達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『エトセトラ』vol.10 男性学特集号の感想(2)~仲芦達矢「ノイジー・マスキュリティ」

 前回の続き。フェミマガジン『エトセトラ』「特集:男性学」号(vol.10)を読んでの感想を記す。今回は、特に仲芦達矢「ノイジー・マスキュリティ」を取り上げる。

『エトセトラ』vol.10の書影

 前回、『エトセトラ』の「特集:男性学」号の全体について説明した。前回示した通り、全体を合わせて読めば、「こういうのが読みたいなあ」というのが網羅されていて、とてもよいバランスの執筆者が揃えられたよい企画であったと思う。

 そのうち、「男性性とか何か」「男らしさとは何か」というような問いを立てること自体への問題意識から、丁寧に掘り起こして書かれているのが、仲芦達矢さんの論考だ。その意味では、前回書いたように、この特集号の中で最初に読むべき文章はこれかもしれない。よって、今回別枠で紹介することにした。

 この論考の冒頭は、以下の一文から始まる。

「男性性」という概念は、本質主義を孕む。この概念は、あらゆる男性たちに通底し、本来備わっているべき何らかの性質、つまり本質(エッセンス)が「ある」、という考え方を前提とする。

 「男性性とは何か」という問いを立てることの背後には、本質的に「男性的」なるものがあるという前提が自明のものとする発想がある。この「男性性なるものがある」=「男性性の本質がある」という発想は、どういうことを意味するのだろうか。

それは言い換えれば、個々の男性、あるいはその振る舞いや特徴を、「男性性+ノイズ」としてモデル化することを意味している。男性でないものが男性性を持つこともあるが、男性性は一義的には男性と切り離すことができない―そうでなければ「男性」性という言葉を用いるのはナンセンスなはずだ。男性でないものにとって、男性性は本質と関係ない「ノイズ」として、あるいは「本来は」男性よりも少ないことが期待される性質として、モデル化されることになる。

 ある男性に男性性の本質があると仮定するとは、ある男性個人が、この部分は「男性性」、この部分は「ノイズ」であるというように分けられる、ということを意味する。ここでいう「男性性」は、直接的な意味合いとしては、「男性」と切り離すことはできない。(切り離すことができるのならそもそも「男性性」という言葉を使わずに表現するのがよいだろう。)ということは、「非男性」とみなされる場合は逆に、男性性の部分が「ノイズ」になる。

 つまり、男性は「男性性+ノイズ」、非男性は「非男性性+ノイズ(男性性)」の形にモデル化することが可能であるとする見立てを承認することが、「男性性の本質がある」と考えることの意味である。

 でも、「男性」の本質なんて、果たしてあるのだろうか?

しかし、男性の多様性の中で、何が本質的(エッセンシャル)な男性性に含まれ何がノイズに含まれるのかは自明ではなく、社会一般の共通了解を作り出すプロセスには、必ず政治的な意思決定が介在している。誰がその意思決定に参加できるのか? 多くの場合、多数派や、より強い影響力を持つ者たちだ。自分のあり方が「ノイズ」と見なされた側にとっては、たまったものではない。一人のクィアアナキストとして、私はそのように「普遍的な本質」を個々の者たちに押し付けるあらゆる枠組みを拒絶する。

 現実に生きる「男性」は、多様性に満ちた存在である。事実としては、誰もに共通する男性性の本質なんてものは、まったく存在しないか、存在したとしてもそんな自明なものにはならない。

 であるにもかかわらず、仮に「男性といえばこれ」というような人々に共有される認識があるのだとしたら、その背後には、その認識を作り出す社会のはたらきがあるはずだ。そしてそこには、必ず政治的な意図が入り込んでいる。つまり、そういう認識を作り出す過程には、政治や社会のシステムを維持したり、特定の集団に有利に動かそうという意図が介在している。

 となると、そうした意図(「男性といえばこれ」というような共通認識を作り出す意図)とその中身を決定するのは、マジョリティか、より権力のある者である、ということが分かる。

