(ベルリンの壁崩壊)

 

1.利潤第一主義からの自由という経済的自由の禁止

 

今回は「自由」の問題です。

1989年、自由を求めた人々は社会主義の東ドイツから、資本主義の西ドイツをめざしました。

なんか論じる前から結論はわかっているようですが。

 

志位  第一の角度で使った「自由」――「利潤第一主義」からの自由は、他のものからの害悪を受けないという意味での「自由」です。そういう意味では消極的な自由ともいえるわけです。

 それに対して、第二の角度での「自由」――「人間の自由で全面的な発展」の「自由」は、自分の意志を自由に表現することができる、あるいは実現することができるという意味の「自由」です。そういう意味ではより積極的な自由ともいえます。

 

利益第一主義からの自由ですか。

これは資本主義体制支持派から言えば、生産手段の私的所有の禁止、経済的自由の否定ということになります。

利潤第一主義=搾取の自由を禁止することは、資本家の自由、アントンプレナー(起業家)の自由を禁止することになりますね。

 

 

その次は、『ドイツ・イデオロギー』で出てきた視点です。

分業からの自由です。

 

志位  マルクス、エンゲルスが最初に出した答えは、「社会から分業をなくせばいい」というものでした。

 当時、産業革命によって機械制大工業が発展し、労働者は機械による生産の一部に縛り付けられて生涯働かされていました。この分業こそが「悪の根源」だ、分業をなくせば、人間が自由に発展できるようになるだろう。彼らは最初にこう考えた。

 マルクス、エンゲルスは初期の時期(1845年~46年)に『ドイツ・イデオロギー』という労作を書きます。これは、彼らが生きている間には出版されないで、「鼠(ねずみ)どもがかじって批判するまま」(マルクス)にされており、2人が亡くなった後に出版されるのです。『ドイツ・イデオロギー』では、共産主義社会について、「個人個人の独自な自由な発展がけっして空文句ではない社会」という、『共産党宣言』と同じ特徴づけが行われていますが、それを実現するために「分業の廃止」という構想がのべられています。そこにはこんな言葉が出てきます。

 「私がまさに好きなように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には哲学をする」

 分業を廃止して、まさに好きなように何でもする人間になる、そういう社会に変えればいい。そうなれば「個人の自由な発展」ができるだろう。こうした牧歌的な構想を描くのです。『ドイツ・イデオロギー』は、2人が「史的唯物論」の考え方を初めてまとめたという点で画期的意義をもつ著作でしたが、経済学については本格的に研究する前の段階に書かれたものでした。「分業の廃止」という構想は、間もなく不可能だということが分かってきます。どんな社会になっても分業は必要になります。

 

こういうユートピア的な自由がマルクスの発想にあります。

しかし、これは不可能だと気づいたとか。

 

 

2.商品が交換されるマルクスの根拠は正しいのか?

 

次に自由時間の問題です。

 

中山 今の日本で、働く人は「自由に処分できる時間」をどのくらい奪われているのですか?

 

志位 いろいろな研究がありますが、今日、私が紹介したいのは、大阪経済大学名誉教授の泉弘志さんが行った推計です(剰余価値率)。2000年のデータをもとにした全産業の雇用者の推計ですが、これを8時間労働に換算しますと、必要労働時間が3時間42分。剰余労働時間が4時間18分になります。(パネル19)

 

図

パネル19

中山 剰余労働の方が多いんですね。

 

志位 そうですね。8時間働いた場合、およそ4時間以上は、本来、労働者が持つべき「自由に処分できる時間」が資本家によって奪われていることになります。これは「サービス残業」という話ではありません。法律通りに働いていてもこういうふうになるということです。この比率は、産業や企業によっても違います。おおよその数字として頭に入れていただいて、これを取り戻すことができたら、どんなに未来が開けるかを楽しく想像していただきたいと思います。

 

ここで、何気なく「剰余価値率」という単語が出てきています。

そして、「必要労働」と「剰余労働」という言い方もでてきています。

 

 

まず、必要労働とは何でしょうか?

直接的生産者が自分と家族に必要な生活資料を生産するための労働を必要労働といい、これを超えて行われる労働を剰余労働といいます。

 

生産力の発展とともに剰余労働が形成されるようになりますが、生産手段の私的所有をするブルジョア階級社会が成立すると、剰余労働の生産物は生産手段の所有者=ブルジョアのものとなります。

 

労働者に支払うと約束されている賃金の額は必要労働時間での生産量と同等です。

仮に一日の労働時間が8時間であった場合に、日給と同額の生産量を上げられる時間が6時間であったならば、この6時間が必要労働時間ということになり、残りの2時間は剰余労働時間ということになります。

 

 

 

先の図も「8時間働いた場合、およそ4時間以上は、本来、労働者が持つべき「自由に処分できる時間」が資本家によって奪われていることになります」と書いているよ言うに、「労働者の持つべき」処分時間なのであって、実際の時間ではありません。

 

マルクスは、商品の価値はそこに投入された労働によって決まると考えました。

しかし、商品の価値を決めるのは、シンプルなことですが、市場での消費者だということなのです。

つまり、その裏に抽象労働があるなんてふつうに考えません。

ただ、その商品がほしいという欲望があるのです。

その結果、誰かの労働時間と食い違った根拠があることに気が付きます。

つまり、要らない商品を何時間かけて作っても、その商品は廃棄される場合もあるのです。

抽象的労働が交換の理由なんて実際には幻想です。

 

でも、市場がない世界ではマルクスが言う通りかもしれません。

そういう経済世界が実現するとどうなるのかは、ソ連・東欧の破綻で見てきました。

 

マルクスは『資本論』第1巻でこう述べます。商品の価値はすべて労働によって生み出され、その価値どおりに市場で売買される。ところが資本家は商品を売って得た代金のうち、労働者には一部を賃金として支払うだけで、原材料費などを除いた残りは利潤として自分の懐に入れてしまう。いいかえれば、労働者が生んだ価値の一部には対価を払うが、残りの価値(剰余価値)には払わない。これは実質的な不払い労働であり、不当な搾取である、と。

これは商品の価値は労働によって決まるという、誤った考えから出発しています。実際には、商品の市場価値を決めるのは労働者の働いた量ではありません。消費者の心に基づく選択です。私たちは買い物をするとき、商品の製造にかかった労働量を調べたりしません。

もしマルクスのいうように商品の価値が労働量で決まるなら、大規模な設備を使い人手を省く資本集約型産業よりも、サービス業など人手を要する労働集約型産業のほうが利益率は高くなるはずです。しかし実際にはそのようなことはなく、長期ではあらゆる産業の利益率は均一化に向かいます。ある産業の利益率が他より高ければ、その産業に参入する企業が増え、価格競争が広がって利益率が低下するからです。

https://bizgate.nikkei.com/article/DGXMZO3064412017052018000000?page=2

 

マルクスにとって、商品が交換されるのはそこに投入された抽象的労働があるからという前提があります。

交換される商品の価格は労働価値を表しており、労働価値は賃金で支払われるものと考えるのです。

 

交換価値についてはマルクスが言い出したことではなく、アダム・スミスも言っていたことです。

マルクスは剰余価値の考え方を提唱し、それを資本家が取得することを搾取と呼んだのです。

 

しかし、商品の価格は市場価値で決まります。

商品の価値は労働によって決まるというモデルは、市場を無視したモデルなのです。

 

志位 こういう言葉が『資本論草稿』のなかに出てきます。マルクスは、「自由に処分できる時間」――一人ひとりの個人が、どんな外的な義務にも束縛されずに、自ら時間の主人公になって、自分の能力と活動を全面的に発展させることのできる時間こそ、人間と社会にとっての「真の富」だと考えたのです。

 

では、「自由に処分できる」時間の実現ということと、労働時間の短縮ということ、賃金の関係はどうなっているのでしょうか?

それはたんに労働時間を短縮して、賃金を下げない(または上げる)と、搾取がなくなるという理屈なのです。

剰余労働時間がすべて労働者に賃金として支払われれば、搾取はゼロになるということです。

 

 

3.市場を無視した生産はどうなるか?

 

でもこれは、生産手段の私的所有を廃止、市場を軽視することになります。

そのような生産計画では国民のニーズを満たせず、政府に不満が集まります。

 

 

 

 

そうなると、政府は独裁的にならざるをえません。

 

 

これでは自由とは反対の方向になります。

高度な生産力から出発したドイツで、東側は生産手段の私的所有を禁止し、不足した以上への国民の不満を押さえつけ、政治的自由を奪いました。

 

志位 ここでマルクスは、人間の生活時間を二つの「国」――「必然性の国」と「真の自由の国」に分けています。「国」という言葉が使われていますが、これは地域という意味ではありません。人間の生活時間を「必然性の国」と「真の自由の国」という独特の概念に分けたのです。

 まず「必然性の国」は、「本来の物質的生産」のためにあてられる労働時間だと規定されています。なぜそれを「必然性の国」と呼ぶのか。それはこの領域での人間の活動が、ちょっと難しい言葉ですが、「窮迫と外的な目的適合性とによって規定される労働」だからです。「窮迫」とは生活上の困難のことであり、「外的な目的」とは社会生活のうえで迫られるいろいろな必要のことです。そういうものに規定され、自分とその家族、社会の生活を維持するためにどうしても必要で余儀なくされる労働時間ということです。「窮迫」や「外的な目的」のために余儀なくされる労働は、人間の本当に自由な活動とは言えない。そこで「必然性の国」とマルクスは呼びました。

 ただ「必然性の国」には自由がないかというと、そんなことはない。マルクスは、社会主義・共産主義社会に進めば、自由な意思で結びついた生産者による労働は、自らの人間性に最もふさわしい労働となり、自然との物質代謝を合理的に規制するような労働へと大きな変化をとげる。つまり、未来社会に進むことによって、「必然性の国」でも人間の活動に素晴らしい「自由」が開けてきます。

 

4.現実の社会主義社会とは?

 

しかし、現実の社会主義社会は自由のない世界でした。

いや、秘密警察を空気のように意識する社会とも言えます。

 

本書では最新の研究成果や私自身の専門の知見を活かし、人びとはシュタージ(秘密警察)によって一方的に抑圧されていた、また、人びとが政治に対して自分の世界のなかに引きこもって「本音」と「たてまえ」を使い分けて行動をしていたというイメージについては覆せたと思います。むしろ体制が人びととの関係に苦慮していた様子が読み取れるのではないかと。社会主義統一党は当初、暴力的にふるまうことがありましたが、ベルリンの壁を作った後は人びとを逃げられないようにしてしまったため、人びとからの批判を無視できなくなったとみることもできます。

 

 

 

 

志位 そして「真の自由の国」は、それを越えた先にあると言っています。すなわち人間がまったく自由に使える時間のなかにある。つまり自分と社会にとってのあらゆる義務から解放されて、完全に自分が時間の主人公となる時間。自分の力をのびのびと自由に伸ばすことそのものが目的になる――「人間の力の発展」そのものが目的になる時間。マルクスはこれを「真の自由の国」と呼び、この「真の自由の国」を万人が十分に持つことができる社会となることに、社会主義・共産主義社会の何よりもの特質を見いだしたのです。そして、「労働時間の短縮が根本条件である」という実に簡明な言葉で結んでいます。私は、マルクスが『資本論』でのべたこの言葉は、『資本論草稿』での「自由に処分できる時間」にかかわる研究を凝縮してのべたものだと思います。

 労働時間が抜本的に短くなって、たとえば1日3~4時間、週2~3日の労働で、あとは「自由な時間」となったとしたら何に使いますか。

中山 私はフルート吹いてみたりとか、本を読んでみたりとか、そういうことしてみたいです。

 

ああ、フルートを吹きますか?

 

 

志位 どうして未来社会では労働時間を抜本的に短くすることが可能になるか。つぎの二つの点が重要です。

 第一に、「生産手段の社会化」によって、人間による人間の搾取がなくなると、社会のすべての構成員が平等に生産活動に参加するようになり、1人当たりの労働時間は大幅に短縮されます。さきほど、資本主義のもとでは、「本来、人々が持つことができる『自由に処分できる時間』――『自由な時間』が奪われている」「資本家によって横領されている」と言いましたが、労働者が資本家によって奪われた「自由な時間」を取り戻すことで、十分な「自由に処分できる時間」が万人のものになります。

 第二に、未来社会に進むことによって、資本主義に固有の浪費がなくなります。資本主義の社会は、一見すると効率的な社会に見えますが、人類の歴史のなかでこれほどはなはだしい浪費を特徴とする社会というのはないんです。繰り返される恐慌と不況は浪費の最たるものです。一方で大量の失業者がいる、他方で多くの企業が生産をストップしている、これは浪費の最たるものです。資本主義が、「利潤第一主義」のもとで「生産のための生産」に突き進み、「大量生産・大量消費・大量廃棄」を繰り返していることも浪費の深刻なあらわれです。その最も重大な帰結が気候危機にほかなりません。これらの浪費を一掃したら、それらに費やされている無用な労働時間が必要でなくなり、「真の自由の国」を大きく拡大することになるでしょう。

 

 

5.1日3~4時間、週2~3日の労働っていいですね。

 

 

志位 労働時間が抜本的に短くなって、たとえば1日3~4時間、週2~3日の労働で、あとは「自由な時間」となったとしたら何に使いますか。

 

一日、3~4時間、週2~3日の労働ですか。

すごいですね。

どんなスーパーマンなんですか?

それでたっぷり給料もらって、あとは自由な時間ですね。

 

1930年代のソ連で、工業化のペースを上げるために、全国民の力を総動員する必要がありました。

そのシンボルの一人となったのが、ドンバスの普通の炭坑労働者、アレクセイ・スタハノフです。

彼はソ連だけでなく世界中で有名になったそうです。

 

 1935年8月31日未明、スタハノフは一度のシフトで自身の仕事のノルマの14.5倍の仕事をした。7トンの石炭を採掘すれば合格のところを、102トンもの石炭を採ってみせたのだ。成功の秘訣はアレクセイ自身の革新的な提案にあった。つまり、それまで採鉱夫が行っていた坑道の壁を補強する作業を助手にさせ、採鉱夫が石炭の採掘に専念できるようにしたのだ。

 スタハノフの名は一種のブランドになった。いわゆる「スタハノフ運動」が全国に広まった。

 運動の要点は、生産過程でとんでもない記録を打ち立て、生産効率を何倍も上げる革新的な手法を導入し、労働の規律を厳しく遵守することにあった。

スタハノフの肖像画を掲げている労働者たち

 英雄は次から次に現れた。製鋼工、フライス盤工、コンバイン運転手、縫製工、さらには靴職人までもがソ連の全国記録を打ち立て、ノルマを200パーセントも400パーセントも超過した。

 だが人々が成果を出そうとしたのは、輝かしいソ連の未来を建設するためだけではなかった。記録を作る度に労働者はボーナスをもらえたのだ。スタハノフ自身も、最初の伝説的なシフトだけで月収の半額のボーナスを受け取った。

 

 

一日3~4時間の労働で、あとは遊んで暮らす。

それって、スタハノフみたいな人ばかりの国でしょうね。

 

 熱狂的な労働が原因で工作機械や仕事道具が頻繁に壊れ、完成品の品質が落ちることも珍しくなかった。労働ノルマが上昇し、少しも功績を求めない人々までも、従来通りの給料を得るために従来以上に働かなければならなくなった。

 その上、スタハノフ運動者の記録樹立を助けた人々は不当に無視された。例えばスタハノフがノルマの何倍もの仕事をしている間坑道の壁を補強していた2人の炭坑労働者がそうだ。

 記録に直接関係した人々が陰に隠れてしまっていた一方で、スタハノフ運動者と認められてボーナスを手に入れるために虚偽の記録を申告する悪意ある労働者も現れた。

 スタハノフ運動は国民経済にとっていつでもどこでも利益になるとは限らなかった。記録的な石炭の採掘は有益だったが、例えば、オーバーシューズをノルマの何倍も生産することは誰の役にも立たず、正当化できるものではなかった。

 

現代版超人スタハノフはどこかにいるのでしょうか?

