ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ジョーカー』(2019) トッド・フィリップス:監督


 主人公のアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は年老いた母親のペニーと、おそらくは低所得者対象のアパートに住んでいて、派遣の「道化師」の仕事をしているが、発作的に笑い出してしまう精神障害を患っていて、カウンセリングを受けている。彼はいつかはコメディアンになりたいと思っているのだが。
 しかし、そもそも「コメディアンになりたい」と思っている人物が、「笑い出してしまう」という精神障害を持っているというのは大きな「アイロニー」ではあるし、アーサーが扮する「道化師(ジョーカー)」のメイクとは、そもそもが「笑い顔」なのである。

 アーサーは「道化師」として小児病棟を慰問したときに隠し持っていた拳銃を落としてしまい、即解雇されてしまう。道化師のメイクのままメトロに乗ったアーサーだが、ガラガラの車内では1人の女性が3人の男に絡まれていた。それを見たアーサーは発作的に笑い出してしまい、怒った3人に暴行を受けることになる。反射的に持っていた銃を取り出し、3人を射殺して逃亡する。殺された3人がエリート社員だったことから、彼らを射殺した、まだ捕まらない「道化師」を英雄視する声が街に起こる。

 アーサーの母親のペニーは、30年前に自分を雇っていた街の名士のトーマス・ウェインに「救済」を求めて手紙を出し続けている。ある時アーサーがその手紙を投函する前に開けて読んでみると、そこにはペニーは当時トーマス・ウェインの愛人で、アーサーはトーマスの子だというようなことが書かれていたのだった。ショックを受けたアーサーは、母親が入院していた州立病院へ行き過去の母親のカルテを確認してもらうのだが、母親は妄想障害の精神病を患っていて、アーサーは「養子」としてペニーの子になったこと、ペニーから虐待を受けていたこともわかる。絶望したアーサーは、寝ているペニーの顔に枕をかぶせて窒息死させる。

 一方、アーサーのもとに人気トーク番組の「マレー・フランクリン・ショー」から連絡があり、コメディアンとしての出演を打診される。それは前にアーサーがクラブの舞台に立ったときのヴィデオが放映されたためだが、そのときアーサーは舞台で発作が起き、ただ笑いつづけていたのだった。
 そのショーに出演して生放送で自殺しようと考えたアーサーだが、いざ出演してみると司会者のマレー(ロバート・デ・ニーロ)はアーサーが発言するたびに茶々を入れてアーサーを笑いものにするのだった。

 アーサーは激昂して、生放送中にマレーを射殺してしまう。アーサーはすぐに逮捕されてパトカーで連行されるのだが、そのとき外ではアーサーの凶行を見た連中が暴動を起こしているのだった。いちどはアーサーもパトカーから逃れ出て、群衆から英雄視されるのだった。

 これは「傑作」なのか、それとも「こけおどし」なのかと考えると、その素晴らしさの輝く場面もあるし、「つまらない表現だ」と思ってしまう場面もある。しかし、一方に精神的にも社会的にも追い詰められた主人公がいて、それが社会的には多くの同調者を生み、「ヒーロー」扱いされてしまうというストーリーには、惹きつけられるだろう。そういう意味でこの映画以後、「オレはジョーカーだ!」と語る、チンケな犯罪者が登場したことも理解できる。
 そういうところでは、この映画は「アジテーション映画」だったのだろうか、とも思ってしまうが、扇動的な効果を生むような演出はなされていたのではないかと思う。

 ある意味でこの作品、「虐げられしモノ」と「精神を病んだモノ」とを安易に一つのグループに統合し、混同させているのではないかとは思う。そう捉えるとやはり「アジテーション映画」と見られてしまう要素はあったのではないだろうか。

