西本幸雄

1920年4月25日~2011年11月25日

和歌山県和歌山市出身

左投左打

 

野球で名門だった旧制和歌山中学に入学。

1938年に立教大学へ進学

その頃は監督が就任しておらず、

西本が監督のような役目でチームを牽引した。

 

学徒出陣で戦場へ行き、復員後、社会人野球部を転々としながら

星野組に移籍し、1949年監督兼一塁手として

第20回都市対抗野球に出場し優勝した。

 

当初星野組は、プロ野球に参入しようとしたが

業績悪化のため断念。そこにプロ野球参入が決定していた

毎日新聞社がチーム作りの母体として考えていたが、

西本が選手全員入団を目指し交渉をし、

結果的に西本を含む主力の7人が毎日オリオンズに入団した。

 

 

30歳でプロ野球の世界に飛び込み、

持ち前のリーダーシップから1952年主将にも指名され

1950年パ・リーグ優勝、日本シリーズ制覇にも貢献。

1955年まで現役を続けた。

 

 

1956年に毎日オリオンズ二軍監督、

1959年に二軍監督、そのシーズンオフに別当薫の後任として

大毎オリオンズの監督となった。

 

大毎のオーナーである永田雅一は当初

三原脩、鶴岡一人、水原茂の3人を候補に監督選びをしたが

3人とも各球団の監督として指揮をしていたため

交渉は難航し、結局、永田が共同経営の毎日側に投げ、

西本を口説き、仕方なく監督を引き受けたようだ。

 

しかし、永田雅一との初対面で

「西本ってお前か」という言葉に憤慨、

永田としてはスター監督に断られ、失望していたと思うが

西本としては「なんと失礼な人だ!」と悪印象を持ったのは当然だった。

 

九州島原でキャンプイン、西本幸雄は選手たちを鍛えに鍛えた

しかし、選手としては決して一流と言えない成績の若い監督に

成績を残している選手たちは、その厳しさに不満が募る。

いよいよ、それが頂点になり、主力選手たちが

西本監督に詰め寄る「大毎、島原の乱」と呼ばれているものだ。

そんな険悪な空気に主砲の山内和弘が

「みんな、監督は西本さんや、

やってみて不成績だったら監督が責任を取ればいいんや。

一度、黙ってニシさんの言うとおりにやってみよう」と収めた。

 

この一言に感謝し、名将西本幸雄は前進した。

 

そして、シーズンが始まると

大毎オリオンズは「ミサイル打線」と言われた打撃陣と

大エース小野正一投手を中心にパ・リーグを圧倒、

18連勝を含む強さで、南海とのデッドヒートを制し

10年ぶりの優勝に輝いた。

 

 

日本シリーズは三原脩監督の大洋ホエールズだった。

大洋は秋山登投手を中心に少ない得点を1点差をものにする野球で

前年最下位からいきなり優勝へ駆けのぼった。

しかし、得点は大毎547点、大洋411億点と

パ・リーグ最下位の近鉄並みの打線だったため、

下馬評では圧倒的に大毎オリオンズ有利と言われていた。

 

しかし、終わってみると全て1点差の4連敗で敗退、

それも、第2戦8回表満塁のチャンスにスクイズを決行し、

それが失敗、ホームゲッツーで得点できず敗戦。

第2戦終了後、永田から

スクイズを出した作戦を非難され、

「(日本シリーズに)負けたら責任を取る」と西本は答え

そのまま、連敗していったことで、

リーグ優勝をしたにも係わらず、責任を取り監督を辞任した。

 

その後、阪急、近鉄の監督に就任して、

2球団とも何度も優勝するチームを作ったことを考えると

永田と西本の相性の悪さは今となってはオリオンズファンには

前年なことだっただろう。

 

後年、西本幸雄監督の球団運営の高評判を聞くと、

ミサイル打線に磨きがかかり、投手力も上がり、

あと2~3回優勝できたかもしれない。

 

永田オーナーに逆らえない監督の時代になったのか?

