2020/08/02

今日は私の誕生日である。五十二歳という一生で最も素晴らしい年齢になった記念に、朝早く起きた私は滞納している税金を納付するため近所のコンビニへと向かった。昨日役所からカラフルな封筒に「大至急開封」と印字されたものが届いたので、行政からのひと足早い誕生日プレゼントだろうか? と喜びを隠しきれぬ表情で開封してみたところ、「差押予告通知書」と書かれた味気ない紙が一枚収められていただけだったのだ。
一瞬表情を曇らせた私だったが、「誕生日という一年に一度しかない祝福されるべき日に、家賃や生活費などという下らないもののことは頭から一掃し、真っ先に税金を払うという心躍るような経験をひさしぶりに味わわせてあげたい」という行政からの真心のようなものに気づいた私は、今すぐ税金を納付したい気持ちをどうにか抑えて布団に入るとすやすやと眠った。
そして今朝、一年ぶりに税金を納めることで財布も心も羽毛のように軽くなった私はふと「この世には生活を切り詰めて税金を納付することの喜びに目覚めていない人が、まだまだ多いのかもしれない」という事実に気づいて愕然とした。たとえコロナウィルスの猛威によって収入が減少したり、先行きがまるで見通せない不安の中で体が震えていたとしても、なけなしの貯金を下ろし、なければ借金をするなどさまざまな工夫で現金を用意して気前よく税金を納付すれば、たちまち気分が高揚し、梅雨明けの空のようになんとも晴れやかな表情になれることを、私は道行く人に訴えるために次々と仁王立ちして行く手を遮り、対話をしようと試みた。だがソーシャルディスタンスが叫ばれる時節柄だろうか? 立ち止まって熱心に耳を傾けてくれる人はほとんどおらず、私の訴えは周囲の蝉の声と同じように無視されたのだ。
しかしながら人々の表情がマスクに覆われて窺い知れなかったことを思えば、素通りした人たちはみな最近税金を払ったばかりで、その喜びで満面の笑みを浮かべていた可能性もある。だとすれば、私の演説など無用の長物ということになり、かれらに無視されたことに対して何の恨みもないのだが。

2019/11/16

全290話、第一部完結とします。
滝のように流れ落ちる290個の脳味噌をお楽しみください。

2019/11/15

突然何も思い出せないことに気づいた私は、たまたま近くの壁に書いてあった番号に電話してみることにした。
「もしもし」
自分の発した声さえ、聞き覚えのない他人のもののようだった。
「はい、ご用件は何でしょう」
電話のむこうから聞こえてきた声は、どうやら中年男性らしいどこか温かみのある低い声だ。
そのなんとも心地いい響きに聞き入ってしまい、つい無言になってしまう。
「もしかして、何も思い出せないから電話してみたんじゃありませんか?」
電話の声がそう続けたので、私は驚きのあまり悲鳴のような声を漏らしてしまった。
「どうやら図星のようですね。私のところには、どういうわけかあなたのような人からの電話がちょくちょく掛かってくるのですよ」
落ち着いた口調でそう述べると、男性は口元に浮かべた笑みが目に浮かぶような声でさらに続ける。
「これも何かの縁というか、神様が自分に与えてくれた役割じゃないか? と思っているところがありましてね。いや、そんなのは思い上がりも甚だしいとは自覚しています。ただ、実際に困っている方からの電話がこうして掛かってくる以上、私は私にできることはしてさしあげるまでです。そのことに迷いはございません」
非常に慣れた様子で、男性は滔々と語ってくれた。たしかに同様の経験を何度も積んでいることが感じられ、信頼できる相手だと私には思えた。
私も誰か困っている人を見かけたら、この男性のように親身になって接してあげたいものだ。そうすることが相手のためになるというより、自分自身への慰めや、赦しのようなものをいくらかもたらすような気がしてならないのだ。私にしか頼るすべのない、まるで濁流に流される木の葉のような人との出会いは、一種の奇跡のようなものとして私の人生に小さな光をともすことだろう。
そんなことを考えるのに夢中で、電話の声に対して無言を保ってしまったためか、いつのまにか通話は切れて「ツーツー」という単調な音が耳に流れ込んでいた。
親切なわりには意外と短気な相手だったことに少々驚きつつ、
「私だったらどんなに相手が無言でもいきなり電話を切ることはしない。いくらでも気長に受話器に耳をあてながら待ってあげることだろう」
そう思った私は、実際に思ったことをそのまま口に出してみた。
すると口を開いた瞬間に蠅が飛び込んできてしまったため、最後まで言葉を発することはできなかった。
蠅を吐き出すことに必死で、それどころではなかったのである。

