ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-03-27(Wed)

 夜中に目覚めてトイレに立ち、ベッドに戻ろうとしたら、カーテン越しに外に明るい光が見えた。
 そうだ、そういえば昨日とかは「満月」なのだったなあと思い出し、カーテンをめくって夜空を見上げたら、きれいな月が明るく浮かんでいた。
 昨日は雨も降っていたけれども、日が暮れてから雲も去って、こんな美しい春月夜が見られるようになったのか。やはり写真を撮っておこうかな、などと思ってそのままカメラを手にして、窓越しに月にカメラを向けたけれども、窓ガラスに室内の明かりが反射してうまく撮れない。
 それでリヴィングへ移動して、窓を開けてカメラを向けてみた。この夜は何だかうまくは撮れなかった。三月の満月は「Worm Moon」、春になって虫たちの幼虫がうごめき始め、地上に這い出してくる季節の月なのだという。

     

 「窓を開けるとニェネントくんがやって来て、窓の外に跳び出してしまうかもしれないんだよな」とは漠然と思っていたのだけれども、写真を撮っていたときに、その「まさか」が起こってしまい、わたしの足元からニェネントくんが外へ跳び出して行ってしまった。
 「いやあ、この真夜中に困ったなあ」とは思ったけれども、わたしの考えでは、今のニェネントくんはウチから遠くへ行ってしまうこともなく、せいぜい2~3分で部屋に戻って来るはずなので、窓を開けたままで戻って来るのを待つことにした。
 しばらくしたら、ウチの前をニェネントくんが右から左へ走って行くのが見え、「ずいぶんと浮かれてるなあ」と思う。「今日はこのぐらいで戻ってもらおうか」と、わたしも外に出ることにして、道路の側からニェネントくんがいるあたりに歩いてみた。ニェネントくんは「あ、イヤなヤツが来た!」と、部屋に戻って行くはずなのだ。
 予想通りにニェネントくんは部屋へと跳んで戻り、彼女の短かいアヴァンチュールもこれでおしまい、ではあった。楽しかったかい?

     

 ニェネントくんはそうやって元気いっぱいだけれども、わたしはやはり今日も不調だった。こういう「何もやる気がしない」とかいうのは、一種の「鬱状態」なのだろう。外を歩いたりすればけっこう元気になることはわかっているし、今日は久しぶりにいい天気だし、「ふるさと公園」へ歩いてみるといいだろうな、などと思うのだが、「出かけるぞ~!」ということへの、気分の切り替えがなかなか出来ない。
 それでも「このままでは一日不調なままになってしまう」と、ニェネントくんへの夕食を出してあげた3時半ぐらいになってようやっと出かける気分にもなり、「ニェネントくん、わたし、出かけてくるからね!」とあいさつしてから家を出た。

 外は青空が拡がっていて、気温もけっこう高かった。そもそもこんな時間に外を歩くこともないので、辺りの「影」のつき方がいつもと180度違うというか、ちょっと新鮮な気分だった。
 「ふるさと公園」に着いても、この時間だとイヌを散歩に連れている人が多かった。5匹ぐらいのイヌとすれ違った。みんなかわいい。
 風景の見え方も天気のせいだろうかいつもと違う感じで、下の写真もいつも歩く道からの写真だけれども、奥に見えるのは「手賀沼」、そして手前が「ふるさと公園」の中の池。どこか広々として感じられる。

     

 でもこの日は、水鳥たちの姿はあんまり見られなかった。今はオオバンたちがいっぱいいて、その他はカルガモカップルとか。

     

     

 帰り道にネコにも出会ったけれども、そのことは明日書こう。駅前のスーパーに立ち寄って、今までに買ったことのないラーメンの生麺を買って帰った。帰宅して夕食にそのラーメンをつくって食べたが、なかなかに美味しかった。もう一食分残っているが。

 今日は映画など観ずにベッドへ行き、ハイスミスの『リプリーをまねた少年』の続きを読む。どうも新しい本の出だしはなかなか読書がはかどらず、この夜もあまり読めなかった。乗ってくれば一日に50ページぐらい読めるようになるのだけれども。
 

『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004) サイモン・ペッグ:脚本・主演 エドガー・ライト:脚本・監督

 今をときめくエドガー・ライトの、映画監督デビュー作(この前にテレビ作品の監督はしていたようだが)。この作品のあとエドガー・ライトは共同脚本/主演のサイモン・ペッグ、同じくこの作品にも出演しているニック・フロストと共にしばらく映画を製作している。