 映画のラストで、フランク・シナトラの「That's Life」が大きくフィーチャーされるのだが、これはフランク・シナトラの曲の中でもわたしの好きな曲なのだった。フランク・シナトラとしては異例にR&Bっぽい曲でもあり、シナトラがこの曲を歌ったあと、アレサ・フランクリンジェームズ・ブラウン、そしてヴァン・モリソンらもこの曲を取り上げたのだった。
 映画では曲の最初の方だけ「日本語字幕」が付いていたのだが、すぐに字幕は消えてしまった。この映画を象徴する曲と選ばれただけに、その歌詞の内容が映画ストーリーと重ねて意味を持つものだっただけに、最後まで「日本語字幕」を付けてほしかった、とは思う。
 

2024-04-30(Tue)

 過去のわたしの日記を読むと、たしかに毎年この時期はコブハクチョウの雛鳥が孵化する時期なのだけれども、もうひとつ、5月になると、こんどはツバメが飛来してきて巣ごもりを始めるのだ。去年は5月2日に親ツバメが姿を見せ、6日には巣ごもりを始めていて、5月の末には子ツバメが巣から頭をのぞかせているのを見たのだった。
 今年はいちど、4月の初めにツバメが飛んでいるのを見たけれども、それ以降はツバメの姿は見ていない。もうすぐ、北のスーパーへ行く道ぞいにある巣にやって来て、巣ごもりを始めることだろう。

 わたしはこのところしばらく「のどの痛み」があって、特に寝ているときに痛み、ひんぱんに咳が出るのだった。朝起きると「たん」も口の中にたまっていて、トイレに行って吐き捨てるのだったが、特に緑色してるとか血が混じっているとかではないので、ついつい放置していた。
 それが先週あたりから、起きているときにものどに違和感を感じるようになっていて、「ああ、こりゃあ咽喉科の病院へ行かないといかんかもな」と思うようになっていた。
 やはり明日ぐらいには病院へ行こうかと思っていたのだけれども、なんだかこの2、3日具合がよくなっているというか、夜の痛みもないし、「たん」も出なくなった。病院には行きたくないし、しばらくはまた様子を見ようかということになるだろう。

 注文してあった「ペット用のブラシ」が届いたので、さっそくニェネントくんのブラッシングをやってあげた。前のラバー製のブラシがもうぜんぜん抜け毛が取れなくなってしまっていたけれど、さすが新品。面白いように抜け毛が取れるのだった。これからの季節、しっかりブラッシングしよう。

     

 しかし、そのブラシのパッケージに載っていた写真、相当に変だ。これは「ネコの額」でもブラッシングしようとしているのか。それともネコの胸を? なんだか病院のベッドの上で診察を受けているようなネコの姿、とてもこれからブラッシングを受けようとしているとは思えないのだけれども、ちょっと笑えた。「中国製」だとこういうものなのか。

     

 昼からは映画『ジョーカー』を観た。わたしはこの映画に限らず「バットマン」関係の映画というのは何一つ観たことがない。でも、この『ジョーカー』はけっこう「バットマン」のシリーズからは独立しているらしいし、映画として話題になることも多いし、今さらながら観ておこうということで。
 ‥‥そうか、こういう映画だったのか。

 夜は、このところ捗らなかったハイスミスの『11の物語』の読書に励み、「モビールに艦隊が入港したとき」「クレイヴァリング博士の新発見」「愛の叫び」の3編を読んだ。

 寝る前にスマホでニュースをみたが、この日も阪神が広島カープを相手に逆転勝ちをし、首位をキープしたと。「早くも独走態勢か?」という感じで気分がいいのだが、この日はわたしのひいきのノイジーが4安打と、今までになかったような活躍を見せたらしく、余計に気分がいいのだった。
 

2024-04-29(Mon)

