ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『11の物語』(1970) パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳(1)

「かたつむり観察者」(The Snail-Watcher)

 食用かたつむりを観察し、飼育するようになったピーター・ノッパードの「悲劇」。
 ハイスミス自身がかたつむりの飼育を趣味としていたことはよく知られていて、英語版Wikipediaには、かつて彼女は「レタス1個とカタツムリ100匹が入った」「巨大なハンドバッグ」を持ってロンドンのカクテルパーティーに出席したこともあったという。
 この作品にも出てくる、かたつむりのセックスについては、わたしも「虫」のいっぱい出てくる映画『ミクロコスモス』のなかで紹介されていたのを観たことがある。
 ‥‥全身が粘膜ともいえるだろうかたつむり同士が、ぴったりとからだをくっつけ合って、ヌメヌメとお互いのからだのうえを愛撫するように這い回るわけで、粘膜=性感帯だという通念で解釈すれば、それはいかほどの快楽になるのだろうと想像すると、ほとんど気が遠くなりそうになった記憶がある。
 この短編も、そんなハイスミスの「かたつむり観察」の成果が書かれていることだろう。かたつむりのセックスの描写は、ハイスミスの観察したものの記録だろう。

 主人公のピーター・ノッパードはかたつむりを飼うようになってからは仕事の業績も上がるのだが、その後「かたつむりの繁殖力」におそれをなしてか、かたつむりを飼育する書斎に二週間も足を運ばなかった。そしてピーター・ノッパードが意を決して書斎に入ってみると‥‥。

 ハイスミスのいつもの長編とは異なり、これは「怪異譚」とも言えるものだろうけれども、ラストのピーター・ノッパードを襲う恐怖は、やはりハイスミスならではのものだろう。


「恋盗人」(The Birds Poised to Fly)

 主人公のドンは、しばらくのヨーロッパ滞在からニューヨークへ戻ってきた。帰ってきてから、ヨーロッパで付き合ったロザリンドのことが忘れられず、「愛しているから結婚してくれ」との手紙を出した。「ニューヨークへ来てほしいが、望むなら自分がヨーロッパへ行ってもいい」とも。
 それから毎日のように郵便受けをのぞくのだが、ロザリンドからの返事は来ない。「性急すぎたか」と思うこともあったし、「彼女も気もちの整理がつかないのだろう」などと好意的に考えるドン。

 そのうち、自分の住まいのとなりの部屋の郵便受けが郵便物であふれていることが気になり始める。どうやら隣人は部屋にずっと帰っていないのだろう。ついには「ロザリンドからの手紙は間違えてとなりの郵便受けに配達されたのではないか」と思うようになり、となりに届いた郵便物をチェックすることになる。その中に、女性から隣人に宛てられた手紙を見つけ、ドンはその手紙を開封して読んでしまう。
 そこには、「あなたと別れてからもあなたのことが忘れられない。もう一度会っていただくか、返事を書いてくれないだろうか」という内容だった。
 ドンがロザリンドに書いた手紙に似ていると思ったドンは、その女性が隣人から返事をもらえないことに同情し、なんと隣人の名前でその女性に手紙を出してしまい、近くの駅で会うことを約束してしまう。

 ドンの行為は、そこに自分のロザリンドへの思いの反映があるだろうが、「いたずら」ではすまされない、一線を越えた行為ではあるだろう。
 このあとどうなったかは書かないでおくけれども、ハイスミスならばこの発端から、充分にハイスミスらしいヤバい長編を書くこともできただろう。


「すっぽん」(The Terrapin)

 ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』の中で、この短編のことがちょっと語られて、なんだか有名になってしまった作品。というか、『PERFECT DAYS』のおかげで、この『11の物語』はずいぶんと売れたようだが。

 主人公のヴィクターは11歳。母親とふたり暮らしらしいが、母親がいつまでも自分のことを「子供」扱いすることにうんざりしている。いつもピチピチの短いズボンとひざ下までの長靴下を履かせ「フランスの6歳ぐらいの子供」みたいで、学校でもバカにされる。ヴィクターは実は母親に隠れて心理学の本を読んだりもするのだが、母親はいつまでもヴィクターにスティーヴンソンの『子供の詩の園』から暗誦をさせ、いつも人にはヴィクターのことを「まるでねんねなんですよ」などと言う。ヴィクターがつい「無念無想」などということばを使ってしまうと、「おまえ、頭がおかしいんじゃないの?」となる。要するに、まるで子供のことを理解しようとしない母親なのだ。

