野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

郊外の昼飯プロブレム

最近、平日昼時の郊外のファミレスに訪れた時に、あまりに混みあっていて驚いてしまった。

 

二軒訪ねて、二軒とも満席でレジ前で人が待ってる。数週間後にも同じような目にあった。

 

そもそも個人店が好きなので、知ってる店を巡ったところ、二軒の個人店が閉店していたので、しかたなくファミレスに向かったのだが、上のような状況。

 

はて数年前はこの地域で、こんなに混んでいたかなと思った。

 

*

 

たったこれだけの体験からだけど、もしかして多くの小さな飲食店がコロナ不況、もしくはコロナ後の色々で閉店してしまったのか。

 

いやコロナだけではなく、個人や中小零細の事業はこの30年、ずっと向かい風の中だった。

 

その上、インボイスだの電子帳簿保存法など、小面倒くさい規制が次々やってくる。閉店しても当然である。

 

もしかしたら平日昼にしてこのファミレスの混雑状況は、その余波なのではないかと妄想する。

 

*

 

ネット上には「家賃を払っていない味」などという嫌な言葉がある。昔から続いている飲食店は店舗の償却が終わり、不動産経費を価格に転嫁しないで済むので、安くておいしい食べ物が出せるが、しかしそれは採算度外視で競争の平等性を欠いているという考え方だ。

 

togetter.com

小さな個人店が家族経営で長年かけて、不動産の借金を返し、その分を安さと美味しさとして客にサービスをすることの何が悪いのか理解できない。そこまで見越して、これまで採算を取ってきたのだ。

 

これが会社組織ならどうだろう。自社ビルを建て借金を返し、テナント料をセーブすることで高いサービスを提供するとしたら、長期的視野のビジネスモデルとして褒められるのではないだろうか。

 

個人店だから下に見ているような気がして、気持ちが悪い。批判を書いている人間たちの中で、数十年にわたり経営をしたことがあるのはどれくらいいるだろうか。

 

*

 

そういう個人店が軒並み消えて結果、大資本のファミレスに集中しているのではないだろうか。

 

*

 

はてなには小さな事業に厳しい人間が多い。

 

el-bronco.hatenablog.com

 

しかし小さい店であっても、選択肢が減れば需給の関係から、客側がサービスを受けづらくなることもあり得る。サービス側が優位にもなりえる。だからこそ、小さな事業を育てるようにしなければならない。

 

今後は人口が今以上に減少し、サービス提供者の数は減っていく。大事にしないと自分が不便になっていく。

 

 

 

なんでブコメは中小零細に厳しいのかね

普段割とリベラル寄りの意見の強く見える(主観)はてブにおいて、なぜ中小零細事業者に対しては苛烈な自己責任論が多数派になるのか興味深い。

 

なぜだろうか。

 

自分の財布や利便性を握られたらイチコロなのだろうか。

 

とにかく経営側というものは中小零細であろうと「強者」側に見えてしまうのだろうか。

 

「冷徹なオレ」に見られたいネオリベワナビーなのだろうか。

 

 

b.hatena.ne.jp

b.hatena.ne.jp

b.hatena.ne.jp

b.hatena.ne.jp

b.hatena.ne.jp

b.hatena.ne.jp

b.hatena.ne.jp

 

映画「コヴェナント」のあの歌の意味

半月くらい前に「コヴェナント/約束の救出」という映画を見た。休日に時間が空いたのでなんとなく映画館に行ってみた。

 

 

 

2018年のアフガニスタンが部隊。タリバンがゲリラ化して潜んでいる中、米軍キャンプでは現地人の通訳兼案内役コーディネーターを雇い入れている。

 

米軍に雇われる通訳というのは、なかなか難しい立場になる。タリバンからは完全な裏切り者だし、現地の市民からも異教徒への協力者と見なされるし、米軍からもスパイかもしれないと半信半疑の扱いをされる。

 

しかしながらアメリカへ渡れるヴィザがもらえるという約束で通訳を買って出た人たちが数千人という単位でいたらしい。

 

タリバンの武器倉庫を掃討する作戦部隊にも、あたらしい通訳のアーメッドが雇われた。しかしその作戦中、ほとんどのアメリカ軍兵士は討たれる。アーメッドと隊長(曹長?)の二人だけが辛うじて生き延び、砂漠化した山を越え安全地帯まで逃げようとする。

 

