たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

毎度、当ブログをご覧いただきありがとうございます。

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無断での使用はご遠慮願います


ペタは、廃止させていただきました。

日本固有の鉄道関係イベントというと、元号に絡めた「ゾロ目特需」がある。

今年は「令和6年」ということで、


令和6年6月6日


が目前に近づき、ゾロ目の記念乗車券の発売情報が出てくるようになった。

例年ではこの手の記念乗車券には手を出さなかったのだが、今年は各社一段工夫が異なるようで

また友人から依頼もあったことから、動きがてら買いに出かけている。


一番身近なところだと、京王電鉄。

今回は引退からはや13年余、6000系をモチーフにしたヘッドマーク記念乗車券。

また身近なところでは、ここ数年後輩が相次いで京王電鉄に入社していることもあり購入。


ただ元号だけじゃ、いつものように買わなかった。

折しも友達から確保依頼があり、便乗する格好になる。

今年はなんか、財布の紐が緩くなりそうで戦々恐々としている。


そしてちょっと前後するが、今日は小田急多摩線が開業してちょうど50周年の節目。

あまり記念乗車券の類が出ない傾向の小田急電鉄も、50周年で出すというので新百合ヶ丘へ。

朝8時からの販売開始、限定数わずか1,050、一時の長い行列との報告もあり危惧したが…

9時半頃に到着した時には、待ち時間もなくゲット。

そこで小田急線界隈で引きの強い友達夫妻に会うというオマケもw


割と、デザイン請負の関係か、一部似通っているなぁ?とか思うことも少々。

記念乗車券界の水戸岡氏みたいな方がいるのかなぁ?とか勘が働くのだが。


そして、今日メインで向かったのは小田急永山。

永山駅直結のグリナード永山も開業50周年で、コラボイベントが行われた。



プラレールや多摩市の企画展示、グッズ販売も。


特に今日は、豊岡真澄ちゃんの登場でトークショーも2回開催。

このことが、例年の行動パターンを根底から覆すこととなった。


小田急線新百合ヶ丘駅管区や多摩線のPRがあったり、ゆるキャラが登場したり。


これまでの経緯上、自分にとってはますみん、豊岡真澄ちゃんの存在は別格扱い。

ことに近年は、その存在感が他の行動パターンをも見直す指標になってきている。


まだこうしてイベントを通じて賑やかにできていること、がその大多数である。


鉄道会社や先輩後輩同期など、多岐に渡るつながりの深度化が加速。

四半世紀前には考えられなかった“相互乗り入れ”が、至る所で動いている。


それだけに、その個々のクオリティライフの維持や見極めには最大限の注意を払う必要も。

かつていくつかの関係で苦汁を舐めた経験から、時には突き放すほどの対応もやむを得ない。

それは厳しいかもしれないが、しっかり線引きしないとまた苦労するのは明白だからだ。


そんなことはあるが、ますみんの存在が自分にとっては強み。


結局午後も滞在を延長し、イベント終了まで永山に滞在することとなった。


最後半には、多摩市の阿部市長もブースを訪問。

これをきっかけに、多摩市の鉄道が盛り上がる起爆剤になってくれると嬉しいのだが。

そして今日、最後まで付き合ってくれた関係の皆様にも、また感謝である。


今日のこのイベント参加を通じ、またちょうど6月1日ということもありひいては鉄道に限らず

さまざまなスタンスの見直しが必要不可欠になってきているな…と強く自覚した次第。

明確にこの日までという目標を立てて、それを粛々と実行していくこと。

それは強く意識した1日になったから、動けて良かったと思う。

またそれは、折を見てしっかり考えを書き残しておけたらと考えている。


この夏以降のターゲットは、コレな。

書きたいことは、まだまだたんまりあるのだが。
とりあえずやれることを手早く、ね。

西武2000系シリーズ、まだ続く!


さて、4月30日火曜日へ!

