「舟を編む ~私、辞書つくります~」(6)2024-03-29

2024年3月29日 當山日出夫

舟を編む ~私、辞書つくります~(6)

紙の辞書のメリット、デメリット、それに対比して、デジタル辞書のメリット、デメリット……これは、挙げればきりがないだろう。だが、出版社としては、出版ビジネスとして利益の出るものを選択するしかない。これも、ジャパンナレッジのような会員制課金システムにするのか、一般のWEB辞書のような広告をつけるのか、USBメモリやDVD版とするのか、いろんなタイプが考えられる。

ドラマのなかで言及されていなかった論点について、ちょっとだけ書いてみる。

デジタル辞書は、文字コードに依存する。使えるデジタル文字については、現在では、作成者側の意図通りに完全にコントロールすることは難しい。

まず、使える文字種の制限。『大渡海』編集の二〇一七年の時点であれば、「JIS X 0213:2004」(現行の規格である)に基づくことになるだろう。これでまかなえない文字は使わない方針でいくのか、あるいは、ユニコードにまで範囲を広げるのか、広げるとしてもどの範囲までなのか、根本的な編集方針の再検討が必要になる。『大渡海』のような中型辞書の場合、おそらく「0213:04」の範囲内ではおさまらない字があるだろう。

次に、一般のコンピュータ、Windowsマシンを想定しておくが、利用者がどのフォントで見る設定で使っているか、ワープロなどでどの文字を使うか、これが揺れている。完全に、「0213:04」規格になっているかというと、そうでもない。古い規格の文字も使おうと思えば、フォントの切り替えによって可能である。たとえば、「祇園」の「祇」も、「しめすへん」を「ネ」に作る字と「示」に作る字とある。二者択一でフォントを切り替えることになる。(NHKの番組を見ていると、祇園の表記は基本的に「ネ氏」であるが、これは一般のコンピュータで表示することが希な文字ということになる。)

また、現在になって起こっている現象として、常用漢字の範囲内であっても、「新・拡張新字体」というべきものがある。たとえば、「進捗」の「捗」の字。右側が、「步」(旧字体)が一般であるが、常用漢字体の「歩」に作る字もある。あまり一般に気づかれていないことかもしれないが、テレビの字幕文字などでは、かなり目にする。ここ数日、テレビの報道などで「賭博」の字を目にすることが多いが、「賭」の文字の右のつくりが「者」(新字体)になっている場合がある。

では、このような問題を克服するために、文字を全部画像で示せばいいかとなるとそうもいかないだろう。これは、デジタル辞書の最大のメリットの一つである、コピーしてワープロなどで使える、ということができなくなく。

デジタル版の辞書といっても、WEB辞書を考えてみているのだが、他にもスマホ版も考えられるし、(もう今では過去のものになってしまった)電子辞書のことも考えてみる必要があるかもしれない。あるいは、DVD版のようなものも考えられる。さらには、USBメモリ版もありうるだろう。現に、大漢和がUSBメモリ版を出した。

デジタルの文字をどうコントロールして、辞書の作成者が見せたい文字を表示し、それを見て、利用者が使いたい文字を使うのか、このあたりのことについて、社会一般における基本的な議論がまだまだだと言わざるをえない。現在では、昔のようなJIS漢字批判ということは無くなってしまっているが、しかしだからといって、デジタル文字をめぐる問題がまったくなくなったわけではない。いや、使用できる文字が増えて、さらにややこしくなっているのが実情であると私は認識している。意地の悪いことを書けば、百科項目の固有名詞でつかう「渡辺」とか「斎藤」とか、厳密に考えると、とんでもないことになりそうである。「葛飾区」と「葛城市」はどうすればいいのだろうか。

辞書は、記述的な側面と同時に規範的な側面ももとめられる。現在のデジタル文字について、きちんとした議論が必要であると思う。現在のデジタル文字は、ある揺れ、曖昧さのなかで運用されているし、そのような現状に対応していくしかないのである。

デジタル文字の不安定さを前提として、記述の安定を保証するものとしての紙の辞書という考え方もあるかと思う。

余計なことかもしれないが、私のように老眼になってくると、紙の辞書よりもデジタル辞書の方がありがたいということは確かにある。

2024年3月26日

追記

最近の事例になるが、「麹」と「麴」の漢字の字体の問題がある。規範的には「麴」であるが、実際に人びとが目にするのは「麹」の方が多いだろう。これなど、現代の社会のなかで揺れている字体の一つの例ということになる。なお、この漢字は、デジタル文字としては、フォントの切り替えによる二者択一ではなく、使用しようと思えばどちらでも使える。

