旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(その1からつづく)

自分の行為が、まともに自転車やオートバイに乗ろうとしている人たちの足を引っ張ることになると、どうして想像できないのでしょう。
想像する以前に、自分さえよければ、法律の(グレーゾーンを含む)範囲内で楽しんでいるのだから関係ないと思っているのかもしれませんが、それこそ「情けはひとのためならず、巡り巡ってわが身のため」だと思います。
結局、このような人たちによって自転車が歩道を一切走れなくなり、かつてのように、二輪車(オートバイ)はアウトローな人間の乗るもので、乗り手にまともな人間はいないなんて考えが定着したら、自分のように健康のために車やオートバイから自転車にスイッチしようとしている人間まで、自転車に乗る範囲がどんどん狭まって、健康を維持したい半面、そのために危険に身を晒すくらいなら、自転車に乗ることそのものを見直さねばならなくなるかもしれません。
というか、今の時点でそのような人たちと一緒にして欲しくないのです。
ブロンプトンは折り畳み自転車ですが、加速に優れてスピードもかなり出ますから、都会の混雑した道路では、原付オートバイくらいの走りはできてしまいます。
いや、歩道も走れるから渋滞個所では原付より有利です。
さらに、簡単にたたんで電車に乗ってしまうという手がある点では、ほかの自転車を含む車両には全くない機動力を有しているのです。

だからこそ、この電動アシスト自転車もどきのモペットにを、最初から苦々しい思いで見ておりました。
一番最初に見かけたのは、2016年頃、新宿の裏手の大通りだったと思います。
登録ナンバーのついていない、外国人女性の運転するモペットが、タクシーの側面に斜め後ろから激突してゆくのをみかけました。
みると、ぶつかった反動でスロットル(車でいうアクセル)が戻らなくなったのか、追突してもなお乗り上げるかのように前輪が持ち上がっています。
やっととまって降りてきたタクシーの運転手とのやり取りから、日本人ではないことと、自分は悪くないと主張していることが分かりましたが、どう見ても、スロットルのついた乗り物に乗りなれていないのが明らかでした。
(障害物に突進してもスロットルが戻せないというのは、オートバイ乗り始めの初心者にはあるあるです)
そのとき、ナンバーもついていない、しかもペダルも漕いでいない自転車もどきの乗り物で、斜めとはいえ後方からぶつけておいて、何言っているんだこの人はと呆れたのを覚えています。
関係のない第三者から見ても、そんな自転車に乗っているからそんな運転になるのだと感じました。

実はこの自転車もどきでその実原付オートバイは、並走しながらでないと判別がつきにくいのです。
というのも、ペダルがついているので、それを回している限りでは、自力で走行しているのか、電動アシスト機能を利用しているのか、利用しているとしてもどれくらいの割合なのかはわかりかねるからです。
エンジンがついているわけではないので、排気音もしません。
以前、渋谷から代官山へと登る坂道を、全くペダルと漕がない状態で、走りながらゆっくり走っているタクシーを左から追い抜いてゆくのをみて、やっぱりねと、それまで後ろを走っていた自分にはわかりました。
あの機能があれば、さぞかし上り坂は楽だろうなと思いながらも、既に登りが楽しくなってしまっている自分には、ちっともうらやましいとは思えませんでした。
むしろ、若いうちからあんな楽な乗り物にのってばかりいて、将来自分くらいの年になった時、もっと出力のある乗り物で同じことをしていなければいいけれどと正直感じました。
彼らを責めたところで、それは彼らの問題ですし、同じ道路を走る者として、上述のような迷惑を蒙っているという意識から、彼らに怒りを向けたいきもちも尤もではありますが、自己の精神衛生上はよろしくありません。

そこで、自分の場合を振り返ってみることにしました。
三輪車から補助輪付き自転車、そしてママチャリからスポーツ自転車と乗り継いでいたときには、自分が成長するにつれて、自己の足でゆける行動範囲が広がってゆくさまに、とても心地よいものを感じていました。
この、行動範囲の拡大は、高校生で原付、大学生で二輪車、社会人になって自動車を運転するようになり、加速度的に広がり、それに伴って楽しみも同様に広がりました。
かつては親の運転する車の後部座席で乗り物に酔っていた弱い自分が、颯爽と運転するようになったので、自信もつきました。

それは制御(コントロール)する動力が大きければ大きいほど、自信も大きくなるにつれ、自分が傲慢にまっていったように思います。
そして、その陰で忘れてしまったことがあります。
それは自分の足で移動することの楽しみです。

いつも車に乗ってばかりで、電車に乗ったり、駅から歩くことの少なくなった自分は、そのせいもあってどんどん体重が増え、ますます身体を動かすのが億劫になってゆきました。

高校生の頃、アメリカで見た車ばかりで移動して、脂肪分の多い食事で日本人には考えられないくらい太ってしまった人たちをみたときにおぼえた不安が、自分にもあてはまるかもしれないと思い始めていました。

東京の日本橋から京都三条大橋まで、徒歩で歩き通したときに、漸くこの不安がどこから来るのかに気がつきました。

そして、摂食障害は他人事ではないと感じました。
そこで、折り畳み自転車で旅するアイデアを思いつきました。
もう十年も乗っていなかった自転車に乗ってみて、改めて自分の力で走ることの楽しみを思い出しました。
ゆえに、上り坂も楽しくなったのだと思います。
電動アシスト自転車に乗る気が無いのも、同じ楽しみを半減させてしまうからです。
私があのまま車をより大排気量に、高級にと乗り継いでいたなら、決して自転車に戻ることはなかったと思います。
戻ったとしても、せいぜい電動アシスト自転車に仕方なく乗るレベルだったでしょう。
それでは、旅の楽しみも、旅先での出会いも、そして旧友との再会もなかったように思います。
もっと速く、もっと楽に、もっと優雅に、こんなことを求め続けていたら、今の自分ほど自分のことが好きになっていたかどうか。
きっと依存症の世界からも足が洗えないどころか、より巧妙に、よりどっぷりと浸かっていたのではないか、そんな風に思うのです。
そうすると、あの頃に引き戻してくれたこのブロンプトンという自転車は、他の人が何と言おうと、自分には大切で愛おしい、人生における伴侶のように思えてくるのでした。

(おわり)