 ある日、母親が来客用のシチューをつくるために、生きたすっぽんを買ってくる。さいしょは自分のためにすっぽんを買ってくれたのかと思ったヴィクターだが、料理用と知ってがっかりする。「このすっぽん、友だちに見せにいってもいい?」と聞くのだが、もちろん「ダメ!」といわれる。そして、ヴィクターの目の前で、お湯を沸騰させた鍋の中にすっぽんを放り込むのだった。鍋の中のすっぽんは口を開け、いっしゅんヴィクターをまっすぐに見て、熱湯の中に沈んでいった。
 ヴィクターは「あんな殺し方しなくっていいじゃないか」と言うのだが、母親は「知らないの? こうすれば痛くないのよ」と言う。母親は反抗したヴィクターの頬をしたたかに叩いたのだった。
 すっぽんの死ぬさまを思い出したヴィクターは涙を流し、そしてある行為を決意するのだった‥‥。

 この前に読んだ『死者と踊るリプリー』でも、リプリーがロブスターを熱湯に入れる場面を見たがらないという描写も出てきたし、ハイスミス自身、こういう「熱湯で生き物を殺す」ということをヘイトしていたのだろう(何年か前、スイスではロブスターなどの甲殻類を生きたまま熱湯でゆでる調理法がじっさいに禁止された)。

 ヴィクターにとって、「すっぽん」がすべての理由ではなく、ただ「きっかけ」にすぎなかっただろう。
 単に「じっさいの暴力行為」でなくっても、「子供のことを理解しない親」というのは、充分に「DV」をはたらいていると言えるだろう。
 「ヴィクター」の中に「自分」をみる子供という存在は、今でもけっこういることだろう。
 

『生きる LIVING』(2022) オリヴァー・ハーマナス:監督 カズオ・イシグロ:脚本

 ちょうどこの1月に、テレビで黒澤明監督の『生きる』を観たばかりだったので、どうしてもこの『生きる LIVING』を比べてみたくなってしまうのだが、わたしは早くも1月に観た『生きる』のことを忘れかけてもいる。

 物語の進行は、この『生きる LIVING』はあくまでもオリジナル『生きる』に忠実だったと思う。そして主演のビル・ナイの演技も素晴らしいのだけれども、その身のこなしや、特に声の出し方に、オリジナルの志村喬の演技をしっかり研究したのだろうな、とは想像がついた。

 1953年のイギリスが舞台になり、冒頭の映像は特にテクニカラーっぽく原色、陰影が強調されていたようで、まさに時代を感じさせられる(2階建ての赤いバスが走っていたのでそう感じたのか?)。
 イギリスらしくもなく、列車通勤の模様から本編が始まって、その車中で同じ市役所の市民課の連中が会話しているけれども、彼らは市役所に着いて自分の席に座ってしまうと、もう列車の中での人間性は押し殺してしまう。それはこの映画の主人公で、市民課の課長であるロドニー・ウィリアムズ(ビル・ナイ)のかもし出す空気のせいなのだろうか、それとも「市役所」という空間がそこで働く人たちを圧迫するのだろうか。
 市民課には「汚れた空き地を公園にしてくれ」と、主婦たちが陳情に来るけれども、まさにロドニーの対応は「たらい回し」で、他の課へ彼女らを行かせる。市役所はどこの課も似たようなものらしく、また「たらい回し」された主婦らは再び市民課に戻ってくる。けっきょくロドニーはその陳情書を「未決」の棚に放り込むのだ。