 今日は月曜日だけれども、世の中は「昭和の日」ということで休日なのだった。いったいなぜ「昭和の日」だけがあって、「明治の日」「大正の日」「平成の日」というのはないんだろう。
 休日といっても、「毎日が休日」のわたしの過ごし方はいつもと変わらないし、テレビの番組もいつものようにモーニングショーをやっていた。昨日の衆議院補欠選挙の結果を受けての解説、コメンテーターらの意見のやり取りが聞けたけれども、コメンテーターの「維新の会は『立憲民主党をつぶす』などと言ったことが裏目に出た」という意見に対して、自民党サポートの田崎史郎氏は「立憲民主党だって自民党を攻撃しているから同じですよ」などと語るのだった。
 自民党というのは現在、政権を担当する「与党」なのであるから、野党がそんな与党、与党の政策を批判、攻撃するのは「あたりまえ」のことである。ましてや今は「政治資金」のことが問題になっているというのに。田崎史郎氏のコメントは、ほとんどネトウヨと同レベルであろう。
 わたしは昨日の選挙で立憲民主党が全勝したことを喜んだけれども、別に立憲民主党を支持しているわけではない。ただ、現在これだけわけのわからない保守政党が乱立してきたなか、リベラルの立場をしっかり示せたことは意義があると思う。

 そんなモーニングショーを見たあと、「ふるさと公園」へと歩いた。先週の月曜日は「ふるさと公園」へは行かなかったので、ちょっと久しぶりという感じ。
 この日は休日だけど、公園の人の出はいつもと変わらない。あまり人気のない公園なのだろうか。それともみんな、もっとレジャー地へと行ってしまったのだろうか。
 この日も公園に野鳥の姿はまるで見られなかったけれども、コブハクチョウが巣ごもりをしていたところへ行くと、そこには5~6人の人が集まっていた。「やはり休日の人気はコブハクチョウか」と思って近づくと、巣から出て池を泳ぐ2羽のコブハクチョウのそばに、小さな雛鳥の姿が見えた。孵化したのだ。
 そうだ、毎年ゴールデンウィークになると孵化していたのを、すっかり忘れていた。雛鳥を数えてみると6羽いるようだ。
 去年は1羽のひなしか生まれずに「今年は少なかったなあ」と思ったのだったが、今年は6羽。一気に「子だくさん」だ。

     

     

     

 この日記で以前のコブハクチョウのひなの数を調べてみると、2021年は3羽、2022年は5羽のひなが生まれていたのだった。今年はやはり、近年ではいちばんたくさんのひなが生まれたのだった。
 2年前の日記だと、コブハクチョウ家族が「ふるさと公園」にいるのは6月中旬ぐらいまででそのあとは姿が見えなくなり、おそらくは東の手賀沼の方へ行ってしまうのだと思う。こうやって雛鳥の姿を観察できるのも、1ヶ月ちょっとのことなのだ。

 この日はネコたちに出会うこともなく帰宅し、「冷やし中華」で昼食にした。そのあとテレビで、先日途中で見るのをやめてしまっていた「未解決事件」という番組の、「下山事件」を再放送していたもので、しっかりと観てしまった。第1部が事件の真相を追う布施検事(森山未來)と新聞記者の矢田(佐藤隆太)を中心としたドラマで、登場人物はすべて「実名」。第2部はそのドラマを補完する、新しく発見された資料などによるドキュメンタリー。
 非常に「見ごたえ」のある番組ではあった。

 下山国鉄総裁が狙われて殺されたのは、単に彼がその当時の国鉄総裁だったから国鉄の人員整理をスムースに行うためではなく、英語をしゃべれた下山氏がアメリカ軍の「(来るべき朝鮮戦争の際)国鉄アメリカ軍のために供出してほしい」という要求をガンと撥ねつけたことが大きな理由だという。もちろん、実行したのは憶測されていた通り、CICの「キャノン機関」だった。
 当時「自殺説」が出回り、自殺を裏付けるような「証拠」があったことは、暗殺実行犯らが「自分たちが罪を被らないように」工作したためだという。
 ここに「ソ連黒幕説」をばらまく人物がいたりもしたし、アメリカによる「捜査ストップ命令」もあったりして、まさに「未解決事件」として今に至っているのだ。しかしこの番組で、もはや「自殺説」も通用せず、ほぼ事件の大まかな「陰謀」は解明されたと考えていいのではないだろうか(まだ、下山総裁の死体が発見された後日、線路上で「ルミノール反応」を示して発見された「下山総裁の血液」の謎はあるけれども、やはり「実行犯らの工作」だっただろうか?)。

