明日の下記のイベント(「陰気なクィアパーティ」@代々木公園、東京)に参加します。
細くて黒い長ズボンを履いて、黒い革ジャケットっぽいものを着て行きます。長身痩せ型、髪を後ろで束ねています。
気軽にお声掛けください~。
(棋客)
前回に引き続き、『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』(在日本韓国YMCA編集、新教出版社、2023)を読みます。今回は、第4章「パレスチナと性/生の政治」(保井啓志)の内容をメモしておきます。イスラエルによる、いわゆる「ピンクウォッシング」の問題について論じる内容です。
まず、イスラエルとSOGIをめぐる動きとその背景を、箇条書きにまとめます。
こうした状況下では、アメリカ社会とイスラーム社会は以下のような二項対立でとらえられてしまいます。
そして、これがアメリカによる侵略戦争を正当化するロジックとしてはたらいてしまいます。実際のところは、アメリカでも同性愛嫌悪によるヘイトクライムは山ほど発生しており、差別がない社会とは言えません。また、こうしたロジックがあったとしても、一方的な侵略やジェノサイドを許してよいはずがありません。
次に、本論では、p.112-115でイスラエルにおけるLGBT運動の流れを追ったのち、パレスチナにおけるSOGIをめぐる政治について話が移ります。
以上で説明してきた流れは、近年の日本の状況とも重なるところがあります。自分の身の回りの状況と考え合わせながら、向き合っていかなければなりません。
以下、この論考に関わる情報を追記しておきます。
まず、ピンクウォッシングについて、最近書かれた迫力のある記事として以下を挙げておきます。
見る、話す、すれ違う、祈る——TRPのピンクウォッシュに抗して[忘れた頃に届く 2024年4月] | 忘れた頃に届く/小沼理のニュースレター
特にTRPの近年の動きとそれに対する批判について詳しくまとまっています。
クィアなパレスチナ連帯とレインボーフラッグ – ひびのの主張/テキスト作品
パレスチナ連帯のデモの現場でレインボーフラッグを掲げることについて意見表明するもの。実際にパレスチナに行った時の話も書かれています。
また、「アル・カウス」については、最近私がWikipediaの記事を立項しました。加えて、以前「Diff」にてピンクウォッシングに関わる問題を少し書いたので、宣伝しておきます。
(棋客)
前回に引き続き、『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』(在日本韓国YMCA編集、新教出版社、2023)を読みます。今回は、第7章「ジェンタイル・シオニズムとパレスチナ解放神学」(役重善洋)の内容をメモしておきます。この章は、イスラエルによるパレスチナ侵攻を「宗教対立」として見ることの危うさとその内実を描くものです。
イスラエルによるパレスチナ信仰は、シオニズムの名のもとに正当化されてきた。シオニズムの定義について、近年の学者は、現在のイスラエル・パレスチナを構成する地理的領域に対するユダヤ人の支配を促進するために、特にキリスト教徒の関与によって起こされる「政治的行動」であるという。つまり、特定の宗教の宗派というより、もとより政治的な行動であると捉え直す議論がなされている。
「ユダヤ人のパレスチナ帰還」という言説はいつ始まったのか。この言説は、宗教改革期のイングランドにおいてなされた、旧約聖書の再解釈に端緒がある。その背景には、「パレスチナはイスラム教徒に"占領"されている」という言説を立てることで、オスマン帝国との軍事対立にユダヤ人を利用しようとしたことが背景にある。
当時、ロシアはギリシア正教会を通じて、フランスはカトリックを通じて、パレスチナに一定の影響力があったが、プロテスタント系のイギリスはパレスチナには影響力がなかった。そこで、ユダヤ教徒を利用し、オスマン帝国に対抗するため、ユダヤ人帰還論(レストレーショニズム)が立てられた。つまり、レストレーショニズムを大義名分とすることで、イギリスによるパレスチナへの軍事的介入を可能にしようとした。
ただ、当時はレストレーショニズムの最終的な目標が、パレスチナ帰還を果たしたユダヤ人の改宗に置かれており、現地のユダヤ人に支持されることはなかった。
しかし、19世紀末になり、欧州におけるユダヤ人迫害が始まると、シオニズム運動が勃発し、レストレーションが再評価されるようになる。政治的な要求が高まる中で、宗教の言説が利用され、侵略を正当化する論理として機能するようになってしまった。