 

 

ところで、ベルリンの壁を壊したのはふつうの市民たちでした。

それは自由を求める力でもありました。

 

1989年のベルリンの壁の崩壊時の考えを、あるとき何人かの方から聞きました。その想いは一様ではなく、これからどうなってしまうのだろうかと市電の停留所で涙が出てきたという人もいますし、職場から疲れて帰ってきて一晩明けたら壁が崩れていて驚いたという証言も得ています。これで西側の親戚のところに自由にいけるようになり嬉しかったという話も聞いています。

 

 

夢のような世界、根拠のない非現実的な世界をさもありそうな世界だと、運動に誘うのはまるでカルト宗教です。

(ソ連時代のスーパーマーケット)

 

志位氏の講義の今回分は「利益第一主義」への批判です。

 

 

 

 

1.吸血鬼なのか、それとも経済を動かすアニマル・スピリッツなのか?

 

志位氏は、資本主義批判の第一の角度として「利益第一主義」を上げるのです。

 

中山 それではまず第一の角度――「利潤第一主義」からの自由についてお聞きします。そもそも「利潤第一主義」とはどういうことでしょうか? まずそもそも論からお話しください。

志位 資本主義では、生産は何のために行われるか。マルクスは、『資本論』で、“資本主義では、資本のもうけを増やすことへの限りない衝動が、生産の推進力――生産の動機となり目的となる”と繰り返し言っています。私たちはこれを「利潤第一主義」と呼んでいるんです。

・・・

マルクスは「吸血鬼」という言葉まで使っているのですが、さっき紹介した「オックスファム」の「報告書」の超富裕層のもうけぶりは、「吸血鬼」という言葉がぴったりくるのではないでしょうか。もちろんこれは、超富裕層の人々の個々人の人格を批判しているわけではありません。「資本家」である以上は、そういう「資本の魂」を持たざるを得なくなってしまうということが、マルクスが言ったことなのです。

 

人間が生産に対して駆り立てられることを昔から経済学では話題にされます。

ジョン・メイナード・ケインズは1936年の著作『雇用・利子および貨幣の一般理論』でこのことを「アニマル・スピリッツ」よ呼びました。

 

中山 その人が悪い人だからとか、良い人だからとかいうことではないんですね。衝動に突き動かされているということですね。

志位 ある企業の代表がどんな人格者であっても、資本家としては「資本の魂」をもって行動するということです。「衝動」という言葉が使われていますが、抑えがたい力で突き動かされるということですね。

 

ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』で次のように書いています。

 

投機による不安定性のほかにも、人間性の特質にもとづく不安定性、すなわち、われわれの積極的活動の大部分は、道徳的なものであれ、快楽的なものであれ、あるいは経済的なものであれ、とにかく数学的期待値のごときに依存するよりは、むしろおのずと湧きあがる楽観に左右されるという事実に起因する不安定性がある。何日も経たなければ結果が出ないことでも積極的になそうとする、その決意のおそらく大部分は、ひとえに血気(アニマル・スピリッツ)と呼ばれる、不活動よりは活動に駆り立てる人間本来の衝動の結果として行われるのであって、数量化された利得に数量化された確率を掛けた加重平均の結果として行われるのではない。

 

『雇用・利子および貨幣の一般理論』

 

 

 

マルクスはこの資本家の精神を吸血鬼に例えていますが、ケインズは「アニマル・スピリッツ」を人間の経済活動にとってプラスの意味で使っています。

つまり、このアニマルスピリッツがあるから、資本主義社会は製品やサービスのイノベーションを生んだのだと。

ハンガリーの社会主義を経験したコルナイ・ヤーノシュという経済学者は著書『資本主義の本質』のなかで1917年以来の重要なイノベーションを111件ピックアップしています。

 

※リストはこちらを参照。

 

 

 

トランジスタやファックス、電卓、ノート型パソコン、携帯電話、電子レンジからインスタントコーヒー、テトラパック、ボールパンなどです。そのうち合成ゴムだけが、社会主義国であるソ連で開発されたものなのです。その1件だけです。

 

つまり、資本主義のアニマルスピリッツがそういうイノベーションを生み出すことができると結論付けています。

 

 

 

2.商品の余剰と産業予備軍はゼロがいいのか?

 

志位氏は利潤第一主義をパネルにこうまとめています。

 

資本主義では「利潤第一主義」が特別に激烈


1、追求する富は「カネ」の量
2、儲けを市場で競い合う自由競争の社会
3、「生産のための生産」が合言葉

 

そしてこういいます。

 

中山 カネもうけの衝動が特別に激しいと。

志位 そうです。

 

ここまで志位氏は資本主義を批判しているつもりかもわかりませんが、とくにおかしいことを言っているとは思いません。

経済活動における人間の魂の源泉を説明しているだけです。

ただ、ここから資本主義のマイナス面を指摘します。

 

中山 「利潤第一主義」は、具体的にどんな害悪をもたらしているのでしょうか?

志位 大きく言って、二つの害悪を指摘したいと思います。

 第一は、貧困と格差の拡大です。

 第二は、「あとの祭り」の経済です。ちょっと耳なれないかもしれませんが、これについては後で説明します。

 

前者の貧困と格差の拡大については、その通りでしょう。

放っておいたら資本主義のシステムはそうなるようにできています。

そして失業の問題です。

 

志位 マルクスは『資本論』のなかで、資本が蓄積されていくと、技術革新によって、景気が良いときであっても労働者が「過剰」になる、そして「過剰」になった労働者を職場からたえずはじき出すプロセスが進むことを明らかにしています。経済が発展しているのに、仕事につけない「過剰」労働者がいつも大量に存在するという状態が、資本主義社会では当たり前になっていく。

 資本主義が生み出す、現役労働者の数を超える「過剰」な労働者人口のことを、マルクスは「産業予備軍」と呼び、そうした失業、半失業の労働者の大群を生み出すメカニズムを『資本論』で明らかにしました。資本主義社会では、失業は決してなくなりません。資本主義の国で失業者がゼロの国はありませんよね。

 

志位氏はマルクスの言を借りて、失業が絶対悪で、失業者をゼロにすることが良いことだと思わせます。

 

志位 すなわち「産業予備軍」――大量の失業者の存在は、労使の力関係を、資本家にとってすごく有利にしてしまいます。

 

産業予備軍の存在が社会にとって悪なのかどうか、商品の余剰が社会にとって悪なのかどうか?

このあたりが、資本主義社会と社会主義社会の価値観と実際の経済を考えるうえで実は重要なのです。

 

社会主義経済の破綻を経験したコルナイ・ヤーノシュという経済学者はある程度の産業予備軍と商品の余剰は必要だと言っています。

商品に余剰を生まないので良いと思われた「計画経済」のもとで、スーパーマーケットから商品が欠乏し、労働者の品質管理の意欲がない工場から火を噴くテレビが生まれました。

『モスクワのテレビはなぜ火を噴くか』(築地書館)という本があります。

そこにはソ連の計画経済が行き着いたテレビによる月15件の火災事故について書かれています。

 

「ソ連全土で、第11次5カ年計画(1981-85年)の間にカラーテレビが火を噴いて起きた火事は1万8400件、これによる死者927人、負傷者112人、物的損害は1560万ルーブルにのぼった」ソ連内務省の報告として『アガニョーク(灯)』の1987年25号が暴露した数字だ。

 

『モスクワのテレビはなぜ火を噴くか』(築地書館)

 

 

 

計画経済でなく、需要と供給を市場で調整するしくみが資本主義の競争によるイノベーション、品質の向上を保障しているのです。

 

 

3.「あとの祭り」は資本主義より社会主義のほうが反動が大きい

 

志位氏は「あとの祭り」についてこう言っています。

 

志位 マルクスは『資本論』で、資本主義の社会では、「社会的理性」が、いつも“祭りが終わってから”はじめて働くと特徴づけました。これは言葉をかえると「あとの祭り」の経済になるということです。

中山 「あとの祭り」になると。

志位 ええ。資本主義社会では、生産の計画的な管理が可能なのは、個々の企業の内部だけのことです。社会的規模では競争が強制されますから、「生産のための生産」が無政府的に行われる。そのために生産のいろいろなかく乱が起こり、「社会的理性」が働くのは“祭りが終わってから”になる。つまり、「あとの祭り」になる。こういう特徴があります。

 

斎藤幸平氏も同じようなことをマルクスから引用して話を展開するので、けっして志位氏だけが詭弁を使っているとは言いません。

しかし、このあと、恐慌について説明し、こんなことも資本主義のせいにしています。

 

志位 『資本論』を読んでいて驚くのは、資本主義のもとでの「利潤第一主義」による産業活動によって、自然環境の破壊が起こることを早くも告発していることです。これをマルクスは、「物質代謝」の「攪乱(かくらん)」と表現しています。マルクスが『資本論』でとりあげているのは、資本主義のもとでの「利潤第一主義」の農業生産です。もうけ第一で自然がどうなろうとお構いなしという農業経営によって、土地の栄養分がなくなって荒れ地になってしまう。そうすると農業そのものが成り立たなくなってしまう。そうした事態を、マルクスは「物質代謝」の「攪乱」と表現しました。これは、現代に恐るべき規模で起こっていることの先取り的な告発ですね。

 

中国の光化学スモッグ、ソ連のチェルノブイリ原発事故のことはどうなのでしょうか?

そして、農業のことを言うとソ連で進められた農業集団化による失敗、ウズベキスタンでの灌漑の失敗などは資本主義ではなく社会主義計画経済のもとで起きていることです。

 

中山 そうですよね。びっくりしました。

志位 いま起こっている気候危機は、地球的規模での「物質代謝の大攪乱」です。でもこればかりは「あとの祭り」にしてはならなりません。人類は、この最悪の社会的災害を、「あとの祭り」になる前に、「社会的理性」を働かせて、解決することができるかどうかが問われています。

 資本主義のもとでも、その解決のためにありとあらゆる知恵と力を尽くす必要があります。しかし、その解決ができないのであれば、資本主義には退場してもらって、次の社会に席を譲ってもらわなければなりません。

 

 

そうですよね。びっくりしました。

これは、なにかセンスの悪い漫才でも聞かされているようです。

 

中山 害悪だらけの「利潤第一主義」ですが、どうすればこれをとりのぞくことができるのでしょうか?

志位 生産の動機と目的そのものを変える社会変革が必要になってきます。資本主義のもとでは、生産手段――工場とか機械とか土地とか、生産に必要な手段を資本が握っています。そのことから資本はこれを最大限に使って、自分のもうけを最大化しようとする。それがさきほどお話しした「利潤第一主義」を生んで、いろいろな害悪をつくりだす。どうすればこの問題を解決することができるか。マルクスが出した答えは、「生産手段の社会化」――生産手段を個々の資本家の手から社会全体の手に移すということでした。

・・・


中山 「社会化」というのは「国有化」ということですか?

志位 「生産手段の社会化」といいますと、「国有化」を連想される方も多いかと思うんですが、私たちは「国有化」が唯一の方法と考えていません。生産手段を社会の手に移すには、いろいろな方法や形態があって、情勢に応じて、いちばんふさわしい方法や形態を、国民多数の合意で選んでいけばいい。その「青写真」をいまから描くことはできないし、描くことは適切でないというのが、マルクスやエンゲルスの考えでした。社会進歩の道を前進するなかで、みんなで見いだしていく。

 私が、ここで強調しておきたいのは、建前上は、「生産手段の社会化」がやられていたとしても、肝心の生産者が抑圧されているような社会は、社会主義とは無縁だということなんです。崩壊してしまった旧ソ連社会がそうでした。旧ソ連には「国有化」はあった。「集団化」もあった。しかし肝心の生産者がどうなっていたか。抑圧され、弾圧され、強制収容所に閉じ込められ、囚人労働が経済の一部に位置づけられていました。こんな社会は、経済の土台の面でも社会主義とは無縁の社会だったと、日本共産党は大会の決定でそういう歴史的判定をやっています。そして、こういう社会を「絶対に再現させてはならない」と、綱領で固く約束しています。

 

最近ではソ連の国家による計画経済があまりに評判が悪すぎるのを意識してか、日本共産党は「国有化」という表現を避けるようにしているようです。

 

そして、こういうことにしているのです。

 

生産手段を社会の手に移すには、いろいろな方法や形態があって、情勢に応じて、いちばんふさわしい方法や形態を、国民多数の合意で選んでいけばいい。

その「青写真」をいまから描くことはできないし、描くことは適切でないというのが、マルクスやエンゲルスの考えでした。

 

いやいや、計画経済を唱えたのはカール・マルクスで「自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれる」(資本論第1部)と言いました。

しかし、マルクスに計画経済によって、経済活動のしくみがどう変わるかの想像力がなかっただけです。

 

1917年のロシア革命の後、内戦状態のなかで戦時共産主義と言う配給制の経済が敷かれました。

生産力があまりにも低いので、レーニンは農業者の資本主義化を一時進めましたが、やがて集団化に切り替えました。

そしてその後、急速な工業化、農業の大規模集団化も導入しました。

農村から都市への労働者の移動や、女性の労働者化などによって労働力人口が急速に増え、ある時点までソ連は経済成長を続けました。労働力人口が増え、工業化が進展する経済成長の時期だったのです。

資本主義の開発独裁の国でも似たような現象になります。

 

しかし、労働力が飽和状態になったあたりから、経済成長は止まり、計画経済が逆に成長を阻害するようになったのです。

 

 

1990年まで東欧の国々は経済成長が止まっていました。

世界の産業構造が変化しているのに、ソ連・東欧ではその波に乗れていませんでした。

そして、商品が市場から欠乏し、不満を言えば反体制派とみなされ、弾圧されました。

ゴルバチョフが改革を唱え、情報公開を進めましたが、それはゴルバチョフの予想を超え、国家の崩壊に至りました。

 

1990~1991年頃の社会主義崩壊により資本主義が一気に導入されました。

しかし、一時期よけいに経済が停滞します。

失業が増え、大量の産業予備軍ができたのです。

 

しかし、数年後、経済は急速に伸びます。

これは産業構造に合わせて、失業者が新たな産業に従事するようになったからです。

 

資本主義社会ではある程度の失業者=産業予備軍を抱え、社会主義国のような壊滅的な社会の崩壊を常に避けています。

 

 

上の表のように東欧のほとんどの国が社会主義計画経済によって国家が壊滅し、資本主義への移行によって蘇っています。

そこには商品の需要と供給を調整する市場があるからです。

同じように労働市場にも需要と供給があり、産業予備軍がその調整をしているのです。

 

しかし、性懲りもなく、志位氏はこういうことを言っています。

 

志位 こうしてマルクスは、「自由」をキーワードにして、「生産手段を集団に返還させること」、つまり「生産手段の社会化」を、わずか数行の論立てで導きだしています。“自由を得るためには生産手段を持つことが必要だが、一人では持てないからみんなで持とう”。これが「生産手段の社会化」だと言っています。ここで言われている「自由」という言葉は、搾取からの自由、抑圧からの自由を意味していると思いますが、もう一つ含意があるように思います。

中山 なんでしょう?

志位 次にお話をする「人間の自由で全面的な発展」につながる「自由」です。これも含まれているように思います。マルクスが、「生産手段の社会化」を「自由」をキーワードにして論じたことは、たいへん重要な意味を持っていると思います。ぜひ心に留めておいてほしいなと思います。

 

レーニン、トロツキー、スターリンはマルクス、エンゲルスを必死で読んでいました。

とくにスターリンの読書量はすさまじく、執務室の隣に専用の図書室がありました。

最近、蔵書のメモ書きも紹介する本が出版されています。

スターリンは、政敵トロツキーの本も線を引きながら読んでいたようです。

 

 

だから、志位氏に言われなくてもレーニンもスターリンもマルクスがどういっていたかは十分に知っているのです。

しかし、「自由」を唱えていて、実際には「自由」を抑圧することはよくあります。

 

その「自由」は一般的には「自由」だが、学校では別だとか。

公務員には「自由」は制限されて当たり前だとか。

 

あっ、そうそう、革命党での「表現の自由」は違うって日本共産党も誰かを除名処分にしましたよね。

唱えていることと、実際に行うこと。

これが一致していない組織が、「自由」を語るのはあまりに説得力が欠けるのです。

 

 

1.モスクワのテレビはなぜ火を噴くのか?

