2022


夢を見るには眠すぎる

 目が覚めると外は一面の雪景色に変貌していた。「すごいって、早く会社行って雪かきした方がいいよ」と妻がいう。もう少しだけ布団の中でグダつきたい。隣で寝ている息子の顔を眺めていたいけれども、妻のいうようにぐちゃぐちゃになった顧客用の駐車場のことを考えると、もう嫌な気持ちでいっぱいになった。この季節は全部マイナスからスタートしていくのが嫌だ。たとえプラマイゼロまで持って行っても、くだらない書類の空白を埋めていかなければならない。寝息を立てている息子のさらに隣で寝ている娘の顔を覗き込むと、私に気づいて信じられないくらい笑顔で笑っている。妻は先に目を覚ましており、蛍光灯もつけず私のお弁当を作っていた。これから始まる絶望的な季節、金にならない労働が幾分か頭をよぎっているようだった。だいたいこの時期になれば”こんにちは、雪です。一年ぶりですね”といった具合に簡単な挨拶にくるものだったから油断していた。”あー降ってきやがったなー”と思った翌日には、特殊作戦群が扉の前に"ステンバーイ…"と待ち構えていた。


繋がりとか縁とか言うとちょっと恥ずかしい

 ここに集まった人みんなは"何かのご縁"で集まっていると思います。今日を迎えるにあたって、僕とイトーくんの縁はなんだろうと考えました。出身も違えば大学も学部も違うし、サークルも違うし、仕事も趣味も多分違うし、多分国籍が一緒くらいなもんで、たまたま今から10年以上前にいった神楽坂の竹子——ほんとうにひどい飲み屋ですよ——の一角でたまたま隣のテーブルに座っていて、たまたま私の元カノの友達——それも2、3回しか会ったことなかったんですよ——といっしょにいて、酔った勢いで話しかけてみて、そのまま仲良くなるという縁が、ここまでずっと残るとはあの時思わなかったです。今になってみれば何であの飲み会行ったかも、逆になんで自分があの飲み会誘われたかも今ではよくわかんないし、もうすこし気持ちが乗らなかったら外に出なかったかもなーとか、竹子のビールがもう100円高くて上等なものだったらあそこまで酔っ払ってなかったかもなーとか、その後なんとなく皆んなで東京タワーまで歩く気分にもなってなかったかもしれないです。なんというか僕はラッキーだなーと思ったんです。

 そうして思い返していると、一緒にいると楽しいかもとか面白いことがことが起こるかもしれないという予感のようなものが縁だったのかなーと思うのです。よくわからん人付き合いには、ふわふわと縁なんて言ってヘラヘラ誤魔化してしまうんですけど、今日はもう少しだけ踏み込んでみるとあの時確かに"いい予感がした"んだって、やっぱり楽しいそうだなって予感が、あの時したんだと思います。みなさんも、お二人も、きっとそうじゃありませんか。

 そして、その元カノの友達はイトーくんと飲んだくれているうちに、今では直接の大事な友達として、今日まで仲良くしています。彼女はいまロンドンにいて、ここに来ることができませんでしたが、手紙をいただいておりますので、代読させていただきます。

Hからの手紙を読む

 結びになりますが、今日はお招きいただきありがとうございます。奥様とは今日初めてお会いしますが、二人が本当に愛し合っていることが身にしみてわかって、すごく嬉しいです。イトーくんをよろしくお願いします。今日は李賀のように飲みすぎるなと妻から釘を打ち込まれておりますが、たくさんお酒を飲んで、仲良くなって楽しい気持ちで帰りましょう。こんにちの縁が、美しい予感が、ずっと続くことを祈念しまして、お祝いのあいさつとさせていただきます。


手紙の中で語られた、昔イトーくんが酩酊状態で突如として朗読した李賀の漢詩

琉璃鍾
琥珀濃
小槽酒滴眞珠紅
烹龍炮鳳玉脂泣
羅幃繍幕囲香風
吹龍笛
撃鼉鼓
細腰舞
況是青春日將暮
桃花乱落如紅雨
勧君終日酩酊醉
酒不到劉伶墳上土

ガラスの杯は濃い瑠璃色に輝いている。
小さな桶から酒が滴って紅の真珠のようだ。
龍を煮、鳳を包み焼きすると、玉の脂がジュージューと泣くようにこぼれる。薄絹の帳と刺繍した幕にいる囲まれた中に、かぐわしい風がそよぐ。
龍の笛を鳴らし、ワニ皮の太鼓を打ち、白く美しい歯の美女が歌い、細い腰をくねらせて舞う。まして春だ。日はまさに暮れようとしている。桃の花は乱れ散り、紅の雨のよう。
君に勧める。一日中、ぐてんぐてんに酔いたまえ。かの劉伶でさえ、墓にまで酒を持ってはいけなかったのだ!


今年生まれてきた娘についてのごく個人的な考察

 兄妹そろって妻寄りの顔つきなので、3人並んでいると本当にそっくりだなーと思う。加えていえば、妻は3つ子なのでこの世に似ている顔が6つあることになる。ややこしい。


じゃがいもについて

「ねえ僕は実はさ、じゃがいもってあんまり好きじゃないんだ」

「えっ?! どういうこと?? 私むしろ入れるようにしてたんだよ?お腹いっぱいになるかなって思って、それも結婚してから5年もたってるのよ?本気で言ってるの?」

「そうなんだよ、そこなんだよ、だっておなかいっぱいになっちゃうじゃないか。それだけでおなかいっぱいになっちゃうのが僕はダメだったんだよ実は」

「飢饉かよって思ってしまうんだ。いや、フライドポテトとかは別になんともないし、なんというかコロッケとかはむしろ好きなんだ」

「めんどくせー男だなオメーは。むしろなんにでも入れてたわ。これでもかってくらい」

「汁物に入っているやつが、なんか違うなってなっちゃう。いや、食べるよ別に、なんていうか食べれないわけじゃないんだ」

「同じコストでいろんなもの食べたいんだよ。人参とか玉ねぎとかは同じ量食ってもお腹いっぱいにならないでしょう?他のものも食べれるわけよ、米とか」

「ところがじゃがいもってマジでお腹いっぱいになるじゃん。さっき道の駅で買った郷土料理の汁物のなかに死ぬほどじゃがいも入っててさ、これじゃあじゃがいもじゃんって思っちゃって最低だったマジ。それでやっと気がついたっていうかさ、じゃがいもそんなに好きじゃないって。好き嫌い殆どないからさーあんまり考えたことなかったんだよ。いままで。そもそも山菜汁にじゃがいもいれてくるあたりセンスないよ。あの店潰れるぞ。僕は山菜が食べたいよ」