 ドラマの中で、布施検事の語る「手を汚し傷つくのは、名もない弱い者たちだ」というセリフや、「国家主義をやめ、国民ひとりひとりの幸福を追求しなければならない」というセリフは、ドラマ作者の「メッセージ」であろう。特に「国家主義」うんぬんのセリフには、わたしも強く同意するのであった。

 今日も、ほとんど本も読めないで終わってしまった。
 

『シャレード』(1963) スタンリー・ドーネン:監督

 監督は『雨に唄えば』で有名なスタンリー・ドーネンだけれども、わたしはその有名な『雨に唄えば』をまだ観たことがない。そもそもスタンリー・ドーネン監督の作品自体、一本も観ていないわけだけれども、オードリー・ヘプバーンが出演した作品も、この『シャレード』を合わせて3本撮っていて、どれも評判がいいみたい。「いちばんオードリー・ヘプバーンを理解していた監督」とも言われたらしく、このあとの『いつも2人で』(1967)も、相当に人気のある作品みたいだ。

 スタンリー・ドーネンヒッチコックの『北北西に進路を取れ』のような映画を撮りたいと思っていて、この脚本に飛びついたらしい(『北北西に進路を取れ』に出演していたケーリー・グラントも、この作品に出ている)。
 たしかに、(そもそも離婚しようと思っていた)夫が死に、夫が持っていたはずの25万ドルをめぐる争いにオードリー・ヘプバーンが巻き込まれてしまうという展開は、まさにヒッチコック映画の「巻き込まれ型」の典型のようではあるし、「男性と女性のペアで解決しようとし、ロマンスも生まれる」というのも、スパイ絡みのヒッチコック映画の「お約束」でもあっただろう。

 実のところこの物語の本質はミステリーで、けっこう死体も登場して来るのだけれども、そんな状況をオードリー・ヘプバーンは無邪気にエレガントに、そして優雅にウィットに富んだ演技をみせてくれる。これでは誰もがオードリー・ヘプバーンに夢中になってしまうだろうけれども、ところが映画では、オードリー・ヘプバーンの方がケーリー・グラントに夢中になってしまうのである(これはオードリー・ヘプバーンケーリー・グラントとの実年齢差を考慮して、脚本をリライトしたのだそうだ)。
 たしかにヒッチコックの『北北西に進路を取れ』では「敵だと思った人物が実は味方だった」という設定もあったし、ラストの粋なラブシーンとかはこの『シャレード』に通じるものもあるだろうし、「女性が男性に夢中で、冒険的な活躍を見せる」というのは、ちょっと『裏窓』を思わせられるところもある。じっさいこの作品、「アルフレッド・ヒッチコックが監督をしなかったヒッチコック映画の最高傑作」とも言われているらしい。

 冒頭のオープニング・タイトル・デザインはたしかにちょびっとヒッチコック映画のソール・バス風のデザインだけれども、作者のモーリス・ビンダーは一貫して「007シリーズ」のオープニング・タイトルを手掛けた人なのであった。例の、銃口から覗かれたジェームズ・ボンド銃口に向けて銃を撃ち、上から赤い血が降りてくるというショット(ガンバレル・シークエンスという)も、この人の作品である。

 本編はアルプスのスキー場のロケから始まり、そのあとはパリ市内でのロケがふんだんに使われていて、いつもジバンシイをまとっているヘプバーンに合わせて、雰囲気をしっかりつくっている。
 さいごの追われるオードリー・ヘプバーンが地下鉄で逃げるシーンもすばらしいし、そのあとの柱廊での逃走シーンはパレ・ロワイヤル。そしてスリリングな劇場内での展開は、コメディ・フランセーズ劇場を使ったらしい。