2019/11/09

狭い庭のような場所に自分が立っていることに気づいた。見覚えのない場所だから、もし本当に庭なら他人の家の庭なのだろう。
そう思うと私は、すぐさまその場を脱出しなければという思いに駆られた。こんなところを見つかって通報されたなら、何の言い訳も思いつかないことは明白だからだ。
ちょっと珍しい蝶が飛んでいたので思わず後をついてきてしまったんです、とでも述べるつもりだろうか? 彼は昆虫になど何の興味もないはずだ、と友人たちは口をそろえて証言するだろう。じっさい私は外を歩いていて昆虫が目の前をよこぎっても無視するし、衣服などに止まった場合はすぐに払い落としてしまうのだ。
やはりこんな場所はとっとと退散すべきだ。そう思って出口らしき方向へ歩いていくと、赤ら顔で坊主頭の恐ろしい形相の人物が仁王立ちしていた。
この庭の持ち主なのだろうか? だとしたら何かマシな言い訳を考えなければとすばやく頭を巡らせていると、その人物は妙に甲高い声でこう云った。
「他人の土地に無断で侵入するとはどういうつもりだ!」
その声がまるで人間を真似た小動物の声のようだったので妙に思い、よく見ると赤ら顔の人物の体は手のひらに乗りそうなコンパクトなサイズしかなかった。
あまりに恐ろしい形相だったことと、こちらに無断侵入の後ろめたさがあるため相手が巨大に見えたのだろう。実際にはおもちゃ屋で売っていそうなかわいらしい存在だと気づくと、私は急に気が大きくなってこう云い返した。
「ちょっと声が小さくて聞き取れませんでした。すみませんがもう一度云ってもらえますか?」
するとその小人のようなものは赤ら顔をさらに真っ赤にして、何やらキーキーとわめきたてた。もはやその言葉はガラスをこすった音のように本当に聞き取れなくなっていた。
「そう興奮せず落ち着いて、もっとゆっくり喋ってくださいよ。大声を出すのと喚き散らすのは全く別のことですからね」
私がことさら優しい口調でそう諭すと、赤ら顔の人物は頭から湯気が出そうなほど興奮しつつ、地面に落ちているものを片っ端から私に向けて投げつけ始めた。
だがそれらは小指の先ほどもない小石ばかりで、しかも私には届かずすべて地面に落下したのだ。
その哀れな様子を眺めることに飽きた頃には、私は相手をからかうことにもすっかり興味を失っていた。無言のまま足早にその土地を抜け出すとき、何か柔らかいものを踏んだような気もするが、とくに靴の裏を確かめることもなくそのまま道を進んだのである。
庭を出ると周囲には我が家の近所とはまるで違う、初めて見る住宅地の景色が広がっていた。それを夢中で眺めていると「次はどんな建物が目の前に現れるのだろう?」と気が気ではなく、他のことはもはやどうでもよかったのだ。