その後、山内一弘を放出し、ミサイル打線は解体され、

決して広くない東京スタジアムで戦うには

打線強化が必要だったかもしれない。

 

それは、西本幸雄が阪急、近鉄で打力を前面に出す

チーム作りを見せられるととくに思う。

 

西本幸雄は大毎オリオンズ退団後

1962年に阪急ブレーブスコーチに就任した。

 

つづく

 

 

 

 

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4月25日は大東京-ライオン-南海で活躍した

鬼頭数雄 外野手の誕生日です。

 

 

1917(大正6)年4月25日愛知県名古屋市生まれ

 

1936年から1940年まで大東京(ライオン)で活躍した外野手。

左投げだが、二塁手としてプロ通算24試合出場している。

高校時代は投手として登板した経験ある。

 

中京商業時代からその打棒は知られており、

入団当初から打撃に対する期待は高かった。

4年生の時に第19回全国中等学校優勝野球大会に出場。

明石中学との準決勝戦では延長25回を戦った試合で9番センターで出場した。

その日の試合には8番キャッチャーで野口明(野口二郎投手は弟)も出場。

 

1936(昭和11)年に職業野球が創設され

大東京軍に日本大学を中退して入団。

 

大東京軍-ライオンは同じ系列の球団だが、

戦前の球団のなかでもとても弱く、

16年19シーズン(春秋シーズン含む)を最下位6回を記録。

鬼頭が南海に移籍した後は朝日軍を名乗った。

1950(昭和25)年、松竹ロビンスとなり

初代セ・リーグ優勝チームの名誉を獲得したが、

1952年を最後に、翌年大洋ホエールズと合併した球団だ。

 

1年目の1936年夏は14試合、1936年秋は15試合の出場に留まったが、

1937年春は、主に「1番・レフト」として56試合にフル出場を果たす。

打率も当時としては高い.275を残しており、期待にそぐわぬ活躍を見せた。

 

さらに1937年秋には49試合で打率.321。

打撃ランキング2位となり、盗塁22で盗塁王を獲得した。

その後、1938年春と秋は打率2割台に終わり、盗塁も一桁だったが、

1939年は打率3割に復帰。盗塁も18と実力を発揮した。

 

さらに翌1940年は打率.321で首位打者のタイトルを獲得。

このシーズンで光るのは打率だけでなく、三塁打13という数字だろう。

自慢の俊足を見せつけた。

 

ちなみにこの年は、所属したライオンが勝率..240を記録しており、

所属チームの勝率よりも打率が高い選手となった。

 翌年は南海へと移籍したが、ここでは打率.199と急落。

首位打者の翌年に打率1割台という不名誉な記録を樹立することになってしまった。

また、打率1割台と首位打者、どちらも記録した選手は、

他に岡村俊昭(南海)がいる。

 

奇しくも岡村は、1944年に、

所属チームの勝率よりも打率が高い選手にもなっており、

鬼頭との共通点が目立つ選手となった。

 打率1割台となった翌年、鬼頭は応召され、戦地へと赴いた。

そして1944年7月にマリアナ諸島沖で戦死。27歳の若さだった。

 

TEXT:栗栖章+武田光司

 

 

 

 

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松竹ロビンスを調べると監督も選手も個性的すぎて驚きます。

 

 

当初、調べ始めた頃は

田村駒次郎オーナ一は一流が好きで、

チームより選手がいい成績を残すと喜ぶ傾向が見られます。

後々歴史に残る選手が続出し、それもどちらかというとアウトロー気味。

チームの出入りが激しく、荒っぽいイメージがありました。

 

 

監督も含め殿堂入りしているのが多いのですが

チームに収まる監督のカラーが見えにくく

寄せ集めの球団に思えました。

 

大東京からロビンスの17年間で一番長く在籍したのが

坪内道則選手。

 

しかし、坪内さんでさえ、大東京のカラーが見えない。

どちらかというと中日ドラゴンズ。

 

ネーミングライツをしたり、新しい企画を考える

チャレンジ性は見られるのですが、

田村駒次郎オーナーは商売人としてのプロ野球を考えるのだけど

それを上手くシステムを使い切っていない。

しかし、今の価値観では表現しきれない何かがある。

今の時代では受け入れられないオーナー、運営かも知れないが

考え方としては理解できる部分があるのが面白いところです。

 

大東京からライオン軍より朝日軍つ時代が進むと

投手陣が厚くなる。

しかし、大エースは生まれるけど、2番手3番手が生まれない。

 

 

真田重蔵投手を代表に、唯我独尊的なお山の大将が入ってきて

少し成績を残していっては去っていく・・・。

あまり、カラーが出来ないままに去っていく。

 

それでも戦争中になっても田村駒治郎は球団を持ち続けるほど

野球が好きなオーナーは当時としても珍しいのではないか?