「ポトフはよく食べるじゃん」

「ポトフはギリギリ許せる。味がするから。嫌いなわけじゃないんよ、普通に食べるし」

「めんどくせー男だなーーーマジで」

「カレーは?」

「カレーはじゃがいもっていうかカレーだからイケるな」

「5年も真顔で好きでもないじゃがいも食べるのやばいって」

「そういうの早くいってよ」


今年買って買ってよかったもの

小型のマッサージガン
マツダのcx-5(ディーゼル4WD)
デスストランディング(いまさらプレイして最高傑作だった)

この記事は2022 Advent Calendar 2022の5日目として作成されました。前日は nobokoさん、明日はまとさん⭐️🇶🇦さんです。

思い出すこと①

 時間がただ過ぎていって、その日にあったことの少しでも思い出す瞬間も無くなっている。テレビ電話で幼い我が子と電話する。知らない間に言葉も増えているものだ。プラスチック製の青いイルカのおもちゃを手に握りしめている。いいね、イルカ買ってもらったんだねと私が話しかけると、イルカ違う、これお魚よ?と彼はいう。厳密に言えばイルカはお魚じゃないけど、どこでそんなこと覚えてくるのだろう。いつから「違う」とか、そういうのがわかるんだろうと毎日不思議に思う。

 なんでこんなこと思い出すんだろうということもある。古い友人のことである。彼の就職が決まったときは、そうかもう地元に帰るんだなァとアパートで酒を飲みながら、もう根性の別れみたいに固く握手をしたんだった。まァそっちにも遊びに行くし、なんて。でも一ヶ月も経たないうちに、蓋を開けてみたら新宿支所で働くって聞いて、お互い気まずそうに連絡を取り、幻となった恥ずかしい別れの握手について揶揄したものだった。俺たち、こんなふうに手を握ったなって具合に。それからも、当時私が住んでいた新宿のアパートにも休みの日にはたまに遊びにきていたし、次の日休みだってときには夜遅くまでHalo4で遊んでた。それから数ヶ月もたって、なぜだかわからないけども連絡も取れなくなった。以来8年近く会ってない。その後どういう因果かはわからないけれど、特に大した信念もなく、彼と同じ職業についた。多少、自分には彼と似たところがあったかもしれないとそのときは思った。

2021

藍色の影

 セブンイレブンで印刷した「知ってて知らない鳥の町」を読みながら、2021年の話を書いている。

 しばらく日記を書くことから離れていたこともあり、この一年間で何があったか、思い出すのに時間がかかる。半年以上日記を書かなかったのは初めてかもしれない。今年はあまり本も読まず、メモも取らなかった。部屋が狭すぎて落ち着いて作業する場所がほとんどなかったからかもしれない。今年唯一のメモは宮沢賢治の詩の一節で、「衝動のようにさへ行われる/すべての農業労働を/冷たく透明な解析によって/その藍色の影といっしょに/舞踏の範囲に高めよ」と書かれている。コロナ禍中で仕事中は厳しい局面に出くわすことが多かったが、この詩が心のなかで生きていて、一歩退いてダンスステップを踏んでやろうという気持ちになれた。

氷濤

 今年の二月頃、北海道を訪ねてきた友人たちと支笏湖の氷濤を見に行った。コロナ禍で旅行も飲み会も友人たちへの再会も後回しになっていたところに、楽しい一日が舞い込んできた。氷濤は水をスプリンクラーで吹き付け凍らせて作った氷のオブジェのことで、ただ巨大な氷の柱みたいなものもあったし、小さなお城みたく中に入ったり登れるものもあったりして、面白かった。巨大な構造物に囲まれていると、なにか悪ふざけめいた感じもあった。地域のイベントは行ってみたらやっぱり面白い。

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転勤

 街から街へ、住み慣れた場所を離れるのはいつも寂しいが、それでも不思議とそこに留まりたいという気持ちは湧かなかった。むしろ知らない街で暮らすことに期待感がある。妻はそうではなかったようで、なにか気に触るたびに新しい土地への不安を漏らしている。行政の行き届いた札幌のような街から出て、人生で一度も訪れたことのないような辺境の街に住むのは普通の人間からすれば相当なストレスに違いない。屈強なアルバイトふたりが小分けにされた我々の生活をすみやかに運び出すと、掃除の行き届かなかった部屋の隅からほこりが噴き出してきた。すっかり入居当時の広さを取り戻した1DKを眺める。夫婦ふたりきりになるのも久しぶりだった。あの時はちがうよ、ああだったんだよ。私だけが単身赴任して、君は後から来ただろう、それでどこかで美味し物を食べようって言って、結局よくあるチェーンの居酒屋に入ったじゃないか。札幌に来てからの4年半で何があったか話し合う。

 息子は作業の手伝いを真似ながらもガムテープを投げたり、しまったミニカーをどこからか出してきたり邪魔しかしないので、ぎりぎりまで保育園に預けている。いつもの帰り道とは違う方向に向かっていく予定であることなど何も知らずに、今頃昼寝でもしているものだろう。あと数時間もすれば不動産屋が鍵を取りに来る。追加で料金が発生しない程度には掃除を終えてしまいたい。部屋の隅に生えたカビを落としたり洗面台を磨いたりする。この汚れは実は擦ってみれば落ちるものだったのだと気付く。この一週間の疲れがまるで遠泳を終えたあとのように降りかかる。転勤が決まってから、ほとんど息継ぎなしで泳いできたようなものだ。勤務最終日まで、やらなければいけないことは燻っていた。私しか理解していない顧客の引き継ぎ、こうでもなければ手をつけるのを後回しにしていた仕事が次から次へと現れたのだ。