 この作品はのちの作品『ゾンビランド』(2009)に似通ったところもあるというか影響を与えているようで、この作品でゾンビが撲滅されず、さらに増加して行ったらば?というのが『ゾンビランド』の世界かな、とも思う。そういうところで、この作品のバックグラウンドには「青春コメディ」的世界が横たわっていると思ったし、主人公らが多数のゾンビに囲まれたとき、銃で打ち倒すときに時計の「何時の方向」と伝えて銃を向けさせるのは、『ゾンビランド』でもそのまんま出て来る。

 街にはあちこちにゾンビらがあふれるようになっているが、この映画の主要登場人物らがなかなかにその存在に気づかない、というのが第一の「お笑いポイント」なんだろう。
 ようやく街に増殖する「ゾンビ」らに気づいたショーン(サイモン・ペッグ)とエドニック・フロスト)はまずはショーンの両親を救いに出て、そのあとはつい先日フラれたばかりのショーンの元カノのリズ(ケイト・アシュフィールド)も救いに行く。
 ショーンの母のバーバラは救出するが、義父のフィリップ(ビル・ナイなのだった!)はすでにゾンビに襲われていて、「ゾンビ化」が始まっている。
 ショーンとエド、ショーンの母のバーバラ、リズ、リズのルームメイトのデービットとダイアンの6人で、ここでも母のバーバラは状況をまったく理解していなくって、ゾンビの存在を認めようとしなかったりするのだが、ショーンは街の中で「安全な場所」を求めるが、その「安全な場所」とは、ショーンとエドが常連であるところのパブ、「ウィンチェスター・パブ」ということになる(パブにはライフル銃が飾ってあったりするのだ)。

 わたしはじっさいのところどうなのか知らないが、イギリスの若者にとっての「パブ」というもののあり方というか。ショーンとエドはそれこそ毎日のように、住まいの近郊の「ウィンチェスター・パブ」に通うわけで、リズとのディナーの場所をそのパブに決めたことも、リズに振られる原因のひとつではあった。
 まあ日本でいえば「居酒屋」みたいなモノと考えていいのか、居酒屋よりはもうちょっと「若者向け」に振れているというか、店内にジュークボックスなどもあるわけだ(「ジュークボックス」が「若者向け」ということもないか)。
 エドガー・ライトはこのあとの『ワールズ・エンド/酔っぱらいが世界を救う!』(2013)という作品で、街中のパブをハシゴして、すべて制覇することを目指す作品を撮ることにもなり、やはりエドガー・ライトの文化の原点としての、「イギリスのパブ」というのはあるのだろう。

 エドガー・ライト作品の特徴である「演出に合わせた冴えた選曲」というのもすでに活きていて、わたしが爆笑したのはやはり、パブで皆がゾンビに襲われたとき、反撃するときにクィーンの「Don't Stop Me Now」がジュークボックスの「自動選曲」でかかってしまうとことかな? 
 わたしは実はクィーンというバンドは好きではないのだが、告白すると前の妻がクィーンの大ファンだったもので彼らの曲の多くは知っているし、彼らの日本公演にも行ったことがある。忌まわしい思い出ではあって、クィーンの曲など聞きたくはないのだが、この映画での「Don't Stop Me Now」には楽しませてもらったのは事実。

 優柔不断なようなショーンだが、映画の進行と共にその「やさしさ」は際立つし、ショーン自身も人の「やさしさ」に気づくわけだ。お約束だが、ショーンとリズはよりを戻して生き残る。ここは「かろうじて間に合った『ミスト』のラストという感じでもあったが。ラスト、生き残った「半年後」のショットにも笑えたが。
 

2024-03-26(Tue)

 今日もずっと天候は良くなく、ずっと一日雨が降っていた。当然気温もそんなに上昇しないわけで、桜の開花はさらに遅れるのではないかと思う。桜の花というのは、その「季節全体」として暖かかったかとかそういうことではなく、開花の直前の気温に左右されるのだな。普通に考えればこの冬は「暖冬」だったから、植物もそういう「季節全体の陽気」の影響を受けるのだろうと思ったら、そうではないのだ。
 この日ネットでみた感じでは、東京の桜の開花予想は明日、3月27日で、満開になるのは4月5日ぐらいになるのではないかということ。このあたりはそんな東京の予想より2~3日遅くなるのではないかと思う。まあ特にわたしが「お花見」などやるわけでもないのだが。

