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『トンデモ本の世界R』を再読して

 トンデモ本の世界R(2001、太田出版)を再読していて、山本弘氏が大藪春彦餓狼の弾痕(1994、角川書店)を取り上げているのを見て「あったなあ」と懐かしく思った。そして、氏の文章を一通り読み終えてから、「やっぱり一言書いておきたい」と思ったのでその通りに書くことにする。

 『餓狼の弾痕』がトンデモ本であることは間違いのないところだろう。一応、オペレーション・ヴァルチュアーなる秘密組織が政界や財界の大物が汚い手段で築き上げた大金を巻き上げていく、というストーリーのはずなのだが、実際はただひたすら同じシチュエーションが何十回も繰り返されていく、という昨今流行りのループものを先取りしているのではないか、と誤解したくなる文字通りトンデモない作品なのである。筆者も以前に「唐沢俊一検証blog」で『餓狼の弾痕』をネタにしている。

ガロの弾痕。 - 唐沢俊一検証blog

 

情事の最中のターゲットを襲う→ビデオテープを見せる→金庫を開ける→ペースメーカー型爆弾を埋め込む→嘘でない証拠に愛人を爆破する→新世代の抗生物質「ホスミシン」と患者手帳を渡す→(最初に戻る)

 

 本当にこの展開が繰り返されるだけなので読んでいると眩暈がしてくる。だから、トンデモ本として取り上げられることに異議はない。しかし、山本氏の取り上げ方には異議がある。『トンデモ本の世界R』P.284より。

 実を言うとこの本、一度は商業出版で紹介するのを断念した。というのも、僕も角川書店で書いている身、おまけに大藪春彦氏といえば日本の誇るバイオレンス小説の巨匠である。その作品をトンデモ本として紹介するのは、さすがに勇気が要る。下手すりゃ作家生命を絶たれかねない。

 しかしその後、ご存知の通り、大藪氏は九七年に亡くなられた。ご本人が抗議してくる心配はもうないわけだし、角川書店のみなさんもたぶん笑って許してくださるだろう……と考え、ここに紹介することにした。なにしろ、埋もれさせるにはあまりにも惜しい大怪作なのだ。

 …えーと、一言で言えば「死人に口なし」ってことですよね、これって。20年近く前の文章に突っ込むのもなんだけど、普通は逆なんじゃないかな。著者が亡くなってしまったからトンデモ本として取り上げるのはやめておく、というのなら分かるけど、亡くなったから取り上げる、というのは筆者の目からは奇妙な倫理観にしか映らない。それとも、「と学会」の界隈では故人に対して生きているうちは言えなかったことをあれこれ突っ込む習慣でもあるのだろうか。

 この後、『餓狼の弾痕』から引用しつつ、作品のトンデモなさを紹介していて、このあたりはさすが山本氏、という印象である。『トンデモ本の世界R』で紹介されたのをきっかけに『餓狼の弾痕』を読んだ、という人も結構いるようだ。しかし、締め括りの文章でまたひっかかる。同書P..288より。

 まえがきによれば、日本の汚い政治に対する怒りが、作者にこれを書かせたという。怒りがあまりに強烈で、小説としての構成を忘れさせるほどだったのか。もっとも、伝え聞くところによれば、すでに死期が迫っていて頭が……だったという説もある。

 ともかく、ご冥福を祈りたい。

 山本氏は『餓狼の弾痕』を担当した編集者は困惑しただろう、と文中で書いているが、筆者としては『トンデモ本の世界R』の編集者もよくこれを通したな、と思わざるを得ない。健康状態を揶揄するなんて一番やってはいけないはずのことなのに。大物作家に対して腰が引けているのと、それでいながら「茶化したい」「からかいたい」という気持ちが出ていて、実に中途半端な感じを受ける。どうせやるなら徹底的に容赦なく突っ込むべきではないのだろうか。その方が逆に不快感も薄まるはずだ。

 ただ、自分が山本氏の文章に対して一番に不満を覚えるのは、どうして何度も同じシチュエーションを繰り返したのか、について考察がなされていない点である。「あれ~、同じことしか書かれてないじゃん、おかしいね、アハハ」と言うだけなら誰でも出来るのであって、おおよそ知的な態度とは言えないだろう。

 

 さて、上でリンクを貼った「唐沢俊一検証blog」のエントリーのコメント欄で筆者は藤岡真氏に対して以下のようにレスをしている(ちなみに『餓狼の弾痕』を山本氏に紹介したのは藤岡氏である)。

餓狼の弾痕』は凄い話なんですけど、大藪作品では丁寧に描写しようとするあまり最後は駆け足になってしまうことがよくあったので、どうしてああいうことになったのかはなんとなくわかります。ただ「トンデモだ」と笑い飛ばして片付けて欲しくないなあ、と思います。

 9年前のコメントだが、今でもこの考えに変わりはない。せっかくなので、「どうしてああいうことになったのか」、について、ここから自分なりの推測を書いてみたい。

  山本氏の文章を読んで最初に感じたのは、山本氏は大藪春彦の小説をあまり読んでいないのではないか、ということである。もちろん、それは責められるべきことではないが、とはいうものの、大藪の小説にどの程度触れているかで『餓狼の弾痕』に対する受け取り方は違ってくるのではないか、とも思う。そして、あまり読んでいないであろう山本氏に対して、筆者はわりと読んでいる方なので、当然受け取り方は違ってくる。

 『餓狼の弾痕』を初めて読んだ時、同じシチュエーションの繰り返しに酔い痴れた後で、個人的にまず感じたのは、「大藪さんはこういうのが一番やりたかったんだな」ということである。つまり、変態プレイに興じている敵を襲撃して拷問にかけて秘密を聞き出す、というシチュエーションを何よりも書きたかったのではないか、ということである。そういったシチュエーション自体、大藪の小説には必ず登場していて、ページも多く割かれているのが常である。拷問するために敵のズボンとパンツを脱がせたらジャングルに埋もれた男根から小水がほとばしるのも常である(一応大藪っぽく書いたつもり)。まあ、「拷問にかけられているとはいえベラベラよくしゃべるなあ」「そんな細かいことまで聞かなくても」と思ったりもする筆者は正しい大藪ファンとは言えないのかもしれないが。

 拷問が必ず出てくる、というのは別にエスっ気があるからではなくて、情報を収集する過程を重要視している、段取りをおろそかにしない、という意味合いもあると思う。上のコメントにもあるけど、段取りをしっかり書きすぎて、「最後は駆け足」になった作品もいくつか読んだ覚えがある。そして、『餓狼の弾痕』では段取りを結果よりも大事にしたからこそ、ああなった気もする。

 また、やはり上のコメントに「丁寧に描写」とあるように、大藪はリアリティを大切にする人で、銃器や自動車の描写の詳細さはよく知られているところだ。また、作品を書くにあたってロケハンを行ってもいたそうで、一例を挙げれば、以前Twitterでも書いたが『獣たちの墓標』(現在は光文社文庫)における沖縄の地理はかなり正確である。『餓狼の弾痕』でも、爆弾を体内に埋め込むまでなら他の作家もやるかもしれないが、その後で抗生物質「ホスミシン」を手渡すくだりまでしっかり描写する小説家は、日本いや世界広しといえども大藪春彦しかいないのではないか。「手術したんだから抗生物質を飲まなきゃダメだろう」というリアリティの徹底ぶりというか律義さが素晴らしくて、『餓狼の弾痕』を読んでいるうちに「ホスミシン」という単語を見るだけで笑ってしまうようになるのだから困ったものである。結局、『餓狼の弾痕』は間違いなくトンデモではあるのだが、大藪の作家としての資質が出たが故のトンデモではないのか、と筆者は考える次第だ。それがフォローになっているかは知らない。

 この文章を書くにあたって、筆者も『餓狼の弾痕』を電子書籍で再読したのだが、一番に感じたのは、「ウルフ」「餓狼」という合言葉がダサい、ということではなく、オペレーション・ヴァルチュアーは政界や財界の大物をあっさりと襲撃できるほどの実力を擁しているのに、どうしてチマチマと汚い金を集めて回っているのか、という疑問である。もっとすごいことができそうなのに…。10代の時に『戦いの肖像』(現在は新潮社から電子書籍が発売中)を読んで、あまりにも開き直ったハッピーエンドに感動したのがなつかしくなる。あれ、今なら「なろう」じゃん、って言われるわ、きっと。

 

 せっかくなので、筆者が大藪の小説を読んでいて「ええっ…」となったくだりも紹介しておこうか。『謀略の滑走路』(光文社から電子書籍が発売中)の第10章で、敵のボスの屋敷に忍び込んだ主人公が、ボスに見つかって一緒に一時間くらい音楽を聴いた後で、板の間に仕掛けられた落とし穴に落ちてしまう。この時点で「何故一時間も音楽を?」「何故落とし穴?」と疑問が湧くのだが(「昔の両班は部屋中に落とし穴を仕掛けていた」と説明されているが本当だろうか)、問題はその後である。『謀略の滑走路』P.221より。

 一時間ほどして、突然頭上から懐中電灯の光りが射し込まれ、一本のロープが投げ込まれた。

「どうぞ、このロープを伝って登ってきて下さい。星島さん、わたくしはあなたに助けられた申少尉の妹の白姫でございます。あなた様のことは兄から聞いております」

 で、主人公は落とし穴から脱出するのだが、さすがにご都合主義すぎて笑ってしまった。この白姫(ペクヒ)さん、このシーンにしか登場しないのだもの。ついでに書いておくと、主人公が敵のボスのところに向かうのを申少尉が何故知っていたのかもよくわからなかったりする。この後、金浦空港が大爆発したりしてアクションは充実しているのだが、一番心に残ったのが白姫さんだったのは否定できない。

 …でも、大藪春彦が生きていたらな、と思うことがある。モデルが丸わかりの大物を標的にした話をたまには読みたい。「安毛首相」「クランプ大統領」「ZAZAの後澤社長」とか。

 …一応、大藪春彦ファンとして多少なりとも擁護しよう、という心意気から出発したはずなのだが、逆効果になってきた気もするので、話を変えることにする。

 

 山本氏の文章を読んでいて思ったのは、ただ単に「笑う」のや「怒る」のは別に高度な振舞いではない、ということだ。むしろ、「笑う」「怒る」ためには知識もしくは経験の欠如が前提になっているのではないか、とも思う。例えば、大人の行動を理解できない子供がそれを「笑う」ことはあるし、日本人の習俗を知らない外国人がそれを「笑う」(またはその逆)こともあるだろう。逆に言えば、多少事情を知っていたり自分に近しい事柄だと「笑う」のも「怒る」のも難しくなる。山本氏を含めた「と学会」サイドが唐沢俊一氏のP&Gを少なくとも対外的に目に見える形で笑いも怒りもしなかったのもそういうことなのだろう。まあ、人間だからやむを得ないことではあるけれど。ついでに書いておくと、山本氏は唐沢氏に「長文」を書くことを先般ツイートしていたが、以前から書いているように筆者は山本氏は「長文」を書かなくてもいいと思っているし、山本氏の「長文」に対してあまり期待していない、というのがより正確な心境である。もはや唐沢氏に対してもあまり興味が持てなくなっているしね。

