本年2月6日、一人の裏方、radio manが54歳の若さで鬼籍に入った。
通称「コバジュン」。優秀で勤勉で、表裏なく誰からも愛された。
コバジュンは幼少より「ラジオ大好き少年(聴く側)」だった。
次いで青年期には「はがき職人」として数々の投稿が数々の番組で採用されるようになる。
彼が初めて業界で仕事をしたのが大学生時代、吾輩の「オールナイトニッポン(以下ANN)」でのアルバイト(ほぼボランティア。リスナーからの投稿の選別仕分け)であった。
以後、製作のプロとなってラジオ業界の裏方として約35年間。
「ラジベガス」や幾種の「ANNプレミアム」など吾輩のラジオ番組では主として「構成作家」として支えてくれた。
一方、ラジオではなくても聖飢魔llの教典購入特典物品「お言葉大全集」の構成・編集でもその手腕をふるってくれた。
ちなみに夫人と彼との結婚式では、吾輩が司祭をつとめた。
先週行われた「コバジュン お別れの会」では、故人が大切に取っていた過去の資料が数多展示されていて、この35年間彼がいかに人望厚く裏方として活躍していたかが伺えた。他人ごとながら誇らしかった。
「お別れの会用『最後の曲』」という故人本人が選曲したBGMのリストが配られた。
その1曲目が吾輩の歌う「秘密の花園/ 聖飢魔Ⅱ」であった。
かつての「デーモンのANN」のclosing曲だ。
33選曲のうち10曲目以内に吾輩の歌う曲が3つも入っていた。
慕ってくれていてありがとう、と言いたい。
会場では故人の生い立ちから、携わった仕事での歴史が一覧表ボードで紹介されていた。
その、「逝去」の前。仕事欄の最後に記されていたのが
「2023年3月25日 デーモン閣下のオールナイトニッポン プレミアム」だった。
ちょうど1年前の今日だ。
あの日コバジュンは妙に厚着で余り体調が良くないように見えたが、
「何かちょっと変わった病気なんですよね~」と、にこやかに軽く吾輩に説明した。今思えば心配させまいという心配りであったのだろうか。
そしてこうも言った。
「実は長年一緒に仕事をさせてもらってきて今更なのですが、(構成作家としてや録音がほとんどだったので)僕今日は閣下の生放送のディレクター、初めてなんです!」と50代なのに少年のような目で嬉しそうに言ったのが記憶に新しい。
もしもあれが故人の最後の表向きでの仕事だったのだとすると、
ひょっとして、弱る力を振り絞ってやってくれていたのかも知れない。
その日の番組のclosing曲も故人が選んでいたはずだ。
その日が、吾輩が彼に会った最後となった。
故人は昨年11月の吾輩のコンサートも観に来てくれていたが、
体調が思わしくないので、と楽屋裏には現れなかった。
小林君。今度は魔界からの放送を一緒にやろうや! …おっと「電波の戒律を遵守」してな!
https://www.soumu.go.jp/main_content/000488178.pdf
合掌。
以下参考までに。かつての吾輩の「ラジベガス」木曜日担当D・たのっち氏のブログ。
https://tanocchi.com/archives/kobajun?s=09
※上記とは関係ないが。
昨03/24の当WebRock!の内容に関する自己レスポンスを。
何と言っても尊富士(たけるふじ)の偉業…いや、精神力を称えたい。
見事であった。おめでとう!
怪我が悪くなっていないと良いのだが。
結局彼が出場したので、吾輩の多くの疑問や懸念は吹き飛んだ。
ただ、彼が出場するにしても、もしもまったく相撲が取れる状態ではなかったら、
優勝決定戦での「不戦敗/ 不戦勝」はどう見せるのか?とか、
尊富士が休場を選択し、かつ優勝の場合、表彰式の土俵にはどう上がるのか?本人なのか? ※(かつて昭和48年十一月場所、優勝の横綱輪島は千秋楽を休場したが、表彰式には締込み姿で土俵にあがった。ただこの場合は手の怪我だった。今回の尊富士は14日目終了時点で車椅子で花道を下がった。もしも歩けないならば相撲はおろか表彰式はどうするのか? ちなみに国技館での本場所の初日は、前2場所の優勝力士の掲額の除幕式が行われるが、本人が休場している場合、部屋の師匠が代理で除幕式に臨むことが慣例となっている。なので「本人なのか?」と疑問を呈した。「賜杯」を本人以外が受け取る?っていうのもねぇ…… などなど多くの関係者が頭を捻ったにちがいない。捻っていなければおかしい)。
杞憂に終わったが、いずれそういうこともあるかも知れないから、問題提起にはなった。
「もしも」を想定し対応策を考えておくことはどこの世界でも肝心だ。肝臓と心臓とはよく言ったものだ。
なので昨日の吾輩の書き方が「大げさなのでは?」と思った諸君、そんなことはないのだぜ。
ちなみに、もしも尊富士が出場して、本割り(決定戦ではなくその日予定された通常の取り組み)の相撲で怪我を悪化させた、など「優勝決定戦はもう土俵に上がれません」の事態になっていたとしたら(ならなかったけれど)…で参考になるのは、
あれは、昭和20年代だったかな、確か鏡里と吉葉山戦だったかな?が水が入る(相撲を一旦止め、途中休憩を挟む)大熱戦を展開し、さて「続き」となった時に、どちらかが「疲労困憊でもう取れません」と言い、相手に勝ちを譲った、という相撲がかつてあった。
まあ、大熱戦の直後と全く相撲を取らないのとでは場の雰囲気も異なるが、
優勝決定戦における「不戦」は、「痛み分け(片方の力士が相撲の最中に怪我をして続行が不可能の時、両者が引き分けになる)」というわけにもゆかないから、今後の課題であろう。
思わず長々と書いてしまった。
まだ今日の音楽の宿題が終わっていないのに~~。
そうだ。当該WebRockの文章を当方の許諾無しに勝手に切り取って他で転載引用することは不許可である。
ではまたWebRock!