ここから5月2日までは仕事で、またまた西武国分寺線を利用して通勤。

となると、やはり小窓のアイツが気になるもの。

この日は国分寺駅に7:30に着いたところで、早々と2051Fに遭遇。

もっとも、まず朝食を取るのが優先だったので、ここでは最初は見送るだけ。


それでも、30分弱のサイクルで戻ってくるため、朝食後速やかに恋ヶ窪駅に向かい迎撃。


ツツジと2051F。

ここんとこ休み明けは雨の日が多く、撮影環境は厳しいが、また映える写真が…

と言いたいが、自分の腕がついていかないのは悲しい(´-ω-`)


それでも、ほぼ雨は上がり記録にエンジンがかかってくる。


2051Fに乗って今度は小川に行き、この日はこれで見送って…


この日はここで、2451Fも合わせて迎撃!


1日で2度美味しい、良い休み明けに。


クモハの表記も、どんどん珍しいものになってきている。

特に西武鉄道では、新2000系にのみに残るものになってしまった。


この日はとりあえず、小川で発車を見送って…


夕方退勤後、同じ編成に新所沢から狭山市まで乗る。

だがこの時も、やっぱり本川越までは行けなかった。

この日何で行けなかったかはよく覚えてないが、確か家用だったかと。


5月1日も天気は微妙。

この日は出勤前に東武東上線朝霞台駅に記念乗車券を買いに行ったため、帰りに記録。


列車交換は何度も記録してきた。

しかし、こんな新2000系同士の並びも、いよいよ見られなくなる日が現実に近づいている。


どんどん撮るネタはなくなっている。

あとは、日々記録を重ねていくという使命感だけ。


5月2日、やっと天気は晴れ。


またしばらくしたら、賑やかになってくるのも目に見えている。

そうなる前に、どんどん前倒し。


前日のドン曇りと比べると、また映え方が違う。


そしてこの朝は、鷹の台でも。

朝以外はほとんど閉まる2番ホームで、東村山行きを迎撃。


だが何も晴れていれば良いわけではないことを、また改めて知ることに。


そして帰りも2051Fに乗って、帰宅。


撮って、乗って、また撮って、乗って。

日々マンネリと闘いながらも、濃い記録を続けている。

その勢いが、他の場所でも次第に活きてくることになっていく。

さて。
平日はもともと4月19日以外は休みが取れなかったが、準備をしていなかったわけではない。
昨日やっとその縛りから解放され、いよいよ“3ヶ月半”延びた時間を有効利用する時が来ている。

そう。
まだ255系を追うことをまだこれっぽっちも諦めてはいなかったのである。

前回追ったのは4月3日。

とりあえず先立つこと約1ヶ月前、GWになって、少しばかり遠方に動く余裕が出てきた。

いや、今まで伊豆だ北関東だ言ってたのは何やねんというのはあるが、千葉方面は都心を抜けて

向かうというバリアが、これまで心理的な距離感を遠くさせていた側面がある。


…その心理的な距離感、というのは他にもあって…という話も、また後日。


さて、今年のGWは前半3連休、後半4連休。

特に後半はイベント目白押しでてんやわんやもしたが、その方向性もプラスに転じていた。

これに乗じていかぬ手はない!と。

まずは、撮ったことのなかった場所から順次潰していく。


4月27日土曜日、新習志野駅

先ずは、ここのところのデータ再整理でとにかく撮っていないことが分かった京葉線内から。

結構2010年前後から赴く回数が多かった割に、目的故かカメラを向けていなかったのだ。

以前は「しおさい」運用もあったから、本数も少なかった故かもしおさい…いやしれない。


ただ、現状の暫定ダイヤは、平日より土休日のほうが少ない。

平日で下り6本、上り7本(東京ベース)の所、土休日は下り・上り各4本まで減る。

一部“平日のみ”とされていた「わかしお3・9号」も土休日に運行されている。

まぁそれでも、十分残っているほうだなとは改めて思うのだが。


この4月27日は、東武亀戸線のイベントに寄ってからの撮影になった。

となると、現時点ではどうしても午後の「わかしお12号」を狙うのがベターな選択になる。

亀戸からの距離と時間が微妙なところであったのだが…

まずは撮影場所に余裕があり、廃車回送などで場所慣れしている新習志野から一閃。


GWも始まったし、他に誰かしら撮っているのかと思ったが、誰もおらずに拍子抜けした。

まぁ、また1ヶ月切ったらどこからともなく増えてきそうだから、これはこれで良いのだが。


そして、京葉車両センターに疎開されたままのBe-05編成であるが…

留置位置が海浜幕張側に変わった以外は、実は今日に至るまで全く動きが無いままである。

X上では何やら飛び交っているようだが、さてどうなるのだろうか?


