ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第9講:存在の連鎖の時間化 (これで全部終わり!)

はいはい、ちょっとだけ残すのもいやだったので、やってしまいましたよ。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』全訳 (pdf、3.3MB)

これまでずっと続けてきたラヴジョイ、これで注も含めて全訳あげました。詩とか、長々しい引用とかはあまりに面倒なので訳しておりませんが、詩は苦労してそれっぽく訳したところで、何か追加でわかるわけではないし、引用部分も決して追加情報があるわけではない。文中でラヴジョイが語ったことの裏付けでしかないので、まあ許しなさい。

cruel.hatenablog.com

これで一通り訳し終わったが、もちろん内部利用用なのでみなさん勝手に読んではいけませんよ。

9章:存在の連鎖の時間化

さて残っていた第9章は、存在の大いなる連鎖の時間化、というもの。ここはそれなりにおもしろい。が、テーマは簡単。静的な存在の連鎖/充満の原理は、ライプニッツ&スピノザの章で見たように、決定論的な世界像につながらざるを得ないし、18世紀の科学的な成果とも折り合いがつかなかった。そこで、それを時間化しようという試みが生まれ、進化論的な発想がきわめて強固に出てきた。

人間になり損なった失敗作 (というロビネーの想像)

これを各種論者がどのように論じたか、そしてそれがいろいろ変な発想を生み出したか、という話がまとめられている。

これまでの存在の連鎖

  • これまでの存在の連鎖は、とにかく天地創造で神様が完璧にすべてをつくった、というのが基本。
  • その産物(この世) は、完璧な神様が作るはずだから、可能なものはすべて詰め込んだ (=充満した) 完璧なもののはず!
  • そして神様は出し惜しみしないから、この世は創造時点で完璧で最善のはず! 変化の余地はない!

静的な存在の連鎖批判

  • でも実際はこの世は変化するし、すでに最善なら善行積んで頑張る意味もないじゃん!
  • 無限なら、どの二つの位階の間にもさらに無限の位階が存在することになるし、それらは明らかに埋まってないよ!とヴォルテールやサミュエル・ジョンソンは批判。

存在の連鎖の時間化

  • 最初はそこそこのできで、そこからあらゆるものが善行を積んで改善するってことにしよう!
  • 存在の位階をみんながんばって上っていって、ますますよくなるけど決してパーフェクトにはならないことにしよう!
  • これは宇宙も生物種も個人も同じで、みんな改善するんだ!

  • これは存在の連鎖の時間化。進化主義的な捉え方でもある。

  • だが、一方でその根本的な基盤の大きな部分(神様は最善とか完全とか) は否定せざるを得なくなった。
  • ライプニッツとかは、完全な決定論的宇宙を唱えつつ、この進化主義も採用し、両者の矛盾には目を閉ざした。

時間化に伴う変な発想

  • さらに存在の位階があるなら、上下関係を決める基準があるはずだ。
  • 存在の位階を上がれるなら、上がるための高い本質が卑しい存在にもあったはず。
  • さらに生物/無生物とか、理性あり/なしという二元論は、間に何もあり得ない。するとそこに断絶が生じて充満できない!
  • 存在の位階を上がれるなら、上がるための高い本質が卑しい存在にもあったはず。
  • つまり万物には共通の特性/本質がある! あらゆるものは、一つのプロトタイプの無限変形なんだ!
  • 天地創造でそのもとになる「胚」が万物について存在し、その発動に時間差があることで発展が生じる!
  • これはライプニッツのモナドロジーともからみあい、またロビネーの変な生物学の基礎にもなった。

Sea Monk. ロビネーが信じていた、海にいる人間もどき

話はだいたいこんなところ。

パワポは後でまた作るかもしれないけれど、上に書いた話を詳しくしたものにとどまります。

全体を通じての感想……はまたこんど。

また今度とはいうものの、こうして全部読んでみると、ラヴジョイについていろいろウェブなどで書かれていることはすべて、かなり怪しげで、まともなことを言っている人がほぼいなかったのには、かなり驚いた。

