とおかで何読んだ?

ふつうの読者を目指す weblog

書くために読む話

 ひと月以上更新が停止してしまった。入稿期限が差し迫っていたからだが、読みたいと思って読んだ本は殆どない。ただ、小説が書けなくなったときに、谷崎潤一郎細雪』と中井英夫とらんぷ譚』、それから津島佑子光の領分』をひたすら読んでいた。この三冊は、わたしにとって目指すべき文体を内包している。不調になったときに、たとえばフランス語の詩を訳すという作業は、対象に潜り込んで訳す(中井久夫の言葉を借りれば「雲のようなもの」ができてくる)ゆえに、かえってみずからの文体を思い出させてくれる。ところが、翻訳によって得られる効果は、日本語で小説を読むことによるものとは、また違うと思われる。

 詩や小説の翻訳による矯正は、あくまでイメージと言葉の対応関係の凝りをほぐしてくれるというのが近い。
 文学作品は、言語によって感覚を表現しなければならない*1わけだが、感覚内容(イメージ)とそれを表現する言語との対応関係が、殊にわたしの場合、書きつづけていると硬直化してくる。また同じ表現を使った。また同じ文末になった。また同じ語が出てきた。そのとき、わたしの対応関係をいったん捨て去って、他の作者の体系に潜り込んでみる。イメージの表現であるはずの言語からイメージをまずは探り出し、おそらくは表現されるはずだったものを、今度は日本語でどう言うべきか考える。凝りがほぐれる理由はこのプロセスにあるはずだが、大きく分けて3通りだと思われる。
 第一に、並んでいる言語表現がわたしの書きえないようなものであれば、そもそもそのような語の連続がありえたのだ、という驚きがうまれる。驚きが哲学の始まりかどうかは知らないが、ある種の脱皮をうながすのはまちがいないだろう。別のありよう、別の可能性を見せられるだけでも、世界の見えかたは変わってしまうだろう。いままで見ていた世界の「外」を提示されたとき、異様であると感じると同時に、やはりそれもまた世界のなかにあるのだという、二重のゆさぶりがかけられるからである。ところが、語の並びとしての新奇さにはある程度限界があって、ともすれば言語としての体をなさなくなってしまう*2
 第二に、言語表現の表現内容、つまりイメージが新奇であるという場合がある。しかし、イメージが新奇であるとはどういうことだろうか。言語による表現から、いままで見たことのなかったような情景をすぐに想像させるのは難しい。それは、描写を積みかさねた先にしかないものであって、即時的なイメージ喚起能力ならば、言語よりも感覚に訴えるほうが期待できるだろう。やはり、知っているものどうしの組みあわせでありながら、その組みあわせが新奇だというのが妥当だろうか。このときも、異様さと世界に属することとが同居していることに驚くことになるが、それ以上に、このようなイメージの連なりを読みだしてしまってよいのだろうか、という不安もまた生じる。わたしの考えでは、この不安にこそ独特の矯正能力がある。あるコードを想定して、言語表現をイメージにデコードする。異様なものが出てくる。すると、翻訳者が持っているコードに疑いの目が向けられるはずである。コードが正しいとか正しくないとかを論じたいのではない。翻訳者になり、コードを自覚的に確認することによって、制作者としてのコードをも疑似的に点検できているのではないか、と感じる。
 第三に、イメージがおおよそ妥当に把握できたとして、それに対応する日本語を見つけなければならない。このとき、対応するものがどうにも見つからないことや、対応しているとは思うが、無視できない差異が気になってしかたがない、というふた通りの問題が起きうる。どちらの場合も、やはりコードを問題にせざるをえない。

 では、翻訳によってではなく、日本語の文学作品を読んでしか得られない効果とはなんだろうか。それは、「こういう言語表現をしたかった」というサンプルを採取するという一点につきると思われる。サンプルはそのまま用いられるはずもないが、文末の処理のしかたとか、文のリズムであるとか、読点の打ちかたとか、さまざまな悩みを解決するヒントとして、サンプルは摂取されていくだろう。こんなにうまい表現があるのか、ということも多いが、同じようなことをして「ださい」と思いはしたが、全体からしてみればそうでもないな、と開きなおる材料になることも少なくない。

