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満寵伝 プロローグ

2015-03-08 17:32:02 | 日記
皆さんは、満寵という人物をご存知であろうか?
 
 古の中国で俗に言う三国志の時代に、魏を建国した曹操から曹丕、曹叡、曹芳と四代に仕えた非常に息の長い人物である。

 三国志演義では文官のイメージが強い人物であったが、正史では軍人としての活躍も非常に有名であった。

 山陽郡昌邑県の出身で、身長は約190cmもある大柄の人物であったと伝えられている満寵は、十八歳の時に県の役人(督郵)になっている。
 特に名家の出身でもない彼がその年齢で役人に推挙されたという事は、子供の頃からかなり優秀であったのであろう。

 普通の学生であった私とは大違いである。

 役人になった後に、郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物と抑え、彼は二度と乱暴をしなくなったという話も伝えられているので、腕っ節も人間としての度量にも優れていた事は間違いない。

 私は喧嘩なんて今まで縁が無かったので、荒事なんて基本的に無理ですし、それは100%保障できます。

 人間性の確かさは、高平の令を代行した際に、督郵の張苞の横暴を見てこれを逮捕してその場で取り調べを終え、そしてそのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話からも容易に想像がつくでしょう。

 私の住んでいる場所は田舎なので、村社会と掟として長い物には巻かれるようになっていました。
 偉い人の悪事を、どうこうとか無理です。

 そこまでの悪人はいなかったんですけどね。

 その後は曹操に仕えるのだが、曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時には、満寵は速やかにこれを逮捕し、その後曹洪から曹操への働きかけがあったことを知ると、直ちに彼らを処刑してしまう。

 そしてこの行為は、曹操に大いに賞賛されている。

 元の太尉であった楊彪が逮捕された際に、旧知である荀や孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通りに訊問した上で、曹操に処罰するなら罪を明確にすべきと直言したため、曹操は楊彪を赦免した。

 このようなエピソードから、満寵は誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人から疎まれる事はなく、曹操からの信頼も厚かったらしい。

 私ならば、きっと長い物に巻かれていたと思うのです。
 ヘタレだと思う方も多いでしょうが、世の中の大半の人達ってそうだと思うんです。

 以上のように、正史においても初期は能吏としての活躍が多く記載されているのだが、次第に満寵は軍人としてもその名声を得る事になっていく。

 官渡の戦いの時期には、袁紹の郷里である汝南太守を務め、かの地を拠点とする袁氏の与党の軍を滅ぼして、捕らえた人達を農耕に従事させる事に成功したり。

 曹操の荊州征伐にも参加して将軍位を貰い、その後すぐに征南将軍曹仁の参謀に起用され、関羽が攻めてきた時は、救援に来た于禁ら七軍が増水により壊滅する様を見せ付けられながらも、弱気になった曹仁が降伏しようとするのを叱咤激励して止めつつ、徹底抗戦を行って時間を稼ぎ、その間に徐晃の援軍を得て関羽を撃退しています。

 あの関羽と戦うなんて、普通の人からすれば罰ゲームに等しい行為でしょう。
 私ならば、死んでもゴメンです。

 曹操の死後にはその後継者である曹丕に仕え、呉との江陵を巡っての戦いで功績を挙げたり、新野の防衛を任されたりしていて、その間にも呉の減税を討ち破る功績をあげて、出世と爵位を得ています。
 
 他にも、呉に侵攻した曹休、司馬懿、賈逵の内、満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指して進撃していたが、揚州方面の軍を率いた曹休が敵の計略にかかり大敗したため敗れている。
 
 これは敗戦であったが満寵自身に失態は無く、彼は曹休は戦の経験があまりないため敗退するであろう旨の上奏をし、実際その通りになっているので、彼の軍人としての能力に間違いはなかったようで、既にその頃には、満寵は有能な軍人として当たり前のように仕事をこないていたようです。
 
 もはや、文官としての面影はナッシングでした。

 私との共通事項と言えば、いつの間にか農家の跡取りとして、時間が空いていれば当たり前のように農作業に従事していたくらいでしょうか?

 当たり前のようにという部分のみで、かなり強引なような気もしますが。

 その後、賈逵の死後に豫州刺史を兼任し、曹休の死後に都督揚州諸軍事となったのですが、揚州への転勤の際に汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手に付いて行ったそうです。

 私は農業大学進学の際に、家を出ようとしたら飼い犬のマツが寂しそうにこちらを見ていたのを思い出します。

 おかげで、私は今も犬派ですが。

 その後は、対呉戦のエキスパートとして魏の国土防衛に大きな功績を挙げ、彼と戦って敗れた呉軍の将は孫権本人を始めとして、陸遜、孫韶など多数に及んでいます。

 満寵は魏の領土を守るために自ら防衛戦の指揮を執り、同僚である王凌が迎え入れていた降将である孫布の裏切りを見抜いたり、蒋済からの反対を押し切って合肥新城を築城したり、対呉戦で自ら伏兵を用いて敵軍兵士を切ったりと。

 正史基準ではこの人はもはや完全に武将で、どうして演義だと後半まで文官扱いなのか不思議なくらいです。
 その演義でも、後半彼は都督(軍司令官)として対呉で大活躍していて、漫画の横山光輝三国志ではえらく豪華な鎧などを着ている絵が書かれていた記憶がありますし、昔にやっていたゲームでは、初期の頃は本当に文官のような能力値が設定されていましたが、時期に武力は相変わらず低目なものの、バランス型の能力値へと変化していました。