 

1987年に『モスクワのテレビはなぜ火を噴くのか』(築地書館)という本が出版されている。

 

 

ちょうどゴルバチョフのペレストロイカ(改革)が進み、いろんなことが明るみになっていた。

 

テレビが火を噴くという信じられない事件は社会主義の末期現象としてイメージしやすい。
しかし、それがどういうことだったのか忘れていた。

 

「ソ連全土で、第11次5カ年計画(1981-85年)の間にカラーテレビが火を噴いて起きた火事は1万8400件、これによる死者927人、負傷者112人、物的損害は1560万ルーブルにのぼった」ソ連内務省の報告として『アガニョーク(灯)』の1987年25号が暴露した数字だ。

 

『モスクワのテレビはなぜ火を噴くのか』p.3~4


平均するとソ連では一日に約10件のテレビ火事が起き、二日にひとりが亡くなっていることになる。
この当時、日本では東京都内のテレビによる火事は、1985年が年間12件、1986年は5件だったとか。

これは、当時のソ連で火を噴くテレビがいかに多かったかがわかるエピソードだ。

計画経済のもとで製品の生産が工場に割り当てられる。

それをその数だけ作れば給与がもらえる。

品質管理は給与に直結しないので、極めて杜撰だった。

その結果、テレビのブラウン管が壊れ、そこから出荷するという事故が多発していた。

マスコミが報道すればニュースになるのだが、これはソ連の内務省の報告にすぎなかった。

 

 

また、ソ連の乗用車「ヴォルガ」はモデルチェンジしたら、多くの国々から輸入禁止にされた。世界で求められる安全基準に全く合致していないからとか。燃費も悪いし、居住性も悪い。

 

(ヴォルガ)

 

ゴーリキー自動車工場が、ボルガを20年も前に、つまり自動車に対する要求が現在とは違っていたころに開発し、製造を始めたというのであれば、理解できないではない。ところが、そうではないのだ。彼らには、すでに全世界で国際的な安全や排出ガス浄化基準が導入されている今の今になって、「ヴォルガ」のモデルチェンジを行ったのだ。無責任もどこまで行けば気が済むというのか。

 

『モスクワのテレビはなぜ火を噴くのか』p.60~61


ソ連の社会主義体制下では、開発もいい加減だし、必要な物資は不足している。
社会主義とは慢性的な品不足と商品配給制のことだと心得ているらしい。

どうしてこうなるのだろうか?

 

2.社会主義経済でのイノベーションの欠如

 

ハンガリーで社会主義体制下を経験したコルナイ・ヤーノシュという経済学者が『資本主義の本質について』という本を書いている。

 

 

 

ヤーノシュはこれをイノベーションの欠如に起因していると説明している。

社会主義経済では製品やサービスのイノベーションが起きにくいのだ。

 

その例として、ヤーノシュは1917年以来の重要なイノベーションを111件ピックアップし、それがどこの国で起きたかをまとめている。

 

 

『資本主義の本質について』p.52~54

 

 

トランジスタやファックス、電卓、ノート型パソコン、携帯電話、電子レンジからインスタントコーヒー、テトラパック、ボールパンなどのうち合成ゴムだけが、社会主義国であるソ連で開発されている。111件のリストのうち、社会主義国でのイノベーションは、その1件だけなのである。

 

シュンペーターなどはイノベーションを経済の原動力と考えたが、経済学者の多くが「アニマル・スピリッツ」ということをテーマに考えている。

ジョン・メイナード・ケインズは1936年の著作『雇用・利子および貨幣の一般理論』で、そのことを「アニマル・スピリッツ」と呼んだ。

 

投機による不安定性のほかにも、人間性の特質にもとづく不安定性、すなわち、われわれの積極的活動の大部分は、道徳的なものであれ、快楽的なものであれ、あるいは経済的なものであれ、とにかく数学的期待値のごときに依存するよりは、むしろおのずと湧きあがる楽観に左右されるという事実に起因する不安定性がある。何日も経たなければ結果が出ないことでも積極的になそうとする、その決意のおそらく大部分は、ひとえに血気(アニマル・スピリッツ)と呼ばれる、不活動よりは活動に駆り立てる人間本来の衝動の結果として行われるのであって、数量化された利得に数量化された確率を掛けた加重平均の結果として行われるのではない。

『雇用・利子および貨幣の一般理論』

 

 


つまり、ヤーノシュは、ケインズが名付けた資本主義のアニマルスピリッツが、そういうイノベーションを生み出すことができると結論付けている。

 

111件のイノベーションのうち社会主義は1件だけだったことには、開発の速度も影響している。

 

 

『資本主義の本質について』p.56

 

発明やイノベーションの先行者としてもそうだが、ソ連の場合、追随する速度も遅い。

セロハンの追随には19年、ポリエチレンには25~29年かかっている。

この遅さは、あとで述べる社会主義経済の特質に起因している。

 

 

3.資本主義の本質としてのイノベーション

 

ヤーノシュは、資本主義経済と社会主義経済の特徴を抽出し、それらの特徴をこのようにまとめている。

 

【資本主義経済の特徴】

 

A 分権的創意性

ラリー・ペイジとセルゲイーブリンは特殊な革新的課題を解決するよう上司から命令を受けたわけではなかった。彼らは、上司から、革新的行動にかんして特別な方向で取り組む許可を求める必要もなかった。個々人、小企業の意思決定者、大企業の最高経営
責任者と言い換えるとシステム内部で機能する分離した存在こそが、自らしたいことを決定する。

B 巨額の報酬

 今日、ペイジとプリンは世界最大の金持ちに数えられる。所得分配の倫理的に難しいディレンマを分析することが本書の課題ではない。成果に「比して」報酬はどの程度であったのか。確かなことは次の点である。もっとも成功した革新は通常(常にというわけではないが、しばしば高い確率をもって)巨額の報酬をもたらす。報酬の範囲はかなり不均等に広がっている。この尺度の端にはビルーゲイツ、古い世代にはフォード一族やデュポン一族といった巨額の富の所有者を置くことができる。技術進歩を導く企業家は巨大な独占的レント〔超過利潤〕を手にする。独占的地位を作りだせるので、たとえ一時的であっても最初の人間になることに価値があるのだ。巨額の金銭的報酬は通常、威信、名誉、名声を伴う。

C 競争

 

 これは上記の点と分かちがたい。強くて、しばしば冷酷な競争が顧客を惹きつけるために生じている。より速くより成功するようなイノベーションは、目的を達成する排他的な手段ではなく、競争者に対して優位に立つために重要な手段である。

D 広範囲の実験

 インターネットの検索に適したツールを見つけようとした企業家は何百人、たぶん何千人もいたに違いない。グーグルの創設者ほどの大成功を収めた者はごく一握りにすぎないが、それなりに大・中・小の成功を収めたイノベーションを実現できた。そのうえに、やってみたが失敗に帰した多数、少なくともかなりの数の人間がいたに違いない。
事例以外に、これまで資本主義のあらゆる領域で不断に生じている大量のイノベーションの試みを、そしてそれが成功であれ失敗であれ、その試みが広範囲に分布していることを評価した者は誰もいない。この種の相当重要な活動の効果がわかる者でも、グーグル、マイクロソフト、テトラパック、ノキア、任天堂の物語のようなめったにない劇的な成功に匹敵するほどの試みの多くには、直感的にしか気づくことができない。多くの相当才能にあふれた人々は、次の理由でイノベーションに向けて動機づけられている。
すなわち、ごくわずかな可能性だが並外れた成功を約束されているからであり、それよりずっと可能性は高いが、どちらかと言えば控えめであっても一層重要な成功を実現するからである。失敗のリスクをとるからにはそれなりの理由がある。

 

E 投下を待つ資本準備、融資の柔軟性

 グーグルの二人の創立者は革新的な活動とその提供を開始するための金融資源を手にすることができた。成功を収めた研究者であり革新者であるアンディーベクトルシェイムが(彼もまた偶然富裕なビジネスマンになったのだが)、その過程のごく最初にポケットの小切手に手を伸ばし、一〇万ドル小切手にサインしたのだ。革新的な企業は革新者自身の資源だけで実現されることはめったにない。これには事例もあるのだが、外部の資源に頼るのは相当一般的であ杤。資源を見つける多様な形態には、銀行融資、ビジネス参入志向の投資家、あるいはとくに(イリスクでそして成功の場合には高報酬のプロジェクトに特化した「投資会社」が含まれる(Bygrave and Timmons1992)。
根本的に融通の利く資本がイノベーションを先駆的に導入し早急に拡散させるのに必要となり、それには結局失敗に帰す場合もあるが広範囲の実験が含まれる。

 

『資本主義の本質について』p.60~63

 

それに対して社会主義経済の特徴はこう述べている。

 

【社会主義経済の特徴】

 

A 集権化、官僚的命令と許可

 技術的イノベーションの計画は国家計画の一章を占める。中央計画局は当該製品の製造技術とともに、製品の構成と質にかんして実施すべき重要な変更点を設定する。それに続き、中央計画の数値が部門、下位部門、最終的に企業の計画に振り分けられる。
「命令経済」とは、ある製品をいつ新しい製品に置き換えるべきか、どのような古い機械・技術が新しいものに置き換えられるべきかについて、企業が詳細な指図を受け取ることを意味する。計画が最終的に承認される前に、企業管理者は新しい製品や新しい技術に適応する意思を示すことが認められている。すなわち、彼らはイノベーションの伝播過程に参加できるのだ。しかしながら、彼らは重要なイニシアチヴを行うに際し許可
を求めなければならない。一つの行動が大規模なものになる場合には、直属の上位機関でさえ自ら意思決定することができず、ヒエラルキーのさらなる上位者に承認を求めなければならない。一つのイニシアチブが広範囲になればなるほど、最終決定を求めて上位者に向かわなければならず、実際の行動に先立つ官僚的過程は長くなる。
 上記の状況とはまったく逆の事情になるが、資本主義において、イノベーションがきわめて有望な場合、最初の会社に拒絶されても、別の会社が喜んで応じるかもしれない。こうした結果は、分権化、私的所有、市場によって可能となる。中央集権化された社会主義経済においては革新的なアイディアは公式の経路で生じており、否定的な決定をいったん宣告されると、抗議は行われない。

B 報酬の欠如(あるいはごくわずかの報酬)


 もし上位機関がある工場における技術的イノベーションを成功とみなす場合、管理者とその同僚はボーナスを受け取るが、その額はせいぜい賃金一ヵ月ないし二ヵ月分である。

C 生産者と売り手に競争がない


 生産は高度に集中している。製品グループ全体を生産する場合に、多くの会社は独占的地位か、少なくとも(地域での)独占を享受している。慢性的に製品が不足する場合や、多くの生産者が並行して事業を行っている場合でさえ、独占的行動が生みだされる。社会主義システム特有の強固な特性である「不足経済」は、イノベーションの強力な原動力、顧客を惹きつけようと戦うインセンティブを麻痺させる(Konai 1971;1980;1992 11-12章)。生産者/売り手は新製品や改良された製品を提供することで買い手を惹きつけようとする必要はない。買い手はたとえ時代後れで品質の劣る製品であっても商店で手に入れるだけで幸せだった。
 慢性的不足によって動機づけられた発明行為の事例だってある。すなわち、材料や機械部品の欠落を代替する工夫に富んだ創造物がそれである(Laki 1984-1985)。しかしながら、これらの発明者の創造的な精神はシュンペーター的な意味で広範囲に拡散し営利的に成功したイノベーションではなヅ表2・Iは資本主義国ではなくソヴィエト連邦で最初に現れた唯一の革命的イノベーション、合成ゴムを含んでいる。発明家は長年にわたりこのテーマを研究し続け、工業への合成ゴムの採用は天然ゴム不足により必要に迫られた。

D 実験の厳格な制限

 資本主義下では、数百、数千にのぼる実を結ばないおよそ成果のない試みが可能であり、それは後に数百、数千のうち一つが計り知れない成功をもたらすためである。社会主義計画経済では、誰もがリスクを回避する傾向は強い。その結果、革命的な重要性を持つイノベーションの適用は多かれ少なかれ排除される。そうしたイノベーションはつねに暗中模索を意味するからであり、成功は必ずしも予測しうるものではないからである。追随者にかんしても、すばやく後を追う経済もあれば、遅々としてしか追わない経済もある。社会主義経済は、もっとも遅い集団に属する。彼らは既知の旧式の生産手続きを維持し、旧式の十分に試行された製品を生産している。新技術と新製品には指導部の計画を困難にする不確実な特性が多すぎるのである。

 

E 利用を待つ資本はなく、投資割り当ては厳格である

 中央計画局は資本形成に振り向けられる資源に困ることはない。総生産から分割される投資の比重は資本主義経済よりも一般的に高い。しかし、この巨額の投資は、事前に最後の一銭まで割り当てられている。さらに、多くの場合、過剰な割り当てが生じている。言い換えれば、すべてのプロジェクト計画を合成すると、計画を遂行するのに必要な量よりも資源の調達水準は大きくなることが明らかになる。割り当てられなかった資本が、優れたアイディアを持つ者を待っていることなどありえない。割り当て担当者はイノベーションに向けた提案を持って待機している企業家を探索したりしない。柔軟な資本市場など理解されることはない。代わりに、プロジェクトの活動に対し厳格で官僚的な規制が生じる。不確実な結果しかもたらさない活動に資本となる資源を振り向けることなど想像もできない。資金が無駄になりイノベーションが生じないかもしれないと事前に分かっているベンチャーに資金を要求する愚かな工業大臣も工場長も存在しないのである。

 

『資本主義の本質について』p.68~71

 

各経済の特徴を要約するとこういうことだ。

 

<資本主義経済>           <社会主義経済>

 ・分権的創意性            ・集権化、官僚的命令と許可

 ・巨額の報酬             ・報酬の欠如

 ・競争                ・生産者と売り手に競争がない

 ・広範囲の実験            ・実験の厳格な制限

 ・投下を待つ資本準備、融資の柔軟性  ・利用を待つ資本はなく、投資割り当ては厳格である

 

これは経済における市場の存在の違いが大きいだろう。

競争や投下資本の柔軟性などに影響している。

 

それと連動しているのが政治での国家体制と企業の組織構造だろう。

 

生産手段の国家所有や公的所有(自治体など)はどうしても集権的、官僚制の論理が優先する。

実験のやり方も広範囲に柔軟に行えるのか、厳格な制限があるかの違いになる。

 

これら経済の構成要素の違いがイノベーションの可能性を決定づけているのだ。

 

マルクスは資本主義システムを商品から分析し、その経済学を批判した。

そして、その批判は階級構造の転覆こそ問題を解決することだと結論づけた。

革命後に起きた現実は問題の解決にはならなかった。

そして体制は逆戻りした。

 

マルクスの分析、設定した仮説が間違っていたのだろうか?

それとも実験のやり方がまずかったのだろうか?

 

この問題を考えたい。

体制が逆戻りするなかで、資本主義の本質を問い直した経済学者もいる。

コルナイ・ヤーノシュをはじめとする東欧の経済を体験した経済学者だ。

マルクスがイギリスの労働者階級の状態を見て、資本主義システムを批判したように、東欧の労働者階級を見て、ヤーノシュは社会主義経済システムを批判している。

 

『資本論』を読むより、価値があると思うヤーノシュの本がある。

 

マルクスは哲学、政治学、経済学を刷新していった。

いや、そのように思える時代もあった。

もしマルクスが間違っていたとしたらそれは何だったのか?

最後にそれを考えたい。

 

 

1.社会主義経済システムはどうして生産力を伸ばせないのか?

 

1970~1990年頃までソ連、ハンガリー、ポーランドなど社会主義国は一人当たりGDPがほとんど増えていなかった。

これはどうしてなのか?

 

東欧の社会主義国では製品やサービスのイノベーションが生まれず、商品不足が恒常的だった。

それがどうしてなのかは別の回で解説するが、社会主義経済がそうなってしまうのは経験的にわかっている。


 

 

 

 

ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊した様々な要因があるが、政治的には共産党による一党独裁体制がある。ソ連だとノメンクラツゥーラという国家の特権階級の官僚の存在と共産党による任免の恣意性がある。

社会主義は生産手段の私的所有を廃し、階級をなくし不平等を無くすことを理想としていた。
しかし、実際は資本家階級が共産党の指導部とノメンクラツゥーラに入れ替わっただけであった。
たしかに、資本主義経済体制での貧富の差ほど極端なものではなかったので、経済的不平等は是正されたといえるかもしれない。

けれど経済成長はできなくなった。

 

最近、マルクス研究者の斎藤幸平などが脱成長を主張している。しかし、実際に社会主義国のほとんどが、脱成長を唱えなくても経済成長できていなかった。

斎藤幸平はその事実をどう考えているのだろうか?