 

 そういうわけで、笑ったり怒ったりするだけではダメだ、しっかりと考えるんだ、と唐沢検証の際に思えたのは「と学会」のおかげでもある、と筆者は個人的に感謝している。まあ、それが実行できたかはあまり自信がないけれど。

 なお、『トンデモ本の世界R』に収録されている、山本氏の小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論(1998、幻冬舎)への批判についても取り上げたいのだが、まず『戦争論』について評価をしてからでないと山本氏の批判に触れられない、と思ったので、今回はパスすることにした。来年中に『戦争論』を取り上げたエントリーをアップして、その中で山本氏の批判についても触れるつもりではいる。

 というわけで、余計な宿題をまた増やしたところで、「ex検証ブログ」の2019年は終了である。

 

 

トンデモ本の世界R

トンデモ本の世界R

 

 

餓狼の弾痕 (光文社文庫)

餓狼の弾痕 (光文社文庫)

  • 作者:大藪 春彦
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2012/12/06
  • メディア: 文庫
 

 

獣たちの墓標: エアウェイ・ハンター・シリーズ (光文社文庫)

獣たちの墓標: エアウェイ・ハンター・シリーズ (光文社文庫)

  • 作者:大藪 春彦
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2016/04/12
  • メディア: 文庫
 

 

戦いの肖像(新潮文庫)

戦いの肖像(新潮文庫)

  • 作者:大藪 春彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: Kindle
 

 

 

謀略の滑走路 (光文社文庫)

謀略の滑走路 (光文社文庫)

  • 作者:大薮 春彦
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 1985/09
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

 

 

「オタク以前」を考える

 小林信彦片岡義男星条旗と青春と―対談:ぼくらの個人史ー』(角川文庫、1984年)という本がある。サブタイトルに「個人史」とあるように、小林・片岡両氏がお互いの経験を語っていくうちに戦後の日本がたどった変化が見えてくる興味深い本なのだが、第4章「一九七〇年代 昨日を超えて」の中で、小林氏が処女作である評論本『喜劇の王様たち』について語っているくだりがある。1963年に校倉書房から出た『喜劇の王様たち』は全く売れず小林氏も意気消沈していたのだが、1970年になって大光社から改めて出し直すことになる。小林氏の『1960年代日記』(ちくま文庫、1990年)によれば(1970年11月20日の項)、最初の『喜劇の王様たち』は古書市で定価の倍の値段がついていたとのことで、小林氏が「おれの本が古本屋で値上がりしたなんて、光栄。お赤飯たいてお祝いだあ!」と素直に喜んでいるのが微笑ましい(同書P.295)。

 ところが、大光社から申し出があって1週間も経たないうちに今度は晶文社からも『喜劇の王様たち』を出したい、という申し出が来て、小林氏は晶文社の編集者と会って断りを入れたうえで、別の喜劇の本を出す約束をする。以下は『星条旗と青春と』P.160~161から。

小林 (前略)それでまた 晶文社の人が来るようになって、名前はAというふうにしたほうがいいでしょうけども、彼に、「ぼくの本を出したって売れないですよ。どういうお考えですか」ときいたら、「うちは、サブカルチャー路線といってグリーンブックスというのを出そうという企画になって、何冊か出したけど、まだ軌道に乗ってないんで、それで……」。植草(引用者註 甚一)さんの本が一冊か二冊出てたんですよね。だけど、それもそんな派手な騒ぎになるときじゃなくてね。それで、そういう路線をつくるんで、何でもいいからとりあえず出させてくれという話だったんです。

 そのA君、当時まだ学生なわけです。一橋の学生です。もうすぐ卒業だというんですよね。何かのときに卒業してどういう仕事に入るつもりですかと聞いたんですよ。一橋の学生だから、当然、大会社でしょう、ぼくらのイメージでいうと、そしたら<植草甚一さんみたいになりたい>というんですね。それから、てんぷくトリオの初期のテープを持ってて、いまのてんぷくトリオと聞き比べたりしてるというから、変な人が出てきたなあと、心の中で思った。そのころ、あんまりそういうタイプのノンポリ青年は、いないですよ。ギャグにも興味があるけども、やっぱり三島由紀夫の死に対しては思いをいたすというタイプが非常に多かったですよね。それの残党というか、その時代でしょう、七〇年という年は。そのときに片っ方はてんぷくトリオの初期の……初期といったって、そのころからまだ四、五年前だけどさ、それを聞いて、何がおもしろいとか、あれがおもしろいとかね。で、けっこう古いことも、知ってるんですよ。ぼくにとってはわりにそういうことというのは大事なことでもあるけども、世間一般からみればくだらないですよね。そういうものが興味もたれるというのは、これはどういう時代なのかなと思った。

  この「A君」については後でもう少し詳しく説明するとして、翌71年に「A君」が広告代理店に入社したので、「B君」が小林氏の担当に就くことになる。『星条旗と青春と』P.164~166より。

小林 (前略)B君、あんまり喋らないわけです、考えていることを。このタイプが、実は七〇年代、一番多いんだろうと思います。こっちが一つ一つ何か聞くと、それに対しては「ええ」とか、「いいえ」とか答えるけども、何も積極的なコミュニケーションがないわけです。ぼくは不安だったわけですよ。で、だんだん話を聞いてみると、いろいろ知識はあるわけです。たとえば向こうの映画の研究誌なんか、何種類かとって、自分のうちに持ってるわけです。それで、批評家のことを、あの人は知識がないとか、チラッといったりするわけです(笑)。

 知識を無限に、極端にいうと、自分のどこかにため込んでて出さないというタイプ。それから、内心、それが他人にわかってたまるかという感じのこのタイプが、実は七〇年代、一番多いとぼくは思ったですね。ぼくらの年代だと、生活問題があったから、そういうふうに知識をため込んだとしても、あるていど吐き出す形になる。で、B君がというんじゃないけど、このタイプの人々は、総じて、ものすごく幼児的な、子供がオモチャをしまい込んで放さないというような……。

片岡 子供がオモチャをため込んで、自分だけで部屋のなかで遊ぶというような感じでの知的活動の領域は、ずいぶん増えましたね。

小林 そうなんです。非常に極端にいうと、いまの<ウォークマン>なんですよ。 外を歩いてても自分の中にこもっちゃってるわけです。

(中略)

内的には完全に秩序みたいなものができてるけど、他人との対話というのはないわけです。

   このA君とB君の話を読んだ時、

「完全にオタクの話じゃないか」

としか思えなかった。「くだらない」とされているものに熱中するA君も、知識はいっぱいあるのに積極的にそれを出そうとしないB君も、今で言えばオタクである。特にB君の話は他人事とは思えなくて筆者の胸に刺さりまくりだ。自分も「他人にわかってたまるか」とは行かなくても「別にわからなくてもいい」とは思っちゃってるな…。

 筆者が岡田斗司夫氏や唐沢俊一氏などの「オタク第一世代」とやらに乗れないのは、「オタク第一世代」以前からオタク的気質を持った人はいた、と感じていたからだが(それこそ小林信彦氏もそうだ)、『星条旗と青春と』を読んだことでそれは確信へと変わった覚えがある。もっとも、筆者も以前は「連合赤軍事件あたりを境目に若者が政治や社会からサブカルチャーなどに興味を持ち出したのではないか」という雑な認識をしていたので、他人のことはあまり言えない。とはいえ、政治や社会からサブカルチャーへ、という変化が確かにあったことは小林氏のコメントからうかがえる。同書P.163~164より。

小林 (前略)たとえば一九六〇年ごろ大島渚が「日本の夜と霧」をつくって、日共をバッサリ斬って、スターリニズムをバッサリ斬る。これはすばらしい映画だったのですが、そのあとで、映画を全部政治思想で解読するというような滑稽な映画批評の流行した時期があったわけです。そういうときに、ぼくはヒッチコックとかビリー・ワイルダーなんかを一人で批評してたわけで、結局、流行から外れたわけです。<ただいま苦戦中>とまで、イヤ味を書かれた。ところが、べつに偉そうなことをいうわけじゃないんですけども、七〇年になると、世の中のほうがスーッとこちらにすり寄ってきたという感じはあるんですよね。

 63年に出した『喜劇の王様たち』は売れなかったのに、71年に新装版が出ると書評がたくさん出て、「世の中そのものが、あの辺でかなり変わった」と小林氏は語っている(P.164)。わずか8年でも変われば変わる、ということだろうか。

  そのような変化をもたらしたものは何か、といえば、経済的に豊かになったことではないか、と思われる。同書P.162~163より。

小林 七〇年当時大学へまだ行ってた、いまの話のA君が車に乗ってて、あっちこっち、じゃ、お連れしましょう、なんていって連れていったからね。そのころでも大学生が車に乗ってるというのは、ま、一部の大金持ちの息子は別として、ぼくはかなり異様な気がしましたよ。(後略)

 小林氏が知っているのかは不明だが、「A君」の実家は開業医である。また、先に名前を挙げた岡田氏も唐沢氏も実家は裕福なようなので、そういった経済的事情と趣味の関連性については決して無視できない、と思うのだが(ピエール・ブルデューみたいだけど)、それはさておき。豊かになることで、若者たちが趣味に走るようになったことを、片岡氏は対談の中で何度か指摘している。同書P.162、165、172より。

片岡 経済力の窓口が広がると、いろんなものが商品として成立するようになるわけです。それまで考えられなかったようなものが商品になり得るわけで、買う人もまた出てくるわけです。(後略)

 

片岡 子供がオモチャをため込んで、自分だけで部屋のなかで遊ぶというような感じでの知的活動の領域は、ずいぶん増えましたね。

 

片岡 趣味の世界へいく以外ないでしょうね。で、生活自体は、中心的な価値観がないわけだから、ひと皮むけば、むちゃくちゃですよね、日々。

 やっぱりオタクの話をしているんじゃないかなあ。豊かになることで戦後の日本がどのように変わったか、は『星条旗と青春と』を通じてのテーマで、豊かになってから生まれた筆者には実感しづらい話も多かったのだが(それだけに貴重な本である)、以下に引く小林氏の話も読んでいて思わず首を捻ってしまった。P.166より。

小林 (前略)いろんな知識をため込んでて、世間に対するときは(ぼくらもある程度はそうですが)別な顔を見せて、一応会社に勤めなきゃいけないから、会社にいるときは普通の会社員で、その会社でちゃんとやる。自分一人になったときは徹底的に趣味の領域に入っちゃうという人間がものすごく増えたですね。それはもう、びっくりするくらい多い。それで、必ず、そういうタイプの人は口ごもったり、ちょっとどもったりする。

(中略)