 

戦後、パシフィック軍として再スタートしたが、

主な朝日軍のメンバーは橋本三郎を中心

にゴールドスター(金星)を作ってしまった。

そこに、オーナーと選手たちの温度差をみると、

戦後は個人で球団を持てる時代ではなくなった。

金星も大塚アスレチックスが入ったり、

最後は大映スターズとして永田雅一が手に入れる。

 

 

田村駒治郎と永田雅一は野球界の二大ワンマンオーナーとして名を残している。

なおかつ、一番ややこしいビジネスをしていたような感じがします。

その頃巨人は「紳士タレ」として、八百長や不正を排除して、

職業野球のステータスを上げていく行動をする時代になってきて、

法人としてのプロ野球、戦後の民主主義の中のプロ野球は

この2人を疎ましい存在と考えてくるのではないか?と思うくらい

追い込まれていく。

 

そして、その間に必ず鈴木龍二が暗躍しているように思えてしまう。

 

最終的には鈴木龍二はプロ野球を救った人だではあるけど、

1980年代、江川事件まではセ・リーグに君臨してしていました。

鈴木龍二は

大きな意味でプロ野球をそのように残していくか?

と言うことを考えていたのではないか?

正力松太郎という人はプロ野球を作り、

二リーグにした貢献は大きいけれど、

正力松太郎のもとで実際切り盛りしたのは鈴木龍二だった。

 

新聞社で政治家と話していた鈴木龍二にとって

田村駒次郎の個人商店の運営には我慢できなかったのかもしれない。

そして、時代も個人で切り盛りしているような運営に

ついていけなくなったかもしれない。

 

大東京から松竹ロビンスへ行く道のりは

時代の変化に付いていけない経営が消滅球団としての

歴史になっていた気がします。

 

 

 

 

 

 

 

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木塚 忠助

1924(大正13)年4月23日~1987(昭和62)年12月16日

佐賀県唐津市出身 右投右打

 

佐賀の唐津中学で野球をはじめ、

鉄道省門司鉄道局に就職し、三塁手として俊足、強打、強肩の

三拍子そろった選手として「門鉄の赤鬼」として

グランドで暴れまくった!!

 

 

1948(昭和23)年、南海ホークスに入団。

その才能は、すぐに発揮した。

それまでの日本の遊撃手の概念を変えた肩の強さ、

三塁手の股間を抜かれた打球に追いつき、

逆シングルで捕れば、そこから矢のような送球で

打者を仕留める守備に野球ファンは驚いた。

 

三遊間を組んだ、鶴岡一人(当時は山本一人)は

木塚の守備範囲の広さと華麗な動作に驚嘆し、

「私が知る銭のとれる選手第1号」と言わせた。

 

打撃は長打はないが、2年目の1949年に3割を打ち、

堅実な打撃を見せた。そして、それ以上に盗塁の多さが特筆もので

1949年から1952年まで4年連続盗塁王で55個以上を記録した。

そして、盗塁成功率も85.5%の高さを誇った。

1950年の78盗塁は史上5位の数字だ。

 

戦後、南海ホークスの大躍進、常勝チームを作った選手のひとりで

主に遊撃手として2番を打ち、

一塁飯田徳治、二塁 山本一人、三塁蔭山和夫等と共に

百万ドルの内野陣と呼ばれた。

 

木塚の「バカ肩」のエピソードとして

三塁守備位置から一塁送球をスタンドに直接投げ込んだ!という

エラーも観客は木塚の強肩に対して喜んだという。

 

通算盗塁479個は歴代4位の数字だが、

盗塁成功率は.808の高率で、

南海の後輩、広瀬叔功が596盗塁で.829に続く2位の成績。

400盗塁上で8割越えは木塚と広瀬の二人だけの記録だ。

 

日本の遊撃手のすばしっこくて、1.2番を打ち

塁上を駆け巡る好打者というイメージは木塚と阪神の吉田義男の

成功によるかもしれない。

 