いや、考えていないのかもしれない。

それは、日本共産党がマルクスの『資本論』をもとに未来社会を語るのに似ている。

その思考を陳腐だと切り捨てられないのは、柄谷行人なども同じようなことを言っているからだ。

近著『力と交換様式』のなかで、柄谷行人は、贈与と返礼の互酬の社会を、高次元で回復したものを「D」と呼び、その到来を予言している。

原始共産主義の高次元での実現ということだ。

 

知識人だけでなく故・坂本龍一もそのアイデアをリスペクトする曲を作ったりしている。

 

人間にとって、ユートピア的世界を夢想するのは仕方ないことなのだろう。

そのように人間の脳の思考様式ができているのだと思う。

 

ここではないどこか。

そういう世界がきっとあると信じている。

 

経済学を一通り批判した最後には、マルクスの「抽象的労働」概念の批判とその裏にある思想の批判、そしてこの人間の避けがたい「ユートピア思考」批判に戻ることになると思う。

 

 

2.体制移行直後に経済が後退するのはなぜか?

 

経済学批判は、けっして社会主義経済学の批判だけにとどまらない。

それは資本主義システムの新たな批判になるかもしれない。

 

その鍵のひとつが、1991年頃のソ連・東欧諸国の体制移行、つまり社会主義から雪崩のように資本主義システムに移行した数年間は経済が落ち込んでいることだ。

ここに、経済の需要と供給のバランスの問題、体制移行による産業構造の転換の問題がある。

その後、資本主義経済システムのなかで東欧諸国は急激な経済成長を遂げる。

物資は豊かになり、スーパーに商品が欠乏することが少なくなった。

 

体制移行前の経済、移行後の経済の停滞、ここに経済学の本質的な答えが潜んでいる。

 

 

 

 

上の図ではポーランドの成長の変化、ロシアの経済の後退とその後の成長が分かる。

これは、ほかの東欧諸国に共通のことなのだ。

 

 

 

こんなことが起きる法則がある。

これはなぜだろうか?

 

 

3.資本主義経済システムをどのようにコントロールできるのか?

 

人類は二度の世界大戦を経験した。

一度目のときには、マルクスの予言が違う形で実現した。

マルクスは社会体制の発展系として共産主義を描いていたが、レーニンが描いた帝国主義段階の資本主義の弱い環を破って後進国ロシアで革命が起きた。

しかし、その革命は周辺に波及しなかった。

というよりドイツを始め革命はことごとく弾圧された。

トロツキーが描いた永続革命、世界革命は起きなかった。

しかし、その後、民族主義的なイデオロギーに基づくファシズムが起き、二度目の世界大戦になった。

 

そのとき、需要の創出によって恐慌を避ける方法などを考えたケインズや、大戦後の経済復興を考えたマーシャルなどの経済学により、マルクス経済学を必要としなくなった。

一方で、社会主義国家のもとで軍事支出を最大限に創出できたソ連が東欧を支配し、その世界では別の経済学が支配した。

 

資本主義システムは、自由競争のもとで過当競争に悩まされる。

また、競争力のある企業が市場を独占する傾向も常にある。

そこで公共支出と独占や不正競争の法規制が時代に合わせて行われている。

資本主義システムはコントロールが必要な経済システムである。

 

資本主義の本質が何であり、どういうコントロールを行う必要があるのかを問う。

それは経済学の問題である。

 

4.マルクスはどこで間違ったのか?

 

これは難題だ。

ぼんやりと仮説的に思うのは、哲学の疎外論から経済学としての商品論に向かう当たりではないかと思う。

 

マルクスに最も不足していたのは、人間の欲望に関する哲学的、心理学的考察なのではないかと思う。

計画経済のアイデアを出したのはマルクスであるが、計画経済で人間の欲望をコントロールできると思ったのだろう。

生産手段の私的所有を廃するという経済的自由の放棄によって、結局、その経済を維持するために思想や表現の自由も奪うことになった。

マルクスには自由競争vs計画経済という安易な設計図しかなかった。

それは生産と消費を支える「欲望」について考えがあまりにも浅かったのだろう。

 

また、商品が交換されるメカニズムの裏にある倫理観に偏りがあったのではないかと思う。

マルクスは商品が交換される、価格が付けられる根拠を抽象的労働と考え、そこに投入される労働時間の問題を重視した。

労働時間が同じならそこに費やされる労働の価値、商品の価値も同じと考えた。

それはあまりにも現実を無視している。

マルクスにとって、「能力に応じて」の能力や「必要に応じて」の必要の欲望についてあまりにもナイーブだったのだろう。

 

また、最近現代貨幣理論で、貨幣を商品と考えることに異論が出されている。貨幣は商品ではなく、証文であると。

社会主義経済を批判的に振り返ると、市場と貨幣は経済システムのなかで重要なものだ。マルクスもMMTも間違っていると思うが、その分析も必要だろう。

さらに、マルクスが予言したように社会主義社会で国家は消滅するどころか、その兆しすら見せなかった。むしろ国家としては強大になった。

国家、市場、貨幣。

マルクスは階級闘争の歴史として唯物史観を描いたが、それはただのあとづけの物語に過ぎなかったのではないか。

革命のための経済学、革命のための歴史学の創出だったのではないか。

 

今となってはマルクスがどこで間違ったのかを問うのはあまり意味がないのかもしれない。

 

社会主義を経験した経済学者は社会主義に批判的であるが、そうでない経済学者はむしろ資本主義に否定的であるとヤーノシュは言っている。

それは、国民も同じだろう。

社会主義を経験した国民は社会主義に批判的であるが、そうでない国民はむしろ資本主義に否定的である傾向ということだ。

 

マルクスの著書を読んで、ここではないどこかがあると思う人がいる。

そういうひとは、ここを決して悪くない場所だとは思わず、なんでもかんでも否定的に見える。

 

マルクス主義のことを語っているのに、それでは今の保守の政権党はいいのかという論点そらしを行う。そうするのがあたかも当然のことだと思っている。

 

まあ、そういう人たちは放っておくしかない。

 

経済学・哲学批判を始めよう。

 

今日から「しんぶん赤旗」で志位和夫議長を講師に迎えて行われた民青同盟主催の学生オンラインゼミが5回に分けて掲載されます。

 

 

 

 

簡単にいえば、今の社会を批判してマルクスの『資本論』分析から、『ゴータ綱領批判』や『ドイツイデオロギー』の共産主義ユートピアの世界を話す内容です。

これは先日のダイジェストでわかっています。

 

でもどうしてこういう子供だましの詭弁に頭の柔らかいと思われる若者が騙されてしまうのでしょうか?

それが不思議です。

 

けれど、今回はダイジェストと異なり、かなりその内容が詳しく書かれていますので、どこで騙されるのかを解説していきます。

 

1.現代資本主義社会の批判はカルト宗教でも同じ

 

まず、志位氏は今の社会のマイナス面から入ります。

 

日頃、誰もが不安に思っていることをそれは●●のせいだと断定するのは、オウム真理教などカルト宗教の手口でしたが、志位氏もそれによく似た話の展開です。

 

志位 資本主義というシステムのもとで「人間の自由」を阻むいろいろな害悪が生まれ、拡大しつつあることもまた事実だと思います。今日はその害悪について、貧困と格差の拡大、深刻化の一途をたどる気候危機――二つの大問題で考えていきたいと思います。

 

「人間の自由」を阻むのは、格差の拡大と気候危機なのだそうです。

 

志位 「報告書」は、「もうひとつの大きな勝者はグローバル企業」だと告発しています。2021~22年の世界の大企業の利益は、17~20年の平均に比べて、およそ3年で89%も増えたとあります。そして、このグローバル大企業の利益増の最大の恩恵にあずかったのは、超富裕層です。次のパネルを見てください(パネル2)。こう書いてあります。
 「世界の最も大きい10の企業のうち、7社には億万長者のCEOか億万長者が主要株主として名を連ねている。これらの企業の総資産は10兆2000億ドルである」
 巨大企業の利益増が、億万長者をますます富裕にしている、という告発です。
 これは2020年代に起こったことなのです。2020年代といったら、「世界的な(新型コロナ)パンデミック、戦争、生活費の危機、気候崩壊」(「報告書」)など、世界でも日本でも、多くの人々がかつてない困難な生活を強いられている時期です。そのときに、超富裕層とグローバル大企業は空前の繁栄を謳歌(おうか)している。
 「オックスファム」の「報告書」では、そのことが、労働者の賃金の押し下げ、とりわけ女性に低賃金と不安定雇用を押し付けていると告発しています。「オックスファム」は、多くの女性や少女が無償のケア労働を強いられていることを強く告発しています。

 

超富裕層の存在、これはよく聞くことです。

ジェフ・ベソスやザッカーバーグやトーマス・クックなどGAFAMSと呼ばれる巨大企業の創設者や経営者などは超富裕層で有名です。

ああ、自分もあんな起業家になりたいと思う人もいれば、とてもなれないと思うとそれが憎悪の対象ともなり得ます。

 

 

2.社会の自由の問題が階級的不平等の問題にすり替わる

 

志位 これが資本主義世界の現実です。個々人がいくら努力しても、この現実からのがれられないじゃないですか。これが「人間の自由」が保障されている社会といえるか。社会の大きな変革が求められているのではないでしょうか。これが一つの大問題です。

中山 資本家と労働者という対立はもう古いんじゃないかといわれることもあるんですが、現実にこういった資本家は存在するんですね。

志位 そうです。まさに巨大資本家は存在している。生きた形で。

 

あれ、たしか人間の自由がテーマでしたよね。

それが巨大資本家という憎悪の対象をつくるんですか?

それって経済格差の問題であって、人間の自由を抑圧しているって問題とは違いますよね。

それに経済システムと自由の話をするのなら資本家の話ではなく、資本家階級のことを話すべきですよね。

 

これは具体的な憎悪対象を植え付けるイスラム原理主義のやり方に似ています。

 

でも、どういうわけか、司会者はそういうツッコミも入れません。

 

 

3.経済発展による自然破壊、気候変動の話が資本主義システムが原因に転嫁される

 

次が気候変動です。

 

志位 昨年、2023年は観測史上で最も熱い年になりました。世界気象機関(WMO)は、今年(24年)1月、23年の世界の平均気温は、産業革命前に比べて1・45度上昇したと発表しました。気候変動抑制に関する国際的協定――「パリ協定」(2015年)では1・5度未満に抑えることを「目指す」と取り決めています。すでにその寸前まできているのです。

 科学者たちが一番警戒していることの一つは、気温上昇がある一点――ティッピング・ポイント(転換点)を超えますと、地球全体の環境が急激に、かつ大規模に、不可逆的な変化におちいり、人間の力ではコントロールできなくなってしまうことです。

(略)

 これは16の現象のうち、ティッピング・ポイントを超える危険が差し迫っている四つの現象――「グリーンランド氷床融解」、「西部南極氷床融解」、「低緯度のサンゴ礁消滅」、「北方永久凍土の急速融解」を図にしたものです。どれも、現在の1・45度という気温上昇は、ティッピング・ポイントの「可能性」がある0・8度から1・0度を超えてしまっています。「可能性が高い」とされる1・5度に近づいています。これらの現象は、非常に危険な状態に陥っているといわれています。

(略)

 

 これはすべてが、資本主義が引き起こした社会的大災害です。人類の生存という、根本的な「人間の自由」にかかわる問題が深刻に脅かされているのです。私たちは、これは、資本主義の枠内でも最大の知恵と力を総結集して緊急の対応を行うことを強く求めてたたかっていきますが、同時に資本主義というシステムを続けていいのかということが、気候危機では問われていると思うんです。

中山 そうですね。とくにここに集まっている青年にとっては何十年も生きる人生の中でこんなことが起きたら死活問題だと思います。

志位 本当にそうだと思います。若い人たちにとっては、文字通り未来を奪われてしまうということになります。

 

あれれ、CO2って社会主義の中国が一番排出していませんでしたっけ?

 

2017年度におけるCO2の総排出量は約328億t-CO2で、排出量が多い順に中国の28.2%、アメリカ14.5%、インド6.6%、ロシア4.7%、日本3.4%、ドイツ2.2%となっています。

 

自然環境破壊、気候変動問題は資本主義システムというより、経済発展と各国の環境規制の遅れの問題ですよね。

すべて資本主義システムの問題だというのは詭弁でしょう。

 

それと、人間の自由の問題からは大きく逸れているように思いますが。

 

 

4.社会主義の光の部分だけを見せるトンネル効果

 

その次が社会主義のプラス面の強調です。

というよりマイナス面をまったく説明しないことです。

これはイスラム原理主義者にイスラムの聖戦や虐げられた歴史だけを教えて、自爆テロを行う信者を作るやり方に類似です。

 

志位 最近のうれしいニュースを、みなさんに紹介したいと思います。オーストリア共産党の躍進が、この間起こって、世界的な注目を集めているんです。オーストリア共産党は、2021年9月、オーストリア第2の都市・グラーツの市議会議員選挙で29%を獲得して市議会第1党となり、市長の座を獲得しました。つづいて、今年(24年)の3月、音楽の都・ザルツブルク――モーツァルトが生まれた都市で、私はモーツァルトが大好きで、一回ザルツブルク音楽祭に行ってみたいと思っているんですが――、ザルツブルクの市議会議員選挙で23%を獲得して、第2党となり、市長の決選投票では35歳の共産党員候補が37・5%を獲得し、副市長に選ばれました。

 ザルツブルクでは、現政権による不動産投機の優遇政策のもとで、オーストリアの中で最も家賃が高い。他の都市に人口が流れていってしまう事態も起こっているもとで、オーストリア共産党が、「住まいは人権」を一貫して訴えてきたことが躍進につながったということです。

 2022年11月、日本共産党の緒方靖夫副委員長を団長とする代表団が、欧州各国を歴訪したさいに、オーストリアも訪問し、オーストリア共産党の幹部と突っ込んだ懇談をして、交流を強化していこうということで一致しました。そこでお話を聞きますと、ずいぶんいろいろな努力をしている。一つ目に、オーストリア共産党は、過去に、ソ連追随の姿勢をとったことで国民の支持を失ってしまったという歴史があるのですが、その誤りを克服して自主独立の路線を確立した。二つ目に、党の組織のあり方として、民主と集中という考え方を堅持して、みんなで団結して頑張る党として前進している。三つ目に、オーストリアでもずいぶん反共攻撃が厳しいのですが、そういうなかでも「共産党」という党名は変えない。これを堅持して、共産党だからこそ、未来社会への見通しを持ちながら働く人の利益を守れるんだという観点を前面に押し出しているとのことでした。

 

ちょっと待ってください。

東欧では社会主義の国はなくなりましたよね。

スーパーでは商品が欠乏し、思想は統制されるそういう社会にNOと市民が言ったんじゃなかったですか?

それにオーストリアの国会で共産党の議席はゼロですよね。

ザルツブルクだけのニュースをあたかも世界のトップニュースのように説明する。

これは詐欺師のやり方なんじゃないでしょうか?

カルト問題では、あるところにだけ光を当て、あとはトンネルのように闇の中にするマインド・コントロール手法が「トンネル効果」と呼ばれたりします。

 

社会主義の問題では、崩壊理由の脈絡でこそ、人間の自由と抑圧について語るべきなんじゃないでしょうか?

