Q
1-バチカンのキリスト教とケルト神話~日本古神道に繋がる流れは別物なのでしょうか?
それとも、西に向かったウバイドと東に向かったウバイドの違いという事なのでしょうか?
2-「ケルト神話=ギリシャ神話=ギリシャ正教=ゾロアスター=仏教=ヒンズー=マニ=白蓮=日本古神道となり基は同じです。」とありますが、これらは全てドルイド教の亜種と理解しているのですが、ドルイド神官という存在は何時何処から発生したのかよくわからないのですが、ドルイド神官について解説していただけるとありがたいのですが。
3-上記の宗教の流れとは別かどうかわかりませんが、テンプル騎士団や薔薇十字などの悪魔崇拝(サタニズム?)がいまだにあるようで、youtubeに儀式の動画があったりするのですが、この悪魔崇拝を解説していただけないでしょうか?
A
1万年前に氷河期が終わり 北欧から南下して行ったデエーン人=ケルト民族が、サルディニア島を拠点としていた スパルタとなります。そこでケルト神話がギリシャ神話となりヨーロッパ各地に広がっていきました。
彼らは氷河期前の文明の資料を持っており、各地で栄えた文明の参謀役として入り込んでいきます。
そしてその国を裏から支配していきます。
ケルトの旗は3本足です。
カナンの地に 向かったものもおり 周りを包囲して盗賊行為をしていましたが、カナンにいた民族と義兄弟になり 12氏族という形になりました。
ノアの子供達で言えば ヤペテ系ということになります。
カナンにいたのはセム系ということになります。
最初に栄えたのはハム系でバビロニアです。
1 バチカンのキリスト教はキリストの弟子が作ったのですからセム系教義主義です。
ケルト神話とキリスト教が融和してできたものが正教会で、ヤペテ系の血族主義です。
正教会=イエズス会で、フランシスコが法皇となった時にイエズス会が乗っ取りました。
2 デエーン人=ケルト民族が、参謀として他国に入り込む時に神官の形を取ることもあります。
12氏族で言えば レビ族です。
3 現在キリスト教を廃し 自然神=ギリシャ神話多神教にしようと絶賛活動中です。
Q
キュベレー(古代ギリシア語: Κυβέλη / Kybélê、フランス語: Cybèle、英語: Cybele)は、アナトリア半島のプリュギア(フリギア)で崇拝され、古代ギリシア、古代ローマにも信仰が広がった大地母神である。名前は「知識の保護者」の意。
名前[編集]
しばしば「髪の毛のある女性」が語源とされるが、それはプリュギア語ではなくギリシア語と考えた場合である。ギリシア神話に取り入れられる前のプリュギア語での呼び名はクババ (Kubaba) であり、より古い時代にアナトリア半島で使われたルウィ語(Luwian、楔形文字参照)起源であるとの説が、より広く受け入れられている。ローマ神話では マグナ・マーテル(Magna Mater 、「大いなる母」)に対応する。
略
キュベレー崇拝[編集]
ヘレニズム時代のもっとも熱狂的なキュベレーの信奉者は、みずからを聖なる儀式で完全去勢した男性たちで、この儀式の後、彼らは女性の衣装をまとい、社会的に女性とみなされた。同時代の注釈家であるカルリマコスは彼らを、女性名詞の Gallai (ガッライ、ギリシア語複数形)で呼んだが、古代ギリシアやローマの他の注釈家たちは、男性名詞の Gallos (ガッロス、ギリシア語単数形)や Galli (ガッリー、ラテン語複数形)で呼んだ。 女神の女性司祭は、人々を乱交的儀式に導き、儀式では荒々しい音楽、ドラムの響き、踊りに飲酒が伴った。女神は、性器切断された後、甦った息子であるアッティスをめぐる秘儀宗教と関連していた。一説では、三人のダクテュロスたちが女神の従者であった。女神の信奉者たちは、プリュギア語でクルバンテス、ギリシア語でコリュバンテスと呼ばれ、彼らは、一晩中続く、太鼓の乱打、剣と楯を打ち鳴らす野性的な音楽、踊りに歌に叫び声によって、女神への恍惚として乱交的な崇拝を示した。
アタランテーとヒッポメネースは狩の途中、ゼウスの神域に入り、そこで交わったため神の怒りに触れライオンに変えられた。一説では、それはキュベレーの神域ともされ、二人は女神の車を牽くこととなったともされる。
キュベレー崇拝の歴史[編集]
概説:アナトリア、ギリシア、ローマ[編集]
プリュギア(フリギア)のペッシヌースにおいては、遥かな古代より、キュベレーの原型として両性具有ともされるアグディスティス女神の信仰が存在した。紀元前203年、ペッシヌースの大いなる母を具現した聖崇拝物(神像ではなかった)が厳かにも恭しくローマに移された。
キュベレー崇拝は、すでに紀元前5世紀のギリシアで行われており、その地においては女神はしばしば、名を直接に使わず、婉曲語法によって Μητηρ Θεων Ιδαια(メーテール・テオーン・イーダイア、「イーデーの神々の母」)と呼ばれた。キュベレー崇拝への言及は、とりわけピンダロスやエウリーピデースに顕著である。しかし古典ギリシアの著作家たちは、アッティスの去勢の神話はよく知っていたにもかかわらず、性転換した「ガッリー(galli)」については知識がなかったか、または言及を行っていない。
ギリシアにおけるキュベレーの崇拝は、明らかに類似性が認められるディオニューソスの崇拝と密接に関連付けられた。キュベレーはディオニュソースにイニシエーションを与え、逆にディオニュソースはアグディスティスの去勢を行ったとも言われている。ギリシア人たちはまた、キュベレーを「神々の母レアー」と同一視した。
以下略
内容が正しいのかわかりませんが、北欧由来の海洋族の歴史についての動画です。シリーズになっています。但し、一本当たり結構長いです。
ご参考になれば。
Q 秦氏の宗教はミトラ教ですが、もしくは原始キリスト教と呼ばれていたのかもしれませんが、この秦氏がソグドとしてシルクロードの北方のステップロードを騎馬民族を護衛として日本に渡来しているようです。
そのステップロードを秦氏=ソグドが宗教を使って支配したと。
ですから大まかに、ミトラ教⇒原始キリスト教⇒正教⇒古神道と理解していいのでしょうか?
