昨日、四十九日法要と納骨を無事済ませました。
一区切り、とまではいかないんだけど、プレッシャーを感じてて、息子はストレス性胃炎になったぐらいだった3人は、法要後3人で打ち上げを開催し言いたいことを言い合えました。
ダンナは親戚の葬儀法要の際「手伝えることがあるのなら、手伝いますよ」と、受付や下足番や香典の整理等を申し出る人で、それはダンナの父からの教えでした。
あのお寺でも何度も務めたものでしたよ。
当然私は彼のアシストをしていました。
現金に手を触れることは禁止とか(間違いがあったら面倒になる、と)
子供の世話を申し出て叱られたり(でも結局はそうなるんだけど、ね)
ダンナが行かない時は私が行く(もちろん、下働きがメーンになる、の)
感謝と褒め言葉はダンナのモノ、苦情と嫌味は私のモノ、嫁ってそういうものでしょう、でした。
動く人より、金または口を出す人がエライのしきたり感覚は、そういう考えの人はいると思えても私は一生持てなさそうです。異教徒との共存、これが私の人生テーマの一つなんでしょう。
今回の法要では、かつての嫁ポジションに注がれたあれこれが娘に行ったようで、申し訳ないやら切ないやらでした。
が。
息子が初めて自分の言いたいことを言い返してみたことで、私も娘も留飲を下げたのでした。
3人のチームワークはなかなかのものだったんじゃないかと思うので、これでダンナが少しは安心してくれたかなぁ、だったらいいんだけどな、です。
ダンナは子供達に葬儀法要の際のあれこれを教えていました。
親戚づきあいの事。
マナーの事。
悲しむ人に出来ることと、出来ないこと。
喪主を務めるということ。
最大のものはダンナの父を亡くした時のものでした。
自分の父を亡くすということ、しっかり者の母がうつ病になったこと、葬儀法要だけでは終わらないということ・・・・子供達にもいろんなことを話していました。私の知らないこともたくさん。
そして単身赴任。「日常生活を3人で送る」日々。
娘は常に現実に対応し、出来ることをやっていこうとする人です。祖母や父の慰めになるよう、明るく優しく楽しく、そして何よりも「美味しいねのチカラ」を最大限に使って、皆が笑顔になるように、顔を合わせる機会、様々な場所で努めていました。周囲はもちろん、本人も気が付いていないぐらいの健気さは、娘の大きな美点です。
息子は祖父を亡くした直後から、後悔や自責や疑問に苛まれていました。小5です。
中学生の頃には疑問を放置することが出来ず、向き合った結果の登校拒否の引きこもりの「哲学シーズン」を過ごし、そして自分で越えていきました。時間がかかっても丁寧に着実に納得を重ねていく慎重さは、息子の大きな美点です。
「母の趣味は心配すること」なので、二人の美点は時に自分を追い詰めてしまうかも、との心配がちょっぴりと、でもなんだかんだで二人は自分の持つ美点の力で越えていけるはずとの絶大な信頼感を感じています。
来年は祖父の十三回忌と、父の一周忌を一緒に行おうかとの話が出ました。
「とーさんは、俺が初めてが弱点なの分かってて、全部のことを練習させてくれたみたいだ。俺が一番ダメージを食らうやつは大体やってた。」と息子は言いました。そうかもねぇ、って思います。
それでもきっと、まだまだこれからだろうとも、思います。心配するのが趣味だから。
私の心配をギャグで笑いに変えて、食べろ食べろ言って、「生きる方向へ」手を引いていてくれたダンナが隣にいないのは、それはそれは寂しく悲しいのだけれど。
「ダンナならこう言いそう!」はすぐ思いつけるぐらい、私の中に彼は居て、子供らにもいるのを感じます。
法要で白隠禅師座禅和讃が読まれました。
「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし」
「衆生近きを知らずして 遠く求めるはかなさよ」
「譬えば(たとえば)水の中にいて 渇を叫ぶが如くなり」
だよなー!って思ってしまいました。
私の中に彼は居て、私の外に(私の思う)彼は居ない。遠くにいったように感じてしまって、求めてしまうのだけど、最初からそうだったんだよな。これからもそうなんだ。
彼の思いはそこかしこに、あらゆるところにあるのであって、足りないってことはない。
そうなれたらいいな、まだまだ実感としてそう掴めてる気はしないけど、そんな感覚を持てるようになれたらいいな、そっち方向に進みたい!と決めることは出来ました。
長々書いて、ああそうか、これが一区切りってやつか!とようやくピンときました。
ダンナが好きだったお寺です。住職さんが大好きになった息子はお寺の後援会に入る手続きを自分でやっておりました。ほら、彼の思いが私達の手を引こうとしているよね、となります。
よき法要でありました。