続けて、折り返しの「わかしお9号」を捉えたのは各停しか停車しない二俣新町。

急な雨に逡巡したが、とりあえず及第点。


実はこの二俣新町では、過去に一度蘇我側で上りの255系を撮影している。

ただその頃は、201・205系狙いの“ついで”ではあったが…

およそ14年ぶりの再訪は、急な天候変化に翻弄されつつもやはり一人静かに収めたのだった。


この日はこれでおしまい。

特に他に用事もなく、夕方の「わかしお16号」を待つ気力体力もなく帰路につくことになる。


4月28日、日曜日


この日は丸一日予定が無く、当てもないままフラフラと移動。

そんな行きしなの幕張本郷で留置中の編成を見つつ、先へ、先へ!と向かったのは…


外房線土気。


降りてみてむ、むー…と思った時には、もうリカバリーは効かなかった。

やっぱり、ちゃんと降りてみないと分からないことが多々出てくるもので。


12:52。


思っていたよりも速度を上げて「わかしお12号」通過。


特殊発光装置は運転上必要なものだから、泣き言は言うまい。


でもそこかぁ〜!!


っていう心の叫びはずっとこだましていたがσ(^_^;)


そしてその影響は、折り返し「わかしお9号」でも。

新浦安通過、14:12。


この日は快晴であったが、気持ちは微妙に曇り空に。

そのあたりの微妙な歯車のズレは、シャッタータイミングも微妙に狂わせた。

その気持ちの乱れは、今日に至るまで引きずることになっていくのだが…

そうも言っていられない大仕掛けを2回、このGWに実行することとなっていく。

私事になるが、今日で日々の東村山界隈への出向は終わった。
平日に毎日西武鉄道に乗ることはなくなるが、今回の経験は良い叩き台になるだろう。

GWを挟んで記録は減ってはいたが、ね。

それはまたいずれ。


そして、方向性をちょっとだけ改めた


さて、4月26日金曜日の続き。

とりあえず4月を出し切ってしまわないと。

2051Fを再迎撃して、俄に記録スイッチが入り直したところだ。

西武園線も方向幕車である2523Fが入っていて、東村山駅でニヤリとしていたようである。


そして2051Fを再迎撃するところが、この日の朝の最後。

ちょうど国分寺線での朝の運用を終えて回送になる運用だった。


1番線入線のタイミングで、方向幕は既に「回送」に。


車内点検から閉扉までは、若干の余裕があった。


35年以上も日常風景として走り続けてきた2000系。

いて当たり前だった存在も、ここ数年で急激に減った。


そしてこの日の夕方、2507Fの撮影のために再出撃。

今のところ、2507Fが先頭で走るところを捉えた唯一の機会になっている。


これで反対側に2451Fが連結されれば、小窓同士になるのにな…

とは、これまで全く意識しないで記録してきた代償。

もしかしたら、データを探したらそんなのも出てくるかもしれないが。


せっかくなので、少しだけ記録を重ねていく。


池袋線系統から転属してきた6000系との競演も、今だけである。


このまま、本川越まで乗り通してしまおうかとも思ったのだが…


急用が入ってしまい、狭山市で離脱。

なお、この1ヶ月半ほどの今回の記録行脚では、狭山市以北には行けていない。


この時に謎だったのは、同じ場所で撮っていた人にいきなり写真の感想を問われたことだ。

別にそれまで雑談を交わしていたわけでもないし、虚を突かれると何も出てこないもので。

かと言って無視も感じ悪いから、とりあえず


曇ってたな


くらいしか答えようがなかったσ(^_^;)


そして…

4月28日日曜日、国分寺駅。


この一連の記録で、唯一となる日曜日の記録。

別の場所に向かうため乗り換える途中だったが、たまたま来たから捉えたというw

タイミングさえ合えば、どんどん仕掛けていく。

そのスタンスは、まだもう少し続いていくこととなる。

4月第二週から、唐突に始まった小窓の西武2000系記録。

40代以上のゲーマーしかわからぬであろうタイトルの元ネタと、渋めかつ異例のポイント記録。

だが、記録を重ねていくごとに、それは困難なことだと痛感することとなった。


まあとにかく、捉えづらい!