そしてこの勢力がプーチンの背後にいると。
A バチカンのキリスト教は、弟子が作ったもので、教義が基になります。
一神教で他の神を排するという理由で、他国の侵略に使っています。
要はシオン修道会の総長の役目は一つには「聖母マリアの遺体を守る」こと。そして聖杯、つまりマグダラのマリアの血流を守る、いわゆる女系(子宮)=聖杯を守ること。もう一つ、サングリアル文書を守ることだと。この文書にいったい何が書かれているか・・・・要はダビデ以降の本当の血統書が書かれているという。
「ダビンチコード」という有名な映画がありましたが、これらは実は全部でたらめな話ではなく、真実をやや誇張も含め面白おかしく描いたもので、いわゆる当事者たちのコマーシャルみたいなものだそうな。
つまり、大きな問題は二つ。一つはイエスには子供がいたということと、もう一つ、現在バチカンに伝わるダビデの系図には誤りがあるということ。
ダビデは六芒星、ソロモンは五芒星、まず最初から違っているんじゃないの?と突っ込みたくなりますが、ダビデが不倫した相手はパテシバ。彼女には夫がいた。ソロモンは彼の子供なのか?そんな話は週刊誌に任せるが要はシオニストと〇〇宮がこの辺りから分かれたとなるとこれは重大な話ではないか?
アングロ・サクソンというが、実はサクソンとはヒッタイトのことでアングロとはパテシバの故郷、現在のイエメンのあたりかな・・・。
さて、ダビデやソロモンは紀元前10世紀ごろといわれるが、以前の私の研究ではエジプト第18王朝のころだと思ってたんだが、まあ大した問題ではないか・・・。
まあ、現在私が何を調べているかというとイエスとは一体何者か?という話で、現在これかな?というのはアディアベア王国のヘレナ女王がマリアでありイエスはエデッサ王国の王様だった・・・なんて話だが・・・。
まあ、この話は終わりのない課題であり趣味の範疇ですがエデッサやアディアベアは現在のトルコやシリアにあった国で、今まで興味すら持ったことがない地域なのです。当然アッシリアや安息国(パルティア)を勉強しなければならなくなります。
また、マクダラのマリアの何が問題かというと、支配者の上位に位置するヴェルフ家に関わってくるからで、女衒(ぜげん)と称されるヴェルフ家はヘッセン、ウインザーなどヨーロッパの王族の大半と関わってくる家系ですが、女を入れ込むことでその家系をを乗っ取る手法は聖書を読めばユダヤの常套手段であることがわかります。
つまり売春宿で偶然に出会った男女という設定だが、実は入念に仕組まれた婚姻、つまり女系で繋ぐ手法は古代から行われていたことなのです。
日本には斎院・斎宮・斎王制度というのがあります。日本におけるサングリア文書は加茂神社の地下倉庫に保管されているという。我々の知る皇統譜は表向きの資料で本当の血流は全く違うのだろう。
黒い聖母とは、マグダラのマリア? イシス、ドルイド教の地母神?
更新日:
黒い聖母って、ご存知ですか?