 この日は早朝からアメリカ現地で大谷翔平氏の「声明」があり、コレをめぐってこの日の日本のテレビは一日、それこその「大さわぎ」になってしまった。
 そういうテレビとかを見ての感想を書いてもしょうがないのだけれども、彼も「渦中の人物」であることは間違いなく、こういうかたちでもメディアの前に出てきて、自分の言葉で語ったのはいい印象を与えたと思う。今は捜査が行われているさいちゅうでもあるし、彼自身が語れるのはこのぐらいのものなのだろう。
 あとわたしが思ったのは、もう彼もアメリカで活動し始めて6年を超えるのだから、自分でもっと英語を学んで、「通訳」なくしてもいろんな意思疎通ができるよう、努力すべきだと思った(もちろん、「契約」に関するような専門問題のことなどは、アドヴァイザーを兼ねるような通訳も必要なのだろうが)。
 でも、こ~んなことで大さわぎするなら、今の自民党の「裏金問題」のこと、昨日の二階議員の「バカ野郎」発言とかをもっと取り上げてもいい。

 それとこの日は、単に「健康サプリメント」であったはずの「紅麴(べにこうじ)」原料を含むサプリメントをメーカーが「自主回収」始めたのだけれども、実は数年前からこのサプリメントを摂取つづけていた利用者で何人も「腎疾患」で入院した人があり、ついに死亡したという人もあったらしいことが発表された。「健康に良い」と信じて服用していたら「死に至る病」になってしまうというのでは、あまりに恐ろしいことだ。
 さらに、「食品添加物」としてこの「紅麹」を使用していた食品も回収され始め、その中には「紀文」の「いかの塩辛」も含まれていて、わたしもおどろいてしまった。
 わたしは「健康サプリメント」など摂取していないけれども、普通に買う食品の中の添加されていたりしたらどうしようもない。もうちょっと、食品を買うときに「添加物」に気を配るべきなのだな。
 ニェネントくんは今、「乳酸菌」のサプリメントを毎日摂取しているけれども、これは問題はないことだろう。

 今日は雨の中、傘をさして北のスーパーへと買い物に出かけた。ニェネントくん用の猫砂、それと先日買い忘れていた、やはりニェネントくん用のカニカマ、それとネコ用のかつおぶし(塩分が少ない)とかを買った。
 帰り道、アパートのベランダにスズメがとまっていたので写真を撮ったけど、後ろ向きだったので「おしり」姿の写真になってしまった。

     

 夕方からは「スターチャンネル」でエドガー・ライト監督の『ショーン・オブ・ザ・デッド』を観た。観る前にはまったく内容を記憶してなかったのだけれども、観ているといろいろな細部が「観たことある」と思い出されるのだった。そういうことはよくあるのだけれども、ちょっと気になって「前に観たのはいつのことだっただろう?」とこの日記を検索したら、なんと、去年の2月に観たばかりなのだった。
 「側頭葉てんかん」の発作を起こして、それまでの多くの記憶が失せてしまったのは2年前の10月のことだから、この『ショーン・オブ・ザ・デッド』を観たのはそれ以降ということになる。1年前に観た映画のことを記憶していないというのはけっこうヤバいことで、この日記をさかのぼってチェックしてみたのだけれども、せいぜい3~4ヶ月前に観た映画でもまるで思い出せないモノがけっこうあることがわかった。
 再来週には国分寺てんかんクリニックへ行くので、改めてこのことも聞いてみようと思う。
 

『悪なき殺人』(2019) ドミニク・モル:監督

悪なき殺人

悪なき殺人

  • ドゥニ・メノーシェ
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 この映画には「Seules les bêtes (Only The Animals)」という原作小説があり、フランス語原題も小説と同じ。2019年の「東京国際映画祭」では、『動物だけが知っている』のタイトルで上映されたらしい。日本での一般公開は2021年。
 映画の冒頭、まだ文字クレジットしか出ていないときに、女性の悲鳴のような声が聞こえてきて「ドキッ!」としたのだけれども、それはヤギの鳴き声だったわけで、「Only The Animals」というタイトルにぴったりだったかな、とは思った。

