埼玉的研究ノート

埼玉的研究ノート

特定のスタイルを気にしない歴史と社会についての覚書。あくまでもブログであり、学術的な文章の基準は満たしていません。

日本政府が防衛費を増額したことに関して、その際の議論が安全保障の専門家によって圧倒され、そこに市民感覚が欠けていたという旨の新聞記事がtwitterで物議をかもした。矛先が自らに向けられたと考えた「安全保障」関連の専門家が、それに反論を加えることもあった。

 

主な反論の趣旨は、「それでは安全保障を素人判断に委ねるべきなのか(いや、違う)」といったものだった。また、「市民」という言葉を過剰に読み込んだ人は、さらに敷衍して、「日本型平和主義でこれからも安全保障を考えるということなのか!(いや、違う)」といった怒りを表明した。(※7/3追記:以下は、市民感覚など踏まえなくてよいというこのような意見に対する問題提起であり、個々の安全保障の専門家が市民の声を無視しているということではない)

 

もちろん、自衛隊を軍事的にどのように展開していくか、あるいは他国の軍備の性能をどのように評価するか、といったことを素人判断で行うのは危険だし、軍備について火縄銃の時代から知識をアップデートする必要はある。この次元のことに対して専門家が妥当性のある発言をすることを圧力と呼ぶのは違うだろう。

 

ただ、ここで考えなければならないのは次の2点である。

 

①いわゆる安全保障の議論に、一般市民がほとんど関わってこなかったのは事実である。外交全般についても同様であり、民主主義国家にあっても、外交(軍事を含む)の具体的なあり方について大半の市民が蚊帳の外に置かれるのは、「会議は踊る、されど進まず」(1814年)の時代と大差ないかもしれない。経済や福祉に関して、市民の様々なレベルで議論がなされることとはやはり異なっている。もっとも、それは安保専門家のせいではほとんどないが、事実としてそうである点は、安保専門家を含め、皆が認識しておく必要がある。中国を仮想敵とすること、既存の「安全保障」概念を前提とすることなど、重要な枠組みは、専門家(この分野に限って「象牙の塔」の要素がゼロなどということはありえない)が実質的に決めているし、この枠組から離れすぎると専門家から専門家とみなされない。

 

②そのことに関連し、かつ本記事であえて注目するのは、このいわゆる安全保障は、ほとんど「国家安全保障」のことにすぎないということである。ここには、国家安全保障の専門家が専門性を必ずしも持たない次元に存在する、次の根本的な問いが関わる。すなわち、国家の安全保障は、市民の安全を保障するのか、ということである。

 

むろん、建前としてはそうだろうし、実際にそうである場合もある。だが、市民の側からすると、i)国家の安全が保障されても市民の安全が保障されない場合、および、ii)国家の安全が保障されなくても市民の安全が保障される場合の2つを考える自由がある。

 

i)は、国家の安全が保障されるとはいかなることかに関わっている。通常その定義は曖昧にされるが、国民の一部(大抵は支配層ではない)は犠牲になったが国家の安全は辛うじて保障された、という言い方があるのだとしたら、そういう場合はありうるということである。

 

ii)について、市民にとっては、戦禍にある国や地域から逃れることは安全を保障することを意味する場合がある。避難先で苦労する場合もあるだろうが、延命できる可能性は上がるだろう。不動産は保障されないかもしれないが、そもそも不動産を持たない者にとっては、この点はあまり関係ない。

 

もちろん、地主であれば、それは財産の多くを失うことになるので困ることになるだろう。そして、地主を支持基盤とする政党にとっても、それは困った事態である。だが、市民がみな地主であるわけではない以上、市民のなかに、安全保障に対する考え方の違いが生まれることは避けられない。皆が地主に付き合わなければならない義理はないからである。

 

もう少し範囲を拡大して考えるならば、沖縄の軍事基地は、東京の安全保障に資するのだとしても、ことさら沖縄の安全保障に資すると言えるのか(また唯一の選択肢なのか)、という問題も同様である。

 

戦争になった場合の備えとして市民にできることはなく、国家に身を委ねるほかないと考える風潮があるかもしれないが、この考えは疑うべきである。

 

やや突飛な可能性を持ち出すならば、戦争になった場合に移民する協定を、街の単位で、どこかの自治体や外国と結ぶことは、市民の安全に対する保険になりうる。むろん保険料か受け入れ料を払う必要はある。しかし、超高額な軍備とそれでも避けられないリスクと比べて、「前例がない」ことを除くとそれほど比較不能な話ではないのではないか。

 

国家が破綻した状態で、市民の安全をいかに保障するかという問いから生まれた概念に、「人間の安全保障」がある。もちろん市民の安全を保障するうえで、国家的秩序が安定することは、その有力な条件になりうる。だが、それはあくまでも手段にすぎず、国家の安定が常に市民全員の安全を保障すると考えるのは飛躍であり、国家が市民に牙をむいた時にどうするかがこの概念が持つ問題意識である。やはり、市民の感覚から安全保障を考える必要はある。

 

結論としては、次の2つである。1つに、国家安全保障の専門家は、市民の安全保障のすべてに関する専門家ではないということである。2つに、そのことを踏まえて、それでも市民の安全保障の有効な一手であると考え日々知識をアップデートしている国家安全保障の専門家が、勢い余って専門外についても専門家風に語る、あるいは自分の専門を大きく見せることがあるときに文句を言うためには、市民の安全を保障する他の様々な選択肢についての知識や智慧をやはりアップデートしなければならないということである。また、最後は配分の問題になるので(地主を市民から除外することはできない)、その塩梅を考えるうえで、国家安全保障についてもできるだけ勉強しなければならないだろう。私も、火縄銃のトレンドを押さえるところから始めたい。