なんとなく反キリストなようにイメージしますが、マグダラのマリア、あるいは、ケルト文化圏を中心に信仰されていた地母神と結びついたものともいわれます。
そんな黒い聖母のご紹介です。
決して邪悪なんかじゃない、色々に言い伝えられる黒い聖母の起源とは
目次
黒い聖母
黒い聖母(Black Madonna)、黒い聖処女(Black Virgin)とも呼ばれ、肌の色が黒い聖母の彫刻や絵画、イコンをいいます。
その起源については、幾つもの説があります。
まず、イメージするのがマグダラのマリアを崇拝するキリスト教一派が信仰していたとされるというもの。
けれど、本来はキリスト教が布教される以前にオリエント(古代ローマから見て東方にある世界)一帯、主にはケルト文化圏で信仰されていた地母神がキリスト教と習合されたものと考えられます。
黒い聖母は約500体が存在することが知られていますが、そのうちの200体以上がフランスにあり、その大部分は本来の肌の色が黒(褐色)であると考えられます。
その多くが11世紀〜15世紀に製作されたもので、立像については木造り、画像は多くがビザンティンのイコン。
キリスト教の「黒」は死や闇を意味する邪悪なものをイメージし、黒い聖母が存在することが不思議に思われます。
けれど異教文化においての黒は、多くの場合、土着信仰に結びついた豊かな土壌を意味する色。
キリスト教の布教にあたり、それまで信仰されていた母なる大地の女神と聖母マリアを結びつけていく必要があったと考えられます。
また、一説には聖母マリアは本来は小麦色の肌をしていたという伝承も残されています。
聖母マリアが小麦色の肌であったのを、清楚な印象を強調するために、後に、白いマリア像に変えられていったのではないかとも考えられます。
黒い聖母の起源
黒い聖母の起源についてはいくつもの説があります
ケルト圏ドルイド教の聖母
キリスト教がガリアの地(今のフランス)で信仰されるようになるのは4世紀頃。
それ以前のケルト人はドルイド教を信仰していました。
ドルイド教は、霊魂の不滅を信じ、生命や大地といった自然なる神を崇拝しています。
黒い聖母像はドルイド教の自然崇拝が行われていた地域に存在します。
ドルイド教では、人里離れた人間が踏み込めない場所を聖地とし、黒い聖母もまた岩のくぼみや洞窟に安置されていました。
ケルト地域では、キリスト以前に信仰されていたドルイド教の地母神である黒い聖母が聖母マリアに結びついたと考えるのが、最も自然で一般的な説となっています。
マグダラのマリア
黒いマリア像がマグダラのマリアであるとの伝承はこれまで長く語り継がれています。
イエスの磔刑には三人のマリアが立ち会ったと伝えられています。マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、マリア・サロメ(イエスの弟子)。
磔刑後、三人のマリアとその一行は、パレスチナから小舟に乗せられて追放されます。
一行は地中海を漂流し、南フランスのマルセイユにたどり着きます。
二人のマリアはそこで小舟を降りますが、マグダラのマリアはそのままサント・マリー・ド・ラ・メールまで漂流。そしてフランス南部の山塊サント・ボームに行き着きます。その後サント・ボームの洞窟で隠遁生活をおくり、その地でその後の一生を終えたと伝えられています。
このマグダラのマリアが、ケルト人やロマ(ジプシーの一族)の地母神信仰と結びつけられたと考えられます。
余談ですが、実はテンプル騎士団は、この黒いマリア像(マグダラのマリア)を崇拝していたと考えられ、この説については映画ダヴィンチ・コードでも語られています。
https://waqwaq-j.com/%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8/14332/
<補足3>
(17)サングリアル文書、墓、「聖杯の血脈」
「ダビンチ・コード」ダン・ブラウン著 越前敏弥(訳)角川文庫 |
60 |
(2-P178)ソフィーはティービングが落ち着くのをしばし待った。祖父に関することの多くは、まだ筋が通らない。ようやく口を開いた。「シオン修道会の会員は、サングリアル文書とマグダラのマリヤの墓を守るというつとめをずっと果たしてきたのね」 「そのとおりだが、修道会にはもっと重要な義務もあった。血脈そのものを守ることだ。キリストの子孫は絶えず危険にさらされていた。もし血筋がつづけば、イエスとマグダラのマリヤの秘密がいずれ明るみに出て、神の子たるメシアは女性と交渉を持たなかったという根本的な教義が揺るがされる、と初期の教会が恐れていたからだ」 |
60 |
(2-P179)ティービングは間をとった。「とはいえ、キリストの血脈はフランスでひそかに受け継がれ、やがて五世紀に大胆な動きを示した。フランス王家と姻戚関係を結び、メロウイング朝の王統を創始したのだよ」 |
5世紀というとミチオ書第1話「皇女ガラ・プラキディア」の時代の話である。アルプスの向こうには、蛮族がいるだけ、まだフランスは存在していない。 |
60 |