 舞台はフランスの寒村。村はずれの別荘に来ていたエヴリーヌという女性が、道ばたに車を残したまま行方不明になる。その行方不明事件の周辺を、4人の村人と1人のパリの若い女性、そしてコートジボワールの若い詐欺師、それぞれの視点から描いて行く。
 映画で描かれた順にとらわれずにストーリーを書けば、農場を経営するミシェルは、コートジボワールのアルマンという若者のたくらむネット詐欺に引っかかり、アルマンが成りすます「アマンディーヌ」という架空の女性に夢中になっていて、「金をすっかりだまし取られてしまった」などという彼女のために、何度も多額の現金を送付してしまっている。
 エヴリーンはパリの若い女性のマリオンと同性愛の関係にあって、マリオンと別れた上で別荘に一人で来ていたのだが、エヴリーンをあきらめきれないマリオンは、単身エヴリーンを追って別荘までやって来る。
 その途中でミシェルはマリオンの姿を見るのだが、「彼女こそアマンディーヌだ」と思い込んでしまう。マリオンはエヴリーンと別荘で会うことを拒まれ、一人でロッジに宿泊しているのだが、エヴリーンがロッジを訪れて大げんかになってしまう。
 ところがそのけんかの現場を、マリオンの宿泊地を探していたミシェルに見られてしまい、ミシェルはマリオン~アマンディーヌをだまして金を巻き上げたり、彼女を苦しめているのがエヴリーンだと思い込み、道路上で彼女を絞殺してしまうのだ。
 雪道に残されたエヴリーンの死体だが、最近母に死なれ、その遺体を手放さなかった履歴のあるジョセフという農夫が死体を見つけ、自分の農園に運び帰る。ジョセフはエヴリーンの死体に添い寝したりするのだが、いずれ死体が発見されると考え、雪山の中へとエヴリーンの死体を運んで行き、山の中の岩の裂け目へと死体を放り込み、続いて自らもそこに身を投げるのだった。

 さて、ミシェルのその後だが、アルマンの犯罪は露見し、コートジボワールの警察からミシェルのもとに連絡が行く。つまり、ロッジにいたマリオンは「アマンディーヌ」ではなかったのだ。ミシェルは自分で事実を知ろうと、コートジボワールへと飛ぶ。何とかアルマンを見出すのだが、アルマンはすでに詐欺から足を洗い、真面目な仕事に就いていた。宿に戻ったミシェルのノートパソコンには、別口の同じような詐欺の誘いがあるのだ。

 こ~んなストーリーに、まだまだいろいろと書かなかった尾ひれがつくわけだ。例えばミシェルの妻のアリスは農夫のジョセフと不倫関係にあったし、映画のラストに、亡くなったエヴリーンの富豪の夫がコートジボワールから愛人を連れて別荘にやって来るのだが、その愛人はかつてアルマンの恋人であったりもする。こういうことは「だからどうなのだ?」と問えば、それは「どうでもいいこと」ではないだろうか?
 映画ではまずミシェルの妻のアリスの視点から「アリス」の章があり、以後視点を変えながら「ジョセフ」「マリオン」「アマンディーヌ」と続く。この順番で観て行けば、「そうか、あのときのあの人物の行動とはこういうことだったのか」と、だんだんに露わになってくるという次第である。「それって、<伏線回収>ってことだな」と思い、「Filmarks」の皆が書いた映画評、感想などを読むと、まさに「見事な伏線回収だ!」との賛美にあふれ、「すばらしい脚本だ」などとも書かれている。
 人の映画の感想にケチをつけるなんてヤボなことをやろうとは思わないけれども、わたしは前々から「伏線回収な~んてくだらないことだ」とは思っているわけで、この映画のそういうところはやはり、好きにはなれないのだった。だってこういうのは、一度組み立てたストーリーラインを解体し、時系列をずらしたりすれば、いとも簡単に「伏線回収」された脚本なんか出来てしまうだろう。
 それに、この映画の中盤、ミシェルがLineのチャットで見事に騙される過程を、パソコンの画面のアップで延々と見せていくというのは、わたしには「演出」の放棄に思えて、評価する気にならない。だいたい「ジョセフ」のところの展開なんか、けっこう重たい展開だとは思うのだけれども、もう「投げ出しっぱなし」にも思えてしまう(あれはあれでОKかもしれないが)。

 せっかく、先日観た『12日の殺人』が良かったので期待したのだったけれども、ちょっと残念なことではあった。
 

2024-03-25(Mon)