昔の小説の題名でいうと、「自分の穴の中」に入っちゃう、<穴の中人間>みたいなのというのはものすごく多いです。一応食うためとか世間体で勤めるから、世間に出たときは別な顔をしてるけども、収入は全部自分の趣味に使う。しかも、ジャンルの全体には興味がない。音楽でも、ロックならロックのある部分に関してはものすごく詳しいけど、ほかの部分は全然聴かない、興味がないとかいう人が非常に多くなったですね。

 仕事と趣味を切り替える、オンオフがはっきりしているのは別に悪いことではないと思うのだが、小林氏の語り口はどこか否定的だ。それに少し驚かされるのは、「口ごもったり、ちょっとどもったり」にしても「ジャンルの全体には興味がない」にしても、これらの理屈が対談から40年近く経った今でもオタク批判として流通していることだ。しかも、それがオタクの先行者として見られている小林氏の口から出ていることにも戸惑う。また、この本の別の箇所では、次のようなくだりもある。P.163より。

小林 (前略)ぼく、植草さんは、よく趣味人といわれるけど、必ずしもそういうふうにいい切れない、非常に複雑な要素を持った人だと思うけれども、その歪んだ影響下の若い人たちは……。

 またしても否定的である。「近頃の若い者は」なのか、はたまた同族嫌悪なのか。なお、オタクの先行者によるオタク批判、については後で再度触れることにする。

 どうしてそこまで否定的なんだ、と思いながらも、小林氏が否定的な理由をなんとか探してみると、上の発言に先立って、

小林 ぼくらの年代だと、生活問題があったから、そういうふうに知識をため込んだとしても、あるていど吐き出す形になる。

と言っている(P.165)ことからなんとなく察することができる。つまり、仕事と趣味をはっきり分けることができない、趣味を仕事にせざるを得なかった経験が小林氏に否定的な感情を持たせているのではないか。筆者が小林氏の発言に違和感を持ったのは、生まれつき趣味と仕事を区別できる程度の豊かさが実現した環境にいたからに過ぎない気もする。ジェネレーション・ギャップ、と言ってしまえばそれまでだが。

 さて、ここで話を変える、というよりは、視点を変える。『星条旗と青春と』を読んだ時にひとつ気づいたことがある。

「この『A君』って高平哲郎じゃないの?」

 それに気づけたのは、高平氏『ぼくたちの七〇年代』晶文社、2004年)を先に読んでいたからなのだが、同書P.34にはこうある。

 晶文社に出した絶版本の復刊企画が二本とも通った。

(中略)

もう一冊は中原弓彦さんの『喜劇の王様たち』。これはタッチの差で別の出版社から『笑殺の美学』のタイトルで出版が決まっていた。そこで津野(引用者註 海太郎)さんの出番になり、中原さんの書かれたエッセイのアンソロジー『笑う男』が小林信彦名で出版されることになった。憧れの人に会えることが嬉しかった。

 『喜劇の王様たち』に関するエピソードが一致している。依頼した側、された側の証言が両方あるのになんだか興奮してしまうのが我ながら変態っぽい。と言っても、小林氏の『1960年代日記』には、『喜劇の王様たち』に関連して高平氏の名前が明記されているので、別段秘密でも何でもないのだが(『1960年代日記』も読んでいたのに失念していた筆者が迂闊なだけか)。『1960年代日記』によると、大光社から依頼があったのが、1970年11月20日で、晶文社から電話で依頼があったのが12月2日、そして翌3日に小林氏と高平氏が面会している。本当に「タッチの差」だったのだ。『1960年代日記』P.299より。

 1時、「タキ」にて、晶文社の高平という、元気のないアーロ・ガスリーみたいな人に会う。昭和21年生れというと、24ぐらいか。(注・高平哲郎氏。当時は一橋大学の学生だった。)

 小野二郎という「新日本文学」編集長の義弟という。いきなり、晶文社の出版リストを出して、欲しい本に丸をつけろ、全部あげる、という。オモシロイ。

 私のファンであり、これからの出版は、世の不要なもの、無用のものほど、いいという。ずっと、無用なことばかりやってきた私には、ありがたい話なり。(後略)

 「世の不要なもの、無用のものほど、いい」というのは、その後の時代の変化を予見しているようで、高平氏には先見性があったとうかがえる。と言うよりは、『喜劇の王様たち』の受容のされ方の変化を見ても、70年代には既に「不要」で「無用」のものを許容するだけの雰囲気がある程度出来上がっていたのだろう。

 さて、高平氏に関してはオタクではなくオタク的気質を持った人なのだろうと思う。小林氏が話しているてんぷくトリオの件にしても、少年時代に観たアチャラカに大人になってもこだわっているあたりにそれはうかがえる(高平氏の少年時代については『銀座の学校』に詳しく書かれている)。また、晶文社で高平氏とともに仕事をしていた津野海太郎氏も、高平氏と初対面の時に「うわあ、こいつは文化が違うや」と感じ、「こののち急速に消費社会化してゆく日本にあらわれた最初のサブカルチャー世代」と高平氏について評している(津野氏の『おかしな時代』P.320より)。

 ただ、現在のオタクについて、高平氏は明確に否定的で、たとえば『ぼくたちの七〇年代』でも、クレイジーケンバンドのライブに行って、若い観客が秋葉原のDVD売場で見るアニメオタクと同類」に見えて、もう帰ろうかと思っている(同書P.11~12)。それに加えて、高平氏は現在のサブカルにも否定的である。『ぼくたちの七〇年代』P.22より。

(前略)面白いのは、その六〇年代初頭生まれがサブカルチャーを自分たちの青春のバックボーンのように言うことだ。連中はサブカルと呼ぶ。大衆に迎合しない単館上映映画や現代アートがそうで、アニメやB級映画の批評こそがそうで、マイナー嗜好もそうらしい。それだけ聞けばぼくらの時代のサブカルチャーと変わらない。しかし彼らのサブカル的なものは九〇年代に入ってメインになったらしい。中にはサブカルチャーの死は八〇年代半ばに訪れたと公言する者もいる。自分こそ消滅してゆくサブカルチャーの最後の体験者とでも言いたいのかもしれない。だがぼくらにしてみると、彼らが体験したサブカルチャーは、とっくにメインになりかかっていたサブカルチャーの残滓に過ぎない。サブカルチャーは八〇年代初頭で消えた。そして九〇年代にはジャンルの消失と共にいかようにも存在しなくなってしまったのだ。

 かつて小林氏に否定的に語られていた高平氏が後発の世代を否定的に語り、その後発の世代である岡田氏や唐沢氏(彼らは「五〇年代後半生まれ」だが)がさらに後の世代を否定するという。地獄だ。

 高平氏の言葉をもう少し見てみよう。 同書P.23より。

(前略)そうしたサブカルチャーのメイン化で、ぼくが一番そばで体験したのは、タモリ、ツービート、所ジョージといった反体制とも言える面々が八〇年代初頭に次々にメイン・ステージを飾り始めたときだ。その時点で、それまでサブカルチャーと呼ばれたものが消失したと実感した。本来表に出られないようなネタが表に出てしまったのだ。体制に対しての反体制、メインに対してのサブ、年長者に対しての「いまの若い者」―そうした対立の弱い方の立場にいたはずのサブカルチャーが、八〇年代以降その行き場を失ってしまったのだ。

(中略)

黒人の問題もベトナム戦争もない日本で生まれたサブカルチャーは最初から行き場なんてなかったのかもしれない。

 今やメジャー中のメジャーとも言えるあの3人がかつては「反体制」だった、と言われると確かにすごい。なお、『ぼくのインタヴュー術 応用篇』(ヨシモトブックス)収録の吉田豪氏によるインタビューで高平氏タモリとは長いこと会っていないと発言しているのだが、それはさておき。要は「サブカルチャー・イズ・デッド」というわけなのだろうが、高平氏サブカルチャーの必要条件に「反体制」を含めているのは気になるところだ(『ぼくたちの七〇年代』で高平氏全共闘に羨望があった旨を語っている)。まあ、高平氏の処女作が『みんな不良少年だった』というインタビュー集だったことを考えると、高平氏本人は自分が「不良」だったと考えているかもしれない(かつてインタビューの名手として知られた高平氏が当代きっての名手である吉田氏のインタビューを受けているのはなかなか興味深い)。

 筆者は「反体制」という政治的な要素を含めるところに、「好きだから好き」と開き直れない弱さを見てしまうのだが、小林氏の場合と同様に恵まれた環境で生まれ育った者があまり好き勝手に言うのも気が引けるので自重しておく。「好きだから好き」と振舞うのはかなり勇気のいることだ、というのも理解している。ただ、趣味に生きてきた人は自分より後についてネガティブに語りたがるものなのだな、とは思う。サブカルもオタクもデッドなのだ、と。自分もやがてそんな風になるのか、と思うと少しやりきれない。

 

 ここでまた話を変える。先程軽く触れた津野海太郎『おかしな時代-『ワンダーランド』と黒テントへの日々-』本の雑誌社、2008年)でも、60年代における状況の変化が書かれている。同書P.318より。

 単純なものから複雑なものへー。

 受け身のたのしみから、なけなしの知力や想像力をギリギリ駆使しなければ理解できないものへー。

 つまりは「やわらかい本」から「かたい本」へー。

 そうした「読書の階段」とでもいったものがあって、あっただけではなく社会的に公認されてもいて、私などもその階段をのぼってゆくことに、なにがしかの快感をおぼえていたのである。

 いったんこの階段をのぼりはじめれば、もはやあともどりはできない。いつのまにか、こちらの頭がそれでは満足できない状態になっていて、そこにさらにまわりの友人との競争意識がくわわる。子どものころからの本好きというような連中はなおさらそうだった。私も例外ではない。肉体的にはともかく、精神的には「おれはもうおとなだ」とおもいたい気分もあったしね。

 

  「読書の階段」が存在することによって、大人が軽い文章を読む習慣はなかった、というわけだ。津野氏はその理由を「日本の社会にそこまでの余裕がなかった」「戦前からの強迫的な教養主義が本の世界にしぶとく根をはっていた」と考察しているが、しかし、その「読書の階段」が60年代に入って崩壊しだした、とも言っている。その一例として、青年が電車の中で漫画週刊誌を読むことなどを挙げているが(そして高平氏は漫画週刊誌を読んでいたという)、あえて崩壊した原因を挙げれば、津野氏が挙げた理由の裏返しで、「日本の社会に余裕が出てきた」「教養主義が崩れだした」ということになるだろうか。経済的な変化については『星条旗と青春と』で語られていたことと同じであり、教養主義に関しては竹内洋教養主義の没落』(中公新書)にも見られることである。60年代には実際にそうした変化があったのだろう。

 そして、津野氏が小林氏と片岡氏について書いたくだりでも「階段」は出てきて、津野氏は「やさしいものからむずかしいものへ、エンターテインメントからハイカルチャーへという文化の階段」を上ろうとして、小林氏と片岡氏に「足もとをわきからサッとすくわれた」のだという(『おかしな時代』P.334)。2人に何故それができたのかを、津野氏は考察している。同書P.335より。

