天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

4月23日KBJ句会

2024-04-05 06:05:09 | 俳句



入学式、入社式も経ていよいよ春本番となりました。ここちよく体がほぐれる季節、発想も新たに言葉遊びをしましょう。俳句を志す方、いらっしゃい。生まれも育ちも学歴も性別も何も問いません。言葉で遊び自分を楽しみ、また他人を理解しようとする方はどなたも歓迎いたします。句会はせわしい日常からトリップするひととき。遊山気分で西国分寺へお出かけください。

【日時】4月23日(火) 13:30~16:00

【会場】多喜窪公会堂
  中央線・西国分寺駅から南へ、「たましん」を右折してすぐ

      


【出句数】3~8句(以下の兼題1句を含む当季雑詠
  時間短縮のためあらかじめ短冊に書いてくることを希望します。
【兼題】地名を詠む
  例句
  鎌倉を驚かしたる余寒あり 高浜虚子
  駒ヶ岳凍てて巌を落しけり 前田普羅
  祖母山も傾山も夕立かな 山口青邨
  遠足や出羽の童に出羽の山 石田波郷
  葛城の山懐に寝釈迦かな 阿波野青畝
  白玉や京の子供の京言葉 河野美保子
  紫陽花に秋冷いたる信濃かな 杉田久女
  千鳥も老いも夜明けの素足九十九里 古沢太穂
  黄砂いまかの楼蘭を発つらんか 藤田湘子
  長崎道鳥栖に分かるる暮春かな 小川軽舟

【指導】天地わたる(鷹同人)
  全句講評します。

【参加費】1000円

【参加したい方】
  ブログに書き込みをするか、youyouhiker@jcom.home.ne.jpへご一報を。

【句会のあと】
  句会後、余裕のある方は喫茶・談笑いたします。お楽しみに。
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湘子『黑』3月上旬の句を読む

2024-03-09 07:57:47 | 俳句



藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の3月上旬の作品を鑑賞する。

3月1日
就中(なかんづく)藁家の椿旺(さか)んなり
藁家のあるようなところは植物がいっぱいあるだろう。椿も点在する。けれど藁家の庭の椿がことのほか豪華なのである。「就中」の効かせ方が巧い。
冷たき手垂れ春園にまぎるゝか
不思議なテイストの句である。春先に手の冷たさはよく意識する。それを逃さず句にした。「春園にまぎるゝか」という屈折も含めてすべて湘子らしい。

3月2日
きさらぎの顱頂帽子に委ねけり
ふつうは「顱頂に帽子を委ねけり」であろう。それを「顱頂(を)帽子に」という文脈にしている。この逆転がのめるように仕立てた転換の1句である。
鳴くことを知らぬ田螺の申し條
「申し條」の「條」がわからなくて長い時間考えた。ここは「申し条」と同じで言い分ということだろう。「田螺鳴く」という季語を斜に見て諧謔に転じたファンタジー。
上を見る雛(ひひな)は無けれ夕燈
そりゃあまあそうであるがこの見方にはっとする。すかさずこれに「夕燈」を付ける。手練れの一句である。

3月3日
和服著て三月三日たゞ眠し
和服着て何をしていたのであろうか。転寝していてもいいようなことか。「三月三日たゞ眠し」がふるっている。
野や磯に遊ばず汽車に乗りてをり
さきほど「田螺鳴く」を分解した句があったがこれも季語の分解である。ここには「野遊び」と「磯遊び」が隠れている。両方ともせずにいま汽車に乗っているという内容。自在に句を書いている。

3月4日
青踏や北へ向かへばすぐ丘に
ほとんど何も考えずに句を書いている。めざましい詩があるわけではないがこれで俳句である。凝り固まるよりこのように軽いほうが俳句はいい。
沈丁に往きては戻り夕ごころ
これも軽いけれど情感がある。「沈丁」のせいである。しまいに「夕ごころ」を置いたのも適切。