荒れ地にて、追うタリバンと延々と続く攻防の中、隊長は銃撃を受け瀕死の状態になる。よって米軍キャンプの方角に向けて、アーメッド一人で隊長を運んでいくというハードな道のり。息の詰まるような緊張が続く。

 

続きは映画館で見られたしと思う。始まって間もなくから続く張り詰めるような展開に少し後悔したが、映画が終わった後の見応えは素晴らしかった。

 

*

 

ところでこの映画が始まってすぐにアメリカ(というグループ名)の「名前のない馬」という1971年ころのヒット曲が流れる。

 

なぜ穏やかな曲調で、年代的にもズレいてるこの曲なのかなと思ったけれど、帰って歌詞を検索したら謎が解けたような気がする。

 

歌詞の内容は

「俺は名前のない馬に乗って砂漠を旅する」

という独白調のものだった。

 

映画と近い内容だ。

 

「名前のない馬」というのは、その存在が広く知られることもなかった現地人通訳たちという存在だったり、この部隊のアーメッド当人をアンサングヒーローとしてたとえる暗喩だろう。

 

ただちょっと待てよ…アメリカ軍人はほぼ現地通訳人に助けられていて、「俺は」といえるほど主体的に旅をしただろうか…と考えると皮肉である。

 

アフガンの現地人通訳たちの多くは実際にアメリカのヴィザはもらえずに、数百人の通訳とその家族がタリバンに殺されたという。

 

そしてそれを歌っているグループの名前は、これまた皮肉にも「アメリカ」なのである。

 

*

 

アメリカというグループはロンドンの米軍居留地アメリカンスクールに通う、米空軍の子弟が三人集まったグループだというのも、なんだか不思議な偶然に思える。

 

 

 

 

 

アメリカ (バンド)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PERFECT DAYSを観てきた ~人生の影と見えないもの、消えゆくもの

話題のヴェンダース役所広司の映画、パーフェクトデイズを観てきた。

面白かった。

 

*

 

役所広司演ずる平山は、スカイツリー周辺の古いアパートに一人で暮らすトイレの掃除夫。

 

無口だが仕事熱心な職人肌。朝起きて布団をたたみ、盆栽に霧を拭いて、きちんと身支度をして表に出る。小さな自販機で買う朝食代わりの缶コーヒーを飲み、軽バンに乗り込み現場に向かう。きっちり仕事を仕上げたら、夕方は銭湯へ。その後、飲み屋で一杯という毎日を崩さない。

 

*

 

外国人監督が東京を撮ると、こういう映画になるのかという場面が多い。陰影の深い街、特に東京の東側の下町は、もう一人の主人公に見える。

 

特に初っ端の数カットは見慣れてるはずの町の風景。だがどこからしら光陰の射し方や色合いや角度が違う。外国人監督だからだろうか。なんとなくおとぎ話の入り口に見える

 

多くのシーンの柔らかく明るい映像が印象的だが、反対に中心にあるイメージはおそらく「影」。

 

例えば平山が眠るときに見るモノクロの夢。フィルムのコンパクトカメラで撮る木洩れ日。木陰をもたらす神社。ラストで行われる行為。平山が就いている仕事は社会の日陰の仕事だし、主な舞台となる東京の東側というのは、東京の影の部分と言えなくもない。

 

そして平山の暮らしの中にあるものは、うつろう影のようにやがて消えてゆくが多い。フィルムカメラ、現像屋、下町、銭湯、カセットテープ、古本、本、古いアパート…。下町に近づく再開発の予感もなくはない。

 

さらに外国人から見ると日本にしかないものがモチーフになっている。軽自動車、きれいな公衆トイレ、神社、ドリンクの自販機、缶コーヒー、畳の部屋。これもこじつければ、西洋から見た東洋という傘の影の下の文化なのかもしれない。

 

こうした題材を集めて無理なくつなげ、何か起こりそうで起こらない、予感に満ちた物語。観る側がイメージや憶測で物語の背景や、その後を膨らませるタイプの映画。

 

何も起こらないというのは、物語の展開を軸にするのではなく、人物と生活、設定をそのまま見て欲しいということだろう。

 

そういえば主人公には職場の仕事仲間以外に友人というものがいない。昔の大人は友達友達と言わなかった気がする。平山には一人自立している様子がある。そもそも人間は一人では幸せにはなれないのだろうか。平山の最後の笑顔が印象的だ。

 

