ドキュメント20min.「科学ノ怪宴」2024-04-24

2024年4月24日 當山日出夫

ドキュメント20min. 科学ノ怪宴

肉に電気を流すとやわらかくなる。説明されるとなるほどと思う。問題は、実用化するメリット、それから、コスト、ということになるだろうか。肉はやわらかければいいというものではないと思うので、実際に使うとなると人間の感覚でどう判断するかということになるだろう。しかし、現象としては面白い。

人間には聞こえない低周波、高周波の音が、耳では聞こえていなくても、体には影響を与えている。このメカニズムの解明は分かっていないとしても、なんとなくそういうこともあるだろうとは感じるところである。人間の生活環境を考えるうえで、このことの研究は重要なものになる可能性がある。

味覚の再現。これが一番リアルである。人間の味覚を細かく分析するというのもすごいが、それを再現してみるというのもすごい。たぶん、人間がまだ味わったことのない味覚は、この世界に数多くあるにちがいない。また、現実的には、有名レストランの味を、科学的に分析するということが可能ということになるのかとも思う。

これもある種の科学番組なのだが、切り口によってはこのような見せ方もできる、ということになる。面白かった。

2024年4月23日記

新プロジェクトX「約束の春 〜三陸鉄道 復旧への苦闘〜」2024-04-24

2024年4月24日 當山日出夫

新プロジェクトX 約束の春 〜三陸鉄道 復旧への苦闘〜

朝ドラの『あまちゃん』は、三回見ている。最初の放送のときにほとんど見た。その後の再放送のときも見ている。全部で三回ほぼすべてを見ている。やはりドラマのなかに出てきた「北鉄」のことを思ってしまう。

春の学校の入学式に間に合うように、三年で工事を終わらせる。無茶だったかもしれないが、それを成し遂げた人たちがいた。また、それを支える地元の人たちがいたことになる。

運転再開のときの地元の人たちの喜びの表情がとてもいい。

たしかに、これは感動的な物語である。この番組の編集として、特に感動的な場面を作り出したということではない(ように感じる)。

二〇一一年の震災の後のことである。今から一〇年ほど前のことになる。この時代のことなら、記録映像、ニュース映像などが、残っている。記録が残っていることの意味を強く感じる。番組のなかで、津波の被害の映像が出ていたが、私は、これは放送すべきことだと思う。

強いて天邪鬼なことを書いてみるならば、この三鉄の将来性はどうなのだろうか。沿線住民の人口はどうなっているのか。観光客は、どれほど来ているのか。これらの将来的な予想は、どんなものなのか。外国人観光客にたよるぐらいなのだろうか。

気にはなることなのだが、このことについては、一切触れていなかった。これはこれで正しい判断であると、私は思う。過疎高齢化の地域である。三鉄の将来がどうなるにせよ、津波被害からの復旧の経験は、今後の三鉄のなかに生きのこっていくにちがいない。これぐらいしか、将来への希望を感じないということなのだが。

2024年4月21日記

フロンティア「恐竜王国 繁栄の秘密」2024-04-23

2024年4月23日 當山日出夫

フロンティア 恐竜王国 繁栄の秘密

恐竜がどうして絶滅したかということについては、巨大隕石の衝突に起因する気候変動ということが、一般的に知られている知識になっているかと思う。しかし、なぜ、恐竜が繁栄することになったのか、ということについては、これまであまりテレビなどで語られることはなかったように思う。

三畳紀のCPEという雨の多かった時代。植物が多くなる。それにともなって、恐竜は生息域をひろげ世界中に(この時代の世界の大陸の地図は現代とはちがっているが)広がって繁栄することになった。

たぶん、おおきな筋書きとしてはこうのなだろうと思うが、競合する他の生物たちに勝てた理由はいったい何なのかということになると、まだ謎は多いようだ。

CPEにおいて雨が降ったのは、火山活動による、CO2、温室効果ガスの増大による水温の上昇によるという。恐竜が繁栄するきっかけになったのも、やはり気候変動によるものになるということらしい。