その捉えづらさは、系列で残り1編成になった時とはまた違うしんどさがあった。

系列自体はまだまだ多数残っているのに、絞りにくさに四苦八苦。


加えて4月22日以降、その小窓車の姿が突然見えなくなった。

もともと運用範囲やパターンが複雑多岐に渡り、一朝一夕には理解できない側面があったものの

4月22日の出勤時から、一番捉えやすかったはずの2051Fを一時的に見かけなくなった。


加えて天気も悪く、モチベーションは下がっていく一方。

ならばと2両編成車に目を向けたりもするが、どうにもうまいこといかない。


なので、苦肉の策で西武園線に目を向けてみたりもする。

西武園線は2000系4両編成車の固定運用だが、幕車とLED車の運用は半々くらい。

以前イベントのタイミングで沿線を歩いているが、そろそろ機を見て歩いておきたいもの。


4月23日火曜日

そして、ずっと思っているがニューレッドアローもだ。


柏原芳恵の歌じゃあるまいし、そんな悲嘆に暮れている暇があったらもっと見るものがあるw


4月24日水曜日

と、24日の夕方になって2053Fは久々に目撃した。


翌25日にも、2053Fは国分寺線にいた。

しかし、2051Fの姿は依然見えない。


それもあってこの日は、出勤前に小平を経由。


新旧2000系の2両編成車が先頭の列車を立て続けに収めてからの出勤に。

ここまで小窓を見れなかったことに、すっかりやる気を失くしてしまっていた。

それもあって、GWの予定策定に舵を切ったりもしていたのだが。


翌、4月26日金曜日。

やっとやっと、2051Fに再会。


こういうことがあるから、日々の積み重ねって大事なんだな。

そんなことなぞとっくに分かり切ってはいるが、毎日乗っているとやはり気持ちが下がる。


でも、まだ動くならもうちょっと追っていきたい。


そして、かねてから注目している前パン、2両編成も引き続いて。


ここからまた、可能な限り動き続け…


ん?!


これまで先頭に出ていなかった2507Fが、拝島・本川越側に!

これもしっかり撮っておかねば!と一段ギアが上がる。


…もちろん仕事も手抜かりなく、ね。

当初のテーマからは、どんどん逸脱してます😓

捉えどころが少なくなると、というか、あらかた捉えると


急失速


してしまうのは、ある意味当然のこと。

かと言って、それを言い訳にしちゃいけないのも、わかってはいる。

今は次の行動に向けての準備期間、プロ野球で言えばオープン戦!

…そうやって誤魔化しながら、この難局を切り抜けていくしかない。

その癖、最近奇妙にアクセス数は平均的に伸びているしなぁ。


4月17日夕、花小金井にて

まだこの頃は、仕事上がりに新宿線に転戦する体力が残っていたみたいである。


この時の狙いは、旧2000系2419F。

旧車体のラストナンバーである。


もはやあまり撮る意味もなくなってしまっていた、新旧連結面。

しかもこのグループに至っては、新2000系とさして製造時期が違わないものもいる。

西武所沢工場製が旧車体、旧東急車輌製が新車体といった案配だ。


2417Fと2419Fのみ残存しているが、両編成が同じ日に運用に入る機会は少ない様子。


何回同じところ撮っているんだ自分w

外観だけ撮っても車号をよく覚えてないから、記憶の補填みたいなものだ。


しょうがないけど、初めてデジカメを持った2007年頃は細かいことに興味が無かった。

割と大きな区分け、西武鉄道なら西武、JRなら JRと相当にザックリしていたのである。

形式狙いに特化するようになっていったのは、2010年のJR201・203系くらいからだ。


凛々しき女性車掌の後ろ姿に、旅愁を重ねて。


「所沢車両工場」の単語も、どんどん遠い過去の話になっている。


ちなみにこの日は、2419Fと2539Fに挟まれて4両編成小窓車2507Fが連結されていた。


こんな連結風景、相当にありふれていたはずだったのだが。


そしてその翌日の夕方、同じ列車で。




今度は西武新宿方に2453F。

新2000系2両編成車のスタンダードスタイル。


相変わらず好きな個体に違いはないが、記録意欲は相対的に減っている。

自分の中の記録に割けるキャパは予め決まっていて、どれも同じ量、同じ熱量とはいかない。


そんな限られたキャパの中で、どれだけ充実した記録蓄積ができるのか?