(2-P179)ソフィーは驚いた。フランスでは、どんな学生でもメロウイング朝の名を知っている。「メロウイング朝はパリを築いた王朝よ」「そうだ。聖杯伝説がフランスに多いのは、それが理由のひとつだ。バチカンがフランスでおこなった聖杯探求の多くは、実のところ聖なる血脈を消し去ることを隠密の任務としていた。ダゴベルト二世の話を聞いたことがあるかね」 |
60 |
(2-P179)歴史の授業で教わった身の毛もよだつ話にその名前が出てきたのを、おぼろげに思い出した。「メロウイング朝の王ね。寝ているときに目を刺されたんじゃなかった?」「正解だ。バチカンがピピン二世と共謀して暗殺した。七世紀後半のことだ。ダゴベルトの死によってメロウイング朝は途絶えかけたが、幸いにも息子のシギベルト四世がひそかに難を逃れて王家の血を伝え、のちにそこからゴドフロワ・ド・ブイヨン、つまりシオン修道会の創設者が生まれた」 |
シオン修道会とは、1960年代以降のフィクション、ノンフィクションで扱われた秘密結社の名称である。11世紀の中世に遡る歴史を持つと伝えられ、主催者もそのように称したが、その根拠はフランス語で『秘密文書』という名を持つ冊子の記述にあった。 ウィキペディア 設立者: Pierre Plantard 設立: 1956年5月7日 |
60 |
(2-P179)「その人物こそが」ラングドンが言った。「ソロモン神殿の廃墟からサングリアル文書を発掘するようテンプル騎士団に命じ、メロウイング朝がイエス・キリストの血を引く証拠を手に入れようとしたんだ」ティービングはうなずき、重々しくため息を漏らした。 |
すでに考察したことだが、テンプル騎士団は、十字軍の貴族から転進した「エルサレム王」からソロモン神殿を拝領したので、その名がある。「廃墟」を拝領するわけがない。だから、その神殿は3回目の神殿なのであろう。最初はソロモン自身の建てたもの、次が帰還のユダヤ人が建てたもの、三回目のそれは「エルサレム王」の建てたものである。これらはいずれも木造であり、イエスの時代のヘロデによる「石造りの神殿」とは違う。 |
60 |
(2-P180)「今日(こんにち)のシオン修道会は重大な義務を負っている。三重の責任だ。サングリアル文書を守ること。マグダラのマリヤの墓を守ること。そしてもちろん、キリストの血脈、すなわちいまも生き延びているメロウイング王家の後裔を守ること」 |
http://manga.world.coocan.jp/kiri-20-bungaku-dabinti-koudo-2-17.html
今回は皇統は関係ありません。
1950年代の日本において「原潜」建造計画があったようです。
吉原公一郎著 「腐食の系譜」という書籍のP335~P347に書かれています。
内容は1965年2月7日の衆議院予算委員会において社会党の楢崎弥之助議員が「原子力潜水艦・原子動力装置計画計算書」という文書の存在を明らかにしたというものです。
(この文書をどこから手に入れたのでしょうね?笑。)
ご参考までに。
今回は皇統は関係がないです。
最近、YouTubeを観ていると「出雲口伝」という言葉をよく目にするのですが、この「出雲口伝」というのは、ご存じの方がいらっしゃるでしょうが、古代、出雲に出雲王国という国が存在して、その国民を出雲神族と呼び、王家は富家とされるようです(別家もあり)。大国主の子孫と自称されておられます。
その富家に先祖代々伝わる伝承が「出雲口伝」と呼ばれるものです。
「大元出版」という出版社から刊行されています。
大元出版HP http://oomoto.net/index.htm
ご参考までに。
66.葬られた出雲王国
神武天皇の建国の前に、北九州から中国、四国、近畿、北陸地方を武力ではなく言葉による説得とサイノカミ(幸の神)信仰による祭祀によって平和的に緩やかに統治していた出雲王国があった。
出雲王国王家の直系の子孫の富家が、歴史から葬りさられた出雲王国の歴史を口伝で伝えてきた。その伝承をつたえる「出雲王国とヤマト政権」と「出雲と蘇我王国」という2冊の貴重な著作をもとに出雲王国の歴史を顕彰してゆきたい。
ドラビダ族である南インドのクナ国のクナト王が、今から4000年程前移住を決意し、一族を率いてゴビ砂漠、バイカル湖、アムール川、樺太を経由して北海道に上陸した。津軽を経て日本海沿岸を南下して漸く理想の地を見つけて出雲に定着した。出雲が選ばれた理由は、砂鉄が豊富にあったことと新緑が美しかったことによる伝承されている。富家の現在の当主はクナト王から数えて190代目になるという。
当初は緑の美しい国を賞して「出芽の国」と呼ばれていたが「出雲の国」に変化したとのこと。古事記に「伊都能売神」とあるが、「出芽の国」との関係が推測される。ともあれ、クナト王の子孫は、徐々に勢力を広げていって出雲王国を形成した。
出雲王国の信仰は、民族の先祖の霊を守護神として、サイノカミ信仰であった。始祖クナト王をクナトノ大神とし、母神をサイヒメ(幸姫)ノ命、子神は、サルタ彦大神とされた。出雲王国は、サイノカミ三神でつながる宗教共同体であった。
出雲大社の東門からでて北島国造館の前の道を東に進むと出雲大社の境外摂社とされる小さな出雲井社(出雲路社)がある。小さな社ではあるが、すぐ裏に巨大な鏡岩があり、御祭神はクナド(岐)の神とある。