番組の最後で語っていたことだが、現代の地球にとって気候変動はきわめて重要な課題である。このことを理解するためにも、古代において地球でどのような気候変動があり、それが地球上の生きものにどのような影響を与えてきたのか、俯瞰的な知見が必要になるだろう。今の地球環境問題と短絡的に直結させることはないかもしれないが、しかし、この問題について考える根底に、長い地球の歴史と生命ということが視野に入っている必要がある。

2024年4月19日記

ドキュメント72時間「鹿児島空港 旅立ちの春に」2024-04-23

2024年4月23日 當山日出夫

ドキュメント72時間 鹿児島空港 旅立ちの春に

バスターミナルとか空港とか、この番組では、旅立ちの季節ならではの情景をあつかっている。今回は、鹿児島空港。

なぜ鹿児島空港なのだろうと思わなくもない。特に変わったところがあるという空港でもないようである。強いていえば、鹿児島県内の離島を結ぶ便があるくらいだろうか。

登場してきている人びとは、ごく普通の人たちである。特に劇的な人生を歩んできたという人は出てきていない。それが、この番組のいいところである。(まあ、時としては、こんな大変な人生もあるんだと、驚かされるようなときもあったりするが。)

就職、それから冠婚葬祭で、人はここをおとずれ、また、旅立っていく。

印象にのこるのは、茨城の総合病院に行くという看護師の女性。就職で鹿児島を離れる友達を見送りにきた、男性二人。それから、チリからのホームステイでやってきた少年を出迎える家族、などであろうか。

また、プロペラ機に乗りたいという子どもの希望のために、大阪からやってきたという父と男の子がいた。こんな子どもの夢をかなえてくれる、こういうのもいいと思う。

鹿児島の人は、情に厚いというべきなのか。空港まで多くの人が見送りに来ている。これが東京だったら、就職で旅立つとしても、玄関先で別れて終わりということが多そうである。

そのように編集してあるのか、総じて、鹿児島を離れる人が多いように感じた。たぶん、全国的な人口の移動からするならば、鹿児島から東京や大阪、あるいは、福岡などに、仕事で移動する人が多いと思われる。(おそらく将来的には鹿児島県は過疎の地域になるかもしれないが、これは少し先の未来のことになる。)

テレビの取材ということもあるのだろうが、鹿児島方言で話す人が出てきていなかったのも、気になったところでもある。NHKの番組の作り方の方針にもよるのかと思うが、この番組では、女性が配偶者のことを「主人」と言った場合、そのまま字幕でも「主人」としていた。他のNHKのニュース番組などだと、「主人」と言っているのを「夫」と言いかえて字幕に表す。私としては、このような場合、訂正せずに話していることばをそのまま使うのがいいと思っている。

2024年4月21日記

「最深日本研究〜外国人博士の目〜」2024-04-22

2024年4月22日 當山日出夫

レギュラー番組への道 最深日本研究〜外国人博士の目〜

私は、YouTubeは基本的に見ない。だから、VTuberということばは知識としては知っているのだが、実際にそれを見るということはない。(YouTubeを使ったのは、COVID-19のとき、オンデマンド授業ということで、しかたなしに使ったぐらいである。それも、基本は、音声データ付きのパワーポイントとした。)

バーチャル空間のなかで、美少女のアバターを使っている男性たち。美少女キャラクターは、圧倒的に男性に多い。こう書くとどうも、フェミニストというような人たちの顰蹙を買いそうな存在に思える。はたして、このような人びとの実態はどのようなもので、また、それは今の日本の社会、あるいは世界のなかで、どう受容され理解されているのだろうか。これは、とても興味深いテーマである。

日本でも研究はあるのだろう。たぶん、私の興味があまりその方面に向かないから知らないだけだと思う。しかし、テレビの番組などで、VR世界のことをとりあげるということはあまりないようにも思える。最近の技術の進歩で、このようなVRが可能になったということはニュースで扱われることが多いが、その段階にとどまっている。

NHKとしても、「レギュラー番組への道」という実験的なこころみが許されるところで、しかも、外国人(ロシア生まれのスイスの人ということになるのだろう)の研究者の視点から見るということで、この番組が出来ている。