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 最後に会えていなかった顧客との面談を終え、保育園で息子を回収する。今日のさようならは少しだけ意味が違うんだよ。また明日という意味が入っていないんだよ。さようならをいうのは少しの間だけ死ぬということだよ。この一年間で書いた絵(のようなもの)や画用紙でできた花束、保育園でのふれあいの結果をトランクに詰めこむと、港に向かって車を走らせる。ワイパーもほとんど意味がないくらい、強い雨が降っている。高速道路を降りてしまうとほとんど明かりもない。前方の車のテールライトを必死に目で追いながら、初めて通る道を進んでいく。カーステレオからはなっている音楽を遮って、スマートフォンが道を案内してくれる。だけど2km先を右折と言われても自分にはどこがその2kmなのかわからない。スマートフォンがそういっているだけで、ほんとうはこの先に道なんてなくて、巨大な穴に吸い寄せられるように落ちていっているのではないかとさえ思われた。

 港は月面に存在する基地のようだった。巨大なトレーラーがフェリーの底に何台も格納されているなかにいると、にわかに私の車がおもちゃのミニカーのように感じる。もうすぐ家族も増えるし、車を買い替えるのも良い機会かもしれない。フェリーには大浴場があって、浴槽のお湯は船の揺れに合わせて海と同じくらい波打っていた。同じく風呂に入っている男どもと浴槽の中で鮨詰めになり、その不愉快な揺れは自らの力で抵抗できるようなものではなく、海中で漂う昆布のごとく揺れているのはなんだか面白かった。嫌な出汁が出るだろう。船に乗るのも久しぶりだ。最後に乗ったのは高校生の頃で、北海道の音威子府村までスキーの合宿に行った時以来だ。私がなにから難しい顔をしていたためか、一緒に乗っていた自衛隊員から先輩と思われたのか「お疲れ様です」と頭を下げられる。そうだよ、俺は疲れているよ、と思った。

 どうぶつの森が面白いのは転勤するのに近いかもしれないなと思った。新しい場所で暮らすということ、自分のための拠点を一から作り始めること、そこで身を立てることは、人生最大の娯楽のようなものなのだ。どこに家具を置こうとか、ルーターをどこに隠そうとか、テレビ周りの配線を組み直している時とか、ホームセンターに工具を買いに行くとか、まんまどうぶつの森だった。相違があるとすれば、飯を食べたり、気の進まない仕事に向かっていったり、強かな人付き合いの連鎖が常に降りかかってくるというところとか、年金だとか税金だとかの手続きからは逃れられないとか、もしそういう仕様が一つでもあったらあのゲームは台無しかもなと思った。どうぶつの地方都市なんてだれもやりたくはない。引っ越しの費用をケチって単身赴任用の部屋に3人で住んでいたのは本当に無理があった。後からきた後輩もみんな私の前例に習って同じように結婚し、同じ場所に住み続ける悪き風習を残してしまった。家賃のほとんどが会社負担で金銭的な余裕は大きかったが、家族用の冷蔵庫みたいな大きい家具は搬入できないし、3人で歪に布団を敷いて寝たりするのはあまりよくなかった。転勤先には家族向けのアパートがほとんどなかったため、謎の一軒家(周りは草原)を支給されている。家主だって立てたことを忘れたんじゃないかというくらい古めかしい外観だったが、思っていたよりも中は綺麗だった。相応に広いし、納屋だってついている。冬タイヤをベランダに並べておく必要もない。やっと好きな家具を置ける。40万円分も家具を買い集めるのは楽しかった。冷蔵庫もやっと買い替えることができた。それまで使っていたのは大学生の時に買った無印良品の冷蔵庫で、キャベツ一個買うだけで満杯になっていた。新しく買った三菱の冷蔵庫はキャベツはおろか白菜まで何個でも入る。すごい。野菜の持ちも全然違う。そうして完成した部屋はどこかおしゃれにはなりきれなかったが、私も妻も満足していた。

ざっくりとベストよかったこと

 今年よかったことといえば、来年の春くらいには子どもが増えるということで、日記を書き始めた頃から随分状況も変わったなと思った。もちろんアドベントカレンダーに書いている20xx年からも、変わっている。毎日全く同じような一日を暮らしているような気がするんだけど、一年間振り返ってみるとやっぱり違う場所にたどり着いた気がする。目を瞑って足踏みをしているように。一年も足踏みしていればもう別の場所の別の人間だろう。

 あんなに色々言われていたオリンピックだって今年だった。オフィスが競歩会場に面していたために、かなりいい位置から見ることができたのはよかった。歩いているとは思えないくらいめちゃくちゃ早かった。

 ほかにもチョコボールの金のエンゼルが当たったり、スーパーに行った帰り道にでかい虹をみたり、人生で初めてパーマをかけたり、Apexでソロダイヤ達成したり、そんな一年でした。

 この記事は2021 Advent Calendar 2021の5日目として作成されました。前日はoooooooooさん、明日はnnca_ntnさんです。

 何がアイフォーン13だ、俺は30だ、馬鹿野郎とカリフォルニアに向かって叫んでやった。焼け跡からは遺体が見つかった。

 久しぶりに帰った故郷は恐ろしいくらい静かで、酷く居心地が悪かった。転勤によって故郷は陸続きとなり、その気になれば車で何時間かかけて帰省できるにもかかわらず、精神的な距離は以前よりもずっと遠くなってしまった。従来の私には多少なりとも故郷の近くで働きたいという気持ちがあったが、今日に至るまでに私のことを誰も知らない街でもう一度ひとりになってしまいたいと思わせるような機会は、幾らでもあったのだ。そこには自分が撃ち込んだ弾丸もあれば、他人に撃ち込まれた弾丸もあった。あのヨボヨボなったアホ犬がヘロヘロとよってきて私のことを噛んだりするのですら愛おしかった。今ではもう新しい犬を飼っていて、その犬はすごく若々しくて力があって、アホ犬はすでに火葬を済ませ、私の携帯の待ち受けのなかにのみ、その眼でなにを語るでもなく佇んでいる。なぜだか帰る家を急に失ってしまったような気がした。