 あるとき、市役所を早退して病院へ行ったロドニーは、そこで自分が「末期ガン」であり、余命半年、長くて9ヶ月だと聞かされる(ここはオリジナルでは医師が真実を隠し、主人公が疑って真実を知るという展開になる。イギリスの医師は「正直」なのか)。
 ここで映画はロドニーが「がぁ~ん!」(つまらないダジャレだ)とショックを受けるさまなどは描かず、ただ翌日から市役所を無断欠勤する、ということで彼の「動揺」をあらわすわけだ。
 ロドニーは出勤せずに、海辺の保養地に足を運んでいるわけだけれども、そこで戯曲作家と出会い、「金はあるから」と夜の遊びに案内してもらう。
 ロドニーは「死」を前にして、自分が追い求めるべきは「快楽」だと思ったのだろうが、彼の心は満たされなかった。しかしロドニーが、「死」が目の前にある今、「わたしは何を求め、何をすればいいのか」と思っていることはわかる。

 ロドニーは同居する息子夫婦にも自分が「末期ガン」だと伝えたいが、そもそも精神的には疎遠な息子夫婦との意思疎通がむずかしく、言い出せない。
 そんなとき、ロドニーは街で、「市役所を辞める」と聞いていたマーガレットという若い女性と会い、彼女と食事を共にする。
 マーガレットの、生き生きと明るく前向きな姿を見て、「彼女と一緒にいれば癒され、楽しい思いをする」自分を発見する。何度もマーガレットと会い、一緒に映画を観に行ったりもするロドニーは、ついにマーガレットには「自分は末期ガンなのだ」と告白し、「マーガレットのように生きたい」と語る。
 そのとき、ロドニーはある意味「生まれ変わった」のだ(オリジナルでは、ここで偶然を装って「ハッピー・バースデイ」が歌われるのだが)。

 オリジナルでは143分あった上映時間は、この『生きる LIVING』では102分と、30パーセント短くなっている。これは「後発の強み」というか、けっこう大胆に「不要」と思えたシーンをカットしているわけだ。
 この作品は「死を目前とした男が<生きる意味>を探し求め、自分の今までの仕事への立ち向かい方を変えることで<生きる意味>を見つける」ということを、どこまでストレートに描けるか、ということに一直線に向かっているようだ。
 ただ、ラストに「完成された公園のブランコにいたロドニー」を最後に目撃した警官が登場するが、これはオリジナルにはなかったシーンだったろうか(オリジナルでは葬儀の場に警官が来ていたっけ?)。さいごに「探し求めたものを見つけ、それを達成した」ロドニーの姿を観る人に印象づける、いいシーンだったと思う。

 さいごに、ロドニー・ウィリアムズの歌ったスコットランドのバラッド、「The Rowan Tree」を。

2024-04-27(Sat)

 今日は土曜日。この日の朝の「ウィークエンドサンシャイン」は、先日亡くなられたオールマン・ブラザーズ・バンドディッキー・ベッツの追悼特集だった。わたしはオールマン・ブラザーズ・バンドをちゃんと聴いたことはなかったのだが、やはりこの時代のバンドの音はいいものだと思った。

 朝、昨日思い出していたデイヴ・クラーク・ファイヴのことをまた考えていて、彼らの映画『五人の週末』が観てみたいなあなどと思い、「まあ今はもうDVDもリリースされてはいないだろう」とは思いながらもAmazonでチェックしてみると、思いがけずも見つかった。もちろん海外盤だが、そんなに高くもなかったので、ついつい注文してしまった。

 それで、先日から「観たいなあ」と思っていた黒沢清監督の新作『Chime』の件だけれども、リリース元の「Roadstead」というサイトをみてみたのだが、どうやら観たいコンテンツを購入しないとならないらしく、それが1万4千円ぐらい。DVDとかなら5枚から10枚も買える価格だ。映画館にも10回通える。いくら何でも高すぎるのでやめたが、リリースから一ヶ月が過ぎれば、購入した人はその映像を一般に貸し出したり出来るようなことが書いてある。
 どういうことなのか、どういうことになるのかはわたしには解らないのだけれども、つまりしばらく時が経てば安く観られることもあるということだろう。まずは6月に映画館で公開される『蛇の道』のセルフリメイク版の公開を待とう。

 などと思っていたら、その『蛇の道』が公開されるとなり駅の映画館では、6月から「黒沢清監督特集」をやるということ。『地獄の警備員』と『CURE』、それと1998年版の『蛇の道』とを一週間ずつ公開するということのようだが、み~んなもう一度、スクリーンで観てみたいなあ、などと思う。