 ──などとえらそうに書いてきたが、そもそも書ける分量が違うことを見せつけられ、かなしくなってしまうことが多いのも、また確かなことであった。



 次回からは一応平常運転にもどる予定です。どうぞのんびりとおつきあいくださいませ。

*1:「文学作品において、言語は感覚〔内容〕を表現しなければならない」という主張は、ひと目強すぎると感じる。感じるが、感覚内容をいっさい表現せずに小説が書けるかと言われれば、ちょっと考え込んでしまうだろう。ここでは、感覚内容を言語で表現することはたいてい避けがたいということを確認したいだけであった。

*2:このときにもはや「詩」ではない、などと言いたいわけではない。いま考えているような「言語表現」からははずれてゆくので、考察の対象外となってしまう、と理解してほしい。

思考の記憶、記憶の思考

 前回は中途までしか読んでいなかった、熊野純彦レヴィナス入門』を読了した。しかし、『存在するとは別のしかたで』についての章に入ってからは、議論の勘所をつかむことすらおぼつかなくなってしまった。合田正人レヴィナス──存在の革命へ向けて』を買ったし、最近岩波現代文庫に入った、熊野によるモノグラフ『レヴィナス──移ろいゆくものへの視線』を再読して、原典に再び挑むことにしたい。

 竹村和子フェミニズム』は前回読了していたが、同じシリーズの岡真理『記憶/物語』を半分ほど読んだ。竹村よりもさらに晦渋な文章である。本当に校正が入ったのかと疑いたくなるような文すらある。内容はよいだけにたいへん残念である。
 ともあれ、本書はわたしの記憶の一部をまちがいなく構成している。わたしがはじめて買って読んだフランス語の小説はバルザック『アデュー』だった*1のだが、きっかけは岡が紹介していたフェルマンの『アデュー』解釈である*2。まさにこの箇所を読んで、わたしは池袋で Livre de pocheAdieu を買った*3
 以前この話をしたところ、ある友人はレヴィナスに対するデリダの弔辞を連想したらしかった。語にさまざまな質をまとわせて、わたしたちは想起する。

 西田幾多郎には継続して興味を持っており、藤田正勝『西田幾多郎──生きることと哲学』を再読している。西田が「象徴の真意義」なる論文のなかで、ベルクソン意識に直接与えられるものについての試論』から引用しているという。「わたしがばらの匂いをかぐ、するとたちまち、幼い時分のぼんやりしたおもいでがわたしの記憶へとふたたびもどってくる。実のところ、このおもいでがばらの香りによって喚起された、というわけではない。わたしは匂いそのもののなかにおもいでをかいだのである。匂いがわたしにとってはすべてなのである」*4という、やや奇妙な表現を用いてベルクソンが述べたかったことは、岡の考察の目指す所とも重なっていくと思われる。
 「古典の豊かさに浸ることを学生たちに求めたケーベルに対して」西田は「自ら思索する」ことをモットーとした、と藤田は書いている*5。決して誤った評価ではないだろう。けれども、「純粋経験」という語からすぐに連想されるウィリアム・ジェームズのみならず、新カント派についても、当時の最先端の哲学であるベルクソンについても、あるいはメーヌ・ド・ビランについても、しっかりと読み理解していることがうかがえる。「自ら思索する」とは、いったいどういうことなのだろうか。西田自身の言葉を引いておく。

私は常に思う。我々の心の奥底から出た我国の思想界が構成せられるには、徒らに他国の新たなる発展の跡を追うことなく、我々は先ずそれ等の思想の源泉となる大なる思想家の思想に沈潜して見なければならぬ。そしてその中から生きて出なければならぬ。*6

 藤田が強調しているように、西田はあくまで「生きて出る」ことを目標としている。しかし、まず沈潜しなければならない。沈潜して窒息するような思想は、たいしたことがなかったということだろう。