 しばらく会わなかったMの話を、スナックで古い友人と飲んでいるときに聞いた。少なくとも元気というか、ほとんど正気を失ってしまっていて、墜落といっていいくらい人生を早送りするような行動を起こしている。そこまで行ってしまったらもう戻っては来れないのではないかと私は思う。どうしてこんなに袂を分かってしまったのだろうか。なにが分岐点だったんだろうか。その日はすでにビールだけで10Lは飲んでいたから、完全に出来上がっていて、はっきりとした理由を探そうと思ってもできなかった。ただ時間だけが過ぎていって、寝ている妻を尻目にそっと布団の間に潜り込み、大きないびきを書いて寝てしまった。夜中に長距離走に付き合ってくれたり、ナイタースキーをしていたときだってあったはずなのに。ランニングシューズを一足、隣に友人がいれば、どこまででも走っていけたものだったのに。

 たぶん本当に戻る気を起こせなかったら一生私の前に現れることはないだろう。去年の12月頃に連絡が来たとき、過去の私のままだったら、おそらくそのまま会っていたかもしれない。やり直したいという言葉を受け入れてしまってもよかったかもしれない。でもそのときは、私がなんとか自分の力で築き上げてきた家族を必要のない苦労に巻き込む必要もあるまいと、なにか適当な理由をつけて断った。実際に飛行機に乗ってまで会いにいくほど、強く気持ちを動かされたほどではなかった。というのも私が受けていた弾丸はずっと心の奥の方に埋まったままだったし、それを少しでも取り去るような言葉も感じられなかった。心の奥底で考えていることは、言葉にしなくても多少は伝わってしまうものだ。良いものも悪いものも、たとえ隠そうとしていてもその人の言葉や雰囲気にある種の響きを与えてしまうのだ。自分が本当に求められているかどうかも分からず、ただ穴のほうに向かって馬鹿みたいに吸い寄せられるのも、騙されているような気がして、そして自分が思っていたより用心深くなったことに対してなぜか苛立っていた。そして、人付き合いをあっさりと金に変えてしまうような連中に私がウンザリしているだけなのだ。

 転勤族のいいところは転勤するたびに多少なりともリセットできるというところだろう。閻魔帳には私の数々のしくじりが事細かに描かれているのかもしれないが。

フラニーとズーイ①

 猿は二日酔いになると、二度と酒を飲まないらしい。私は二日酔いになったが、帰り際になんとなく寄ったコンビニでまた酒を買おうとしている。私が猿より馬鹿なのか、それとも私の暮らしている世の中が猿の暮らしている世の中よりも過酷だからなのか、あるいはその両方かもしれない。いずれにせよ、二日酔いになった後でも「この世はまだ生きている価値がある」と思うには大切な友達や妻の手を借りなければならない。しかし家に着いた瞬間に、玄関や風呂場で盛大に吐き散らしてしまったので、後者の支援を受けることはできない。風呂場でゲロまみれになって寝ていたが、わずかに残った慈愛の精神が私を介抱させるに至る。そして私はその日もどうにか生き残った。「あんた何歳になるのよ」と叫ばれたのを覚えている、そしてどうにか振り絞るようにして「三十歳です」と答えたのも覚えている。

 相変わらず電気ケトルでお湯を沸かしてお茶を飲んでいる。歯を磨いたり、目薬を挿したりして、ほとんど寝ようかと思ったところで机の上に置かれた本が目に留まる。フラニーとズーイ。読書の記録によれば、初めて読んだのは二十三歳のときだった。村上春樹の新訳をきっかけにして、当時早稲田町にあった「あゆみブックス」で買った気がする。当時私は早稲田大学に通っているわけではなかったが、早稲田町に住んでいた。そのことは自己紹介をやや複雑にした。大学がある以外特色はないが、好きな町だった。銭湯が三つもあった。そのうちのひとつの銭湯には人生で最悪の思い出がある。私が体を洗っていると、二つ隣の椅子に座って体を洗っていたおじさんが俄然「アッ」と叫び、飛び跳ねるように洗い場の排水溝の蓋を開けた。そしてそこに最低の下痢を投下した。そして私はそれをマジマジと見てしまった。それ以来私はその銭湯に行っていない。

 当時はフラニーの章のレーンの薄っぺらさとか、インテリ批判みたいなものを感じて説教くさい印象を中心に持った気がする。泥酔した日に会っていた友人がその面白さを語ろうとしていたので、そんなに面白い話だったのか検証しようと思って買ってきたものだ。「こんなに面白い話だったんだ!」という例の冊子の存在も忘れていた。最初からその冊子を読んでしまうと、自分の感想も偏りそうだったので最後に読むことにした。

 後少しで読み終わるところまで来ていたから、今日は夜更かしして読み切ってしまってもいいと思った。部屋の明かりはLEDの眩しいものしかなくて、キッチンのあかりだけは蛍光灯だから、スイッチを入れると何度か力を込めるようにして点灯した。妻は何故だかキッチンの明かりが嫌いだという。だからいつも料理を作るときに、鍋の中がどんな色になっているかわからなくて、煮込みすぎたり足りなかったりする。ああいえばこういう性質だから、そういうことを指摘しようものなら、だって蛍光灯嫌いなんだもんと彼女はいう。どこからか黴臭い匂いがして、排水溝の奥の方かもしれないのだが、覗き込む気にはならない。他の人はどんな感想を持っているのだろうと調べてみても、あまり有益なものは見つからなかった。こんなにインターネットが普及しているのに、サリンジャーの小説の面白さをきちんと説明できている人を探すのは骨が折れる。面白さを文章にしようとするとかなり難しい気がする。