 さてそれで、作品の中で「3枚の古い切手」が終盤に大きな意味を持つことになるのだけれども、そのくだりを見たときわたしは、「ああ、むかしこのことが書かれた雑誌の記事を読んだ記憶があるな」と思い出したのだった。
 こういう希少な切手というのは、この映画の通りにものすごい価格が付くわけで、ちょっと調べてみたら、今世界でいちばん高価格が付いた切手というのは、1856年に英領ギアナで発行された1セント切手で、その切手1枚に付けられた価格は、なんと9億7000万円なのだったという。これはそんじょそこらの「名画」もかなわない価格ではないのか。驚きである。

 ‥‥というわけで、いかにも「映画」らしい非現実のファンタジーを盛り込みながらも、それなりにサスペンスも味わえ、楽しい気分にさせられる「気分の良くなる映画」ではあった。
 

2024-04-28(Sun)

 考えもしていなかったが、ゴールデンウィークが昨日から始まっていたのだった。今年のゴールデンウィークは4月30日、5月1日2日を休みにすれば「10連休」になるらしい。「毎日が休日」のわたしには、あまり関係はなく、「いつもの日曜日」だ。しかしこの日は気温が上がり、ついに東京では30℃を超える「真夏日」になった。ウチのあたりも暑くなり、室内にいても一瞬、「冷房を入れようか」などと思ってしまったのだった。

 日曜日の朝は、テレビで「さわやか自然百景」を見る。この朝は東京の多摩川の支流、浅川という地域から。流域に棲む野鳥たちがいっぱい登場したが、だいたいの鳥はこのあたりでも目にする鳥で、テレビにその姿が映されるとわたしだって瞬時にその名前がわかるのだった。1~2種、わたしの知らない野鳥も登場したが。

 暖かくなってきたから、ニェネントくんも抜け毛が増えてきて、あちこちニェネントくんの毛が散らばっているようになった。「ブラシをかけてあげよう」としたけれども、これがまるで毛がとれないのだった。まだニェネントくんが子ネコの頃から使っている古いブラシだし、いいかげん買い替えてあげようと、新しいのを註文するのだった。

     

 今日は午後から「何か映画を観よう」と、オードリー・ヘプバーンケイリー・グラント共演の『シャレード』を観た。有名な人気のある作品だけれども、わたしは今まで観たことがなかったのだ。
 ‥‥なるほど、これはとても面白かった。オードリー・ヘプバーンはどこまでも愛らしくもキュートだったが、考えてみたらわたしはオードリー・ヘプバーンの出ている映画というのは、『ローマの休日』ぐらいしか観ていないのだった。
 「もっとオードリー・ヘプバーンの映画を観たいなあ」と思って探してみたのだけれども、今サブスク配信されているのはその『ローマの休日』と、今観た『シャレード』しかないのだった。ちょっと前までは『ティファニーで朝食を』とか『マイ・フェア・レディ』とか観ることができたと思ったし、それにしても圧倒的に少ないのだな。

 夜は「ダーウィンが来た!」を見たが、この日は「ウグイス」の特集だった。
 わたしはしばらく前まで「ウグイス」と「メジロ」との区別がついていなくって、ウチの近所の梅の花が咲いたときその枝にメジロが来ているのを見て、羽根の色が「ウグイス色」っぽいし、花札の「梅に鶯」の札の記憶から、しっかりそれがウグイスだと思ったりもしていたのだ。
 ウグイスはその美しい鳴き声がよく知られているけれども、「ウグイス」そのものの姿はなかなか見られないのだという。「声はすれども姿は見えず」というヤツだ。

 この日の番組を見ると、ウグイスは竹やぶの中とかに巣をつくって子育てするみたいで、つまり竹やぶのあるところに出没するらしい。ウチの近くには竹やぶはないけれども、北のスーパーへ行く道ぞいに竹やぶはある。あそこにはウグイスがいるのかもしれない。
 番組では、近年は民家の近くでも巣づくりをしたりするようになっているという。でも、調べてみたらこの千葉県ではウグイスは「準絶滅危惧種」に指定されているのだった。それではウグイスの鳴き声を聴くのもむずかしいかもしれないな。

