4月29日2時35分に、94歳の母が光の邦に還りました。
28日の24時半過ぎに病院から電話があり、50キロ離れた総合病院に、車を飛ばして行きました。
娘、夫、兄、弟に電話しても、娘だけしか応答しないので、困りましたが、最後は、兄家族以外は連絡できて、娘家族4人、夫と息子、弟と7名が駆けつけましたが、私以外は息引き取った後の到着でした。
それまでの経緯を説明すると・・
12日(金曜)午後4時半頃、自宅の庭でテラスから転落し、救急車を呼ぶ。 救急病院が混雑していた、家からは遠い流山の病院に連れて行かれる。 大腿骨骨折と診断された。
13日(土曜)私と弟がお見舞いに行く。
14日(日曜)私が兄がお見舞いに行く。母は元気にしている。この病院は待遇が嫌だから出たいと何度も言う。
15日(月)〜17日まで、私は毎日お見舞いに行く。母の転院先もみんなで探す。転院を諦めかけていたところ、知り合いの医者がいるつくば市の総合病院が母の手術をしてくれることになる。安堵。
18日(木曜)民間救急車で総合病院へ、綺麗な景色の個室に入り、母も嬉しそう。民間救急車の中でも母がたくさん話しかけてくれた。予想を超えて、かなり元気でした。
兄と二人で、入院手続き、そして、山ほどある書類にサインをして、母に別れをいって帰宅。私自身は花粉症、そして、軽いぎっくり腰で体調がかなり悪くなっていました。
19日にすぐに母の手術をしてくれることになったのはありがたかったです。
19日、私が12時半から一人で手術のため病院に行きました。弟は仕事があるし、兄は18日も一日転院で付き合ったので、私が一人で。すると、12時半に、病棟に着くと、担当看護師から母がコロナ陽性だから病室にはいけないと告げられます。そして、先生との面会室で、担当医から、母がコロナ陽性だけど、予定通り手術はすると説明されます。
私PCR検査ですか?と聞くと、
はい、綿棒検査ですと。
私が、あれは当てになりません。
と言ってみましたが、もちろん、そんなの医者が聞くはずありません。
医師は、予定通り手術はしますと。
その後、看護師が面会室にきて、私に、5分で、コンビニでお弁当買ってきて、この部屋に戻り、一歩も出るなと注意されました。 私は自分の車で待っていると言っても、感染対策だからダメだと断られます。
16時すぎにに母は個室から、手術室に。看護師は親切に、離れているけど、母が見えるからと教えてくれて、廊下に出て、私は遠くから母に声かけれただけ。母には聞こえたようでした。
16時半から違う階の手術室フロアの待合室で待つように言われ、私はもう全く隔離されず、自由の身となりました。かなり、いい加減。予想していたよりも手術が長引いていて、一人できたことを後悔。
20時半に、やっと手術は無事に終わったと先生から説明受け、安堵しました。21時に病院からまた、説明を受けて、解放されます。母には全く会えず。人工呼吸器が付いていたので、そのまま集中治療室に母はいました。
翌日に弟がお見舞いに行きましたが、まだ、集中治療室で、弟も母には全く会えず。(コロナ陽性だから)
途中で、兄が病状説明を聞きに行きましたが、5日間のコロナの陽性の隔離が終わっても、また、検査をして陽性なので、また、5日間の隔離と言われて、誰も会えず。
母は個室にいるのですが、非常に厳重な管理がされていて、母もマスクをつけさせられているそうです。
結局、9日間、個室にいながら、ずっと、家族は面会できず。
(PCR検査の偽陽性のため)
30日には民間救急車で、また、元の流山の病院に転院する予定で、その準備の話ばかりされていました。 そう言う約束で、違う病院で手術だけしたので。
何か病状に変化があれば連絡があると聞いていたのし、連休なので、先生もお休みだし、電話して、病状を聞ける雰囲気ではありませんでした。
転院準備のために病院に電話すると、看護師が母の様子を教えてくれて、会話もなく、ほとんど寝ていて、おかゆもまだ食べず、点滴だけと聞いて、私は唖然としました。心底、危ない状態だと察知したのです。あの話し好きな母が会話がないなんて!!!!
食いしん坊の母がまだ、おかゆも食べていないなんて!!!!
どう言うこと??????と悲しくなりました。
何を聞いても、病状の説明は看護師はできないと言うだけ。
先生はお休みだと。
知り合いのお医者さんや親友の霊能者に電話で相談すると、骨折すると熱は必ず出るとわかりました。
PCR検査はインチキですので、母の陽性というのも、ほぼ嘘だと私は思います。そもそも、100歩譲って、そうだとしたら、どこで誰から感染したのですか?????管理の厳しい病院にいただけ。周囲で誰もコロナになっていないです。院内感染???
看護師はお粥を食べさせない理由は肺炎になるのを防ぐため。
そもそも、自分で痰が出せないほど衰弱していると・・・
コロナのための抗生剤やステロイドなども点滴で入れられているようなので、とても心配になり、その薬名を聞いても看護師は自分は話せないというので、私が強く知りたいというと、その30分後に、お休みのはずの担当医から電話がありました。先生は、私が電話で聞いていることに、とても不愉快そうなでした。
先生の説明によれば、数日前から肺炎になっていたのです。
私が、そんな状態で、30日に民間救急車で別の病院に動かせるのですか????と尋ねると、
先生は、30日の当日にならないとわかりませんと答えます。
なんとも不親切。そんなに重症で、個室も空いているならば、もう少し置いておいてくれるべきではないの????と思いました。
私はとにかく、不安になり、霊能者の親友や、スーパーソルジャーのジャンチャールズや霊的ヒーリングのできる知り合い、つまり、3人に連絡をとり、光(ヒーリングエネルギー)を母に送ってくださいと熱願しました。
しかし、その夜、24時半に、病院から初めての電話!!!