(フリーダ・カルロ博物館)

 

3.ノルウェー 1935年6月~

 

1935年の6月にトロツキーはノルウェーに渡るが、そこでさんざんな目にあう。

 

 

 八月二十八日、トロツキーはノルウェーのナチ党がクニューセン家に押し入った事件の証人として、エルヴィンーヴォルフと一緒にオスロへ出向いた。ところが、ファシストたちにたいする追及は、トロツキーへの訊問にかたちを変えた。トロツキーは証人から被告へと立場が一変したのである。その日の午後、私がクニューセン家の居間で新聞記者との電話を終えて、受話器をかけた途端、ノルウェーの警官が二人、いきなり部屋に入って来て、私を戸外へ連れ出した。家の前にはトロツキーをオスロから連れて来た車が停っていて、何人かの警官がいた。トロツキーがその車から下りて来た。私たちはことばを交すこともできなかった。ヴォルフを乗せて来たもう一台の車に私は押しこめられた。一人の警官が急ぎ足で家の中に取って返して、若干の私物の入っている私の旅行鞄を持って来ると、私たちの車はオスロへむかって動き出した。
この間、警官からは一言の説明もなかった。エルヴィンと私はオスロの中央警察署へ連れて行かれ、ノルウェーから自発的に立ち去るという供述書に署名することを要求された。警察側はドイツ語で話し、「自発的」にはfreiwilligというドイツ語が使われていた。これを拒めばドイツへ、つまりヒトラーのドイツへ追放するという。私たちは署名を拒否した。ヴォルフはいくらかの金を身につけていた。私は全くの文なしだった。監房で、彼は私に紙幣を一枚渡してくれ、それを私は靴下の中に忍ばせた。このあと自分たちは一体どうなるのか、トロツキーの身に何が起ったのか、私たちには皆目分らなかった。一夜明けると、何の説明もなしに、両側を二人の警官に挟まれて、私たちは汽車に乗せられた。その二人の警官はスウェーデンとの国境で私たちを二人のスウェーデンの警官に引き渡し、更にその二人はデンマークまで同行して、私たちをデンマークの警官に引き渡した。今度は二人どころか、デンマークの六人の警官に監視されながら、コペンハーゲンに着いたのは八月三十日だった。依然として自分たちの行先は分らず、外の世界がどうなっているのかも分らない。コペンハーゲン駅では警察の高官が非常に丁寧な口調で、それではホテルへ御案内しましょうと言った。両側を警官に挟まれて車に乗りこみ、車は全速力で並木道を疾走して一つの建物に入った。「ホテル」というのは監獄だった。それも重罪人のための監獄だったのである。その夜、私たちはべつべつの監房に入れられた。監房は壁に作り付けの寝板と毛布が一枚あるだけで、あとは何の設備もなかった。夜間は一切の衣類と所持品を取り上げられ、ハンカチ一枚すら残されなかった。次の日、依然何の説明もなしに監獄から引き出され、波止場まで連れて行かれて、私たちはアルガルヴェ号という小さなぼろ船に乗せられた。船は即刻、錨を揚げた。船内には警官の姿はなく、船長は誠意のある人物だった。この小さな貨物船はモロッコヘコプラ油を積みに行くのだが、途中アンヴェルスに寄港するので、そこで下船するのがよかろうという。暫くして、船が沖へ出てから、トロツキーとナターリヤがノルウェー政府によって間もなく拘禁されるというニュースを、私たちはラジオで聞いた。

 

『亡命者トロツキー』p.155~156

 

 

 九月二日、トロツキーとナターリヤは、ノルウェー政府によって、オスロの南西三十六キロのストルサン村に近いスンビュという部落に拘禁された。二人が寝起きしたのは小さな家の二階で、一階には二十人ほどの警官が入っていた。トロツキーは訪問客と逢うこともできず、例外的にノルウェーの弁護士は何度か面会できたが、パリの弁護士ジェラールーロザンタールは一度しか訪問を許されなかった。文通は厳しい監視を受けた。トロツキーが書いた手紙は非常に遅れて宛先に届くか、もしくは宛先に届かずに返送された。トロツキー宛の手紙は短いメッセージが稀に届けられるだけだった。

 

『亡命者トロツキー』p.156

 

この頃、ジノヴィエフとカーメネフはモスクワ裁判にかけられていた。

ジノヴィエフ・カーメネフ裁判は捏造であったが、エジュールとトロツキーの息子のリョーヴァがその反論書を作成した。

この時モスクワ裁判に対する調査委員会がパリで結成された。

その委員会にアンドレ・ブルトンも出席していた。

 

(アンドレ・ブルトン)

 

そのブルトンは、メキシコでトロツキーと会うことになる。

 

トロツキーはノルウェーでは散々な目にあったが、大著『裏切られた革命』はここで脱稿している。

 

『裏切られた革命』はこう結ばれている。

 

 今日、十月革命の運命はかつてなくヨーロッパと全世界の運命と結ばれている。今ソヴェト連邦の問題はイベリア半島、フランス、ベルギーで決せられっつある。今日、マドリード近郊で内戦がつづいているが、本書が世に出る頃までには事態はたぶん、ずっと明瞭になっているであろう。ソヴェト官僚が「人民戦線」なる背信的な政策によってスペインやフランスでの反動の勝利を保障する-コミンテルンはその方向でやれることはなんでもやっている-ことに成功するとしたら、ソヴェト連邦は破滅の淵に立だされることになるであろうし、官僚にたいする労働者の蜂起よりもむしろブルジョア反革命のほうが日程にのぼることであろう。しかし改良主義的指導者と「共産主義的」指導者との合同サボタージュにもかかわらず、西ヨーロッパのプロレタリアートが権力への道を切り開くならば、ソ連の歴史にも新たな一章が開かれるであろう。ヨーロッパの革命の最初の勝利は電流のようにソ連の大衆をつらぬき、かれらの体をまっすぐにさせ、独立の精神をふるいただせ、一九〇五年と一九一七年の伝統をめざめさせ、ボナパルティズム官僚の陣地を掘りくずすであろう。そしてそれは十月革命が第三インターナショナルにたいしてもった意義に劣らない意義を第四インターナショナルにたいしてもつことであろう。初の労働者国家はこの道でのみ社会主義の未来をもつものとして救われるであろう。

 

『裏切られた革命』p.360~361

 

 

 

「ヨーロッパの革命の最初の勝利は電流のようにソ連の大衆をつらぬき、かれらの体をまっすぐにさせ、独立の精神をふるいただせ、一九〇五年と一九一七年の伝統をめざめさせ、ボナパルティズム官僚の陣地を掘りくずすであろう。そしてそれは十月革命が第三インターナショナルにたいしてもった意義に劣らない意義を第四インターナショナルにたいしてもつことであろう。初の労働者国家はこの道でのみ社会主義の未来をもつものとして救われるであろう」

 

トロツキーは裏切られた革命に対して、新たな革命を呼び掛けていたのだ。

ペトログラードで冬宮を包囲したかつての熱さで。

 

 

4.コヨアカン 1937年1月~

 

ノルウェーでは散々だったが、メキシコに来たトロツキーは元気を取り戻す。

 

 

トロツキーがメキシコシティのコヨアカン地区で住んでいた場所は、最初に住んだ通称「青い家」はフリーダ・カーロ博物館、引っ越したところはトロツキー博物館として残っている。

 

 

最初に住んだ「青い家」は、芸術家のフリーダ・カーロの家だった。

 

フリーダ・カーロ6歳の時にポリオに罹り、以来カーロの右脚は左脚より細く短いままになった。彼女のトレードマークでもある民族衣装のロングスカートは、メキシコ人としての誇りを表す単なるファッションステートメントではなく、変形した脚を隠すためのものでもあった。

1925年には、カーロと当時のボーイフレンドが乗っていたバスが路面電車と衝突した。

この事故で、カーロは背骨や鎖骨、骨盤、右脚を骨折し、内臓にも重傷を負った。彼女は、それ以降もずっとコルセットをつけなければならなくなった。さらにはこの事故による外傷が原因で、その人生において何度も流産や治療的な中絶をくり返すことになった。

波乱に富んだカーロの人生だ。

大事故によるケガから回復して数年後、カーロは芸術家として名を成していディエゴ・リベラと結婚した。リベラはカーロより20歳以上年上だった。二人は一度離婚するが、すぐにまた再婚する。

それぞれ浮気をし、時には同じ相手と度々関係を持った。

 

カーロは独特の画風で有名になっていく。

 

 

青い家に住むようになったトロツキーとカーロの間にやがて恋が芽生え、短いアバンチュールの時期があった。

 

その頃、アンドレブルトンがメキシコに講演旅行に来ることになった。

それまでトロツキーはブルトンの作品を読んだことがなく、慌てて、『シュルレアリスト宣言』『ナジャ』などの作品を取り寄せて読んだ。

最初の出会いから会話は刺激的だった。

 

トロツキーは続けて言った。
「あなたはフロイトを援用なさるけれども、それはちょっと逆ではないだろうか。フロイトは意識のなかに潜在意識を浮びあがらせる。あなたは無意識によって意識の息の根を止めたいのではありませんか」。
ブルトンは「いや、そんなことはありません」と答え、それから不可避的な質問を発した。「フロイトはマルクスと両立するものでしょうか」。
トロツキーは答えた。「さあ、それは……そのあたりの問題はマルクスも考究しなかった。フロイトにとって社会とは一つの絶対だけれども、『幻想の未来』では少しばかり様子が違って、社会とは抽象化された強制の一形式ということになっています。その社会を徹底的に分析する必要がある」。
 ナターリヤがお茶をいれ、会話の緊張が少し緩んだ。話題は芸術と政治の関係ということに転じた。トロツキーは、スターリン主義的な組織に対抗するために、革命的な芸術家や作家の国際的組織の創設を提唱した。これは明らかに、ブルトンのメキシコ訪問を知ったときからトロツキーが考えていた計画だった。宣言文の話になり、ブルトンはその草稿を書くことを引き受けると明言した。

 

『亡命者トロツキー』p.212

 

ここでも、トロツキーはフロイトに触れている。

潜在意識とシュールレアリズムへの関心が高いのだろう。

 

(中央はレフ・トロツキー、右から二人目がアンドレ・ブルトン)

 

そうして、トロツキーとブルトンの合作による革命芸術のための宣言が出来上がった。

 

現代の世界では、知的創造を可能にする条件の破壊がますます広がっていることを認識しなければなりません。そこからは必然的に、芸術作品だけでなく、特別 に「芸術的」な人格の劣化がますます明らかになる。ヒトラーの政権は、自由へのわずかな共感を表現した芸術家を、たとえ表面的であっても、ドイツから排除 してしまったため、ペンや筆を取ることに同意している人々を、最悪の美学的慣習に従って、命令によって政権を賛美することを任務とする、政権の家政婦の地 位に貶めている。報道によれば、テルミドール反応が今まさにクライマックスに達しているソビエト連邦でも同じだという。

言うまでもなく、私たちは、「ファシズムでも共産主義でもない!」という現在の流行のキャッチフレーズには同調しません。この言葉は、「民主主義」の過去 のぼろぼろの残骸にしがみつく、保守的でおびえた哲学者の気質に合っています。既製のモデルのバリエーションを演じることに満足するのではなく、むしろ人 間の、そしてその時代の人間の内的なニーズを表現することに固執する真の芸術、真の芸術は、革命的ではなく、社会の完全で過激な再構築を目指すことができ ない。これは、知的創造物をそれを縛っている鎖から解放し、全人類が、過去に孤立した天才だけが達成した高みに自分自身を引き上げることを可能にするため だけに、しなければならないことです。我々は、社会革命のみが新しい文化のための道を一掃することができると認識している。しかし、もし我々が、現在ソ連 を支配している官僚機構とのあらゆる連帯を拒否するならば、それはまさに我々の目には、官僚機構が共産主義ではなく、その最も危険な敵を象徴していると映 るからである。

・・・・

このアピールの目的は、すべての革命的な作家や芸術家が、自分の芸術によって革命に貢献し、その芸術自体の自由を革命の簒奪者から守るために、再結集する ための共通の基盤を見つけることです。私たちは、最も多様な種類の美学的、哲学的、政治的傾向が、ここに共通の基盤を見出すことができると信じている。マ ルクス主義者は、無政府主義者と一緒にここで行進することができます。ただし、両方の党が、ジョセフ・スターリンとその子分であるガルシア・オリバーに代 表される反動的な警察のパトロール精神を妥協せずに拒否する場合に限ります。

我々は、今日、何千何万という孤立した思想家や芸術家が世界中に散らばっており、彼らの声がよく訓練された嘘つきたちの大合唱によってかき消されているこ とをよく知っている。何百もの小さな地方誌が、新しい道を求めて若い力を集めようとしていますが、補助金は出ません。芸術におけるあらゆる進歩的な傾向 は、ファシズムによって「退化した」ものとして破壊される。あらゆる自由な創造は、スターリン主義者によって「ファシスト」と呼ばれる。独立した革命的な 芸術は、今、反動的な迫害に対抗する闘いのために、その力を結集しなければならない。それは、存在する権利を声高に宣言しなければならない。このような力 の結集が、私たちが今、必要だと考えている「独立革命芸術国際連盟」の目的である。

 

それは、ソ連で進む芸術の抑圧とは正反対の芸術家の創造的な革命的な活動を讃える宣言だった。

 

そんな日々も長くは続かなかった。

1940年8月20日、トロツキーはスターリンが送った刺客に暗殺された。

秘書の恋人になりすましたカナダ人ラモン・メルカデルによってピッケルで後頭部を打ち砕かれた。

 

 

(トロツキーが殺害された場所)

 

殺害現場であるトロツキーの自宅は、1990年にトロツキーの死後50年を機に博物館として公開された。

敷地の中央にあるトロツキーが妻と過ごした建物は、当時のまま保存されており、トロツキーの日記は殺害された日のページが開かれた状態で置かれている。

庭園には旧ソ連の国旗にも描かれたハンマーと鎌のマークが彫られたトロツキーの墓石がある。他の建物にはトロツキーの写真が展示されている。

 

 

トロツキーは1917年に10月革命をレーニンとともに成就した。

自身はレーニンを敬愛し、その後継者を自認していた。

スターリンによる一国社会主義建設と官僚主義的な国家を裏切られた革命と名付けた。

亡命週に第四インターナショナルを結成し、さらなる世界革命を目指していた。

 

トロツキーの亡命はトルコのプリンキポから始まり、フランス、ノルウェーを経て、メキシコのコヨアカンに行き着いた。

祖国を追放されたトロツキーは亡命者となり彷徨った。

トロツキーが目指したプロレタリア革命は、ソ連では1991年に瓦解した。

トロツキーがぺトログラードで包囲した宮殿の熱気は歴史の中にだけに残っている。

マルクスの描いた粗いビジョンをトロツキーの手によって初めて実現した国家に見えただろう。

 

それは、まぼろしだったのか。

ただ、トロツキーが残した魂は今もどこかを彷徨っているように思える。

 

< 完 >

 

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1.プリンキポ 1929年1月~

 

トロツキーは1929年初めにロシアを追放された後、トルコ、フランス、ノルウェー、メキシコを彷徨った。

どうして場所を移したのかは、移住しようとした政府にことごとく追い出されたからだ。

 

最初に亡命したのはトルコのプリンキポ島だった。

 

 

イスタンブールの南東の方にあるプリンセス諸島のひとつの島だ。

欧州最大の木造建築物、ビュユカダ ギリシャ正教孤児院という建物がこの島にあるらしい。

 

(欧州最大の木造建築物、ギリシャ正教孤児院)

 

トロツキーは、二度目の妻ナターリャと息子のリョーヴァを伴ってこの島に着いた。

1930年には前妻との長女ジーナとその息子のセーヴァもプリンキポに来た。翌年リョーヴァは技術者になるため、娘のジーナは精神科の治療を受けるためにそれぞれベルリンへ旅立った。

 

『亡命者トロツキー』の著者ジャン・ヴァン・エジュノールは、トロツキーの秘書兼ボディーガードとして1932年の10月にプリンキポに来た。

 

 

エジュノールはそのときまだ20歳だった。

それから彼は7年間トロツキーと寝食を共にすることとなる。

 