古き良き日本人の生活と気質、消えゆく生活。コレを日本人が撮ってもあまり話題にならないかもしれないけど、こうやってヴェンダース役所広司に見せられるとやっぱり新鮮で良い。

 

*

 

平山が聴いている(=劇中に流れる)音楽もとても良い。アニマルズ、ルー・リードパティ・スミスヴァン・モリソン…。特にルー・リードのアルバム『トランスフォーマー』は印象的に劇中に登場し、アルバムからのパーフェクトデイという曲が映画の題名になっている。

 

youtu.be

 

youtu.be

 

陰鬱なメロディで始まる歌は、なんということのない、それでいて美しい休日を描写しながら始まる。

 

Just a perfect day Drink Sangria in the park

完璧な一日さ 公園でサンガリアを飲んだり

 

(中略)

I thought I was someone else, someone good

もっと素晴らしい誰かのように、自分を感じることができたよ

 

そして解放されたように高らかに

 

you just keep me hunging on

 

と歌われる。

 

訳詞方は色々あると思うが、

 

君のおかげで生きていられる…

 

という感じだろうか。

 

とてもおすすめ。

近隣の楽器屋さんがほとんど島村楽器になっていた

たまには楽器屋さんでも覗こうかと検索すると、ほとんど島村楽器

それ以外の楽器屋さんは自分には無関係のジャンルのものだけ。

 

あとは〇〇鑑定団的なところが、中古楽器屋の役割を果たしている様子。

多様性が無くなりました。

 

いやいや、まだ島村や鑑定団が行ける範囲で有ることは、恵まれているのだろう。

今後、それすら厳しいなんてことも、ありえなくない。

楽器なんて贅沢な趣味、になってきているのかもしれない。

こわいわ・・・

The Rolling Stones | Sweet Sounds Of Heaven (Edit) | Feat. Lady Gaga & Stevie Wonder

これこれ、こういうのを30年オレは待ってたのよ‥‥。

 

最後?に名曲。黄金の70年代的なグルーヴィーなソウルブルース。

ありがとう!

 

先日はジャケットがダサいとか言ってすいませんでした。

 

youtu.be

90年代以降、ローリングストーンズのジャケットがダサい。

90年代以降、ローリングストーンズのジャケットがダサい。

 

毎回ガッカリするのだが、案外触れている人がいない。

 

個人的には81年の「タトゥーユー」はかっこよかったと思うが、それ以降のオリジナルアルバムのデザインは好みじゃない。

 

あなたの感想ですよねと言われればその通り。

 

人の仕事にごちゃごちゃ言うなと言うのもまた然り。

 

しかし期待して長年待ってコレか〜という気持ちになる。

 

そもそも中心メンバーのキースリチャーズ自身が、近作のアートワークはどんどん悪くなると諦め風に語っていた。(しかし近作といっても、ここで取り上げたものは期間で考えると、彼らの歴史の半分以上の30年間くらい及ぶのだ。恐ろしい)

 

不満があるのは、自分とキースだけなのだろうか。

 

 

特に89年の「スティールホイールズ」以降のつまらなさが残念。

ベスト盤みたいな味気なさ。久しぶりのオリジナルアルバムということで、当時勇んだものの、ジャケットがつまらなくて萎えた。

 

 

 

続いて94年の「ヴードゥーラウンジ」。虫人間が踊ってるぞ。

ガッカリびっくり。これも安っぽいし、かっこよくない。よく反対意見が出ないな。

 

 

97年「ブリッジズ トゥ バビロン」。力は入ってますけど、アゴがエキゾチックなライオンの絵。意味不明。少年漫画に出てきそう。

 

 

 

次は「ビガーバン」。05年。宗教画風に驚いているメンバーの絵。これも個人的には「何なの?」という感じ。こっちが驚いた。

 

極め付けは「ブルー&ロンサム」。16年。

これはブルースのカバー集で、内容は素晴らしい。なのに単に青いベロ。助けて。

 

 

そして今年、もしかしたら最後の可能性も高い、ニューアルバム。「ハックニーダイアモンズ」。 昔のデパートや化粧品の広告みたい。資生堂とか。

 

 

 

 

ただ編集盤はむしろかっこいいし、キースのソロもずっとカッコ良い。

 

 

 

 

 


オリジナルアルバムのイラスト路線のジャケットはもしかしてミックが決めているのではないか、と踏んでいる。

コレがミックのファーストソロのジャケット。

 

やっぱり戦犯はミックだと思う。

 

 

 

