思蓮亭雑録

思蓮亭雑録

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僕は、ユマニスムというものは、人間が当然持つべき常識乃至人間的態度・心構えであって、例えば、地球が自転しているから太陽は東から出るように見えるとか、生物は空気の中で生きていて、空気がなくなると生きていられないとかいう常識に等しいものであり、常識であるが故に、一応万人が心得ている筈のものでありながら、また常識であるが故に、とかく日常生活では忘れられ易いもののように思っている。だから、ユマニスムとは、いかなる人間の思想でも、それが人間的なものになるためには、―即ち人間を幸福にするものになるためには、―必ず帯びている筈の磁気のようなものであるとっ考えている。

「フランス・ルネサンスのユマニスムについて」著作集第3巻147

👼 つまり、ユマニスムは時代的な特性ではなく、人間が人間であるための普遍的なスタイルのようなものだ。それを渡辺は常識だという。それは人間として心得ておくべき知として普遍的なものであり、とかく忘れられやすいものであるが故に、常に思い出され、新たに獲得され、保持るるよう努力されるものだ。その努力こそが人間を人間足らしめるものなのかもしれない。

👹 人間が人間であるためか。人間であることは、人間に課せられた課題だということかな。信仰の故に殺し合い、人間が人間でなくなってしまうことをルネサンスは何度も経験したね。そのなかでユマニストたちは人間であろうとし、また人間であることを訴えた。

👿 そのように考えると、ユマニスムは時代的な特性ではないといっても、やはりそれがルネサンス期に現れたのにはある必然性があるように思われるね。ルネサンスは古典古代を発見しそこで発見した人間に憧れると同時に、古典古代以降ヨーロッパを形成し、自分たちの血肉となっているキリスト教信仰とその古典古代の人間を調和させ新たなる人間像を築こうとした。人間とは如何なるものであり、如何なるものであるべきか、その可能性を探求して苦悩した。

💩 そうだね。ルネサンスは人間が人間であることの可能性に目覚めた時代だったと言えるだろう。人間は型にはまった決まりきった存在ではなく、常に可能性に開かれた存在であるということ、その姿を僕たちはルネサンスの万能人に見ることができる。

👼 それは逆に云えば、人間が人間であることから逸脱し、人間足らざる野蛮に陥る可能性を知ったということだろうね。

👹 つまり、それは時代が近代に入ったということだ。近代は人間的理性の自律が宣言された時代であると同時に、その理性の光のなかに野蛮の闇が内包されていることが暴露された時代だ。

👿 人間が人間として持つべき常識を見失うときに野蛮が出現する。人間が常識を見失うとは、人間が人間を見失うということだ。それは、自分と他者とが共に人間として幸福であるべきであるということを忘れてしまうということだ。幸福でありたいと望むことは人間として当たり前のことなのに。

💩 まあ、その当たり前のことを忘れさせないのが常識というわけなのだろうね。それが常識の批判的機能ということになるだろう。考えてみれば、ユマニストたちは時に命を懸けて時代と批判的に対峙した人たちだったわけだ。

 

 

Palestinian children hold placards during a march demanding an end to the war, Feb. 14, in Rafah, Gaza. Photo by Ahmad Hasaballah/Getty Images

 

このように、今回の旅行で切実に感覚的真実として露われて来た、この空間的美は、一挙に過去に蓄えた数々の映像に逆流し、そこに新しい美と意味とを発見させる。それは、元来なかったものをそこに想像によって創り出すのではなく、記憶の中に保存された真実な何かが、感覚されるようになるのだと思う。美は、本質的に感情ではなく、感覚である。だからそれはいつでもそこにある。責任は、それを把握できないでいる主体の側にある、と言わなければならない。 223

👼 森はそこにあるものだと云う。それは感覚としてそこにある。

👹 確かに美は感じるものだろう。だが、それは感情ではない。感情は主観的なものではないだろうか。僕たちは美を感情的に捉えて、それについていろいろとおしゃべりをすることがだろう。

👿 だが、森の云う感覚は客観的なものだ。それは単に主観に対抗する客観というようなものではなく、主観と客観がそこで出会う場、主観が主観として客観が客観として成立してくる場といったものではないか。

💩 ミラノの大聖堂は森が訪れたときにはまだ完成していなかった。森がその特殊の空間性がその内部において十分に表現されている、と感じるとき、それは美的真実であり、美的真実として普遍である。普遍としてそれは時間を超える。そこで、その美が過去に逆流し、そこに新たな美と意味を発見させるということも生じる。

👼 それはまた、主体の側での変貌だろう。主体は己の記憶のなかに保存された真実な何かに適うように変貌を促される。そこでは美はひとつの問いかけであり、問われている者として主体に責任がある。