 さて、この家に入った私は共同生活に急速に溶けこんだ。私が第一に適応しなければならなかった重要な活動といえば、それは釣である。庭の下の専用船着場には二艘の釣舟がつないであり、どちらも十六フィートほどの大きさだった。片方の舟は船外機を備えていた。ギリシヤ人の漁夫で(ラランボスという名の純朴な青年が舟や釣道具の面倒を見てくれた。私たちが出かけるのはいつも午前四時半頃だった。あたりはまだ真っ暗である。トロツキーは元気な足どりで船着場への小径を下りて行く。ごく稀には、ナターリヤもこの早朝の釣に加わることがあった。私たち秘書は一人あるいは二人が必ず同行することになっていた。他にはトルコ人の警官が一人付き添った。下の船着場では、(ラランボスがすでに用意万端整えていて、私たちはすぐ出発する。まもなく空は薄紫に染まり始める。海釣というのはかなり忙しい、時には体力を消耗さぜるゲームであって、釣竿や網の使い方は季節や魚の種類によって異なり、その点は主人顔の(ラランボスが采配を振るのだった。当時のマルマラ海は非常に魚が豊富で、私たちはいつもたくさんの魚を持ち帰った。一番多かったのは比売知と、私たちが「パラムート」と呼んだ非常に大きな魚で、鰹が一種であるこの魚は形や色は鯖に似ているが、鯖よりはよほど大きい。他にもいろいろな魚が捕れた。食事には魚料理が出ることが多かったが、それでも私たちが持ち帰った獲物は少しも減らなかった。残った魚はプリンキポの病院にお裾分けした。

 

『亡命者トロツキー』p.23~24

 

 

トルコの離島での生活は一見、気楽なように思えるが、常に護衛がいないといけないし、釣りにもトルコ警察が同行するというのもなんともものものしい感じだ。

トロツキーは亡命中に著書の執筆などもおこなっているが、プリンキポに来た時点ですでに30余りのトロツキストのグループが世界にできていたようだ。しかし、それらのほとんどがさらに二つか三つの分派に分かれ、イデオロギー面と組織面で激しく争っていたらしい。トロツキーはそれらのグループに助言などの手紙を書いたようだ。

 

プリンキポに亡命している最中にトロツキーはデンマークのコペンハーゲンでの講演旅行に出かけている。

歴史に残る講演だ。

 

 人類学、生物学、生理学、心理学はすでに山のような研究材料を蓄積しており、人間の前に、自己自身を肉体的・精神的に完成の域にまで高めいっそう発展させるという課題を全面的に提起している。精神分析は、人間の「心」と詩的に呼ばれているあの井戸にかぶせられていた覆いを、ジークムントーフロイトの天才的な手でもって上に持ち上げた。それによってわかったことは、われわれの意識的な思考が、目に見えない精神諸力の作用の一部にすぎないということである。学者のダイバーは海の底に濳って、そこに生息する神秘的な魚の写真を撮る。人間の思考は、それ自身の心的井戸の底に濳って、精神の最も神秘的な推進力を解明し、それを理性と意志に従わせなければならない。
 自らの社会の無政府的諸力を制御するようになった人間は、今度は、化学者の乳鉢とレトルトでもって自分自身の加工に取りかかるだろう。人類ははじめて自分自身を原材料と、あるいはせいぜい肉体的ないし精神的な半加工品とみなすようになる。矛盾に満ち、調和の欠いた現在の人間は、より高度でより幸福な新しい種へと成長していくだろう。この意味でも、社会主義は必然性の王国から自由の王国への飛躍を意味するのだ。(満場の拍手。聴衆の一部から「インターナショナル」の歌)

 

『ロシア革命とは何か』p.261~262

 

 

 

 

ジークムント・フロイトで講演を結ぶというのはトロツキーらしいのかもしれない。

 

「われわれの意識的な思考が、目に見えない精神諸力の作用の一部にすぎないということである。学者のダイバーは海の底に濳って、そこに生息する神秘的な魚の写真を撮る。人間の思考は、それ自身の心的井戸の底に濳って、精神の最も神秘的な推進力を解明し、それを理性と意志に従わせなければならない」

 

トロツキーは11年にわたる亡命中にアンドレ・ブルトンとも交流をもっている。

無意識への関心、シュールレアリズムへの興味はトロツキーの思考の独創性とも関係があるのかもしれない。

 

ただ、トロツキーはコペンハーゲンに単なる講演旅行の目的で行っただけではなかった。

 

 トロツキーがデンマークの学生たちの招きに応じたのは、それが自分の思想を自分の肉声で擁護し、同時に比較的多数の同志たちと顔を合せるための絶好の機会だったからであり、そしてまた西ヨーロッパのどこかの国へ居を移す可能性について考えていたからでもあった。だが、永久滞在、あるいはせめて長期滞在のビザなりと手に入れるための、デンマーク当局にたいする密かな交渉は失敗に終った。他のどの国も新たな居住地を提供してはくれないので、プリンキポヘ戻るしかない。フランス政府はトロツキーがパリに短期間滞在することさえ許可しなかった。十二月六日、ダンケルクから午前十時にパリの北駅に着いたトロツキーは、リョン駅発十一時十分のマルセーユ行きの列車に乗らなければならなかった。

 

『亡命者トロツキー』p.58~59

 

ソ連を追われた亡命者・トロツキーを歓迎する国はどこにもなかったのだ。

 

プリンキポでの亡命中にトロツキーは娘のジーナを亡くしている。

フランスで精神科の治療を受けていたところだった。

自殺だった。

 

スターリンは1932年に二人目の妻を自殺で失っている。

奇しくも同じ頃にだった。

歴史の波のなかで格闘した二人の家族にとって、私生活は波の中に飲まれていたのかもしれない。

 

この頃、ドイツではヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命した。

ファシズムが世界を覆い始めていた。

 

 トロツキーの反応は素早かった。三月十四日に彼は「ドイツープロレタリアートの悲劇」と題する論文を書き上げた。この論文の副題は「ドイツの労働者は再び立ちあがるだろう、スターリニズムを許すな!」だった。ここでもう一度思い出さなければならないのは、この頃までトロツキ-が公認の党組織の改革を主張しつづけてきたという事実である。反対派は明らかに閉め出されていたとはいえ、あくまでも第三インターナショナルの枠内での反対派活動ということが、トロツキズム運動の有り様だった。トロツキストの組織の周辺のあちこちには、新しいインターナショナルについて語る小グループや個人がいなかったわけではないが、トロツキーは終始一貫そのような考えをきっぱりと拒んできた。従って改革という方針を放棄することは明らかに過去との断絶を意味する。それ以前のトロツキストーグループの日常活動はすべて、公認の党組織のメンバーに自分たちの考えを伝えることに向けられていたのだから。それにしても方針の変更はいくつかの段階を経て行われた。
・・・・
コミンテルンの四月の決議の少しあとで、トロツキーはプリンキポでの話し合いの席上、こう言った。「四月以降、われわれはすべての国の共産党の改革に賛成であり、ただドイツでだけは新党の創設が必要であるという立場に立ってきた。今われわれは対称的な立場に立つことができる。つまり、すべての国において新党が必要であり、ただソビエトでだけはボリシェヴィキ党の改革に賛成である、という立場だ」。この立場は文章化されたことは一度もなかった。リョーヴァヘの手紙には書かれたような気もするが、それすら確かではない。いずれにせよ、この立場はすみやか
に放棄された。
 一九三三年七月十五日、トロツキーはG・グーロフという筆名で「新たに共産党と共産主義インターナショナルを建設する必要がある」と題した論文を、各国のトロツキストーグループに宛てて書いた。この論文では、スターリンに支配された党組織の全体について改革の方針は放棄された。この方針は今や「ユートピア的かつ反動的」なものと化したのだ、と論文は主張している。

 

『亡命者トロツキー』p.71~73

 

トロツキーはヒトラーのファシズムの脅威を感じ取った。

そしてドイツ共産党がその対応を間違えたこと、それは第三インターナショナル(コミンテルン)の問題であると判断した。

それで別組織をつくる決意をしたのだ。

 

 

2.フランス 1933年7月~

 

1933年7月、トロツキーはプリンキポを離れ、フランスのマルセーユ経由でサン=パレに移る。

 

 

サン=パレはボルドーの南西に位置する都市だ。

さらに3か月後、トロツキー一行は、パリに比較的近いバルビゾンに住むようになる。

 

 

バルビゾンの通りを歩いているときに、エジュールはトロツキーと『ロシア革命史』の最終稿で印刷ミスがあったことを話している。しかし、トロツキーのなかでこの『ロシア革命史』は最も気に入っているようだ。

パリの近くで15年前のロシア革命のことを話すトロツキーはどんな気持ちだったのだろうか。

 

1917年10月のロシアは戦争から革命への転換点を迎えていた。

首都ペトログラードでは、宮殿を革命勢力が包囲していた。

 

隣接する通りや河岸通りから大勢の人々が、いままで何百という電灯が輝いていた宮殿がいっきょに夕闇の中に沈んでしまったのを眼にした。目撃者の中には政府の味方もいた。ケーレンスキーの仲間のひとりであるレヂェメーイスチェルはつぎのように記している。「冬宮をのみこんだ闇は、なにかの謎をつきつけているようであった。」味方は、その譴を解くいかなる措置もとろうとしなかった。その措置をとる可能性も大きくはなかったと見なければならない。
 士官学校生は薪の山の背後に身を隠して、宮殿広場の隊列を緊張して見守り、敵が動くたびに小銃と機関銃の銃火を浴びせた。
相手側も同じように応じた。銃撃は夜にはますますはげしくなった。最初の死傷者が出た。しかし、犠牲者の数はわずかであった。

 

『ロシア革命史(五)』p.164~165

 

 

この武装蜂起でどれくらいの人が亡くなったのか?

そこに興味があった。

 

朝まで包囲を長引かせて、市内を緊張させたままにし、大会をいらだたせ、すべての成果に疑問符をつけてはならない。レーニンは怒りの書きつけを送る。軍事革命委員会からはひっきりなしの電話。ポドヴォーイスキーは食ってかかる。大衆を突撃に投入することはできる、希望者は充分にいる。しかし、どれだけ犠牲者が出るか? また大臣や土官学校生はどうなる? しかし、任務を最後まで貫徹する必要性はあまりに絶対的である。海軍の大砲に口を開かせるほかない。ペテロパウロ要塞から水兵が「アヴロ-ラ」に紙片を届ける-ただちに宮殿砲撃を開始すること。
これですべてが明白なのでは? 「アヴロ-ラ」の砲手に問題はない。しかし、指導者たちは依然として決断しない。再び回避する試みがなされる。フレローフスキーは記す。
「われわれは、状況が変化する可能性を本能的に感じて、さらに一五分待つことにした。」
本能とは、示威的な手段だけで問題が解決されるという根強い期待のことだと理解する必要がある。今度も「本能」は裏切らなかった。一五分過ぎると、新しい急使がとんできた、冬宮からまっすぐ。宮殿は占領された!
 宮殿は降伏したのではなくて、突撃によって1ただし、被包囲側の抵抗力が完全に尽きてしまった時点でのI占領されたのであった。一〇〇人の敵が、もはや秘密の通路からではなく、防御されている中庭を通って廊下に突入した。士気阻喪していた警備隊はそれをドゥ-マの代表団と取りちがえた。それでもまだそれらの敵を武装解除する暇はあった。士官学校生のあるグループは混乱にまぎれて逃げた。あとの士官学校生、少なくとも一部はまだ警備の任務を担当しつづけた。しかし、攻撃側と防衛側との間にある銃槍と銃火の障壁はついに壊れた。

いや、大臣たちはそんなことは命令しない。宮殿はどのみち占領されているではないか。流血の必要はない。力には屈服しなくてはならない。大臣たちは威厳を示しながら降服したいと思い、閣議に似せてテーブルにつく。防衛司令官は士官学校生の生命の保証をとりつけた上で-そうでなくともだれも命をとろうなどと思っていなかったのに-、もう冬宮を明け渡していた。政府の運命についてはアソトーノフはどんな話し合いに入ることも拒否した。

 

『ロシア革命史(五)』p.181~182

 

大きな流血なしに冬宮は明け渡されたのだ。

そして、翌日、全ロシア=ソヴィエト会議の第2回大会が開催され、「平和についての布告」と「土地についての布告」を発表し、レーニンを議長とする人民委員会議(内閣にあたる)を選び新政府を発足させた。

武装蜂起から臨時政府設置まで短期間で行われた。

 

トロツキーのフランス滞在は長く続かなかった。

フランス内を転々とした。

亡命者トロツキーはどこの国の政府も歓迎しないのだ。

それにコミンテルンに加盟している共産党は、トロツキーである。

フランスのトロツキストも行き場を失っていた。

 

 フランスのトロツキストーグループに社会党への加入をトロツキーが勧めたのは、サン=ピエール滞在中のことである。ヒトラーが政権を握って以来、トロツキストにたいするスターリンの中傷は日を追って狂暴化していた。フランス共産党や共産主義
青年同盟のメンバーはすでに反トロツキスト宣伝にすっかり毒されていて、彼らと話し合うことは全く不可能だった。話し合う間もあらばこそ、彼らは直ちに暴力を振うのである。社会党や社会主義青年同盟に加入すれば、トロツキストはそこに仕事のできる環境を見出せるのではないかというのが、トロツキーの考えだった。間もなく「フランス的方向転換」と呼ばれるようになったこの提案は、フランスのトロツキスト・グループのみならず、全世界のトロツキズム運動の内部に活溌な議論を巻きおこした。
自分たちはコミンテルンの一部を成す者であるとトロツキストたちが考えていたのは、それほど以前のことではない。今、社会党に加入するということは、多くのトロツキストにとって心理的衝撃だった。レーモン・モリニエとナヴィルはこの問題について、
モリニエは加入賛成、ナヴィルは反対と、はっきり対立した。この年の秋までには、フランスのトロツキストーグループの大半は社会党内に収まった。

 

『亡命者トロツキー』p.124~125

 

トロツキーは二年足らずでフランスを離れることになる。

 

かつて日本に「ザ・スターリン」というパンク・バンドがあったらしい。

 

Wikipediaによると、ボーカルの遠藤ミチロウを中心に1979年に結成された。

1980年9月5日にインディーズレーベルからリリースしたシングルは「電動こけし/肉」。

ちょっと危ない。
バンド名の由来はソ連の最高指導者、ヨシフ・スターリンからとっており、ボーカルの遠藤曰く「世界で最も嫌われている男の名前をつけたらすぐに覚えてもらえる」、「外国(東ヨーロッパ)に行くつもりだった」という理由とか。

 

1980年代でも世界で嫌われる名前としてスターリンは知られていたということだ。


1.ウエーバーのトロツキー批判

さて、前回に触れたマックス・ウェーバーが1918年6月にウィーンで行った講演のなかでトロツキーが出てくるところがある。

 

 

 ボリシェヴィキ政権は企業家を経営の最上層部に置き-ひとりかれらだけが専門知識をもっているからです-、かれらに莫大な補助金を支払っています。
 さらにこの政権は、旧体制以来の将校にふたたび将校給を支給するにいたりました。といいますのは、この政権は軍隊を必要とし、また、訓練を積んだ将校なしにはどうにもならない
ことを理解したからです。これらの将校が、他日部下をふたたび手中に収める場合に、かれらがこの知識分子による指導を引きつづき甘受するかどうかは、わたくしには疑問に思われます。もちろん現在では、かれらはそうせざるをえません。しかも、ついにボリシェヴィキ政権は、パン配給券の撤回によって、官僚制の一部に自分たちのために慟くよう強制したのであります。しかしながら、結局のところ、こんなやり方では国家機構や経済を管理できないのでありまして、今までのところでは、実験は非常に有望であるとはいえません。

 ただ驚嘆に値するのは、とにかくこの組織がこんなに長く機能しているという点です。それが可能なのは、ほかでもありません。この組織が、将軍ではないにしても、下士官の軍事的独裁だからであります。また、戦争に疲れた復員軍人が、土地に餓え、農業共産制に慣れた農民と提携し-あるいは、兵士が武力で村落を強奪し、そこで軍税を徴収し、かれらに干渉する者はだれであろうと射殺したからであります。それは、これまでになされた「プロレタリアートの独裁」の唯一の偉大な実験なのです。
 そして、ブレスト=リトフスクの講和が、われわれはこれらの人びとと真の和平を達成するのだという希望において、ドイツがわからきわめて誡実に行なわれたことは、率直に請け合うことができます。それは、いろいろな理由から行なわれました。ブルジョア社会の基礎のうえに利害関係者として立脚する人びとは、まあまあこの人びとに実験をやらせてみましょう、おそらく失敗するでしょう、そうなればいいみせしめですという意見だったので、それに賛成したのであります。われわれほかの者は、もしもこの実験が成功し、はたしてこの土壌のうえに文化が可能であることが判明するとしたならば、そうなれば-改宗してもよいという意見だったからこそ、賛成したのであります。

