旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

昨年の11月に、昔通った学校に友だちと行く機会がありました。

私は長いこと、依存症によって自分で自分が分からくなってしまった時期が続いて、そうしたときに、「あまり昔のことを思い出すような人物や場所に近づかないほうがいい」とアドバイスを受けておりました。

もう二十数年前の話ではありますが、あのとき、その忠告を聞いていてよかったと今は思います。

なぜなら、その時点では自己憐憫がでていただろうから。

しかし、一方でそうした自分を孤立したままにしておこうとしてきた人たちが存在したことも事実です。

「回復はある」などといいながら、内心で自分に困っている人たちのことを蔑むソーシャルワーカーや教育者などがその筆頭でしたが、彼らは本性を表には出さず、自己都合で他者を利用する、つまり病気の人たちを自己の利益にしている最悪な人種でした。

いま、少しずつではあっても、やっと自分自身が見えるようになってきて、そうした人と、本当の回復というか、もう一度生きなおすという意味では「復生」という言葉の方が正確だと思うのですが、そうした道へ導く人と妨げる人の区別が、だんだんと分かるようになってきました。

どこをみて見分けをつけたらよいか。

ひとつは、その人が自己の問題に真摯に向き合っているかどうか。

アルコール依存の回復を手伝いながら、自身は仕事帰りに誰にも迷惑をかけているわけではないのだからとアルコールを飲んでストレスを発散するなど、アルコールに対して中立的な立場の自分からは考えられません。

依存症者は、わずかなアルコールの匂いからも、スイッチが入ってしまうといいますから、福祉職として彼らに向き合っている限りにおいては、アルコールを一緒に断つのが最低限の矜持だと思います。

それができないのなら、アルコール依存の相談機関で仕事をすべきではないし、他の人たちとともに、アルコールを断てない自分に向き合うべきでしょう。

もうひとつは、人間を超えた存在についての畏れがあるかどうか。

「畏れ」は「恐れ」とは違います。

自分よりも大いなる存在があることを認める。

これは自信過剰な人間にはできないことです。

自分にできないことは、自分を超えた存在に委ねる。

いちばん具体的で分かり易いのが信仰です。

人は何でも神頼みだと批判するかもしれませんが、かつて自己中心的で、まさに自分で作りだした神の奴隷となっているか、自分で神になろうとしているかのどちらかだった過去があるから、「自分にはそんなものは必要ない」とか「信仰など弱い人間でいるための言い訳だ」という人たちの言うことに耳を貸す必要はありません。

人生という旅の中で、神仏など、自分を超えた存在に出会えるか否か、これは私にとっては重要な問題でした。

回復を手助けするといいながら、人がそうした偉大な存在とつながるのを馬鹿にしたり、揶揄したりする人間は、自分が神さまの教会や神社に通っている(自己がご本尊のお寺に参拝している)と考えてまず間違いありません。

そんな自分が、改めて生きなおす糧として、かつて自分が何年も通って、そこで迷いながら未来の自分を探っていた場所に戻ることになったわけです。

もう自分たちの時代の建物はあらかた取り壊されて別の場所に新しく立て直され、その時代の建物として残っているのは僅かときいたので、かつての自分がどのように思い出されるのか、不安もありましたが「もう頃合いだろう」とも感じたので、重い腰をあげてゆくことにしました。

その前に、お寺にお参りしてからということで、朝一番に高幡不動に行きました。

まだ殆ど人のいない境内をすすんでゆくと、地元の方々が菊まつりの準備をしていました。

奥の大日堂まで行き、晴れていれば遠くが見渡せる山内八十八ヶ所巡拝路へ登ろうと思っていたのですが、あいにく雲行きがよろしくないので入口に近いところまで戻ってきたところで、さすがに不動堂だけは中に入ってお参りしないわけにはゆかないと、靴を脱いで拝むことにしました。

不動明王のご真言は、「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」(すべての諸金剛に礼拝する。怒れる憤怒尊よ、砕破せよ。フーン、トラット、ハーン、マーン。)