(前略)かれらは私があっさり脱ぎ捨ててしまった少年期の大衆文化の経験から、ヨコにそれず、タテにも逃げず、じぶんの頭でかんがえる習慣をそこから直接つくりあげてきたかのように見える。

 このくだりを読んだ時、「やっぱり小林さんたちと自分はそれほど違わないんじゃないか?」と思ってしまった。何故なら、オタクこそが「少年期の大衆文化の経験」に忠実な存在と言えるわけで、「階段」を上らないままそれを楽しみ続けている、とも言える。そして、小林氏が後発の世代に否定的だったのも、「じぶんの頭でかんがえる習慣をそこから直接つくりあげてきた」ことに自負があるからなのではないか、という気がする。確かに、かつての趣味人たちの趣味にかける生き様には圧倒されるし(たとえば、小林信彦植草甚一色川武大など)、それと同じことができるか、と言われればおそらく無理、と答えるしかない。とはいえ、先人たちとは比ぶべくもないが、現在のオタクたちもまたそれぞれの葛藤なり紆余曲折を経たうえでオタクをやっているわけで、「昔の人は偉かった。それにひきかえ今の連中は」などとは言えるはずもないのは当然のことだ。これを書いているうちに思い出したが、20年近く前に、ある映画のムック本で切通理作氏が『映画秘宝』をマニュアルのようにして「サイテー映画」を観ているファンを批判していたことがあったが、あれも切通氏に「じぶんの頭でかんがえる習慣」についての自負があったからなのだろう。

 ただ、オタクを否定すべきではないのと同じように、「階段」の存在もまた否定すべきではない、と思う。筆者も経験していることだが、大人になれば子供向けの作品に物足りなさや飽き足りなさを感じることはどうしてもあるのだ。「階段」を上ることを躊躇すべきではない、と思いながらも、筆者は踊り場かあるいは中二階にとどまり続けたまま、階段を完全に上りきれないでいるのだが。

 『おかしな時代』を読んでいて、「やっぱり小林さんは自分とそれほど違わないんじゃないか?」ともうひとつ思ったのは、「どこかのホテルのロビー」で津野氏が小林氏と話していると、小林氏がグルーチョ・マルクスのアヒル歩きを再現した、というくだりである(同書P.348)。小林さん、「こちら側」じゃん…と思わざるを得なかった。まあ、『燃えよドラゴン』を観て家でブルース・リーのモノマネをした人だから(あれを観てモノマネしない人が居るのか?とも思うけど)、実はわりとお茶目な人だとは思うのだが。

 

 ここまで長々と書いてきたが、結局は「オタクが認知される以前からオタク的な人々がいた」というひとつの事柄について説明したに過ぎない気もする。自分としてはオタクを殊更特別な存在に祀りあげるよりは、オタクを趣味人あるいは知的人種の一典型として捉えた方が理に適っていると考えていて、今回の文章はそういった考えに基づくものである。とは言うものの、オタクが特別な存在であることを今の時点で否定するわけではなく、あれこれ考えているうちにやはりオタクは特別だという結論に到達するかもしれないし、そうなったらそうなったで別に構わない。ともあれ、当ブログでは今後もオタクについて考えていくはずである。

 

 

 

 

ぼくたちの七〇年代

ぼくたちの七〇年代

 

 

 

おかしな時代

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1960年代日記 (ちくま文庫)

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銀座の学校

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みんな不良少年だった―ディープ・インタヴュー (1977年)
 

 

 

『愛国戦隊大日本』論争をざっと見てみた(その4)

 ゼネラルプロダクツが発行していた会誌『パペッティア通信』VOL.1・3(1982年11月発行)の深川岳志「だまされちゃいけない! これがホントのTOKONⅧレポート」を読んでいて「ん?」となった箇所があった。同誌P.5より。

(前略)いよいよ期待のゼネプロアワーの時間がやってきた。狭い特設舞台を十重二十重に取り囲んだ人垣の盛大な拍手の中、岡田武田組の登場。店の宣伝でもやるのかと思えば、なんのなんの、世にもエグい即興漫才が始まった。別段打ち合わせというほどのものはなにもしなかったらしく、前の晩に、とりあえずこれとこれはエグいし下品だしTOKON側を刺戟するだけだからやらないでおこうと決めたことを全部喋ってしまった、と後で云っていた。その酷さたるや言語に絶するもので、あまりの酷さ故とてもここには記せないが、百人以上の観客を前にして正調ピカドン音頭を教授したことからもその酷さは想像できるであろう。客席は受けに受け、中ホールに入りきれない者達は外に置かれたビデオを食い入るようにして見凝めていたという。(後略)

  「ゼネプロアワー」というのは、「TOKON8」の会場である都市センターホールの中ホールで行われた企画らしいが(メインのイベントは大ホールで行われた)、それはそれとしてピカドン音頭」とは何ぞ。どうにも嫌なものを感じる…。そういえば、筒井康隆『玄笑地帯』(新潮社)にもこんな一節があった(余談だが『玄笑地帯』はkindleで購入したのだけど、kindleはページ数が表記されないので、どう引用したらいいのか困る)。

(前略)そういえば最近のSF大会、アホな演し物競争がエスカレートして、パロディと称し右翼的な共産主義撲滅の8ミリ映画を作って顰蹙を買ったと思ったら、次にピカドン音頭というのを踊りまくり、原爆被害を受けている女の人からSF誌上で叱られていた。「あなたがたには他人の痛みがわからないのですか。面白ければよいのですか。次は『水俣節』か『イタイイタイ音頭』でも作るつもりですか」(後略)

  …ああ、やっぱりそういうことなのか。「ピカドン音頭」は原爆をネタにしたものなのか。「右翼的な共産主義撲滅の8ミリ映画」というのは当然『愛国戦隊大日本』なのだろうが(筒井氏が会場で観たかは不明)、とりあえず「ピカドン音頭」の話を進める。

 「ピカドン音頭」については、『愛国戦隊大日本』論争においてゼネプロを厳しく批判してきた波津博明氏も批判している。『イスカーチェリ』VOL.25掲載の波津氏のコラムより引用する。同誌P.80より。

 たとえば、彼らが日本SF大会の会場で踊り狂った「ピカドン音頭」の歌詞を考えてみよう。

「青いお空にピカリとピカドン

のどがかわいた水をくれ

肉がただれてたれ落ちて

河に浮かぶは焼死体

広島でピカ 長崎でドン」

 これが「パロディ」か。「タブーへの挑戦」か。「一億総中流(=主流)国」日本の、平均的小市民の、最も薄汚く醜悪な差別感情(これこそ「国家」を支えているものだ)を異常なほどに正直に吐露しただけの、思想のタンつぼである。

 …絶句。…え? いや、本当に? 本当にこれをイベントで踊ったわけ? にわかには信じがたいのだけど。波津氏の書き方にもひっかかる部分はありはするが(本当に日本の「平均的小市民」はそんな「差別感情」を持っているのか?)。ちなみに、上に挙げた深川氏のレポートの中で「TOKON8」で司会をしていた波津氏を「一言も冗談を云わない男」と揶揄しているくだりがあって、やはりゼネプロと『イスカーチェリ』が仲良くするのは無理だったんじゃ、と思わざるを得なかった。それはさておき、波津氏の文章からもうひとつ 引用する。同誌P.81より。

(前略)イギリス反核運動のリーダー、ジョン・ブラナーや、イタリアの平和主義作家リーノ・アルダーニを招待しておいて、その目前で、「お富さん」の節回しで「ピカドン音頭」を踊りまくること(いや、ブラナーをもち出さなくとも、一般のSFファンにだってもちろん、被爆者やその家族がいることは、『SFイズム』の投書欄で明らかになったではないか)がなぜ正しく、それは好ましくないとするぼくはなぜ間違っているのか、まずそのことから説明してくれたまえ。

  「ピカドン音頭」を「お富さん」の節回しで踊れるかは考えたくもないのでスルーしてしまうが、ここで気になるのは「『SFイズム』の投書欄」である。上で引用した筒井氏の文章にあった「SF誌上」とは『SFイズム』なのではないか。ということで、調べてみると、確かに当時の『SFイズム』の読者投稿欄にそれらしき投稿を発見したので、以下紹介することにする。なお、実際の投稿には投稿者の名前(実名かペンネームかは不明)が記載されているのだが、プライヴァシーに関わる内容であることを考慮して、名前のイニシャルでのみ表記するので、その点はどうかご了承いただきたい。

 

 まず、SFイズム』VOL.5(1983年1月発行)の読者投稿欄「読者だって言いたい放題」にTさんという女性の投稿が掲載されている。同誌P.129より。

 SF大会TOKONⅧについてちょっと一言。あれはもしかしてゼネコン(原文ママ)だったのでせうか。東京で大阪芸人が大活躍するのを悪いとは言わないけど、でもあの「ピカドン音頭」はひどかったな。ハルマゲドンだとか星間戦争だとか、宇宙空母だ戦闘艦だと戦争についてのテーマ、あるいは背景はSFにつきものです。でもそれは、今の世の中、少なくとも今の日本が平和だから言えること。戦争になってみなさい、シャピオさんなんかまっ先につぶれちゃうぞ!

 「ピカドン音頭」をいっしょに歌う少年少女らは何も思っているのでせう。SFを愛するものだからこそ、科学と冒険とファンタジィとはるかな未来に想いを寄せるものだからこそ、この平和を大切に守りとおしてゆかなければならないんじゃないかな。でないと「ピカドン音頭」にうかれてるうちにイズムも焚書になるぞ!

  この投稿には担当編集者(同誌編集長の細川英一氏)から「そーだよなー。」というコメントがついている。

 ところが、続くVOL.6(1983年4月発行)の「読者だって言いたい放題」にH氏からTさんへの反論が掲載されている。H氏は、「SFというジャンルは自由なものである」ということを共に謳っている、筒井康隆小松左京の文章を長々と引用した後で、

(前略)(Tさんの意見に)「そーだよなー」などと同調している細川氏よ、おそらくヒューマニズムかなんかに眼を曇らされたのだろうが、そんなこっちゃ、毒で売ってるSFイズムの名が泣きますぞ(後略)。

と書いている。これには細川氏もカチンときたのか、

(前略)あなた「反論したい」っていってるけど、あなたの意見はどこにもないじゃないか。こういうハガキも最近ふえてる。自分の考えを書いておくれよ。そしたら受けて立つかいもあるんだけど。

と反論している。…まあ、掲載されている文章の49行のうち筒井・小松両氏の文章の引用が32行も占めていれば、細川氏の苦言は正しいとしか言いようがない。40年近く前の文章に突っ込むのもなんだが、H氏がヒューマニズムに眼を曇らされたくないばかりに、人間を辞めてなければいいと思うけれども。

 さて、H氏からの反論を受けて、今度はTさんの反論がVOL.7(1983年7月発行)の読者投稿欄「読者だってゆってもいいとも!」に掲載されていた。長くなるが、大事な文章なので可能な限り略さずに紹介したい。同誌P.121~122より。

(前略)世の中にはいろんなできごとがあって、人々はそれを評価し、時には皮肉ったり、パロディを作ったり、劣等感や優越感の中で生きてます。それはそれで必要なんだろうし、他人の不幸を笑えるというのは、自分はそれに関しては少なくとも不幸ではないわけだから、いい現象なのかもしれない。でもね、(中略)たとえば、筒井氏はあー言った、小松氏はこー言った、SFってのは、どんな悲劇をも描いて可能な自由なものなんだ、だから「ピカドン音頭」に反対するなんてナンセンスだ、とゆうこの論法には抵抗があるのね。(まず、「ピカドン音頭」がSFなのかどうか、私にはよくわからない。歌詞を最後まで聞く心のゆとりがなかったので…)

 SF大会で「ピカドン音頭」を聞いたときのショック……!

