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小学1年生、息子がかわいい

俺は、自分の第一子が生まれて以降、別にかわいくもなんともないとずっと言っていて、そこに大きな嘘は未だない。そこらへんに転がってるガキと変わらず、ただそこにいる同居人だった。

俺は、はっきりと子供がかわいいと思う感覚を良くないもんだと思っている。

自分の子供ばっかりかわいがってよそのお子様を蔑ろにするのもよくないし、うちのお子様を贔屓してくれない幼稚園の先生方に何か難癖をつける気も起きない。

俺は、なんとなく授かった我が子をそのままに受け取り、なんか同じ家にいる年の離れた同居人くらいに受け取りながら生きている。

俺は彼を愛しているだろうか、たぶんそんなに愛していないと思う。俺の責任の所在であるだけだ。

彼は俺を愛しているだろうか、たぶんそんなに愛していないだろうと思う。彼はこれからたくさんの人と出会う。誰を愛するかは彼がこれから選べばいいと思うし、俺はその一番最初にただ居ただけの一番つまらない選択肢だ。

人間という生き方を考えると、何も選べないし、何でも選べると思う。これは祈りとか理想とかそういう感じなんだけど。

息子が小学一年生になった。

息子は外の世界に向かって行って、息子にとってなんとなく我が家が居場所ではなくて帰る場所になってる気がする。

俺が居るその場所は、彼にとっては居場所ではなくてセーブポイントになってる予感を感じている。

俺はそれが途轍もなく嬉しい。

俺が通過地点に過ぎないことが嬉しい。

お前がどこかに行ってしまうことが嬉しい。

お前が親なんざより面白いものを見つけようとしているのが嬉しい。

少し親にがっかりすることも嬉しい。

思い通りを許さない親の忠告に腹を立てるお前が嬉しい。

全部全部嬉しい。

 

俺は子供を育てるということをわからなかったが、なんか飛行機に乗るやつの話は読んでいて、薔薇をどう愛せばいいかは知っている。

だから、俺は恥ずかしげもなく言える。

俺はお前に足が生えたって、どこまででも逃げようとして、どうしたって一人になろうとしたって、俺はお前を愛してる。お前の幸せを願ってるやつが絶滅するかどうかなんて、そんなことはお前は考える必要がない。

オタクは推しを「産んでる」のかもしれん

某お笑い芸人に一目惚れして推しになった人が色々やりすぎて推しに嫌われてしまったみたいな話が話題になってたので読んだ。

被害者側(の相方)の対応も含めてすべてが感情がゴリゴリに前のめりに先走ってる話なのでここの部分がおかしいとかここの部分は同情できるとかここでこうしてたらもう少し違ったんじゃないのかみたいな話をしたって仕方ないのでまるっと割愛するが、これだけは思ったこと書き残しておこうと筆を取ったのが掲題の感覚だった。

 

こういうファンばっかりだとは思わないが、まあこれに近い感覚で推しを推すファンって一定数いるんだろうとは認識している。俺にはそういう感覚がビタイチわからないので「そういう人もいるんだな」くらいに考えていたのだが、今回のnoteで言語化されてる当人の思考を見て、この人たちもしかして「産んでる」んじゃないのかなと思ったのである。これはもちろん比喩で「産んだ気になってる」とかの方が割と正確なのだが、あえて「産んでる」と呼ぶ。

ここまでどっぷりいってるファンの話はしばしば見かけるが、だいたい一目ぼれの瞬間はその当人が人生の中でものすごく苦しい時期にやってくる。自分がものすごく苦しい時にその推しに出会って、パァッと自分の人生から見える景色が色彩を帯びて多幸感に包まれてる。それってなんかもう、自分の人生の苦しみを産みの苦しみと誤認して、推しを産んだ気になっていないか?

我が子はかわいい、大変な思いをして授かった我が子、そりゃかわいいだろう。幸せになってほしいだろう。そして推しが幸せになるために売れるために有名になるためにもっと多くの人に好きになってもらえるために足りないものがあったらそりゃあ気になるだろう。推しの幸せや大成を願えばこそ一言忠告せずにはいられないだろう。心情としてはわかる、俺にはビタイチ持ち合わせていない考え方だが心情としてはわかる。なぜなら、そういう風に愛してるからこそ子どもをコントロールしようとする親を過去に見かけた経験を数えれば枚挙にいとまがないからだ。

つまり彼らは人生の苦しい瞬間に推しと出会った一目惚れを通して、ほとんど「産んでる」のだ。

子は選ばれて親の元にやってくるわけではない。しかし、それでも唯一無二の我が子だ。愛おしくて愛おしくて仕方がない。幸せになってほしい。幸せになってもらうためには幸せになって然るべきルートを歩んでもらわなくてはならない。成功する見込みがあるからと吟味したわけではなくほとんど産んだみたいな一目惚れであればこそ、推しの大成を願ってあーだこーだ言いたくなるのかもしれない。

そういう親、めっちゃおる。

その推しが才能を見込んで見染めた生身の人間であれば本人の置かれている環境たとえば事務所や芸能界のありかたに文句を言えるだろう、その推しがソシャゲのキャラであればそのキャラを冷遇して解釈違いの使い方をする運営に文句を言えるだろう、その推しが漫画のキャラであれば作者に文句を言えるであろう、しかしその推しが特に才能にほだされたでもないほとんど産んだみたいな一目惚れであれば文句を言う先はどこに向かうであろうか、そりゃ本人に行くのだろう。だってもう感覚的には親なのだから。我が子が幸せになることを誰よりも願い、そのためになら誰よりも厳しく律する、世界の誰もが見放しても自分だけは見放すことなく、その子が世界に受け入れられるように徹底的に心配して指導して面倒を見て、何より推しの行動のひとつひとつに誰よりも深く一喜一憂する。そういう親、なんぼでもおる。