砕破するのはもちろん煩悩です。

だから怖ろしい顔をしていますが、そこまでこちらのことを心配してくださっている、慈悲深い仏さまでもあります。

すると、いつの間にか人が集まってきて、午前8時からの護摩修行がはじまりました。

私は手伝っていたお寺の住職が護摩修行している姿を重ねて、不覚にも涙がこぼれてしまいました。

それから車で学校へ移動したのですが、あまりの変わりように言葉を失いました。

社会人になってから学校へ来たのはたしか2回。

1回は中に入らず、入社5年目にして駅のところでパンフレット配りの手伝いをしました。

顔見知りの先生とあってしまい、「苦労しているんだな」とぽつりと言われて、『いや、そんなこと全然ないっすよ』と内心で思いながら、「ええ、まぁ」とお茶を濁していました。

その時は営業本部勤めだったけれど、支店の人たちと触れ合う機会は大好きでしたから。

2回目は、学園祭のお手伝い。

でも、短い時間だったし、その一角にしかいなかったので、学校全体を見て回ったりはしませんでした。

まず正門の位置も形状も変わっています。

そこからの坂もなくなり、建物が建っていてエスカレーターになっていました。

かつてはマラソンでどう登るのか工夫していたのに。

そして、自分が通っていた校舎は、観光学部なるものに変貌しておりました。

私の時代、そんな学部なかったですよ。

だからそういう学部のある大学を受験しようとしていたくらい。

結果的に旅行会社に入ったから良かったのですが、人生皮肉なものだと思います。

そのあと、かつての学食でカレーを食べてみたのですが、業者さんが変ったのか、懐かしいお味は致しませなんだ。

それから、体育館、元礼拝堂、中学校、高校のあった場所、プールとまわりました。

元礼拝堂は、短い時間でしたが、特別に少しだけ中をみせてもらいました。

中学校は、木造校舎はなくなっていたけれども、3年生の時だけ使っていた鉄筋校舎と玄関を懐かしく眺めました。

とても豪華になった新校舎の陰で、あのころからボロだったけれど、それでも生徒の手が入って掃除してきれいにしていた校舎や外構が、もはや倉庫としてしか利用されていないからなのか、人気がまったくせず、かなり荒れているのが痛々しいのでした。

そしてプールはもうすぐ取り壊されるとのことで、ここでは色々あったのに、今見ると小さく見えるし、あんなに練習嫌いだったのに、今では苦しくとも楽しかったような思い出になっているから不思議でした。

この次来れるのはいつか分からないけれども、昔の自分を思い出しにくるのは悪くないと思うのでした。

このように、時間がたって自分を見つめなおすことをしてきた20年以上という時間を経て、こうして昔自分がいた場所に戻ってみると、その時に自分が感じ、考えてきたことのなかには、良いこともあったのではないかと感じることができました。

たとえば、あの時、あの行動をした自分は決して間違ってはいなかった。

間違っていないどころか、あの時の自分がいたから、今の自分がいるというように。

そう思えるようになるには、やはり20年以上という歳月と、その中で迷いながらも自分に向き合う時間が必要だったのだと思います。

もしも自分が変わっていなければ、この自己の心の奥底に眠っていた宝は埋もれたままだったと思います。

そして今もなお、いい年をこいて地上のものに心を奪われて、ちっとも目を上に向けることのない人だったでしょう。

自助グループでは、「棚卸し」と称して自分を見つめなおす作業をしてきましたが、負債ばかりだったバランスシート(貸借対照表)に、ようやく資産や資本を書き込めるようになってきたのかもしれません。

私は心の中で、かつてここを往き来していた自分に「だから何があってもあきらめたり投げ出してはいけない」と声掛けをしてみました。

すると、不思議なことにあの時からの不安も、ずっと軽くなっている今に気がつきました。

思えば、こうして自分の棚卸しを実行し続けることが、人間を超えた力との対話で、あの頃も、そして途中に中断した時期が長かったけれど、今も、祈りと黙想が生活にあるのは、復生の鍵だったと思います。

あの頃に読んだ聖書の言葉を思い出しました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。

そうすれば、あなたは安らぎを得られる。

わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11;28-30)

かつて神さまに代わりに荷を負ってもらい、彼のいう「わたしの軛」などさらさら負う気になれなかったのに、みずからすすんで負いたいと思う自分が居て、少し驚いた「昔の場所」でした。