 「ダーウィンが来た!」も終わって、もう寝ようとベッドに行ってスマホのニュースを見たら、この日の長崎・島根・東京での衆議院補欠選挙の開票速報がもう出ていて、すべての選挙区で「立憲民主党」が勝利したとのことだった。
 前から「こういう結果になるだろう」とは言われていて、ニュースの見出しは「自民3敗」などと書かれていたが、わたし的には長崎3区で「立憲民主党」が「日本維新の会」の候補に勝ったこと、同じく<問題の>東京15区でも「日本維新の会」に議席を与えなかったことが喜ばしい。
 岸田自民党は「これで解散か?」という声と、「このありさまでは解散は出来ないだろう」という声とがあるみたいだ。この勢いで、一気に「総選挙」になだれ込んでいただきたい気もするが。
 というわけで、この日は本も読まずに寝てしまった。
 

『11の物語』(1970) パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳(1)

「かたつむり観察者」(The Snail-Watcher)

 食用かたつむりを観察し、飼育するようになったピーター・ノッパードの「悲劇」。
 ハイスミス自身がかたつむりの飼育を趣味としていたことはよく知られていて、英語版Wikipediaには、かつて彼女は「レタス1個とカタツムリ100匹が入った」「巨大なハンドバッグ」を持ってロンドンのカクテルパーティーに出席したこともあったと書かれていたが。
 この作品にも出てくる、かたつむりのセックスについては、わたしも「虫」のいっぱい出てくる映画『ミクロコスモス』のなかで紹介されていたのを観たことがある。
 ‥‥全身が粘膜ともいえるだろうかたつむり同士が、ぴったりとからだをくっつけ合って、ヌメヌメとお互いのからだのうえを愛撫するように這い回るわけで、粘膜=性感帯だという通念で解釈すれば、それはいかほどの快楽になるのだろうと想像すると、ほとんど気が遠くなりそうになった記憶がある。
 この短編も、そんなハイスミスの「かたつむり観察」の成果が書かれていることだろう。かたつむりのセックスの描写は、ハイスミスの観察したものの記録だろう。

 主人公のピーター・ノッパードはかたつむりを飼うようになってからは仕事の業績も上がるのだが、その後「かたつむりの繁殖力」におそれをなしてか、かたつむりを飼育する書斎に二週間も足を運ばなかった。そしてピーター・ノッパードが意を決して書斎に入ってみると‥‥。

 ハイスミスのいつもの長編とは異なり、これは「怪異譚」とも言えるものだろうけれども、ラストのピーター・ノッパードを襲う恐怖は、やはりハイスミスならではのものだろう。


「恋盗人」(The Birds Poised to Fly)

 主人公のドンは、しばらくのヨーロッパ滞在からニューヨークへ戻ってきた。帰ってきてから、ヨーロッパで付き合ったロザリンドのことが忘れられず、「愛しているから結婚してくれ」との手紙を出した。「ニューヨークへ来てほしいが、望むなら自分がヨーロッパへ行ってもいい」とも。
 それから毎日のように郵便受けをのぞくのだが、ロザリンドからの返事は来ない。「性急すぎたか」と思うこともあったし、「彼女も気もちの整理がつかないのだろう」などと好意的に考えるドン。

 そのうち、自分の住まいのとなりの部屋の郵便受けが郵便物であふれていることが気になり始める。どうやら隣人は部屋にずっと帰っていないのだろう。ついには「ロザリンドからの手紙は間違えてとなりの郵便受けに配達されたのではないか」と思うようになり、となりに届いた郵便物をチェックすることになる。その中に、女性から隣人に宛てられた手紙を見つけ、ドンはその手紙を開封して読んでしまう。
 そこには、「あなたと別れてからもあなたのことが忘れられない。もう一度会っていただくか、返事を書いてくれないだろうか」という内容だった。
 ドンがロザリンドに書いた手紙に似ていると思ったドンは、その女性が隣人から返事をもらえないことに同情し、なんと隣人の名前でその女性に手紙を出してしまい、近くの駅で会うことを約束してしまう。

