こめっこブログ

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ずぼらに おおざっぱに てきとうに なにか書こうかなという程度、、、以外になんにも考えていません。

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『リチャード二世』初見という國分功一郎さんが、「とってもわかりやすくて良かった!全体的に見事な演出」と、大変気に入られたようだった。

 

芝居がふつ~に進行しながら、作品の案内人(永井健二)も出ずっぱりで登場人物の人間関係や筋書きや登退場の解説を発し続ける、「わかりやすくする」ための手法。これ、私自身は当初は面食らったこともたしか。目の前で役者が登退場するたびに、たとえば「王、バゴット、グリーン登場」とか、「一堂退場」という風にト書きが口頭で差し挟まれるのだ。どうだろう、SPACの教育演劇を見慣れていないこちらの問題だと思うのだが、(これ、役者の存在感や観客の理解力を信頼しなさすぎじゃない?)などと思ったものだった。だけれど途中からは「一堂退場」がかえって芝居のリズムを産んでいるようにも思えてきた。さらに、リチャードの詩的な台詞に感情移入したり陶酔したりすることなく観客が作品から適切な距離を保ち、認識を深化させてゆくためのブレヒト的な異化効果を持っているとも感じられたりして。それ以降は、俄然楽しめるようになった。普通に上演したら3時間かかる作品を2時間に納めるためにも、この工夫は功を奏したということだろう。つまり、この進行役の存在は、初見の観客には作品をわかりやすいものにし、『リチャード二世』に親しんでいる人にとっては異化効果を生む、2重の効果を持った絶妙の仕掛けだったと考えられる。

 

大体の感想は下記のウェストエンダーさんのブログに尽きている。

 

SPAC「リチャード二世」@静岡芸術劇場 | 明日もシアター日和 (ameblo.jp)

 

この演出の一番のあっぱれポイントとして、どうしても自分の言葉で書き留めたいのは、ボリンブルック(本田麻紀)、ヨーク(木内琴子)、ヨーク公夫人(片岡佐知子)、オーマール(ながいさやこ)ノーサンバランド(石井萠水)、要するに、リチャードを暴君と位置付け廃位させる王権簒奪者側(オーマールはこの場合ちょっと外れる)を女優さん方が演じられていた点だ。(勿論ヨーク公夫人はもともと女性なのだが、それはそれとして。)王権の正統性が問われ、どちらの陣営に正義が存在するのかが見えない不安と脆さ。この決定不能性を孕む作品の魅力は損なわれず、でも全体の構図が格段と見えやすかった。演出の寺内亜矢子さんは「ジェンダーの戦いにしたくなかった」と仰るけれど、やはりおじさん旧体制を失脚させる新しい女ボリンブルックの爽やかな凛々しさは疑いようもなく、『リチャード二世』の新しい上演を見られたカタルシスは文句なし。・・・と言うそばから急いで付け足さねばならないのは、「たしかにジェンダーの戦いではありませんでした」。それはこの芝居で秩序を守ろうとする側に立つ王党派・保守たるヨーク公一家が女性だけで演じられたことからもわかる。また、原作で言うと2幕3場で、イングランドに帰国したボリンブルックとヨーク公の対話のシーン、形勢有利なのがボリンブルックだとわかったとたんに強者の方へ一瞬にして人が流れるシーン(國分さんが「失脚のリアリティ」という言葉で語っておられたシーン)も。Peter Lake的に言えば、commodity としての政治、つまり日和見ご都合主義の「あるある感」が、女性中心の布陣で描かれているところと言えばよいだろうか。つまり、「女性」を「リベラルの善玉の変革者側」に配置するようなごく素朴なcharacterizationも、また特定のイデオロギーが覇権を握る意味での「わかりやすさ」も、効果的に避けられていたということである。

 

笑えたということで言えば、ブッシー(小長谷勝彦)、グリーン(牧山祐大)らリチャード二世側を堕落させるステレオティピカルな追従者を、あれだけ思いっきりおかしなパペットとして演出するさま。飼い犬にカリカリドッグフードを与えるような手つきで追従者に都度都度チップをやりながら、ゴーントの遺産をボリンブルックから奪って国庫を補充しようと算段するリチャードの小者さが、いかにも無能な君主っぽいのは言うまでもないけれども、あの阿部一徳さんが演じるリチャード二世のインコみたいにかわいい手のしぐさには全体的にほどよくファース味があって、シリアスな中にもお茶目で憎めない印象を醸し出していた。だからこそ特筆すべきは、あのリチャード廃位の場における、「鏡割り」の名シーンのアンチ・クライマックス。鏡が割れない。そして、あのリチャードの不発っぷり。リチャード二世側から徹底的なまでに「ヒロイックなクライマックスのドラマ性」を奪う、これもまた、はじめの方のシーンから組み立てられた演出だとわかるように工夫されていた。

 

エクストンの演出など、その他の点については、ウェストエンダーさんの書かれたまさにその通り。

 

※当日、海も山も(富士山も)堪能できる東海道線にとろとろ乗って、ぼんやり沼津アルプスを眺めたりしながら東静岡まで行ったのだが、静岡駅の向こうで発煙トラブルがあり、20分ほど遅刻したので、冒頭シーンは見ていない。

 

※『リチャード二世』、RSC版は3作品、蜷川版も新国立版もBBC版も観て来たけれど、SPAC版は今まで観たどれとも似ていなかった。演出の寺内亜矢子氏はこれまで『リチャード二世』の上演を見たことがないと仰っている。ということは、過去上演との差異化をはかってこうなったのではなく、純粋にテクストの言葉と向き合いリーディングを重ねることでこの上演が誕生したということ。それはとっても素晴らしいことだ。

 

それにしても、めったに上演されない『リチャード二世』と『ジョン王』が同時期に日本で見られることの意味を考えずにはいられない。まずもって『リチャード二世』と『ジョン王』が似た作品だということは、こうして同時期に上演されなければ、なかなか意識しないような気がする。王にふさわしくない人物と王位簒奪者が描かれる点や、作品の前半と後半で人物の様子がガラッと変わったりする点など。2作品とも、「その王は王としてふさわしいのか(いやふさわしくない。それでは・・・)」ということが極限まで問われる作品だが、異なる形で王位簒奪者の姿も上演する。現代日本の権力者の腐敗、政治の堕落とこれほど響き合う歴史劇もない。