ラヴジョイが、存在の連鎖という発想がシェリングとベルクソンによって終わった、とかベルクソンを存在の連鎖の再興者として見ていないとかいう話をツイッターで見つけたが、シェリングの批判は基本的には、いろんな人が言っていた批判の繰り返し。まあ最後っ屁ではあるが、彼が終わらせたわけではない。そしてベルクソンは存在の連鎖を終わらせるどころか、とっくに終わった存在の連鎖を蒸し返しているだけ、というのが本書の指摘ではある。自分がなんか気に入ったものを、中身を歪めてまでつなげるのが哲学研究ではないとおもうんだよね。

本書の、ライプニッツもカントも、スピノザもデカルトも、パスカルもあれもこれも、この存在の連鎖に関わる各種の議論に関する限り、涙ぐましいほどバカなこじつけをしているにすぎない、という非常に冷酷な視点については以前も書いた通り。

cruel.hatenablog.com

その一方で、とっくに忘れられたロビネーみたいな論者でも、その議論を必死で進めた人々にはとても好意的 (バカにしつつも)。そこらへんのフェアさは大したもの。

でもこの本について何か言おうとする人は、そういう健全な批判精神がなくて、ずいぶん本書の主題をありがたがっているのは不思議。まあ哲学に興味を持つ人の抱える大きな問題——支離滅裂な理解不能の話を、理解不能であるが故にありがたがる不健全な精神——については、本書の第1章ですでに批判されている話ではある。

 

本書でしばしば問題にされている、なぜ西洋はこの変な異世界性とこの世性の明らかな矛盾をさっさと捨てず、東洋宗教的な唯幻論だの唯識だのに走って自閉せず、その矛盾をずっと先送りにしてこじつけを試み続けたのか、という点はおもしろいので、何か答があるなら知りたい気はする。そして、それが生み出した各種の副作用——科学とか——との関係は、すでにいろんな研究はされている模様ではある。

まあこんど、9章のパワポと同時に、本書全体をまとめたパワポも作ろうか。

ラヴジョイとマッカーシー『ステラ・マリス』:異世界性とこの世性

先日からずっと、ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の勝手な翻訳とまとめをやっているのはご存じのとおり。

cruel.hatenablog.com

残った一つの章は、とっても大事なんだけれど長いので、仕上がるのはかなり先になるとは思う。が、それとは別の余談。

先日、コーマック・マッカーシー遺作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』邦訳が出た。

ステラ・マリス 通り過ぎゆく者 

で、決してわかりやすい本ではないので、ほとんどの人はたぶんチンプンカンプンだと思う。これまでに出てきた感想を見ても、読点のない乾いた文体と残酷な世界が〜、原爆が〜、みたいな訳者あとがきの反芻みたいな感想文ばかりで、あんまりおもしろい書評は見ていない。これは別に日本だけではなく英語のレビューとかでも同様。

たぶんこのままだと、みんな敬遠してだれも何もきちんとしたことを言わないままになっちまうといやだな、と思ったんだ。昔、朝日新聞の書評委員だった頃、気楽に読めて書きやすい本だと、書評もみんな気楽に書くんだけど、重要な本、面倒な本となるとみんな敬遠して流れてしまいそうになり、宮崎哲弥が「これに書評委員会としてコメントしなくていいのか!」と怒って、じゃあやりましょうと山形が引き受けるようなことが何度かあった (そういや、なんでぼくばっかが引き受けたんだっけ。なんで宮崎さんが自分でやんなかったんだっけ)。だから、だれか何か言っておくべきだと思ったので、山形月報のほうでかなり詳しく触れたんだ。

yamagatacakes.hatenablog.com

そこでの議論の基本的なところは、天才妹の数学的世界観というのは純粋観念の世界で、物理学者だった兄の世界観は物質的なこの世が前提となっていて、そして両者はものすごく深く関連しあい、求めあっているんだけれど、最後の最後で相容れないんだ、というもの。「この世とは何か、それと人間の関係とは」というのを追求していたマッカーシーが、20世紀初頭にそれを任された数学/自然科学における世界観と自分の探究をつなげようとした作品で、必ずしも成功作とはいえず、咀嚼不足であまりに材料がむき出しだけれど、野心的な作品だよ、というのがこの書評のあらすじ。

そして考えて見ると、これって実はラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』のテーマとまったく同じなのだ。

 

