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めでたい。
「山形大学教授の城戸淳二先生が紫綬褒章を授賞」。 この記事が今朝の各紙のニュースで報道されている。 城戸さんはブルックリン・ポリテクから山形大学工学部に助手として赴任されて以来、希土類を含む高分子の研究をしてきた。 助手、助教授、教授の初期までほとんど共同研究の教員なしで、一人で奮闘していた。一人で実験や論文を物し、世界を飛び回り、自分で国際会議を開催し、自分で研究費の申請書を書いて、戦っていた。 当時でも、彼と会いたいと思ってもなかなか会えなかった。小生が彼と会うときは土曜日の夜中から日曜日の早朝にかけての時間帯に研究室に行くしかなかった。 忙しくて厳しい研究室、MacのPCしか使わない研究室で、黙々と学生に向き合ってきた。 小学校、中学校、高校から講演に呼ばれると、必ずと言って良いくらい出かけて行った。もちろん、講演は面白く、大人気である。 他の有名大学からの移籍の誘いも受けたが、彼はここ米沢に踏みとどまり、世界の有機エレクトロニクス研究をリードしてきた。 今は、共同研究する仲間も沢山いて、大大研究室を率いて運営し、大きな成果を出している。 今回の授賞は当然だと思うが、紫綬褒章としては若い授賞である。 おめでとう、城戸さん。今後の活躍も期待しています。 #
by yuyz
| 2013-11-02 07:23
| 大学内
親友がまた1人、逝ってしまった。
25年以上前の話。彼は工学部の会計係長として赴任してきた。 8月中旬、テニスコートから研究室に帰ると、会計係まで連絡下さいとのメッセージがあった。 テニス姿のまま、会計係に着くと、「文部省から概算要求のことで、もっと詳しい説明がほしいと言ってきています。小山先生、これを説明する資料を作ってくれませんか」。これが小生の記憶にある最初の彼との会話だった。 お盆で、キャンパス内は事務職員も教員もまばらだった。彼は、小生がテニスに行っているのを知っていて、待っていてくれたようだ。 それから、今まで友人としてつきあってくれた。いわば、戦友である。 最後に彼と話したのは、今年の4月11日。 その2ヶ月前から、2回ほど、飲み会に誘ったが、2回とも彼は忙しいと言って断っていた。 彼はその日、「行方」で友人達と義経焼きを食べていた。 小生は別の友人と飲んでいたが、途中で彼らが居るのを発見。 そこで、彼らが我々のところに合流し、久々にゆっくり話を聞くことができた。彼は、年をとってからの単身赴任。食べものはどうしているかと聞いても、「大丈夫」の一言。 夜遅くまでわいわいと飲み続けた。 今日、「救急車で市立病院に運ばれた」との連絡をもらったのは夜8時過ぎ。6時半ころに職場で、突然倒れたとのこと。それまでは全く普通だったとのこと。 電話をもらって、泊まり込むつもりで病院に向かったが、小生が着いたときには、すでに亡くなっていた。 「なぜ、そんなに、急ぐのか」と言ってしまった。彼の顔を見ていると、とても、逝ってしまったとは信じられない。 ボーっとしていると、これまでの25年間の彼との出来事が走馬燈のように、目の前に、つぎからつぎへと浮かび上がった。 #
by yuyz
| 2013-06-04 23:54
| 私事
牧歌的な映画を見た。
73才の爺さん。糖尿病で目が見えにくい。腰がだめになっていて自分1人では立ち上がれない。二本の杖をもってやっと生活できる老人。 そんな爺さんが、長年けんか別れしていた兄貴が倒れたとの連絡を受け、仲直りしに500kmも離れた町に、芝刈り機に乗ってのろのろと旅をする話。 旅の途中で、毛利元就の三本の矢の話が出てくる。 さらに、彼をかわいそうになり、自分の車で送ってやろうとの若者が出てくるが、それを「自分の力で行きたい」と断る。 その老人が第二次世界大戦のときに間違えて味方を銃で撃ち殺したのを心の悩みにしていたとの打ち明け話をする場面。 ついには、兄貴に会って、2人で念願の星空を見る場面。 ほのぼのとした感動が、心地よかった。 #
by yuyz
| 2013-05-11 19:41
| 私事
連休最終日は、通勤電車に乗った。
山形駅には大学の車が迎えに来てくれた。 西に走ること、1時間半。月山からさらに西へ15kmほどの山のなか。 周りは残雪。 山道の途中にある広場で車を降りた。 目の前に真新しい石の鳥居。石段はきれいに雪がはかれていた。石段を登っていくと目当ての神社。山神神社。 地元の人と山形大学関係者、50人くらいの人が集まった。 やがて神主さんにより神事。 神事が終わって、ふたたび車に乗ってさらに奥地へ。山形大学の演習林内にある管理棟。 この管理棟は50人ほどが宿泊できて、会議室や実験室、それに食堂がある。 食堂に全員が集まって、山形大学演習林の入山式と懇談会。 山形大学演習林は753ヘクタールの広さがあり、大学の演習林としては最大級。ブナを中心とする林。 ところで、この演習林には樹齢90年以上の杉林が20ヘクタール以上あり、それが今年国宝などの修復に使用される木材として指定されることになった。つまり、山形大学演習林は、「ふるさと文化財の森」として文化庁長官から設定されたのである。 #
by yuyz
| 2013-05-06 18:32
| 大学内
連休の二日目、雨が上がったので自転車で出かけた。
陽は射しているのに、ぽつぽつと雨がふってくる。しかも西風が強い。風にさからって自転車を走らせた。 目標は米沢市の西にある斜平山(なでらやま)。 山裾に着くと、「かたくり祭り」ののぼり。 途中では、かたくりの花やふきのとうが歓迎してくれた。 かたくり祭りは当然始まっているものと、山の中に入っていくと、道の途中でワイヤーが張られていた。入るなと言っているのだな。 しかたなく、別のルートを探して、登りはじめる。 道は、雪の影響で木々の幹や枝が倒れていて、またいだり、くぐったり、足下と目の前に気をつけて歩く。 しばらく歩くと、残雪が道をふさいでいて、どこが道か分からなくなってしまった。 あきらめて、下山。 帰り道、さきぼどワイヤーで立ち入り禁止していた場所で、「カタクリ園」の看板を立てている人がいた。 そして、作業着を着た数人の人が看板や道具を持って立ち入り禁止のワイヤーを越えて入っていく。 「入っても良いんですか」 「これは車が入らないようにとワイヤー張ってんの。入っても良いよ」 そこで、ワイヤーをまたいで、入山。 作業の人達は、道に飛び出している枝を切ったり、倒木をどけたり看板をくくりつけたり、歩きやすいように道を作ってくれていた。 作業領域を追い越して進んでいくと、増水した川水にさえぎられ道に迷った。仕方なくもどると、作業の人達は途中で「ここで曲がる」の看板を取り付けている最中だった。 そちらに曲がろうかと思ったが、やはり、今年は山の上の花は遅いとのこと。今日はあきらめて帰った。 今年は例年より雪の多い春のおそい年だとおもいしらされた。 #
by yuyz
| 2013-04-29 14:00
| 私事
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