 私が感じたものはね、「怒り」なの。

 私は長崎で生まれ育ち、母は被爆者です。わかります? 小さい頃から同級生が白血病で亡くなったり、親類の人が原爆症で苦しんでいるのを見てきました。被爆から40年近くもたっているのに、この悲劇は「過去」ではないのですよ。少なくとも私にとってはそうです。SF大会の会場であれを聞いた時、私は、母や祖母や、多くの被爆者がさらしものにされている気がしました。悲しいとか、そんなもんじゃない。怒りです。

 過去や現在の悲劇を直視して真実を語ることには意義もあるし、大切な人類の義務だと思う。もちろんそれをとりあげてSFするのも、大切な視点のひとつだというのはわかります。だけど「ピカドン音頭」ってあれは何なの? ヒューマニズムが何だとかって、そんなきれいごとじゃないんだよ。私はね、あれをきいて腹が立ったの、それだけ。

 SFする人たちに、長崎や広島で苦しんだ(あるいは苦しんでる)人達ををあんなふうに余興で笑ってほしくなかった。「ピカドン音頭」を歌い踊ることで「過去の呪縛を解」くことができるのならば、「ミナマタ音頭」とか「イタイイタイ音頭」とか「ゼンソク音頭」とか、どんどんやればいいじゃない。日本中そうやって歌って踊って、笑ってしまえばいいじゃない。それが本当に筒井氏、小松氏言うところのSFらしさならば。でも、私はね、そうは思わないのよね。両先生の言ってる事って、もう少し違う気がする。

 私はここで戦争だ何だと大きいことを論じるつもりはないのです(今回は)。つまりさぁ、私はね、「ピカドン音頭」なんてのをSF大会という舞台でやってほしくないわけ。少なくとも一緒に歌ってる人達には、ほんのちょっとでいいから、それがどんなことなのかってのを知っててやってほしいの。

 私がこんなにやめてくれと連呼していても、今年はゼネ・プロさんのホームグランド、きっとまたやるんだろな、やだな。(後略)

 この投稿には担当編集者(細川氏?)から、

ピカドン音頭」がSFかどうかはさておくとしても、ダルマが訴えられたりする今の日本で、こういう問題の一番近くにいるのがSFであることは確かです。このようなことはこれからどんどんふえていくはずですし、誰かが考えなければならないことでしょう。他のところが避けて通っている以上、これはもううちがやるしかないようですなあ。

というコメントがついている。

…このTさんの投稿を読んで筆者が一番最初に思ったのは、

「筒井さんの書き方、あれってどうなの?」

ということだった。上に引用してある筒井氏の文章をもう一度読み返してほしいのだが、あれだと女性がヒステリックに反論しているように読めてしまうが(筒井氏の小説でしばしば見かけられるような)、実際のTさんの文章はそういうものではなく、「ピカドン音頭」に対する怒りと悲しみをそのままぶつけるのではなく、あくまで抑制を保ちながら知的にユーモアを交えて書いた、それだけに胸を打つ内容になっている(頭ごなしにやめろと言わずに、「きっとまたやるんだろな、やだな」とだけ書いているのも悲しい)。…いや、今回こうやって調べなかったら筆者も誤解したままだったろうから、正直怖い。それに、毒というかブラック・ユーモアは誤った受け取り方をされると危ない、という風に以前は思っていたけど、こうなってくると、毒/ブラック・ユーモアそのものが危ない代物なのではないか、という気がしてきた。少なくとも、そんなに有難がるようなものではない、と思うのは筆者が年を取ったせいなのかもしれないが。

 その次に思ったのは、「どうして波津氏は『ピカドン音頭』より『愛国戦隊大日本』の批判に躍起になったのか?」ということである。…いや、そりゃあ、「排外主義的な映画」も「そんな映画をSF大会で上映すること」も問題なのかもしれないけど、ならば「ピカドン音頭」をSF大会で踊ることの方が問題なのではないか? と思われて仕方がないし、批判に割いた分量があまりに違いすぎる。この点で気になるのは、『愛国戦隊大日本』を批判する「緊急共同アピール」の中で、

(前略)この映画が、日本ファンダムの内外に対する“顔”であり(中略)大会実行委の管理下にある、年次SF大会のメインホールで、何らの注釈もなしに上映された、という点です。

 

しかし、この種の映画は、日本SF大会のメインホールで上映すべきものではありません。

 と2度にわたって傍点付きで書かれていることで、ならば「ピカドン音頭」はメインホールじゃなかったからそこまで問題視されなかったのだろうか? と思ってしまう。

 ただ、「その2」で紹介した『イスカーチェリ』VOL.26の読者投稿欄でも「ピカドン音頭」について触れられているので紹介しておきたい。まず、沼野充義氏の投稿より。『イスカーチェリ』P.127より。

 それからもう一つ、気になったのは“ピカドン音頭”とかいうもののことですが(これだけも書いてあることだけからでは、あまりよくわかりませんが)、これはブラック・ユーモアとしてつくられているのでしょうか。それとも“大日本”と同じレベルの「無意味」な表現活動なのでしょうか? こういうものをつくっている人たちは、たとえば、アメリカのSFファンが「日本人は劣等な黄色人種だからもっと原爆を日本に落としてやらねばいかん」という趣旨のアニメ映画を(たとえ“大日本”と同じ軽薄さのレベルでも)つくったとして、それを顔色一つかえずに平気で見ていられるのでしょうか。そうだとしたらたいしたものですが、残念ながら、小生のとぼしい体験からでも、そうではなかろう、ということは言えそうです。異民族との接触の殆どないのどかな日常生活の中で育ってきた日本人は、頭の中では人種的偏見はないつもりでいても、いざ自分に対して差別的な言葉が使われたとなると、おかしなほど免疫がないというか、過敏な反応を示すものです。

 ブライアン・オールディスリトルボーイふたたび』の一件をなんとなく思い出したが、どうなんだろうなあ。「ピカドン音頭」にどんな意図があるのか、筆者にはさっぱりわからないので。

 もうひとつ、田波正(殊能将之氏の投稿より。同誌P.129より。

 ちなみにぼくの判断では、「大日本」は内輪でやれば許せるネタ、「ピカドン音頭」はどのような場所でやろうが、やったとたんにその人の神経を疑われてもしかたのないネタだと思っております。

 …「その2」で紹介した文章もそうだけど、個人的に田波氏の文章には納得できる部分が多い。「大日本」の論争を扱っていて、ゼネプロにも『イスカーチェリ』(というか波津氏)にも共感できなくて困っていたけど、こういう人がいてくれるのは有難いし、時代を超えて誰かと同調できるのはなかなか嬉しい体験でもある(それだけに殊能氏の早世は残念だ)。

 『愛国戦隊大日本』が時の流れに影響されていたように、「ピカドン音頭」もやはり時の流れに影響されているのかもしれない。「TOKON8」の4年後にチェルノブイリ原発の事故があり、そして言うまでもなく2011年に福島第一原発の事故があって、「核」に対する見方は「TOKON8」の時点よりも格段に厳しくなっている。筆者が「ピカドン音頭」に対して強い違和感を抱くのはそのせいかもしれない(あるいは、筆者が平和教育に熱心な土地で生まれ育ち、原爆の惨禍を幼少時から教えられていた、個人的な事情が原因なのかもしれない)。…いや、それにしたって、冒頭に挙げた深川氏のレポートにあるように、「客席は受けに受け」って本当に? と思ってしまうのだけど。盛ってくれてたらいいのに、とまで思ってしまう。

 

 …長くなってしまったが、以上で『愛国戦隊大日本』論争にまつわる説明を終えたい。筆者が調べたことは一通り書いたが、表題に「ざっと」とあるように、あくまで不完全な調査であることは自覚しているので、ここまでの文章に間違いや抜け落ちている点があればどうか指摘していただきたい、とお願いする次第である。

 

 それでは、ここから『愛国戦隊大日本』論争について、個人的に総括してみたい。本稿の中で何度も引用してきた、長山靖生『戦後SF事件史』(河出ブックス)は次のように『愛国戦隊大日本』論争についてまとめている。同書P.191より。

 思想の健全性を重視する近代主義と、すべてに本質的な意味を認めずに快楽原則で生きようとする相対主義の分岐点が、ここにはあった。モダンとポストモダンのすれ違いが、これほど明確に現われた事例も少ないだろう。

 実に見事なまとめ方で、一般的な見解としてはこれでいいと思うが、筆者にはいささかきれいすぎるように思えてしまう。というのも、ゼネプロ側がSF大会に対して実に生々しい感情を抱いていたことが見えてしまっているうえに、作品を批判された彼らはごく普通に怒っていて、相対主義的な態度には見えないからだ。『愛国戦隊大日本』という作品のありようがポストモダンだったとしても、作っている人間はそうではなく、モダンの尻尾をかなりひきずったポストモダン、くらいにしか思えない。まあ、これが難癖に過ぎないのはわかっているので、長山氏にはお詫びしてから、続いて筆者の見解を書いておく。

 まず、この問題で誰に一番の責任があるのかと言えば、それは言うまでもなく人騒がせな作品を作ったゼネプロである。自分のやったことでどのような影響が生じるのかを考えていないあさはかな行動だと言わざるを得ない。ただ、ここで問題になるのは、行動自体はあさはかであっても、『愛国戦隊大日本』という作品のクオリティが高いことと、『大日本』という悪ふざけに近い作品であってもスタッフは一生懸命に作っていることで、そういったことはプラスの意味で評価しなくてはならないので、全否定するわけにもいかないのが難しい(『大日本』の制作秘話というか苦労話は岡田斗司夫氏や武田康廣氏の著書を参照されたい)。もちろん、「ピカドン音頭」は論外だし、『愛国戦隊大日本』と「ピカドン音頭」が同じ「TOKON8」での出来事だった、というのは記憶されておくべき事柄だと、少なくとも筆者は個人的に考えている。

 それから、公平を期すために書いておくと、『愛国戦隊大日本』の「TOKON8」での上映は「不意打ち」に近いものだったかもしれないが(それで司会をしていた波津氏はショックを受けてしまった)、「その1」にも書いた通り、大会の運営側にはゼネプロ側から事前に口頭で説明があったことは『大日本』を批判する「緊急アピール」の中に書いてあるので、完全な「不意打ち」や「だまし打ち」にはあたらないし、また、フィルムを確認しなかった運営側の落ち度も「緊急アピール」は認めている(なお、『大日本』が完成したのは上映の前夜だったとのことなので、実際のところ確認は難しかったと思われる)。