 本を一冊読むのも一ヶ月くらいかかる。育児や仕事に追われている。自分自身が何か変わったというわけではないのだ。本来の仮面、職業上の仮面、夫としての仮面、父親としての仮面が新たに追加されただけのことだ。そしてその仮面が一致している人もいれば、恐ろしく乖離している人もいる。

「当然誰にだって内緒にしておきたいことはあるわ。後ろめたいことだからじゃなく、ただ内緒にしておきたいから。私にも2つや3つ、あんたたちにも知られたくないことがあんの。」

溝と暗流

 よくお茶を飲んでいると言われる。それまではカフェインなしに脳みそを奮い立たせることができず、コーヒーが手放せなかった。気に入った喫茶店からいつも豆を買って飲んでいたし、朝は妻にコーヒーを淹れてもらうのが好きだった。ついには自らコーヒーの生豆を焙煎するほどのコーヒー党だったが、なんとなく苦いのが嫌になってきて(そのために飲んでいたはずなのだが)飲まなくなってしまった。休日にベランダで煙を出しながらコーヒー豆を炒めるのは、ほとんど呪術のようなものだった。今はほうじ茶ばかり飲んでいる。私があまりに美味しそうに飲む為か、息子はコップで水を飲むたびに私の真似をして「アー」と声を上げる。私は本当にこんな顔でお茶を飲んでいるのかと思う。コーヒーほど凝ったことはしていない。透明な急須を気に入って使っていたが、それも面倒になってスーパーで買った50個入りのティーバッグのほうじ茶を愛飲している。ティーバッグ?ティーパック?いまだにわからなくなる。調べたらティーバッグ(tea bag)だという。

 一日に何回か飲んでも一ヶ月は持つ。そうして一日に何度も電気ケトルでお湯を沸かす。新入社員だった頃に買ったもので、ステンレス製、コーヒー用のヤカンのように注ぎ口が細くなっている。水を入れて沸かすだけだから、あまり真剣に洗ったことがなく、底の方が薄黒く焼けてしまっている。何か電気的な変化なのかもしれないが、はっきりしたことはわからない。ケトルの周りは水垢やら油ぎった埃が張り付いている。いつも握っている黒いプラスチックの取っ手だけは感触が滑らかだ。お湯が沸いてもそれを知らせてくれるわけではない。控えめにカチリと音がなってレバーが戻り、オレンジ色のランプが消える。だから時折お湯を沸かしていたこと自体を忘れて、黙々と作業にのめり込んでいる時がある。そうしている間にお茶が飲みたくなって、全てを忘れて、またお湯を沸かしてーー。

 月の裏側でほうじ茶を飲んでいるとは誰も思うまい。灰を固めたようなビスケットを齧る。長い休暇もいよいよ終わりが見えてきた。ほとんど仕事に行かなかったので、高等遊民になりたいという長年の夢も半分くらいは実現した。職場から時折電話が掛かってきて、簡単な指示を出したり、簡単な報告をする。あるいはプレステをいじるか、合間に去年買った量子力学の本を開いて何やら計算する。息子のために買った落書き帳もほとんど計算用紙として消費されており、妻はその様子を不満げに見ている。妻はコールセンターでバイトをしている。色々な電話が掛かってくる。大抵の人は、妻の対応に満足してくれるが、中にはそうではない人もいる。そもそもこの時代に電話をかけてくる人は大抵何かに怒っている。帰宅すると時折妻が愚痴のようなものをこぼす。「そんなこと言われる筋合いはないわ」と彼女は言う。妻は私と一緒で、たぶん正しく怒ることができない人なのかもしれない。何か恐ろしい言葉で呪いをかけられると足がすくむし、口も乾いてきて、頭がぐらぐらする。家に帰ったあたりで、はっきりしてくる。私はあんなこと言われる筋合いはなかった、と。

 カチリと音をたててシリンダーがひとつ分だけ回転する。

 駐車場は吹きさらしになっていて、車が雪の中に沈んでいる。もしも自分で家を立てたら、絶対に車庫付きにしようと思う。この労働から解放されるなら月々のローンが数千円増えたって構わない。幼い頃は雪だるまが複数個作れることや、一か所に雪を集めてかまくらをつくることを考えたかもしれないが、今では意味を見出すことができない。大気中の水蒸気から生成される氷の結晶が空から落下してくる天気。

 ブーツを買わなければ、と思っているうちにもう二月になってしまった。そして文章を書かなければと思っているうちにきっと三月になってしまう。我が子が泣き叫ぶほどにパソコンから遠ざかっていき、社内の文書規定に従ってしまう癖がついてしまった。同時にあらゆる政治的な扇情から身を引いた。自分でもわからないくらい、不気味に、あらゆるものからから遠ざかっていった。思うに自分が自分から遠ざかっていったということに他ならなかった。つまりこの半年ほどは自分どころの騒ぎではなかった。直接的に肉体が変容していった妻に至っても同じ意見だった。我慢しているうちに全てが先送りになっていた。会社の朝礼で次のようなスピーチしたが、この記録を残しながらなんの教訓にもなっていないことがわかった。「ものごとを先送りにしてしまうのは人間の心理作用の一つであり、先送りにしてしまうことに対して先輩方が単純に先送りするなというのは筋違いで、先送りの原因となっている障害を取り除かなれけば先送りを解消することはできません。」などといったのがすでに数ヶ月も前の出来事だった。

 今年は小雪だったから足元の悪さを気にすることは少なかった。必要なはずなのに、必要なものほどその要否は審議にかけられる。なんでもいいから買ってしまえばいい。鉄製の先が尖ったスコップ、氷を砕くためのツルハシ、防水ブーツ、結露防止のシート。私の持っているものは、ひと月も人の手が加わらなければほとんど雪の中に沈んだまま元にはも戻らない。誰かが通った跡に足先を嵌め込むように歩く。深い部分は湿っている。同じ建物に住んでいる上司だろうか、私より足の長い誰かが通った跡だ。そうしてやっと車にたどり着く。表面は息を吹きかけると飛び散るような軽い雪で、溶解と凝固を繰り返した深層部は重く張り付いている。助手席側の雪をスコップで寄せる。ドアを開けて車内から雪と氷を剥がすヘラ取り出す。スキー用に買った高級な手袋も、ほとんど雪かき専用になってしまった。