この岐神こそ出雲王国の始祖であるクナトノ大神であり、大国主命と事代主命の先祖神である。富家がサイノカミを奉じてヤマトや伊勢に進出したことを記念してお祀りした社という由来をもつ社であり、出雲王族の子孫にとっては、創建の由来からすると716年に創建された出雲大社より重要な社であると断言できる。
出雲王国では、国王を「大名持」といい、副王がいて「少名彦」といった。
紀元前7世紀頃の建国されたとされていて、初代大名持・菅八耳(すがのやつみみ)には、二人の王子がおり、東西王家として直轄地をわけた。国王(主王)は、大名持(古事記では大穴牟遅・日本書紀では大巳貴神)、副王は、少名彦(古事記では少名毘古那神・日本書紀では少彦名神)と役職名でよばれていた。少名彦は大名持の出身家でない王家の若殿が就任した。両王家は、ほぼ交替で主王、副王になっていた。
東王家の富家は、王宮が現在の神魂神社(松江市大庭)にあり、すぐ側の立正大学淞南高等学校の敷地内に富家歴代の王墓群があり、現在淞南学園が王墓を護っている。
東王家は、元々は向家とよばれ、のち富家と呼ばれるようになった。登美家、出雲臣家、出雲家、神魂家などの別称がある。さらに、土師氏、鴨(加茂、賀茂)氏などもヤマトに進出した富家の子孫である。
西王家の郷戸家は、神門群の真幸ヶ丘・智伊神社(出雲市知井宮町) に王宮があった。郷戸家は、神門臣家、神門家の別称がある。ヤマトに進出して高鴨家を名のった分家もあった。
出雲王国は、6代大名持の神門臣家の臣津野(おみつぬ)の時代に勢力を拡大した。
つぎに、8代大名持の神門臣家の八千矛、8代少名彦の富家の八重波津身の時代に大いに発展した。八千矛は大国主命、八重波津身は事代主命の名前で記紀に出てくる。大国主と事代主は親子ではなく、主王と副王であった。記紀にあるように大国主と少名毘古那は、力を合わせて出雲王国をまとめていた。この時代、北陸・近畿・中国・四国・北九州に広がる大きな領域をもっていた。
出雲王国は、武力によって勢力を広げていったのではなく、農耕の指導や薬を与えることにより人々の幸福を増進させることにより勢力を拡大していった。
日本書紀には
「かの大巳貴神と、少彦名命が力を合せ、心を一つにして天下をつくられた。また現世の国民及び家畜のためには、病気治療の方法を定めた。また鳥獣や昆虫の災いを除くためには、まじないの法をさだめた。このため百姓(おおみたから)は、今に至るまで、すべての生命力を発展させることができた。」(「全訳ー現代文 日本書紀上巻」宇治谷孟訳(創芸出版 1986年)p44
とある。このつづきに少彦名命が、粟島にいって、常世郷にいったともあり、のちに述べる伝承と符合し興味深い。
大名持の王宮で行われる春秋の大祭に豪族を招き、いっしょに祭りをおこなうことにより、一体感を醸成していった。
春秋の大祭には、王国内の信仰を同じくする豪族があつまって会議を行い懸案となっている問題を討議し、掟を決めるなどして解決し、同時に豪族同士の縁談も決めるなどした。大祭にはめずらしい土産をもって豪族たちが祭りに参加したので、向家は富家と呼ばれるようになったという。
祭り=政治であった。出雲王国の統治は祭りを中心に行われていた。まさに、政治=「マツリゴト」であった。両王家は、豪族たちと婚姻政策をすることによっても、出雲王国の勢力を拡大していった。
さて、大国主命と事代主命が、両者ともアメノホヒ勢力に拉致されるという大事件が勃発した。大国主命は、猪目洞窟(出雲市猪目、事代主命は、弓ヶ浜の粟島(米子市彦名町)に幽閉され枯死した。
事代主命の妃の沼川姫は、王子の武御名方命と共に越の国に帰りは、諏訪地方に勢力をはり、第2の出雲王国といえる繁栄のもとをつくった。伝承によれば事代主命と武御名方命は、記紀に記載されている兄弟ではなく親子であった。諏訪大社の信仰は、出雲王国のサイノカミ信仰に由来するという。武御名方命は、諏訪大社の祭神であり、諏訪地方では、武御名方富命という名でも祀られている。これは、武御名方命が富家の出身であることを示している。
同じく事代主の妃である三島家(大阪府高槻市)出身の玉櫛姫(活魂依姫)の王子天日方奇日方王、王女の蹈鞴五十鈴姫、五十鈴依姫たちは、枯れ死事件を嫌って出雲族の半数を伴って奈良地方(葛城地方・三輪山山麓)に移住し、初代神武天皇と力を合わせて神倭朝を開いた。天皇家と登美家(事代主の子孫)の連合政権が初期のヤマト王権であった。
「宮中では、古代から八神の一柱としてコトシロヌシが祀られている。それは、天皇家の家系にコトシロヌシがの血が入っていることを示している」(「出雲とヤマト王権」p179)
蹈鞴五十鈴姫は初代神武天皇の皇后になり、その皇子が二代綏靖天皇となり、五十鈴依姫を皇后に迎えた。その皇子が三代安寧天皇となり、天日方奇日方王の子である淳名底姫を皇后に迎えた。三輪山の西方の磯城郡に基盤を持っていた登美家の血が濃くなったので初期の天皇家は、出雲系の磯城王家とよぶ。葛城王朝とよばれることもある。