 それを妨げた人物は。トロツキー氏その人でした。かれは、この実験を自国内で行なうだけで満足しようとせず、また、もしもそれに成功すれば、それは世界中で社会主義に対する無類の宣伝を意味するのだという点に希望をおくことをもって満足しようとせず、いかにもロシア的な学者的虚栄心から。もっと多くを望み、演説戦やたとえば「平和」や「自治」といったことばを誤用することによって、ドイツに内乱を引き起こそうと希望したのであります。
 ところが、その際かれは、事情に通じていなかったために、ドイツ軍がすくなくとも三分の二まで農村から補充され、残りの六分の一は小市民から補充されており、労働者とかその他このような革命を企てようとする者に一撃を加えることが、かれらの真の楽しみであるかもしれないということを知らなかったのであります。
 信念にこりかたまった者と和を結ぶことはできません。講和は骨抜きにされるだけです。それが、最後通牒および無理なブレスト=リトフスクの講和のもつ意味でありました。すべての社会主義者はそれをぞ耻かねばなりません。そしてわたくしは、どんな立場の人であれ、それを-すくなくとも内面的に-洞察しないような人を知らないのであります。―

 

赤字はパトラとソクラによる

 

マックス・ウェーバー『社会主義』p.80~82

 

 

(マックス・ウェーバー)

 

ウェーバーはドイツとロシアの講和を賛成していた。

しかし、革命ロシアはそれを望まなかった。

ロシアで起きた革命を、ドイツにも内乱から革命へと画策した。それがトロツキーだったと言うのだ。

 

ここで、ブレスト=リトフスク講和条約とはどういうものだったのかおさらいをしておこう。

 

時は第一次世界大戦。

戦争の長期化で食糧不足に苦しむドイツと、1917年11月の十月革命でようやく革命政権を樹立したばかりのソヴィエト=ロシアは、それぞれに戦争継続が困難な事情があった。

両国は1917年11月に停戦交渉に入った。12月15日にはバルト海から黒海にいたる線で停戦協定が成立し、戦闘は中断された。そのうえで、翌月、ブレスト=リトフスクで、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国の同盟側四国代表と、ソヴィエト=ロシアとの本格的な講和条約交渉が始まった。

 

ソヴィエト=ロシア代表は最初はヨッフェが務めていたが、後に外務人民委員(外務大臣に相当)のトロツキーに交代したのだった。

ソヴィエトは無償金・無併合を講和の前提としたが、ドイツ側は有利な戦況を生かして賠償金獲得・占領地の併合をねらい、対立、交渉は難航した。

そのとき、ドイツ軍が占領している、ポーランド、フィンランド、ウクライナ、バルト地域などの民族自決に対する措置も両国で争点となった。ドイツは講和の条件としてこれらの広大な地域のロシアからの分離を要求していた。


ソヴィエト側には大戦でツァーリによって動員されたロシア軍が戦意を喪失し、自発的に戦線を離脱し始めていた。

ソヴィエト政権を支える革命軍=赤軍は新国家の建設が始まったばかりで決定的に戦力的な不利を抱えていた。ソヴィエト政権の内部では戦力の決定的不足を認識したレーニンは、ドイツ側の過剰な条件に対しても受け入れざるを得ず、即時講和しかないと考えていた。

しかし、ブハーリンらは帝国主義と妥協はすべきでなく革命戦争を続行せよと主張した。また当時はソヴィエト政権に加わっていた社会革命党(エスエル)左派も戦争の継続を主張した。しかし、各地の兵士・農民の声は、一刻も早く戦争を終わらせて家に帰りたいというのが本音であることをレーニンは感じ取っていた。
 

交渉当事者のトロツキーは、ブレスト=リトフスクに向かう途中の前線で、ソヴィエト側の塹壕に兵士がいないという現実を見て、戦争継続は不可能と思っていた。しかし、トロツキーはドイツ国内でのリープクネヒトなど社会民主党左派の革命運動に期待し、ドイツで内乱が起きればドイツ軍はすぐには行動できないはずだとみて、「戦争を中止し軍隊を復員させるが、講和には調印しない」という判断をした。

その意味は休戦状態を長びかせ、講和には応じず、時間稼ぎをしてドイツの出方を待つ、ということだった。

 

そうするうちに、アメリカ大統領ウィルソンは、十四カ条の原則を発表した。

ソヴィエト政権が対ドイツ単独講和で離脱すると、東部戦線がなくなることでドイツの戦力が全面的に西部戦線に向けられる。このウイルソンの発表はそれを危惧し、協商側の戦争目的を明らかにする意図があった。協商国側はソヴィエト=ロシアの単独講和をなんとか阻止しようとしのただった。

 

しかし、レーニンはトロツキーの時間稼ぎ説を退け、即時単独講和によって平和を実現することしか、生まれたばかりのソヴィエト政権を救う道はない、という方針に立った。

まもなく、ドイツ軍は動かないだろうというトロツキーの見通しが誤りだったことが明らかになった。

トロツキーは自分の判断の間違いを認め、レーニンに対して外務人民委員の辞任を申し出た。

そして、ブレスト=リトフスク講和条約は締結された。

 

 トロツキーが講和を欲しなかったことは確実なところであり、衆目の認めるところであります。わたくしの知っている社会主義者で、それに異論を唱える者はこんにちひとりもいません。しかし、同じことは、各国の急進的指導者についてもあてはまります。選択を迫られれば、かれらもまた、なによりもまず講和を欲するのではない、もしも戦争が革命、すなわち内乱に役立つのであれば、戦争を欲するでありましよう。
 たとえこの革命が、かれら自身の見解にしたがえば-くり返して申しますが-社会主義社会を招来せずに、せいぜいのところ-それが唯一の希望であります-将来いつかは到来する社会主義社会に、こんにちの社会よりもいくらか近い-どれほど近いかは予断を許しませんが-ところに立つような、ブルジョア社会の社会主義的観点からみて「より高い発展形態」をもたらすといたしましても、革命のために戦争を選ぶのであります。もちろん、この希望こそは、これまであげた理由でずいぶん疑わしいのです。-

 

マックス・ウェーバー『社会主義』p.87~88

 

ウェーバーはドイツ側の立場に立って、トロツキーへの評価は厳しい。

しかし、それはトロツキーにとっても永続革命の難しさを知る機会となったのだろう。

 

 官僚は過去と断絶したばかりでなく、過去の重要な教訓を理解する力も失った。中でも重要なのは、ソヴェト権力は世界のとりわけヨーロで(のプロレタリアートの直接の支援なしには、また植民地諸民族の革命運動なしには十二ヵ月ももちこたえられなかっただろうという教訓である。オーストリア=ドイツの軍部がソヴェト=ロシアにたいする攻撃を最後までやりぬかなかったのは、すでに背後に革命の熱い息吹を感じていたからにほかならない。九ヵ月ほどあとにはドイツとオーストリア=ハンガリーの反乱によってブレスト=リトフスクの講和条約に終止符が打たれた。一九一九年四月、第三共和国の政府は黒海でおこったフランス水兵の反乱のためにソ連南部での軍事作戦の展開を放棄せざるをえなかった。一九一九年九月、イギリス政府は自国の労働者の直接の圧力をうけてソ連北部から派遣軍隊を引きあげた。一九二〇年、赤軍かワルシャワ郊外から撤退したあと、協商国がソヴィエ卜権力を粉砕するために。ポーランド救援に向かうのを妨げたのは強烈な革命的抗議の波にほかならなかった。一九二三年にモスクワに脅迫的な最後通牒をつきっけたカーソン卿は決定的な瞬間にイギリスの労働者組織の抵抗によって手をしばられた。こうした輝かしいエピソードは例外的なものではない。それらはソヴェト権力が存在した最初のもっとも困難な時期にみごとな精彩をあたえている。革命はロシア以外ではどこでも勝利しなかったといえ、しかし革命への期待は決して空しいものではなかったのである。
 ソヴェト政府は当時早くもブルジョア政府と一連の条約を結んだ。一九一八年三月のブレスト=リトフスク講和、一九二〇年二月のエストニアとの条約、一九二〇年一〇月のポ-ランドとのリガ講和、一九二二年四月のドイツとのラで(口条約、その他のあまり重要でない外交協定。しかしソヴェト政府全体としても、政府の個々の閣僚個人としても、交渉相手のブルジョア国家を「平和の友」として見るなど思いもよらなかったはずである。ましてドイツやポーランドやエストニアの共産党にたいして、そうした条約を結んだブルジョア政府を投票で支持するようにもとめるなどはなおさらである。しかしこの問題こそ大衆の革命的蜂起にとって決定的な意義をもつのである。極限まで疲弊しきったストライキ労働者が資本家側のいかなる苛酷な条件ものまざるをえないように、ソ連もブレスト=リトフスク講和に調印せざるをえなかった。

しかし、ドイツ社会民主党が「棄権」という偽善的な形態でこの講和を支持したことにたいして、ボリシェヴィキは強姦と強姦犯を支持するものと糾弾した。四年後、双方の形式上の「対等」という原則にのっとって民主主義ドイツとラッパロ協定が結ばれたが、しかしもしドイツの共産党がこの問題について自国の外交に信任を表明したとしたら、ただちにコミンテルンから除名されたことであったろう。ソ連の国際政策の基本方針は、ソヴェト国家と帝国主義者との貿易上、外交上あるいは軍事上のあれこれの取引それ自体は不可避であるとしても、いかなるばあいにもこの取引が当該資本主義国のプロレタリアートのたたかいを制限したり、弱めたりしてはならないとするものであった。なぜなら、労働者国家そのものの救いは究極的には世界革命の発展によってのみ保障されるからである。チチェーリソがジェノア会議の準備中に、アメリカの「世論」の意を迎えようとしてソヴェト憲法に「民主主義的」な変更を加えるよう提案したとき、レーニンは一九二二年一月二三日付の公式書簡でチチェーリンをただちにサナトリウムに送るように強く勧告した。当時もしだれか、たとえば無意味で欺瞞的なケロッグ条約に加わるとか、コミンテルンの政策をおだやかなものにするとかによって「民主主義的」な帝国主義の歓心を買うことをあえて提案する者がいたとすれば、レーニンは疑いなく、革新的な提案者を精神病院に入れるように提案したであろうし、それにたいしてよもや政治局の中で反対は出なかったであろう。

 

トロツキー『裏切られた革命』p.238~240

 

 

 

トロツキーは、ドイツ社会民主党が「棄権」という偽善的な形態でこの講和を支持したことにたいして、ボリシェヴィキは強姦と強姦犯を支持するものと糾弾した。

革命ロシアにとっては、相手国との講和を真に望んでいるのではなく、その国で内乱から革命が起きることを期待している方が強かったのである。

 

 

2.トロツキーとスターリンの路線対立

 

スターリンの一国社会主義路線とトロツキーの永続革命路線は、レーニンの死後、路線対立となって現れる。

 

 一九二四年一二月に彼(スターリン)が書いた論文では、彼は、自分がレーニン(つまり自分)の路線とみなすものと、トロツキーの路線とみなすものを次のように対置していた。
 「レーニンによれば、革命は、何よりもまず、ロシアそのものの労働者・農民の間から力を汲みとる。ところかトロツキーにあっては、ただ『プロレタリアートの世界革命の舞台において』しか、必要な力を汲みとることかできない。(中略)だが、もし国際的革命が遅れてやって来るというようなことになったら、どうなるか。我々の革命には何らかの光明かあるか。トロツキーは何の光明も与えていない。(中略)この見取り図によれば、我々の革命に残されているのは、自分自身の矛盾のうちで何もせずに暮らしていて、世界革命を待ちながら立ち腐れになるという、ただ一つの見通しだけである」。これに対してレーニンか示した法則は、次のことから出発している。二国における社会主義の勝利は-たとえその国が資本主義的にあまり発展していない国であり、他の諸国には資本主義が維持されていて、しかも、これらの国が資本主義的にもっとよく発展している国である場合でさえも-まったく可能であり、また予想される」。
 結局、スターリンとブハーリンは、ヨーロッパに社会主義革命が起こらなくても、ロシアで労働者か権力を保持し続ける限り(より正確には、労働者を代表すると称する共産党か権力を保持し続ける限り)、ロシアは社会主義社会を完全に実現できると主張した。彼らによれば、干渉戦争が二度と起こらないようにするには、確かにヨーロッパのいくつかの国で革命か起こる必要があった。したがって、一国社会主義論を唱えても、それでヨーロッパの革命支援を止めることを意味しなかった。このような留保をつけても、彼らの議論には、ソ連国内の社会変革を優先する姿勢が明瞭に表れていた。これに対してトロツキーは、ロシア革命の国際面、つまりその反帝国主義的性格を強調した。しかし彼がどのように論じようと、ヨーロッパに社会主義革命が起こる兆候はなかった。また急速な工業化を実現するための資本も簡単に得られそうもなかった。
 スターリンの一国社会主義論は、確かに権力闘争の一環として出てきたものであったか、けっしてそれだけではなかった。先に見たように、スターリンはヨーロッパの革命にロシアの革命の命運を結びつける議論に早い時期から納得していなかったのである。この理論は、そうした長年にわたる彼の疑問に発するものであり、その意味で彼の基本的認識を反映したものであった。こうした独自の世界観を一国社会主義論として体系づけることによって、スターリンはレーニン後の指導者の第一番手として名乗り出たのである。

 

『スターリン』p.155~156

 

 

 

この頃、ブハーリンはスターリン側に付くようになっていた。

しかし、その後、農業政策について、ブハーリンはスターリンと対立するようになる。

 

ブハーリンの説いてきたゆっくりとした工業化政策は、一九二七年末までにその拠りどころとしてきた平和的環境という大前提を失いつっあったのである。
 この状態で、スターリンはなし崩し的にそれまでの経済政策を変更していった。その第一歩が、一九二八年一月から始まった穀物調達の強行である。まず六日に、スターリンは地方党組織に対して穀物調達を強化するよう指示を出し、その後、各地に幹部党員を全権代表として派遣した。一四日にこうした全権代表に向けて発せられた電報は、「我々の穀物調達の失敗の三分の二は、指導部の手落ちに責任を帰せねばならないことが証明されている」とし、「今や、穀物買い付け人とクラークに打撃を与え、投機者、クラーク、その他、市場と価格政策を混乱させる者を逮捕しなければならない。そうした政策をとることによってのみ、中農は(中略)投機者とクラークがソ連国家の敵であり、彼らの運命と自分のそれを結びつげることが危険であること(中略)を理解するのだ」と説明していた。
 同時にスターリンは、病気のオルジョニキッゼに代わってシベリアに赴き、同地で自ら穀物調達を指揮した。春の雪解けによるひどいぬかるみを考えると、その前に何とか調達目標を確保しなければならないと考えたのである。このとき彼の脳裏に、一九一八年夏にツァリ-ツィンに派遣されたときの記憶か蘇っていたものと思われる。あのときと同じように、彼は何としてでも穀物を確保する以外にないと心に決めていたはずである。
 二〇日に開かれた共産党シベリア地方委員会ビューローの秘密会議での演説は、そうした彼の決意を示していた。ここでスターリンは、ロシアは今や最も小農の多い国になっており、中農はドイツに比べてずっと弱く、現実に農村を支配しているのは「クラーク」だと決めつけた。こうした一連の発言を通じて、「クラーク」から暴力的に穀物を取り立てる「非常措置」の発動を正当化したのである。「クラーク」という用語は、すでに述べたごとく、レーエンの時代からその経済的社会的地位を示す基準としては不明瞭な概念であった。 当然ながら、ブハ-リンはスターリンの動きに強く反発した。指導部内にも彼を支持する者がいた。このために、調達政策はその後もジグザグを続けた。しかし同年末までに、「非常措置」を行ってでも穀物調達を優先する以外にないとするスターリンの新路線か党内多数派に受け入れられていった。ここに、新しい農民政策が始まったのである。

 

『スターリン』p.160~162

 