 とはいえ、『イスカーチェリ』に問題がなかったか、というと、そうとも言えない。個人的に首を捻ってしまうのは、「SF大会の来場者や招待客に不愉快な思いをさせてはいけない」くらいの注意だったなら、そこまでこじれはしなかったんじゃないか? という点である。「極右礼賛」「排外主義」などという作品の内容にまで踏み込んだ批判は、その点に無自覚だったゼネプロには通じなかったし、彼らには高級すぎる批判だったのである。それに、政治的主張に力をだいぶ入れている向きもあるし、ゼネプロを「営利団体」「金儲け右翼」など揶揄したり、さらにはファンまで揶揄したり、余計なことをやりすぎている。まあ、『大日本』は別件としても、ゼネプロを以前から不愉快に思っていたのではないかな? と邪推したくなってしまう。

 次に『愛国戦隊大日本』論争の勝者は誰か? について、である。はっきり言ってしまえば、この論争自体はごくごく単純なものである。

 

イスカーチェリ「あんな排外主義的な映画を作るとはけしからん。しかも、外国からの招待客も来るSF大会で上映するとは何事か」

ゼネプロ「いや、あれはただのシャレですから。冗談ですって」

イスカーチェリ「シャレで済む問題ではない」

 

 以上、わずか4行に要約できてしまう。そんなシンプルな話を4回にわたって長々と書いてきた自分自身に呆れるが、ところで、この場合どちらを勝者とすべきか、と言われても、そんなの判定できるわけがない、というのが正直なところだ。水掛け論の審判など女神テミスにも難しいだろう。どっちも負けでいいんじゃない? と言ったら怒られそうだからやめる。

 ただ、ゼネプロの方が有利に見える、とは言えると思う。「その1」の冒頭で書いたように、ゼネプロからはその後クリエイターとして大成した人間が何人も出てきていて、その結果、後付けとして『愛国戦隊大日本』も彼らにとっての「アマチュア時代の武勇伝」として捉えられている向きは確かにある(「ピカドン音頭」も「武勇伝」になるのか?)。また、先に引用した長山氏の文章に出てくる相対主義」「ポストモダン的な風潮に『愛国戦隊大日本』はマッチしていた、とも言えると思う。平たく言えば「面白ければそれでいい」「笑えればなんでもいい」、という、現在に至るまで途切れることなく続いている流れである。その点で言えば、現在の視点で見れば『大日本』も微温的な作品に見えてしまうので、「そんなのにイチャモンをつけるなんて」と批判してきた側に呆れることもあるかもしれない。

 その反面、もしも仮に現在同じような事件があったとしたら、当時とは事態は全く違うものになるだろう、とも思う。つまり、あるイベントで『愛国戦隊大日本』のように政治的にデリケートな問題をネタにした作品を上映したらどうなるか、という話である。当時なら会場に来た人間だけが目にして終わりだっただろうが、今はネットが存在している。イベントを生配信することは珍しくないし、SNSでも情報はあっという間に広がる。そして、40年前と比べて「不謹慎」に対して世の中はだいぶ厳しくなっている。『大日本』の論争の時のゼネプロのように「冗談だった」と釈明しても許されるかどうかは微妙なところだろうし、一般のネットユーザーたちから批判されれば謝らざるを得ないのではないか、とこれまでに起きた数々の「炎上」の事例を見ても思う。「面白ければそれでいい」はもはや時代遅れの考え方なのかもしれない。

 さて、ここで「その1」の最後に取り上げたアオイホノオの件について考えてみたい。おさらいすると、マンガの中では『愛国戦隊大日本』を作るにあたって、最初から『イスカーチェリ』を仮想敵として考えていたかのように描写していて、岡田・武田両氏の証言とも違っていて、一体どうなってるんだ? と混乱した、という話である。

 結論から先に言えば、『アオイホノオ』の描写は「盛っている」、というのが個人的な考えである。盛ったのが証言者なのか、島本氏なのかは知らないが、事実とは異なっている、と思う。単純に言えば、『愛国戦隊大日本』はアマチュアの若者たちが多大な労力を払って完成した作品で、気に食わないサークルをからかうためだけにわざわざそこまで苦労しないだろう、というのが第一の理由である。第二の理由は、岡田・武田両氏の反応で、彼らの怒り方もしくは戸惑い方は「思いも寄らないことを言われた」時の人間の反応のように筆者には見えるのだ。『イスカーチェリ』を仮想敵にしていたのであれば、彼らから批判が来るのは当然予期していたはずで、それならもう少し気の利いた返しを用意していてもいいのに、岡田氏も武田氏も実に素直に怒りを表している。それで「盛っている」と判断したのだが、とはいえ、『アオイホノオ』は現在も連載中で、『愛国戦隊大日本』についてもまた何か描かれるかもしれないので、その点は注視していきたい。

 

 また、かつて「唐沢俊一検証blog」をやっていた人間から見ると、かつて「SFの先輩」に怒っていた岡田氏が後になって「オタクはすでに死んでいる」などとオタクの「後輩」に対して批判的な態度をとったのも解せないところである。権力による抑圧を批判していた人間がいざ権力の座に就くとより抑圧的な振舞いをするようになる事例も珍しくはないが、そこまで大仰な話でもなくとも、自分がされて嫌だったことを他人にしていませんか? と疑問を持たざるを得ない。細かい点で言えば、そんな岡田氏と唐沢俊一氏が「オタクアミーゴス」で一緒だったのも解せない。『ぴあ』の「ガンダム論争」での唐沢氏のスタンスは、80年代初頭のファンを批判している点においては『イスカーチェリ』に近いのではないか(もっとも、別の点で唐沢氏と『イスカーチェリ』は相容れないだろう、とは思う)。

 

 最後にはっきり書いてしまうと、『愛国戦隊大日本』論争は筆者にとってはわりと他人事である。40年近く前の出来事ということもあるし、生まれてこのかた一人でオタク趣味を楽しんできた人間としては、「集団で趣味を楽しむのってやっぱり面倒臭そう」という感想しか持ち得ない。まあ、全く自覚はないものの、「みんなで楽しそうにしやがって」という羨望や嫉妬も心のどこかにある可能性は否定しないけれど、そうは言っても我が事として受け止められないことに変わりはない。『ぴあ』の「ガンダム論争」はかつてハガキ職人をやっていたこともあったので、身につまされる思いも少なからずあったが、今回はそのような感情はない。若気の至りについてはこの件に限らず常々自覚しているので取り立てて言うほどのことはないし、「政治的あるいは社会的なネタを取り上げる時は気をつけよう」というのは、40年近く前の出来事を振り返るまでもなく、毎日のようにネットで燃え盛っている火の手を見ればわかることである。したがって、本稿の終わりに何かしら教訓めいた結論を書くつもりはないし、書く資格も筆者にはない。ここまで読んでくださった方が思い思いに考えてくれればそれで十分である。

 ただ、それでも、80年代初頭のSFファンたちの言動を見ると、「この人たちと今のオタクは全く違うわけでもないんじゃないの?」という思いが湧いてくるし、当ブログはこれ以降も「オタク史」を振り返っていくことを目的の一つとしていくはずなので、本稿をブログの幕開けとしたことは、それなりによかった、という気が今はしている。

                               (この項おわり)

※追記

岡田斗司夫『世紀の大怪獣!! オカダ』(イースト・プレス)P.177に再録されたマンガ「DAICONⅢあふたあ・れぽおと」に「DAICONⅢ」の打ち上げで「ピカドン音頭」を披露する岡田、武田、宮武一貴の三氏が描かれている。

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  筆者からは特に言うことはない。というより言いたくない。

 

玄笑地帯 (新潮文庫)

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S-Fマガジン 1970年02月号 (通巻130号)

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戦後SF事件史---日本的想像力の70年 (河出ブックス)

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『愛国戦隊大日本』論争をざっと見てみた(その3)

  岡田斗司夫『遺言』筑摩書房)の中で、岡田氏が「SFファンの先輩」に怒りをぶつけている部分がある。岡田氏によると、1970代後半当時のSF大会「東京のSFファンが、すごくでかい顔をしてのさばっている場所」で(『遺言』P.17)、大阪のベテランSFファンは先輩風を吹かせる癖に自分たちのことを全然助けてくれようとしない、という具合に、岡田氏にしては珍しく私怨をストレートに表現しているあたり、よほど悔しかったんだろうな、というのが伝わってくる。同書P.19より。

  その二年後の八一年、ようやく大阪の順番がまわってきたわけです。DAICONⅢは、僕らにしてみれば、一大復讐戦だったんですよ。

 大阪で先輩風ふかしている三十代の憎い大人たち! とか、SF作家の近くにいるというだけで業界風を吹かす、東京の勘違い野郎ども! とかに対するね。

「三十過ぎたら、人間、あんなに頭が固くなるんだ。オレは三十歳になる前に死んでやる!」とか公言していたんですから、あのころの僕って、なんと若かったことか。

 P.22より。

 今の状態じゃ、SF界はダメだ。

 SFを狭くとらえて、アニメも特撮も認めないと言ってたらダメになる。

 三十歳過ぎた頭の固い連中を土下座させられる。

 若いSFファン全員を味方につけられる。

 そんなアニメを作ろうじゃないか。

 こんな具合に思い詰めていた岡田青年が、「オタクはすでに死んでいる」と言い出した後の自分自身を見たらどう思うのだろう、という気もするが、「SFファンの先輩」や「東京のSFファン」に違和感を持っていたのは岡田氏だけではなく、いわゆる「大阪芸人」として岡田氏とコンビのように見られていた武田康廣氏もそうだったようである。『のーてんき通信』ワニマガジン社)P.43より。

 当時出会った東京のSFファンっていうのは、なにかというとすぐに、東京の地の利で作家とか出版社の人間と親しいことを鼻にかけているような人物が目立った。そう見えた。一番頭に来たのは、ぼくらが何か言うと、「あぁ、それね」などと言うことだ。「何でも知っている、ぼくは知らないことはありません」的な態度に出るのがたまらなく嫌だった。おまけにすぐ人を見下したような態度をとり、自分が優位に立たないと気がすまないような発言ばかりが目立つ人物もまた多かった。まぁ当時、ぼくらもそうだけど、SFファン自体が幼稚だったのではないだろうか。SFファンの論争自体がすぐ子供の喧嘩みたいに興奮したものになっていったのもそういう理由だからかもしれない。

 読んでいるだけで「東京のSFファン」が嫌いになりそうになるな…。岡田氏の文章を読むと「SFファンの先輩」は邪魔ばかりしていたように思えてしまうが、武田氏の方は「大きなイベントの前に小さなイベントをやって経験を積むべきだ」とアドヴァイスしてくれていた、と書いたり、『SFマガジン』に「SF大会」の告知を勝手に打った件は自分たちの落ち度だ、と認めていたり、比較的バランスが取れた見方になっているように思う(岡田氏はSF大会について「引き返しがつかないように会場まで予約した」と『遺言』で書いているが、この書き方だと既成事実化して強引に開催しようとしていたようにも読める)。