 それでこの日は午後から「Amazon Prime Video」で、黒澤明監督の『生きる』をイギリスでリメイクした『LIVING 生きる』を観た。主演のビル・ナイが好きなのでうれしい作品だった(映画館へ観に行こうかとも思ったのだったが)。
 脚本がカズオ・イシグロだということも話題になったけれども、ソフトなリライトだったと思う。
 ちょうど映画を観たあと、ネットで「実は老衰死は悲惨‥‥。医師たちが、<死ぬならガン>と口を揃えて言う」という記事を読んだ。
 書いてあったのは、体が衰弱して介護の世話になって亡くなる「老衰」よりも、「ガンであと余命はどれだけ」とわかる方が、元気なうちに身辺整理をして、<人生でやり残したこと>にトライすることができるのだ、などということだった。
 これはまさに『LIVING 生きる』の主人公のことだなあ、とか思ったのだった。「しかし、そういうものでもないだろう」と思っていて、夜にその記事をまたみようとしたら、何か「問題」があったのか、削除されていたが。

 映画を観たあとにテレビ放送に切り替えると、ちょうどNBPの「阪神vs.ヤクルト」戦が中継されていた。見始めたときはすでに阪神が近本の逆転ホームランでリードしていたが、そのあとヤクルトも粘って、とても面白いゲームだった。いちおう阪神は今げんざい、セ・リーグの首位なのだ。

 この日も一歩も外に出なかった。今日の写真は、昨日撮影した「スズメ」の写真で。

     

 夜は早めに、まだ外が明るいうちにベッドに行き、ハイスミスの『11の物語』を読んだ。この日は「かたつむり観察者」「恋盗人」「すっぽん」の3つを読んだ。
 

2024-04-26(Fri)

 このところ、ニェネントくんがしばらく前まで夜にはこもっていたキャットタワーのボックスに入ることがなくなり、キャットタワーのてっぺんで夜を明かすようになった。けっきょくボックスの中が気に入らなくなったのか、それとも、暖かくなったからキャットタワーのてっぺんでもよくなったということなのか、それはわたしにはわからないことだ。

 昨夜寝る前に、なぜか60年代のイギリスのバンド「デイヴ・クラーク・ファイヴ」のことを考えていて、彼らがビートルズの『ハード・デイズ・ナイト』に対抗してつくった『五人の週末』という映画のことを思い出していた。
 当時デイヴ・クラーク・ファイヴは「ビートルズの一番の対抗馬」と目されていたことがあって、その初期にはイギリスなどではほんとうにビートルズと競っていた。それでライヴァル意識からこの『五人の週末』という映画を撮ったのだけれども、監督はその作品で監督デビューしたジョン・ブアマンなのだった。この映画はもちろん、『ハード・デイズ・ナイト』のような大ヒットにはならなかったけれども、一部の評論家には賞賛された映画なのだった。

 デイヴ・クラーク・ファイヴはその後CDの時代にすっかり「忘れられたバンド」になってしまい、知名度もダウンしてしまったのだけれども、これは彼らの曲すべての版権を持っていたリーダーのデイヴ・クラークが、彼らの曲やアルバムのCD再発をいっさい認めなかったためである。デイヴ・クラークは「その方が権利を独占できるから得だ」と考えたらしいが、もちろんそれは「大きな過ち」だった。

 そんなことを思い出したり考えたりしながら寝たのだったが、それでしっかりと「デイヴ・クラーク・ファイヴ」のこと、その『五人の週末』という映画のことを夢にみてしまった。
 夢では、そんな「観たことのない映画」の、夢で勝手につくりあげられたシーンが繰り拡げられるのだった。
 ちゃんと記憶していれば面白かっただろうけれども、目覚めたときにはただ、「そんな夢をみた」ということしか記憶していなかった。

 この日も気温が上がり、このあたりでも25℃を超えて「夏日」になったようだ。
 午前中に北のスーパーへ買い物に出かけたのだけれども、Tシャツの上にまたシャツをはおった恰好では暑かった。半袖Tシャツだけでよかったのだ。

 家のすぐそばで、草の葉に停まったシジミチョウを見つけ、喜んで写真を撮った。
 チョウ類の写真はいつも撮りたいのだが、チョウたちは決してじっとしていてくれず、ただ飛び回って写真を撮らせてはくれないのだ。こうやって、葉っぱに停まってじっとしていてくれるチョウは、絶好のシャッターチャンスだ。