こうしたキリスト教シオニズムへの批判は、この言説の直接の被害者であり、かつキリスト教に深い理解のある、パレスチナ人のキリスト教徒によって進められてきた。もともと、パレスチナにおいてはマイノリティであるパレスチナ人キリスト教徒は、非宗派的なナショナリズム、民主的な独立パレスチナを目指すパレスチナ解放運動を唱えた。
パレスチナ人キリスト教徒の間での聖書読解では、イエス・キリストを、ローマの占領下で生き、当時の宗教的指導者と結託した占領運動に殺されたパレスチナ人としてとらえる解釈も生まれた。パレスチナで生まれた解放神学の流れは、北米の黒人解放神学、韓国の民衆神学などと響きあいながらも、新たな展望を示すものとして受け止められる。
最後に、宗教が担いうる役割について議論される。宗教思想は、国境・階級・ジェンダー・社会階層などさまざまな違いを越境し得るものである。これを植民政策のために利用したのが、ユダヤ人シオニズムであり、日帝の侵略戦争における宗教組織の動員である。一方で、宗教の持つ越境性は、そうした差異を越境し連帯を促進する可能性も示している。かつて家永三郎が、第二イザヤの「否定の論理」を仏教に見い出そうとしたように、宗派を超えて共有する論理を異なる宗教思想に見い出そうとする営みもこれまで行われてきた。こうしたなかで、どのように解放の思想を鍛えていくかがわれわれに求められている。
なお、解放神学については、以前、以下の記事でも取り上げたことがあります。
栗林輝夫の言葉には、「テロは昔も今も力にものをいわせる大国に抗する民衆の絶望的な応答である」というものもあります(「「帝国論」におけるイエスとパウロ」、『関西学院大学キリスト教と文化研究』12、2011)。前回紹介した、ハマスの攻撃をレジスタンスとしてとらえるバトラーの言葉とも響き合いますね。
(棋客)
『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』(在日本韓国YMCA編集、新教出版社、2023)を読みました。在日本韓国YMCAは、日本・韓国・在日朝鮮人を架橋する運動体であり、2006年からはパレスチナとの交流事業を継続してきました。
現在、イスラエルによるパレスチナ占領が続いていますが、このことと、フェミニズム・黒人運動・クィア理論・在日朝鮮人・日本赤軍・解放神学といったテーマの交差性を論じる論考が掲載されています。いまパレスチナで起こっている出来事が、まさしく「わがこと」であることを教えてくれる本であると言えます。
今回は、第5章「パレスチナの歴史的鏡像としての在日朝鮮人――私が私たちになるために」(中村一成)を取り上げ、その内容を簡単にまとめておきます。ちなみに、中村一成さんの本は、以前『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』を紹介したことがあります→読書の秋に読んだ本 - 達而録。
「アジア大陸の両端に二つの不条理がある」という言葉がある。二つの不条理とは、イスラエルと日本のこと。イスラエルと日本の状況は相似形にある。つまり、
という状況で、この二つの国家は共通している。そもそも「国民国家」というシステム自体が、常に外部を作り出すものである。「国籍」は、恣意的に与えられ、また奪われるものであるにも拘わらず、その国籍によって人の扱いを変えるという、きわめて排他的なシステムを原理として持っている。
イスラエルにおいて、パレスチナ人は「殺しても、追放しても良い存在」に追いやられてきた。アラブ世界にありながら、アラブ人を否定し、他者なきユダヤ人国家を希求する、レイシズムそのものを体現する国家となっている。1947年から、計画的な虐殺が繰り返され、その試みはいよいよ完遂に近づきつつある。
そして日本においては、朝鮮人・在日朝鮮人(そしてアイヌ・沖縄人)が排除の対象となった。1945年12月に参政権が停止された。1947年5月に外国人登録令によって在日朝鮮人は「みなし外国人」となった。1948年1月、在日朝鮮人の自主学校を否定する通達が出され、武装警官によって自主学校が閉鎖された。1951年11月に出入国管理令が出され、1952年4月には在日朝鮮人・台湾人は無権利外国人となった。1953年には国家公務員から在日朝鮮人が排除された。これらの政策の背後には、戦前の日本による朝鮮半島の植民地支配という加害に、「仕返しされるのではないか」という恐怖があった。こうした初期の政策によって、レイシズム国家の枠組みが完成し、それ以後部分的に緩和された規定はあるものの、社会に染みついた意識は変わっていない。