 すると、社会の中で、その共通認識にそぐわないと判定される者、つまり「ノイズ」とされる部分を抱える者は、多大な抑圧や差別を受けることになる。つまり、「男性性の本質」とされるものを持たない「男性」や、「男性性の本質」とされるものを持つ「非男性」などがこれに該当する。

 そうした状況には抗わなければならないし、そうした押しつけに加担したくない、というのが「クィアアナキスト」としてのこの文章の筆者の意志である。

 ここまでが、まず「男性性とは」というような問いを立てることについて、踏まえておくべき前提ということになるだろう。たとえば『エトセトラ』の「男性学特集」という見出しを立てるに当たって、このことは踏まえておかなければならないと思う。

 

 では、そもそも「男性性」について考えること自体が不可能なのかというと、筆者はそうは考えていない。

もっと主観的で局所的な男性性を考えることはできる。社会一般の通念はともかくとして、私には私にとっての男性性がある。恐らく、このような個のレベルでの本質主義から完全に逃れることはできない。少なくとも私は自分が何かを「男性的だ」と感じてしまうことを、やめることができなかった。

 筆者は、あくまで「男性的だ」と感じることをやめられなかった個人として、その「男性性」を考えるということならできる、と述べる。これまでの内容を踏まえれば、ある個人が自分の男性性を語る時、当然、以下のことに留意が必要なことが分かるだろう。

しかしそれはあくまで私だけの感覚だ。断片的に他者と共有できる感覚もあるが、他者に押し付けてはならない。

 さて、この論考は、以上のことを断った上で、筆者自身の根源的な(性的)欲求の赤裸々な語りから、自分の感覚の中での女らしさ/男らしさの探求の歴史と実践を語っていく。

 その具体的な内容は、ぜひ本誌を買って読んでいただきたい。

 末尾には以下のように書かれている。

 「あなたは男(女)みたいだけど、結局女(男)なんでしょう?」

 そう勝手に決めつけて私たちに割り当ての性別を「理解(わか)らせ」たがる社会に背を向け、私と妻は互いの性別を肯定し合う。その過程で、私たちのようなクィアな存在を消そうとするポルノグラフィをなぞってしまうのは、長らくそのゆな作品にしかアクセスできなかった私たちが、それらが描く二元論的で異性愛的な男性像や女性像を内面化した結果かもしれない。性別肯定感とは、しばしば、ままならないものだ。しかし同時に私たちは、私たちの言葉で私たちの身体の部位や行為を名付け直し、規範的なセックスを換骨奪胎してもいる。

 まず、自分のままならない欲求や性別肯定感を受け入れられるかどうか、肯定できるかどうか。そしてその上で、それを社会規範に抗う実践につなげられるかどうか。これは、特に過去のフェミニズムの運動の中で、さまざまな葛藤を生み出してきた問いでもある。

 性別肯定感が「ままならないもの」であることを認めて、その上で、社会の性規範に抗い、それを解体するような、クィアな実践をどう試みていくことができるか。というより、ままならない性別肯定感を認めた先に、クィアな実践があるのではないか。この文章自体が、その試みになっていると思う。

 

 もちろん、直後に掲載されているY・N「傷と言葉―仲芦達矢「ノイジー・マスキュリティ」のための補足」も必ず合わせて読んでほしい。

(棋客)

『エトセトラ』vol.10 男性学特集号の感想(1)

 遅れ馳せながら、フェミマガジン『エトセトラ』「特集:男性学」号(vol.10)を読んだ。同誌はこれまでに「特集:くぐりぬけて見つけた場所」(vol.7)を読んだことがあって、とても面白かったのを覚えている。

『エトセトラ』vol.10の書影

 今号も、掲載されている論考はどれもとても面白いのだが、雑誌としての全体の構成がやや読みにくいように感じた。よって、本来の順序とは関係なく、自分にとって説明しやすい順番で感想を書いていく。

 まず、そもそもこの特集号はどういう意図で編纂されたのか。背表紙には以下のように書かれている。

 性差別がはびこるこの社会では、実は「男」のことすら誰も考えていない。語られてこなかった男性の多様さはどこにある? 特権・加害性・生きづらさで終わらない、その一歩先にある「男性性」を見つける特集号。