     

 このシジミチョウは「ヤマトシジミ」という種類で、日本ではいちばん多く見られるシジミチョウだ。
 家に帰ってから調べたら、ヤマトシジミの一生は産卵されて「卵」で一週間、孵化した幼虫で二週間、それがさなぎになってまた一週間かかり、成虫の姿で二週間ぐらい生きるらしい。トータルで六週間の生涯。短いんだなあ。
 それでヤマトシジミは、幼虫が食べるカタバミの草の生えるところで繁殖するということ。うん、ウチのそばの空き地には今、カタバミの花がいっぱい咲きそろっているところだ。

     

 今日はスーパーで、安い発泡酒を2缶買ってみた。昼食は先日買った「スイートチリソース」をちょっと使ったスパゲッティをつくってみたが、「まあまあ」の味。とにかく「スイートチリソース」はいっぱいあるので、またやってみようと思う。
 食後、買った発泡酒を飲みながら「ちゅらさん」の再放送を見て大笑いする。つづく「虎に翼」は急にシリアスになったけれども、昨日までのコミカルな展開は楽しかった。特に尾野真千子のナレーションにはいつも笑わかされる。

 寝る前にパトリシア・ハイスミスの『11の物語』を読む。この夜はさいしょの「かたつむり観察者」だけ。
 これって、今よくある「ペット多頭飼育」の崩壊、にも通じるものがあるだろう。いつも読書の感想は別に書いているので、もう何篇か読んだら、まとめて感想を書こうと思う。
 

『死者と踊るリプリー』(1991) パトリシア・ハイスミス:著 佐宗鈴夫:訳

 この本の原題は「Ripley Under Water」。リプリー・シリーズの第2作が「Ripley Under Ground」(邦題『贋作』)と似ていて、じっさい、その内容も『贋作』から引き継いでいて、まさに「続編」という感じ。ただ、『贋作』(「Ripley Under Ground」)ではじっさいにリプリーはいっしゅん、地中に埋められてしまう展開があり、タイトルに偽りはないのだけれども、この『死者と踊るリプリー』(「Ripley Under Water」)ではリプリーが水中に入るということはない。そもそもリプリーは、このシリーズの中で何度も「水が苦手だ」ということが語られていて、「Ripley Under Water」だとイコール「リプリーの死」みたいなことを考えてしまう。
 ただ、この作品では川の水の中に(『贋作』のとき、リプリーに殺された男の)死体があったわけで、Under Waterといえばこの死体のこと、もしくはこの作品の「悪役」的な存在で、さいごに自宅の池で溺れて死んでしまうプリッチャード夫妻のことになるだろう。
 それにしても『死者と踊るリプリー』とは、またずいぶんとひねった邦題をつけたものだと思う。

 今回の作品、けっこうたっぷりとリプリー夫人のエロイーズが登場して、お得意のフランス語をいっぱい聞かせてくれるし、それ以上にリプリー家の家政婦のマダム・アネットの出番が多く、けっこう重要な「証言者」になったりもする。リプリーらの住まい「ベロンブル」周辺の隣人らも登場するし、そういうところでは、トム・リプリーの普段の日常生活がいっぱい描かれていた、といえるだろう。こういうのがけっこう、つづけて読んできた読者にはうれしいのだ。
 そして今回、リプリーの味方となって共に行動してくれるのは、『贋作』に登場したロンドンのギャラリーのエド・バンベリー。ロンドンからベロンブルにやって来てしばらく滞在し、リプリーの心強い「相棒」になってくれる(って、この二人の描写がやっぱり、そこはかとなく「同性愛」っぽいわけだ)。

