小説の効能

 

仕事柄、学術書を読むことが多く、個人的にも好きなものですから、
むつかしくて、どれだけ理解できているか心もとないのに、
わたしなりの小さい発見があったりすると、
ああ、きょう生きてて良かったなぁ、
と思える瞬間がたまにあり、
椅子の横に、
ついつい、
その類の本がつみ重なっていきます。
そういう日常のなかで、
いろいろ思考が折り重なった結果、ここひと月ばかり、
小説を読んできました。
ディケンズさんとオースティンさん。
月並みですが、
小説は、いいなあ、って思いました。
笑ったり目頭を熱くしながら、
こころの凝りがほぐれていくと申しますか、とかされていく感じ
とでもいうか。
だいぶ前になりますけれど、
しりあがり寿さんの漫画を読んだとき、
そのなかに、
歳をとると、しょっぱくなる、みたいな文言があった
と記憶しています。
しりあがりさんのことばを借りれば、
小説は、
しょっぱくなった老いの塩気を薄くしてくれる
ようにも思いますので、
眉間に皺を寄せないためにも、ときどき小説を読もうと思います。

 

・万象が薄むらさきの四月かな  野衾

 

ただ読む

 

読書法というほど大げさなものではありませんが、
わたしの本の読み方を強いてあげれば、
ただ読む、
これに尽きるか、と思います。
子どものころ、本を読まなかったこと、
入った高校の生徒たちがやたら勉強ができて、
上には上がいるとの実感により、井の中の蛙の鼻っ柱をへし折られた、
そんな思い出がありまして、
ああ、ああ、
おれはもう、これからの人生を、ただただ愚直に行くしかない、
それしかないよ、
そんな風に思い定めたのでした。
それで、
本を読むのでも、そうしてきました。
いまも、そんな風です。
何冊もあって長くつづく本は、途中飽きることも。
飽きたら、無理せずしばらく放っておく。
眠くなることもある。ならば寝る。
でも止めない。
すると、
途中で投げ出さなくって良かったよ~と思うことがしばしばで。
投げ出さなかったことのご褒美みたいに、
おもしろい箇所がでてくるから不思議。
こんなことがありました。
どちらも大学の先生。
研究領域からして関連があると思ったので、
それぞれの先生に『マハーバーラタ』『サミュエル・ジョンソン伝』
の読後感を申しあげた。
もちろんわたしが読んだのは、日本語訳。
『マハーバーラタ』のほうの先生は、
後日、
わたしが全巻読んだことに疑念を持ったことを詫びるメールを送ってくださった。
拙著を読んでくださり、
ほんとうに全巻読破したことを知った、
とのこと。
『サミュエル・ジョンソン伝』については、
べつのある先生曰く、
「わたしは、必要に応じて読むぐらいで、全部は読んでいません」。
アタマのいい人は、全部読まないのかな。
ほんとうにすぐれた本ならば、
ただ読むだけだけど、
わたしのような人間にも、
よき感化を与えてくれるに違いない、
そんな助兵衛な根性が働いているかもしれません。
卑下するつもりはないが、
個性はどうでも、
脈々と伝えられるもののほうこそ大事、
との思念から、
かぎられた時間のなかで、
すぐれた先人にすこしでも近づければ本望です。

 

・幾曲がり石段上の桜かな  野衾

 

オースティンさんの小説

 

中野好夫さん訳の『自負と偏見』がおもしろかったので、ひきつづき『エマ』を。
こちらは、阿部知二(あべともじ)さんの訳。
学生のころ阿部さん訳(だったはず)で
メルヴィルさんの『白鯨』を読み、
阿部さんの日本語に親しんでいたからかもしれません、
だいぶ前に中公文庫のものを購入し、そのままになっていました。
タイミングとしては、いまか、
と。
『自負と偏見』は、笑ったり、目頭を熱くしたりし、
小説のおもしろさを堪能しましたが、
『エマ』はどうかというと、
会話文がものすごく多く、多いな~、長いな~、と若干食傷気味に感じていたところ、
途中で、アレッ、となりました。
というのは、
会話のことばから、
それを話している人の、性格というか人物像というか、
それがジワリ浮かび上がってきたからです。
阿部さんの日本語訳の賜物でもあると思います。
はは~、
って思いました。
地の文で、この人はこういう性格、
と説明する(そういうところもあるにはありますが)
のでなく、
その人が話すことばそのものから
その人の性格や人物像を、
説明でなく表現する、そんな風に見えてきましたので、
だんぜん『エマ』がおもしろくなってきた。
オースティンさんは『エマ』で、
そういうことをやろうとしたのかな?
そんなことを想像してみたり。
ということで、
こちらはこちらでおもしろい。