映画「君たちはどう生きるか」と考察ブーム

映画「君たちはどう生きるか」を観てきました。観客たった5人。

 

凡人からすると「狂人の美しい夢」をのぞいているようなわけのわからなさだった。

 

ただ面白いことは面白い。映像、キャラクター、細かな背景の楽しさにも引き込まれる。

 

おそらくは暗喩にまみれているのだろうけど、物語そのものをストレートに理解して感動できた人はどれくらいいるのだろう。

 

そこで帰ってきて様々な考察を見ると、なるほどなあと思うことしきり。これはこれで面白い。

 

反面、考察がないと飲み込めない表現というのも抽象度高すぎではないかという疑問も起こる。

 

メッセージがあればまっすぐ文章に書けば良い。その方が誤解が少ない。

 

しかしながら物語仕立てにしてしまうのは、アニメ作家の性なのだろうけど。

 

音楽は究極的には個人の中で消費されるが、物語は考察を通じて多くの人で掘り下げることができるのは大きな魅力。

 

これは小学校の国語の教科書から我々はやり続けていることでもある。

 

だけどやがて考察任せのようなものは、行き過ぎという声も出てくるのではないだろうか。

 

映画「生きる-LIVING」(カズオイシグロ脚本)を観た

オリジナルよりも、スマートで紳士な感じの「生きる」という感じでした。

 

元祖の持つ匂い立つような剥きだしの生命力みなぎる戦後感は当然ないのですが、イギリスの古い役所や役人の仕事・生活はこうなんだなと識る喜びがありました。映画の中に異国の生活のディティール感を求める人には良いと思います。

 

特に背広。スーツ。これが好きな方にはたまらないでしょう。山高帽をかぶった英国紳士たちの仕立ての良さそうなスーツ姿が佃煮の詰合せのようにスクリーンに登場します。

 

本来ドラマティックなはずのストーリー展開も、極端に寓意的な黒澤版よりは穏やかに演出されております。

 

イギリス映画らしく(?)美男美女総出というよりは、やや地味目な人たちがジワジワと魅力を出してくる役者さんぞろいです。ちょっと宇津井健ふうの主役のビル・ナイも然り、サバンナ高橋ふうの助演のアレックス・シャープも然り。

 

日本版で主役に精神的再生を与える「小田切みき」役にあたる「ミス・ハリス」のエイミー・ルー・ウッドも、美形ではないけどとても魅力的。主役の元上司にきちんと意見をするという良い役を演じておりました。

 

最後に流れが反転する部分もソフトで、これはこれで後味が良かったのだろうと思います。

 

www.youtube.com

RRRを遅ればせながら観たのだが

ちょっとバイオレンスが過ぎるけど、3時間弛まずアイデアを山の如く詰め込んで、テンポ良し、スピード感も情緒もあり、ダンスに恋にアクションにエンタメとして文句無し。

 

しかしメタ視点ではイギリスの人はどう観たのだろうかと心配なくらい「反英」。

 

とにかくイギリス側が血も涙もないくらい非人道的に描かれ、その憎々しさへの反発であとに続く怒涛のご都合主義も許せちゃうくらい。

 

そう言う効果があるのも理解しつつも気になる。よく考えるとかつてアジアであった「抗日ドラマ」のような物である。

 

前半2/3はとにかくインド人が虐められる。残りはイギリス人がバンバン殺される映画。熱狂したであろうインドの人たちと、うんざりしただろうイギリス側。そう思うと少し複雑である。

 

 

エンペラー・オブ・ライトを観てきた

エンペラー・オブ・ライト

 

 

80年代イギリスの南岸の田舎町の海沿いに建つエンペラーという古い映画館での話。

 

主人公は生真面目に働く中年女性。同僚たちは少し気難し気な小柄な老人の映写係。シンディ・ローパーみたいなメイクの女の子。その他、青年たち。そして少し偉そうな支配人。

 

そこに大学浪人中の明朗な黒人青年が加わって話が始まる。

 

www.youtube.com

 

大きな物語に引っ張られて振り回されるような話ではなく、エピソードやシーンの一つ一つが積み重なり、その中で印象的なセリフや芝居、生活感のある描写を楽しむような映画。

 

印象的だったのは、詩や歌が控えめながら効果的に使われている。

 

休憩室で従業員たちは楽し気に会話を度々している。その中で「歌」についてよく話されている。

 