2024年3月28日記

ドキュメント72時間「大空に飛行機を見上げて」2024-03-29

2024年3月29日 當山日出夫

ドキュメント72時間 大空に飛行機を見上げて

再放送である。

飛行機を見ることが好きな人がいる。写真を撮る人もいる。飛行機の写真は、写真の一つのジャンルになっている。ただ、それを見るだけの人もいる。人それぞれであるが、飛行機を見ることが好きな人がいることはたしかである。

成田は飛行機撮影の重要な場所である。それから、大阪空港の近くもそうである。むかしあ、飛行場は、迷惑な存在であった。成田空港は反対闘争があったし、大阪空港でも騒音問題が大きな社会問題であった。もうそのようなことは、過去のことになってしまったのかと感じるところがある。

出てきたなかで一番共感するのは、富士通につとめていたという男性。定年退職して、お金のことを考えなくなくてもすむようになったのが幸せだという。なるほど、そういうものかなと思う。といって、今の私の生活も、ほとんどお金のことは考えることはないのであるが。

四月から放送時間が変わるのだが、私は関係ない。いつも録画しておいて後日に見ている。

2024年3月28日記

2024-03-28

2024年3月28日 當山日出夫

桜 2024年3月28日撮影

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

フロンティア「アルツハイマー病 克服に挑む」2024-03-28

2024年3月28日 當山日出夫

フロンティア アルツハイマー病 克服に挑む

レカネマブがアルツハイマー病の薬として認可されたときのことはニュースになったのを憶えている。そのときは、一つの薬ができたというぐらいの認識でいた。

このレカネマブの開発に遺伝性のアルツハイマー病の遺伝子を持つ人びとの協力のもとに、研究開発が行われたことは知らなかった。たしかに、医薬品の開発には、まずその病気がどのようにして発生するのか、そのプロセスの解明が重要であることは、理解できる。この観点からは、プロジェクトに参加してくれた人びとに感謝するしかない。

番組の意図とは違うところで思うことがある。自分の遺伝子を知る権利といえばいいのだろうか、これについて、日本の現状はどうなっているのかが気になったところである。おそらく、遺伝性のアルツハイマー病については、日本でも研究があるのだろう。その場合、病気を発症する可能性について、自分の遺伝子情報を、自ら知る権利はあるにちがいない。また一方で、それを知りたくないという場合は、知らずに生きるということも選択肢としてあってよい。

アルツハイマー病以外にも遺伝子に起因する病気はある。これらの病気について、個人の遺伝子情報のとりあつかいについては、今の日本でどのような議論がなされているのだろうか、このあたりについて考えるべき必要があるにちがいない。

2024年3月27日記

「100分de名著forユース (4)言葉で自分を見つめ直す 「石垣りん詩集」」2024-03-28

2024年3月28日 當山日出夫

100分de名著forユース (4)言葉で自分を見つめ直す 「石垣りん詩集」

石垣りんは読んだことがない。若いころ、文庫本で読める詩集は読んだつもりでいるが、そのときにはまだ刊行になっていなかったことになる。

詩といって思うことは、中学、高校のころの国語の教科書は、きまって詩からはじまっていた。私のわかいころは、詩は、学校の国語教科書で読むか、文庫本で読むか、という時代だった。高校生になってからは、中央公論社の「日本の詩歌」シリーズを買って読むことになった。全部を買うということはなかったが、半分ぐらいは買って読んだだろうか。紫色の装釘が印象に残っている。これは、後に中公文庫でも刊行になるのだが、もう老眼になると小さい字がつらくなってきたので、文庫版には手を出していない。

番組であつかってあった、石垣りんの詩は、およそ古風な詩情とはほどとおいものである。日本文学における詩情は、古くは『万葉集』の時代にさかのぼることになる。その流れのなかにあって、近代の個として自己をきわめて肯定的に描き出していると感じる。しかし、近代詩があつかってきた近代の憂愁というべきものは感じない。新しい詩の表現である。あるいは、そのように生きた一人の人間のことばとして読むことになるだろうか。

なるほどこのような詩の世界があるのかと、興味深く思って見ていた。

番組の企画として若い人向けということのようだが、今の若い人は、このような詩をどう読むだろうか。

2024年3月26日記

2024-03-27

2024年3月27日 當山日出夫

桜 2024年3月27日撮影

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

「古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀」2024-03-27

2024年3月27日 當山日出夫

NHKスペシャル 古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀

いろいろ言いたいことのある内容だった。

まず、広開土王のこと。その碑文は、現在、古代史研究においてどのように史料として使われることになるのだろうか。まず、このあたりの検証が必要である。

古代の朝鮮半島と日本(倭、あるいは、ヤマト)が、どのような関係にあったのかは、もっと多面的に考える必要があるにちがいない。今ではもう聞かれることがなくなったが、騎馬民族説というのがあった。古代の鉄器の技術、それから、馬のことなど、東アジア全体を視野に入れた学際的研究がまたれるところである。

