2024-03-28

2024年3月28日 當山日出夫

桜 2024年3月28日撮影

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

フロンティア「アルツハイマー病 克服に挑む」2024-03-28

2024年3月28日 當山日出夫

フロンティア アルツハイマー病 克服に挑む

レカネマブがアルツハイマー病の薬として認可されたときのことはニュースになったのを憶えている。そのときは、一つの薬ができたというぐらいの認識でいた。

このレカネマブの開発に遺伝性のアルツハイマー病の遺伝子を持つ人びとの協力のもとに、研究開発が行われたことは知らなかった。たしかに、医薬品の開発には、まずその病気がどのようにして発生するのか、そのプロセスの解明が重要であることは、理解できる。この観点からは、プロジェクトに参加してくれた人びとに感謝するしかない。

番組の意図とは違うところで思うことがある。自分の遺伝子を知る権利といえばいいのだろうか、これについて、日本の現状はどうなっているのかが気になったところである。おそらく、遺伝性のアルツハイマー病については、日本でも研究があるのだろう。その場合、病気を発症する可能性について、自分の遺伝子情報を、自ら知る権利はあるにちがいない。また一方で、それを知りたくないという場合は、知らずに生きるということも選択肢としてあってよい。

アルツハイマー病以外にも遺伝子に起因する病気はある。これらの病気について、個人の遺伝子情報のとりあつかいについては、今の日本でどのような議論がなされているのだろうか、このあたりについて考えるべき必要があるにちがいない。

2024年3月27日記

「100分de名著forユース (4)言葉で自分を見つめ直す 「石垣りん詩集」」2024-03-28

2024年3月28日 當山日出夫

100分de名著forユース (4)言葉で自分を見つめ直す 「石垣りん詩集」

石垣りんは読んだことがない。若いころ、文庫本で読める詩集は読んだつもりでいるが、そのときにはまだ刊行になっていなかったことになる。

詩といって思うことは、中学、高校のころの国語の教科書は、きまって詩からはじまっていた。私のわかいころは、詩は、学校の国語教科書で読むか、文庫本で読むか、という時代だった。高校生になってからは、中央公論社の「日本の詩歌」シリーズを買って読むことになった。全部を買うということはなかったが、半分ぐらいは買って読んだだろうか。紫色の装釘が印象に残っている。これは、後に中公文庫でも刊行になるのだが、もう老眼になると小さい字がつらくなってきたので、文庫版には手を出していない。

番組であつかってあった、石垣りんの詩は、およそ古風な詩情とはほどとおいものである。日本文学における詩情は、古くは『万葉集』の時代にさかのぼることになる。その流れのなかにあって、近代の個として自己をきわめて肯定的に描き出していると感じる。しかし、近代詩があつかってきた近代の憂愁というべきものは感じない。新しい詩の表現である。あるいは、そのように生きた一人の人間のことばとして読むことになるだろうか。

なるほどこのような詩の世界があるのかと、興味深く思って見ていた。

番組の企画として若い人向けということのようだが、今の若い人は、このような詩をどう読むだろうか。

2024年3月26日記

2024-03-27

2024年3月27日 當山日出夫

桜 2024年3月27日撮影

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

「古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀」2024-03-27

2024年3月27日 當山日出夫

NHKスペシャル 古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀

いろいろ言いたいことのある内容だった。

まず、広開土王のこと。その碑文は、現在、古代史研究においてどのように史料として使われることになるのだろうか。まず、このあたりの検証が必要である。

古代の朝鮮半島と日本(倭、あるいは、ヤマト)が、どのような関係にあったのかは、もっと多面的に考える必要があるにちがいない。今ではもう聞かれることがなくなったが、騎馬民族説というのがあった。古代の鉄器の技術、それから、馬のことなど、東アジア全体を視野に入れた学際的研究がまたれるところである。

番組ではさらりと言っていただけだったが、倭の五王の一人、応神天皇のことは日本語の歴史に残っている。いわゆる漢字の伝来である。以前、日本語の歴史を学生に話すとき、漢字の伝来については、おおむね次のようなことを話した。……『日本書紀』『古事記』によれば、朝鮮半島の百済の国から、馬を送ってきた。その馬の世話をする人(アチキ、アチキシ)が、文字が読めた。そこで、さらに文字を知っている人をよこしてもらいたいと言った。そこで、ワニ(和仁)がやってきた。『古事記』によれば、『論語』『千字文』を持ってきたとある。まあ、このあたりのことは、日本語の歴史のなかで漢字の伝来をどのように記述するかということになる。