 暖かいところで暮らしたいとずっと思っていたのに、どうして北上する羽目になったのだろう。こうして生まれてから死ぬまで雪との格闘が続く。鉄、水、スコップ、血液と石鹸。なにか新しいものを生み出しているわけではない。誰かがやらねば、誰かが困る。そう思っていたが、ある時からそのくだらない作業をしているうちに、自分から遠ざけてしまった自分自身が、ぴったりと戻ってくるような気がする。凍えるような寒さのなか、身体中の隙間を見つけては入り込んでくる薄暗い冷気を切り分けながら、側溝に雪を流したり、庭の裏に向かって雪を捨てにいく。深夜に夜に雪を寄せているとより特別な気分になった。一面雪に覆われていれば、月明かりだけでそれなりに明るく見えるものだ。幼い頃、同じように深夜に雪を寄せる父の姿を覚えているが、今の私とほとんど同じ気持ちだったのかもしれない。

 そういえば、側溝にはいつからかわからないがほとんど水が流れなくなった。地域によっては側溝に雪を捨てるのは罪になるそうだが、私が生まれた街ではそういうことはなかった。側溝を流れてくる水が、果たしてどこから流れてくる水なのかいまだに分からない。一度その溝の先を辿ったことがある。民家と民家の間に吸い込まれるようにコンクリート製の溝は続いて、より大きな河川までたどり着いたが、その河川の方が側溝よりも下に位置していたので、結局水がどこからきているのかは分からなかった。その溝は自分も知らない深い場所で静かに分岐し、未知なる水源に接続されているようだった。しかし、無限に水が流れてくるかに思われたその溝も、大学を卒業して故郷に戻ってみるとカラカラに乾いていた。もはや雪が詰まっているだけのくだらない窪みになっていた。そして流れがほとんどなくなった溝の底にはほとんど樹木のような硬い植物が生えていた。この辺りの子どもたちは、いや私だけかもしれないが道に生えている草をちぎって、側溝に流してはどの草が一番早く流れるか調べたものだった。だからアスファルトから突き出している草木という草木はほとんど生えた瞬間から抜かれていったものだった。そういう遊びがこの辺りの無秩序さを押さえ込むのに一役買っていたとはに夢にも思わなかった。私たちはあの街で秩序の一部分だった。

月の裏側

 寝かしつけのために息子を抱いていたら突然嘔吐した。さっきまで吸っていた母乳が噴出し、私の肩はゲロまみれになった。はじめはご飯を食べ過ぎたのかと思ったけれど、その後も嘔吐を繰り返したために、眠ろうとしていた我が家は騒然となり救急へ向かうことになった。私はもう既に金曜日にたどり着いて、土曜日を無難に過ごし、日曜日を迎えるためのアサヒスーパードライを飲んでしまっていた。深夜0時を過ぎた頃、妻が文句を言いながら慣れない運転を始めた。猛烈な寒波の影響で、朝から晩まで寒かったから路面の状態は悪くなかった。救急センターは街の中心部にあって、普段アパートとスーパーマーケットの間しか運転しない人間にとっては緊張の伴うものだったろう。「今はコロナだし、車通りもないから君でも運転できるよ」と説得した。私はここ数年でだいぶ交渉が上手くなったような気がする。

 街は冷蔵庫の中みたいに静かだった。仕事をしているときは何度も救急センターの近くを通っていたはずなのに、目的地に設定した途端にあたりの景色が現実味を帯びてきて、初めてくる場所のように感じた。地下の駐車場はツルリとしていて、精巧にできたおもちゃのような車が不規則に並んでいた。問診票を記入して待合室のベンチに座る。私たちの他にも数人が、各々の症状を抱えて淋しい小石のようにうずくまっていた。息子は見たことものない緑色のゲロを少しずつ吐くので心配だったけれど、医師は「ウイルス性の胃腸炎」と診断した。「危険な病気の可能性を否定してあげれば大体はそれです。ウイルス性の胃腸炎は感染力が強いのでお母さんとお父さんにも移る場合が多いです。」と医師は言った。私はその診断を多少疑っていたが、翌日になって妻が嘔吐し、私も胸のあたりが一日中ムカムカして、身をもってそれが確かであることを理解した。

 そういえば前にも牡蠣に当たったことがあった。あれはいつだったかと、アーカイブを辿っていくと2014年の3月のことだった。もう7年も前のことで、私は生き延びた。幸運なことだ。読み返してみると今と全く文体も違っているので、そこに存在していたのがもはや自分ではないような気がしてくる。私は当時付き合っていた彼女の実家で牡蠣を食べた。同じものを食べた彼女のお母さんはなんともなかったが、私と彼女にはウイルスが直撃した。もしも時間が戻るならスーパーで30%オフになってる生牡蠣を買うのをやめたほうがいいと言う。大広間に布団を二つ並べて、時折トイレに行く以外は文鎮のように動かなかった。

 彼女も彼女のお母さんも料理が上手だった。キッチンは決して新しくはなかったが、いつもよく整理されていて綺麗だった。使ったコップはすぐに洗ってきちんと食器を拭いていた。私はお父さんの隣でアホみたいにムシャムシャご飯を食べてビールを飲んでいた。今でも私はアホのままだが、当時はもっとすごくアホだった。彼女の両親がどういう気持ちで私を迎え入れてくれたか、お互いに結婚した今では知る由もないがアホを家に入れてくれたことへの感謝の気持ちしかない。別れてしまった恋人のことを考えるのは、月の裏側を想像するようなものだろう。

