なんのブログ~んざんかいが~

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どうなることやら・・・

んざんかいが~、島の言葉で「どこ行くの?」です♪

妖怪語り部・記録も、楽しくなってきた、今日この頃です・・・

ぐるっぽ「妖怪を語ることは世界を語ることである」おいでませ~

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昨日、四十九日法要と納骨を無事済ませました。

 

一区切り、とまではいかないんだけど、プレッシャーを感じてて、息子はストレス性胃炎になったぐらいだった3人は、法要後3人で打ち上げを開催し言いたいことを言い合えました。

 

ダンナは親戚の葬儀法要の際「手伝えることがあるのなら、手伝いますよ」と、受付や下足番や香典の整理等を申し出る人で、それはダンナの父からの教えでした。

あのお寺でも何度も務めたものでしたよ。

当然私は彼のアシストをしていました。

現金に手を触れることは禁止とか(間違いがあったら面倒になる、と)

子供の世話を申し出て叱られたり(でも結局はそうなるんだけど、ね)

ダンナが行かない時は私が行く(もちろん、下働きがメーンになる、の)

感謝と褒め言葉はダンナのモノ、苦情と嫌味は私のモノ、嫁ってそういうものでしょう、でした。

動く人より、金または口を出す人がエライのしきたり感覚は、そういう考えの人はいると思えても私は一生持てなさそうです。異教徒との共存、これが私の人生テーマの一つなんでしょう。

 

今回の法要では、かつての嫁ポジションに注がれたあれこれが娘に行ったようで、申し訳ないやら切ないやらでした。

が。

息子が初めて自分の言いたいことを言い返してみたことで、私も娘も留飲を下げたのでした。

3人のチームワークはなかなかのものだったんじゃないかと思うので、これでダンナが少しは安心してくれたかなぁ、だったらいいんだけどな、です。

 

ダンナは子供達に葬儀法要の際のあれこれを教えていました。

親戚づきあいの事。

マナーの事。

悲しむ人に出来ることと、出来ないこと。

喪主を務めるということ。

 

最大のものはダンナの父を亡くした時のものでした。

自分の父を亡くすということ、しっかり者の母がうつ病になったこと、葬儀法要だけでは終わらないということ・・・・子供達にもいろんなことを話していました。私の知らないこともたくさん。

 

そして単身赴任。「日常生活を3人で送る」日々。

 

娘は常に現実に対応し、出来ることをやっていこうとする人です。祖母や父の慰めになるよう、明るく優しく楽しく、そして何よりも「美味しいねのチカラ」を最大限に使って、皆が笑顔になるように、顔を合わせる機会、様々な場所で努めていました。周囲はもちろん、本人も気が付いていないぐらいの健気さは、娘の大きな美点です。

 

息子は祖父を亡くした直後から、後悔や自責や疑問に苛まれていました。小5です。

中学生の頃には疑問を放置することが出来ず、向き合った結果の登校拒否の引きこもりの「哲学シーズン」を過ごし、そして自分で越えていきました。時間がかかっても丁寧に着実に納得を重ねていく慎重さは、息子の大きな美点です。

 

「母の趣味は心配すること」なので、二人の美点は時に自分を追い詰めてしまうかも、との心配がちょっぴりと、でもなんだかんだで二人は自分の持つ美点の力で越えていけるはずとの絶大な信頼感を感じています。

 

来年は祖父の十三回忌と、父の一周忌を一緒に行おうかとの話が出ました。

 

「とーさんは、俺が初めてが弱点なの分かってて、全部のことを練習させてくれたみたいだ。俺が一番ダメージを食らうやつは大体やってた。」と息子は言いました。そうかもねぇ、って思います。

それでもきっと、まだまだこれからだろうとも、思います。心配するのが趣味だから。

 

私の心配をギャグで笑いに変えて、食べろ食べろ言って、「生きる方向へ」手を引いていてくれたダンナが隣にいないのは、それはそれは寂しく悲しいのだけれど。

「ダンナならこう言いそう!」はすぐ思いつけるぐらい、私の中に彼は居て、子供らにもいるのを感じます。

 

法要で白隠禅師座禅和讃が読まれました。

「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし」

「衆生近きを知らずして 遠く求めるはかなさよ」

「譬えば(たとえば)水の中にいて 渇を叫ぶが如くなり」

 