1956(昭和31)年近鉄パールスに移籍。

これは南海ホークスの財政事情でピークを過ぎた高額年棒の選手を

保てない結果だったが、当時の雑誌では

木塚の移籍は大きな話題になって、

弱小球団近鉄を変えるコーチ兼任選手として期待されたが、

思うような成績を残せなかった。

 

1959年引退。

 

通算1216本、通算打率.262と数字では評価されないように思えるが

門鉄時代の人気ぶりに、ベストナインに7回も選出され、

戦後プロ野球人気に大いに貢献し、南海黄金時代の

代表的な選手としてもっと評価されてもいい選手のひとりで

野球殿堂入りしていないのは、残念でならない。

 

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2017年12月に発売された野球雲10号は

消えた球団シリーズ第3弾として

「松竹ロビンス」を特集しました。

 

三代目田村駒次郎氏と奇跡的な出会いによって、

それも、奇跡的な資料、写真を見せていただいた結果

編集、発行でkした特集でした。

 

そして、松竹ロビンス特集にあたり

編集メモというかノートがあります。

そこから、現在のプロ野球、社会では

どのような位置だったのか?考えてみました。

 

◎大東京軍創設について

鈴木龍二氏が40歳まで新聞記者で野球に全く関係なかったのに、

大東京に関わり変わっていった。

そこで小西得郎を監督として球団に加入させたが、

鈴木、小西は同じ歳で

後々色々な人脈を連れてくる重要な2人が

大東京軍で出会ったのがおもしろい。

 

小西得郎監督

 

◎プロ野球創設時の関係
 

大東京は弱い球団ではあるけど、思っている以上に重要な球団だ。

元々の発生の時点で関西に阪神があって、

名古屋に名古屋軍ができて要するに新聞社のライバル、

愛知新聞と名古屋新聞があり、正力は名古屋軍を誘った。

 

地方に球団をできたときに、

東京は巨人だけでは寂しいので、セネターズをつくった。

 

本当は鈴木龍二と小西得郎がいて、

野球史の中でキーパーソンとなる人物が

今となっては非主流の球団からの出現が面白い。

 

鈴木龍二は野球を知らない。小西得郎はモラルを知らない。

小西は面白すぎる人生で、傍系としての存在がとても大きい。

 

プロ野球の主流派が正力松太郎の巨人だったり、

関西だったら阪神、甲子園球場、後楽園球場だったりする。

その中で傍流としての大東京も面白い。

大東京から松竹までの流れはとても魅力的です。

 

その流れの中に田村駒治郎が1937(昭和12)年に登場する。

田村駒は道楽者で大阪の繊維会社の御曹司というキャラクターが、

大東京軍を道楽球団として完成したように思える。

 

だから、勝敗も去ることながら個性的で面白いという、

サイドストーリーが中心として語られる球団のひとつだ。

過去にプロ野球史の中には

強い球団以上に弱い球団があった。

 

弱いチームと言うにも種類があって、悲惨で弱い球団。

話題を振りまきながら動いていくどこか気になる球団。

選手も坪内道則、水谷則一、鬼頭数雄、林安夫、真田重蔵・・・

 

 

選手としても偏りがあって、

少なくともエリートと言われた選手は少なかった。

それが一つの魅力で、戦前はそれなりに人気があったようだ。

 

そして、ライオン、朝日軍、松竹と変わってきたけど

スポンサーが変わっただけで、球団の性質が変わったわけではない。

ブランドとして確立されないのが今となっては悲しい。

今後も球団の興亡史は取り上げて行きたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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1946年10月2日~2011年4月21日

東京都足立区出身

右投右打

 

修徳高校で1964(昭和39)年第46回夏の甲子園大会に出場。

1965年東京オリオンズに入団。

球団から30番以降なら好きな番号を選んでも良いと言われ

46回夏の甲子園出場した縁で、背番号「46」を選んだ。

 

当時としては大きな背番号を背負って、

速球とキレっ切れのスライダーでエースの階段を上がっていく。

二枚目で人気もあり、3年目の1967年に14勝を挙げ

1968,69,70年と3年連続20勝以上をあげた。

そして、荒川区にある東京スタジアムを本拠地にしていたからか

「下町のエース」としてロッテのエースとして君臨。

1969年8月16日に阪急相手にノーヒット・ノーランを達成。

 