正月

 正月は祝日の中でも特別な雰囲気がする。寒冷地の家の窓は二重になっている。窓際は結露がひどくていつも湿っているし、時々こぼれ落ちた水滴が凍って開かなくなる。雨と違って雪は音もなく降り注ぐ。眠っている間に除雪車が前進と後退を繰り返している音がしていたことを思い起こし、昨日は大雪だったのだろうと思料する。カーテンの隙間から差し込む日の光は薄暗い。遥か遠方から辺りを鈍く照らしている。雪自体が遽に青白く発光し始めたかのように思われる。体を起こし、少しだけカーテンを開くと、布地に纏わりついていた冷気が指先を伝ってくる。妻はすでに目を覚ましていて、息子は地べたに座って朝のニュースを見ている。本当にただ見ているだけで、どんな醜い出来事があろうと画面が綺麗に光っているとしか思わないのかもしれない。妻が食パンを一枚取り出して、トースターに設置する。私は朝刊を取りに玄関に降りていく。太陽も少しずつ上体を起こし始める。白熱灯のような朝日が降り積もった雪を明るみにし、地上からありとあらゆる境目を消し去っていく。やっと本当の冬が来てしまった諦めの気持ちが湧いてくる。こうしてうだうだしている自分の精神状態に、誰か頭の良い人が名前をつけてくれるかもしれない。ずっと足元は濡れたまま、しばらく地面を見ることもあるまい。

2020

歌が聞こえる

 はっきりいって何を書いたらいいのかさっぱりわからない。それまでは毎日のように、その日あったことのメモを書いていた(そしてそのうちのいくつかにパンチラインが宿っていると判断すれば、虚構と事実を織り交ぜながら再構築され、日記という体裁を保った成果物としてバス停に残された)が、それがはっきりした言葉とか内容を持たなくなってから長い時間が経過した。一日一段落が一日一行くらいになって、最後には意味のない文字の羅列になってしまって、それでも相変わらずこうしてキーをタイプしている。その日あったことを記録する。意味もなくセックスと記入する。バックスペースを4回押す。用紙に自分の名前を書く。家系図よりも入り組んだポートフォリオを眺め、稟議書を作成する。過去に向かって祈りを捧げる。薄明かりの元に人間が祈りを捧げる。あーでもないこうでもないと、今日も生が死に負けないように祈る。底なしのアホどもに道徳を解く。魂を失い、信頼の気持ちを失う。こうして一年間のうち何があったかと思い返しているうちに、目が覚めていくような気持ちがする。今までずっと眠り込んでいたような気がする。世界中が冷蔵庫の中みたいに静かになって、日曜日みたいに寂しい気がする。重い腰を上げ、自分に対して日常の報告を行う。ヘッドホンを接続し、音楽を鳴らしていると、目の前に広がった低い霧がわずかに晴れていく。どこまで広がっているか定かではないけれど少しだけ前が見えるようになる。メリークリスマス。

 今年はほとんど外出しなかったし、ほとんど人にも会わなかった。もともと人に会うのは億劫になる方だが、実際にその場所に行くと楽しくなってテンション振り切ってしまう。2020年唯一の遠出は後輩の結婚式に行ったことで、家族を北海道に残して東京を訪れた。その頃はコロナ禍も小康状態にあったが、会社や周囲の人間から理解を得るためには多少の根回しが必要になった。普段なら行かなかったかもしれない。でもお互い口には出さない友情には変えがたい。実は再会した友人たちと話が噛み合うのか不安もあった。あの交差点で別れてからすごく時間が経ってるから。あの公園の前で私は何度も振り返った。こんなことなら東京で仕事を探せばよかったのだ。そうすれば別の人生があったのだ、と私は幾度となく考えた。東京で暮らす最後の日に、浴びるほど酒を飲んでその日着ていた服を全部公園のゴミ箱に捨てて、何もない部屋に帰ったのがもう十年くらい前の話だったのだ。でもそんな今生の別れなんてなかったみたいに、地続きで酒を飲むことができたのは本当に嬉しかった。夜遅くまであーでもないこうでもないと数学のことを話し合っていたのが境目なく続いていたような気がした。新郎を含めて、みんなが後戻りできない地点までそれぞれの方法で走ってきたという感じがした。スピーチの順番が回ってきて、私は地球の裏側からでも酒を飲みに来ることを両家の親族の前で固く誓った。朝から晩まで酒を飲み、渋谷の街をろくに地図も見ないで歩き通したら、翌日には足が棒のようになっていた。ホテルの大浴場には夥しい量のカボスが浮いていた。


粉砕処理工場

 週末はゴミを捨てに粉砕処理工場へ行った。ゴミを捨てるのは苦手だ。バスケットいっぱいの電池とか、ダメになったフライパンとか、穴のあいたビニールプールといったものがベランダの隅に並んでいる。家にいる時間が長いものだから、普段は気にならないことが余計に気になる。結婚する前に買った大きなテーブルを捨てに行こうと思ったのは、こんなときだからだろう。そのテーブルは全体的に汗ばんでいて、所々マニキュアの除光液なんかをこぼして塗装が剥げている。解体するための気持ちを固め、六角レンチでネジを緩めていくと、天板を支えていたステンレス製の脚がビィンと鈍い音を立てて転がった。アパートの階段を死にそうになりながら下り、やっと車に詰め込む。そういえばこの机を買ったのは妻と付き合い始めた頃で、二人でご飯を食べる場所が欲しくて一人暮らしの部屋には似合わないようなダイニングテーブルと椅子のセットを買ったのだった。それも何故か妻の金で買った。なんというひどい男がいたものでしょうか。処分しようという私の提案を、妻は思いの外すんなりと受け入れてくれた。「私が買ったのよ?」と言われるような気がしていたけれど、スマートフォンでテーブルの処分方法を調べて教えてくれた。その後私は一時的な単身赴任をすることになり、前任者の住んでいたアパートにそれを持っていた。あらかじめ聞いていた間取りが嘘みたいに、部屋が小さく感じたテーブルは部屋の隅に置かれ、作業机、あるいはどこに置いたらいいかわからない書類や機材の置き場となっていった。半分は去年買った27インチのiMacに占領された。