 トム・リプリーは、ベロンブルの自宅屋敷で庭の手入れやハープシコードを練習したり、絵を描いたりして日々を送っていた。プリッチャードという名の不快なアメリカ人夫婦が近郊に転居して来て、『贋作』でマーチソンを殺害したリプリーの犯罪を暴露しようとする。
 夫のデイヴィッド・プリッチャードは当初、かつてリプリーが殺害したディッキー・グリーンリーフのフリをしてリプリーに電話する嫌がらせをした。彼はベロンブルの写真を撮り、そのあとリプリーとエロイーズのタンジールへの旅行をつけて行ったりもする。タンジールのバーでリプリーはプリッチャードと喧嘩になりもする。フランスに戻ったプリッチャードは、マーチソンの遺体を探すために地元の川底を浚い始める。
 過去の犯罪が暴かれるのを恐れたリプリーは、マーチソン殺しの経緯を知っているロンドンのギャラリーに連絡し、エド・バンベリーに来てもらう。
 ついにプリッチャードは白骨死体を発見し、リプリーの玄関先に骸骨を捨て置く。リプリーはその白骨を、エドに手伝ってもらってプリッチャード家の外にある池に遺棄した。プリッチャード夫妻は水しぶきの音を聞いて外に出て調べ、池にある白骨死体を見つけて引き上げようとし、転落してしまう。泳げない夫妻は共に池で溺死してしまう。警察が捜査して夫妻の遺体の他に白骨死体も見つけるが、それはもう過去の事件の手掛かりとなることはないだろう。

 いつものように小説はトム・リプリーの一人称で書かれているが、今までのシリーズ作以上にリプリーが「過去の犯罪」の露呈を恐れ、怯えて不安に囚われるさまが書かれる。
 また、いつもであればまさにトム・リプリーこそが「犯罪」を犯し、それを隠蔽しようとする展開になるのだが、今回はまず動くのはプリッチャード夫妻の存在であり、リプリーの方が「あいつらは何をしようとしているのか?」と推理することになり、それがリプリーの抱く「不安」を増幅するようでもある。
 おそらくはリプリーもまた、いつものようにデイヴィッド・プリッチャードへの「殺意」を膨らませるようではあったが、そのような事態に陥る前に、プリッチャード夫妻の方で自滅してしまうわけだ。そういう、ひとつの作品として、「最後の詰め」は相当に甘いというか、「ご都合主義」に思える展開もあるが、まさに「ハイスミス作品」としての「不合理な展開と不安感」には満ちていた。
 しかし、これで「トム・リプリー・シリーズ」もおしまい、というのは寂しいことだ。

 最後に、この本の冒頭にはパトリシア・ハイスミスによる「献辞」が置かれているのだけれども、それが今読んでも興味深いものだし、ここに書き写しておきたい。

インティファーダクルド人たちの
死者と死にゆく者たちへ、
いかなる国であれ、抑圧と闘い、勇敢に立ち向かって、
自らの信念をつらぬいているばかりか、銃弾に倒れていく者たちへ。

 まず、「インティファーダ」とは、アラビア語で「蜂起」を意味する言葉で、 イスラエルに対し「反占領の闘い(インティファーダ)」を続けるパレスチナ民衆のことを指すのだが、1987年にガザ地区で起きた「蜂起運動」を、「第1次インティファーダ」と呼ぶ。ハイスミスの献辞は、この「第1次インティファーダ」に捧げられたもの(「第2次インティファーダ」は2000年に始まり、2005年に沈静化した)。
 「クルド人」についての言及は、この本の刊行される1991年に、イラク北部のクルド人地区(南クルディスタン)で起きた当時のフセイン政権に対する反乱のことが言われているのだろう。この反乱は失敗に終わり、大量の難民を生み出すことになったのだ。

 わたしたちは今なおガザ地区で起きていることを知らされているし、クルド人難民は現在の日本で「クルド人排斥」の動きとなっている。
 30年以上の月日が過ぎても今なお、パトリシア・ハイスミスのこの「献辞」の訴えてくるものは大きい。
 

2024-04-25(Thu)

 先月から「Amazon Prime Video」の「スターチャンネル」というのと、一ヶ月だけのつもりで契約していて、ヴィム・ヴェンダースの作品などを観ていたのだったが、昨日で一ヶ月が過ぎてしまい、継続しないで辞めてしまった。まだ、シャンタル・アケルマンの作品とか観たい作品はあれこれあったけれども、とりあえず今は辞めた。
 自宅にあるDVDで買ったまま観ていない作品もけっこうあるので、しばらくはそういうのを観ていこうかな、とは思っている。