美少女キャラクターになる、日本人男性、そして目指すものはカワイイである。カワイイということばは、私の経験では、一九八〇年代ごろから広く若い人たち、それも女性の間で使われてきた概念だと感じている。それを経て、今では、男性がカワイイ存在に自己を託すようになってきている。

街中にあふれる美少女キャラクターについては、現代ではときとして、PCではないとして、クレームがつくことがある。リベラルというような立場からは、女性のセクシュアリティを商品化している、というような批判にさらされることになる。

だが、ひとたびバーチャル空間にはいれば、美少女キャラクターであふれている。「びばにく」(美少女、バーチャル、受肉)ということばは、この番組で知った。はたして、日本語として定着するだろうか。

また、これは、一昔前のような、オタクとも違う(ように思える。)が、しかし、きちんと分析し理解できる自信はない。

おそらく、近い将来には、バーチャル世界にもAIの流れが押し寄せるだろう。AIの作ったアバターで、AIの声で活動するということあるにちがいない。もうすでにあってもおかしくない。それに自動翻訳機能があれば、簡単に国境とか言語の壁を越えられる、かもしれない。

この人間の世界のことを考えるのに、バーチャル空間のことをふくめて考えなければならない時代になったことは確かだと思う。そして、人間における性の問題とも深くかかわる。おそらくバーチャル空間は、人間が持っている性(生物的な、また、文化的で社会的な)から、解放されることが可能な世界として、これからの人間の世界のなかに存在することになるだろう。

しかし、また、バーチャルな世界だからこそ、現実の世界の、職業、社会的階層、性別、社会的文化的な背景などから自由であると同時に、それらが無意識のうちにはいりこんでくる世界になるかもしれない。その日本的な現れが、男性による美少女キャラクターということになるのかとも思う。

2024年4月18日記

『光る君へ』「華の影」2024-04-22

2024年4月22日 當山日出夫

『光る君へ』第16回「華の影」

今から半世紀ほど昔、慶應の国文の学生だったころ、あることから、平安貴族の日記の天気の記述を調べてみたことがある。『小右記』『中右記』『明月記』などである。これらの日記は、その日の天気が必ず記されているのが原則である。たとえば、天晴、陰、雨、など。これを調べて一覧できるようにした。(そのころは、パソコンの出る前の時代である。今ならエクセルを使うかもしれないが、ひたすら読んで紙に書いて数えて集計した。ただ、特に論文にするとかということなく終わってしまったことなのだが。)

平安貴族の日記の天気の記載を見ると、平安時代は現代の京都よりも雪が多く降り積もったことがあったようである。

『枕草子』には、雪が降ったので、庭に雪の山を作ったとある。『源氏物語』には、雪が降って少女が雪とたわむれる描写もある。平安時代の貴族にとって雪とはどんなものだったのだろうか。

雪のことと、民俗学的な解釈と、いろいろと考えることができる事例になる。

「香炉峰の雪」のエピソードは、あまりにも有名である。

平安時代は疫病の流行もあった。疫病については、近年のCOVID-19のこともあって、歴史のなかで疫病がどんなであったか考える本がでていたりする。コロナ禍の前の本になるが、

『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫).石弘之.KADOKAWA.2018

が面白かった。

疫病については、日本文学のなかでも登場する。だが、平安朝の仮名文学、『源氏物語』などには、登場しない。そのせいもあってだろうか、『源氏物語』などに関連して、平安時代の疫病のことを論じたものは、あまり見かけないように思える。

しかし、歴史についてみれば、疫病の流行、それから、気候変動による飢饉、これは歴史を動かしてきた大きな原動力の一つであったと言っていいだろう。少なくとも、近年の歴史学では、これらの要因を無視することはできなくなっていると思える。

平安京の路傍に死体が遺棄されていた状況などは、絵巻物などの絵画資料などから推測することもできる。

平安時代は、王朝貴族の花やかな文化の時代であった。このドラマの定子のサロンなどは、それを代表するものだろう。一方で、飢饉と疫病の時代でもあった。

ところで、もし、藤原公任自筆の『古今和歌集』が伝存していたら、国宝どころのさわぎではない。現存する最も古い本は、平安時代の写本である元永本である。国宝。これは、東京国立博物館の所蔵なので、時々展示されていたりする。