 大抵のものは手に入れる時よりも手放すときの方がーー最初よりも最後の方がーー面倒なものだ。面倒だ。夫婦喧嘩だってそうだし、コロナ禍だって始めるときは楽だった。でもやめるときは多分もっと大変だってみんなわかってた。何もしなくたって勝手に結び目はできていく。人生だって始めるときは気楽なものだった。気がついたら始まっていたから。でもやめるときはきっと穏やかではないだろうな、何故なら私は死ななければならないから。死は神への負債か。宇宙だって始めるときは今より楽だった。ただ爆発すればいいから。Qfwfqじゃあるまいし。いつまで経っても潮目は変わりそうにない。今年一番いったセリフは「潮目が変わったな」と「週末で気持ち作ってきます」の二つだったかもしれない。何か仕事でアクシデントが起きるたびに、その場しのぎでそんなことを言っていた。

 「この街には3ヶ所のゴミ処理場があるようね」と妻が言った。どこも三十分くらいかかりそうな位置に分布していたが、なんとなく私は南の処理場へ向かうことにした。昼すぎの気怠い空気をかき分けて車を走らせた。冷たい空気が押し寄せるまであと少しで、常に薄暗くて雲がかかっているようだった。外れにあるゴミ処理場はサイコパスが履いている靴下みたいな色の煙突から不穏な煙を吐き出していた。付近にサッカーコートがあり、バス停と待合所のプレハブがあったが、あまりの荒廃ぶりに10年に一度バスが来ればいい方だと思った。この地域ではサッカーの試合は20年に一度開催されるビックイベントである。待合所には全く色も形も揃っていない椅子が5つもおいてあった。ゴミ処理場のそばにあって処理されていないゴミ(反骨心の塊だ)が5つも残っている。当然誰かが座るためにあるのだが、5人同時に誰がここに集まっている様子は想像できない。まとまりのない椅子の列を見ると鬼頭莫宏の「ぼくらの」を思い出してしまう。

 想像していた粉砕工場は市役所みたいな受付があるものだと思っていた。番号札を引いて、窓口の横に計量機があり、そこで料金を払うようなものだと考えていたのだが、予想に反してドライブスルー形式だった。数十キロのゴミを抱えて入り口を通れなかったらどうしようとか、二人できた方がよかっただろうかと思案していたのは杞憂だった。直接車で工場の中に行く方が簡単だろう。何十キロとある不用品をどうして市役所や銀行の窓口みたいなもっとめんどくさそうな場所に人力で運ぶのだ。事前に調べていた情報では、粉砕するゴミの重さによって料金が変わるということだった。これは料金を払う段階でわかったことだが、行き帰りで車の重量の差を量っていたのである。賢いなあと思った。ゴミを捨てるのはマクドナルドでハンバーガーを買うより簡単だった。料金所で受付用紙に持ち込んだゴミの種類を記入し、車のウインドウ越しにそれを渡す。まるで夢の国にようこそといいそうな微笑みで、「では破砕工場行きオレンジ色のラインに沿っていってらっしゃいませ!」と笑顔で送り出される。工場の内部は引き裂かれた金属や木片が山になっていた。悪い方の夢の国だ。こういう機会は一年に一回くらいあっても本当は少ない方かもしれない。何も変わっていないように見えて、実は毎年が新しい生活様式だから。


 Like a Sunday

 息子も1歳を超えたので、妻は働きに出始めた。最初はひとりで保育園に馴染めるものか気を揉んでいたが、私の思い過ごしだった。先生に身柄を引き渡す時には目の前から両親がいなくなるという事実に号泣するが、迎えにいく頃には遊びに夢中になっている。毎日少しずつ変わっていく。昨日とは別の人間になる。そういえば昨日と同じ反応ということがほとんどなかった。昨日まではなんとなく笑っていたのが、明らかに私の顔を見て笑っている。何かするたびに私の反応を伺うような表情をしている。今年撮った写真だけ見ても背が伸びて、顔つきが引き締まっているのがわかる。いくつかのジェスチュアを習得する。友達に手を振る、拍手をする、お辞儀をする。私自身も言葉より前のコミュニケーションに頼ることが増えて、あーとかうーとかいって、ニコニコしているのがこんなに楽しいことだったのかと思った。細かく切ったりんごを口元に持っていくとぐいと頭を突き出してりんごを食べる。にっこりと笑う。私が食べているところを見るのもどうやら好きなようである。

 息子が歩き始たりする兆候がなく、心配になった妻は何かの検査を受けさせようと私に言った。妻が初めての子育にすごく悩んでいるのはわかっていたし、それで何もなくて、安心できるというなら検査をしようとなった。「でも忘れて欲しくないのは、何か人生を複雑にする病気だろうと、絶対に君たちを手放したりしないよ」と私は言った。仕事の都合で、私が大学病院までベビーカーを引いて検査を受けに行った。MRIを撮っている間、私は大見得を切った割に動揺していた。内部で暴れないように固定され、麻酔を打たれる息子を見てしまったからだろうか。それともこんなに人がいるのに、ほとんどが他人だからだろうか。それとも今まさに、原理不明な電磁気が息子の肉体を貫いているからだろうか。

 ある日仕事で付き合いのあるお医者さんに「僕が、何かどこかで間違っちゃったんじゃないかって思っちゃうわけですよ」と言うと「言い方は悪いかもしれないけど、アフリカのきたねー地域でぐちゃぐちゃになって暮らしてて、ガリガリに痩せててもなんやかんやで育ってくもんなんだから心配しなくていいんだよ」と言っていた。そういう考え方もあるのかと思った。午前三時に日が上っていたなんて、意識はないけどどうしても明るいと思った。


ワールドエンドメゾン

 本当は冷蔵庫を買った話を書きたかったんですが、冷蔵庫はアパートの階段部分を通過できず、ベストバイとはなりませんでした。


今年買ってよかったもの(成果物は2021年へ持越)


エピローグ

 この記事は 2020 Advent Calendar 2020 24日目の記事として書かれました。昨日はO-SHOW:THE:R!PPΣRさん、明日はrealfineloveさんです。お楽しみに!