 また、武田氏が他の大学のSF研究会に話に行くとオルグ」「プロパガンダなどといった言葉が飛び出して抵抗された、とのことで、武田氏は「この時代はまだほんの少しだけ学生運動の影響が残っていたらしい」(P.27)と分析していて、興味深い証言になっている。

 2人の証言を読むと、こういった怨念が積もりに積もって『愛国戦隊大日本』を作った原動力になっていった、とも思えてくる。しかし、そういった怨念が創作に発揮されているだけならまだしも、現実に行動をとらせる原動力になっていたとすれば、話は穏やかなだけでは済まされなくなっていく。

 

 「星雲賞という賞がある。規約によると「優秀SF作品及びSF活動」を対象とした賞で、日本のSF界では最も権威のある賞のはずである(筆者はSFに詳しくないので、これに限らず間違いがあったら指摘してほしい)。星雲賞の選考方法は、これもまた規約によると、「一般及び日本SFファングループ連合会議加入グループによる候補作選定」を行ったうえで、SF大会の参加者がノミネートされた作品に投票して、最多得票を得た作品が賞に輝く、ということになっているようだ。これを踏まえたうえで話を進めたい。

年次日本SF大会におけるSF賞選定に関する規定

 

 SFイズム』VOL.9(1984年1月発行)に掲載された「GENERAL PROTOCULTURE」第2回に次のような一文がある。同誌P.73より。

さて第14回星雲賞に向けてDAICONスタッフはあの「大日本」をぶつけてみました。ま、つまり友達でSF大会参加権をもつ奴とかに声をかけたりそれとなく言ったりした訳です。そしたら来るわ来るわ、ブレードランナーの40数票を軽く引きはなして120票以上の得票となったのです(ま、しかし四千人からの大会で総投票数が200票そこそこというのも情けない話ですが……)。が、結果は無効ということになりました。

 何故無効になったかというと、「GENERAL PROTOCULTURE」によると、投票後に連合会議の上層部でセレクションが行われ、結局当時の議長だった 門倉純一氏の判断によって無効になった、ということらしい(そして結局『ブレードランナー』が受賞している)。この回の「GENERAL PROTOCULTURE」はそれを受けて星雲賞のありかたに疑問を呈していく内容になっているのだが、長山靖生『戦後SF事件史』(河出ブックス)によると、次のような事情もあったらしい。同書P.194より。

 とはいえ、連合会議がゼネプロ作品に星雲賞を出さなかった理由は、彼らの作品を排除するためではなく、むしろゼネプロをSFファン仲間と思っていたからこその配慮だった。SF大会に集ったファンの投票で決める賞で、SF大会がらみの身内の作品を受賞させるのは、あまりにお手盛りすぎる。ことに映像メディア部門では、何が受賞作に選ばれるかは、SF外の映画関係者なども注目しているため、良識ある対応が求められたというのが、日本SFファングループ連合会議側の事情だった。

 もっともな話のようにも思えるが、「君たちのためなんだ」と説明されてもゼネプロ側は納得できなかったろう。武田氏の『のーてんき通信』P.87より。

なんせダイコン3のオープニングアニメが星雲賞の映像部門でトップの投票数を得たにもかかわらず、一般公開していないというこじつけで特別賞にされた。

 連合会議の示した理由は「こじつけ」にすぎない、というわけであるし、前年に「DAICON3」のオープニングアニメの受賞も無効になっていた、ということのようだ。

  ところで、上に引用した「GENERAL PROTOCULTURE」で気になるのは、『愛国戦隊大日本』に星雲賞を取らせるために組織票の工作を行った、と堂々と公言していることである。ちなみに、武田氏は後に因縁のある日本SFファングループ連合会議の議長に選出された際にも、同様の工作を行っている。『のーてんき通信』P.87~88より。

(前略)白状するべき点は、そのときの賛成票の多くは、ぼくらが作って、そのときだけ加入した架空のSFファングループだったのだ。柿崎(引用者註 一吉)氏も知っての暴挙だった。

 だから、この手のラフプレイというか反則行為も辞さない部分が当時のゼネプロにはあったのだろうし、逆に言えば議長選挙でこういった手が通るのなら、星雲賞の選考もどの程度厳密だったのか疑問になってくる。 

 ここで問題になるのは、「工作を行った」と公言することによって、たとえゼネプロにはそういった意図はなかったとしても(本当になかったかは疑問だが)、相手方を挑発する意味合いが生じてくる、ということだ。現に『愛国戦隊大日本』をめぐる論争の相手方である波津博明氏は、『イスカーチェリ』VOL.26所収のコラムでゼネプロ側の行為に憤っている。同誌P.116より。

(前略)TOKON以来GP(引用者註 ゼネラルプロダクツの略称)の動きもあまり耳に入ってこないし、もし“大日本”がこれで沙汰やみになるなら、本格的な論争は避けてもいいと考えていたころである。そこへ、あるファンから「ダイコンⅢオープニングアニメで受賞できなかったGPが、今度は“大日本”を星雲賞にぶつけようと運動している」という情報が入った。

(中略)

そこで僕は真相を確かめようと、GPに直接電話した。出たのは岡田氏。“大日本”で星雲賞を狙っているという話があるが、どうか、ときいたところ、「とんでもない。第一あんな出来では話にならない。みんなでリメイクしようといってるくらいですよ。星雲賞なんてとてもとても。そんな話があったら、こちらから辞退したいくらいのもんです」という答。なんと僕はこれを信用してしまったのだ。(後略)

 にもかかわらずゼネプロは運動していた、というわけである(谷山浩子オールナイトニッポンで「大日本」の主題歌がリクエストの1位を取ったりしたらしい)。論争だけを見ていると波津氏が怒りすぎなのでは、という気もしていたのだが、自分が司会していた会場で不意打ちに近い形で『大日本』が上映されるわ、電話で嘘をつかれるわ、そりゃ怒るのも無理はない、と同情せざるを得ない。なお、波津氏はこの文章の後で「全くのアマチュアのおふざけフィルム」が『ブレードランナー』に勝利を収めた「星雲賞」の投票方式に疑問を投げかけているが、それは「確かにおかしい」としか言いようがない。

 

 これとは別に指摘しておきたいのは、当時のゼネプロが「金儲けに走っている」と見られていたことである。たとえば、『のーてんき通信』P.63より。

 新しいビジネスを始めるとやっかむ連中も出てくる。ある日海洋堂をたずねて行ったとき、たまたま来ていた模型問屋の人に紹介してもらった。するとその人は「ああ、あの金に汚い商売をしている」と言った。(後略)

 このケースは模型業界の話であり、武田氏の言うようにやっかみなのかもしれないが、しかし、SFファンの世界でも似たようなことはあったようで、「その1」で紹介した堀秀治氏(波津博明氏の変名) のTOKONレポートでも、「大阪の営利団体ゼネラルプロダクツ」「まあ、せいぜい商売に熱を入れるのがよろしいんじゃありませんか」と揶揄されていて、『イスカーチェリ』VOL.26で岡本篤尚氏は、

 僕は当初から、

(中略)

ゼネプロを真正右翼であるかのように見る波津氏の見解は誤りであり、彼らは、単に右翼タカ派的な昨今の時流に迎合して金儲けをたくらんだ迎合右翼/金儲け右翼と見るべきだと主張してきた。(後略)

 と主張している(同誌P.122)。また、本稿でたびたび引用している『戦後SF事件史』には、『愛国戦隊大日本』をめぐる論争について次のように説明されている。同書P.189~190より。

 この後、論争が起こるのだが、実はすぐに起きたわけではなかった。大会後に出た「イスカーチェリ」27号では、小さなコラムでその不見識をちくりと指摘するに止まっている。それが本格的な批判に発展したのは、大阪芸人がSFグッズの店を出し、SFを商売にしはじめたことが大きかった。DAICON3オープニング・フィルムや「愛國戦隊大日本」のビデオを販売し、またDAICON4で星雲賞獲得を目指して、ファンダムに働きかけるなどのロビー活動を展開。さらに彼らはDAICON4で儲けようとしているとの噂も聞こえてきた。

 それまでのSF大会は、ずっとボランティアで営まれてきた。スタッフがボランティアであるのはもちろん、幹部スタッフは赤字の穴埋めをするのが慣例だった。だからこそ、作家たちも無報酬で講演やシンポジウムを行ない、カンパさえしてきたのだ。大阪芸人がSFを商売にするのは勝手だが、SF大会まで食い物にするのは許せないと考えるSFファンもいた。「愛國戦隊大日本」は彼らの身勝手さの象徴のようにも思えた。

 この長山氏の説明は重要である。ただし、重要なのはおそらく氏の意図していない点なのではあるが。何より奇妙なのは「SFグッズの店」、つまりゼネラルプロダクツが開店したのは1982年2月14日で(『のーてんき通信』P.63に明記されている)、『愛国戦隊大日本』が上映された「TOKON8」が開催される半年前、ということである。前年(81年)に開催された「DAICON3」で試しにガレージキットを売ってみたところ、瞬く間に完売したのを見た岡田氏がSF専門店を作る構想を閃いたそうで、若い時から商売の勘が優れていたのだな、と感心させられる。それはともかく、長山氏の説明に従えば、『大日本』が上映された後でゼネラルプロダクツが開店しなければならないはずなのに、実際の流れはそうではない(細かいことを言えば『戦後SF事件史』で挙げられている『イスカーチェリ』の号数も誤っている)。実際の流れに即して考えるなら、「ゼネプロが商売に乗り出したから論争が始まった」のではなく、「もともとSFグッズを商売にして一部のファンから悪感情を持たれていたゼネプロが星雲賞獲得のための運動に乗り出したから論争が始まった」ということではないか。これなら上に引用した波津氏の文章とも符合する。

 …さて、ここまで書いてきて、筆者の頭にひとつの疑問が浮かんできた。「商売、あるいは金儲けは悪いことなのだろうか?」という疑問である。もちろん、ゼネプロが阿漕な商売をしていたらそれはもちろん批判されるべきことだが、『イスカーチェリ』や長山氏の文章を読む限り、SFを商売にすること、それ自体が悪いように読めてしまうのだ。