この回でも「あめつち」が出てきていた。この時代、「あめつち」が平安貴族たちの間で、使われていた……文字の学習ということになるのだろうか……としても、必ずしも不自然ではない。

余計なことを書いておくと、番組の最後の紀行のとき、平安時代に仮名ができて墨の需要がたかまったと言っていたが、これはどうだろうか。たしかに仮名は平安時代の初期に成立しているし、仮名で書かれた文献もある。だが、それが墨の需要をたかめたとまでは言えないだろう。当時、書かれたものの大部分は、変体漢文で書かれた古文書、古記録、また、写経の類であったろうと思うのだが、どうだろうか。

2024年4月21日記

「フロイト“夢判断” (3)エディプス・コンプレクスの発見」2024-04-21

2024年4月21日 當山日出夫

100分de名著 フロイト“夢判断” (3)エディプス・コンプレクスの発見

この回の内容については、いろいろと考えるところがある。セクシュアリティをめぐる議論は、難しい面がある。思うことを書いてみる。

世の中の人びとのなかに一定数は、ちょっと変わった性的な傾向の人がいる。これは、理解できることである。(それが何に起因するものなのか、生得的なものなのかどうか、この点についていろいろ議論があると思うが。)

だが、それが、一般の社会的規範意識のなかで抑圧され、表面に出ないようにということで、どうにかなっているという側面もある。この場合、制度的に抑圧されているということが重要になる。理不尽な歴史ということになる。どのようであれ、人権は守らねばならない。

それが、そのような性的傾向の人がいてあたりまえなのだという言説がひろまり、社会が許容するようになると、自らそう判断するひとが表面化してくる。だからといって、社会的な偏見がまったくなくなるかというとそうでもないし、そのような人びとの権利は守られなければならない。

このあたりまでは、今日の人権感覚として普通に理解できることであろう。どのような立場にたつにせよ。

問題と思うのは、人間の性的な傾向というのは、まったく生まれつきのものであって、本人の意志や生育環境ではどうにもならないものなのか、あるは、場合によってはある程度はその影響を受けるものなのか……今、議論となるべきは、ここのところをめぐることだと思う。はたして全くグレーゾーンは無いと言っていいのだろうか。たぶん、ここのところの議論が、どのような立場にたつにせよ、一番避けているところのように思えてならない。

自己のセクシュアリティは、自分の自由意志で自由に判断して決めることが可能なものなのか、あるいは、なにかしら文化的、社会的な要因が関係するものなのか。そもそも、人間にまったっくの、文化や歴史や社会から独立した自由な意志とはありうるものなのか。人間は自身の性からまったく影響を受けることなく、自由意志を持ちうるのだろうか。

セクシュアリティをめぐる議論が多くあるなかで、私が、歯切れの悪さを感じるのは、ここのところにふみこんで論じようとしないからかもしれない。あるいは、このところの議論がタブー視されているとも感じる。

もし文化的、社会的要因を認めるとしても、人は、どのような文化や社会に生まれ育つかを、自分で選択できない。この意味では、それによる偏見や差別は容認されるものではない。

少なくとも、自分が責任をとることのできないこと、それがマイノリティとなる性的傾向であるとしても、それによる偏見や差別があってはならない。これは、多くの人が納得するところだろう。この主張は明快である。しかし、そのなかに小児性愛をふくめて考える人は、いないだろう。それは何故か。

現代の性のあり方の多様性というとき、おそらく暗黙の前提になっているのは、近代西欧社会であったり、家父長制的家族制度であったりであろう。フロイトをめぐる議論でも、近代のヨーロッパ社会のことが前提にある。だが、これも、近代以前の社会、あるいは、世界の多くの国々、民族などを視野にいれて考えるならば、また違った側面が見えてくるかもしれないと思っている。

性のあり方というのは、生物学的な側面と、文化的な側面と、この両方の面から考えなければならないと、私は思っている。問題は、総合的に考えるとして、そのバランスだろうか。

エディプス・コンプレックスについていえば、それが女性の場合にどうなるのかということは興味深い。また、この概念が、人間に普遍的に、地域、歴史、文化、民族などを問わず、見られるものだろうか、ということも気になることである。