 さて、「物価高騰対応生活支援給付金」というものがどうやらわたしに給付されそうもないという件で、近々市役所へちょくせつ問い合わせに行こうとは考えていたのだけれども、きっと問い合わせたところで「給付対象は令和4年度の納税状態で判断している」ということで、つまりわたしは「対象外」だと言われることが充分に想像できる。そのことに関して、「でもわたしの場合は令和4年の10月には仕事を辞めてしまっているんですよ」などと言っても、「それは別案件です」とされることだろう。先日の電話でもちょっと言われたが、「生活が困窮しているのなら別の部署に相談して下さい」ということになるのだろう。わざわざけっこう遠い市役所まで出かけても、ただ消耗するだけになる。無念だが、もう「給付金」のことはあきらめようと思う。

 今日も気温が上がり、わたしは外に出なかったけれども、室内でもずっと半袖Tシャツだけで過ごした。ニェネントくんは好きなときに出窓へと跳び上がり、猫草をむしゃむしゃと食べているのだった。

     

 今読書中で、もう残りページも少なくなっていたハイスミスの『死者と踊るリプリー』を読み終えた。これがハイスミスの「トム・リプリー・シリーズ」の最終作だと思うと、「もうこのあとはないのか」と、ちょっと寂しくなってしまった。
 実はつい2、3日前に夢をみていて、いつものようにほとんど記憶に残っていないのだけれども、どうやら『死者と踊るリプリー』を読んでいた夢で、そのラストまで読んで「これでシリーズがおしまいだということもしっかり納得が行くなあ」とか思っている、というような夢だったように思う。「これでシリーズもおしまい」というのは、トム・リプリーが死んでしまう、ということだったのだろうか。
 「次は何を読もうか」と考え、同じパトリシア・ハイスミスのさいしょの短編集『11の物語』を読むことにした。
 この日は冒頭の、グレアム・グリーンによる「序」だけを読んだ。
 ヴェンダースの映画『PERFECT DAYS』の中で主人公が古本屋へ行って、この『11の物語』を買うシーンがあるのだけれども、そのとき古本屋のレジの女性が「パトリシア・ハイスミスは不安を描く天才だと思う。恐怖と不安は別のものだと、彼女から教わったの」と語るのだった。しかし彼女の語った言葉はこの『11の物語』のグレアム・グリーンによる「序」の要約ではある。
 グリーンはこの「序」の中で、彼女の作品が「ミステリー/サスペンス」と分類されるにしても、ハメットやチャンドラーの描く「英雄的な主人公や合理的な展開」とは異なる、「不合理な展開と不安感」こそが彼女の作品の特徴なのだと書いている。グリーンはハイスミスの多くの長編作品について短くコメントも寄せているけれども、グリーンにとってのハイスミスの最高傑作は『変身の恐怖』だと書いている(もちろん、この『11の物語』が刊行されるまでの作品でのことであるが)。そして、「もしもこの作品のテーマはなにかと聞かれたら、“不安感”だと答えるだろう」と。うん、わたしも『変身の恐怖』がいちばん好きかもしれない。
 

『ストップ・メイキング・センス』(1984) ジョナサン・デミ:監督 トーキング・ヘッズ:出演

   

 今年になってから、この「名作」の4Kリストア版が国内で公開され始め、ようやくウチのとなり駅の映画館でも上映が始まった。それでわたしも、30年ぶりぐらいにこの映画を観たのだった。
 う~ん、やっぱり映画館の外の寒さを忘れて、熱くなってしまった。まさに「史上最高のコンサート映画」で、この映画の前では『ウッドストック』だって「ちょっと違うんだよね」となってしまう。ここにはとにかく、デヴィッド・バーン、そしてトーキング・ヘッズのメンバーによる一夜のコンサートの組み立てと、ジョナサン・デミ監督によるそのコンサートの「記録」とが合体していて、「おそらく将来的にもこれ以上のコンサートの記録は生まれないんじゃないだろうか」という映画になっている、と思う。

 まあもともと、わたしがトーキング・ヘッズの音楽が好きだったということもあると思うけれども、わたしとて彼らのすべてのアルバムを聴いていたわけではないから、映画の中ではわたしの知らない曲もずいぶんと演奏されたわけだけれども、み~んなわたしの耳には「いいよね!」と受け入れられる。
 とにかくは、まずは「一夜のコンサート」としての構成の見事さというものがあるわけで、音的にも視覚的にも工夫を凝らされた89分を堪能するしかない。

