日本では死刑囚に執行が通知されるのはその当日です。それでは不服申し立てもできず権利が侵害されて違法だとして、確定死刑囚2人が国に慰謝料などの損害賠償と当日通知の変更を求めた訴訟の判決が15日、大阪地裁でありました(写真左は死刑執行室)。
横田典子裁判長(写真中)は、「死刑囚は現行の運用を含めた刑の執行を甘受する義務がある」として請求を退けました。違法性については判断しませんでした。きわめて不当な判決です。
そもそも日本が死刑制度を続けていること自体、国際的に特異で異常です。アムネスティ・インターナショナルによると、2022年末時点で死刑を廃止している国が144カ国。先進国で存続させているのは日本と米国の一部の州だけです(16日付京都新聞=共同)。
さらに、執行通知が当日というのは日本だけです。同じ死刑存置国のアメリカでは、十分な期間をとって通知されます(2022年10月11日付ブログ参照)。
死刑制度を考えるうえで、もう1つ見過ごせないのは、裁判員制度との関係です。
日本の裁判員制度は、最高刑が死刑か無期刑の刑事裁判に市民を参加させる制度です。その結果、市民裁判員も死刑判決に加わることになります。それは2つ問題があります。
1つは、裁判員になった市民の精神的負担が大きいことです。
今年初め、京都アニメーション放火殺人事件の青葉真司被告に京都地裁が死刑判決を下しました(1月25日)。その裁判員の心境がこう報じられました。
「「裁判に関わったことのない人間がこんな結論を出してよいのかな」と思う瞬間があった。事実関係に争いがなかったことで判決内容に納得できた自分がいたが、「もし、被告が否認し、少しでもえん罪の可能性があったとしたら違った心情が押し寄せたかも」と吐露する」(2月25日付京都新聞)(写真右は同裁判の裁判員=記事とは無関係)
もう1つの問題は、市民が死刑制度に取り込まれ制度存続に利用されることです。
京アニ裁判の死刑判決について、ルポライターの鎌田慧氏はこう指摘しています。
「(裁判員は)市民を代表して死刑の評決に加わる。それもプロの裁判官と一緒だ。映画「十二人の怒れる男」のように、裁判員としての市民が熱弁を振るって、死刑拒否の判決を決定するなど、まずありえない。
ということは、死刑制度に疑問をもたない世論を背景に、市民を死刑判決に動員して死刑維持の世論強化にする。生と死の決定。なんと重い責任を市民に負わせたのか」(藤原書店発行月刊誌「機」24年2月号)
この危惧は裁判員制度発足(2009年)の時からありました。木村晋介弁護士はこう述べていました。
「裁判員制度は、裁判所が国民を絡め取る制度なのか、それとも国民が裁判所を変える制度なのか。その評価は、制度の改善もさることながら、負担に耐えて裁判員を経験した人々の経験の重さを、日本の社会がどれだけ尊いものとして受け止め、自分たちの中に生かしていくかにかかっている」(木村晋介監修『激論!「裁判員」問題』朝日新書2008年)
それから15年。裁判員に対するかん口令もあり、その経験は生かされることなく、重罰化はいっそう進みました。世論調査では約8割が死刑制度に賛成し続けています。
裁判員制度は、市民が裁判所を変える制度ではなく、国家権力が市民を死刑制度に絡め取る場になっているのです。
死刑制度、裁判員制度ともに、廃止へ向けて抜本的に見直す必要があります。自民党政権が日米軍事同盟の下で戦争国家づくりを急いでいるいま、それは喫緊の課題です。