 ドンの行為は、そこに自分のロザリンドへの思いの反映があるだろうが、「いたずら」ではすまされない、一線を越えた行為ではあるだろう。
 このあとどうなったかは書かないでおくけれども、ハイスミスならばこの発端から、充分にハイスミスらしいヤバい長編を書くこともできただろう。


「すっぽん」(The Terrapin)

 ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』の中で、この短編のことがちょっと語られて、なんだか有名になってしまった作品。というか、『PERFECT DAYS』のおかげで、この『11の物語』はずいぶんと売れたようだが。

 主人公のヴィクターは11歳。母親とふたり暮らしらしいが、母親がいつまでも自分のことを「子供」扱いすることにうんざりしている。いつもピチピチの短いズボンとひざ下までの長靴下を履かせ「フランスの6歳ぐらいの子供」みたいで、学校でもバカにされる。ヴィクターは実は母親に隠れて心理学の本を読んだりもするのだが、母親はいつまでもヴィクターにスティーヴンソンの『子供の詩の園』から暗誦をさせ、いつも人にはヴィクターのことを「まるでねんねなんですよ」などと言う。ヴィクターがつい「無念無想」などということばを使ってしまうと、「おまえ、頭がおかしいんじゃないの?」となる。要するに、まるで子供のことを理解しようとしない母親なのだ。

 ある日、母親が来客用のシチューをつくるために、生きたすっぽんを買ってくる。さいしょは自分のためにすっぽんを買ってくれたのかと思ったヴィクターだが、料理用と知ってがっかりする。「このすっぽん、友だちに見せにいってもいい?」と聞くのだが、もちろん「ダメ!」といわれる。そして、ヴィクターの目の前で、お湯を沸騰させた鍋の中にすっぽんを放り込むのだった。鍋の中のすっぽんは口を開け、いっしゅんヴィクターをまっすぐに見て、熱湯の中に沈んでいった。
 ヴィクターは「あんな殺し方しなくっていいじゃないか」と言うのだが、母親は「知らないの? こうすれば痛くないのよ」と言う。母親は反抗したヴィクターの頬をしたたかに叩いたのだった。
 すっぽんの死ぬさまを思い出したヴィクターは涙を流し、そしてある行為を決意するのだった‥‥。

 この前に読んだ『死者と踊るリプリー』でも、リプリーがロブスターを熱湯に入れる場面を見たがらないという描写も出てきたし、ハイスミス自身、こういう「熱湯で生き物を殺す」ということをヘイトしていたのだろう(何年か前、スイスではロブスターなどの甲殻類を生きたまま熱湯でゆでる調理法がじっさいに禁止された)。

 ヴィクターにとって、「すっぽん」がすべての理由ではなく、ただ「きっかけ」にすぎなかっただろう。
 単に「じっさいの暴力行為」でなくっても、「子供のことを理解しない親」というのは、充分に「DV」をはたらいていると言えるだろう。
 「ヴィクター」の中に「自分」をみる子供という存在は、今でもけっこういることだろう。
 

『生きる LIVING』(2022) オリヴァー・ハーマナス:監督 カズオ・イシグロ:脚本

 ちょうどこの1月に、テレビで黒澤明監督の『生きる』を観たばかりだったので、どうしてもこの『生きる LIVING』を比べてみたくなってしまうのだが、わたしは早くも1月に観た『生きる』のことを忘れかけてもいる。

 物語の進行は、この『生きる LIVING』はあくまでもオリジナル『生きる』に忠実だったと思う。そして主演のビル・ナイの演技も素晴らしいのだけれども、その身のこなしや、特に声の出し方に、オリジナルの志村喬の演技をしっかり研究したのだろうな、とは想像がついた。