西武鉄道だけでなく、JR東日本でも、他の鉄道各社でも。

それ以前に鉄道以外の日常生活、やるべきこととの兼ね合いもある。

その範囲内で、どれほど気持ちを込めて対峙していけるかが今の課題である。

うむー、最初のうちは良かった。
だが、仕事と同様に記録のモチベーションを維持するのって義務じゃなくとも実に大変。
週4〜5ペースで利用しているのだから、だんだん見る範囲もザックリとし始める。
加えて、小窓車が運用から外れがちになっていくのはこの翌週のことで…

マンネリと隣り合わせのジレンマがここに。


4月16日火曜日、花小金井にて

この頃には早くも、捕捉のしづらくなった小窓車から2000系そのものに拡大解釈してきていた。


同じく希少価値となった旧2000系も、走っているなら迎撃したいスタンスで。

できれば先頭に立っている時に撮りたいが、仕事時間等々贅沢は言っていられない。


それでもこの日は、見かけることが少なかった2417Fを捕捉。


じわじわと、寄り道方々足を伸ばし始めたりもする。


だがそれも、一昨年の2007F引退に際してあらかたやり切った感がまだ残っていた。

そのジレンマは、今もなお続いてしまっている。


少しずつ行動範囲を広げつつも、気持ちは早くもこの週の後半やGWの計画に心が動いていた。


4月17日水曜日、国分寺にて

それでも、まだあれこれ知恵を巡らして早めの動きでポイントを掴めるように試す。


2000系だけで走る国分寺線の風景は、もういよいよ長くない。

そのことをしっかり心肝に染めておけば、僅か1編成の動きに翻弄されることも無いはず。


何気ない記録も、いつかはかけがえのない1枚になる。

そう信じて、シャッターを押す指も力が入る。


東村山に行ったとなれば、帰ってくる電車を待つのもまたルーティン。


もしくは朝は1・2番線交互発車のため、追いかけていくのもアリだが…

高架化工事進む東村山駅では、条件に限界が。


とにかく、どこの駅でも撮れるときにしっかり。

それがまずは肝心。


数年も経てば、また様相は変わっていく。

今この時を大事に。

その気持ちを常に忘れないことだ。


今あるものはやがて朽ちていくのは、この世の運命。

中には想像以上に朽ち、パッチワークを当てられながら踏ん張る車両も居る。

平成の発展期を支えた名車の花道を、もう少し熱い眼差しで見送っていきたい。

たまには当日撮って出しをば。


2月11・12日に訪問してから、はや3ヶ月半。

あれから行ったり来たり、帰らない旅に出てしまったり。

武蔵中原の鎌倉車両センター中原支所に、未だ残る205系。

唯一の現役で弁天橋に常駐し(今日も終日)南武支線で運用に入っているW4編成を除いては

ダイヤ改正を待つことなく、2月末までに全て運用から離れた。

そして、一部は国府津車両センターに疎開を経て郡山に廃車回送、解体も始まった。

暮れから春先よりはすっかり落ち着いたものの、未だ動きがチラホラと。


中でも出色は、昨年9月13日にE127系導入で運用を離脱した南武支線用のW1・W2編成。

中原支所所属車で一番早く、かつ速やかに国府津車両センターに疎開されたものの、交番検査を

施行するタイミングで中原支所に“里帰り”するようになった。

これは、検査期限の関係もあり、同様に残籍する鶴見線用もまた同様である。


実際、昨年末にも一度武蔵中原に2編成揃って同じ理由で1回目の里帰りをしており…

そのタイミングで有料撮影会を開催するなど、いたく活発であったが…

昨年のうちに国府津に再疎開された後は、ダイヤ改正前後含めて一切鳴りを潜めていた。


しかし、再び5月20日に交番検査施行のため2編成が揃って武蔵中原に戻ってきていた。

それが今日に至っても、国府津に再度疎開回送される動きが見られなかったため…

急遽予定を組み替えて、約3ヶ月半ぶりに武蔵中原を訪ねてみた。

中原支所16番線を再訪すると、駅寄りの終端部には鶴見線の最後を飾ったT17編成が。

今年前半、幾度となく追った思い出の編成となった。


時折パンタグラフを上げて通電しているそうだが、今日は滞在中は下がったままだった。


と、終端部付近に前回訪問時に無かった不届な痕跡を発見!