 体が大きいので個人戦闘能力もかなり優れていたのかもしれませんし、それよりも大軍を効率良く統率・管理する将の将として、対呉戦のかなりの部分を任されていたという事実の方が凄いのは確実です。

 対蜀の司馬懿と、対呉の満寵。
 おかげで、魏は両国からその領土を保つ事に成功しています。

 何しろ、満寵のせいで諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は、失敗したような物だったんですから。
 
 蜀との同盟関係に基づいて、孫権は陸遜、孫韶といった将軍を引き連れ、数万人の軍勢と呼称し合肥新城に攻め寄せて来ましたが、満寵は合肥新城に救援に赴いて数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火攻めをかけて呉軍の攻城兵器を焼き払い、更に孫権の甥の孫泰を射殺する戦果を挙げています。

 もうこの頃にはかなりの老齢のはずなのですが、数十人で数万人の敵軍に火攻めとは、物凄く元気で過激な老人になっていたようです。

 多分、孫権からしたら、何度攻めてもそれを防いで自軍に損害を与える満寵を疫病神のように感じていたのでしょう。
 その後も何度も呉軍を魏領へと進めて屯田などをさせるのですが、その度に撃退され、ただ満寵に軍功を稼がせたに過ぎなかったのですから。
 
 たださすがに寄る年波には勝てず、晩年は中央に召喚され太尉となります。
 更に、家には余財がなかったために詔勅により特別に物資が下賜され、加増による領邑は九千六百戸になり、子と孫二人が亭侯とされるも、242年3月に満寵は逝去し、その死後に景侯の諡号を贈られました。

 これは正史に記載された事項の抜粋ですが、満寵は能吏としても軍人としても有能で、特に後半生は孫権にとっては災厄のような人物であったようです。

 人臣位を極めたが、その清廉さと公正さからほとんどの人から疎まれもせず、逆に赴任先の領民や兵士達などからは神のように慕われ、その地位の割には私財を溜め込むような事はせずと、間違いなくチートクラスの人材でしょう。

 と、なぜ急に満寵の話を始めたのかと言えば、この私が彼に非常に深く関わる事になったからです。

 紹介が遅れましたが、私の名前は小室勇樹といい、今年で二十五歳の普通の独身男性です。
 生まれは広大な水田が広がる農村地帯で、実家もそれなりの水田や畑を持つ農家の跡取り息子として生を受け、地元の農業高校から、我が侭を言ってそのまま農業系の大学へと進学して農業を学んでいました。

 家を継ぐだけなら別に高校まででも良かったのですが、現在日本を取り巻く農業環境を考えると、今までのような家内農業だけでは生き残る事は難しいと考え……。

 実は、四年間のモラトリアムが欲しかったんですけどね。
 
 ちゃんと勉強はしていましたよ。
 実際に跡は継がないと駄目でしたから。

 そして卒業後に、実家に戻って父、母、祖父、祖母、弟、妹と、米や小麦や大豆、それに蕎麦などを日本国内では大規模な面積で栽培していたのですが、ここで思わぬアクシデントに見舞われてしまいます。

「親父、ちょっと、田んぼの様子を見てくる」

「勇樹、台風で増水しているから止めておけ。危険すぎる」

「まだそこまで増水はしていないさ」

 たまに台風のニュースなどでは、私のように田んぼの様子を見に行った人が水死などしているのですが、まさか自分の身に降りかかるとは思いませんでした。

「まさか、これで人生が終わるとはね……」

 様子を見に行った田んぼの横の水路の増水に巻き込まれながら、私はその短過ぎる人生をまるで走馬灯のように思い出すのでした。
 水を大量に飲んでしまい、呼吸が出来なくなって意識を失いながら……。

 ところが……。

「おおっ! 男の子か! よくやったぞ!」

「あなた、この子の名前はどうしますか?」

「姓は満、名は寵、字は伯寧、真名は勇樹とするが、これは成人後の事。幼名は凶虎とする」
 
 増水した水路に落ちて流され、水を飲みながら意識を失ったはずの私は、なぜか良く目が開かない状態で、上のような会話を聞く羽目に陥っていました。

 正直、自分の状態が良くわからなかったのですが、どうやらここは中国のどこかか、この夫婦らしい男女が中国人らしい事は理解できました。

 生まれた子供には姓名と字を付けるが、それは成人後の事で、それまでは幼名で呼ばれる事が多く、現代中国では公には廃止されていましたが、今でもそれを用いている人は多いからです。

 戸籍には乗せなくても、あだ名や愛称代わりに親族や友人などから呼ばれる事が多かったのです。

 なぜそんな事を知っているのかといえば、農業史の勉強と共に多少古代中国史も齧っていたからでした。
 
 それと、この幼名に使われている漢字の不吉さですが、昔は子供はすぐに死んでしまう事が多かったので、それを避けるためにあえて不吉な名前にする風習があったのです。

「満寵 伯寧ですか。良い名前ですね」

「ああ、何日も本と睨めっこして考えたんだ」
 
 学生の頃には、三国志などのゲームもしていたので、この夫婦が言っている名前にも聞き覚えがあったのです。

 ただ、この真名については不明でした。
 というか、なぜ中国なのに勇樹なのでしょうか?
 もしかすると、読みが中国風に……。

 いえ、普通に『ゆうき』とそのまま読まれていてますます意味不明です。

 というか、自分は一体どうなってしまったのでしょうか?
 すぐ隣で妙な会話をする夫婦に、良く開かない目に、更には睡魔まで襲って来ます。

「あら、もうお眠かしら?」

「赤ん坊は、寝るのが仕事だからな」

 私はわけがわからないまま、再び睡魔によって意識を失うのでした。