 ちなみに、ある国立大学の生協の書店に行った時、『エトセトラ』の本号は平積みで置いてあった。おそらく、フェミニズムの文脈を知らない人も多く手に取ったと思う*1。まずこの編集意図と、読み手にはそういう人も含むものとして考えて、感想を書いていく。

 さて、この課題と読み手にもっともよく応えていて、かつ本号全体のガイドとするに相応しいのは、五月さんの文章だと思う。

  • 五月あかり「誰も好きになってはならない」

 この文章は、ホモソーシャルな場で交わされる「男子ノリ」の本質を、こうした概念に初めて触れる人にも分かりやすいように丁寧に説明していく。導き出される結論は、ホモソーシャルな場で交わされるやり取りは、その場の参加者が、女性も、男性も、そして自分をも大切にしないことに繋がっていくというものだ。

 この文章に誘われて、じゃあそもそも「男性性」って何だろう、そしてそれが誰もを大切にすることに繋がらないのだとしたら、なぜそんなノリが幅を利かせているのだろう、という問いかけが浮かんでくる。大きくその問いかけに応答する論考のうち、まず外側から分析するタイプの記事として、以下の論考がある。

  • 澁谷知美「男にとって「恥」とは何か―仮性包茎の現代史から」

 男性向けの仮性包茎ビジネスを題材に、男が男を貶める文化が、手を変え品を変え、資本主義のビジネスの道具として幅をきかせてきたことが述べられる。そしてそうした文化を終わらせるための手立てを伝える。整理が行き届いていている上に主旨が明快で、痛快な文章だと感じた。

  • 福永玄弥「男たちの帝国と東アジア」

 「わたしたちの取るに足りない習慣こそが家父長制と軍事主義を支えている」という言葉に集約されるように、軍事主義と男らしさの関係を東アジアの事例に照らして述べる文章。ただ、私は福永さんの他の文章を読んだことがあるから内容を理解できたものの、この文章自体はポイントとなる事実が列挙されている感じがして、初めて読む人にはやや読みづらいかもしれない。*2

 以上の二つは、ざっくり言えば、資本主義・軍事主義という大きな社会のシステムを支えるために、「男らしさ」が作られてきた・利用されていたことを暴く論考だと言える。そしてもう一つ、また別の角度から男性ジェンダーの存在を分析する記事が以下である。

  • 水上文「そして誰が排除されるのか―百合ジャンルにおけるミサンドリーの問題」

 私はこの論考を、百合を題材としながら、「女性限定空間」みたいな場の設定のあり方について問題提起するものとして読んだ。

 その意味で、この記事は「そもそもフェミニズム誌で男性を論じるってどうなの」という疑問に応える役割もあると思う(この疑問は「はじめに」でも提示されている)。もちろん、広い意味で言えば、全ての論考がこの問いに答えているとも言えるのだが、直接的に答えになる論考は、この文章だと思う。とすると、もともとの本誌の読者を考えても、この論考はとても大切な役割を背負っていると言える。

 なお、二次元のキャラクターの話をそのまま現実世界に適用することについて、何か注釈があってもいいかもしれないと少し思った。

 

 ここまでは、ざっくり外側から「男らしさ」や男性存在を分析する論考である。でも、こうした大きな流れでは語りきれない、セクシュアル・マイノリティを含めた、個人の格闘の歴史が存在する。そうした個人の語りも、本誌には多数収録されている。

 そのうち、まず「男らしさ」を問うことの前提から問い直しながら、一種の自分史を語るのが以下である。

  • 仲芦達矢「ノイジー・マスキュリティ」とY・N「傷と言葉―仲芦達矢「ノイジー・マスキュリティ」のための補足」

 この文章の冒頭の言葉は、そもそも「「男らしさ」について考える」という枠組みの設定自体に潜む罠を説明していて、男らしさの議論を進めるための前提を提示してくれている。その意義を考えると、本号の中で最初に読むべき文章はこれかもしれない。(この冒頭の言葉は、とても大切なことを言っていると思うので、また明日詳しく紹介したいと思う。)