そして近年には、慰安婦の教科書記載の排除、教育基本法への「愛国心」の導入、高校無償化制度からの朝鮮高級学校の完全排除、ヘイトデモの常態化など、ますます攻撃的になり、いまやヘイトクライムが横行する時代になった。
2018年7月、イスラエルは自国を「ユダヤ人のみが主権を持つ」国であると基本法に定めた。この内容は、近年の自民党の改憲草案と重なる面がある。
中村は、パレスチナ訪問の体験として、このような抑圧と暴力を受け続けるパレスチナ社会の中で、暴力が日常的なものとなり、生活に浸透してゆくさまも描く。イスラエルによる家・土地・日常・命の収奪が繰り返されるなかで、パレスチナの子供たちは、世界への信頼感覚と、生きていくための展望を失いつつある。「自分は自分であることを理由に攻撃されない」という日本のマジョリティには当たり前の前提が、自明ではない場所になってしまっている。その結果、暴力が唯一の手段になりつつある。
さて、本書が発行されたのち、ハマスの攻撃がセンセーショナルに取り上げられましたが、以上のような背景は押さえておかなければなりません。最近、フランスで行われたジュディス・バトラーの講演では、バトラーは、ハマスの攻撃はテロとしてとらえるべきではなく、「武装したレジスタンス」ととらえる方が歴史的には正しいだろう、と述べています。
※参考:JUDITH BUTLER - CONTRE L’ANTISÉMITISME ET POUR LA PAIX RÉVOLUTIONNAIRE EN PALESTINE - YouTube、https://twitter.com/inlaforet/status/1764926636628025697
ただハマスを悪魔化して批判しても、問題の根幹には辿り着きません。そこに至る文脈を理解すること、そしてその状況が全く他人事ではないこと、同じ構造の暴力を私自身が振るっていること、その責任をどう果たすか考えること、これを続けていくしかありません。
次回、本書からまた別の論考を取り上げて紹介します。
(棋客)
さて、昨日まで連続で更新してきた記事も、最初はいつもの記事のように、他人の文章を色々と引用しながら書いていた。ただ、この内容なら、全部(一応の)自分の言葉で書いた方がいいような気がして、そのままつらつらと書き連ねることにした。
そうはいっても、言葉にするに当たって、色々と読んだものはあるわけで、それを示しておかないのは不誠実だと思う。だから、なんとなく心に残っている文章をざっと挙げておく。また、昨日までの記事に直接関わらなくても、自分のことを考えるきっかけになったものを広くピックアップした。文献だけではなく、映像作品なども挙げられているのはそういう事情による。
また、色々な文章の力を借りたとはいえ、結局ここまで書き進めることができたのは、私が直接信頼して話をできるたくさんの友人や「同志」たちがいるからに他ならないので、深く感謝したい。特にmiffy、ありがとう。
まず、言語化の助けになったものとして、同じくパンセクシュアルを名乗る高島鈴の『布団の中から蜂起せよ』がある。高島さんは、パンセクシュアルを名乗る理由を、「私はノンバイナリ―・女性ジェンダー・男性ジェンダーの人物にロマンティックなものを抱いたことがあることから」と言いながらも、そう説明することに「具体的な経験によって自己を証明せねばならないのではないかという強迫観念」が働いているのではないか、と自分に指摘する。また、明確に〈交際〉したことがあるのは男性だけであることから、世間一般には異性愛者にしか見えないのではないかとも感じるという。私が特に共鳴したのが以下の一段。
私の非男性に対する欲望はあくまでも友愛で、私はただちょっとマイノリティの顔をしたいだけのヘテロセクシュアルなのではないか、という自分自身への疑いがある。だがそう思ってしまったとき、私が人生の半分以上抱え続けている自分の葛藤が、ないことにされてしまうのを恐ろしいと感じる。目に見えない、ちょっと度を越しただけの友情として解釈されてしまう可能性のある、しかし確実に歴史のある心情について、「よくあること」「気の迷い」として残飯のように処理されるのを、私は強烈に嫌だと思っている。(p.34)
「確実に歴史のある心情」は、自分で語るしかないし、自分で言葉にしなければこのシステムの中ではその自分はいないことになってしまう、とこの一節を読んで改めて感じた。もちろん、高島さんと私の感覚がぴったり重なるわけではないけど、力をもらった言葉として挙げておく。
次に、同じく言語化を助けるとともに、バイセクシュアルの運動の歴史について教えてくれた記事を挙げておく。18年前のインターネット上の対話の記録である。