こうした愚行が、マナーを守って撮影するほとんどの撮影者の首を絞めていくこと。

そのことに、これだけ書いてもまだ気づかない愚か者が居ることをまだ書かないといけない。


これまでは、鶴見線用編成が縦列で2編成停車していた16番線。

その立川側には…


手前から南武支線W2+W1編成、再会!


回送の際と同様に連結されたまま、静かに眠りについていた。

連結状態を自らの目で見るのも初、そして武蔵中原に留置された姿を間近に見るのも初!


かつてはこれに南武線1200番台もいて、大層賑やかな顔合わせがあったのだろう。

しかしそれを撮りに来ることは、これまで一度もないままだったのである。

仕事で散々南武線を利用していた反動が、日々の記録を消極化させていたのだ。


互いに現役は退き、次に向けての充電か?はたまた少ない余生を静かに待つだけか??

さまざまな憶測が周囲に流れているが、さてどうなっていくのだろう?


それまでの短い間、日常では見られなかったレアな組み合わせを間近に見ることができている。


今なら少しの間、沿道から見放題。

その好機を、どう活用することができるだろうか??


南武支線車はまだ1編成が現役であるが、差し替えもあるのか??

もう少し、動向を気にできる距離感を持っておく必要がある。


次に動く時は、どこへ??


保存しろとか譲渡しろとか、余計なお世話は鉄道趣味の最大のエゴ。

やれるなら自分が金を出しなさい、ということに尽きる。

せめて自分ができるのは、良縁がありますように…の一言のみ。


さて、中原支所構内にはまだあと2編成の鶴見線車が残存する。


11番線には、お尻を検修庫に突っ込む形でT15編成が。


さらに4番線終端部付近には、T19編成が。


T19編成はこの日唯一、通電状態で留置されていた。


武蔵中原に残り続ける2両編成2本、3両編成3本の計13両。

これらの行く末や、いかに?!

JR東日本の最北端である、津軽線の非電化末端区間の蟹田〜三厩間。
一昨年夏の大雨により大きな被害を受け、運休が続いているが…
JRと青森県、沿線自治体のトップ級会議において、今別町の阿部町長が鉄道による復旧を断念し
自動車交通に転換することに合意した…と昨日報じられた。
津軽線全体の通過輸送人員すらも大幅に減少してしまっている状況。
仮に復旧させるとして工事期間4ヶ月、工費6億円との試算もあったが…
復旧させたとて、以前の輸送人員に戻るとは到底思えない状況。
それもあり、JR東日本よりも先に沿線自治体、まず今別町が廃止やむなしの考えを示した格好。
このまま、廃止に向けて一気に協議が加速していきそうである。

もっとも今別町には、津軽二股駅に隣接し北海道新幹線奥津軽いまべつ駅(旧津軽今別)もあり
個々の利用客の負担はともかく、津軽線を残すメリットは限りなく薄いのが現状だろうか。
やはり新幹線開通後の並行ローカル線は厳しいのだな、とつくづく実感させられている…
というか、そもそもの津軽線界隈の記憶を呼び返すと、まぁそうなるかと溜息しか出ない。
残念ではあるかもしれないが、まぁあれじゃこうなるよなという諦めの境地である。


というのも、自分は以前一度だけ津軽線を訪ねている。

記録を掘り返すと、21年前の春先、2003年3月2日の日曜日のことであった。

この年、JR東日本の“完全民営化記念”の一環で発売されていたのが「JR東日本パス」

2003年3月の土日のうち、1・2・8・9・15・16日のみ有効であったが…

現在では考えられないほど破格であり、1日用8,000円、2日間用でも全線12,000円!

しかも2日間用は特急・急行の指定席が4回利用可、自由席もオールフリー!