2024年4月16日記

『虎に翼』「女は三界に家なし?」2024-04-21

2024年4月21日 當山日出夫

『虎に翼』第3週「女は三界に家なし?」

このドラマの作り方は、これまでの朝ドラとは違っている。従来の朝ドラでは描かなかったような人間の気持ちを描いている。これは、非常に好意的に受けとめられている。

強いていうならば、であるが、このドラマはPCである。それでありながら、エンターテイメントとしてのドラマの面白さを保っている。実に見事な作り方と言わざるをえない。このあたりの方針は、社会のなかでの、いわゆるリベラルな人たちの関心をひきつけたいという、NHKの思惑もあるのだろうと思う。

この週を見て思ったことなど、思うことなど書いてみる。

ドラマの最初の回だったと思うが、寅子の部屋の本棚が映っていた。なかに『放浪記』があった。林芙美子の代表作である。当時のベストセラーであった。この作品によって林芙美子は世に知られることになった。寅子は、『放浪記』を読む女学生として登場したことになる。

『放浪記』は、社会の最底辺に近いところの女性の話である。もうこれ以上墜ちるところはない。これ以上墜ちるとしたら、カフェーの女給になるか、それよりもさらに下の娼婦にでもなるか、という境遇の日々を綴っている。そのような生活のなかにあって、林芙美子は文学への気持ちを持ち続けてきたのだが。

これまで、朝ドラには、カフェーが登場してきている。近年では、『エール』に出てきたし、また、『おちょやん』にも出てきている。しかし、昭和のはじめごろのカフェーは、今でいう性風俗業であったと考えるべきで、これまで描き方がすこし上品すぎたと思っている。この意味では、『虎に翼』で出てきているカフェーは、かなり実態に近いものとして描かれているといっていいだろう。

明律大学の女子部であるが、当時の学校の制度としては、どのような位置づけなのだろうか。男性ならば、旧制の中学を経て高等学校(旧制)、そして大学ということになる。大学の法学部に入る前の段階の教育ということなら、旧制高校、あるいは、予科ということになろうか。

寅子は女学校の卒業だから、予科に進学できる資格があるといえるだろう。しかし、よねの場合どうだろうか。その生いたちから考えると、たぶん小学校もろくに行かせてもらえていないと推測される。そこから、猛勉強したとして、しかもカフェーのボーイの仕事をしながら、勉強できただろうか。これは、かなり無理があると思わざるをない設定である。このあたりは、ドラマとしての作り方ということになろうか。

花江が女中と勘違いされて落ち込むシーンがあった。これもちょっと不自然な気がしたところである。猪爪家ぐらいだったら、女中を使っていてもおかしくはないと思うがどうだろう。また、着ているものなどから、女中かそうでないかは、見たときに区別がつくと思える。

お嫁に来た人の気持ちは寅子にはわからない、と花江は言っていた。それはそうなのだろうが、しかし、この当時はこのような生き方が圧倒的多数であった時代である。それを、法律を学んで弁護士になろうとしている寅子、この時代では例外的存在である、と比較して考えるという発想自体が、ちょっと無理があるように感じる。

ただ、これも、今日の価値観からするなら、女性の選択の自由ということで、対等にあつかって考えることになる。これはこれで正しいことになるのだが、時代設定から考えると、ここも少し無理があるように感じる。

これまで見てきたところでは、このドラマの登場人物はみな恵まれている。ただ、よねだけが例外的に苦労していることにになる。

男爵令嬢の涼子は、自分が努力したことを認めてもらえないと言っていた。これも正しい。しかし、努力できる環境にあった、華族という身分であった、ということも考えるべきかもしれない。世の中には、努力さえできない境遇の人びとが多くいた、それも特に女性に限ったことではなく、そういう時代であった。(この意味では、よねの姉がもっともみじめということになるかもしれない。これも、今日では、社会の格差ということで、あらためて考えなければならない問題になっている。)

