それにしても、中祖氏の言葉は汚い。こんな言葉が次から次へと出てくる。

 

「最低限の誠実さと批判の節度が必要だ」(大山氏には誠実さと節度がないと言っている)

「あまりにも乱暴な批判だと思います」(私ではなく大山発言を「乱暴」だと認定)

「(大山発言は)極論すれば、殺人や強盗でもしない限り除名はないということになります。党破壊攻撃をどこまでも許せという論理になりかねない。」

「反共主義者による共闘破壊の攻撃と同列に置く、これもまた極めて節度を欠く、誠実さを欠く批判なのではないか。」

 

 引用するためにパソコンのキーボードを叩くのにも躊躇するほどの言いようである。大会幹部団の筋書き通り、まず大山氏に発言をさせ、続くおじさん3人が集団で糾弾するという構図が、こうしてつくられたわけだ。

 

 党大会では、田村副委員長(当時)の結語での大山批判ばかりが話題になるが、言葉づかいの激烈さでは、中祖氏は優るとも劣らない。あの結語は中祖氏が起案したのかと思わせるほどである。

 

 しかもだ。こうやって大山氏の発言に続く3氏の糾弾全文をまとめて読むと、中祖発言の異様さが浮き彫りになる。前2者の発言は、冒頭で大山発言を批判する見地のものだとは表明している。そういう演出を大会幹部団がしたのだから、当然、そういう見地になる。しかし、発言内容はあくまで私の言動に対する批判なのだ。

 

 ところが、3人のなかで唯一、中祖氏の発言だけは、私以上に大山氏が標的となっている。前2者のような発言をすることもできただろうに、中祖氏だけは大山批判に焦点を当てることを選びとったのだ。そして、先ほど引用したように、「誠実」や「節度」「乱暴」など人格攻撃をしたいだけしているのだ。大会幹部団は、大山発言のあと3人に発言させ、大山氏の再反論を許さないまま山下氏の再審査報告に移るというシナリオを書いたので、中祖氏は、自分の発言に対する批判がされないことを事前に知っているので、まさに言いたい放題である。

 

 なぜ3人のなかで中祖氏だけが、そんなことをしたのか。その理由は私にはわからない。中祖氏にとっては、それが日常の仕事のあり方なのかな、職場の部下に対してもそういう態度をとっているのかなと、想像をたくましくするだけである。

 

 ただし、3人に共通することがある。それは、大山氏の問題提起に何も答えていないことである。もし、3人の誰かが大山発言が提起したことをちゃんと受け止め、それに真摯に答えていたら、私の再審査結果は覆らなかったにしても、党にとって少しは有益な議論ができたはずだと感じる。それができなかったために、大山問題は党によるパワハラ公認問題になってしまったのだ。それは次回に。(続)

 

 この間のメルマガでは、自由法曹団幹部(常任幹事)の神原元氏の貴重な問題提起を受け、私なりの考え方を提示してきた。本日配信する第8号は、その最後である。いろいろと考える機会をくださって感謝している。以下、メルマガ冒頭からの部分的な引用。ご購読はここからお願いします。

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 神原氏も判例変更は容認しており、私の弁護団もそこをめざしているの。この点では神原氏と大きな違いはないことになる。是非、部分社会の法理の判例変更をめざし、一緒に活動したいものである。

 

 また、それに続いて神原氏が書いているが、「そうだとしても適正な除名は有効性がある」ということも賛成である。私も、共産党が規約で除名を位置づけていることには賛成だし、除名しなければならないケースがあることも理解している。けれども、私の場合に限っては、除名はおかしいと言っているだけである。

 

 となると、神原氏と私では、いったい何が違うのだろうか。結局、神原氏が言いたいのは、私が裁判で勝利すると、「我々は安保自衛隊に反対する団体を作る『結社の自由』を否定され」るということであろう。部分社会の法理は見直す必要があるが、その結果として私の党員としての地位が確認されてしまうと、共産党は安保自衛隊問題で真逆の意見を抱え込むことになって、安保自衛隊反対の党としての結社の自由が侵されるという懸念があるのだろう。

 

 しかしそれは杞憂だ。神原氏は「もし自由法曹団が安保自衛隊容認の立場になったら俺はさっさと辞めると思う」と書いているが、私だって「もし共産党が安保自衛隊容認の立場になったら私はさっさと辞める」だろう。だから、その点でも神原氏と私は同じなのだ。それなのになぜ、神原氏のような誤解が生まれるのか。今回の主題はその点である。

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 中祖氏は、大山氏が本を読んでいないことを批判することで、昨日書いたように、「異論をもったから除名したのだ」という本心を告白することになった。同時に、そういう批判に固執することで、党指導部としてはとんでもない見地に立つことになってしまった。まず、以下の発言をご覧あれ。

 

「党は、著作の内容を慎重に吟味して、党の根本路線への攻撃を認定して除名を決定しています。」

 