*1:ちなみに、はじめて読了した小説はユゴーレ・ミゼラブル』だった。

*2:岡真理『記憶/物語岩波書店, 2000, pp. 15-23. フェルマンの解釈は Felmen, S., What does a woman want?: reading and sexual difference の第2章で読むことができる(質は知らないが日本語訳がある)。

*3:表紙が変わってしまったようなのでハイパーリンクは設定しない。

*4:藤田正勝『西田幾多郎──生きることと哲学岩波新書, 2007, p. 73. なお、引用箇所を『時間と自由』としか藤田は明示していないが、おそらくは Bergson, H., Essai sur les données immédiates de la conscience, PUF, 2007, pp. 121-122 だと思われる(拙訳)。

*5:同, p. 43.

*6:同, pp. 43-44. フィヒテ『全知識学の基礎』木村素衛訳に寄せた序文, 1930.

体験と言葉とのはざまで

 前回挙げた本のうちで読了したものは一冊もない。自主ゼミでは雪江明彦『代数学1──群論入門』をほぼ読み終えるなどの成果はあったが、なかなかまとまった読書時間が確保できなかった。『カント──美と倫理とのはざまで』のあとがきで「すくなからぬ日々の用務のあいまを縫って、文学部長室で書きつがれた」と熊野純彦は記していたが、わたしは読むだけでも息ぎれしてしまっている。

 熊野『レヴィナス入門』は半分ほど読んだところである。レヴィナスの主著である『全体性と無限』を論じた部分はごくわずかしか読んでいないので、本書全体についての評価は留保しておきたいのだが、少し気になったことがらについて記しておきたい。
 レヴィナスの著作のひとつ『存在することから存在するものへ』における重要な概念である「イリヤ」について考える箇所に、印象的な表現がならぶ。

なにもないことがなおあるということ、なにかがあるのではなく、ただある(イリヤ)という事態を考えることができないだろうか。無ではなく、無があるけはいのような存在のしかたを想像すること、覆された世界の酷薄さをことばにすることは不可能だろうか*1

 「無」があるのではなく、予期されたものが別のものに置き換えられたにすぎない、と断じるベルクソンとひきあわせつつ、レヴィナスの「イリヤ」の内実を探ろうとする箇所である。しかし、「ただある」とはいかなることだろうか。あるいは、どのような事態を念頭に置いているのだろうか。

闇に目を凝らし、微かな音に耳をそばだてようとしても、なにも見えずなにも聞こえない。にもかかわらず、「あたかも空虚が充たされ、沈黙がざわめきだっているかのように」感じられる。闇がある。それはしかし「存在者」でも「無」でもない(ネモとの対話)*2

 このような、何もないところに「ざわめき」を感じるような「ある」を、熊野は──おそらくは特殊な解釈ではないはずだが──レヴィナスナチス強制収容所で近しいひとを殆ど亡くしたことに求める。けれども、実感が伴わないせいなのか、わたしにはうまく理解できない。都会の喧騒のなかでかえって孤独を覚えるように、あまりに多くのものが失われたときには、たしかに「ざわめき」を感じるのかもしれない。もし、レヴィナスが述べる「ざわめき」がここに重なるなら、「ざわめき」があることじたいをわたしが了解することはできる。だが、何か見えるはずのもの、聞こえるはずの音を捉えようと感覚が走査しているものの、何も捉えることができず、予期ばかりが先走っているだけだと断じることができないのはどうしてだろうか。そのような感覚を理解することはできるが、あくまで想像的なものにすぎないと言ってはいけないのだろうか。
 原理的には経験可能ではあるが、なお特殊な体験を言葉で表現するという困難な試みは、文学の対象であると同時に、はっきりと哲学の仕事でもある。たとえば、親しかったひとびとがみな逝ってしまい、ひとり取り残されるというような体験は、ひとの経験の境界をあるしかたで描くと思われるし、さらには、言葉にしがたいことがらをなんとか表現するための言葉を紡ごうと苦闘するという営為こそ、すぐれて哲学的だからである。とはいえ、依拠している体験の衝撃は必ずしも共有されない以上、議論のたどる道も、行きつく先も、普遍性を帯びるとは限らない。限界状況のひとつのサンプルとして、いったんは処理されるしかないだろう。そのうえでどうふるまうべきなのか、わたしには見当もつかない。