ここをどう解釈するかということになれば、古代の日本で統一国家ができたころ、朝鮮半島の国と交易があった。そこで、馬、文字がもたらされたことになる。これは、おそらく、朝鮮半島から、文字をあつかうことを職掌とする人びとが日本でやってきて、日本で居住し仕事をするようになった、ということを意味するのであろう。古代日本で社会的に文字(漢字)を必要とした時代こそが、古代統一国家としての日本が海外の国とさまざまに交流のあった時代ということになる。これを逆に言うならば、それまでの日本の古代国家は、文字(漢字)を組織的に必要とするにはいたっていなかったということである。これは、古代の日本を考えるうえでかなり重要な論点の一つであると思うのだが、番組ではふれることがなかった。

興味深かったこととしては、古代の馬のこと。どこで飼育されていたか、分かるようになっているらしい。

鉄器の製造については、古代の技術でどのようなことができたのか、これからの研究課題かなと思うところがある。

倭の五王の時代ぐらいからは、現在の天皇につながることが確認できるというのが、常識的な見解かなと思っているのだが、このあたり、現代の歴史学ではどのように考えているのだろうか。古代統一国家を作ったのが、現在につながる古代の天皇であったということになるという理解でいいのだろうか。

ただ、前回も思ったことなのだが、古代日本国家をどうも過大に描きすぎではないかと思うが、どうだろうか。古代の日本は、東の海のはての島国で、そんなにたいした外交的影響力などなかったろうと思うのだが。

2024年3月25日記

ウチのどうぶつえん「シニアさんをサポート」2024-03-27

2024年3月27日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん シニアさんをサポート

再放送である。去年の放送のときに見たのを憶えている。

白内障になったアシカにペンギン。ペンギンは手術をすることになった。動物眼科医という仕事があることは、この番組で知った。

レッサーパンダの風太が人気になったときのことは記憶にある。その風太も高齢である。笹の葉を粉にしてふりかけとして食べている。そのための調理器は、クラウドファンディングで資金を集めて購入したという。その他にも、動物園の動物の生活の質を向上させるために、クラウドファンディングによる資金調達は行われているらしい。

人間が年をとるのは当然である。同じように動物園の動物も年をとる。年をとった動物たちのことを考えるということは、人間の生活を考えることにもつながる。動物園の動物をとおして、人間のことが見えてくる。

2024年3月16日記

「地球の破壊者たち インターポール事件ファイル: “海のコカイン” 闇のフィクサー」2024-03-26

2024年3月26日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「地球の破壊者たち インターポール事件ファイル: “海のコカイン” 闇のフィクサー」

二〇二三年、フランスの制作。

トトアバという魚の浮き袋のことは、この番組で知った。検索してみると、この事件のことは、話題になったことがあるらしい。ただ、私の記憶としては、この件についてニュースで見たことは憶えていない。

メキシコ、それから中国のマフィアのボスを、インターポールで国際手配として、それを追っていく。インターポールという組織がどんなことをするところなのか、まったく知るところがなかったのだが、その活動がテレビで紹介されることは希なことらしい。そに環境にかかわる犯罪を専門にする部署があることは、始めて知った。環境問題も国際的な犯罪となるというのは、まさに今の時代ならではのことかと思う。

賄賂をわたせば、指名手配されていても逃げられる。日本では通常は考えられないことだが、メキシコとかではそのような社会になっている。これは、すぐにどうなるということではないのかもしれない。

ところで、トトアバは漢方薬として中国で消費されているということなのだが、その中国での流通とか売買の実態はどんなものなのだろうか。(メキシコと違い、中国でのことなら日本のメディアも取材できるかと思うが、どうなのだろうか。)

シーシェパードの名前をひさしぶりに見た。日本では捕鯨に対する反対運動の組織として知られていると思うが、海の生物の生態系を守る活動をしている組織であることは理解できる。

2024年3月8日記

「木枯し紋次郎VS必殺仕掛人 〜時代が求めたアウトローたち〜」2024-03-26

2024年3月26日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 木枯し紋次郎VS必殺仕掛人 〜時代が求めたアウトローたち〜