 

なので、そういうふうに考えて解釈してみたら「なるほどそういうことなのか」と思った。

 

これを書いている俺も一児の親をやってるんだが、じゃあ親だからその感覚がわかるんかお前の中にあるんかと言われたらまったくわからん、まったくない。推しだろうが我が子だろうが所詮は他人だ、俺にどうこうできることはないし、なるようにしかならん、育つようにしか育たん。だからどのみちわからんのだが俺にとってのそういう当たり前が全く通用しない、愛ゆえに我が子をなんとかしてあげたくて仕方ない親、我が子のあるべき姿を調停してあげなくてはならんと考える親、そういうやつは割と普遍的に見かける機会があって、ネットでたまに見かける推しを推しすぎてしまうやつよりは見かける機会があって、でも本質は同じなんかなと思ったら俺の中で腑に落ちた。腑に落ちただけでそれ以上は何もない。

 

他人は思い通りにならない、孤独を愛して、隣の孤独を何も言わずに愛したい。

 

以上です。

実写ドラマ『十角館の殺人』俺と島田潔の解釈違い

ネタバレっちゃネタバレだけどほとんど島田潔のキャラクターの話で事件の真相に迫るような言及はたぶんそんなないけどまあ自己責任で。というか面白いから全員観ろ!!

 

俺の小説版における島田潔のイメージ、なんかこうもっと一見するとなんでもなさそうなやつというか、そういう顔を使い分ける狡いやつみたいなイメージだったんだよなー。「人たらし」というよりは「人懐こい」、「キザったらしい」というよりは「ひょうきん」で、「軽薄」というよりは「自然体」、もちろん本質として一筋縄ではいかない油断ならないやつなのは間違いないしその雰囲気を醸し出す瞬間はあるんだけど基本的には人を警戒させないためにそのオーラは普段は消してて凡庸で無害なやつの擬態をながら人の懐に潜り込むのがうまいやつ、一方でぎくりとさせるような核心への言及をいきなり叩き込んでるみたいな二面生を持ったやつ、そういうキャラクターをイメージしていた。捜査の進め方でいうとそれこそ小学生のふりをして無邪気な好奇心を装ってピースを集める江戸川コナン的なやり方をするやつ。そしてそれを踏まえても青木崇高はそんな島田潔を演じてくれるはずだと期待してたんたけど、観てみたら思ったよりめっちゃ典型的な探偵野郎だった!人たらし、ともすれば露悪的なユーモア、軽薄、かっこつけ!思ってたんとちょっと違う!いや結構違う!そしてかっこいい!青木崇高版島田潔めちゃかっこいい!惚れる!俺もこんなおじさんと一緒に謎解きに立ち向かいたい!けど、俺のイメージの島田潔と比べるとかっこよすぎる!俺の考える島田潔はそんな一度会って二言三言と会話をしてみたら明らかに只者でないとわかるような誰にでも一目置かれるようなわかりやすい男ではない。もっとふつうにちょっと人より距離感が近くてなんだこいつと思われるけどどこか憎めないので受け入れられてしまうみたいな、そういうのをわざとやってるタイプのやつなんだよー。青木崇高版島田潔なんて明らかに油断ならないやつなんだから、こんな島田潔に紅さん心を開いちゃダメだよ。もっとこう、島田潔は紅さんにとって「変わり者の俺を慕ってくれるあまり踏み込んではこないから別にいてくれていいかなと思っちゃう無害な変わり者の後輩」っぽいやつだったんだよ俺の中でのイメージは。もっとどんくさそうなオーラが島田潔にはあってほしかった。こんな喧嘩も強そうな島田潔、島田潔じゃない!こんな二重の極みを使いそうな島田潔、島田潔じゃない!それは仕方がないだろ!!

そしてまあこの俺が考える島田潔像、そこまで俺の勝手なお気持ち表明だとも思っていなくて、というのもこの十角館という作品にはもう1人明らかに探偵然とした振る舞いをするエラリイというキャラクターがいて、そんなやつが作中に2人もいるとうるさくて敵わないので島田潔は意図的にエラリイのような「いかにも探偵らしい自信家のキザ」ではなく「飄々とした食えないやつ」に設定されてたんじゃないかと思っている。けどまあ実写版だと大学生の探偵ごっこエラリイと、ダンディ本格派おっさん探偵島田潔は全然違うキャラクターになるのでああいう島田潔でも全然問題ないみたいな判断なのかなと思っている。でもなー!俺が最初に出会った島田潔はあんなにかっこよくないんだよー!そもそもあんなかっこいい島田潔が、「今日の一本」なんてクソダサい締め方をするはずがないだろ。あれマジでダサすぎるし、そのダサさが島田潔の魅力。探偵としての資質は十二分に備えていながら主人公探偵としてはいまいち締まらない男、それこそが中村青司の建てた館こそが主人公である館シリーズの探偵役にちょうどいい島田潔じゃないのかよー!ちょっとあの島田潔はかっこよすぎるよー!かっこよさが過ぎるよー!

でもまあ、あの青木崇高演じる島田潔が水車館や迷路館に乗り込んでいくのは絶対に面白くてかっこよくて観たいので全部OKです!

以上です。