 では、さしあたりは自身と異なる者の体験であり、ゆえに安易な理解を拒むようなことがらについては、ひとはどう接するべきなのだろうか。「男」たちは「女」という差異を、まさにそのようなものとして捉えてきたのではないか──などと考えながら、竹村和子フェミニズム』を読了した。
 読者をかなり選ぶと思う。竹村の文章は生硬で、読みやすいものとは到底言われない。特に終章ではその傾向が顕著である。いかにもカルチュアル・スタディーズらしい文章のなかに、なんとか名前を知っているという程度の思想家が次々と出てくる。イリガライ、クリステヴァスピヴァク、バトラーといった、少し前に定番だったひとびとである。このなかでそれなりに読んだことがあるのは、バトラー『ジェンダー・トラブル』くらいであった。スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか』を読んだ気もするが、どちらにしても内容は知らぬも同然と言ってよい。足早に要約されては過ぎ去ってゆくばかりであった。イリガライなどを読まねばならないのだろうか……と暗い気持ちになるが、とりあえずは、長らく読もうと思っていた Gallop, J.,
Feminism and Psychoanalysis: The Daughter's Seduction を読んでみようと思う。
 しかし、フェミニズムのたどってきた歴史についての竹村の記述は明快である。あるいは、典型的にはミソジニストたちが「女」と名指すような集団のなかでも、絶えず境界線が引かれ続けてきた*3という指摘は、当然のことがらではあるものの、だからこそ重要である。ことがらが重要なだけでなく、当然のことがらをあらためて指摘することじたいに、なお意味があると思われるからである。
 ここでわたしの意見を殊更に書きつけようとは思わない。かわりに、竹村の文章を引用しておこう。

したがってわたしが念頭に置いているフェミニズムは、女に対して行使されてきた抑圧の暴力から女を解放することを意図しながら、同時に、そのような「女の解放」という姿勢自体を問題化していくこと、つまり「女」という根拠を無効にしていくこと[…]である。言わば、フェミニズムという言葉を手放さずにおくことによって、フェミニズムという批評枠を必要としなくなる時を夢想することである*4

 さしあたりは、ジェンダースペクトラムにすぎないと認識されてほしい。そして、ジェンダーという境界線が充分に攪乱され、顔にあるほくろの数くらいにしか気にされなくなり、無化されてほしい。心からそう思う*5

今回の本:

*1:熊野純彦レヴィナス入門』ちくま新書, 1999, pp. 57-58.

*2:同, p. 59.

*3:このあたりについては、杉田敦境界線の政治学 増補版』を想起しながら考えていたのだが、具体的な箇所を示すことはできない。再読することがあれば指摘したい。

*4:竹村和子フェミニズム岩波書店, 2000, p. vii.

*5:そのためには、わたしのミサンドリーを融かす必要もあるはずなのだが、なかなか難しい。

読書と文体

 またずいぶんと本を売って処分してきた。数冊新しく買ったが、本は減りつづけている。ビブリオフィリアの気はあったが、何度も読み返すものや資料として使うものを持ってさえいればよいのではないか、といまでは思うようになった。再読したくなる本にはなかなか出会うことができない。