だよなー!って思ってしまいました。

私の中に彼は居て、私の外に(私の思う)彼は居ない。遠くにいったように感じてしまって、求めてしまうのだけど、最初からそうだったんだよな。これからもそうなんだ。

彼の思いはそこかしこに、あらゆるところにあるのであって、足りないってことはない。

 

そうなれたらいいな、まだまだ実感としてそう掴めてる気はしないけど、そんな感覚を持てるようになれたらいいな、そっち方向に進みたい!と決めることは出来ました。

 

長々書いて、ああそうか、これが一区切りってやつか!とようやくピンときました。

ダンナが好きだったお寺です。住職さんが大好きになった息子はお寺の後援会に入る手続きを自分でやっておりました。ほら、彼の思いが私達の手を引こうとしているよね、となります。

 

よき法要でありました。

ショックな出来事や、言葉に接した時は特に、そうでなくても、何かに対しては常に3つ4つあるいはそれ以上の感情や感覚や感慨や過去データが沸く。瞬時に同時多発的に沸く。時間を置いて湧き上がってくることもあるし、時間の経過で変化もする。

私の中では、相反する主張をする何か達が、共存している。

声が大きいやつも、ちいさいやつも、迷惑なやつも、不謹慎なやつも、びびりなやつも、いる。

一度に喚き始める混乱に対して、ひとつずつ、言語化して並べて見ないと自分が分解しそうになる。

誰かに、話そうとしないと言語化にならない。

聞かされる人の負担もあるよー言ってくるやつもいるから、ブログやツイッターはいいツールだ。

 

ここ一か月のように。

 

体調崩して、入院して、手術して、あっという間に亡くなったので、同時多発的感情には「ちょっと待ってて」が多かった。

腹立つと悲しいは、基本的には後回しだ。彼らが暴れる場所は、後で用意するよって。

不安と後悔にも、ちょっと黙っててになる。私より不安が大きいのはきっと子供らだろうから。

喜びの立ち位置が微妙だ。立ってる力を得る為に必要だとも感じ、喜びはそんなんじゃないとも感じ。

笑っちゃうよねーが、バランスを取ろうともがいてたりする。

 

過去のデータが一度反転するのを感じる。良かったこと、楽しかったことが、喪われたものとして、涙になる。そもそも過去なので、すでに失われてるのに、データに貼るタグが変更されたかのようだ。

「いい思い出」を話そうとすると、泣けてくる。「笑い話」もそうだ。

訂正してくれる人がいないから、更新が止まって、タグ付け作業の担当が混乱してる。

一時的なものであろうとの予測は立っている。

 

時間が解決するよ、って言われる。

でしょうね!って思う。

でもね!って思う。

 

子供がいるから、って言われる。

そうね、って思う。

でも、違うでしょっても思う。

 

亡くなった方が一番悔しいでしょう、って言われる。

そうね、って思う。

いやいや、こっちもいろいろ思うわ!ってもなる。

 

残された家族が明るくいないとね、って言われる。

そうよね、生きてかなくちゃよね、って思う。

バカか、なんでお前の安心を押し付けてくるんだよとも思う。

 

ちゃんと悲しまないと後から来るよ、話しなよって言われる。

そうよね、悲しいもんね、って思う。

でも話したい人は、あんたじゃないもん、って思う。

一番聞いて欲しい人は、あんたじゃない、もう答えてくれない人だから、って思う。

 

看病や介護がなかったから、良かったと思わなきゃ、って言われる。

そうね、そうだったら大変だったかもしれないしね、って思う。

でも、あの時の私の祈りは「手足の一二本はくれてやるから、あの笑い声帰って来て」だった。

そんなん、言わないでよ、とも思う。

 

やるべきことやってれば時間が過ぎるから、忙しくなるのもいいのよって言われる。

そうね、ちゃんと手続きと手配をしなくちゃね、と思う。

こんなん、やってられっか、メンドくせーんだよー!!っても思う。

私の死体の処理をする時は、こんなに面倒じゃないと良いなぁ、きっとそうしてよねとも思う。

 

慶事は無理よね?って言われる。

まぁ、そうかもとも思う。

でも、それ、そっちの喜びなんだから、喜んじゃっていいでしょ?遠慮されても困るんだよねとも思う。

誰も死なない日もないし、誰も生まれない日もないし、結婚式はずっと前から計画してるものだ。

 

 

どの言葉も、良かれと思って親切心で言ってくれてるものだというのも分かるから、同時多発的に沸く感情の中から、当たり障りのない言葉を編集して選ぶ。

 

我ながら面倒な人間であることよ。

No,thank you.