出雲王国は3世紀に九州から攻め上った第二次の物部氏の遠征に滅ほされた。物部氏は徐福の子孫でありユダヤ系であった。最後の主王は郷戸家の17代大名持・遠津山崎帯(とおつやまざきたらし)であった。神門郷の真幸ヶ丘(智伊神社の場所[出雲市知井宮町]の王宮で無念の敗北をした。遠津山崎帯の墓所は不明である。供養を要する。副王であった富家の富大田彦は、大庭の王宮で降伏したが、のちに野見宿禰となりヤマト王権の内乱収拾に活躍し、子孫は土師氏としてヤマト王権の一翼をになった。
祭神が改竄されていても明確にわかる出雲系の神社の広がりを検証すれば、出雲王国の繁栄ぶりが偲ばれる。しかし、神武天皇による建国以前に日本の北九州から中国、四国、近畿、北陸地方を緩やかにまとめていた出雲王国の栄光の歴史は、記紀の編纂により、改ざんされ隠蔽されて現在にいたっている。
まぼろしの民サンカも、出雲王国の末裔である。出雲王国の滅亡後、サンカとよばれる忍者集団を形成し出雲王国の時代とかわらず富王家に各地の情報を上げていたので、富家は「日本史の家」ともよばれていたという。伊賀・甲賀忍者もサンカであった。
参考図書
○古事記・日本書紀ではもう満足できないあなたへ 〜富王家伝承考察への誘い – 偲フ花 (omouhana.com)○「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」梅原猛著(新潮社 2010年)
「そもそも出雲には神話にふさわしい遺跡がないという通説は、昭和59年(1984)の荒神谷遺跡の発見によって吹き飛んでしまった。荒神谷遺跡から、銅剣358本と銅鐸6個、銅矛16本が出土したのである。それまで全国で出土していた銅剣の総数約300本、銅剣の数は一挙に倍以上になったのである。
さらには平成8年(1986)、加茂岩倉遺跡が発見され、39個の銅鐸が出土した。39個もの銅鐸が一か所から出土したのは加茂岩倉遺跡が初めてである。さらにまた出雲を中心にして四隅突出型墳丘墓とは、方形墳丘墓の四隅が飛び出て特殊な形をした大型墳丘墓のことである。現在までに発見されている四隅突出型墳丘墓は、山陰地方から遠く富山の地まで及んでいる。この古墳の築造は、三世紀に出現したと思われる前方後円墳から遡ること約200年、このような巨大でしかもまことに美しい古墳が作られたことは、出雲を中心として日本海沿岸に根強く一つの権力が存在し続けたことを意味すると考えてよかろう。」(p21)
「『出雲国造家系譜』では、『続日本紀』の引用に続いて、「始祖天穂日命、斎を大庭に開き、此に至りて始めて杵筑の地に移す」とある。これはきわめて重要な言葉である。
……アメノホヒの子孫と称する出雲臣が、それまで意宇平野の大庭に置いていた根拠地を出雲平野の杵筑へ移したというのである。大庭の根拠地とは、熊野大社あるいは神魂神社のことで、杵筑とは出雲大社のことである。つまり、この文は二社のとちらかの宮司が新たに建造された出雲大社の宮司となったことを意味しているのではないか。そして、それはまた、霊亀二年(※716年)に出雲大社建造が完成し、その祝いを兼ねて、その祝いを兼ねて、出雲臣果安が一族百十余人を連れてはるばる上京し、神賀詞を奏したということなのではないか。」(p292)
富家の伝承によると3世紀にアメノホヒ家が出雲王家である富家の姫と婚姻したことから、アメノホヒ家も富家と並んで出雲臣家を名乗ることになったとある。
○「出雲王国とヤマト政権」富士林雅樹著(大元出版 2019年)
「出雲王国の大祭の行事は、「マツリゴト」と呼ばれた。その行事の一つに、法律や規則を決める寄り合い(会議)があった。その会議で決められた法律や規則により、王国の領土が統治された。その行事会議の取りまとめ王である大名持が行い、会議で決められた条文は、ユウと呼ばれる樹皮紙に記録された。」(p55-56)
「またマツリゴトの場では、各地の代表から珍しいできごとや、大きな事件や、地震・天変地異などが報告され、同じように記録された。その記録紙の束が、近年まで旧出雲王家の富家に残されていたという。その文は横書きで、古代インダス文字のような字で書かれていた。また、夏歳1年、冬歳1年ごとに記録されていたという。」(p57)
「また大祭の期間中には、各地の豪族どうしが親睦を深め合い、情報交換を行った。その際に豪族どうしが、息子や娘の縁談を決めることが多かった。サイノカミの大祭の時に多くの縁談が決まったので、サイノカミは「縁結びの神」と考えられるようになった。現合いの出雲の地が、縁結びの地と呼ばれるているのも、このことから来ている。」(p57-58)
「古代ギリシアのスパルタは、二王制であった。出雲王国でも、同様に二王制が採用された。
初代大名持・八耳王と稲田姫の間には2人の王子がおり、東西王家として、直轄地を分けた。東王家が富家であり、西王家は郷戸家であった。二王家は、互いに協力し合って王国を統治した。
主王は大名持(おおなもち)、副王は小名彦(すくなひこ)という役職名で呼ばれた。両家の当主のうち、年長者が大名持になり、年の若い方が少名彦になった。
『古事記』には、出雲王国の主王(大名持)・17代の名前が書かれている。それは主王が一系のように書かれているが、実際は二王家がほぼ交替で就任した。」 (p59)