 種村季弘(編)『泉鏡花集成1』を読んだ。かつて述べたように、鏡花の怪談小説を好んで読んでいた時期があって、いまでも評価は変わらない。ところが、この作品集の冒頭の二作品を読んで、『集成』を読みつづける気力がなくなってしまった。かつて古本屋で入手した『泉鏡花集』でわたしには充分なのであって、鏡花のすべての小説を味読するほど熱心な読者ではないのかもしれない。「活人形」は若書きの探偵小説である。探偵の生死が問題のひとつになるわけだが、当該箇所の描写トリックが稚拙で、うんざりしてしまった。「金時計」は佳作というべき小品ではあるが、何度も読もうとは思わない。小説での描写の定石が、日本においてはあまり整備されていなかったからだと言ってよいのだろうか。鏡花の能力の問題ではなく、時代制約のほうを大きく見積もるべきなのだろう。
 『集成』についてひとつだけ批判しておくと、こういった全集系統のものでは、歴史的かなづかいを採用してほしい。原テキストをいつでも読めるような状態に保存しておくというのも偉大な仕事なのだから。せめて、雅文体の作品ではかなづかいをあらためないでほしかった。鏡花の文章の匂いは、かなづかいを変えてしまえば損なわれると考えている。漢字でもひらがなでも表記上は問題ない語句を使用するとき、どちらを採るべきか悩むことがしばしばある。かなづかいも同様で、文章のやわらかさや親しみやすさを変えるのみならず、描写の印象にまで影響を与える。

 前回も言及した、滝川一廣子どものための精神医学』を読んだ。「子どものための」と表題にあるが、こどもを対象とした精神科学の概説をしているという意味では正しい。けれども、滝川の親しみやすい語りに導かれていくと、こどもに限らない、人間の精神作用についても大きな示唆を受けた。正確さを失うことなく、しかも多くのひとにとって読みやすい文体を確保するというのは極めて困難な仕事ではあるが、滝川はしっかりと実現している。その丁寧さの結果、分厚くなってしまっているのだろうが。さらに、滝川のやさしく細やかな精神は、いかにもひかえめに小さい文字で書かれたコメントに表れている。やわらかいが理知的な文章は、読みなおすたびに味わいの増す予感がする。名著である。
 ちなみに、滝川のいた時代の名古屋市立大学は、木村敏教授・中井久夫助教授であった。

 他には──名前を言ってはいけない現所属関連の本を除くと──あまり読めなかった。朝読書の対象とした『ニコマコス倫理学』や、最近購入した小田島雄志(訳)『ハムレット』、熊野純彦レヴィナス入門』については、次回報告することにしたい。読むのにエネルギーを多く消費する本ばかり目につくのは悪いことではないが、つくづく不器用な読み手だと思う。

今回の本:

新たなコードとの邂逅

 連休はあったものの、主に精神的なつかれがたまっていたらしく、近所で服を買うなど卑近な用事を済ませるのがせいぜいだった。本来ならば街に出て映画を観るなりゆっくり本を買うなりしたかったのだが、なかなかうまくいかなかった。とはいえ、一冊の本をほぼ一気に読了するという体験をひさしぶりにすることができた。千葉雅也『勉強の哲学──来たるべきバカのために』である。
 変な本だった。
 題名を素直に解釈すれば、勉強とはいかなるものか哲学的に考える本だということになるだろう。本書はそういう一面を持っている。
 千葉は本書の冒頭で「勉強とは、自己破壊である」(p. 18)という強烈なテーゼを提出してみせる。こういう主張に慣れていない読者は驚いたのではないだろうか。わたしが現所属で観察した限りでは「これまでと同じままの自分に新しい知識やスキルが付け加わる」(同)営為として勉強を捉えているひとが大多数だと思われる。たしかにこちらのほうが素朴な所感だろう。けれども、危険でもあると思う。
 なぜか。千葉が凝った道具立てを用意して述べているのは、結局ごく単純な話である。ひとが体系的な知識を獲得するとき、同時に思考の様式を避けがたく身につけている。──ある程度の知識を得ると思考の様式が変わってしまうとすれば、知識の獲得はみずからの変化を意味することになる。かつての自身と同じままではありえない。特に専門的な知識を要求される分野の訓練を受ければ、思考様式の変化は大きいことだろう。専門家になるために変化は必要である。素人は専門的なことがらをよく知らないうえ、どう扱うべきかも知らないからである。けれども、学ぶことによって自身が変化していることを忘れてしまったら、思考様式の奴隷でしかない。
 いま述べたことは、厳密に言えば千葉の論旨から外れている。避けがたく勉強させられるひとびとが自身の変化に自覚的でないという、悲観的な話だったからである。勿論、千葉の意図は違うだろう。自覚的に「変身」することによって、どの思考様式とも距離をとれるようにしておく。別様である可能性を保持しつづけることこそ、わたしたちが最も自由になるための戦略だと千葉は言いたいのだろう。そのためには、広く勉強をするのがよい。
 本書は、以上のような内容を一般向けに提示しただけでも意義があると考える。とはいえ、本当にいま述べたようなことがらに気づくべきひとびとが、この本を手に取るのかどうか。
 さて、先程『勉強の哲学』は変な本だと書いた。一面では、勉強というテーマについて哲学を援用しつつ考えてみる本だとも書いた。しかし、本書の企みはそれだけではないと思われる。
 本書を読み始める前から予期していたことだった。少し読み進めてすぐに判った。ドゥルーズガタリだった。思想的背景については本書の「補論」で千葉が述べているが、やはり根底にあるのは L'Anti-Œdipe および Mille Plateaux である。千葉が書いているとおり、勉強というテーマについて考えることをとおして哲学に少しふれてみる本でもあった。
 わたしはドゥルーズに対して複雑な感情を持っているが、ここではあえて繰り返さない。さらに言うと、初めてふれる哲学書がフレンチ・セオリーだというのは、あまり幸せではないとわたしは思う。示される概念もどこか浮ついているように見える*1。しかしながら、(皮肉なしに)おもしろい試みだと思うし、何よりも、読者を新しい「コード」との出会いの現場へとひきずりこんでいるではないか。つくづく変な本である。

