道の駅
『倶利伽羅 源平の郷』
そして‼️…すごいのがっ
町を挙げての‼…
『大河ドラマ誘致推進』
くりから‼️
大河ドラマ誘致推進キャラクター‼
『義仲と巴』
もし大河ドラマでやることになったら⁉️…
もちろん‼️…観ます。。
源平‼…の時代‼。。⚔️
平安時代‼…は。。すごく好きな時代なので‼️
。。
『平安時代が好きっっ♡』
木曾義仲の四天王として
今井兼平,樋口兼光,根井光親,楯親忠
今井兼平‼️
いまいかねひら(1152?~1184)
平安時代後期の武将。
木曾(源)義仲の乳母の子で、
幼時から義仲に仕えた。
正式な名のりは
中原 兼平(なかはら の かねひら)。
父は中原兼遠。
木曾義仲の乳母子で
『義仲四天王』の一人。
兄に樋口兼光、弟に今井兼光、
妹に巴御前がいる。
信濃国今井の地を領して今井を称した。
治承4年(1180)義仲の平家追討の挙兵以来、各地に転戦し、義仲と運命を共にした。
義仲は入京以後、後白河法皇や貴族と対立し、鎌倉の源頼朝から追討軍を出された。
寿永3年(1184)『粟津の合戦』で敗れ、
義仲が戦死するとすぐさまその後を追い、
壮絶な自刃を遂げた。
現在、JR石山駅北側に、
膳所藩主本多俊次が建立した兼平の墓がある。
木曽義仲の愛妾であり、武将でもあった
巴御前は、『平家物語』の
『木曽最期』の章で、
美貌の女武将として魅力的敵に描かれている。
「巴は色白で髪長く、容顔まことに優れたり、強弓精兵、一人当千の兵舎なり」
『宇治川の合戦』で自軍が義経軍に敗れ、都を脱出した義仲の兵力はじりじりと数を減らされ、最後にわずか五騎になってしまった。
その五騎に残るほど、巴御前は武勇に優れ、命がけで義仲への忠誠を尽くしたとされる。
義仲と最期を迎える覚悟を決めていた
巴御前に、義仲はこう言っている。
「おまえは女であるから、どこへでも逃げて行け、俺は最後に女を連れていたなどと言われるのは本意でない。」
主の強い口調に逆らえなかった巴御前は、強うそうな敵を探し出すと
「木曽殿に最後の戦見せ奉らむ」と馬を走らせて首を取り、自らの具足を解いてその場から姿を消したと伝えられる。
それからしばらくして、義仲は
近江の粟津(大津)で四天王の一人今井兼平とともに壮絶な討ち死にを遂げている。
『源平盛衰記』によれば、
巴御前は『倶利伽羅峠の合戦』でともに戦った石黒光弘を頼って越中の福光を訪れている。
福光に庵を結んで出家した巴御前は
『兼生庵』と号し、この地で九十一歳まで生きたと伝えられている。
木曾義仲 (*1154~1184)
源ノ義仲・駒王丸・次郎・木曾冠者・
「旭将軍」。
為義の次子義賢の次男。
源ノ頼朝の従兄弟。
信州木曾の中原家で育ち、1180年に
「以仁王」の令旨に応え、「依田城」に挙兵し、平家方の旗頭・笠原頼直を倒す。
1181年に越後の豪族城長茂を破る。
平泉・藤原秀衡から名馬を贈られる。
1183年
倶利伽羅峠に平家の大軍を破り入京する。
1183年
後白河法皇と対立し「法住寺の合戦」。
1184年に征夷大将軍「旭(朝日)将軍」
に就任するが、源ノ範頼と義経の大軍が上洛し、迎撃にでるが近江粟津にて自害した。
<「力も世に勝れて強く、
心もならびなく剛なりけり。」
『平家物語』と評価されている。>
『義仲寺』
―『巴塚・葵塚』―
『巴』というのは、
巴御前のことだとすぐに分かりました。。
木曽義仲の愛妾であり、女武者として
義仲と同じ戦場に立っていたことで知られています。
また、巴御前は『一人当千の兵者』とも称されていたそうです。
一人で千人分の兵力に相当するということで、武勇に優れた女性だったということが分かります。
では、『葵』とは・・・
義仲殿には3人の愛妾がいたそうです。
巴御前、山吹御前、そして葵御前で、
義仲は3人の愛妾を戦に同伴させていたと伝わっています。
3人の愛妾は、鎧着用して戦闘に参加していたそうです。
葵御前は、この『倶利伽羅合戦』で
討ち死にしたといわれています。
一方の巴御前は、最後まで義仲殿と一緒に戦います
1184年、源義経と木曾義仲がぶつかった
『粟津の合戦』時に、義仲に諭されて
巴御前は落ち延びたそうです
この『粟津の合戦』で義仲は命を落とします。
巴御前は、その後91歳まで生きたそうです。
巴御前と葵御前はとても仲が良かったそうです
「葵御前のそばに弔ってほしい」
という巴御前の遺言を受け、
この地に葬られたと伝わっているそうです。
―『巴葵寺跡』―
巴御前が亡くなった後で建立されたと伝わっています。
残念ながら火災で焼失してしまったそうです。
俱利伽羅峠の麓で仲良く眠る2人の女武者に手を合わせ、峠を進みます。