いいえ(そのアドバイスには従いません)、(だけど気持ちは)ありがとう。

と返信をした。

英語で来たから、翻訳には自信が無いんだけどそのコメントは私には

「分析なんかしてないで、ポジティブな意味を創造しなさい」って読めたから。

 

ダンナは私に

「君はオープンな人柄に見えるけど、闇とか悪意が無いわけじゃないよね。でも裏に隠すんじゃなくて、並べて出してくるから時々ギョッとするよ。普通は隠すだろそれ、って思う。恥とか隠したくなるものとかが違うんだろうね。」

言ってた。私に対する人物評として相当気に入っている。

 

ポジティブな意味?それは「単なる価値観によるランキング付け」じゃない?って思う。私の中に起こることは「全て私のエネルギーの表れ」であって、全部並べてみなくちゃ「私のエネルギーの方向性」の検討なんかできない。並べて出してみる前に、これはポジティブOK、こっちはネガティブNGなんて、それ実験データの気に入らない方を握りつぶすみたいじゃない?データは等しくデータだ。

自分が感じたことを、吐き出してみて、並べてみるのは、分析じゃない。そのずっと前の段階のデータを取ってるところだ。ある程度のデータの量がなければ分析には進めないと思う。

 

「怖いけど、吐き出して並べてみよう」って決めたら、機能停止寸前だった卵巣と子宮が大アピールしてきたよ。腹は痛いわ、貧血起こしそうになるわ、あらビックリ。納得出来ねーーー!!って大暴れだなぁって私は感じた。あんまり痛いから、詩にしてみたよ。そしたら痛みが軽くなって再度ビックリですよ。

「私の中に起こることは、すべて私のエネルギーの表れ」だ。

痛みも悲しみも血も、生きるために流れるものだ。そりゃあんまりうれしくはないけどさ。

ポジティブだのネガティブだのを判断する脳機能は、全体の、その一つに過ぎない。

怒りも疑問も自分なりの答えを出そうとする働きも同様に、機能の一部、全部で私が私になる。

価値観でランキングつけるのは私のエネルギーに対して失礼だ。

やっとわかったの?って子宮と卵巣が脳機能を笑っている。

 

精神は肉体の一部だ。そして精神として感じられることはキレイゴトばかりではない。刺激と反応、食べたら排泄物は出るものなのだ。美しい精神の独裁政治で私を治めようとするならば、その他大勢の不満分子によって崩壊するだろうというのは、弟の死の際の私の経験から導き出された答えだから、なかなか簡単には覆らないことの一つだ。

 

私の中の彼の存在は大き過ぎて、もちろん彼は彼自身なので私の想いとは別なのだけど、喪うことは悲しくて腹が立って疑問が沸いてどうにもこうにも大混乱で、それでも私はまだ在るのでどうにかせねばなるまいとも思い、どっち方向に進むかねーの為には、全部並べて見ないと検討できないよねーって吐いてるところが今の精神状態だ。

肉体の方の答えは出ている。「生きろ」だ。腹は減るしトイレにも行くし、各臓器は休むことなく動いている。そこに腹が立つ自分も在る。美しい精神の鞭打ちだねぇ。

 

言語を操っているのは多分精神だろうから、こうやって書いているのは精神の働きで、精神君が「自分が代表!面」してるのも矛盾なのだけど、現状私の表現方法は言語に頼るしかないので致し方なしでもある。独裁にはしないけどね!

 

そういうわけで、アドバイスはありがとう、気持ちはうれしいのです。

だけどそのアドバイスには従いません。

弟を亡くした時「そんなに泣いてたら心配で弟君が天国に行けないよ」と励ましてくれた先生の言葉がショック過ぎて、ネガティブ封印して記憶を失った頃よりは大人になっております。