3月5日
町へ出て飯食ふ僧におぼろかな
「町へ出て飯食ふ僧」という切り口がおもしろい。見る角度の大切さをこの句で思う。「僧におぼろかな」という言い方も珍しい。
壺焼を喰ひたる殻の巍々(ぎぎ)とあり
たしかにあの殻は「巍々(ぎぎ)とあり」である。文字面からもそれが見えて楽しい。
太陽を知り蝌蚪泳ぐことを知り
「蝌蚪泳ぐことを知り」は誰でも言えるが、「太陽を知り」を言うには詩心の充実が必要。先生まいりました、という気分。

3月6日
クレソンに奥嶺の水のかよひそめ
クレソンの生えるところは清水である。奥嶺の水は美味そう、クレソンも巧そう。「かよひそめ」は雪解けのことだろう。

3月7日
啓蟄やよき事言へば佳きこと來
日本人特有の言霊信仰を思う。受験子の前で「すべる」と言うなというあれである。「よき事言へば佳きこと來」の内容はおぼろだが季語で決まっている。
春暁を母とし檜苗そだつ
眼前に少し伸びた檜苗がある。それだけのことを俳句にするに「春暁を母とし」を引っ張り出したのである。「春暁を母とし」などどうやって思いつくのか。詩嚢の深さを思う。

3月8日
梅咲くやいくさを知らぬ牛のこゑ
梅に鶯は付き過ぎの最たるものであるが、梅に牛など誰が考えるのか。それも「いくさを知らぬ牛のこゑ」である。豊かでありいい配合である。
松風や日蔭出てきし田螺取
川の土手が高いのか、山際なのか、川が低い感じがする。そこから田螺を採って誰か出てきた。冒頭の「松風」を祝意のように感じる。
しゆくしゆくと焼けて蠑螺(さざえ)の猥らなる
蠑螺の身を引っ張り出すときまさしく猥らなのだが焼いているときからそれは感じる。この句の通りである。

3月9日
啓蟄のすぐに返事の電話かな
何かお願いの電話をした、「考えてみてください」というような。すると5分後に折り返し電話が来た。たぶん色よい返事だったと思われる。
雁ゆくとこぼしし雨に濡れにけり
初期の「雁ゆきてまた夕空をしたたらす」よりは抒情が控え目で即物的であるが雁の行くはかなさが出ている。

3月10日
一心の雨垂経や鴨毟(むし)
「雨垂経」とは何ぞや。「維摩経」のようなしかとした経典ではなく、雨垂の音を経と感じているのではないか。樋の屋根、茅葺のような屋根から雨が落ちている。それを聞きながら鴨の羽根を毟っている、と読んだ。
なにゆゑに五加(うこぎ)飯など届きしか
五加飯は珍しい。「なにゆゑに」と言うのもわかる。五加飯の一物俳句として決まっている。
(こころざし)低きにあれば春蚊出づ
ああ、もう蚊が出たか、やれやれ。俺の志が低いせいか。自嘲の句だが心憎い作り方である。
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辞書にない言葉と格闘する

2024-03-08 05:32:59 | 俳句



修司忌やスカイデッキに海の綺羅
吟行の帰りの車中、この句の主に「この句ダメですか?」と聞かれた。零点句である。
まず「スカイデッキ」という新語が胡乱であった。広辞苑が収録していない流行り言葉で、語感からして高層建築の展望台みたいな所を思った。展望台で見た海はキラキラしていた。「スカイデッキ」も「綺羅」もかっこいい言葉だが浮ついている。きれいな物ばかり集めた観光パンフレットであり言葉がモノ化していない。それに、なぜ、これが寺山修司につながるのか……いろいろな疑義が重なって誰も採らなかった、と思う。

                                     


「スカイデッキ」は、高層ビルや空港の屋上に設けられた展望台、という理解でいいかとさらに調べていたら、なんと「高所作業車」もその呼び方であることを知った。
高速道路や高架橋での建設・メンテナンス作業、工場や大型店舗の建設工事などにおいて、足場のないところの作業効率をさらに高めるための装置である。クレーンのように伸びた先端に人が立って作業する。「スカイデッキ」は「高所作業車」と総称される物のある会社の商品名なのか。
流行語というか新生語というか辞書にない言葉が世の中に満ちている。
展望台のスカイデッキも宣伝能力の長けた人が英語の「sky」と「deck」を併せてかっこいい「スカイデッキ」を案出したのか。自社のビルの展望台の命名に思えるがこちらの総称を聞いたことがない。したがって展望台の「スカイデッキ」は幅を利かせていき、やがてこれが一般名詞になるかもしれない。このようにして日本語にきりもなく和製英語が増えてゆく。