 まずはステージを歩いてくるデヴィッド・バーンの足元のアップから始まる映画。ギターを持ったデヴィッド・バーンはラジカセをぶら下げていて、「やあ、テープを持ってきたよ」と語ってラジカセを床に置き、再生させる。録音されたリズム・セクションをバックに、デヴィッドは「Psycho Killer」を歌い始める。この時点でステージ上は奥までむき出しで、何らライヴのための装飾は施されてはいない。
 次の「Heaven」でティナ・ウェイマスのベースが加わり、バックに台に乗ったドラムセットが運び込まれ、次の曲ではドラムスのクリス・フランツが、さらに次の曲ではギターのジェリー・ハリソンが舞台に現れて演奏に加わる。そしてさらにバック・コーラスの2人、サポート・メンバーのキーボード、パーカッション、ギターが加わることになる。
 この、舞台を1人で始めて、曲ごとにミュージシャンが加わって行くというやり方はカッコよくも画期的で、のちにこのやり方を踏襲したバンドも多かったのではないだろうか。

 このあたり、Wikipediaでこのバンドのことを調べると、デヴィッド・バーンとティナ・ウェイマス、クリス・フランツとはデザイン学校の学生で、在学中に「パフォーマンスアートと寸劇とロックの融合を試みていた学生バンド」に出入りしていたらしい。こういうところからも、「コンサートの演出」についてもともと意識的だったことがわかる。
 また、バンドの音的には時代的にも「ニュー・ウェイヴ」「ニューヨーク・パンク」の一翼を担うとみなされていたのだろうけれども、その後アフロビートやファンクの音も吸収したわけで、けっこうライヴ音として一般受けするような「ノリがいい」「ファンキーな」音でもあったわけだし、しかもタイミングよく、1981年にはティナ・ウェイマスとクリス・フランツとが「トム・トム・クラブ」という「バンド内別ユニット」を誕生させ、その「かわいい(?)」音づくりも人気になって「おしゃべり魔女」などの(トーキング・ヘッズ以上の)大ヒットも生み出していて、この映画にもあるように、ライヴの中で「ここからはトム・トム・クラブだよ~」みたいなことをやって、ライヴの大きなアクセントにもなっていたわけだ。

 メンバーは1曲ごとに楽器を変え(ジェリー・ハリソンとティナ・ウェイマスはキーボードもやる)、特にデヴィッド・バーンはひんぱんに着替えもするし、曲ごとにそのダンス・パフォーマンスも変化させる。やはり有名なのは映画のポスターにもなっている「ガールフレンド・イズ・ベター」でのビッグスーツを着てのパフォーマンスだろう。これはデヴィッド・バーンが来日したとき、歌舞伎、能、文楽とかの日本の伝統的演劇を観て思いついたらしい。
 どうも観ていて、デヴィッド・バーンって誰かに似てると思ったのだけれども、ああ、キリアン・マーフィーに似ているんだと思いあたった。それから、彼がメガネをかけると『アラバマ物語』のグレゴリー・ペックを思い出すのだった。

 バックコーラスの2人を含めて、メンバーのほとんどがグレー系の衣装で身を包んでいたのに気づいたけど、これはやはりジョナサン・デミが舞台照明のことを考えて指定したらしい。ただ、クリス・フランツだけはコンサート初日にそういう衣装が間に合わなかったため、ツアー全体を統一させるため(どの日にも撮影が入っていたのだろう)、初日の衣装で通したらしい。

 わたしはこの映画では観客席は写らないものだと思い込んでいたけれども、実はさいごの曲で観客の姿も写されていたのだったね。
 カメラは観客席側から、そして舞台後ろから、舞台上からとさまざまなところから撮影しているのだけれども、ラストのクレジットをみると「カメラ・オペレーター」として7人の名がクレジットされていた。それがそのまま「撮影カメラの台数」というわけでもないだろうけれども、7台のカメラで撮影したという可能性はある。
 このツアー・ライヴは当初3回の予定だったらしいけれども、追加撮影のために1回追加されたのだということではあった。