 その上で、根源的な(性的)欲求を赤裸々に語り、自分の感覚の中での女らしさ/男らしさの探求の歴史を語っていく。前提を踏まえて丁寧に書きながら、他の人に押し付けないとしての自分の欲求が細かく分析されて語られていて、この特集号の中で最も記憶に残る論考だった。そしてY・Nさんの補足によって、自ら「消化しやすい言葉」に自分の体験を当てはめることは、自分自身を傷つけるものであり、仲芦さんの文章がその上に書かれたものであることが明かされる。

  • 瀬戸マサキ「「俺」を取り戻す旅」

 この文章は、外側から「男らしさ」が何か分析しながら、自分がその「男らしさ」を身に着けようとした経験が書かれている。最後のまとめがさわやかでいい。

  • 読者アンケート「男として生きること、男扱いされることの喜びを考えてみる」

 さまざまな人の率直な心情が集まっていて、とりあえずこれを読むだけでも、日常の中で色々なことを考えるきっかけになると思う。当たり前すぎるけれど、トランス男性やノンバイナリーもかなり多く含めてアンケートをとっているのも素晴らしい。

  • 勝又栄政「父と娘/息子」(小説)

 この小説に描かれている「男らしさ」の発揮のされ方が、自分も経験した出来事と重なる面があった。いつも疑問に思うのだけど、こういう雑誌に載っている絶妙にテーマに沿った小説って、どうやって発注しているのだろう。すごいと思う。

 不良・ヤンキー文化を男らしさととらえ、自分がそこに惹かれるという話。これは個人の格闘というより、惹かれる側の葛藤という方向性で読むことができる。

  • 中村一般「山田さんの生活」(漫画)

 大切に日々を送っている山田さんがとても素敵な漫画だった。

  • 森山至貴「異物のように、宝物のように」

 これはどういう意味づけの話として読んだらよいのだろう?声と結びつけられるジェンダー規範の問題はとても大事だと思うので、もっと掘り下げた論考を読んでみたい。

 

 さて、以上の論考では、より個人的な体験から、自分の趣味嗜好と男らしさの絡まり合いが語られる。「男らしさ」への問いかけから始まって、現実に生きる個人としての「男らしさ」の多様性という方向に話が進んできたわけだ。

 すると、では過去の「男性」たちが、自分自身にどう向き合ってきたのか(また向き合えなかったのか)、という運動の中での実践と、その背後にある社会変動を知りたくなる。

  • 周司あきら作成「男性史・女性史」

 とても簡潔にまとまっていて便利。これからアンチョコ代わりにたまに見ると思う。

  • 麦倉哲「「男らしさの崩壊」の先にみる絶望とかすかな希望」

 この論考は、正直ピンと来ないところがあった。過去の時代の流れの整理は分かりやすかったけれど、最後のまとめにある「男らしさは崩壊している。かすかな救いは、俺達はもともと「類的存在」なんだと意識できる人たちが、再びなんらかのかたちで連帯するしか、行き先は残されていないのではないか」という言葉は、正直よく分からないというか、本当にそうなの?という気持ちになる。

 でも、これは単に世代の違いかもしれないとも思う。たとえば、これまで何十年もバリバリ働いてきて、まさにいま定年前後という人が読むと、結構刺さる文章なのかもしれない。

  • 水野阿修羅×小埜功貴×周司あきら「男である自分を好きになる―90年代日本のメンズリブ運動」と小埜功貴「自分を終わらせて、自分へと生まれ変わろう」

 座談会と感想記事がセットであるのが良かった。この特集が面白くなった理由は、小埜さんの存在にあると思う。「男らしさ」に問題意識を持って長年メンズリブを実践していた水野さんを呼んだ上で、その人をきちんと追いかけてきて、リスペクトしながらも批判的視点を持ち合わせている小埜さんを引き合わせたことで、深みのある内容になっていると思う(小埜さんの他の文章は読んだこと無いので、間違った感想ならごめんなさい)。