1970年に25勝8敗で最多勝を獲得、チームも10年ぶりの優勝に貢献した。

1971年アリゾナキャンプのオープン戦で

当時のサンフランシスコ・ジャイアンツ相手に10回を投げ、

ウイリー・メイズやウイリー・マッコービーの強打者を抑えた。

その快投でMLB球団から誘われたらしい。

 

1972(昭和47)年に背番号18に変更。

1973年に21勝10敗で2度目の最多勝とベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。

1974年に金田監督のもと、ロッテは優勝したがその時は9勝で終わり、

日本シリーズもエースの活躍とはいかなかったが、

1975年15勝、1976年10勝をあげたが、

1977年以降は長年の酷使のためか故障がちで、

1982年に引退するまでの6年間は9勝しか挙げられず

175勝129敗で終わり、残念ながら200勝は達成できなかった。

 

1970年代は成田文男投手のスライダー、

木樽正明投手のシュート、村田兆治投手のフォークボールの変化球と

速球でパ・リーグで存在感があった投手陣だった。

 

野村克也は「最高のスライダーを投げたのは成田。

真っ直ぐのスピードでピュッと曲がる。魔球の一種や」と言っていた。

 

また、打撃もよく

通算15本塁打しており、1969年にはシーズン5本を打った。

そのうえ、投手で史上二人だけの満塁本塁打を2本打っている。

もし、セ・リーグにいたら、堀内恒夫投手のような人気を得ただろう。

 

 

 

 

2011年4月21日病気のため死去。

64歳の若さだった。

 

ロッテの球団史の中でも

大きな足跡を残した大投手のひとりだ。

 

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永井武雄 1904-1938 年4月19日

兵庫県出身

 

球歴 大東京軍(1936)

4月19日は

NPB草創期のオリジナル球団

大東京軍の初代監督

永井武雄の命日です。

 

 

神戸市立第一神港商業から慶應義塾大学、

全大阪や東京倶楽部を経て、大東京創立と共に選手兼任監督に就任した。

 

大学時代は投手、外野手として活躍し、

1931(昭和6)年の日米野球に参加。

1936(昭和11)年の練習試合では一塁手としてプレーした。

 

大東京軍としては永井を監督に据えた理由の一つに、

慶應義塾大学出身の野球人、宮武三郎、山下実等の

名選手を入団させるためにと思われるが、

永井はその予算を接待で使ってしまう。

結局、一番欲しかった宮武三郎、山下実等は阪急に入団。

 

その上、4月5日に行われた東京瓦斯との試合で大敗したことが、

球団代表の鈴木龍二の逆鱗に触れ、開幕を待たずに解任された。

 

その後1938(昭和13)年に応召され、中国にて戦死。35歳の若さだった。

後に鈴木は、開幕を待たずして解任したことを

後悔している旨の文章を『鈴木龍二回顧録』に書いている。

 

後任監督の伊藤勝三が2勝27敗3分、

勝率.069の成績しか残せなかったことを考えると、

解任の判断は間違いだったのだろう。

(野球雲10号 監督列伝 来栖章記)

 

それにしても、永井武雄だけでなく

戦前の大学野球で名声をあげた選手たちの

武勇伝はとてつもなく「大人の行動」ではない。

彼の監督としての行動には疑問を感じるのだ。

 

大東京軍が用意した予算を、ぶっちゃけ飲み食いに使ったわけで

結果は考えない、無責任さは解雇されるのはある意味仕方ない。

永井は解雇通告も「あ。そうですか」という感じで

球団を未練なく去っていったようだ。

自分には東京六大学のスターというプライドがあったのかもしれない。

しかし、日中戦争で早くの戦死は、何とも言えないむなしさが残る。

1試合でも公式戦を戦っていたら、もっと違う名声があったように思える。

参加した野球人も当時の職業野球への未来を

あまり深く思いもよらなかったのだろう。

 

大東京軍はライオン軍、朝日軍と球団名が変わり

戦後は太平(パシフィック)-大陽-松竹ロビンスと続き、

1952年を最後に大洋ホエールズと合併し、

実質、傍流球団として野球史に名を残した。

 

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朝日軍時代の広田修三(左)

広田-坪内道則-伊勢川真澄

 