 ようやっとニェネントくんが猫草をかじってくれた。水を入れた器のそばに猫草をずっと出してあったのだけれども、ずっと無視してなかなかにかじってくれなかった。それが昨夜ついに、猫草をかじっている姿が見られた。

     

 猫草をかじってくれたことは喜ばしいのだけれども、そのあとにはつまり「毛玉を吐く」ということが付随してくるわけだ。夜中になって、寝ているわたしの耳に、キッチンの方でニェネントくんが吐いている「ゲッ、ゲッ」という声が聞こえた。さっそく「猫草の効果」が出たのかとは思ったけれども、朝起きてキッチンに歩いて、それでニェネントくんの吐いたゲロを踏みつけるのは最悪だ(しばらく前にやってしまったことがある)。しょーがないので起き出して、ニェネントくんがどこに吐いたのかを探し、掃除をするのであった。
 すぐに見つかって掃除したが、しっかりと吐しゃ物の中に緑の猫草がまじっていて、その効果はばっちり、なのであった。

 猫草の効果は「毛玉の吐き戻し」のほかにも、「便通の改善」ということもあるのだが、(今日はゲロの話とかウンチの話で恐縮だけれども)今朝になってニェネントくん、今までに見たことない大量のウンチをしていたのだった。
 ニェネントくんの「飼い主」、というより「同居人」として、とにかくはとってもうれしいことではあった。

 しかし昨日のニェネントくんには「困ったこと」もあって、実はわたしは昨日の昼食に「おでん」を食べて、食べ終えたあとにしばらく、「おでん」の入っていた器を食卓に置きっぱなしにしてしまったのだけれども、それであとで食卓の上を見てみると、「おでん」の器が洗ったようにきれいになってしまっていたのだった。
 「あれ? どうしたことだ?」と思ったが、つまりはニェネントくんがわたしが見ていないスキに食卓に上がり、器に残っていた「おでんのおつゆ」をきれいになめてしまっていたのだ。
 もちろんそもそもが「お行儀が悪い」のだが、何よりも「おでんのおつゆ」は、ネコたちが飲む(なめる)には塩分が濃すぎるだろうと、わたしは思ったのだ。
 それであらためて「ネコに塩分過多」と調べてみると、普段健康であれば、塩分を少し多めに取ってもあまり気にしなくってよくって、むしろ「尿路結石」予防で水分をたくさん摂取させるために、塩分は多少多めに摂取した方がいい場合もあるということだった。
 塩分過多を心配するより、水分をたっぷり取っているかということをチェックする方が大事だということだろう。まあニェネントくんは「そんなに水飲むのかよ」というときもあるし、大丈夫かな?とは思う。

 今日も天気は悪く、気温も上がらないみたいだ。これで東京の桜の開花はまた遅くなるだろう。ニュースで、高知で桜が開花して、これが今年日本でさいしょの桜の開花だということ。
 近年はいつの間にか、日本でさいしょに桜が開花するのは「東京」ということになってしまっていたけれども、今年の東京(及びその近郊)での桜の開花は遅いのだ。
 わたしは今日も一歩も外に出ず、部屋でゴロゴロしていた。外に出なかったせいか、元気ではないし気分もスッキリしない。
 夕方から、先日映画館で観た『12日の殺人』のドミニク・モル監督の前作『悪なき殺人』を「スターチャンネル」で観た。『12日の殺人』がかなり面白かったので期待したのだったが、けっこうその期待は裏切られてしまった感じだった。残念。
 

『アメリカの友人』(1977) パトリシア・ハイスミス:原作 ヴィム・ヴェンダース:脚本・監督

 むか~し観た映画で、ただその映画の中で、ブルーノ・ガンツが仕事をしながらキンクスの「There's Too Much On My Mind」を口ずさむことだけは記憶していたけれども、あとのことはほとんど忘れてしまっていた(ヴェンダースキンクスが好きなようで、最新作『PERFECT DAYS』の中でも、キンクスの「Sunny Afternoon」が流れた)。
 こうやって、原作小説を読んだあとに久しぶりにこの映画を観てみると、「ずいぶんと原作に忠実な映画なのだな」という印象が強かった。
 ただ、原作では額縁職人のトレヴァニーはパリに住んでいて、ドイツに行って暗殺を行うのだけれども、この映画ではトレヴァニー(映画では名前が変えられているが)はハンブルグに住んでいて、パリに行って暗殺を行うと、土地が入れ替えられているし、映画冒頭ではハイスミスの前作『贋作』のストーリーが活かされ、そのことがトレヴァニーとトム・リプリーとのさいしょの接点になったわけだし、ラストの展開はトレヴァニー家にマフィアらが襲ってくるというところは省略され、その前の段階、トムの屋敷に来たマフィアらをトムとトレヴァニーがやっつけ、その死体を始末するためにドライヴすることがさいごの展開になる(あと、トムはエロイーズと結婚してなくって、独身のようである)。