2019/11/08

目の前の現実がふっと遠のき、かわりに過去のさまざまな幻影がまるで今ここで演じられている人形劇のような生々しさで、視界に迫ってくることがないだろうか。
そんなときはすみやかに冷たい水で顔を洗うなどして、過去の亡霊を振り払うのが賢明な行動だ。冬の朝などはつい適温に温められたぬるま湯などで顔を洗うことを選びがちだが、それでは幻影は立ち去るどころか、ますます勢いを増して自分を飲み込んでいくことになるはず。人形劇だったものがすべて生身の俳優の演じる舞台にかわり、やがて舞台が消えて本物の現実の出来事のように、自室の中で過去の場面が展開するようになったら、もう現在と過去の区別さえつかない悲惨な人生の始まりである。
親しい人を不審者と間違えて棍棒で殴打してしまったことがある人なら、おそらくその思い出したくない出来事が何度もフラッシュバックした経験があるものだ。あきらかに過去の出来事とわかっているうちはいいが、本当に目の前にもう一度不審者が現れて、それを棍棒で殴打したら床に倒れたのはいいが、顔を見たら親しい友人だったという経験をそっくり同じようにくり返してしまう(ように当人には感じられる)幻影などというものは、人生において百害あって一利なし。まったく必要のないものにかかわらず、なぜか多くの人が取りつかれてしまうタイプの幻影だという話である。
私はそんな話を聞くたびに、自分はまだそのような幻影に囚われていないが、いつ恐ろしい幻影に支配される人生へと切り替わるか全く予想できない、ということもしみじみと感じる。だから自宅には一台も給湯器を取り付けず、顔を洗うときは常に冷たい水が出るようにしてある。その程度の工夫は単なる気休めにしかならないかもしれないが、日常を心穏やかに過ごすには、ちょっとしたお守りのようなものが必要なこともあるのだ。
交通安全のお守りに大金を払うのは馬鹿げているが、お守りの一つも持たずに運転する人の車には、なるべく同乗したくないものである。

2019/11/02

つかのまの人生。煙草の煙が部屋の天井を一周して、ほどけて見えなくなるまでの時間のような、このぼんやりしたひとときを誰もが過ごしている。
いっけん忙しくバタバタと立ち働いているように見える人も、心の奥では煙草の煙がほどけていくのをぼんやりと眺める時間を過ごしており、それは気がつけば尽きてしまうわずかな月日なのだ。
そんなことを思っていると、ただ一人で胸に秘めているだけではなく「誰かとこのことを心ゆくまで語り合いたい」という気持ちがふつふつとわいてきた。だが家の中には私しかいないので、話し相手をさがすにはどこか公園などのにぎやかな場所へ移動しなくてはならない。
それは少々面倒だなと思った私は、何か話相手になるものを家の中で探すことにした。
いつか誰かに土産物としてもらった、ちいさな木彫りの人形。お菓子のおまけとしてついてきたのを捨て忘れたような、プラスチック製の何らかのアニメのキャラクター。およそそんなものくらいしか見つからなかったが、何もない虚空に向かってしゃべるよりはましだ。そう思って私はテーブルに置いたそれらに向かって、さっそく話しかけはじめたのだ。
「人生というのはほんのつかのまのうちに過ぎていくものだ。昼寝の際に見る夢のような、じつにはかないものだということが近頃は実感できる。それは私が年齢を重ねて、人生というアルバムに記念写真を貼りつけてきた結果、それらの枚数のあまりの少なさに思わずため息をついていることと関係があるのかもしれない……」
まるで自分のセリフに合わせたかのように、このとき私は深くため息を漏らした。だが熱心に話に聞き入っているかに見えた人形たちは、とくにため息をつくこともなく無反応のままだった。
一瞬立腹しかけた私だが、
「人形は呼吸をしていないのだからため息をつくことは不可能なのだ」
そんな事実にすぐに気づき、冷静になって話の続きを再開した。
だが何を語っても相槌さえ打つこともなく、まして自分の意見を述べる気配のない存在が相手ではまるで自分が聞くべき価値のない下らない話を無理やり聞かせているような錯覚を覚えてしまう。
そこで私は瞼を閉じて、話の続きを語り続けた。
すると私が矢継ぎ早に繰り出す言葉に表情豊かに反応し、さかんにうなずいて同意を示してくれる人形たちの姿が目に浮かんできた。
私はうれしさのあまり自分の表情が綻ぶのを感じた。近くに鏡はないし、目を閉じている以上もちろん、自分でそれを見ることはできないのだが。

2019/10/25

すごいスピードで路地を通り抜けていく車がいた。車には誰も乗っていなかった。
「あれが噂の自動運転というやつか」
私は感心してそうつぶやいたのだが、ちょうどいいタイミングで向こうから歩いてきた男に即座に否定された。
「たまたま運転手の顔や着ている洋服の色が、座席と同じ色だっただけですよ。つまり保護色というやつです」
それから私と男は近くの公園のベンチに座り、この国における自動運転の未来について語り合った。
だが二人とも自動車免許を持ち合わせていないせいか、あまり実りのある対話はできなかったように思う。
失意のうちに私たちは公園の出口で別れ、それぞれの家路についた。
今では相手の顔も覚えていないのである。