ブハーリンはスローな工業化を主張していたし、農業の集団化も徐々に行うのがよいと思っていた。

しかし、スターリンは急激な工業化や農業の集団化を推進した。

 

(二段目右から2人目がブハーリン、4人目がスターリン)

 

 「(資本主義国では、工業化のための資本を『他国の略奪』とか、外国からの『借金奴隷的な借款』とかによって調達してきた。しかしソ連には、こうした方法はありえない)。そうとすれば、いったい何か残っているだろうか。残っているのはただ一つ、国内の蓄積によって工業を発展させ、国を工業化することである。(中略)
 ところで、この蓄積の主要な源泉はどこにあるか。これらの源泉は(中略)二つある。すなわち第一には、価値を創り出して工業を前進させている労働者階級であり、第二に農民である。わか国の農民の状態は、現在のところ次のようになっている。すなわち彼らは、国家に対して普通の税金たる直接税および間接税を納めているだけでなく、さらに第一には、工業製品に対して比較的高い価格で余分に支払っており、第二には、農業生産物に対して多かれ少なかれ価格を十分に受けとっていない。(中略)
 これは『貢租』とでも言うもの、超課税とでも言うものであって、我々か一時これを徴収することを余儀なくされているのは、工業の発展テンポを維持し、さらに発展させて、国全体のために工業を確保し、農民の福祉をいっそう向上させ、(中略)『はさみ状の価格差』〔工業製品と農産物の間の価格差―引用者〕をすっかりなくすためである。この事情は、何と言っても不愉快である。だか、(中略)わが国がさしあたっては農民に対するこの追加的な税金なしにはやっていけないということに目を閉じるならば、我々はボリシェヴィキではないであろう」
 ここにある「貢租」とは、他でもなく帝政期の農奴か義務として負わされたものである。したがって、ここでスターリンは、ネベフの時期もある程度は農民を犠牲にして工業化を進めてきたのであるが、今後もこの「農奴」依存的政策を(より強化して)堅持せざるをえない、と述べているのである。ここに含意されているのは、農民を犠牲にすることを覚悟した、急進的工業化政策とでも呼ぶべきもので、明らかに、かつてトロツキーが示唆した政策に類似していた。さらに言えば、スターリンか唱えているのは、農民を「農奴」として扱うことをあからさまに認める政策であり、トロツキーの提案よりも、姿勢として革命政権に相応しくなかった。しかし、今やトロツキーは共産党から除名され、遠いカザフスタンのアルマーアタヘ追放されており、もはやこのような変身を追及できる状況になかった。

 

『スターリン』p.166~167

 

3.スターリニズムとトロツキズム

 

スターリンは路線をめぐって、ソ連随一の理論家であったブハーリンとも対立したが、トロツキー追放後はスターリンに対抗できるのはブハーリンくらいであったのだ。

そのブハーリンをもスターリンは排除する。

 

追放後もトロツキーは、共産党とコミンテルンをあるべき姿に戻すために独自の組織を作ることは避けてきていた。

しかし、1937年には亡命地で発行していた『反対派ブレティン』でこう書いている。

 

 マルクス主義者は、国家の廃絶という究極目標に関してはアナーキストに完全に同意する。マルクス主義が「国家的」であるのは、国家の廃絶が単に国家を無視することによっては達成できないかぎりにおいてでしかない。スターリニズムの経験は、マルクス主義の教義を反駁するどころか、それを逆方向から裏づけるものである。革命的教義はプロレタリアートに対し、正しく状況判断しそれを積極的に利用するよう教えるが、しかし、もちろんのこと、自己のうちに勝利の自動的保証を何ら備えてはいない。しかし、その代わり、勝利はこの教義によってのみ可能になるのである。さらに言えば、この勝利というものを一回かぎりの行為として考えてはならない。問題を大きな一時代の展望の中で取り上げなければならない。最初の労働者国家―貧困な経済的土台にもとづき帝国主義の鉄柵の中にある労働者国家―は。スターリニズムの憲兵隊のごとき存在に堕した。しかし、真のボリシェヴィズムは、この憲兵隊に対して生死をかけた闘争を開始した。現在、スターリニズムは自己を維持するために、「トロツキズム」と呼ばれているボリシェヴィズムに対する直接の内戦を、ソ連のみならずスペインにおいても遂行することを余儀なくされている。かつてのボリシェヴィキ党は死んだが、ボリシェヴィズムはいたるところでその頭をもたげている。

 

『ロシア革命とは何か』p.289~290

 

 

 

スターリニズムはボリシェビズムから必然的に生み出されたものではない。

 

レーニンに拠れば、闘争の帰趨を決する「膨大な大衆」は、国内における欠乏と、世界革命をあまりにも長く待ちすぎたせいで、惓み疲れていた。大衆は意気消沈していた。官僚が支配権を獲得した。官僚はプロレタリア前衛を押さえつけ、マルクス主義を踏みにじり、ボリシェヴイキ党を乗っ取った。スターリニズムが勝利した。左翼反対派のうちに体現されたボリシェヴィズムは、ソヴィエト官僚とコミンテルン官僚から決裂した。以上が発展の現実の歩みである。

 

『ロシア革命とは何か』p.285

 

つまり、トロツキーがブレスト=リトフスク講和でも期待していたドイツでの革命は起きなかったし、ヨーロッパのどこにも革命は起きなかった。

それにソ連の大衆は意気消沈していた。革命後、またたくまに官僚とスターリンが権力を握った。

ロシア革命を勝利に導いたレーニンとトロツキーのボリシェビズムは、ソヴィエトとコミンテルン官僚によって決裂した。

 

スターリニズムとトロツキズムはその産物といえる。

 

紙屋高雪氏がブログとXで何かを語っています。

 

 2ヶ月の間、何にも音沙汰なし。

 「調査」する意思も能力もない。

 人を病気に追い込んで、挙句に何も連絡なく放置。どうなっているのか聞くと「調査中だ!」としか返さない。2024年5月7日現在、いまだに次に所属する単位も告げられていない。権利の蹂躙である。

 進捗すら報告しないって、まともな組織のすることかね。

 正式調査から10ヶ月。予備調査から1年3ヶ月。あれだけ頭のおよろしい方々が雁首そろえて血眼になって調べたけど、なーんにも出てこなかったってこと。

 完全な冤罪だろ。

 冤罪じゃないっていうなら、なぜ証拠を示さないのか。

 示せないからだろ?

 「時間をかけて調査している」というのなら、なぜ何も連絡してこない?

 「今後調査すべき項目」のリストくらい渡したらどうか?

 調査される側はその間に準備もできて、ウィン・ウィンじゃないか。

 でも、しない。できないから渡さないんだろう? 

 調査することなんかもう何もないものな。(初めからないけど。)

 

 

 

分かる人には分かるメッセージなんでしょう。

 

この4日前にはXでこんな投稿がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後のXは去年の9月のブログの『ブハーリン裁判』へのリンクです。

 

そのさきのブログにはブハーリンがスターリンの法廷に引っ張り出され、有罪だと自白すれば命は助けると言われた裁判の様子を書き写しています。

 

そしてこう書いています。

 

共産党と革命が生み出した社会体制への熱い信頼があったこの頃、その事業に誠実に人生を捧げてきた共産党員ほど、いかに自分の罪をでっち上げられようとも、もはや冤罪からの脱出が絶望的とわかると、「共産党や革命の事業を傷つけまい」と思い、「諦めて」しまう。

 加えて、そのあとに続くであろうと予想される自分や家族に対する言語に絶する暴力や迫害も、その「冤罪」を認めさせてしまう構造になっているのである。

 

 

 

紙屋氏が語る「冤罪」とは何のことなのでしょうか?

 

ブハーリン裁判を引用するのなぜでしょうか?

ブハーリンは無実の罪を自白したのに、死刑になりました。

スターリンは約束を守らなかったのです。

 

 

 

2023年2月に起きたことを紙屋氏はかつてブログでこう書いていました。

 

2月某日、日本共産党福岡県委員会の総会が行われました。

 私は県役員(県委員かつ県常任委員)なので、それに参加しました。

 私は総会で、“松竹伸幸さんの除名処分決定の根拠となった4つの理由はどれも成り立っていないので、松竹さんの除名処分に関連して記述されている今回の総会への報告部分を削除するとともに、松竹さんの除名処分を見直すように関連地方機関に中央委員会が助言することを、福岡県委員会総会として決議すべきだ”と発言・提起しましたが、この私の意見は、「採用しない」ことが賛成多数で決定されました。

 

 

 

さきの5月7日のブログでは、「期間」のことを書いていました。

 

 正式調査から10ヶ月。予備調査から1年3ヶ月。あれだけ頭のおよろしい方々が雁首そろえて血眼になって調べたけど、なーんにも出てこなかったってこと。

 

1年3か月前というのがこの福岡県党委員会総会あたりになります。

ここから予備調査が始まったということでしょうか?

 

とすると正式調査が始まったのが去年の7月頃?

 

2024年5月7日現在、いまだに次に所属する単位も告げられていない。権利の蹂躙である。

 

今も活動停止状態が続いているということでしょうか?

 

 

ブハーリンは、クルプスカヤが口述筆記したレーニンの遺書で「党内で一番貴重な理論家だが、いささかスコラ的すぎる」と評された人物です。

 

十月革命時にはトロツキーとともに「世界革命」を唱え、即時のブレスト=リトフスク講話に異を唱えたこともあります。

その後、スターリンとともに一国社会主義建設を進めました。

農業政策ではクラークに富農になれ!と生産性を高める政策を打ち出したり、その後、計画経済を進めました。

コミンテルン綱領を起草もした有能な人物でした。

 

しかし、1927年のトロツキーやジノビエフ、カーメネフの除名に際に、トロツキーの除名に反対しています。

その後はスターリンとともにソ連の発展の寄与し、一時はスターリンと意見の相違がありましたが、ヒトラーのファシズムと闘うために党に戻っていました。

 

スターリンはそんなブハーリンも排除したのです。

 

言われなき罪を着せて。

 

紙屋高雪氏が、悲劇のブハーリン裁判を写すのはなぜでしょうか?

 

今、日本共産党でスターリンのような狂気の人物が統治しているのでしょうか?

 

そんなふうには見えません。

 

ただ、この時代と同じ「民主集中制」という組織原則が支配しているのは共通しています。

 

異論を許さない、分派を許さない、党の幹部は常任幹部会の秘密投票で決める、複数候補制は採用しない。

そういう上部に下部は従う。

異論は党内でだけ語ることが出来る。

 

この組織原則が魔物となって支配しているのです。

 

先日のラジオ番組で、田村智子委員長はこれが「真理に到達する道」だと言って、大山奈々子氏を結語で批判したことを正当化していました。

我々は一体でなければならないのは、辺野古問題で挫折した民主党に掛けられた圧力をわれわれは権力側から受けているからなのだと、トンチンカンな理由付けをして民主集中制を守ることを述べていました。

 

そんな狂気にこの組織は支配されています。

 

それは松竹伸幸氏が党内での民主主義と表現の自由について、スイッチを押したから漏電していたこの組織が感電したのかもしれません。

ビリビリと引き締め電流が流れ出したのです。

時代はハラスメントを許さない空気になっているのに、お構いなしに電導しています。

 

紙屋高雪氏が「冤罪」を訴えるのはわかるような気がします。

おそらく紙屋氏もその被害者なのでしょう。

党の県委員会総会で発言をし、その結果をSNSに上げただけなのです。

 

いったい何の嫌疑なのでしょうか?

その内容を部外者が具体的には知るよしもありませんが。

 

「日本共産党の全国大会へ 全党員と市民の注目を党員・有志から求める会」が、三回目の匿名記者会見を5月1日に東京都内で行ったそうです。

 

そのYouTube動画がアップされています。

 

 

 

会見内容は、出版に関することと、大山奈々子氏の党大会での発言、先日の田村智子委員長がラジオ番組で語ったハラスメントへの訴願対処はウソであることなどでした。

 

衝撃的だったのは、ある民医連幹部による性加害によるハラスメントの隠蔽が、党組織を含めて組織的に行われたことでした。

会見では実名が出たようですが、動画では×××表記でした。

大山奈々子氏の大会での発言と党の県委員会などへ出した意見書が『日本共産党の改革を求めて』という本に収められてるようです。

この本は、リアル書店への配本が400部程度らしく、「日本の古本屋・カピパラ堂」でも扱っているようです。

 

 

 

ところで、動画のなかで会見した人が言っていましたが、共産党はSNSでの発言やこういう出版について厳しく取りしまる動きのようです。

 

噂によると何人かの古参幹部の指令で動いているとか。

 

しかし、これは誰か豪腕の幹部の仕業なのでしょうか?

 

パトラとソクラにはそう見えません。

 

ソ連のスターリン時代にスターリンが行った盗聴、査問、審判、追放または処刑というようなシステム化された行為だとは思えません。

ゲーペーウーみたいな組織もない。

スターリンは組織の上に君臨していましたが、発言や行動を見ている限り、田村智子氏、志位和夫氏が同じ存在ではないでしょう。

 

では、どうしてこういうことが今起きるのか?

 

松竹伸幸氏の除名処分問題が引き金になったことは事実でしょうが、もっと長い歴史を振り返ることが大事です。

1990年前後にヨーロッパで起きていたことが、30年遅れて今、日本で起きているにすぎません。

 

1991年にソ連が崩壊しましたが、イタリアではその前から、いや、それと同時に共産党のなかで党内民主主義を求める議論が起きました。

だって、そうでしょう。ヨーロッパの地続きのソ連で起きていること、反体制派の声はもともとイタリア共産党にも流れていました。イタリア共産党がソ連から資金提供を受けていた時期もありました。

ソ連の崩壊とシンクロしてイタリア共産党での分派の許容から新党の結成と分裂というようなことがほんの3年の間に起きました。

それは避けがたいことだったと言えるでしょう。

 

では、日本ではどうして同じ事にならなかったのか?

 

それは第二次大戦時にいやもっとまえのロシア革命の時期に遡ります。

日本は官憲の力が強く、革命らしきものがありませんでした。

反ファシズム闘争が組織できなかったことについて、丸山真男の批判と共産党の反批判の論争がありました。

しかし、ヨーロッパと大きく違うのは革命の芽の段階ですべて摘み取られてしまったからです。

それほど日本の官憲の力は大きかっただけです。

しかし、その後の歴史に影響します。

ヨーロッパのいくつかの共産党が戦後すぐに政権に参加しましたが、日本ではそういう経験もありませんでした。

イタリアでは共産党が約3割の支持率だったときもあるのです。


1950年代に日本の共産党が中国などの影響を受けて武装闘争の方針を採りますが、その後、宮本顕治氏への権力集中のための中央集権的組織原則が徹底されました。

党中央への権力集中は今も続いています。

コミンテルンの組織原則そのままです。

宮本顕治氏は自主独立路線を確立し、それで外国の共産主義運動はほとんど参考にしないことになりました。

それでソ連・東欧の教訓すらまともに分析しませんでした。

イタリア共産党と違って、ソ連が崩壊してもしなくても同じだったのです。

崩壊の原因が党内民主主義にも由来することとすら認めませんでした。

論争に参加した田口富久治氏などまともな研究者はほとんど離党または除名となりました。

排除の組織原則がそうさせたのです。

 

つまり、宮本顕治考案の日本流「民主集中制」という魔物が組織を支配しているのです。

特定の幹部の仕業ではありません。

見えない組織原則が今も支配しているのです。

 

そして、今、大物でもない党員の除名・除籍のオンパレードです。

これはSNSも一役買っているでしょう。

そもそもSNSの発信を止めることなどできないのです。

このブルジョア民主主義社会で自由にフタは出来ないのです。中国のようなプロレタリア独裁社会とは違うのです。

 

共産党の幹部が取るべき道は、イタリア共産党のように本気で議論するか、無理矢理フタをするか?

二者択一です。

ただし、前者には党が再生してしまうリスクがあります。

 

つまり党がなくなって、個人が生きる。

自由な頭を持って行動するようになるリスクがあります。

かといって、自由な頭を脳内コンクリートで固めることができるかどうかは知りませんが。


ジャニーズはなくなっても力のあるタレントは活躍しています。

新たな組織もできました。


さて、どうするのか?