鳥雲にスカイデッキに文を書く
卒業子スカイデッキに吹かれをり
スカイデッキぐるりと海や燕
などと流行り言葉をいじってみたが、スカイデッキの6音が目立ちすぎ、やはりコマーシャル臭が漂う。きれいきれいのレベルを脱するのが難しい。誰かがこの言葉で佳句をものにすればスカイデッキは俳句に堂々と入って来るだろう。その可能性は否定できない。

             

ぽっと世の中に言葉が出てくる。毎日雨後の茸のように出てくる。
型通り電子署名や冴返る
先日、弟子がもってきた句である。「電子署名」もぽっと出てきた言葉である。つまり画面に先がゴムみたいな棒で自分の名前を書くことか。先日、スマホを買い替えたとき店員に画面に名前をと言われたあれかなあ。「型通り」は説明を受けてきて最後了承しました、ということを言いたいのか。もう少し見えるように書けないか、とアドバイスした。
小生なら「電子署名」を分解する。俳句の基礎は物を書くこと。「電子署名」なるおおざっぱな言葉が本質を見えなくしているとみて、「画面に署名」とほぐす。さらに「画面に署名たどたどし」と展開すればそこに自分を出すことができる。ここまで来れば季語を引っ張り込める。
戻り寒画面に署名たどたどし
という1句ができた。
本質の見えない複合語は分解するのが小生のやり方。おおむねそれが言葉の核心に至る定石なのだが、もしかして「電子署名」はやがて大手を振って世の中に流通するかもしれない。新語が世の中に出来したときその言葉の消長はすぐにはわからない。言葉は生きもので古い人間をあざ笑うかのように市民権を得ることがおおいにある。

鷹主宰は流行語にすこぶる敏感なアンテナを持ち、積極的に句に取り入れる。その進取の気魄にたびたび驚かされている。以下のような句である。
悴みて足踏みに待つパパラッチ(2024年3月号)
ぎんなんに鼻の慣れたるフリマかな(23.12)
萌え絵の壁聳え仰ぎぬ冬晴に(23.4)
萌え絵もて窓目潰しの街寒し(23.4)
息継がぬAIの声年の果(23.2)
以上、小川軽舟

                                         

「萌え絵」など主宰の句を読んで初めて知った。よくこれに気づき句に仕立てたたものだと感嘆する。
津の国は淀の鵜殿の蘆を刈る(23.1)
主宰はかような古典的な句を一方でものすご仁ゆえ懐の深さは計り知れない。

葛切や世に追いつかぬ辞書と我 わたる
2005年に書いた巻頭句を思い出した。あのころから辞書にない言葉に喘いでいる。古い人間は新しいものをなかなか取り込めない。
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3月25日KBJ句会

2024-03-02 19:18:21 | 俳句



3月というと「いきいきと三月生まる雲の奥 飯田龍太」をすぐ思いますが龍太のいたむかしの甲斐は空気のよいところでこの清新さを納得します。しかし現在の東京3月は黄沙が降る、杉花粉が飛ぶでかなり埃っぽい印象で「花時のいつも得体の知れぬ雲 桂信子」にむしろ親近感を覚えます。桜が群れ咲くことを「花の雲」と呼ぶように雲のイメージは前の月より濃いといえるでしょう。茫洋とした霞、雲のカオスを身近に感じる季節です。さあ、カオスから言葉を導きだしましょう。俳句をしましょう。興味ある方はふるってご参加を。初心者も歓迎します。


【日時】3月25日(月)13:30~16:00

【会場】多喜窪公会堂
           西国分寺南口を出て450m

      

