ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

 先日、奈良のギャラリーで山田さんの個展があって、お会いする機会を得た。最近は本業に忙殺されて、篤丸関係の活動がほとんどできていない。それでも、山田さんが奈良に来るのならせめて一杯と声をかけたら、快く応じて下さった。昨年伏見のグループ展のときにお会いして以来だから、ほぼ一年振りとなる。この間、作家は方々で盛んに個展活動に励み、今や志野では独自の境地を切り拓こうとしている。伺えば、来年も毎月個展の予定が入っているそうである。一定の表現形式で名声を得ると、市場は限られているから、個展を重ねるにつれてどうしても需要は先細りしていくのが常だが、これほど発表の機会を増やしてなお求められるのは、作家が簡単に飽きられるような作品づくりに甘んじていないからだ。個展の度に新しい表現を試行しているので、作品は新しいニーズを呼び込む。事実、筆者の場合はそのすべてを拝見しているわけではないものの、ほぼ一年おきに触れるその作品たちには必ず何か新しい要素が加わっている。

 

 コロナ明けの観光特需で奈良の宿泊需要も旺盛で、今回山田さんは奈良市ではなくJR奈良駅から電車で20分足らずの王寺にしか宿を取れなかった。筆者も仕事のルートを頼って奈良市内のどこかに部屋がないか探ってみたが、空いているのはホテルでも一番高い部屋くらいだった。お隣の京都ではオーバーツーリズムが問題になっているが、奈良はそこまでいかないとはいえ、加熱気味であるのは確かなよう。それでも、王寺というところは大阪の天王寺と奈良を結ぶJR線のちょうど中間にあって、大阪のベッドタウンとして発展してきた町である。だから、そこそこ店もあるし、筆者の家からは奈良も王寺もかかる時間はそれほど変わらないから、今回はそこで呑むことにした。奈良に住んでいながら、王寺の店に入る機会はめったにないので、ちょうどいいとも思った。地元の友人から情報を得て、美味しい魚を出してくれるお店に夕方から入って、かなり長い間そこで呑んだ後、同じ通りのいかにも雰囲気のある焼き鳥屋を2軒目に選んだ。通算すると相当長い時間呑んで、結局終電にも間に合わなかったから、最後のほうはお互い酩酊状態で何を話していたのかさえ定かでない。ただ、焼き鳥が旨かったのだけは覚えている。

 

 まだそんなに酔っぱらう前の話のなかで、山田さんは、それとは明言しないものの、自分の志野がいよいよ桃山のそれに近づいてきているという確信のようなものを抱いているようにみえた。写真の志野は最近の窯のなかでも渾身の作品だという。釉のかかり具合もピンホールの出方もいかにも自然で、作為を感じさせない。まるで美濃の窯跡から掘り出された陶片そのままのよう。確かに、志野の場合、造形も釉薬も作為を表現できる最高の形式であることから、作家たちはこれでもかというほど強い主張をそこに込めたがる。それはそれで、志野という形式のなさしめるところで、面白いところではある。豊蔵や唐九郎もまた桃山を意識しながら結局は志野を自分に引き寄せた。かれらのスタイルがいまだに現代の志野づくりの前提となっているのは周知のところだ。山田さんも初めは師匠の加藤康景氏の影響でその路線を行っていたが、近年は志野の形式に向かうというよりも、桃山の志野に直接相まみえるともいうべき姿勢に変化している。それは、ちょうど対象を認識するのに感性や悟性のフィルターが必要だと主張したカントに対して、自分の眼に映る直接の経験から認識をとらえたフッサールのように、桃山志野を後世の解釈を通して観るのではなく、それそのものとして直接観るという、いわば現象学的還元である。

 

 この作品を前に作家のお話を聞きながら、もちろんものづくりには技術が必要にはちがいないが、いちばん大事なことは、いかにものを観ることができるかだという、いまさらながら当たり前の事実に改めて思い及んだ。いかに技術があろうとも、ものを十分に把握することができなければ、それをうまく活かすことはできない。逆に、ものの魅力を十全にとらえることさえできれば、たとえ技術的に未熟な部分があっても、そのものに近づくために必死で技術を磨くことになろう。刀匠の河内國平さんは「器用でうまい弟子よりも下手な弟子のほうがのびしろがある。」とよくおっしゃるが、そこには、おそらく、その弟子が刀が本当に好きで、だから刀を前にすると誰よりも熱心にそれを鑑賞できるという条件があるのだろうと思う。山田さんはここ最近で「還元」を経験し、裸の桃山志野を観ることによって、新しい志野の世界を拓いているようにみえる。それは、作家のなかの地殻変動のようなもので、今もなお続いている。古い志野を直視する作家がいかに新しい志野をつくるか、いましばらく楽しんでみていたい。