番組ではさらりと言っていただけだったが、倭の五王の一人、応神天皇のことは日本語の歴史に残っている。いわゆる漢字の伝来である。以前、日本語の歴史を学生に話すとき、漢字の伝来については、おおむね次のようなことを話した。……『日本書紀』『古事記』によれば、朝鮮半島の百済の国から、馬を送ってきた。その馬の世話をする人(アチキ、アチキシ)が、文字が読めた。そこで、さらに文字を知っている人をよこしてもらいたいと言った。そこで、ワニ(和仁)がやってきた。『古事記』によれば、『論語』『千字文』を持ってきたとある。まあ、このあたりのことは、日本語の歴史のなかで漢字の伝来をどのように記述するかということになる。

ここをどう解釈するかということになれば、古代の日本で統一国家ができたころ、朝鮮半島の国と交易があった。そこで、馬、文字がもたらされたことになる。これは、おそらく、朝鮮半島から、文字をあつかうことを職掌とする人びとが日本でやってきて、日本で居住し仕事をするようになった、ということを意味するのであろう。古代日本で社会的に文字(漢字)を必要とした時代こそが、古代統一国家としての日本が海外の国とさまざまに交流のあった時代ということになる。これを逆に言うならば、それまでの日本の古代国家は、文字(漢字)を組織的に必要とするにはいたっていなかったということである。これは、古代の日本を考えるうえでかなり重要な論点の一つであると思うのだが、番組ではふれることがなかった。

興味深かったこととしては、古代の馬のこと。どこで飼育されていたか、分かるようになっているらしい。

鉄器の製造については、古代の技術でどのようなことができたのか、これからの研究課題かなと思うところがある。

倭の五王の時代ぐらいからは、現在の天皇につながることが確認できるというのが、常識的な見解かなと思っているのだが、このあたり、現代の歴史学ではどのように考えているのだろうか。古代統一国家を作ったのが、現在につながる古代の天皇であったということになるという理解でいいのだろうか。

ただ、前回も思ったことなのだが、古代日本国家をどうも過大に描きすぎではないかと思うが、どうだろうか。古代の日本は、東の海のはての島国で、そんなにたいした外交的影響力などなかったろうと思うのだが。

2024年3月25日記

ウチのどうぶつえん「シニアさんをサポート」2024-03-27

2024年3月27日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん シニアさんをサポート

再放送である。去年の放送のときに見たのを憶えている。

白内障になったアシカにペンギン。ペンギンは手術をすることになった。動物眼科医という仕事があることは、この番組で知った。

レッサーパンダの風太が人気になったときのことは記憶にある。その風太も高齢である。笹の葉を粉にしてふりかけとして食べている。そのための調理器は、クラウドファンディングで資金を集めて購入したという。その他にも、動物園の動物の生活の質を向上させるために、クラウドファンディングによる資金調達は行われているらしい。

人間が年をとるのは当然である。同じように動物園の動物も年をとる。年をとった動物たちのことを考えるということは、人間の生活を考えることにもつながる。動物園の動物をとおして、人間のことが見えてくる。

2024年3月16日記

「地球の破壊者たち インターポール事件ファイル: “海のコカイン” 闇のフィクサー」2024-03-26

2024年3月26日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「地球の破壊者たち インターポール事件ファイル: “海のコカイン” 闇のフィクサー」

二〇二三年、フランスの制作。

トトアバという魚の浮き袋のことは、この番組で知った。検索してみると、この事件のことは、話題になったことがあるらしい。ただ、私の記憶としては、この件についてニュースで見たことは憶えていない。

メキシコ、それから中国のマフィアのボスを、インターポールで国際手配として、それを追っていく。インターポールという組織がどんなことをするところなのか、まったく知るところがなかったのだが、その活動がテレビで紹介されることは希なことらしい。そに環境にかかわる犯罪を専門にする部署があることは、始めて知った。環境問題も国際的な犯罪となるというのは、まさに今の時代ならではのことかと思う。

賄賂をわたせば、指名手配されていても逃げられる。日本では通常は考えられないことだが、メキシコとかではそのような社会になっている。これは、すぐにどうなるということではないのかもしれない。