 何十年も前にこうした試みが草の根からあったことは色々な意味で感慨深い。なぜこの方向性の運動が発展しなかったのか、ということはきちんと考えないといけないと思う。もう一つ考えたのは、仮にいま同じ年代の人々が同じノリでミーティングを作ったらどうなるかってこと。外国人排除の自警団まがいのものが出来上がるんじゃないか、とか思ったりする。(それかそもそも草の根で集まる余裕なんてみんなないかもしれない。)

 あと、さっき麦倉さんの論考を「ピンとこない」と書いたけれど、この特集を踏まえると、言いたいことが少し分かるようになる、かもしれない。

  • 遠山日出也「男性が特権/差別を克服するために―被抑圧者の解放と自らの解放との結びつきを考える」

 この文章は、個人の過去を吐露するものでもあるが、むしろメンズリブの流れとかなり近しいものがあると思う。つまり、フェミニズム思想が、男性自身をどう解放するのかということを等身大で素朴に考えた記事として受け取った。

 何となく物足りなさも覚えるのだけど(きちんと言語化できないが)、誠実な文章で、どんな年齢の人が読んでも分かりやすいと思う。五月さんの文章の次にこれを読んでもいいかもしれない。

 

 以上、好き勝手な順番で紹介してしまった。ただ、雑誌である以上は、編集者による構成にも何らかの意図が働いていると思うので、もとの順番の意図も考えておきたい。*3

 まず、本号の最初に「男性史・女性史」のまとめがあるのはいいとして、次にマルリナさん・麦倉さんの文章が並ぶのは、意図を掴みにくくて、かなり戸惑った。

 深読みするなら、不良・ヤンキー文化(マルリナさん)と、家庭を支える男性像(麦倉さん)という真逆の方向性をいきなり示すことで、「男らしさ」という言葉の捉えにくさや虚構性を示したということなのかもしれない。もしくは、ラップを扱う個人の体験談と、堅めの社会史分析を冒頭に見せておくことで、幅広い読者に興味を持ってもらおうという意図もあるのかもしれない。次に五月さんの文書が来ることを考えると、最初の二つは助走のような意味合いなのかも。でもやっぱり分かりにくい。

 五月さんの文章の次に、「メンズリブ運動特集」→「俺を取り戻す旅」が来る。メンズリブ運動から「俺を取り戻す旅」という流れは、タイトルを見ると非常に上手くつながっている。ただ内容からすると、実際に続けて読むと結構戸惑う気もする。(上で書いたように、メンズリブの発想と近いのは遠山さんの記事だと思う。)

 そして、小説と、仲芦達矢さん、Y・Nさんの文章をはさんで、澁谷・森山・水上・福永・遠山の論考が並ぶという形になっている。このうち澁谷・水上・福永・遠山の四つの論考は、いわゆる「アカデミック」な体裁で書かれた論考を一セットにしたということで、まとめられるのは理解できる。ただ、ここに森山さんの原稿が挟まってるのはよく分からなかった。

 

 やや批判めいたことを書いたけれど、全体として、バランスの良い執筆陣を揃えていて、よくできた企画だと思う。次回、仲芦達矢さん、Y・Nさんの文章について、より詳しく感想を書いています→『エトセトラ』vol.10 男性学特集号の感想(2) - 達而録

(棋客)

*1:余談だけど、私は『エトセトラ』の表紙のデザインがとても好きだ。内容だけではなく、そのデザインから、思わず手に取る人は多いんじゃないかなと思う。

*2:むしろ福永さんの論文をそのまま読む方が分かりやすいかもしれない。たとえば、福永 玄弥 (Fukunaga Genya) - 同性愛の包摂と排除をめぐるポリティクス:台湾の徴兵制を事例に - 論文 - researchmapなど。