出雲王家主王(大名持)系図
初代 菅之八耳(すがのやつみみ)《八箇耳》[富家]
-2代八島士之身(やしまじぬみ)《八嶋篠》 [郷戸家]
-3代兄八島士之身(えやしまじぬみ)《八嶋手》 [富家]
ー4代布葉之文字巧為(ふはのもじくぬす)[郷戸家]
ー5代深渕之水遣花(ふかぶちのみずやれはな)[富家]
-6代臣津野(おみづぬ)《国引主》[郷戸家]
ー7代天之冬衣(あめのふゆぎぬ)[富家]
ー8代八千矛(やちほこ)《大国主》[郷戸家] ……8代副王(少名彦):八重波津身《事代主》[富家]
ー9代富鳥鳴海(とりなるみ)《事代主長男》[富家]
ー10代国押富(くにおしとみ)[富家]
ー11代速瓫之建沢谷地乃身(はやみかのたけさわやじのみ)[郷戸家]
ー12代瓫主彦(みかぬしひこ)[郷戸家]
ー13代田干岸円味(たひりきしまどみ?)[富家]
ー14代身櫓波(みろなみ)[郷戸家]
ー15代布忍富取成身(ぬのおしとみとりなるみ)[富家]
ー16代簸張大科戸(ひばりおおしなどみ)[富家]
ー17代遠津山崎帯(とおつやまざきたらし)[郷戸家] 滅亡 2世紀前半
……17代少名彦:富大田彦(とみのおおたひこ)《野見・弩美宿祢(のみ・どみのすくね)》 [富家]
(p323 などによる)
⇒野見宿禰の子孫は土師氏なり、天皇家の王墓造営を担当した。土師氏はのちに、菅原道真に代表される菅原氏、頼朝に仕えた大江広元などの大江氏になった。大江氏から毛利元就に代表される毛利氏がでた。
『また少名彦は、『古事記』でガガイモの実の船に乗る小人と書かれたが、実際には小さい人間ではなく「若い殿」という意味であった。「彦」は、王子を意味した。」(p60)
「東王家と西王家は、別々の王宮に住んでいた。西王家の郷戸家の当主が大名持に就任した時は、神門の王宮で春秋の大祭が行われた。その王宮は、神門郷の真幸ヶ丘・智伊神社(出雲市知井宮町)に真幸ヶ丘は、古くは山崎ヶ丘と称されていた。この名前は、郷戸家出身の最後の出雲王・山崎帯(やまざきたらし)にちなんだものと考えられる。(P61)
「出雲王国は、同じ信仰を持つ各地域の連合体として成立した。しかし、他の地域に対抗勢力が現われ、王国の領土をおびやかすことがあった。そこで王国の利益を護るために、イズモ兵の組織が整えられた。
少名彦の職務は、軍事に関するものであった。大祭の時、少名彦の王宮の広場では、軍事訓練大会が行われた。これは、実際に侵入する外敵と戦うことを想定した訓練であった。」(p63)
「ところで、イズモ兵は忍者の祖でもあった。出雲王国が滅亡した3世紀以降に各地に散った兵士は、「出雲散家(さんか)」や「出雲忍者」と呼ばれた。出雲では出雲散家のことを、「山家(やまが)」や「山の人」と呼ぶこともあった。
かれらは「散自(さんより)出雲」という秘密組織をつくって、お互いに協力しあった。出雲王国が滅亡したあと、富家はその秘密組織を指揮して各地の大事件の真相を探らせていた。それは、まるで出雲王国時代の報告者組織が、再び復活したような組織であった。その結果、日本史の真実の情報が富家に集まり、代々伝えられることになった。それで、富家は出雲では「日本史の家」と呼ばれた。」(p64)
「出雲散家の子孫は、明治時代のころまでは各地で忍者として活躍していた。丹波国は、出雲忍者の集団移住地であった。綾部市のJR山家駅の近くには、アヤタチという大親分の広い屋敷があった。出雲忍者の子供は年頃になると、そこに行って忍術を練習する習慣があった。」(p65)
「サルタ彦大神を崇拝した出雲忍者の出身者には、能・狂言の観阿弥・世阿弥たちや、歌舞伎の出雲阿国がいて、芸能文化の発展にも大いに貢献した。」(p65)
「有名な伊賀や甲賀の忍者も、出雲散家から分かれた人々であった。南北朝時代の楠正成や戦国時代の豊臣秀吉も、もとは出雲忍者の出身者として活躍した人物である。
出雲忍者は、先祖代々の強い規律と団結心を持っていたので、戦国武将に重宝された。」(p65-66)
「8代目・大名持の時代に、出雲王国は最大の繁栄を迎えた。大名持は、神門臣家のヤチホコ(八千矛)が選ばれた。このお方が、のちに出雲神話で有名な「大国主」と呼ばれた王であった。
一方、副王・少名彦は、八重波津身が選ばれた。このお方は「コトシロヌシ(事代主)」とも呼ばれ、出雲神話では神門臣家・大国主の息子として登場するが、実際には富家の王子であった。『古事記』では、8代大名持のもとに来た少名彦のことを「神産巣日神(神魂の神)の御子」とクエビコが説明する場面があるが、この時代の少名彦が神魂家(富家)出身であったことを示している。
コトシロヌシは、死後の贈り名であった。事代主という漢字は、発音に対する当て字であり、正しい意味の漢字では「知」であった。「知」とは「知らす」(支配する)という意味で、「言知主」とは武力ではなく「言論で統治する王」という意味であった。「事知主」と書いても、意味は同じである。」(p97)
古代出雲では、神をカモと発音した。そのため、カツラギに移住した登美家は、カモ家(神家)とも呼ばれた。「神」の字は、のちに「賀茂」や「鴨」「加茂」の字で書かれるようになった。登美家が、賀茂家と正式に呼ばれたのは、賀茂建津乃身(建角身、大賀茂津身)からであった。