ところで、トトアバは漢方薬として中国で消費されているということなのだが、その中国での流通とか売買の実態はどんなものなのだろうか。(メキシコと違い、中国でのことなら日本のメディアも取材できるかと思うが、どうなのだろうか。)

シーシェパードの名前をひさしぶりに見た。日本では捕鯨に対する反対運動の組織として知られていると思うが、海の生物の生態系を守る活動をしている組織であることは理解できる。

2024年3月8日記

「木枯し紋次郎VS必殺仕掛人 〜時代が求めたアウトローたち〜」2024-03-26

2024年3月26日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 木枯し紋次郎VS必殺仕掛人 〜時代が求めたアウトローたち〜

一九七二年、私は高校生であった。たまたまであるが、テレビの「必殺仕掛人」の最初の回を見た。印象にのこっているのは、緒形拳と林与一の対決シーン。なぜ刀を止めた、おまえが針をとめたからだ……こんな台詞であった。このところ、NHKは前半の部分しか放送しなかったのが残念である。(どうでもいいことだが、おなじような台詞のやりとりは、白土三平の「カムイ伝」にもある。「必殺」のプロデューサーであった山内久司氏にこのことを直接聞いてみたことがある。たまたま同じ大学で教えていたことがある。その返事としては、「必殺」の方が先であったということだった。)

「木枯し紋次郎」の監督が市川崑ということなのだが、「必殺仕掛人」の監督は深作欣二であったことになる。これは面白いはずである。(実際、どれほど現場にかかわったのかという気もしないではないが。)

その始まりのナレーション……木枯し紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたという……は、いまだに憶えている。

市川崑監督の『股旅』は見た。たしか紀伊國屋ホールだったと思うのだが、どうだったろうか。見てみると、「木枯し紋次郎」の後に『股旅』を作ったことになる。

映像的にこれら両作品はすぐれているのだが、音楽もいい。それまでの時代劇にはない斬新なものだった。「木枯し紋次郎」の「だれかが風の中で」を歌ったのは、小室等。(この曲は、今、私が自動車のなかで聞くことにしている音楽のなかにある。CDをMP3にして、USBメモリにいれたものであるが。)後のことになるが、必殺シリーズの音楽、西崎綠の歌った「旅愁」は今も記憶にある。

「木枯し紋次郎」「必殺仕掛人」は、ともに小説が原作になっている。笹沢佐保の「木枯し紋次郎」は、そのほとんどを読んだかと憶えている。大学生になってからだろうか、文庫本でまとめて刊行されたのを読んだ。見てみると、「木枯し紋次郎」は、今でも読める。特に、創元推理文庫でミステリ作品としてのアンソロジーも刊行されている。「必殺仕掛人」は、池波正太郎の原作である。これは今でも文庫本で読める。読んでみると、テレビの「必殺仕掛人」は、かなり原作から変わっている。

記憶では、「木枯し紋次郎」は、週刊誌連載のときから、社会の話題になっていた。学校の授業で、先生がこの小説のことについて言及していたのを憶えている。たしか、「あっしにはかかわりのねえことでござんす」の台詞について、今はこんなことばがはやっているらしいが、君たちはもっと社会のことに関心を持たなければならない、というような文脈だったかと憶えている。

時代背景として、政治の季節の終わり。七〇年安保の終わり。浅間山荘事件。連合赤軍事件。これらのことは憶えている。また、その後、田中角栄が総理になったときのことも、記憶にある。言われてみれば、たしかに、このような時代背景のもとに、これらのドラマが制作され、ヒットしたという説明は、なんとなく理解できる。大映が倒産したのも、高校のときのことだったことを思い出した。

内田樹の言っていたことは、半分は納得できる。まあ、確かにあの時代、完全無欠のヒーローというものには、共感できない時代になっていたかと思う。人間は、だれでも何かしら汚い部分がある。だが、そのなかに人間性もあり、その残された人間味で世の中がなんとかなっている。こんな感じの世の中だったかと思う。

ただ、これからの時代について、新しいつながりをもとめて共同体を構築していく必要がある、というあたりは、内田樹の持論かと思うが、私は必ずしも賛成できない。その新しいコミュニティの理念が、過剰で過激な「正しさ」として圧迫感を感じる人びとが多くいるという側面を見る必要があるだろう。

それから、テレビ時代劇で思い出すのは、「用心棒」シリーズ。島田順司とか左右田一平が出ていた。アウトローを描いた傑作時代劇だと思うのだが、今ではもう憶えている人は少ないかもしれない。

2024年3月23日記