 これって、まずは「異論をもったから除名したのだ」ということである。昨日と同趣旨の文章だが、こうやって何回もくり返しているのだ。

 

 しかも、ここにある「党」って、どこの党のことだろう。「除名を決定」したのは共産党南地区委員会である。しかし、中祖氏がこの「党」という言葉で地区委員会のことを指そうとしていたなら、地区委員会という固有名詞を使うはずだ。それをせずに「党」という言葉を使う場合、中祖氏は中央の人間だから、当然、中央委員会のことを意味している。

 

 つまり、中祖氏は無意識に、私の除名を決定したのは京都の党ではなく、党中央だと告白しているのである。頭に血が上っているので、正直になれたというべきか。

 

 さらに問題なのは、次の発言である。

 

「(大山さんは)本も読んでいないとおっしゃった。党の除名処分の理由を厳密に検討することもしてないということです。」

「党の処分を批判するのであれば、著作の内容を検討するのは当然のことで、最低限の誠実さと批判の節度が必要だと申しあげたいと思います。」

 

 問題発言だと書いたが、これは党にとっての問題発言である。私にとっては、「中祖さん、ありがとう、涙が出てきます」という発言である。

 

 だって、「党の処分を批判する」場合だけではなく、「除名処分の理由を厳密に検討する」にも、私の本を読まないなどという態度は許されないということだから。私の処分問題を厳密に考えようとしたら、私の本は必読文献だと言っているということだから、

 

 私の除名問題が浮上した昨年1月21日以降、「赤旗」には何回も、何十回も私を批判する論文などが掲載された。しかし、私の本を読んで検討しようという言葉はなかった。それどころか、一度たりとも、私の本のタイトルすら明らかにされることもなかった。『シン・日本共産党宣言』はこの一年間、読んではならない本だったのだ。

 

 それが中祖氏の発言でとうとうひっくり返ったのである。中祖氏が「赤旗」で次に書く論文は、こんな書き出しになるのではなかろうか。

 

「松竹氏に対する除名処分の正しさを確認するためには、理由を厳密に検討する必要があり、そのためには『シン・日本共産党宣言』が党員の必読文書となった。これを読まない党員は神奈川の大山氏と同じく『最低限の誠実さと批判の節度』をもたない党員だと断ぜざるを得ない。1000円以内で買えるのだから、すぐに本屋に注文しよう。地区委員会でも受け付けます。」(続)

 さて、ようやく「前衛」臨時増刊号の「赤旗」中祖政治部長の発言を論じていく。この発言は、直前に行われた除名問題での神奈川の大山代議員の発言への糾弾として組織されたものであるから、両方を論じることになる。

 

 まずは第一印象だが、中祖氏は大山氏の発言をまともに読んでいないのではないか。頭に血が上って、自分が何を発言しているのかも理解できていないように見える。

 

 「前衛」臨時増刊号を入手してようやく大山発言の全文を読めることになったが、この発言ポイントの1つは、冒頭から「私は、松竹氏の著作をまだ読めていません」とあることだ。それが事実かどうか私は知らないが、それが前提になっていることだ。

 

 なぜそれを冒頭に置いたかというと、私の除名問題を党員や有権者に理解してもらおうとすれば、読まないでも分かる論理が必要だからだ。そういう見地に大山氏は立っている。

 

 なぜかと言えば、党が「異論だから除名したのではない」と説明しているからである。それなら、その異論の内容を説明しなくても、ちゃんと除名の理由が国民に理解できるものでなければならない。ところが党の対応はそうなっていない。大山氏曰く、

「除名したことについて、異論を唱えたからではないとくり返しわが党の見解が報じられていますが、そのあとに続く論には、松竹氏の論の中身の問題が熱心に展開されますので、やはり『異論だから排除された』と思わせてしまうんです。」

 

 これは現場の党員の共通の見方だと思う。それを何とかしてほしいと、党指導部に願っているのだ。党の幹部というのは、現場の党員が要望すれば、それに誠実に答えるのが役目だろう。

 

 とりわけ中祖氏は、私の除名問題で中心的な役割を果たしたのだから、「松竹の本を読んでいなくても除名の正当性を党員、有権者に理解してもらうにはこうすればいいのだ」と答えなければならなかった。

 

 それ以前に、「異論をもったから除名したのではない」という党の方針に忠実に従い、せいぜい1000字程度のコラム「読まなくてもわかる除名の正しさ」でも書いて、「赤旗」で記事にすべきなのだ。政治部長なのだから、そんな程度のことはお茶の子さいさいだろう。

 

 ところが、中祖氏の発言の大半は、私の異論(安保自衛隊論)への批判なのである。そして、「(除名問題で)機敏な対応をしたのは、先ほど述べたような出版内容の重大性、安保容認、自衛隊合憲を党の基本路線にして、党の根本路線を否定し解体をもたらす議論だったからであります」と言うのである(この間違いについては連載の後半で論じる)。

 