 最近はイタリア現代思想に継続的な興味を持っているので、岡田温司イタリア現代思想への招待』を再読した。紹介したい思想家が多いせいなのか、記述が極めて圧縮されており、哲学者ごとの特徴がわたしにはあまりうまく把握できなかった。エスポジトがやはり鍵になっていそうだと確認できただけでもよかったのかもしれない。
 イタリアン・セオリーにも変な本がほしいものである。新たなコードと出会うのは、本来楽しいことなのだから。

 滝川一廣『子どものための精神医学』は読みやすいが、ありがちな教科書ではなく、極めておもしろい。しかしまだ読了していない。他に泉鏡花を少し読んだ。魅力的な本については、新旧を問わず、いずれまた語る機会があるだろう。

今回の本:

*1:これはある程度しかたがないことではある。まず、紙幅がごく限られているうえ、おそらくは哲学・思想にあまりなじみのない読者層を想定していると思われるからである。詳細な議論を始めてしまえば、おそらく本は二度と開かれないであろう。そして、フランス現代思想の概念を紹介するという魂胆があったのではないか。あまり説明されていないが、この概念はどういうことなのだろうか──と調べ始めれば、おそらくは千葉の罠にかかっているのだろう。ただし、「超コード化」などは議論にあまりにも生きていないと感じた。すぐ後に「メタ」概念が出てくるのだから、どうしても必要だったわけではないだろう。