 1953年のイギリスが舞台になり、冒頭の映像は特にテクニカラーっぽく原色、陰影が強調されていたようで、まさに時代を感じさせられる(2階建ての赤いバスが走っていたのでそう感じたのか?)。
 イギリスらしくもなく、列車通勤の模様から本編が始まって、その車中で同じ市役所の市民課の連中が会話しているけれども、彼らは市役所に着いて自分の席に座ってしまうと、もう列車の中での人間性は押し殺してしまう。それはこの映画の主人公で、市民課の課長であるロドニー・ウィリアムズ(ビル・ナイ)のかもし出す空気のせいなのだろうか、それとも「市役所」という空間がそこで働く人たちを圧迫するのだろうか。
 市民課には「汚れた空き地を公園にしてくれ」と、主婦たちが陳情に来るけれども、まさにロドニーの対応は「たらい回し」で、他の課へ彼女らを行かせる。市役所はどこの課も似たようなものらしく、また「たらい回し」された主婦らは再び市民課に戻ってくる。けっきょくロドニーはその陳情書を「未決」の棚に放り込むのだ。

 あるとき、市役所を早退して病院へ行ったロドニーは、そこで自分が「末期ガン」であり、余命半年、長くて9ヶ月だと聞かされる(ここはオリジナルでは医師が真実を隠し、主人公が疑って真実を知るという展開になる。イギリスの医師は「正直」なのか)。
 ここで映画はロドニーが「がぁ~ん!」(つまらないダジャレだ)とショックを受けるさまなどは描かず、ただ翌日から市役所を無断欠勤する、ということで彼の「動揺」をあらわすわけだ。
 ロドニーは出勤せずに、海辺の保養地に足を運んでいるわけだけれども、そこで戯曲作家と出会い、「金はあるから」と夜の遊びに案内してもらう。
 ロドニーは「死」を前にして、自分が追い求めるべきは「快楽」だと思ったのだろうが、彼の心は満たされなかった。しかしロドニーが、「死」が目の前にある今、「わたしは何を求め、何をすればいいのか」と思っていることはわかる。

 ロドニーは同居する息子夫婦にも自分が「末期ガン」だと伝えたいが、そもそも精神的には疎遠な息子夫婦との意思疎通がむずかしく、言い出せない。
 そんなとき、ロドニーは街で、「市役所を辞める」と聞いていたマーガレットという若い女性と会い、彼女と食事を共にする。
 マーガレットの、生き生きと明るく前向きな姿を見て、「彼女と一緒にいれば癒され、楽しい思いをする」自分を発見する。何度もマーガレットと会い、一緒に映画を観に行ったりもするロドニーは、ついにマーガレットには「自分は末期ガンなのだ」と告白し、「マーガレットのように生きたい」と語る。
 そのとき、ロドニーはある意味「生まれ変わった」のだ(オリジナルでは、ここで偶然を装って「ハッピー・バースデイ」が歌われるのだが)。

 オリジナルでは143分あった上映時間は、この『生きる LIVING』では102分と、30パーセント短くなっている。これは「後発の強み」というか、けっこう大胆に「不要」と思えたシーンをカットしているわけだ。
 この作品は「死を目前とした男が<生きる意味>を探し求め、自分の今までの仕事への立ち向かい方を変えることで<生きる意味>を見つける」ということを、どこまでストレートに描けるか、ということに一直線に向かっているようだ。
 ただ、ラストに「完成された公園のブランコにいたロドニー」を最後に目撃した警官が登場するが、これはオリジナルにはなかったシーンだったろうか(オリジナルでは葬儀の場に警官が来ていたっけ?)。さいごに「探し求めたものを見つけ、それを達成した」ロドニーの姿を観る人に印象づける、いいシーンだったと思う。

 さいごに、ロドニー・ウィリアムズの歌ったスコットランドのバラッド、「The Rowan Tree」を。