*3:もしかすると、「分かりやすく編成する」すること自体に権威性が伴うので、そういうのを捨象するために、わざとランダム性を持たせているという意図があるのかもしれなくて、その場合は以下の指摘は全くの的外れということになる。また、意図した原稿と違うものが届いたとか、何かしらの浮世の義理とか、編集者の意図以外のさまざまな事情もあるだろうから、ここに私が書くのはかなり勝手なことである、というのは前提にしてほしい。

『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』を読んで(3)

 前回に引き続き、『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』(在日本韓国YMCA編集、新教出版社、2023)を読みます。今回は、第4章「パレスチナと性/生の政治」(保井啓志)の内容をメモしておきます。イスラエルによる、いわゆる「ピンクウォッシング」の問題について論じる内容です。

 


 

 まず、イスラエルとSOGIをめぐる動きとその背景を、箇条書きにまとめます。

  • 2000年ごろから、イスラエル政府はLGBTの権利擁護の国際的な広報に積極的になった。
    • 2001年から「東京レズビアン&ゲイ映画祭」への後援。
    • 2013年から「東京レインボープライド」への後援。
    • 東京へのゲイ・カルチャー(ドラァグ・クラブイベントなど)の支援
  • この現象=「ホモノーマティヴ・ナショナリズム」(ホモナショナリズム
    • 米国の右派政治家などが、自国を「女性や同性愛に寛容な国」、イスラーム社会を「同性愛に嫌悪的、女性に抑圧的」とし、戦争の遂行を正当化する言説。
  • その背景=「ホモノーマティヴィティ」
    • 新自由主義の影響の中で、市場に有益である(=金になる)性的少数者が活用される一方、マイノリティの問題は公的な介入を必要としない「個人的な問題」とされ、支援が枯渇する。すると、マイノリティの運動の中に経済力による分断が新たに生まれ、性的少数者の運動も「同性婚」と「軍における同性愛者の問題」の二つに収斂されてしまう。
    • ここで「活用される」性的少数者は、白人・中流階級以上・男性など、経済的に有益な人々のみ。
    • そして、こうして活用された性的少数者が、今度はこの「ゲイ・フレンドリーさ」を守るために、保守化していく。

 こうした状況下では、アメリカ社会とイスラーム社会は以下のような二項対立でとらえられてしまいます。

  • アメリカ社会
    • 健全な異性愛社会で、同性愛者にも寛容な、進歩的な社会
  • イスラーム社会
    • 近代化に失敗したいびつな家父長制で、その偏狭さゆえに、女性や同性愛者に厳しく、非文明的で後進的な社会

 そして、これがアメリカによる侵略戦争を正当化するロジックとしてはたらいてしまいます。実際のところは、アメリカでも同性愛嫌悪によるヘイトクライムは山ほど発生しており、差別がない社会とは言えません。また、こうしたロジックがあったとしても、一方的な侵略やジェノサイドを許してよいはずがありません。

 次に、本論では、p.112-115でイスラエルにおけるLGBT運動の流れを追ったのち、パレスチナにおけるSOGIをめぐる政治について話が移ります。

 以上で説明してきた流れは、近年の日本の状況とも重なるところがあります。自分の身の回りの状況と考え合わせながら、向き合っていかなければなりません。

 


 

 以下、この論考に関わる情報を追記しておきます。

 まず、ピンクウォッシングについて、最近書かれた迫力のある記事として以下を挙げておきます。

  また、「アル・カウス」については、最近私がWikipediaの記事を立項しました。加えて、以前「Diff」にてピンクウォッシングに関わる問題を少し書いたので、宣伝しておきます。

(棋客)

『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』を読んで(2)

 前回に引き続き、『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』(在日本韓国YMCA編集、新教出版社、2023)を読みます。今回は、第7章「ジェンタイル・シオニズムパレスチナ解放神学」(役重善洋)の内容をメモしておきます。この章は、イスラエルによるパレスチナ侵攻を「宗教対立」として見ることの危うさとその内実を描くものです。

 


 

 イスラエルによるパレスチナ信仰は、シオニズムの名のもとに正当化されてきた。シオニズムの定義について、近年の学者は、現在のイスラエルパレスチナを構成する地理的領域に対するユダヤ人の支配を促進するために、特にキリスト教徒の関与によって起こされる「政治的行動」であるという。つまり、特定の宗教の宗派というより、もとより政治的な行動であると捉え直す議論がなされている。