ここで使われている「欲望を喚起する第一の要素が性別以外であるということ」という表現は自分の感覚と近い。また、過去にバイセクシュアルが蒙ってきた差別として、「同性とセックスしたから同性愛者だと決めつけられる」「異性愛者か同性愛者という二者択一が強いられる」など、強制異性愛社会と同性愛者運動の双方からバイセクシュアルという自己認識が否定されることがあることも知った。そういう闘いがあって、今自分がパンセクシュアルと名乗っているということは理解しておきたい。
そして以下の記事からは、人に対する性愛だけを想定すること(対人性愛中心主義)が、トランスジェンダー差別・アセクシュアル差別を同じ構造を持つことを教わった。
末尾にある「これまでの性的マイノリティに関する議論は、ときに性愛を普遍的なものと考えがちであった。このように、性的マイノリティをめぐる議論のなかでも、暗に特定のセクシュアリティが前提とされうるという点に注意が必要である」という言葉は、本当にその通りだと思う。「誰を好きになってもいいじゃん」とか「将来誰を好きになるかなんて分からないよね」という言葉はよく使われているけど、この言葉も性愛主義が潜んでいる。せめて「誰を好きになっても/ならなくてもいい」「将来誰を好きになるかなんて分からないし、誰も好きにならないかもしれない」と表現したくて、昨日までの記事ではこんな感じで書いている。ただ、これはこれで、人に対する性愛しか想定していないという感じもして、あまり良くないところがあると思う。だから、「誰を好きになっても/ならなくてもいい」に加えて、「人じゃないものを好きになるかもしれない」と言うべきだと思う。
これに関連して、差別とは何か、属性と行為を切り分けるとはどういうことか、また反差別を表明するとはどういうことかについて、最近読んだ迫力のある記事が以下の三つだ。
一つ目は、セーファースペースとしての本屋のあり方を模索し続けるlighthouseの店長の文章。二つ目は、欲望と性暴力を区別することの意味がよく分かる記事。三つ目は、トランスジェンダー差別に関する声明で、部落解放・人権運動に携わり続けてきた研究所の矜持が感じられる文章。力強く、そして分かりやすく自分の主張を述べ、社会に訴えかける営みを、自分もやっていこうという気にさせてくれるものだ。どれもぜひ読んでほしいので挙げておく。
また、最初の記事で、名乗りという行為と連帯について書いたけれど、その時に思い出した記事を挙げておく。
本当に何も知らないのにこんなこと書くのは無責任だけど、このように受け止めるファンがいたからこそ、当人がカミングアウトできたのではないか、と逆説的に考えてみたくなる(それは私が私の状況と重ねているからでもある)。同じブログにある「「おっさんずラブ」卒業論文 ──「リターンズ」における同性カップルの描き方 」も、向き合うのもしんどい中できっちり批判されていて、素晴らしい記事だと思う。
あと、一連の記事の中で、同人小説の携帯サイトについて言及した。あの頃のあの場所についてよく描けていると思う漫画が真田つづるさんの「同人女の感情」シリーズだ。このシリーズはいつも楽しく読んでいたのだけど、ある日「同人男の感情」という作品が出て、購入して読んだ。
作中の「同人男」と同じ体験をしたというわけでは全然ないのだけれど、間違いなく、あの頃の自分の感情の一欠片を拾い上げてくれる作品だった。真田さんも、あの頃のあの場所への愛情があって、あの頃の私たちの物語が必要で、だから自分で書いているんだろうな、と勝手に思ったりする。真田さんありがとう、全部買うのでもっと書いてください。
最後に、前回までの記事と直接関わるわけではないが、最近の映画やドラマに関連する記事をついでに挙げておく。特に批評記事は、作品を消化しながら言語化していく過程がよく見えるので、自分で文章を書く時の助けになると感じた。
ほか、映画としてはやっぱり「ノー・オーディナリー・マン」が素晴らしかったなあ(自分の感想:「映画「ノー・オーディナリー・マン」(No Ordinary Man)の感想(1)」)。
こうして眺めてみると、直接の友人に加えて、さまざまな人が書いた誠実な文章や救いになるフィクションを受け取れる自分の環境のありがたさが身に沁みる。せめて自分も誰かの救いになる文章を書きたいものだ。
★前の記事→パンセクシュアルを名乗ること:未来 - 達而録
(棋客)
*1:一方で、特に当事者にとってはかなりきつい描写のある作品であることは確かなので、観に行く時には自分の精神状況を考えてから行くことをお勧めします。