そうとあっては、利用しないという選択肢なぞ当時はありはせずw

音楽関係最優先のこの時期の自分としては、非常に珍しくなっていた乗り鉄欲を強力に発動。

通常平日休みだった仕事のパターンを崩し、2003年2月28日の夜から3月2日にかけて旅をしていた。

何故2月28日開始にしたのかというと、新宿から新潟までは夜行快速「ムーンライトえちご」を

活用し、乗り鉄欲の充足はもちろん、移動時間の有効利用と効率化を図ったからである。


しかも3月1日は新潟から越後線で吉田に向かい、弥彦線を踏破したあとは快速「べにばな」号で

一気に米沢へ抜け、新幹線福島経由で仙石線と

石巻線石巻→小牛田間を片づけ、新幹線乗継で

再度新潟まで向かい、また「ムーンライトえちご」で新宿に戻るという離業をこなしている。

その上で、翌3月2日は前年12月にまだ開業したばかりの東北新幹線盛岡〜八戸間を活用。

朝一の「はやて」で一気に八戸へ到達、そこからは当時東北地方のDS列車として人気が高かった

「きらきらみちのく」に乗り継ぎ、大湊線と津軽線をまとめて踏破するプランを実行した。

これは、当時の運転のパターンが八戸→大湊(下北号)大湊→三厩(津軽号)と1日で巡れる

ダイヤになっていたのが大きく、この時が最初で最後の「きらきらみちのく」乗車ともなった。


3月とて東北はまだまだ寒く、この旅の道中で雪景色はおろか降雪に遭遇したことも度々。

特に青森県はこの時が初訪問、さらに現時点で未だ再訪は果たせていない。

寝台特急「あけぼの」や「北斗星」、更に夜行急行「はまなす」が廃止になる際など度々計画が

持ち上がったことはあったが、祖母が亡くなったりするなど身内関係の問題が悉く持ち上がって

時間確保が困難となり、結局実現することのないまま現在にまで至っている。

福島・会津方面を除く広義の東北方面への訪問も、2017年4月以降できていないままだ。

また、そもそも津軽方面への初訪問が遅きに失してしまった感が大きかった。
津軽海峡線の快速「海峡」は、この前年12月のダイヤ改正で特急格上げにより消滅。
寒さが苦手なのを言い訳に、仙台・山形(天童)以北はこの時まで未踏破のままだった。
そして、北海道は未だに訪問できていないままである。
JR東日本パス効果か、東北新幹線が八戸まで開業し注目が高かったからなのもあるか、この時の
「きらきらみちのく」はとても盛況だったことを覚えている。
事前準備を周到にしていたからか、今にして思うと随分ちゃんと指定券を確保できていたなと。