あこがれること

 新しく出た本を積極的に買うという態度をひさしく採っていない。わたしは読むのがあまり速くないし、同じ本を何度も読むという習慣のせいでもある。とはいえ、何かを諳んじるほど読みかえしたことは、所属が変わってからあったかどうか。
 書店で興味をひかれ、偶然手にとったものが新刊だということもあるが、たいていは出版されて数年経ってから気づく。ここ十日で読んだ本のひとつである清水徹ヴァレリー──知性と感性の相克』も存在すら知らなかった。
 「知性のひと」と称された文筆家は、実際は知性よりも「感性」に動されてきたと清水は言う。ひとつ断っておかなければならないが、「感性」は「知性」の対立語だから採用されただけであって、内実は「恋愛」とか「情動」とかが近いと思われる。要は、大恋愛が成就するにせよしないにせよ、なんらかのしかたで執筆のエネルギーに変えていたということでしかない。そうだとすれば、ヴァレリーの女性遍歴を追うことによって、ヴァレリーの文筆活動も概観できるのではないか、というのが清水の企みだったのだろう。
 端的に言ってしまえば、ヴァレリーの生活史ばかりが記されていて、作品のおもしろさは論じられていない。清水に論じる気がなかったのか、あるいは論じようとして失敗したのかはわからない。ヴァレリーの批評、詩、あるいは『カイエ』や手紙といった私的文書の魅力を紹介するのでなければ、恋多き男のゴシップ記事を読んでいるのと変わらないのではないだろうか。清水ほどの碩学であればもっと描けることが他にあるだろう、というのが率直な感想である。他ならぬヴァレリーが伝記批評を痛烈に批判したというのに。清水は「序」でこのことを指摘したうえで、ヴァレリーという人物のありようを明らかにするためにあえて行うと断っている(p. 11)。しかし、そもそもヴァレリーの書きものの魅力を語らなければ、現代の読者はヴァレリーという人間に興味を持つことはないのではないか。「ヴァレリー」という名への憧憬は、たとえば中井久夫がしばしば述懐するようなしかたでは、もはや残ってはいない。
 ひとに薦める機会があったので、同じく岩波新書熊野純彦西洋哲学史──古代から中世へ』を再読した。こちらは何度読んだか定かではない。近世以降を主に扱った姉妹編もあるが、『古代から中世へ』のほうがずっとよいできだと思うし、わたしは『近代から現代へ』を5回くらいしか通読していない。
 理由のひとつに、『近代から現代へ』一冊で扱われる事項があまりに多く、消化不良のままになってしまうことが挙げられる。デカルトからレヴィナスまで300ページ弱で語ろうというのは、いくらなんでも無理な相談だろう。それと比較すれば、『古代から中世へ』ではまだ語りに余裕があるように見える。たとえば、プラトンの章では『パルメニデス』や『法律』までふれている。『パイドン』や『国家』あたりの要約に終始しないのはさすがである。
 そして、熊野が積極的に引用を行っていることもあって、原典(原語とは限らないが)へと自然に誘っているのもよい。道具立てが大仰ではない時代の良さで、思想関係の知識や慣れがあまりなくとも、ある程度は議論を把握できる。哲学に興味を持って幸福になれるかどうかは知らないが、哲学に興味を持った者が原典を読みたくなるのは悪いことではない。
 最後に、熊野の文体につきまとうやや詩的な匂いは、古代や中世を語るときにこそふさわしく思われる。独特な語りに好みは分かれるだろう*1。鈴木泉はかつて熊野の文体を「みずみずしい桃──というよりは、もはや熟れて崩れそうになっているかもしれない」と評していた。遠い時代の、ともすると乾ききってしまったように見なされてしまう思想を紹介するには、詩的な憧れを惹起する文体の持主が適役だったということなのかもしれない。
 他には、ボードレール悪の華』と西田幾多郎善の研究』を少しずつ再読している。詩集をさらさらと読んでしまえるほどフランス語ができるわけでもないし、西田はかなり努力して整理しなおさないとうまく理解できないのが常である。どちらも読むのに骨が折れる。この二冊については他日に譲りたい。

今回の本:

*1:熊野文体はきらいになれないのだが、「他方」を「たほう」とひらがなにするのはやめてほしい。わたし自身もよくわからない箇所をひらがなにひらくとよく言われるのだが。

*2:わたしは持っていないが、岩波文庫からは藤田正勝の解説が付された新版が出ている。

気楽な読者

……思案なんかいっさいやめにして
まっしぐらに一緒に世間へ飛び出しましょう、
あえて言いますがね、冥想なんかするやつは、
枯れた草はらのうえを悪魔にとりつかれて、
ぐるぐる引きまわされる動物みたいなものです、
そのまわりには美しい緑の牧場があるのに。……

 『ファウスト』の一節だが、ゲーテを読んでいて出会ったわけではない。津島佑子の連作短編集『光の領分』の表題作で「引用」*1されている、高橋健二の訳*2である。わたしは高橋健二の訳で『ファウスト』を読んだことがない。相良訳や原文で多少読みちらしたことはあるが、はずかしながら読みとおしたことがない。他方で『光の領分』は、わたしが例外的に何度も読み返している作品のひとつである。先程の「引用」には読み始めるたびに出会うはずなのだが、高橋訳を参照する気が起こらなかった。今回も文庫本にあたったわけではなく、 Google Books で少し検索したら見つかったから、それなら少し読んでみようと思っただけである。
 さて、高橋健二の訳は、どうも「引用」とは違っている。