 ヴェンダースの映画としては珍しく、原作のテイストがしっかりと活かされた「サスペンス映画」というところで、それが原作の持つ「純文学」的な空気をしっかりと映像化し、さすがに「ヴェンダースによるサスペンス映画」という仕上がりになっていたと思う。これはもちろん、ヴェンダース監督がパトリシア・ハイスミスのファンだということからもくるだろう(『PERFECT DAYS』の中でも、ハイスミスの『11の物語』を引き合いに出し、古本屋の店主が「ハイスミスの魅力」を語るというシーンがあった)。
 ヴェンダースはこのあと、1982年に『ハメット』という、ダシール・ハメットを主人公とした「サスペンス映画」を撮っていて、わたしはそれがどんな映画なのか知らないけれども、ヴェンダースとしてはこの『アメリカの友人』を撮ったことの影響があったのではないかと思う。
 また、ヴェンダースはそのあと1984年にはあの『パリ・テキサス』を撮るわけだけれども、わたしはそこにはやはり、『アメリカの友人』の影響もあるのではないのかと思ったりする(近いうちにその『パリ・テキサス』を観るので、そのときにこういうことも考えてみたいとは思う)。

 改めてこの『アメリカの友人』という映画についてだけれども、やはりこの作品の良さのひとつに、ブルーノ・ガンツのそのキャラクター、そして演技というのがあるだろうと思う。白血病に侵されながら、死の恐怖をも見せる演技、そして何よりパリのメトロでの暗殺シーン(ここで暗殺されるマフィアを演じるのは、ダニエル・シュミットなのだ)の、どこか緩いけれども緊迫感を持続させる場面(ここはヴェンダースの演出手腕も賛美しなければならない)。そして妻と息子にみせる愛情(この「妻」を演じる、ヴェンダース映画の常連だったリサ・クロイツァーも素晴らしい)。

 それで問題の、「トム・リプリー」を演じたデニス・ホッパーだけれども、カウボーイハットをかぶって「俺、アメリカ人」と主張してくる彼は、正直ハイスミスの書いたトム・リプリーのイメージではないと思った。
 これは有名な話だけれども、ハイスミスは『アメリカの友人』でホッパーが演じたリプリーが嫌いだったが、映画を再度見た後、ホッパーがキャラクターの本質を捉えていると感じ、評価を修正したと、Wikipediaにも書かれている。
 そういうことで、デニス・ホッパーの演じたトム・リプリーを考え直すならば、彼がブルーノ・ガンツの挨拶にカチンときて、「コイツを俺のゲームに巻き込んでやろう」となるのはまさにデニス・ホッパーの持ち味全開ではあろうし、それがあとの列車の中でのマフィア暗殺シーンで「何のためらいもなく」人を殺すシーンも、デニス・ホッパーならでは、というところがある。そのあとに屋敷に攻め入って来るマフィアらにブルーノ・ガンツと共に立ち向かう展開も、まさにそれまでのアメリカ西部劇とかのキャリアが活かされていたのではないかとも思う。まさにそういうところで、デニス・ホッパーは「トム・リプリー」に適役、だったわけだろう。

 この映画の撮影はヴェンダース映画をずっと撮って来たロビー・ミューラーで、ハンブルグの街並みの撮影、そしてやはりメトロでの暗殺シーンの撮影とか印象に残るが、ラストにデニス・ホッパーがマフィアの死体を乗せた救急車を運転し、そのあとをブルーノ・ガンツと妻役のリサ・クロイツァーの乗る赤いワーゲンが追って、白い砂浜を走って行くシーンは心に残る。
 あと、映画全体で、「ノイズ」というか「物音」がしっかりと拾われていたことが、映画音楽などよりもずっと心に響く思いがした。

 観終わっても、「やはりこれは名作だな」とは思うのだった。また観たい映画だ。
 

2024-03-24(Sun)