西洋哲学/神学は、プラトン以来ずっと、神様は完璧で自分で完全に完結している至高のイデア、この世の出来損ないの連中なんかとは無縁で、人間なんかそれを見ただけで目が潰れます、という「異世界性」の観念の神様と、でもなぜだかわかんないけど、こんなろくでもないダメな世界でも作った、この世と切り離せない存在という「この世性」の神様を併存させてきた。そしてその両者でなんとか折り合いをつけようとして、ずっと屁理屈をこねたけれど (ダメな世界でも作ってくれるほどすごいのか、ダメな部分も全体の善の総和を最大化するためには必須なので実は善なのか、神がダメな世界しか作れない無能なのか云々)、二千年かけてそれがついに破綻しました。というのが『存在の大いなる連鎖』の主題だ。

cruel.hatenablog.com

そして、これと『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』の対応は明らかだと思う。

妹の数学的観念世界は、『ステラ・マリス』の中でまさにプラトン的観念の世界とか言われている。完全に人間もこの世とも独立に存在する「異世界性」だ。

一方、兄は(元) 物理学者なので、この世と無関係の観念世界というのは容認できない。物理学は、この世に基づき実証できなきゃいけない。兄はこの世性を代表する存在だ。でも、数学的世界観とは切り離せない。物理学はますます数学の抽象観念的な入り込んでいる。ヒッグス粒子以上のものなんて、実証できないじゃん、数学のお遊びじゃん、という悪口がずっとつきまとっている。

それは、彼と妹の関係でもある。そして二人は強い絆を持ちつつ一線を兄が拒否し、妹が死に、そしてその後兄がその妹の世界に次第にとらわれる……

  その図式があまりに露骨なのが、この二部作の欠点であり、さっき「咀嚼不足」と書いた所以ではある。が、それでも個人的には、たまたま手に取っていた、ラヴジョイとマッカーシーという二つのものが、こうやって交錯したのがおもしろいなと思うし、ひょっとしたらマッカーシーも数学/物理以上の構想を持っていたのかも、と考えたりすると、ちょっと楽しくはある。小説としてもっと咀嚼しようとしたら、主人公をもう少し、マッカーシーらしい素朴な人間にして、それが存在の大いなる連鎖の通俗版をなんとなく口走り〜みたいな展開もあったのかな、とかね。が、それは妄想の域に入る。

この話は、山形月報のほうにも加筆したけれど、別建てでも書いておくべえと思ってここに書いた次第。もちろんこれが絶対正しいわけじゃない。ひょっとすると、ラヴジョイを訳していたので、その考え方にひきずられてこういう読み方をしてしまった可能性はある。小説なんていろいろ読み方はあるんだし。が、まったくピントはずれではないと思うよ。

追記:ふと思ったんだが、ぼくがここで書いていることはそこそこ高度で、この作品について書こうと思った人はこれを見てかえってビビって、むしろ敬遠される結果になるのでは、という気もする。こんな、変な科学数学哲学おたくみたいなネタに惹きつけない健全な読みがあるぜ、という確信のある人もいると思うんだけどねー。一方で、ほとんどの人はそこまで明確なイメージを持って読んでいないだろうという気もする。そういう読者だと「あー、そんなクソむずかしい本でございましたか、うかつなことは言えないな」みたいに思っちゃうのでは、とも思う。が、まあそういうふうになっても仕方ないとは思う。

付記:

本書を読んで、『ステラ・マリス』では兄は死んでいる/臨死状態じゃないか、という説が出ていた。冒頭部分 (p.15) で兄が自動車事故で頭を打ってもう2ヶ月も昏睡状態だ、というのが出てくるから、ということのようだ。それ自体は正しいんだけれど、

  • 妹がステラマリスに入院
  • その後退院して兄とヨーロッパへ
  • 兄の事故で戻って再入院 (これが『ステラマリス』の話)
  • 『通り過ぎゆく者』冒頭
  • その後兄が覚醒してダイバーに
  • 不思議な事件が起きて兄は妹と自分の足取りをたどる(『通り過ぎゆく者』の話)

というタイムラインをたどっているだけで、『通り過ぎゆく者』が昏睡状態の妄想だとか、この二作がパラレルワールドだ、みたいな解釈に走る必要はないと思う (マッカーシーはそういうのやらないし)

  

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第7講:18世紀楽天主義

ラヴジョイ、短い章なのですぐ終わってしまいました。

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ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』(山形浩生訳)