一九七二年、私は高校生であった。たまたまであるが、テレビの「必殺仕掛人」の最初の回を見た。印象にのこっているのは、緒形拳と林与一の対決シーン。なぜ刀を止めた、おまえが針をとめたからだ……こんな台詞であった。このところ、NHKは前半の部分しか放送しなかったのが残念である。(どうでもいいことだが、おなじような台詞のやりとりは、白土三平の「カムイ伝」にもある。「必殺」のプロデューサーであった山内久司氏にこのことを直接聞いてみたことがある。たまたま同じ大学で教えていたことがある。その返事としては、「必殺」の方が先であったということだった。)

「木枯し紋次郎」の監督が市川崑ということなのだが、「必殺仕掛人」の監督は深作欣二であったことになる。これは面白いはずである。(実際、どれほど現場にかかわったのかという気もしないではないが。)

その始まりのナレーション……木枯し紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたという……は、いまだに憶えている。

市川崑監督の『股旅』は見た。たしか紀伊國屋ホールだったと思うのだが、どうだったろうか。見てみると、「木枯し紋次郎」の後に『股旅』を作ったことになる。

映像的にこれら両作品はすぐれているのだが、音楽もいい。それまでの時代劇にはない斬新なものだった。「木枯し紋次郎」の「だれかが風の中で」を歌ったのは、小室等。(この曲は、今、私が自動車のなかで聞くことにしている音楽のなかにある。CDをMP3にして、USBメモリにいれたものであるが。)後のことになるが、必殺シリーズの音楽、西崎綠の歌った「旅愁」は今も記憶にある。

「木枯し紋次郎」「必殺仕掛人」は、ともに小説が原作になっている。笹沢佐保の「木枯し紋次郎」は、そのほとんどを読んだかと憶えている。大学生になってからだろうか、文庫本でまとめて刊行されたのを読んだ。見てみると、「木枯し紋次郎」は、今でも読める。特に、創元推理文庫でミステリ作品としてのアンソロジーも刊行されている。「必殺仕掛人」は、池波正太郎の原作である。これは今でも文庫本で読める。読んでみると、テレビの「必殺仕掛人」は、かなり原作から変わっている。

記憶では、「木枯し紋次郎」は、週刊誌連載のときから、社会の話題になっていた。学校の授業で、先生がこの小説のことについて言及していたのを憶えている。たしか、「あっしにはかかわりのねえことでござんす」の台詞について、今はこんなことばがはやっているらしいが、君たちはもっと社会のことに関心を持たなければならない、というような文脈だったかと憶えている。

時代背景として、政治の季節の終わり。七〇年安保の終わり。浅間山荘事件。連合赤軍事件。これらのことは憶えている。また、その後、田中角栄が総理になったときのことも、記憶にある。言われてみれば、たしかに、このような時代背景のもとに、これらのドラマが制作され、ヒットしたという説明は、なんとなく理解できる。大映が倒産したのも、高校のときのことだったことを思い出した。

内田樹の言っていたことは、半分は納得できる。まあ、確かにあの時代、完全無欠のヒーローというものには、共感できない時代になっていたかと思う。人間は、だれでも何かしら汚い部分がある。だが、そのなかに人間性もあり、その残された人間味で世の中がなんとかなっている。こんな感じの世の中だったかと思う。

ただ、これからの時代について、新しいつながりをもとめて共同体を構築していく必要がある、というあたりは、内田樹の持論かと思うが、私は必ずしも賛成できない。その新しいコミュニティの理念が、過剰で過激な「正しさ」として圧迫感を感じる人びとが多くいるという側面を見る必要があるだろう。

それから、テレビ時代劇で思い出すのは、「用心棒」シリーズ。島田順司とか左右田一平が出ていた。アウトローを描いた傑作時代劇だと思うのだが、今ではもう憶えている人は少ないかもしれない。

2024年3月23日記

浦沢直樹の漫勉neo「水木しげる」2024-03-25

2024年3月25日 當山日出夫

浦沢直樹の漫勉neo 水木しげる

たまたま番組表を見ていて気がついたので録画しておいて見た。

「鬼太郎」は、子どものころ「少年マガジン」で連載が始まったのを読んだと記憶している。そのときのタイトルは「墓場の鬼太郎」であった。それが後に「ゲゲゲの鬼太郎」に変更になった。