野球の記録の中で打撃成績を見ていくのは

シーズン中だろうが、シーズンオフだろうが楽しいものです。

その中で打撃の基本は打率の成績です。

僅差を争った首位争いもいいし、独走状態の打者に憧れたり

本塁打や打点のような積み重ねではなく、

増えたり、減ったり、数字を見ていくのは日々の変化がおもしろいです。

 

現在のプロ野球が1936年に始まり

2023年までのシーズンで様々なバットレースがありましたが、

記録を見ていくと、首位打者で最高打率は

1986年阪神タイガースのランディー・バース選手の.389です。

その反対、首位打者で最低打率は.286 です。

2割台の首位打者は後にも先にも1942年だけです。

1942年巨人の呉波外野手で、1943年から阪神へ移籍

呉波は呉昌征として戦後は大阪(阪神)、毎日オリオンズで

人間機関車というニックネームで活躍した台湾出身の名選手です。

 

毎日時代の呉昌征

 

1942年の記録↓

 

 

1942年は前年から始まった太平洋戦争が長期化していき

野球の道具が悪くなっていき、特にボールは史上最悪の品質だった時代のため、

打っても打っても飛ばない時代であり、その分投手の成績が上がった年でした。

そんな、ボールが飛ばない時代に呉波は.286と低打率ですが

2位は岩本義行.274、3位中島治康.261と名打者が軒並み苦しんでいた。

 

1942年のリーグ打率が.197では致しかたない。

規定打数に入った選手は35人。2割以上が23人。

あとの12人が1割台・・・・。

 

その中で最低打率者が

朝日軍の広田修三内野手兼捕手だ。

341打数42安打 打率.123

そんな打率でも105試合と全試合出場。

 

広田修三は名古屋金鯱軍創設時に期待の捕手として入団。

その後、大阪タイガースに移籍。捕手として期待されたが

どうも打撃が得意ではないようだ。

そして、出場機会を求めて1940(昭和15)年朝日軍に移籍

自己最高の86試合、捕手として76試合出場した。

しかし、翌年から一塁が主な守備位置になり、

打率も35試合ながら.235を打ち、いよいよ打撃向上か?と思われたが

1942(昭和17)年は一塁手として.123とあまりにも低すぎた。

この.123は規定打数、規定打席に達した選手の中では

最低打率でもある。

しかし、1942年の朝日軍は

名投手 林安夫を擁して、戦前最高位の4位を記録した。

 

 

今回、偶然広田選手の写真を発見できたので

無理やり気味に広田修三選手を紹介しました。

 

これからも戦前、戦中、戦後1950年代の

埋もれた選手を紹介したいお思います。

 

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南村侑広(不可止)
1917年4月17日~1990年4月17日
大阪府出身 右投右打
 
旧制市岡中学を卒業後早稲田大学に進学し
東京六大学リーグで2度(1938年春季、39年春季)首位打者を獲得。
一塁、二塁、三塁を守れるマルチプレーヤーだった。
 
卒業後、三井信託銀行へ入社。
1950(昭和25)年セ・パ両リーグに分立した際、
セ・リーグの新球団西日本パイレーツの小島利男監督から
(早稲田大学の先輩)誘われ、銀行の職を捨てプロの世界へ飛び込んだ。
その時、33歳!契約金はそんなに貰っていなかったらしいが、
「とにかく、野球がやりたかった」という。
 
 
西日本パイレーツでは33歳の新人として開幕戦を一塁3番で出場、
4月26日対松竹ロビンス戦では三塁4番で出場。
安定した打撃を見せてき、終わってみれば
規定打席不足ながら、96試合11本塁打55打点、打率.300を打った。
 
しかし、混乱、対立の二リーグ分立はリーグにでも混乱を起こし
西日本パイレーツは巨人から受けた仕打ちに怒り
セ・リーグ脱退という行動でパ・リーグ西鉄クリッパースと吸収合併。
選手争奪戦が起こり、巨人か西鉄かとなったが、
経営不安の西日本は夏以降給与未払い等があり、
南村は巨人を選んだ。
 
 
1951(昭和26)年、巨人に入団。
黒バットを抱えて、6番ライトでレギュラーとして活躍
千葉茂、青田昇、川上哲治と並ぶ大打者にも引けを取らぬ
渋いバッティング優勝に貢献。
第2期黄金時代に貢献した。
 