楽天主義というと、ヴォルテール『カンディード』に出てくるパングロス博士の、「物事はすべて現状通り以外の形ではありえなかった」「現状はすべて最高よ、悪いことがあってもそれも含めて、現状が最高なのよ」というおめでたい論者のように思える。

なんかの芝居で演じられたパングロス博士。

そして、その通りなのだ。楽天主義はまさにそういう議論。

ただしそれは別に、その人たちが陽気で楽天的だったということではない。神は善で、善を最大化するように行動するから、現在以上に善の多い世界はあり得ない、という結論が先にあって、よって現状以外はあり得ず、悪いことも善を最大化するものだ、という議論。一歩まちがえれば、(いやまちがえなくても)「もう世の中どうしようもないよ、改善の余地はまったくないよ」という悲観論とまったく同じ。

そして、そのために存在の連鎖や充満の原理がどう出てくるかといえば、こう、人が争ったりライオンが獲物を獲ったりしないようにすればもっと優しい世界になりそうだと思うでしょ? でもそうなったら、ライオンや人の本質が変わってしまい、現在のライオンや人間が占める存在の連鎖の中の場が空いちゃうよね? すると存在の連鎖が切れちゃうよね?そうならないためにも、オメーら現状で満足してなさい、という話。

天地創造のことばかり考えるため、彼らにとっての「善」というのは、とにかく世の中をできる限り充満させることになってしまい、普通の人の考える善とはかけはなれたもの。そして世の中に悪が存在するのも、それをなくそうとすると、合成の誤謬で全体としての善 (つまり命や個体数や種の総数) が減っちゃうので、だからそれと戦うのは無駄どころか有害、と言い出す。

そんなふうに悪が正当化されると、普通の人が考える神様とか、人間の普通の意味での善行とか、幸福とか美徳とかはまったく意味がなくなってしまい、この楽天主義者たちの議論はどんどん異様になっていった、とのお話。

ヴォルテールはもちろん、パングロス博士をボケ役で登場させるだけあって、この楽天主義者たちをバカにしまくる。そして、まさにそのバカにされた通りの存在でした、という話。

本当に、ここに書いただけの内容なので、パワポは作りません。さて、あと残り1章になっちゃった。ここまできたら、いずれやっちゃいますわ。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第5講:ライプニッツ&スピノザ

ラヴジョイ、ちょろちょろ続いております。

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で、第5章にやってきました。この章はライプニッツとスピノザという大物が登場するのでなんかすごい哲学的な大バトルが出て、存在の大いなる連鎖という思想そのものに関わる話になるんじゃないかなー、と期待していたら、意外につまんなくてちょっとがっかり。

(ライプニッツとスピノザ)

まあ、まずは訳を読んで下さい。もう章ごとに切るのは面倒だからやめた。全文あげておくから読んでね。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』(山形浩生訳)

パワポも一応つくりました。

しかしこれは、パワポ見るまでもなく実はかなり中身はシンプルです。この章の基本的な話は次の通り。

  1. ライプニッツは、充満の原理から、宇宙の万物は理由があって必然的存在するという「充分理由の原理」というのを編みだした。

  2. 理由があって必然ということは、偶然は存在しないということなので、これは宇宙決定論に等しい。

  3. これはスピノザの決定論的宇宙とまったく同じ。

  4. ライプニッツはそれを否定しようといろいろ屁理屈をこねたが、無駄。

最後の3分のは、その屁理屈をあれやこれやと解説しただけの話となっている。たとえばこんな具合:

実際に神が行った選択は最善のものである (そうでないと、神が二流のことをやったことになって、神は最高じゃないか、悪意あるかのどっちかってことになるから)

もちろん神はそうでない選択もできるし、それを心の中で考えることもできたので、その選択、ひいてはその総和である宇宙が必然だとはいえない。決定論じゃないぜ!