【参加費】1000円

【出句数】1~8句(以下の兼題を含む当季雑詠)
         あらかじめ短冊に書いてくることを期待します

【兼題】人名を読む
  例句
  能衣裳暗きに掛かる虚子忌かな 小川軽舟
  口笛ひゆうとゴツホ死にたるは夏か 藤田湘子
  キリストの鬚生やしたり毛蟹売り 寺田京子
  家康公逃げ廻りたる冬田打つ 富安風生
  このあたり太閤びいき畦を焼く 山本洋子
  向日葵や信長の首斬り落とす 角川春樹
  モナリザに仮死いつまでも黄金虫 西東三鬼
  ブラームス好きかと問はる涼み台 大木あまり
  匂いなくケネディという白き薔薇 広瀬敦子
  今日もまた負けてうの花若乃花 坪内稔典
  花づかれ美空ひばりをかけてゐる 渡部伸一郎
  露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す 西東三鬼

【指導】天地わたる(鷹同人)
   全句講評いたします。

【参加を希望する方】
句会へ参加したい方は、ブログへ書き込みをするか、youyouhiker@jcom.home.ne.jpへ一報を。もう一人参加できる余裕があります。
余裕のある方は句会後「ポポラマーマ」で喫茶しましょう。

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鷹俳句会のおもしろい名前たち

2024-03-01 17:02:16 | 俳句



日々の茶めし(吹田)歳晩や朝から匂う漂白剤
あちこちで人が死ぬ。知り合いの句友が元気か鷹3月号の全ページを眺めた。そうするうちに会ったことのない人でえらくおもしろい名前に遭遇した。その代表がこの人である。お笑いを本業とする芸能人を思ってしまった。それにしてもユーモアとウイットが光る。
この人のほかにもおもしろい俳号を探してページを繰った。名前の後、お住まいと1句を紹介する。

千布夢愁(豊中)焼芋の掌に温かき師走かな
漢字は表意文字であると痛感する。春、たくさんの布にくるまって夢を見て愁いに身をやつしている、と読める俳号。ファンタジーをめざして俳句を書く人なのか。

來本野の(彦根)群青の母なる伊吹眠る山
名前全体のたたずまいに興がある。「野良」だと犬を思ってしまうが「野の」はそこはとなく抒情がある。女性と思うがさてどんな人なのか。

一木刻刀(高山)くそたれと戦場の夜やクリスマス
「いちぎ・こくとう」さんか。円空仏ではないが彫刻刀でひたすら何かを彫っているイメージ。おまけに在所が高山とくれば木工以外のイメージが立ってこない。句を彫琢していそう。

二宮夢駝(愛知)冬萌やアプリに習ふ外国語
「夢駝」は「無駄」から来たのであろうか。駱駝に揺られて転寝しているイメージである。

一百 凪(沼津)笠雲の富士を遥かに雪蛍
視覚的に切れ抜群の立ち姿。さて「一百」をどう読むのか、わからない。本人かどなたかに教えてもらいたい。

棚網 鮎(狭山)鈴一個猫がじやれ合ふクリスマス
字づらから電車の網棚に鮎が載っているイメージ。やや場違いのところにあるだけにおもしろい。着いたらすぐ焼こうという作者を感じる。

大木端山(横浜)山茶花や眼白ぼ次は四十雀
意味性が濃い俳号。大木が山の麓に立っているという内容である。「深山」でないところがおもしろい。

松岡雲辺(東京)白菊を剝けば老友恙なし
鷹ではそうとう古い人にてお名前はよく知っている。中央例会で名乗りを聞くたびに、「うんぺん」という音感と雲の辺というイメージを心地よく感じたものである。雲海を雲の汀ととらえた句があるように雲辺という言葉は彼の世へ誘う。

木村みん・りー(東京)スキップにお下げ髪はね冬麗
どこまでが姓か、まず考える。日本人の名前の構成要素は姓と名の二つだが欧米人のそれはクリスチャンネームだかが入り混じって煩雑。そのテーストがこの名前にある。欧米の文化に憧れている人か。

奥山真猿(東京)鬼ごつこ逃げ切つた子や空つ風
「おくやま・まさる」と読むか。意味性が濃い。「真猿」は正真正銘の猿である。そこまで自嘲するか。おまけに在所は首都東京。山といっても高尾山くらいで奥山などない。皮肉に徹しているこの人に会ってみたい。