初期の漫画雑誌版の「鬼太郎」はリアルタイムの読者だったことになる。しかし、貸本マンガの「墓場鬼太郎」は読んでいない。私の世代だろ、かろうじて貸本屋という存在が記憶のなかにあるのだが、自分で漫画を読むようになったころは、漫画雑誌の時代になっていた。(ちなみに、「サイボーグ009」なども雑誌連載で読んだ世代ということになる。)

テレビアニメも見た。しかし、徐々につまらなくなって見るのを止めた。それは、いつのまにか、鬼太郎が正義のために戦うヒーローになってしまっていったからである。そこに「鬼太郎」の持っていた、どこか人間の世界を斜めに見ているような視点が欠落していくのを感じたのである。言いかえるならば、「鬼太郎」の面白さは、単なる勧善懲悪の物語ではない、ということになる。

番組では、「鬼太郎」の作画の謎のいくつかについて説明があった。なるほどと思うところが多くある。鬼太郎の髪の毛の描き方とか、草むらの描写、ベタの使い方、たしかに「鬼太郎」の絵の魅力は、こういうところにある。

ベタの使い方が、アメコミの影響であるという指摘は面白かった。

写真を撮って、それをもとに背景だけを描いてストックしてあった。使われないままになってしまったものもある。

水木しげるは、Gペンを使って描いたという。Gペンは、私も使った経験がある。漫画を描いたりはしなかった。普通に文字を書くためである。近所の小学校の近くの文房具屋さんで、普通に売っていた時代である。

そのGペンでなければ欠けない、点描であったことになる。

「鬼太郎」の魅力は、その絵やキャラクター、妖怪たちにあるのは無論であるが、どこか世をすねたような視点で見ている、ニヒルな雰囲気にあったかと、今になって思うところがある。その意味では、少年漫画で、よくこのような作品を描いたものだと思う。「鬼太郎」においては、ねずみ男の存在が意味のあるものであることが分かる。

今、「鬼太郎」を読もうと思うと、中公文庫版ということになる。買ってはみたのだが、文庫版に作ってあるので、字が小さすぎて老眼の身にはつらい。読むのをあきらめた。どこか、昔の「少年マガジン」の大きさで刊行してくれないものかと思う。漫画にとって、どの大きさの本で読むかというのは、とても重要なことだと感じる。

2024年3月21日記

『光る君へ』「思いの果て」2024-03-25

2024年3月25日 當山日出夫

『光る君へ』第12回「思いの果て」

平安時代の貴族の婚姻制度がどのようなものであったか、どうにも分かりにくい。男性が女性のもとに通う、通い婚という形態でありつつ、家は男系によって受け継がれていく。男性にしてみれば、嫡妻の他に妾を多く持つことができた。このあたりが、現在の婚姻制度とかなり違うところがあるので、今ひとつ理解できないところがある。

このような時代的背景をもとに、『源氏物語』では光源氏が多くの女生と関係をもちながらも、それぞれを大事にあつかうという「いろごのみ」を実践した理想的な男性ということになるのだろう。

ドラマの始まりは、まひろの父の為時の妾(といっていいのだろうが)なつめの死からであった。臨終にのぞんで出家するのはいいとしても、死ぬところまでその場にいるというのは、どうなのだろうかと思う。平安朝貴族にとって死は忌むべきものであったと思うのだが、このあたりの描き方は、現代の人間の感覚に近いものとし作ってあるようである。

『源氏物語』などを読んだ知識では、平安貴族は、女性はそう簡単に男性に顔を見せることはなかった、と理解しているのだが、このドラマでは、かなり簡単に顔を見せている。ドラマの演出上、顔を隠してばかりではうまくいかないということもあるのだろうと思う。

この回でも、猫の小麻呂が出てきていた。倫子は、猫が大好きであるが、その猫よりも道長の方が好きであったらしい。

まひろと道長はこれからどういう関係になるのだろうか。まひろは道長の妾になることを拒否する。ただ、この先のこととしては、まひろは道長の娘の彰子の女房となるはずだが、この立場であると道長と関係があってもおかしくはないということだろうと理解しているのだが、はたしてどうなることかと思っている。

2024年3月24日記