しかし神は最善の選択をするから、その選択が行われるのは確実だったのである

わっはっは。ラヴジョイも「ライプニッツさん、じぶんでも屁理屈だってわかってますよねえ」とツッコミを入れている。苦しい議論をニヤニヤして眺めるのは、おもしろいといえばおもしろいが、何のためにそんなことをするかと言われると……ぼくが嫌味なヤツだから、としか言えないねえ。

でも結局この手の話というのは、いまの自由意志の話とほとんど同じ。つい昨日、デネット他界の報が流れてきたけれど (合掌)、そのデネットの本では、「他の選択肢はあったのか」(たとえば、あのときアップル株を買っておけば……みたいな) という意味での自由意志の有無について、いやそれは頭の中でシミュレーションして、そのときの条件下で最善のものとして自ら選んだ結果なんだから、それ以外の選択肢はなかったのである、でも自由意志はそのシミュレーションとして存在したのだ、というような議論をしていて、苦しいなとおもったんだけれど、構造としてはまったく同じ。

ちなみに翻訳、というか翻訳協力したこの本は、その自由意志について非常におもしろい話をしている。

意志というか各種の判断力というのは、トップダウンの動きとボトムアップの動きとが一致しないときの調整役として生じるのだ、というのがこの結論。そしてその中で、その判断というのは決定論的カオスになっているので、決まっている=自由意志はないんだけれど、でもそれが何かを事前に知ることはできない、という結論になっている。

決まってるんだけれど、どう決まっているかはわからないので、自分の運命はよいほうに(=天国に行けるように) 決まっているかのようにふるまい最善をつくすべき、という話は、カルヴァン派の議論みたいで、まあ似たようなことを昔から考えてるのね、という感じはある。

 

あとこの章では、ライプニッツとスピノザの哲学についてざっとおさらいしてくれるのを期待していたんだが、もちろんそういうサービスはありませんですね。「当然知ってるよね!」で流されてしまう。昔の学生はちゃんと勉強してましたからね。

その付け焼き刃でウィキペディアのスピノザの項を見たんだが、要するに完全決定論的宇宙を説いたので、それは神の意志がまったくないという話で、無神論も同然じゃないか、ということで異端だとされて、ものすごく弾圧されたとのこと。で、そこではスピノザのお墓はないことになっている。「遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。 」

ja.wikipedia.org

これを読んで、ぼくは??? と思った。というのもぼくのいまいるところの近所に、そのスピノザのお墓があるからだ。場所はデン・ハーグのNieuwe Kerk (新教会)だ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/17/Nieuwe_Kerk%2C_The_Hague_%28DSCF1312%29.tif/lossy-page1-1920px-Nieuwe_Kerk%2C_The_Hague_%28DSCF1312%29.tif.jpg
Niuewe Kerk@ Den Haag by Wikimedia
スピノザのお墓/記念碑。撮影山形浩生 CC-BY 4.0

気になって説明を読んだところ、なんでも1回教会内の集団墓地に埋葬されたんだけれど、その後異端とされ、その墓が暴かれてしまい、遺骨は教会の庭にまかれた、とのこと。だから上の「お墓」は、厳密には教会の庭の祈念碑だけど、この教会の庭すべてがスピノザのお墓、という解釈をする人もいる。

スピノザに対する迫害はとにかくひどかったらしくて、お墓をあばかれるばかりか、擁護者の友人がオランダ人信徒のリンチにあって殺されたりするくらい壮絶だった。ライプニッツが、スピノザの思想と同じだと言われたがらなかったのは、学者としてあんなヤツといっしょにすんな、おいらのオリジナリティこそ偉大だ、という自負のせいなのか、それとも墓を掘り起こされるほど毛嫌いされた異端哲学者と同じだと思われたら我が身がヤバいという保身の産物なのかは、興味あるところ。まあ両方なんだろうね。

ちなみに、ライプニッツは1回スピノザに会いにきているのだけれど、ウマがあわなかったとのこと。

さて、この本もあと2章か。しかもうち第7章はえらく短いから、そのうち終わるでしょう。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第6講:18世紀の人間の立ち位置

はい、ラヴジョイの続き。

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今回は、18世紀に、存在の大いなる連鎖が流行って、それが人間の立ち位置についての考え方に影響し、格差社会の弁明まで出てきました、という話。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第6講:18世紀の人間の立ち位置

比較的中身は薄いというか、言われていることはそんなに意外ではなく、ああ、こういう考え方も出てくるかねえ。というもの。全体として、存在の位階があってそれが重要なんだから、人間は自分が特別と思うな、自分のポジションだけ守ってろ、改善しようとするな、という現状肯定イデオロギーが出てきた、ということになる。それぞれについて、いろんな詩人や評論家があれこれ言っているのを引用するけれど、ざっと見ておけばいい感じ。それが18世紀社会の維持に決定的な影響を持っていた、という感じではない。