主人公と映写技師は詩人の書く「詩」について会話をし、若者たちは当時のトップ10ヒットを「ウォークマン」やラジカセで楽しみ、新入りはスカなどの「2トーン」ミュージックを愛好してると話す。

 

それぞれの世代の歌を楽しみ、それが彼らの内面とつながっているように見える。他の世代の好みを否定したり、分断されてるような描写もなく、休憩室の様子は微笑ましい。

 

そして主人公は家に帰ると自分の世代的なストライクなのだろうジョニ・ミッチェルボブ・ディランキャット・スティーブンスなどSSWの曲をかけている。

 

特に主人公が引きこもるシーンで流れるボブ・ディランの「イッツ・オーライト・マ」は印象深い。

 

ディランのこの曲のテーマは死や反権力や反戦に思えるが、歌詞を読んでも難解すぎてストレートには理解できない。だがこの曲の混沌が主人公の内面の混沌と通じているようだし、ディランの詩の難解さは他者から見た彼女の存在の難解さと似ているのかもしれない。

 

救いになるシーンは老映写技師と彼女の交流である。わずかではあるが彼らは普段から「詩」について語り合う仲のようで、それは互いを人として信頼しているように見える。

 

*

 

なんとなく不思議なのは、音楽が適切で雄弁な割に意外にもあまり「映画」については直接語られることも描写されることも少ない。古い映画館の物語ならだれかしらに映画愛を語らせたりしそうなものだが、さほどでもない。

 

主人公も真面目なせいか、ここで映画を見たことがないという。生真面目と混沌の二つの内面を行き来する主人公が、ある日、就業時間の後に映画を見たいと願う。小さな逸脱。そこで映写技師が流したのは、ピーターセラーズ演ずる純粋な愚か者が世間を魅了する話の「チャンス」であった。これもさり気なく見せるだけ。

 

全編さり気ない演出でやや薄味に思えるかもしれないが、観終わってから反芻するとどのシーンも意味がありそうで良い映画であった。

テレアポ電話営業の業者って、個人データを集めてるのか

職場に迷惑FAXが届く。届いた紙には、こういったFAXの連絡が不要なら「不要である」と返信してくださいというメッセージと、返信FAX番号が書いてある。

 

真に受けて実際にそのようにするとその発信元からは確かに受信しなくなる。しかし別の発信元から、これまでより多くのFAXが届くらしい。彼らは反応を記録し、確率を上げるため活用している。

 

*

 

振り込め詐欺や押し入り強盗に使われているという被害者の個人情報データ。いわゆる「カモ」のデータがあるという。

 

*

 

NTTの代理店や電気料金を下げる話や不用品買取の営業電話もかかってくる。あれが個人宅にかかってきた場合、電話に応対した人間の属性がデータとして抜かれているのではないかと勘繰ってしまう。

 

例えばこの番号はこのあたりの住所で、若い女で、年寄り一人住まいで…のように。毎日複数で数百件かけ続ければ相当なものが集まると思う。さらにそれを複数のデータと組み合わせると精度が上がる。

 

*

 

以前からテレアポ営業・ファックス営業はやめて欲しいと思っていたが、線引きが難しそうなので無理だろうとは思う。

 

しかしすでに固定電話には出れないような時代になってしまった。現に高齢者はおいそれと出ない人が多い。なんらか対応をしないといけないのではないか。

 

 

「さかなのこ」を観た。

 

最初は絶対見ないタイプの映画だろうと思っていたけど、ネットでは意外にも「傑作!」と絶賛する人も多い。

 

時折見ているyoutube配信、漫才師の米粒写経の「映画談話室」では、試写で観てとても良かったという映画評論家の松崎健夫氏の話があった。年に数百本を見るこの人は、めったに映画の内容に入り込むことは無いのだけど、この映画は後半とても感情移入してしまったという。そんな見巧者が、それだけ素晴らしいと言うなら見て見ようと思った。

 

 

 

米粒写経居島一平氏は上の映像の通り、当初は予告編見てイラついたから絶対見たくないということだったが、ひと月後の配信では実際に観て印象を訂正している。

 

 

 

自分としてはちょっと長い。三つのパートに分かれているのだけど、真ん中が長い。もしここが短いか、無かったら、もっと鮮烈な印象になったのではないだろうか。

 

最後の展開で〇〇が××したというのも、なんとなく安直で首をひねる感じがあった。事実ならば仕方ないし、寓話的な物語で子供向けでもあるのでこういう形にまとめたのかもしれないけど。