 「ユダヤ人のパレスチナ帰還」という言説はいつ始まったのか。この言説は、宗教改革期のイングランドにおいてなされた、旧約聖書の再解釈に端緒がある。その背景には、「パレスチナイスラム教徒に"占領"されている」という言説を立てることで、オスマン帝国との軍事対立にユダヤ人を利用しようとしたことが背景にある。

 当時、ロシアはギリシア正教会を通じて、フランスはカトリックを通じて、パレスチナに一定の影響力があったが、プロテスタント系のイギリスはパレスチナには影響力がなかった。そこで、ユダヤ教徒を利用し、オスマン帝国に対抗するため、ユダヤ人帰還論(レストレーショニズム)が立てられた。つまり、レストレーショニズムを大義名分とすることで、イギリスによるパレスチナへの軍事的介入を可能にしようとした。

 ただ、当時はレストレーショニズムの最終的な目標が、パレスチナ帰還を果たしたユダヤ人の改宗に置かれており、現地のユダヤ人に支持されることはなかった。

 しかし、19世紀末になり、欧州におけるユダヤ人迫害が始まると、シオニズム運動が勃発し、レストレーションが再評価されるようになる。政治的な要求が高まる中で、宗教の言説が利用され、侵略を正当化する論理として機能するようになってしまった。

 

 こうしたキリスト教シオニズムへの批判は、この言説の直接の被害者であり、かつキリスト教に深い理解のある、パレスチナ人のキリスト教徒によって進められてきた。もともと、パレスチナにおいてはマイノリティであるパレスチナキリスト教徒は、非宗派的なナショナリズム、民主的な独立パレスチナを目指すパレスチナ解放運動を唱えた。

 パレスチナキリスト教徒の間での聖書読解では、イエス・キリストを、ローマの占領下で生き、当時の宗教的指導者と結託した占領運動に殺されたパレスチナ人としてとらえる解釈も生まれた。パレスチナで生まれた解放神学の流れは、北米の黒人解放神学、韓国の民衆神学などと響きあいながらも、新たな展望を示すものとして受け止められる。

 

 最後に、宗教が担いうる役割について議論される。宗教思想は、国境・階級・ジェンダー・社会階層などさまざまな違いを越境し得るものである。これを植民政策のために利用したのが、ユダヤシオニズムであり、日帝侵略戦争における宗教組織の動員である。一方で、宗教の持つ越境性は、そうした差異を越境し連帯を促進する可能性も示している。かつて家永三郎が、第二イザヤの「否定の論理」を仏教に見い出そうとしたように、宗派を超えて共有する論理を異なる宗教思想に見い出そうとする営みもこれまで行われてきた。こうしたなかで、どのように解放の思想を鍛えていくかがわれわれに求められている。

 


 

 なお、解放神学については、以前、以下の記事でも取り上げたことがあります。

 栗林輝夫の言葉には、「テロは昔も今も力にものをいわせる大国に抗する民衆の絶望的な応答である」というものもあります(「「帝国論」におけるイエスパウロ」、『関西学院大学キリスト教と文化研究』12、2011)。前回紹介した、ハマスの攻撃をレジスタンスとしてとらえるバトラーの言葉とも響き合いますね。

(棋客)

『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』を読んで(1)

 『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』(在日本韓国YMCA編集、新教出版社、2023)を読みました。在日本韓国YMCAは、日本・韓国・在日朝鮮人を架橋する運動体であり、2006年からはパレスチナとの交流事業を継続してきました。

 現在、イスラエルによるパレスチナ占領が続いていますが、このことと、フェミニズム・黒人運動・クィア理論・在日朝鮮人日本赤軍・解放神学といったテーマの交差性を論じる論考が掲載されています。いまパレスチナで起こっている出来事が、まさしく「わがこと」であることを教えてくれる本であると言えます。