 

・子をつれて無言の道や花曇  野衾

 

昔の本を読んでいたら

 

いちにちの生活や時間帯によって、読む本を決めていて、
数えてみると、いま八冊あります。
一日一ページと決めている本もありますので、どうしても数は多くなります。
どの本の著者もすでに亡くなっており、
いちばん古いところではセネカさん、ということになります。
セネカさんのほうから見れば、
わたしは約二千年後のところにいるわけですけど、
わたしのほうから見れば、
セネカさんは二千年前の人でありまして。
セネカさんの本を毎日ちょんびりちょんびり読んでいたら、
ふと、
本を開いたときの
本のノドのところにわたしが佇んでいた。
そして、
右ページの端っこが二千年前、と、左ページの端っこが二千年後、
つまり、
左ページの端っこは、いまから二千年後の4024年、
そんな想像が湧いてきた。
いったんその想像が噴出すると、
連鎖反応のように。
二千年前の本を読んでいて二千年後を想像、
その伝でいけば、
百年前の本を読むとすると、百年後、
三百年前の本だとしたら、三百年後、
○○年前の本を読めば○○年後を想像することになるのかな。
身辺でも世界でも、
いろいろなことが生起し、
明日をも知れない現状が一方にあるけれど、
表紙の手ざわり、一冊の重さ、紙質、
著者のこころを味わう
ことをとおして、
2024年の現在と、いま読んでいる本が書かれた時代との時間の長さを、
たとえばA5判横148ミリだとすれば、
現在から反対側の未来に148ミリ延長して考えてみる、
それも読書のたのしみの一つです。

 

・曇天にひつそり閑の桜かな  野衾

 

ユーモアについて

 

中野好夫さんが『自負と偏見』の解説に書いている、
オースティンさんに関することで、
きのう引用した箇所につづくところの短文も、
『聖書』との関連でとても興味ぶかく、おもしろく感じました。

 

全体としての人間を写す、そしてそこからは、
おのずからすべてを最後はゆるすというユーモアが生れる。
これがオースティン最大の魅力なのではあるまいか。
(オースティン[著]中野好夫[訳]『自負と偏見』新潮文庫、1997年、p.604)

 

ユーモアを辞書で引くと、たとえば『広辞苑』では、
「上品な洒落(しゃれ)やおかしみ。諧謔(かいぎゃく)」。
『明鏡国語辞典』では、
「人の心を和ませるような、ほのぼのとしたおかしみ。気のきいた、上品なしゃれ」
と書かれてあり、
さらに、
「「ウイット」「エスプリ」が理知的なおかしみであるのに対し、
人間的・感情的な温かさを感じさせるおかしみをいう」
とも。
また『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、
「基本的美的範疇の一つ。ラテン語のhumorに由来し、本来は湿気、体液の意」
と。
さて、引用した中野さんの文章に
「ゆるすというユーモア」という文言がありまして、
このことばと
「ユーモア」を説明した『ブリタニカ国際大百科事典』の「体液」から、
「ヨハネによる福音書」の第7章38節の
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」
の文言を思い浮かべました。
「心の奥底から」は、直訳なら「腹から」であると、
『聖書』に注記されています。
「腹からの水」は、体液ではないかと、単純ですが、
そんな風に想像します。
また、同じく
「ヨハネによる福音書」には、
十字架にかけられ、すでに死んでいるにも拘らず、
「しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、
すぐに血と水が出て来た」(第19章34節)
とありまして、
この場合、
血も水も、イエス・キリストの体液のことでしょう。
「ユーモア」の語源に「体液」があり、
人をゆるす、ということが『聖書』のたいせつな訓えであることからすると、
「ゆるすというユーモア」と『聖書』を関連させての想像、思考は、
それほど牽強付会でもないのでは、
と思います。

 

・気掛かりのなきも気掛かり春の月  野衾

 

正しい者はない

 