また、コトシロヌシの個人名は八重波都身であった。その名前の一部と、鴨の字が組み合わさって、「鴨都波神社(※奈良県御所市宮前町)」の名になった。鴨都波神社の案内板には、「本社は高鴨社に対して下鴨社ともいい、鴨族の発祥地としてこの地方を治め、全国に分布する鴨社加茂の源である」と、書かれている。(p160-161)
○「出雲と蘇我王国」斎木雲州著(大元出版 2012年)
「クナト王の子孫には、神門臣王家もあった。後者は出雲の西部に地盤を持っていた。それで二王家が協力して、イズモ王国を運営していた。
初代の八耳王は向家の出身で、出雲東部の王(意宇)川の中流域の神魂の丘に、王宮を構えていた。
サイノカミの祭場(霊畤)では春秋の二回、大祭が開かれた。それに参加するように、大名持と少名彦が各地に出かけて、豪族たちを誘った。
…………
言葉での「説得」を、当時は「言向け」といった。いわゆる副王であった事代主の漢字は当て字である。正しい意味では「言治王」であり、武力ではなく言葉で支配する王であった。
「言向け」の言葉は、のちに「征服する」の意味だと考えられるようになった。
この「こと向ける家」の意味から、ムケ(向)王家と呼ばれ、のちにはムカイ(向)王家と呼ばれるようになった。
…………
イズモ王国ノ王は、各地の豪族の意見に、よく耳を傾けた。それで、初代の大名持は八耳王と呼ばれた。
…………
その後、出雲の大祭に参加した人々は、土産を向家に捧げるようになった。それが倉にあふれた。
以後、人々は向家を富家と呼ぶようになった。出雲家と称することもあった。8代の副王(少名彦)が富家出身の八重波津身(事代主)であった。(p32-33)
「わたしの家に、サイノカミの夫婦像があった。向家ではそれを、先祖神として拝んでいた。
サイノカミの主神・クナト大神は、出雲族の指導者だったと、伝えられる。かれの妻・幸姫命は、サイノカミの母神となっている。
サイノカミの特色は、子孫繁栄の神である。子孫繁栄には、結婚と出産が必要である。それでサイノカミは、「縁結びと子宝の神」とも言われている。
クナトという人は、古代インドのドラビダ族の王であったが、大勢の部下を引き連れて、日本へ民族移動を始めた。
ゴビ砂漠を北に進み、シベリアのアムール河を筏で下って、津軽半島に上陸したという。その後かれらは、南に移住して広がった。
クナト王の子孫は、イズモに住み着いた。インドの熱帯では、常緑樹が濃緑色にしげっていた。それに対しあたらしい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるように美しく感じられた。
かれらはその色をめでて自分たちの地方を「出芽(いずめ)の国」と呼んだ。その発音が変化して、「出雲の国」になったと伝わる。
出雲地方では、サイノカミの祭りが盛んになった。クナト王の直系の向家が、出雲東部の神魂(かもす)神社(松江市大庭町)の丘にあった。
その地の大庭の地名は、神祭りの場だったことから来ているらしい。そこから東方にサイノカミの主神・クナト大神のこもる大神山(大山)が良く見える。
その大庭に人々が集まって、向家が司祭となって大神山を遙拝した。出雲地方以外からも多くの人々が祭りに参加した。
その結果、向家が王家と仰がれた。その氏子の広がりが、出雲王国となった。そしてサイノカミ信仰が出雲王国の国教となった。」(p29-30)
「富家の事代主の御子たちが、サイノカミを奉じて、ヤマトや伊勢に移住したことを記念し、富家がイズモに社を建てた。それが出雲井神社であり、出雲北山山地の弥山(出雲市大社町修理免)の麓に鎮座している。」(p36)
「向王家(※富家)はその後、オウ郡八雲村に熊野大社を建てた。「クマ」とは神に供えるための米の古語で、それを栽培した野が、クマノだと言われる。
イズモの熊野大社の祭りに、各国の旧出雲人が参列した。彼等が各地の出来事を、向家に報告した。
王国時代にも報告者組織があった。それが再び復活したことになる。それが「散自出雲」という秘密情報組織になり、日本の大事件の裏表を探る仕事を行った。
その結果、向家に日本史の真実の情報が集まったので、出雲の地元では、向家を「日本史の家」と呼んだ。」(p63)
「延喜式祝詞の中に、「祟神(たたりがみ)を遷(うつ)し却(や)る」がある。その祟り神とは、不慮の死を与えられた大国主命と事代主命の荒御魂を指している。
荒御魂は、心があれていて人を罰する恐い霊である。そして二柱ノ神の恨みの霊が、残っていることを、都の貴族たちは覚えていた。
その祝詞の中に「穂日の命を遣わして平らげむ…」の言葉もある。これは穂日ノ命の子孫が、3世紀に物部政権に協力して、出雲王国を亡ぼしたことを表している。
その恨みも、出雲に残っていた。それらの出雲ノ祟りを恐れていた都の貴族が、その祝詞をとなえていた。
杵築大社は716年(霊亀2年)正月に完成し、その年に神主になった国造・果安が、初めて都におもむき大極殿で、イズモの神賀詞(かむよごと)奏上を行うことになった。」(p100)
令和05年01月23日作成 第166話