着信と同時に、すぐに母が危篤だと察知しました。
電話の向こうは集中治療室の当直医。
「お母様の数値が悪化していて・・・・・」なんだか、色々長い説明をしようとするので、「とにかく、今すぐに行きますから!!!!」というと、「コロナなので、会えませんが、病状変化の説明します」というので、「あなた方が何を言おうと、私は母に会いますから!」と強くいって電話は切りました。
そして、兄、弟、夫、娘と次々と電話をして、娘だけがすぐに電話に応答。他は寝てしまって焦りました。
義妹が出てくれたので、弟を叩き起こして、弟はタクシーで・・娘家族は車で、・・娘がしつこく連絡して、夫が気がつき、夫と息子もタクシーできました。最後まで兄夫婦は気が付かず。 とにかく、気がついても、茨城県の病院なので、50キロ以上は離れていて、大変ですよね。
私が到着した時は、集中治療室で、母は呼吸は荒々しく苦しそうにしていました。もちろん、こちらが声をかけても返事はありません。なんとか呼吸しているという感じだけです。横で数値が見えます。家族が間に合うようにと心の中で祈りながら、母の手をとり、必死に声をかけていました。それでも、医者はしつこく、書類の説明をするとか、サインしてくれとか・・本当にうるさいので、頭に来ました。延命治療の書類のことですが、入院前にうんざりするほど説明を受けて、たくさんの書類にサインしていました。なんで、危篤の状態で、別室でその説明を再度受けて、サインするのか理解できません。今にも目の前で母の息が止まるのに、腹が立ち、睨み返しました。医者も私の迫力に負けて大人しくなっていったので、最後は気の毒になりました。
深夜の2時には、集中治療室に曾孫二人も入れて、総勢8名集まり、みんなんで母に声かけたり、抱きついたりしました。
身体から離れている母の魂(意識体)がその光景を見ていたはずです。母は全てを見ています。おそらく、痛みもなかったはずです。しかし、それでも、母が会話できる時に、みんなでお別れを言いたかったです!!!!!
しつこいようですが、PCR検査はインチキです。
母はコロナではありませんでした。誰も感染したいないし。母は丈夫で風邪を引いたことがないのです。手術の前日も元気でした。
8名全員が、集中治療室の密室で、濃厚接触状態でしたが、家族は誰も感染しませんでした。私はマスクなんて外していました。
総合病院の医者や看護師もコロナ騒動をおかしいと思わないのでしょうかね?????????
手術や集中治療室でお世話になり感謝していますが、
若い医者もコロナの闇を知らないだけで、良い人ばかりでした。
残念なのは、
コロナに対する過重な反応、
PCR検査が偽陽性出すこと知らない、
会わせてもらえないならば、もっと丁寧な病状説明があったら、みんなも間に合っただろう
せめて、個室だったから、家族は、最後のお別れ言いたかったし、母も手術日からずっと寂しかったはずです。
90歳でも、自家用車を運転して、日本橋高島屋に行けた元気な母です。ナビを使わないで、地方の温泉も自分で運転して迷わずに行けていました。最後まで頭を使う「数独」が大好きでした。
歯も目もよく、私の知る限り、風邪を引いたことがない丈夫な母でした。母の父は早稲田ボート部で全国優勝。4番を漕いで、チームのエースでした。オリンピックにも出場予定だったはず。そのDNAを引き継いでいたので、筋骨もしっかりしていました。
几帳面、綺麗好き、世話好きでした。骨董や陶器、美術やガーデンイグが大好きな人でした。
娘家族と一緒にスイスに遊びにきてくれました
スイスの大使公邸の食事会で
英国に住んでいた頃
母は商社マンの父と3人の子供と、英国に3年半住んでいました。
英国の前は少し八千代台にもいました。大田区久ヶ原から引っ越して。
私がパリに住んでいた頃、兄と母と
バブルの頃ですね〜
母は世界中、色々と旅行したり住んでいます。
小さい頃、上海にも住んでいました。ロンドン赴任中はヨーロッパを色々旅行しました。まだ、日本人が海外に出てことがない時期です。ドルが360円くらいでした。貴重な体験ができています。
その後、南米にも夫(私の父)が赴任になり、多くの国や文化を見ています。その後、私が外交官と結婚してからも、毎回、遊びにきてくれたので、母は様々な体験ができています。また、一人で、サイババさんにツアーで会いに行ったり、80代になっても、一人で、トルコにもツアーで行っていました。
健康で、子供にも恵まれ、旦那さんも優しく、お金も十分にあったので、非常に幸運な人生だったと思います。人にも尽くして、社交的で、明るく非常に気前の良い人でした。
母が全額お金を出して、リノベーションも完了し、二人であれこれ相談しながら、カーテンや家具を入れているところでした。それも楽しむことなく、光の国に旅立ったので、私は残念でなりません。
今は葬儀まで、母の自宅で安らかに眠っています。
連休前やエレナさんのイベント前に、あの世に旅立ち、それも母の子供達への配慮だと思いました。
母はしっかりと光の世界で、生き続け、笑顔で見守ってくれているはずです。