折勝家鴨(東京)肩尖り革ジャンパーの喧嘩果つ
鷹俳句賞受賞者にして事業部部長。鷹において知名度抜群。この名前を中央例会で聞いたとき、小生は俳句を舐めているんじゃないかと疑ったが本人はまじめであった。「家鴨」はわかるが「折勝(おりかつ)」をどういうきっかけで思いついたのか、謎である。姓名すべて戸籍名ではない。

河原 鶸(東京)命日やショートブーツは可燃塵
イメージ鮮明な命名。「かわはら・ひわ」と読むか。「かわら・ひわ」では字足らずの感じがする・少女漫画に出るヒロインを思う。よもや80歳ということはないだろうな。

内田凸歩(国立)ギター弾く斜に被りて冬帽子
この名前を見てすぐ「佐藤B作」を思った。「凸」の突出感が「B」に相当するのである。1字に違和を感じさせるのは巧い。その違和が全体をいきいきさせる。大股で野山を闊歩する感じがしていい。

六花六兎(川越)提灯にキャバクラの名や酉の市
「六花」は「りっか」で雪のことだろう。すると「六兎」は「りっと」と読んで欲しいのか。「りっか・りっと」、あるいは「りっか・りくと」しまいは落ち着かせるか。斬新だが句会で聞かないと俳号とは思えない響きである。

砂金祐年(水戸)熱燗やかつて屋台を引きし腕
鷹同人住所録に「いさご・ゆうねん」と総ルビで紹介されている。書いてなければ「さきん」と読むだろう。彼とは句座と共にしていて「砂金」を見るたびに裕福になった錯覚に陥る。

安方墨子(ひたちなか)初日見む三半規管ままならず
「墨子」は中国の春秋戦国時代の思想家である。彼とは句座と共にしていて掘り下げた考え方によく遭遇する。いわば人間探求派であるが「ぼくし」は「牧師」を連想し親しみも覚える。この句のように悪しき体調の中で頑張っている。

筑紫太郎(福津)まんじゆさげ映し火となる遠賀川
この名前を一読したとき九州の筑後川をすっかり頂いてしまっていて、ふてえ野郎だと思った。けれど筑後川は「筑紫次郎」である。太郎は利根川の「坂東太郎」である。九州と坂東のいいところを併せた命名。ずるいぞ、と思うほど豪華な俳号である。「天地わたる」も負けそう。

神馬しんめ(弘前)大鋸屑を車海老跳ぶ師走かな
姓も名も馬がらみである。さてどう読むのか。神馬は「しんめ」とも読むから「しんめ・しんめ」であろうか。このリフレインはうるさいので姓は「しんば」と読ませたいのか。「しんば・しんめ」のほうがリズム感はあるがこれは小生が押し付けることではない。名乗りを聞いてみたい。

禪寶居士(札幌)公園の朝の静けさ池氷る
「居士」は戒名の末尾に使われて親しい。これはいいが姓の「禪」は何と読むのか。「ぜん」あついは「せん」、意味は天子が位を譲ること、あるいは天子が祭を行う。「寶」は「宝」で「ほう」か。「ぜんほう・こじ」あるいは「ぜんぽう・こじ」というのであろうか。戒名を思ってしまうと感じたらこの人に失礼なのか。うーむ。

竹原櫨於(札幌)凍雲の樺太からも続くらむ
姓は読める。「櫨」は木の名前で「はぜ」であり「於」は「お」と読めばいいだろう。よって「たけはら・はぜお」と読んでみる。

辞書を引いた。俳句を読むときより辞書の世話になった。
取り上げた俳号の読みについては自分なりに調べたが推量するしかない要素が多々あった。間違って読んだら当人に礼を欠く。この記事を読んだ方で本人、あるいは事情に詳しい人がいたら間違い等知らせていただきたい。名前を読むことのむつかしさを痛感している。
6月29日鷹60周年記念大会の新宿でここに掲げたお名前の何人が参加するか。胸の名札を見るのが楽しみである。来たれ、新宿へ。
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