中野好夫さん訳の『デイヴィッド・コパフィールド』を読み終えましたので、
つぎに、中野さん訳の『自負と偏見』。
これも新潮文庫に入っています。
あともう少しで読み終りますが、
巻末に中野さんが書かれた解説があり、気になるので、
先に読んでみました。
こんなことが書かれています。

 

次にもう一つの魅力は、彼女の対人間態度であろう。
彼女の作品に登場する人物は、まず一人のこらずが弱点、欠点をもっている。
そしていかにも人間らしい愚考を演じて見せる。
しかもそうした人間の弱点を、
彼女はけっして怒らず、悲しまず、
むしろ人間本来のありようとして寛容の心で包んでいるといってもよい。
もちろん欠点は欠点だから、槍玉やりだまにあがる。
だが、
その風刺は、自然ユーモアの笑いになる。
槍玉にあがるまず筆頭は虚栄心と思い上りである。
次ぎには頭のわるいおしゃべり。
この小説でいえば、
キャサリン夫人、コリンズ牧師、母親ミセス・ベネットなどは、
まずいちばん恰好かっこうの対象だが、
さらに見逃してならないのは、
作者自身好意と愛情を注いでいる人物に対してさえ、
彼女はけっして人間放れのした完全人としては描かない。
ちゃんと人間らしい欠点をあたえている。
(オースティン[著]中野好夫[訳]『自負と偏見』新潮文庫、1997年、pp.603-604)

 

「いかにも人間らしい愚考」「ちゃんと人間らしい欠点」
というあたりに、
アラビアのロレンスや徳冨蘆花の伝記を書いた中野さんらしい人間の見方が
あるような気がします。
それはともかく。
オースティンさんのお父さんは僕死、いや、牧師なのに、
逆に、だから、かもしれませんが、
コリンズ牧師のトホホなところは、どうしようもない感じがします。
中野さんの言うとおり。
ところで『旧約聖書』「ミカ書」第七章二節には、
つぎのようなことばがあります。

 

神を敬う人は地に絶え、人のうちに正しい者はない。

 

「人のうちに正しい者はない。」一人もない、といったところでしょうか。
オースティンさんの作品、人生の背景には、
ディケンズさんと同様、
キリスト教というより、聖書的なものが活きて働いていると思います。

 

・土よりの白の苦さを野蒜かな  野衾

 

土と種

 

わたしは農家に生まれましたので、
それもあってか、ものを考えるときに、植物にたとえることが多いようです。
このごろ考えることの一つに、
種としてのことばや文字が人のこころに芽をだす前に、
見えない土の中でこころの根が育つのではないか、
ということがあります。
そして、
それを支えているのは、家庭や社会の雰囲気なのではないか。
雰囲気は、
たとえていうなら、
種が落ちる土のようなものではないか。
そんなことをつらつら思いめぐらすきっかけは、
カントさん。
学生のときに代表作を読んで以来、
それほど関心がなくこれまで過ごしてきましたけれど、
春風社で出した浩瀚な『カント伝
(マンフレッド・キューン[著]菅沢龍文/中澤武/山根雄一郎[訳]、2017年)
を読み、興味が再度浮上しました。
ところで、
1985年に刊行された『キリスト教大事典』(改訂新版第8版、教文館)
のカントさんの項目を見ると、

 

ドイツの哲学者。ケーニヒスベルクに生れ、家庭では両親の敬虔主義の信仰的雰囲気
の中で育った。
ケーニヒスベルク大学で哲学のほか神学・数学・自然科学等を学ぶ。

 

と書かれています。
「敬虔主義の信仰的雰囲気」の「敬虔主義」を、
さらに同事典で引いてみると、

 

1690年ごろから1730年ごろにかけてドイツのプロテスタント教会を支配した傾向。
宗教的生命を失ったルター派の正統主義(Orthodoxie)に対する改革運動で、
ルター派内部でのピューリタニズムともいうべきもの。

 

と書かれています。
カントさんは、1724年生まれですから、
カントさんはもとより、カントさんのご両親も
土としての「敬虔主義の信仰的雰囲気」のなかで、こころの根を育てたのではないか、
そんな気がします。
そういうフレームで考えると、
『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』が、
学生のときとは、
またちがった光芒を放ってきます。

 

・ここだここ居場所知らせる桜かな  野衾