👹 その主体の変貌が生じるときに、美はその内的な秩序と歴史的な論理において現れてくる。美というものは主観的なものではない。だが、それは主体の営みを要求する。

👿 つまり、美は文明だ。ゴシック建築の美は、スコラ哲学の論理につながり、また空間の処理として帝国の理念につながる。その関係は、森は反映と云っているが、単に反映という外的ともとれる関係ではなく、精神の自覚とものの奥行きとの同時的相即的生成とも言うべきではないだろうか。

💩 その相即的生成の核にあるのが感覚ということになるだろうか。その時間は過去、現在、将来を超えた瞬間の現在、現に在ることだ。その現においてものと精神が出会う。それは過去と将来とが現在の瞬間において出会うということだ。

👼 それゆえ、記憶は単に過去にかかわることではない。記憶に保存されているものは、単に済んでしまったものではなく、未だなきものとして未知への痕跡だ。古いものに新しい美と意味を発見するとき、それはまさに発見であって恣意的な解釈ではない。その美と意味とは常にすでに現に在って、発見されるのを待っていた。

👹 その意味ではものの存在とは呼びかけであると言えるだろう。そして、それは呼びかけとして精神の自覚を促す。そして精神の自覚はものの自覚を促すだろう。ものと精神の相即的生成とはそのようなものと精神との応答的運動であり、それを客観方向に観るならば、それは理念であり、理念の運動としての歴史ということになる。

👿 森は「感覚自体の内面的運動としてのみ、歴史が、おのおのの個にとって本当に意味のある実体として現われて来るのではないか」と云っているね。

Duomo di Milano

 しかしある芸術作品、文学作品、あるいは、町でも、河でも、光の充ちた海辺でも、女の顔でもでも、すべて人の「美しい」(この言葉の意味は複雑だ)と呼ぶものは、そのものとしてはあくまでその感覚とそれ自体に意味があるのであって、それをどう解釈するあという、日常の言葉とか、論文とか、人の表情とかについて、起こってくるのとは全く別の種類の意味をもっている。実をいうと、そこには一つの感覚そのものがあるだけである。しかもそれは自然科学が分析するような、ある種の計量関係と運動とをもった、ただそこにあるものだけではない。ある精神的価値が、ものそのものとして、そこに凝集して現実にあるということである。あるいは価値と存在とが絶対にひきはなすことのできないものとしてそこにあるということである。そこでは、作品にもっとも密接な関係をもっているはずの作者の内面的歴史までが一応それとの関連を失う。抽象的な意味とも作者の人生とも切りはなされた孤独な作品がそこでは、そのまま、価値であり、思想である。 156

👼 森有正の反解釈。

👹 解釈とは傲慢で暴力的な行為じゃないだろうか。それは、ただそこにあるというだけで価値をもつものの存在を解釈する者にとっての意味へと解消してしまう。

👿 そこには形而上学の二つの運動がある。ひとつは、ただそこにあるものの背後に隠された意味を見てゆこうという運動。もう一つは隠された意味を読み取るのが理解する内面性だという運動。

💩 いずれにせよ、解釈はものと人間との生き生きとした具体的な出会いの場を離れた抽象となる。

👼 特に近代以降、隠された意味が作者の内面性に定位され、解釈は内面性の、あるいは主観性の形而上学になる。芸術作品の経験が、作者が何を言いたかったのかということの探求になる。それは芸術作品の経験の貧困化ではないだろうか。

👹 確かに「作品を作者以上に理解する」という解釈学の格率はあるけれど、それはそれで解釈の帝国主義という気がする。

👿 帝国主義ね。帝国主義は他者性に対する度し難い鈍感さと傲慢さだ。それは解釈のもつ鈍感さと傲慢さに通じるものじゃないだろうか。文化人類学が帝国主義と共に生まれたのは示唆的なことだ。

💩 森によると、ものという他者との出会いで第一義的に重要なのは解釈ではなく、感覚だということになる。

👼 感覚といっても表層ということではない。というか、表層ということ自体、解釈の形而上学からいえることだろう。それによれば、感覚は解釈の素材であって、それ自体は意味のない混沌であって、解釈はそこから内面性へと深まっていく。

👹 森は感覚が意味であり価値だと云う。

👿 つまり、感覚は精神がすでに生じてしまった精神の出来事を解釈する素材ではなく、まさにそこから精神という出来事が成立してくる原事実だということだろう。

💩 ものと出会うことで精神は肉体をもった人間の精神として成立するし、ものはまさにこの世界に存在する奥行きをもったものとして現れてくる。

👼 森によれば、それがデカルトの連続的創造の意味だということになるのだろう。精神の運動も持続も感覚という瞬間のものとの出会いを俟ってありうる。

 

An Afghan balloon vendor stands aside his bicycle as he awaits customers at a street in Kabul on August 31, 2023. (Photo by Wakil Kohsar/AFP Photo)