[…]思案なんかいっさいやめにして、
まっしぐらにいっしょに世間へ飛びこみましょう!
あえて言いますがね、冥想なんかするやつは、
枯れた草はらの上を、悪魔にとりつかれて、
ぐるぐる引きまわされる動物みたいなものです。
そのまわりには美しい緑の牧場があるのに。

 高橋が訳を改めたのか、津島が手を入れたのか。
 細かい差異をいちいち批評などしないが、ひとつだけ挙げておきたい。「飛び出しましょう」ないし「飛びこみましょう」と訳されているのは "hinein" である。こちらから離れてゆきつつ(hin-)何かのなかへと入ってゆく(-ein)ということだろうから、どちらでもよさそうである。けれども、ふたつの訳から読みだされるイメージは異なっていないだろうか。「殻」のようなものを破り、「世間 Welt」へと出てゆくのか。あるいは、何かから追い立てられるように、口を開けている「世間」へと身を投じるのか*3
 『ファウスト』における訳語として、あるいは『光の領分』のイメージを形づくるエピグラフとして、どちらがふさわしいのかはわからないが、さしあたり指摘しておきたいのは別のことがらである。引用は正確に行うべきだとか、引用元を示しておくべきだとか、規範を重んじるべき場面もあるだろう。わたしはそういう誠実さが好きである。しかしながら、もう少し気楽に読んでもいいのではないか──と自身に言いたい("Ich sag es mir")。規範的でなければならない世界にわたしは生きていないのだから。でも、「気楽な読者」とはどういう存在なのだろう。
 ここまで書いて、ふと思いあたった。 "The Common Reader" *4という、ヴァージニア・ウルフの随筆をかつて読んだことがあった。
 この1ページと数行の文章では、 "common reader" とは「知識を分け与えたり、他のひとの意見を正したりするためにではなくて、むしろそのひと自身の楽しみのために読む」者だとされる。しかも、ひとときの満足のためなら、思いついたつまらないことどもから、どうしようもない全体像をつくりあげることをためらわない、言ってしまえばあまり質の高くない読者を指しているらしい。批評家や学者と対置される存在が "common reader" だから、勝手読みをしてはばからない読解の「アマチュア」が想定されていそうである。そしておそらくは、わたしも "common reader" に含まれることだろう。
 けれどもウルフは言う。そのような読者が作品の価値を決める場面では発言権を持つのだとしたら、「それじたいは重要でないにしても、いと大いなる結果に寄与するいくつかのアイデアや意見を書きとめておくことには、もしかすると価値があるのかもしれない」と。──
 ウルフの意図はわたしにはわからない。だが、たとい読解の「プロフェッショナル」でなくても、もしかすると、読んだものについて何か書いておくことに意味があるのかもしれない。規範的なしかたでなくても、描かれた全体像がゆがんでいたとしても、考えたことがただ過ぎ去らないようにとどめておくだけでもいいのかもしれない。わたしはそう読むことにした。
 規範的に読み、書くことにいまでもあこがれている。とはいえ、そろそろ解放されてもよいのかもしれない。「気楽な読者」になったほうが幸せかもしれない。ただし、メフィストフェレスの言をすべて受け入れるのはおそろしいので、少しだけにしておこう。

 ……思案なんかほどほどにして、
 一緒に世間へ飛び出しましょう。

*1:津島佑子『光の領分』講談社文芸文庫, 1993, p. 245.

*2:Goethe, Faust, I, ll. 1828-1833.

*3:ちなみに森鴎外は「飛び出す」ほうを採っている

*4:In: Virginia Woolf, The Common Reader, with the introduction and notes by Andrew McNeillie, Harcourt, 1984, pp. 1-2.