ただ、この頃は純粋に列車でのみ1日で周遊する、完全な“乗り鉄向け”観光列車であった。

最初の目的地・大湊には12:00に到着し、僅か8分後にはもう三厩に向けて折り返していて…


青森を経由し、長い旅を経て既に日が傾き始めていた15:11に三厩に到着している。


※時刻参考


しかもまた、15:21には「きらきらみちのく八戸」としてすぐ折り返してしまう。

実際、後は八戸から東京に新幹線で帰るだけだったので、乗っていっても良かった。

だが大湊から三厩に行く際に時間をずらしてしまうと到達が困難になっていたのに対し、ここで

1本落としても当日中に帰れることを掴んでいたので、少し三厩に滞在することを決めていた。


このため、ここで「きらきらみちのく」は見送っていた。


まさかこの時は、最初で最後になるとは思わなかったがね。


そして、この駅は2003年時点で1日の平均利用客が50人を切っていたが…

2019年までCTC化されていなかったことから、運転扱いのある直営駅で駅長が居る駅だった。

それもあってか「きらきらみちのく」が走り去った後も、駅舎内はそれなりに人の動きが。

なかでも、近所のおばあちゃんが手作りしたという「タコの塩辛」が売っていたため即購入。

帰宅後にいただいたが、とても美味しかったことが強烈な思い出として残っている。

唯一度の三厩駅訪問は、津軽の方々の人情に触れた良旅として刻まれているのである。


そしてキハ40の普通列車で蟹田へ戻る。

その帰りしな、津軽二股駅から当時の津軽今別駅の様子もそれとなく記録。

津軽今別駅を利用することはついぞなく、北海道新幹線の今に至るまで青函トンネルは未通過。


津軽線末端区間は、近年までキハ40系がツーマンで運行されていた。

輸送規模の割にはワンマン化が遅く、一昨年のダイヤ改正からである。

車両はGV-E400系に置き換えられていたが、三厩への入線は短いものとなってしまった。


JR北海道789系も、道南・北東北エリアでの活躍は僅か13年程度となった。

この時は蟹田→八戸間で利用したが、今のところ自分が乗れている唯一のJR北海道車両である。


旅は一期一会。

こうして20年以上前に一度でも乗りに行けていたのは、今になってみれは財産であった。

苦渋の廃線選択は残念ではあるが、こうして書き残しておいて供養としたい。

ずーっとこのブログでは185系での旅ネタを書き続けてきたが、日々の記録も着々と…
他に大ネタもあるのだが、出しておかないとどんどん“鮮度落ち”が進んでしまう。
そうして過去にも出さずじまいのものが結構あったから、反省を踏まえて早めに。

最初に出したのは5月初め!

…それでももう、古いので1ヶ月以上過ぎちゃってるけど。

西武鉄道2000系に残る“コマド”3編成、日々の動向。

それは次第に、その捉えづらさから2000系全体へと拡大しようとしていた。


4月15日月曜日、国分寺駅から。

運用情報を確かめるのは、すっかり日々のルーティンに。

西武2000系の“小窓編成”、今のところ一番見つけやすいのは国分寺線運用の2051F。


後で分かったことだが、以前は新宿線・拝島線で4両編成と組んで10両、2両編成と組んで8両と

本線運用にも頻繁に入ることのあった6両編成だったのだが…

少なくとも4月から国分寺線に定期的に乗り始めてからは、そうした運用がなくなっている。


一方で4両編成は2編成を連結して各停運用のほか、2両編成を更につなげて10両編成とするのが

毎日1〜2本は確認できており、1本は確実に終日に渡って優等列車の運用に入っている。


だが、2両編成は旧車体の2417・2419Fを含めてなお10本が在籍。

基本は4両編成2本のほか、8両固定編成に連結して10両編成を組むのが基本だが…

池袋線系統から6000系の転属が始まり、運用数は大幅に減少しているようだ。


主に組む相手だった4両編成も最盛期の半分ほどに減り、全体的に固定長編成化が進んだ昨今。

京王電鉄は7000系が支線でも用途がある程度見出せる環境だが、西武線はそうではない。


そして仕事帰りも、乗る時に撮る。


運用状況や身体の疲れ、天気などさまざまな状況から判断して回る。

それでなくとも、国分寺線内の記録は尽くされた感が出てきている。

運用が無い時はそのまま国分寺までまっすぐ帰ってしまうし。


まぁ、記録に動きやすい適度な路線の短さが、4月は奏功した感がある。


それが早々と、手詰まり感を持つようになってしまうとは…まだ知る由もない。


何かできることはないか。

何か目新しいことはないか?


そもそも普通に乗って、ゆっくり休みながら移動するだけのはずだった路線。

そんな路線での日々の思案で、疲れの抜けにくい毎日が続くオマケも。


4月16日火曜日

だんだん、日を追ってワンパターンな出迎えも増えてくるので…


ここではもう1編成の注目車、2053Fも絡めてみることに。

貫通扉は大窓になったが、戸袋窓が残存し、方向幕装備車でパンタグラフも菱形のまま。

原型に近い多数派スタイルを今なお堅持する、貴重な編成。


外観識別ポイントは貫通扉だけ。

思えば、さして意識しないで記録したこの並びも多数残っていた。


そして、旧車体の2両編成も。

この日は日常利用が始まってから初めて、2417Fの稼働を確認。

小川駅で毎朝8:20発の準急西武新宿行きが、2000系の2+4+4両編成による指定運用。

その運用での走行を確認し、意識しての迎撃となった。


4両編成車は方向幕車の残る割合は半数くらいで、戸袋窓を撤去した編成はない。

言い方を変えれば近原型を多く残したグループで、西武園線や狭山線の支線運用率も高い。

逆に本線系統ではバラツキが多く、捉えづらさも感じる気難しい編成である。


そしてこの日の午前は、再度2051Fを国分寺方で迎撃。


撮ったり乗ったり。

日々一回も同じパターンで乗らぬ、安定しない日々。

それが伝染したかしないか、それぞれの小窓編成の運用もさらに掴みづらくなっていく。