郡宏暢「人工湖」は、本というモチーフを通して、語られないということ、語られない存在を象徴している。
http://shiika.sakura.ne.jp/works/jiyu/2015-12-19-17456.html
わたしも
わたし以外のわたしも
誰だって他人の書いた物語は読まれることのないまま
蘆の深い水際から
暗い湖底へと
沈められる
創作者ならば多くの人が感じるであろう、自分の作成物の反響を得たいという気持ちがストレートににじみ出ている。タイトルが湖でなく人工湖であるのは、本(創作)をとりまくのは世界(湖)ではなく社会(人工湖)であるということだろうか。以前、出版社の広報部の方とプライベートで会った際に聞いたが、小説が売れなくなっているのに、小説家になりたい人が増えているらしい。創作をすることで社会のしがらみから解放されたいという思いがあるのだろうか。つくづく人は社会的動物であるということを思わされる。創作のあり方自体すら考えることなく、我武者らに創作に向かいたいと思うときもあるが。何億人の人間がいるなかで、1人の人間が、1対1のコミュニケーションをとることのできる対象の数はあまりにも少ない。筆者は俳句を書いているが、「死ぬまでに読む(or聞く、書くetc)○○の数」というフレーズの入った句はよく見かける。「人工湖」はテーマそのものが「創作をするということ」なので、韻文としてはメタ的であり、それほど新奇性のあるものではない。それでも私が「人工湖」に思いを馳せずにはいられないのは、この詩の改行の美しさではなのかもしれない。一行一行で息継ぎをするように、読むと、主体自身も湖に潜って行くような感覚を得られる。
郡の詩をもう一つ、「葱とぶどう」(「詩誌酒乱」第6号、2013,6)を紹介したい。
老女が店で触れた葱が落ちて、ぶどうに突き刺さるシーンを中心に組み立てられた詩である。
そのたくらみで
わたしはようやく安心できるのだ
カウボーイがインディアンの腹にナイフを突き立てる夢
そういう西部劇のような夢
ーーを抱き締めて
あとは葱にまみれて眠るだけだ
カウボーイの夢のくだりは明らかにぶどうと葱と対比されているのだが、もはや最近の学生にイメージできるのか怪しくもある西部劇と、日常にまみれた葱(ぶどうは「580円のコミュニケーションをひと房」とあるので日常と郡が捉えているかは怪しい)の落差が可笑しい。これからも老女の食卓に葱とぶどうが同時に置かれることはないだろう。葱を買って去った老女はぶどうのことを忘れるかもしれないが、この詩の主体は覚えているだろう。この詩も改行のタイミングが際立ち、一行ずつ息を落としていくように読みたい。
郡はどこまでも市民らしさを闊歩する中に違和感を表出させる詩を書き続けるのだろうか。