 あちゃー、やっぱり「異論をもったから除名したのだ」というのが、中祖氏の発言の核心なのだ。これって、大山氏の要望に応えていないのはもちろんなんだが、「異論をもったから除名したのではない」という党の基本的な考え方を否定しているのである。

 

 いやあ、人間、頭に血が上ると、ろくなことにならないね。(続)

 11大会での「上申書」が再審査ではないと考えるのは、もう1つの理由がある。山下報告によれば、私の再審査のやり方(大会幹部団だけで決めるやり方)は「これまでの対応を踏襲した」ものだというが、それなら11大会での「上申書」の処理のやり方は、29大会の再審査の処理のやり方と同じでなければならない。しかし、すでに紹介したように11大会は、「大会幹部団の委託で塚田大願代議員が上申書の処理について報告し、確認した」とされる。29大会では、「委託」などはされずに幹部団が決めたし、代議員ではなく大会幹部団の一員である山下副委員長が大会に報告したし、まったく別のやり方なのだ。つまり、「上申書」が再審査のことであったと仮定しても、「(29大会では)これまでの対応を踏襲した」という山下報告は、明らかな虚偽だということになるのだ。

 

 ということで、党中央がちゃんと党規約を守っているというなら、堂々と5回の事例を公開すべきだろう。それを私がこのブログで書いても、ただ無視されるだけだろうから、党規約を大切にしたいと考えている党員は(とりわけ私を規約違反だと舌鋒鋭く批判した中祖氏は)、党中央に電話なり、メールするなりして、あるいは直接組織局を訪ねたり山下氏に問いただすなどして、こぞって公開を求めるべきではないだろうか。以下に掲げる大会幹部団が近くにいるなら、直接聞くのでもいいけれど。

 

志位和夫、小池晃、山下芳生、市田忠義、緒方靖夫、倉林明子、田村智子、浜野忠夫、紙智子、吉良佳子、穀田恵二、高橋千鶴子、広井暢子、不破哲三、山添拓、赤嶺政賢、内田裕、小倉忠平、田邊良彦、山村糸子、渡辺和俊

 

 それにしても、党中央はなぜ、そんな手の込んだウソをつくのだろうか。ここからは推測の話になる。

 

 おそらく山下氏をはじめ党中央は、私の再審査請求書を大会代議員に見せたくなかった。そこはまず前提として指導部内で共有していたのだろう。でもそうしようとすると、代議員に配布しない理由の説明が必要になる。そこで、この問題の担当者が出て来る。どんな組織にも謀略と統制力で出世してきた人間がいるものだが、「これまでの対応を踏襲したことにしよう」「過去に5回もあったんだよ」と説明して提案した。それは虚偽だったが、まさか自分のまわりにウソをつく幹部がいると思わない山下氏は、それを信じ込んだ。そして大会では口頭で報告し、ただちに拍手で承認が求めるという運営方法をとったので、代議員には過去の党大会の議事録を見返すような時間はなく、提案した人間の思惑通り乗り切ったのだ。しかし、そういう対応をとったが故に、「これまでの対応」の具体的な事例についての疑問が出てきて、県委員長などにも5回説が伝わってくる。そしてみんなが信じ込まされた5回説を各地で振りまく。党組織局は現場の疑問に答えなければならないので、「大会日誌」を見るのだが、そんな記述はない。そこでようやく自分たちが虚偽を重ねたことを自覚するのだ。けれどもこの時点ではもう引き返せない。みんなで一緒にウソをつき通すしかない。どうしようかと悩んで、「上申書」に目をつけた。これを再審査だと言い張ればいいのだと。誰もそんな何十年も前のことを覚えていないし、もはや党内には、そこを掘り返そうとするような気骨のある党員もいない。やれやれ。

 

 こんな感じではなかろうか。

 

 いまの党内ではこれで通用するのだろう。再審査に疑問をもつ党員がいても、2中総秘密報告にあるように、「元党員による一連のかく乱活動」だと言っておけば、7割程度はそれを信用する。残り3割のなかに党内で堂々と疑問を呈する人がいたら、党大会でやったような見せしめ的な恫喝を加えればいいし、党外に持ち出す人がいたら発信者を特定して処分すればいいだけのことだ。多数は逆らわないので、指導部は安泰である。

 

 でも問題は、裁判でもそんな党内的なやり方が通用するかどうかだ。「これまでの対応を踏襲した」とウソをついて乗り切ったというなら、再審査の正統性はひとかけらも存在しなかったことになり、裁判では大問題になるだろう。

 

 党の側は、再審査を求めた党員のプライバシーを理由にするなどして、裁判所に提出することを拒否するかもしれない。まあ、それならそれで、実質的に敗北を認めるようなものだが、本格的に誤りを認めさせるため、過去、大会代議員として参加した人を証人として呼ぶことにしよう。念のため、20世紀中に開かれた過去のほとんどの大会に出席した実績のある人に、再審査がやられたことがあるかを聞いたのだが、そんな記憶はないと言っておられた。裁判の結果はあきらかだろう。(続)