ただ、ラブジョイが社会格差正当化と努力しない議論を嫌っていたことはわかる。かなりこれらの議論についてのコメントは手厳しい (注も含め)。

それと、これは第二次大戦前だけれど、この章のような、人間を貶める発想とは逆の変な人間の傲りを煽るような発想が出てきていることへの懸念は、ロマン主義の章と同じくここでも出ている。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第10講:ロマン主義と充満の原理

ラヴジョイの続きです。

cruel.hatenablog.com

最後の第11講では、この存在の連鎖とか充満の原理、さらにその元になっている神様の異世界性とこの世性の両立が不可能だというのがあらわになって、それが一気に忘れ去られる様子が述べられていた。

cruel.hatenablog.com

今回の第10講は、その一つ手前ということで、その解体の先触れみたいなのがロマン主義として出てきたか、あるいはこの世性みたいなのが嫌われて、全然別の世界を夢想する異世界性指向みたいなのがロマン主義になったとかいう話かなー、と思っていた。

結果で言うと、ぜんぜんちがった。むしろ、存在の連鎖と充満性を強調するような働きが、18世紀ロマン主義として出てきた、というのが主旨となる。まずはお読みあれ (ってきみたち読まないのは知ってるけど)。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第10講:ロマン主義と充満の原理

啓蒙主義は、充満の原理からすべてを満たす原理がある、という信念を得て、普遍性、一般性を重視することで思考の広がりを獲得した。でも、それが硬直して、一般性がないものは全部だめ、個別性なんか無視、という硬直した考えに成りはてた。それは、シェイクスピアもゴシック建築も否定し、古いものだけが (時代を超えた一般性をもつから) よい、とするような不毛な思想になってしまった。

それに対して、神様はいろんなものを創る多様性が信条だろ、同じモノをコピーして複製してるだけじゃないよね、だから人間だって多様性を重視すべきだし、そこで神様が重視している個別性を大事にしようぜ、という発想になった。それがロマン主義の基本となる、というのが主旨となる。

詳しくはパワポのまとめを参照。

 

ロマン主義とは何か、という話については、通り一遍の解説しかないし、登場する哲学者や作家については、当然知っているものとして話が展開する。ふつうは、こういう解説では「ロマン主義とはご存じの通り〜」とか「ノヴァーリスは『青い花』などで知られたXXXを特長とする作家なのはご承知でしょうが」と、知らない人のためにサービス説明が入るけど、そういうの一切なし。これは頑張って付け焼き刃してください。ぼくも実はノヴァーリスとハイネちょっと読んだくらいでほとんど明確なイメージはない。

ここの見所は、ラヴジョイがこのロマン主義的な動き——というかそれが現代にもたらした影響——について抱いている、すごくアンビバレントな気分。彼は、ロマン主義によって多様性が評価され、それが文化や思想の大きな広がりをもたらしたことについては、ものすごく評価している。その一方で、それが安易な個別性を賞賛してしまったことで、愚にもつかないナルシストどものくだらない作品と称するゴミクズが量産されるようになったことも、非常に苦々しく思っている。

しかしそれはまた (この点ではもう一つのロマン主義的傾向とはまさに正反対で) 大量の、病的で不毛な内省を文学で生み出しました——個人のエゴの奇矯ぶりの退屈なひけらかしで、そうした奇矯さはしばしば、いまや悪名高いことですが、単に通常の習慣を裏返しにしただけのイタイ代物です。というのも人間は自分でそう思うだけでは、自然が作ってくれたよりも独創的になったり「ユニーク」になったりはできないからです。

そしてまた、それが非常にいやな社会政治的な傾向の温床となっていることも彼は指摘する。

それはあまりに安易に、人のうぬぼれに利用されてしまい、特に——政治と社会の面では——ナショナリズムや人種主義といった種類の集合的な虚栄に使われてしまうのです。自分の異質性の神聖さについての信念——特にそれが集団の異質性であり、したがって相互のお世辞で維持され強化されるものなら——それはすぐに、その優越性の信念に変換されてしまうのです。