 今回は、第5章「パレスチナの歴史的鏡像としての在日朝鮮人――私が私たちになるために」(中村一成)を取り上げ、その内容を簡単にまとめておきます。ちなみに、中村一成さんの本は、以前『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』を紹介したことがあります→読書の秋に読んだ本 - 達而録

 


 

 「アジア大陸の両端に二つの不条理がある」という言葉がある。二つの不条理とは、イスラエルと日本のこと。イスラエルと日本の状況は相似形にある。つまり、

  1. 歴史的責任を認めず、
  2. 共に生きるべき隣人を拒み、
  3. 「西洋」の一員であろうと欲する

 という状況で、この二つの国家は共通している。そもそも「国民国家」というシステム自体が、常に外部を作り出すものである。「国籍」は、恣意的に与えられ、また奪われるものであるにも拘わらず、その国籍によって人の扱いを変えるという、きわめて排他的なシステムを原理として持っている。

 イスラエルにおいて、パレスチナ人は「殺しても、追放しても良い存在」に追いやられてきた。アラブ世界にありながら、アラブ人を否定し、他者なきユダヤ人国家を希求する、レイシズムそのものを体現する国家となっている。1947年から、計画的な虐殺が繰り返され、その試みはいよいよ完遂に近づきつつある。

 そして日本においては、朝鮮人在日朝鮮人(そしてアイヌ・沖縄人)が排除の対象となった。1945年12月に参政権が停止された。1947年5月に外国人登録令によって在日朝鮮人は「みなし外国人」となった。1948年1月、在日朝鮮人の自主学校を否定する通達が出され、武装警官によって自主学校が閉鎖された。1951年11月に出入国管理令が出され、1952年4月には在日朝鮮人・台湾人は無権利外国人となった。1953年には国家公務員から在日朝鮮人が排除された。これらの政策の背後には、戦前の日本による朝鮮半島の植民地支配という加害に、「仕返しされるのではないか」という恐怖があった。こうした初期の政策によって、レイシズム国家の枠組みが完成し、それ以後部分的に緩和された規定はあるものの、社会に染みついた意識は変わっていない。

 そして近年には、慰安婦の教科書記載の排除、教育基本法への「愛国心」の導入、高校無償化制度からの朝鮮高級学校の完全排除、ヘイトデモの常態化など、ますます攻撃的になり、いまやヘイトクライムが横行する時代になった。

 2018年7月、イスラエルは自国を「ユダヤ人のみが主権を持つ」国であると基本法に定めた。この内容は、近年の自民党改憲草案と重なる面がある。

 中村は、パレスチナ訪問の体験として、このような抑圧と暴力を受け続けるパレスチナ社会の中で、暴力が日常的なものとなり、生活に浸透してゆくさまも描く。イスラエルによる家・土地・日常・命の収奪が繰り返されるなかで、パレスチナの子供たちは、世界への信頼感覚と、生きていくための展望を失いつつある。「自分は自分であることを理由に攻撃されない」という日本のマジョリティには当たり前の前提が、自明ではない場所になってしまっている。その結果、暴力が唯一の手段になりつつある。

 


 

 さて、本書が発行されたのち、ハマスの攻撃がセンセーショナルに取り上げられましたが、以上のような背景は押さえておかなければなりません。最近、フランスで行われたジュディス・バトラーの講演では、バトラーは、ハマスの攻撃はテロとしてとらえるべきではなく、「武装したレジスタンス」ととらえる方が歴史的には正しいだろう、と述べています。

※参考:JUDITH BUTLER - CONTRE L’ANTISÉMITISME ET POUR LA PAIX RÉVOLUTIONNAIRE EN PALESTINE - YouTubehttps://twitter.com/inlaforet/status/1764926636628025697

 ただハマスを悪魔化して批判しても、問題の根幹には辿り着きません。そこに至る文脈を理解すること、そしてその状況が全く他人事ではないこと、同じ構造の暴力を私自身が振るっていること、その責任をどう果たすか考えること、これを続けていくしかありません。

 

 次回、本書からまた別の論考を取り上げて紹介します。

(棋客)