 X(旧Twitter)を閲覧していると、このあたりの人はたいていの映画は流山おおたかの森駅のそばの「TOHOシネマズ」で観ることができるし、ちょっとカルトな映画なら柏駅のそばの「キネマ旬報シアター」で観られる、映画を観るにはずいぶんと恵まれた地域だという書き込みがあり、それはわたしも最近、ずっと感じていることだ。おかげで、「この映画は観たいな」というのは、わざわざ都心とかの映画館に行かなくっても、上記映画館のどちらかでたいていは上映してくれて観ることができる。
 前に観たいと思った『パトリシア・ハイスミスに恋して』も、上映館は都内でもわずかだったけれども、「キネマ旬報シアター」で上映してくれたわけだし、カウリスマキ監督の『枯れ葉』もここで観れた。
 やはり上映館の少なかったヴィクトル・エリセ監督の新作『瞳をとじて』も「TOHOシネマズ」で上映されたし(この作品、もうすぐ「キネマ旬報シアター」でも上映されるようだ)、ほんとうにわたしが観たいと思う作品、このどちらかの映画館で上映してくれるみたいだ。
 スクリーンで観たいと思っていた、トーキング・ヘッズのライヴ『STOP MAKING SENSE』も「TOHOシネマズ」でやっていて、「行きたい」と思っているうちに終わってしまった。それが来月には「キネマ旬報シアター」の方でやってくれるそうで、観に行ける。ありがたいことである。

 昨日は「キネマ旬報シアター」に『12日の殺人』を観に行って、映画が面白かったということとは別に精神的に元気になって、「映画を観に出かけてよかった」と思ったのだった。
 でも一日経って今朝目覚めると、また「鬱っぽい気分」に囚われてしまっていた。
 「こういうときは外出すればいい」というわけで、午前中に北のスーパーへ買い物に出かけた。この日もあまり暖かくはなく、空には青空も見えるけれども、けっこう雲もかかっていた。
 今日は「料理酒」と「牛乳」を買うのを忘れないように、と思っていたのだけれども、帰ってから考えてみたら、ニェネントくんの夕食にいつもトッピングしてあげる「ネコ用のカニカマ」とかを買い忘れていた。

 帰り道、道沿いの空き地に、ムクドリにまじってムクドリじゃない鳥がいるのを見た。ちょっとヒヨドリに似ている。しかしわたしは少し学習したので、この季節に木の枝にとまらずに地面に降りて来る鳥、そしてヒヨドリにちょっと似ている鳥というのは、「ツグミ」だとわかるようになった。眼の上に白い線が見えれば、まちがいなく「ツグミ」ではある。今の季節、ヒヨドリに比べれば目にする機会の少ない鳥だ。

     

 おとといパトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』を読み終えたので、ヴィム・ヴェンダースが映画化した、デニス・ホッパーブルーノ・ガンツの主演した『アメリカの友人』をサブスクで観たいと思っていて、「無料」ではないけどいいや、と思ったけれど、昨日観た『12日の殺人』の監督の前の作品『悪なき殺人』というのが、「Amazon Prime Video」の「スターチャンネル」に加入すれば観られることがわかった。「スターチャンネル」に加入してしまえば『アメリカの友人』も観られるし、前は「観なくてもいいかな」と思っていたヴェンダースの旧作もいろいろ観ることができる。
 うん、これから1ヶ月はその「スターチャンネル」を楽しもうか。ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』を何十年ぶりに観てみるというのもいいだろう。

 それでさっそく1ヶ月契約し、まずはヴェンダースの『アメリカの友人』を観た。さいしょに観たときの記憶などほとんど残ってないのだが、思っていたよりもずっと原作に忠実で、ちょっと驚いてしまった。

 映画を観たあとは大相撲の千秋楽中継を見た。昨日の取組みで足を痛め、この日出場するかどうかやきもきさせられた尊富士は負傷をおして出場したのだった。
 これが足の負傷を感じさせない相撲で見事に勝利して優勝を決め、大歓声に包まれた。新入幕の力士が優勝するのは110年ぶりのこと。また、初土俵から優勝までわずか10場所しかかからなかったというのも、これまでの記録を大幅に塗り替えたのだった。

 今はハイスミスリプリーシリーズの第4作、『リプリーをまねた少年』を読み始めたが、読み始めはいつもなかなかはかどらないのがいつものことで、この夜もほとんど読まないままに寝てしまった。