ナショナリズムとかレイシズムとかは、しばしば多様性を否定するものだというような言われ方をする。でもそれが、安易な多様性や個別性賛美と同根だ、という指摘には、たぶん重要なものがあるとは思う。それが多様性と創造性を重視し、イノベーション万歳という思想の根底にある、というのもポイント。ここから現在への示唆をいろいろ読み取ることもできるとは思う。そしてそれ以前の、啓蒙主義の硬直化の話における、一般性や普遍性を求める思想が、世界の広がりをもたらすこともできる一方で教条化するとドグマとして抑圧的になり、貧困さをもたらす、というのも戒めとして非常に重要。

そして、ラヴジョイが途中で思わず吐露してしまう結論——こういう学者や詩人たちの、ナントカ主義とか普遍論とか多様性とか、それに依拠しようとすること自体がまちがっていて、人生は基本はごちゃごちゃしていて、その都度バランスをとりつつ中道を行くのが大事なんだ、という話とかは、ちょっと感動的ではある。

人生のデリケートで困難な技芸は、それぞれの新しい体験の曲がり角で、両極端の間でvia media [中間をとる] ことです——普遍的でありつつも没個性にならないこと;基準をもってそれを適用すること;一方ではそれがもたらす鈍感化、麻痺化の影響や、具体的な状況の多様性およびそれまで認識されていない価値に対する盲目化の傾向に対し警戒を続けること;容認すべきとき、受け入れるべきとき、戦うべきときをわきまえることなのです。そしてこの技芸においては、固定した包括的なルールなど定められないので、まちがいなく私たちが完成を見ることなどないのです。

あと、最後のウィリアム・ジェイムズに対する、チクチク嫌味を交えつつつも敬意を払っている部分の、大人な感じはいいなあ。というわけで、全体に非常に示唆的な章だとは思う。

しかしこれですぐに最終講に移るということは、この存在の連鎖とか、異世界性/この世性の対立というのは、なんか次第に崩壊していったわけではなく、ずっと抱えていた同じ矛盾があって、その行ったり来たりを二千年繰り返していただけで、それが19世紀になっていきなり「もうやめー、この矛盾は解消できないから丸ごと捨てるぜ」という話で一気に忘れられた、ということだわな。何か決定的な契機があったわけではない。ここらへん、その捨てられた経緯の話というのはなくて、いわば西洋世界がそれに飽きた、という話になっているわけか。うーん。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第3講:中世の内部紛争

またラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の続きです。第3講。第2講で異世界性とこの世性/存在の連鎖の発端を説明し、4講でそれが天文学でいろいろ応用されたので、その二つの間の中世の話で、何かその天文学の前段にあたるひねりがあるかも、というのが期待だった。

cruel.hatenablog.com

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が、残念ながらそんなおもしろい章ではなかった。第2章で説明された、人間には及びもつかない自足した完全な神様という話(異世界性) が中世神学の基本教義だったんだけれど、じゃあなぜこの世はこんなダメなの、もっといい世界を神様は作れなかったの、神様無能やーいやーい、という批判に対して、「そんなことないやい、この世は最高の完璧なんだい!」という話をこじつけるには、充満の原理を持ち出さざるを得なくなり、トマス・アクィナスなどえらい人も右往左往して屁理屈こねてた、という話。

訳文は以下にあります。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第3講:中世における充満の原理と内部紛争

例によって、パワポも作っておきました。中身は薄いんだけれど、これはこの章がつまらないせい。えらい神学者たちの屁理屈と言い逃れを見たりするのは、楽しいとはいえ、毎回話は同じなんで飽きる。ラヴジョイもネタがなくなったようで、途中からはずっと後世の詩人や神学者の発言の話ばかりしている。

そこにも書いたけれど、最後にさりげなく出てくる、なぜ中世キリスト教神学はこんな露骨な矛盾を放置したのか、というのはおもしろい問題ではある。ある意味でそれこそが、科学の発展などの後押しにもなったわけで、それを怪我の功名とすることもできるし、もっと強い主張をすればヴェーバー『プロ倫』みたいな話もできるんじゃないか。「現代科学と充満の原理」みたいな。

ただ、最終講の話でも書いたけれど、ラヴジョイはそこらへん、非常に禁欲的。充満の原理自体は破綻したもので、それが科学の後押しになったのは、あくまで副作用にすぎない、というのを強く述べている。

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そこらへんは、なんでもうわっつらの類似やつながりを見て喜んでる人たち (ぼくもそうだが、でももっと慎重であるべき学者どもの中にもこの手の連中はいろいろいる) が反省すべきところではある。