 

そういうマイナス点もあれど総合的には良かった。傑作までは行かないけれど。性善説のファンタジーなのだけど、成功の裏側のダークサイドもチラリと触れているので、バランスが取れている。

 

どことなく不安定で不穏な雰囲気の画面や間合いも独特の魅力があるし、子供時代の主人公役の子役や、「カミソリ籾」役の岡山天音も、この世の人ではないような儚げな魅力があった。さかなくん本人の役も意味が深く、面白みを与えている。

 

なんて書いているけど、実査に観終わったときは、長かったなー、という程度の感想だった。それがなぜだか、その後数日間この映画について考えているのだ。観た後、やっぱりあのシーン、あの雰囲気良かったなと反芻してる内になぜか印象が良くなっていった。

 

実は岡田斗司夫氏もそのようで、こんな動画を出している。

 

 

 

この動画で氏が語る様に、観た後ずっとこの映画について考えてしまう、何がいいのか上手く言えない良さがある不思議な映画なのだ。

 

 

安倍さんは一次と二次の政権で大分変ったように見える。そこが安倍政治を振り返るポイントではなかろうか。

 

*

 

安倍さんは第一次政権では保守色はそんなに強くなく、所信表明も「小泉改革を引き継いだ構造改革を目指す」であった。

 

小泉改革は『聖域なく』がポイントで、聖域とは抵抗勢力の「官僚・族議員天下り」であって、そこも容赦なくやりますよということ。政治主導を取り戻しますという宣言だろうと思う。

 

だから敵設定である「抵抗勢力」は野党ではなく官僚組織、族議員天下りだった。このころは安倍さんから野党への野次なども印象がない。

 

しかしその結果、安倍さんの最初の政権は、官僚からのアシストが少なく、もしくは足を引っ張られたか、まるで「どこか」からかリークされたようなスキャンダルが政権内に連発された。そして参院選で大敗し、内閣改造も失敗し、総理・総裁を降りた(ように見えた。体調云々は後から広く知られたはず)。

 

自民党政権はその後、福田、麻生と転がり野党へ落ちた。

 

小泉政治が盛り上がったのも、安倍さんが参院選を大敗したのも、民主党が政権を取った時も浮動票が動き、高い投票率となった。それを盛り上げたのはマスコミだった。メディアが盛り上がれば、投票率が上がり自党は不利になる。自民党は浮動票の怖さが身に染みたと思う。

 

その後、やはり構造改革路線を実質継いだ民主党も、「事業仕訳」が官僚の逆鱗に触れたのか皮肉にも安倍政権と似たように崩れていった。

 

政権の維持に必要なのは、官僚と浮動票の対策である。

 

*

 

第二次安倍政権は良く知られた通りだが「聖域なき構造改革」というワードは聴いた覚えがない。むしろ財務省とは消費税と金融緩和をバーターし、財務省の代わりに経産省を抱き込んだように見えた。官僚とは「取引」をしたようだった。

 

抵抗勢力」という言葉も消え、その分、野党やリベラル勢力をあまり上品ではない野次で攻撃した。そしてなぜか議論はしないのに改憲を「掲げ続け」た。これらは保守票へのパフォーマンスにも見えた。

 

メディアや総務省に強い世耕氏や菅氏を要職に据え続け、マスコミ対策=浮動票対策も成功。投票率は下げ止まったままになった。

 

*

 

安倍さんは何をしたかったのか、正直良く分からない。とにかくもう野党に堕ちたくないという恐怖感だったのではないか。そのために重視したのは投票率を上げず、固定票・組織票を固めてようという方針だった。宗教組織の力にも頼り、それがあの銃撃につながったのかもしれない。

 

*

 

安倍さんは本質的にそんなに保守でもない。これはBSTBS報道1930で元自民党古賀誠氏もそう言っていたから、同じように考える人も少なくないと思う。

 

一体、何がしたかったんだろう。そんなに改憲したかったら、9年間の総理在任期間にもう少し進めても良かったと思う。本当は荷が重かったのではないか。

 

第二次政権でやりたかったことはとにかく下野したくない、与党でいたい、そのために選挙対策しようということだったのではないか。亡くなった人に悪いが、空っぽの大きな箱だったようにも見える。

 

あの第一次政権の後、野党になった時、安倍さんはどう過ごして、何を考えたのか。あまり伝わっていないが、日本のこの直近10年を振り返るポイントだろうと思う。