東京や大阪、あるいは、福岡などに、仕事で移動する人が多いと思われる。(おそらく将来的には鹿児島県は過疎の地域になるかもしれないが、これは少し先の未来のことになる。)

テレビの取材ということもあるのだろうが、鹿児島方言で話す人が出てきていなかったのも、気になったところでもある。NHKの番組の作り方の方針にもよるのかと思うが、この番組では、女性が配偶者のことを「主人」と言った場合、そのまま字幕でも「主人」としていた。他のNHKのニュース番組などだと、「主人」と言っているのを「夫」と言いかえて字幕に表す。私としては、このような場合、訂正せずに話していることばをそのまま使うのがいいと思っている。

2024年4月21日記

「最深日本研究〜外国人博士の目〜」2024-04-22

2024年4月22日 當山日出夫

レギュラー番組への道 最深日本研究〜外国人博士の目〜

私は、YouTubeは基本的に見ない。だから、VTuberということばは知識としては知っているのだが、実際にそれを見るということはない。(YouTubeを使ったのは、COVID-19のとき、オンデマンド授業ということで、しかたなしに使ったぐらいである。それも、基本は、音声データ付きのパワーポイントとした。)

バーチャル空間のなかで、美少女のアバターを使っている男性たち。美少女キャラクターは、圧倒的に男性に多い。こう書くとどうも、フェミニストというような人たちの顰蹙を買いそうな存在に思える。はたして、このような人びとの実態はどのようなもので、また、それは今の日本の社会、あるいは世界のなかで、どう受容され理解されているのだろうか。これは、とても興味深いテーマである。

日本でも研究はあるのだろう。たぶん、私の興味があまりその方面に向かないから知らないだけだと思う。しかし、テレビの番組などで、VR世界のことをとりあげるということはあまりないようにも思える。最近の技術の進歩で、このようなVRが可能になったということはニュースで扱われることが多いが、その段階にとどまっている。

NHKとしても、「レギュラー番組への道」という実験的なこころみが許されるところで、しかも、外国人(ロシア生まれのスイスの人ということになるのだろう)の研究者の視点から見るということで、この番組が出来ている。

美少女キャラクターになる、日本人男性、そして目指すものはカワイイである。カワイイということばは、私の経験では、一九八〇年代ごろから広く若い人たち、それも女性の間で使われてきた概念だと感じている。それを経て、今では、男性がカワイイ存在に自己を託すようになってきている。

街中にあふれる美少女キャラクターについては、現代ではときとして、PCではないとして、クレームがつくことがある。リベラルというような立場からは、女性のセクシュアリティを商品化している、というような批判にさらされることになる。

だが、ひとたびバーチャル空間にはいれば、美少女キャラクターであふれている。「びばにく」(美少女、バーチャル、受肉)ということばは、この番組で知った。はたして、日本語として定着するだろうか。

また、これは、一昔前のような、オタクとも違う(ように思える。)が、しかし、きちんと分析し理解できる自信はない。

おそらく、近い将来には、バーチャル世界にもAIの流れが押し寄せるだろう。AIの作ったアバターで、AIの声で活動するということあるにちがいない。もうすでにあってもおかしくない。それに自動翻訳機能があれば、簡単に国境とか言語の壁を越えられる、かもしれない。

この人間の世界のことを考えるのに、バーチャル空間のことをふくめて考えなければならない時代になったことは確かだと思う。そして、人間における性の問題とも深くかかわる。おそらくバーチャル空間は、人間が持っている性(生物的な、また、文化的で社会的な)から、解放されることが可能な世界として、これからの人間の世界のなかに存在することになるだろう。

しかし、また、バーチャルな世界だからこそ、現実の世界の、職業、社会的階層、性別、社会的文化的な背景などから自由であると同時に、それらが無意識のうちにはいりこんでくる世界になるかもしれない。その日本的な現れが、男性による美少女キャラクターということになるのかとも思う。

2024年4月18日記

『光る君へ』「華の影」2024-04-22

2024年4月22日 當山日出夫

『光る君へ』第16回「華の影」

今から半世紀ほど昔、慶應の国文の学生だったころ、あることから、平安貴族の日記の天気の記述を調べてみたことがある。『小右記』『中右記』『明月記』などである。これらの日記は、その日の天気が必ず記されているのが原則である。たとえば、天晴、陰、雨、など。これを調べて一覧できるようにした。(そのころは、パソコンの出る前の時代である。今ならエクセルを使うかもしれないが、ひたすら読んで紙に書いて数えて集計した。ただ、特に論文にするとかということなく終わってしまったことなのだが。)

平安貴族の日記の天気の記載を見ると、平安時代は現代の京都よりも雪が多く降り積もったことがあったようである。

『枕草子』には、雪が降ったので、庭に雪の山を作ったとある。『源氏物語』には、雪が降って少女が雪とたわむれる描写もある。平安時代の貴族にとって雪とはどんなものだったのだろうか。

雪のことと、民俗学的な解釈と、いろいろと考えることができる事例になる。

「香炉峰の雪」のエピソードは、あまりにも有名である。

平安時代は疫病の流行もあった。疫病については、近年のCOVID-19のこともあって、歴史のなかで疫病がどんなであったか考える本がでていたりする。コロナ禍の前の本になるが、

『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫).石弘之.KADOKAWA.2018

が面白かった。

疫病については、日本文学のなかでも登場する。だが、平安朝の仮名文学、『源氏物語』などには、登場しない。そのせいもあってだろうか、『源氏物語』などに関連して、平安時代の疫病のことを論じたものは、あまり見かけないように思える。

しかし、歴史についてみれば、疫病の流行、それから、気候変動による飢饉、これは歴史を動かしてきた大きな原動力の一つであったと言っていいだろう。少なくとも、近年の歴史学では、これらの要因を無視することはできなくなっていると思える。

平安京の路傍に死体が遺棄されていた状況などは、絵巻物などの絵画資料などから推測することもできる。

平安時代は、王朝貴族の花やかな文化の時代であった。このドラマの定子のサロンなどは、それを代表するものだろう。一方で、飢饉と疫病の時代でもあった。

ところで、もし、藤原公任自筆の『古今和歌集』が伝存していたら、国宝どころのさわぎではない。現存する最も古い本は、平安時代の写本である元永本である。国宝。これは、東京国立博物館の所蔵なので、時々展示されていたりする。

この回でも「あめつち」が出てきていた。この時代、「あめつち」が平安貴族たちの間で、使われていた……文字の学習ということになるのだろうか……としても、必ずしも不自然ではない。

余計なことを書いておくと、番組の最後の紀行のとき、平安時代に仮名ができて墨の需要がたかまったと言っていたが、これはどうだろうか。たしかに仮名は平安時代の初期に成立しているし、仮名で書かれた文献もある。だが、それが墨の需要をたかめたとまでは言えないだろう。当時、書かれたものの大部分は、変体漢文で書かれた古文書、古記録、また、写経の類であったろうと思うのだが、どうだろうか。

2024年4月21日記