昭和のはじめごろである。世界大恐慌のあおりで、日本も不景気のどん底にあった。身を売る女性が多くいた時代である。そういえば、昔の学校の教科書には、貧しい村の人が子ども売ることについて、役所が相談にのっていたとあったと憶えているのだが、はたしてこのような時代のことは、どれほど知られていることなのだろうか。今ではあまり読まれなくなってしまったかとも思うが、宮尾登美子の高知を舞台に自分の父のことを描いた小説がある。女衒である。小説のなかでは、芸妓娼妓紹介業ということになっていたと思うが。このような時代背景を思ってみると、『虎に翼』の描こうとしているドラマは、今日的な価値観を前面に出してきている。これが悪いということではなく、このような視点からドラマを作るような時代に今はなってきている、ということである。

この意味では、一九七〇~八〇年ごろの京都の映画の世界を描く『オードリー』とも、一九九〇年代の東京と沖縄を描く『ちゅらさん』とも、人間の生き方についての基本的価値観をドラマでどう描くかということが、大きく変わってきていると、私は思うのである。

2024年4月20日記

ザ・バックヤード「浜松市楽器博物館」2024-04-20

2024年4月20日 當山日出夫

ザ・バックヤード 浜松市楽器博物館

浜松市楽器博物館のことは知らなかった。

リードオルガンは、私の小学生のころ、教室にあったのを記憶している。これはいまではもう使われなくなってしまっているのだろう。子どもの幼稚園のころには、ピアノがあった。

金管楽器……唇を振動させて音を出す。これと木管楽器の違いということも、初めて知った。

興味深いのは、収蔵してある楽器を、音の出る状態で保っていることかと思う。(あるいは、そのすべてがそうであるということはないのかもしれないのだが。)

小学校での授業はとてもいい。実際に、世界の各地の楽器を音を出してみる。そして、自分で演奏してみる。このような機会は、是非とも多くの子どもたちに体験してもらいたいものである。

「スーホの白い馬」は、子どもの小学校の教科書に載っていた。何十年も前のことである。宿題で、本読みをしなければならないので、何回も子どもが読むのを聞いた。この作品、今の小学校の国語の教科書にもあるようだ。

2024年4月18日記

映像の世紀バタフライエフェクト「史上最大の作戦 ノルマンディー上陸」2024-04-20

2024年4月20日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 史上最大の作戦 ノルマンディー上陸

私の子どものころ、テレビで「コンバット」を見ていた。第二次世界大戦のとき、ヨーロッパ戦線におけるアメリカ軍の物語である。この番組が始まるとき、私の記憶ではということになるが、ノルマンディー上陸作戦のときのことから話しが始まっていたと憶えている。

映画の『史上最大の作戦』は、テレビで見ただろうか。原題が、『The Longest Day』であったことも、どこかで知って憶えていることである。

最近読んだもののなかでは、『戦場のコックたち』(深緑野分)もたしか、連合軍のノルマンディー上陸作戦のときのことから始まっていたかと思う。また、『針の眼』(ケン・フォレット)は、英独の諜報戦を描いた傑作戦争冒険小説といっていいだろう。

これまでに「映像の世紀」シリーズでも、ノルマンディー上陸作戦のことは取りあげてきている。諜報戦、天候の偶然、ドイツ軍の防衛の不備、特にロンメル将軍のこと……などが取りあげられてきたのを見たと憶えている。また、このときに戦場にいた、ロバート・キャパの写真はあまりに有名かもしれない。

上陸作戦を知らせる暗号に使われたのは、ヴェルレーヌの詩だった。これを、番組では上田敏の訳を使っていた。(これは、高校生のころに憶えたものである。)

戦史に詳しい人ならいろいろ言うべきことがあるのかもしれないが、しかし、番組を見た限りで、この上陸作戦の成功、逆にいえば、ドイツ軍の失敗、ということが、その後の戦局の分かれ目になったことになる。このあたり軍事史の専門家は、どう評価することになるのだろうか。

それにしても、この作戦のときの実際の映像資料が残っているということも、ある意味では驚きである。しかも、部分的にはカラー映像で残っている。

サリンジャーのことが出てきていた。『ライ麦畑でつかまえて』は読んだことはあるのだが、その作者ということぐらいでしか知らなかった。

2024年4月17日記