そして、南村の野球人生のハイライトは
1951年南海との日本シリーズでの活躍だ。
 
第1戦 先制本塁打を含む3打数3安打、
第2戦も3打数3安打で、2試合で10割。
第3戦も4打数2安打で 10打数8安打の8割!
その後2試合で6打数1安打だったが、
5試合通算16打数9安打、打率.563を打ち
日本シリーズMVPに選ばれる活躍で
巨人初の日本シリーズ優勝に貢献した。
 
1952(昭和27)、1953(昭和28)年はベストナインに選ばれる活躍。
1956(昭和31)年に現役を8年、40歳で引退した。
 
短い期間だったが、戦後、二リーグ制になった
プロ野球界で代表される好打者であり、脇役にも主役にもなれる
存在感を持った選手だった。
 
しかし、1950年に西鉄と南村争奪戦をやった巨人は
1956年のオフ広岡達郎の披露宴で「契約解除」を伝える
非常な通知をした。
 

 

 

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データ協力 日本プロ野球記録

データ協力 たばともクラシックSTATS鑑賞

データ協力 篠浦孝氏

 

別当 薫

1920年8月23日~1999年4月16日

兵庫県西宮市出身

右投右打 外野手

 

旧制甲陽中学時代はエースで4番。

甲子園大会に3回に出場。卒業後慶應義塾大学へ進学。

東京六大学通算35試合出場、133打数47安打、打率.353、1本塁打。

 

1942(昭和17)の春季リーグで

当時史上最高打率の.500を打ち首位打者に輝いた。

1943(昭和18)年10月16日に行われた出陣学徒壮行試合

最後の早慶戦)では慶大の4番・センターとして出場。

 

戦後、慶大を繰り上げ卒業後、

1947(昭和22)年にノンプロチームに入団、

同年に中学時代からのファンだった大阪タイガースへ入団。

 

1年目の1948(昭和23)年はオープン戦8試合で7本塁打を放ち、

公式戦でも6月半ばまで首位打者を走っていた。

しかし、盗塁で滑り込む際に左足を骨折して3ヶ月戦列を離れた。

後半戦には復帰録したが、規定打席に52足りなかった首位打者jにはならなかった。

 

1949(昭和24)年。今も語り継がれている「ダイナマイト打線」で

3番別当、4番藤村冨美男を中心に

とてつもない破壊力でで打率.322、39本塁打、126打点を記録した。

 

1950(昭和25)年、2リーグ分立時

多くの阪神選手と共にパ・リーグ新球団

毎日オリオンズに移籍。

 

そこでも打率.335、43本塁打、105打点を記録。

パ・リーグ初の本塁打王、打点王に輝き

毎日オリオンズ優勝に大いに貢献し、MVPにも選ばれた。

同時にトリプルスリーも記録、打って、走って大活躍だった。

 

ただ、人望と人気があった別当は

1952(昭和27)年の「平和台事件」によって

兼任監督となり、現役1本とはいかず、

中途半端な数字になってしまったのは残念だった。

湯浅禎夫~平和台事件がすべての栄光から転落してしまった野球人~

 

↡ 野球雲チャンネル

 

スマートな体型に眼鏡をかけた強打者。

別当薫は大下弘と違ったセンセーショ ナルな登場をした。

甲陽中から慶応義塾 大学に進んでからも、

光の当たる場所を 歩き続け、戦後大阪タイガーズに入団し、

すぐに藤村富美男と二枚看板。

 

野球選手 というより役者のイメージだ。

優しい男 が激しい走塁や強烈な打球を放つその姿に女性ファンも燃えた。

 

 野球に対して大いなる熱さを 持っているが、

表に出さない情熱が都会的だ。

毎日に移籍する際も、 若林忠志に一任する姿勢もそうだ。

 

毎日に入団後も、大阪時代と同じ ように本塁打を打ち、

ヒットで出 塁すれば、果敢に走塁をし、トリ プルスリーを達成する。

初代ミス ターオリオンズの誕生だ。

 

別当の 都会的雰囲気が毎日オリオンズの イメージを決めたのも過言ではな い。

 現役生活は短かったもの通算3割を 超え、

監督になっても優勝はなかったが 

1000勝を達成出来たのは別当のス マートなイメージと

選手を育てる寛容さ を持っていたからに違いない。

 

1999 年4月16日死去(享年 78 歳)

1988年 野球殿堂入り。
 

 

 

 

 

 

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