 ゼネラルプロダクツは日本で成功を収めたはじめてのSFショップだったのだが、開店当初はもちろん「3ヶ月持てば上等だ」などと陰口を叩かれていた。

 と武田氏が書いていたにも関わらず(『のーてんき通信』P.106より)成功を収めたのだからそれは評価されるべきことだし、現在のオタク系グッズの充実ぶりを見ても、ゼネプロには先見の明があった、とするのが妥当ではないか。少なくとも、チャンコ増田をせせら笑った「マネーの虎」たちよりは先見の明はある(いつの話だ)。もっとも、アマチュアリズムを持ち上げ、商売/金儲けを批判する心性は今でもあるのだろう、という気はするが(最近ネットで話題になっていた「同人誌の値段が高すぎる」問題など)、ファンが増えてSFというジャンルの裾野が広がっていた当時の状況で、長山氏が書いているような「ボランティア」「無報酬」だけでいつまでもやれたはずはなく、商売/金儲けが関わってくるのは時間の問題だったはずで(ゼネプロがやらなくてもいずれ誰かがやっていただろう)、また商売/金儲けがからむことによってジャンルの裾野はさらに広がっていくわけで、それは一般的には「発展」としてとらえられることだろう(もちろん「堕落」ととらえる人もいる)。

 そして、実際1980年代初頭にSFファンは増えていて、だからこそ岡田氏はSFファンを相手にした商売が成り立つ、と見抜いて専門店を開業したわけで、また、『愛国戦隊大日本』論争においてゼネプロの相手方となった人々もファンの増加を実感していたのである。

 たとえば、翻訳家の深見弾氏である。深見氏は「TOKON8」の会場で共産圏からの来客に対応していたそうで、そういう状況で『大日本』が上映されればたまったものではない、というのはよくわかる。深見氏は『SFマガジン』1982年11月号のコラムでも『大日本』を批判しているが、ここでは『イスカーチェリ』VOL.24の巻頭コラムから引用しておく。同誌P.4より。

 SF大会で「愛国戦隊大日本」を演じた連中は、きっとどんな時代でも楽しく生きていけるだろうから、それはそれでいいのだが、あれに拍手喝采を送った若者たちはいったい何を考えているのだろう。

  もうひとり、波津博明氏の文章も見てみよう。『イスカーチェリ』VOL.25、P.79より。

(前略)猫もしゃくしもSFを読み、いやそれどころか、キャラクターフェティシズムの、オモチャメーカー提供合体ロボットマンガを何本かご覧になって「SFファン」になられる少年少女が(中には二十代にもなった退行性青年も多いときくが)バッコしているご時世に、少なくとも「自称SFファン」は異端でも少数派でもない。それどころか、今や多数派である。「SF大会」にしたって、四ケタの人間が集まってくれば、確実に三分の二は、キャラクターフェティシストか、それに毛が生えた程度の「SFファン」だ。

 …『愛国戦隊大日本』論争の2年前に『ぴあ』の投稿欄で繰り広げられたある論争を思い出して、思わず血が騒いでしまう皮肉たっぷりの文章だが(その論争については「唐沢俊一検証blog」の「1981年の祭り」全7回を参照されたい)、深見氏も波津氏も、『大日本』の製作者ではなく「SFファン」を対象にしている点では一致している。自分たちとは違う新たなファンの出現にとまどい、反感を抱いているのは2人とも同じだろう。

 

「あ、そうか。これは論争と言うよりは抗争なんだ」

 

 遅ればせながら、ここに至ってようやく筆者は『愛国戦隊大日本』をめぐる論争について「つかめた」感じを持てた。つまり、保守的なマニアとアニメや特撮も「あり」と考える新興勢力とのSF界における争い、である。「排外主義」とか「SF大会でそういう映画を上映するなんて」とか、論争自体を見ていてもいまひとつピンとこなかったのが(なにしろ40年近く前の話だ)、背景までさかのぼってようやく「つかめた」、そういう気持ちになっている。もちろん、人によって解釈は分かれるだろうが、少なくともそう考えた方が筆者には一番わかりがいい。

「GENERAL PROTOCULTURE」第2回で岡田・武田コンビは次のような文章を書いている。『SFイズム』VOL.9、P.75~76より。

 その昔、SF界には作家もファンも分けへだてない蜜月時代があったと伝えられています。その中で共通の特殊言語(あるいはキャラクター)が育てられ、その閉鎖性により、より結びつきは強まりました。しかし時は流れて「私たち」が彼らの中に入って行ったのです。「私たち」は彼らの言語、タブー、秘密の習慣を知りませんでした。壁が生れたのです。その壁の発生により「彼ら」の結びつきはより強まり、その言語を知り、その習性を身につけている事が「古参兵」の証しとなったのです。当然、その言語を新参の「私たち」に教えようという試みがなかったわけではありません。しかし拡大しつつあるメディア(たとえばアニメファンにはどうすればSF界の用語を伝えられるでしょうか?)の勢いにかなう訳がなく、今の二分化された状況があるのです。 

 SFファンが世代によって分断されている状況を嘆いていて、長山氏は『戦後SF事件史』の中でこの文章を引いた後で「一般論として傾聴に値すると思う」と書いている(P.194)。ただ、筆者は「いやいや、そうは言っても、ゼネプロとイスカーチェリが仲良くできるとはとても思えない」という身も蓋もない感想しか思い浮かばないので、我ながらいかがなものかと思う。両者が同じSFファンと言っても、拠って立つ文化とアティテュードがあまりに異なっているのは明らかで、言い方を変えればSFファンであることしか共通点がない、とまで言えるのであって、むしろそんな両者の距離が近すぎたのが『大日本』論争の一因ではないか、と思う。岡田・武田コンビが嘆いていたのとは逆に、二分化あるいは棲み分けの不徹底が争いを生んだのではないか、とも思える。このような対立は、ジャンルの過渡期にはよくあることなのかもしれないが、細分化かつ多様化が進んだ現在のオタク文化から見てみると、この30年余りで状況が劇的に変化したのだと思い知らされる。

  なお、「DAICON3」のオープニングアニメと『愛国戦隊大日本』がそれぞれ「星雲賞」の「大会メディア賞」を受賞した、という記述も一部で見られるが、公式サイトの「星雲賞リスト」(http://www.sf-fan.gr.jp/awards/list.html)に2つの作品は含まれていないので、いずれも受賞していない、と考えるのが妥当だろう。

 次回、「その4」は『大日本』論争に付随したある問題を取り上げた後で、論争自体の総括を行い、本稿を締めくくる予定である。

 

 

遺言

遺言

 

 

 

のーてんき通信―エヴァンゲリオンを創った男たち

のーてんき通信―エヴァンゲリオンを創った男たち

 

 

 

 

 

戦後SF事件史---日本的想像力の70年 (河出ブックス)

戦後SF事件史---日本的想像力の70年 (河出ブックス)

 

 

『愛国戦隊大日本』論争をざっと見てみた(その2)

 前回は思わせぶりな引きをしてしまったが、今回はそれとは違った話から始める。

 『愛国戦隊大日本』について、ゼネプロと『イスカーチェリ』の評価が完全に分かれているのは前回見た通りだが、論争の当事者以外の人間がどのように見ていたかも気になるところなので、今回は最初にそういった人たちの反応を見ていきたい。

 まずは、長山靖生氏の感想から。氏の『戦後SF事件史』(河出ブックス)の中で『愛国戦隊大日本』論争が手際よくまとめられているというのは前回も書いたが、長山氏自身の『大日本』への評価は以下の通りである。同書P.188より。

 もちろんこの作品は冗談として作られたもので、思想的に社会主義ソ連を批判する意図があったわけではない。むしろ「思想的」であること自体を揶揄した作品といったほうが適切だろう。

(中略)

「大日本」も素人の自主映画としては優れていたが、ショボさもあり、それがちょうどビートルズのミリタリー・ルックのように、「愛国」へのパロディにもなっていると私は感じた。

  バランスのとれた評価と言うべきだろうか。「「愛国」へのパロディ」波津博明氏に反論した深川岳志氏や山形浩生氏にも通じる部分があって、当時そのような受け取り方をしたSFファンが一定数存在していたことをうかがわせる。

  次にDAICON FILMの世界』VOL.1、P.42~43に掲載されている「愛國戦隊大日本によせて」から著名人のコメントを紹介する。まずは野田昌宏氏のコメント。野田氏はSF大会で『大日本』を実際に鑑賞している。

 スターウォーズⅢにおいて、ダースベーダーが仮面を取った時に池田大作氏そっくりな顔が出てきた。その時これにはとても、この世のものとも思えないパロディ性を感じた。それと同様に、去年、愛國戦隊大日本を見た時にも、全く同質のものを感じた。それに発表した時期も教科書問題なんかがあってとてもタイムリーだったし、作品としても痛烈な皮肉がきいていて大変おもしろいものだ。

 この作品に関して反共だのという、うがちすぎな意見を聞くが彼ら(関西芸人)の作品はむしろ、いわゆるステロタイプ戦隊ものを、大真面目になぞった実にばかばかしい作品であり、私は大いに狂喜した。

 さらに、次作についてはマッカーサー東京裁判金日成父子やアフガン問題などについて、彼らに大いにこけにしてもらいたいというような意見を持った人がいるらしいが、彼ら関西芸人にそれを求めるのは見当ちがいである。

 むしろ、彼らの次の作品は普通のパロディのレベルをはるかに越えて、別の次元から、決して高次元ではなく全く別の次元からのものであって、きっと、実にこの世のものとは思えないような 、共感をおぼえ、狂気乱舞(原文ママ)できるようなものに違いない。

 今後の活動に、期待しています。(談)

 ベタぼめである。「ダース・ベイダー=池田大作」説はともかく、若いSFファンの意気を買う気持ちは確かに感じられる(パロディの域にとどまってはいけない、という叱咤とも感じられるような)。ただ、筆者はこの野田氏のコメントを読んで若干複雑な気持ちになる。何故なら、波津氏が『イスカーチェリ』で、野田氏がSF大会上映後に「モスクワテレビのプロデューサーが来る予定だったけど都合で来ていなくてよかった」と冷や汗をかいていたほどの「反ソ映画」だ、と強調していたのに、当の野田氏から「うがちすぎ」と斬られている。これは波津氏を気の毒に思わないでもない(しかも波津氏は『DAICON FILMの世界』を読んだ形跡がある)。

 次に開田裕治氏。開田氏は素人の作った特撮8ミリ映画は「ヒーローごっこ、ぬいぐるみごっこのたぐい」でしかない「拷問映画」になりがち、と嘆いた後で、

いやー、さすがサービス精神あふれる大阪芸人の映画。これなら金とって人に観せても犯罪になりません。

 更に次に観た「帰ってきたウルトラマン」のオモシロイこと!色々難クセつける奴もおるでしょうが、気にせず面白さ、うけの王道を突き進んでください。

 一応断っておくと、「難クセつける奴」というのが『イスカーチェリ』とは限らない。後で話に出すつもりだけど、当時は特撮をSFとして認めないSFファンも大勢いたわけで。

  そしてお次は実相寺昭雄監督。おお。DAICON版『帰ってきたウルトラマン』、というか庵野監督に多大な影響を与えたご本人ではないか。実相寺監督は『大日本』も『ウルトラマン』も面白く観た、と言いながらも、「アマチュアの映画は芝居がひどくて見ていられない」と延々と批判を続けている。ある意味親身になってくれているのかもしれない。ただ、

ウルトラマンが出て来て、仮面をかぶってないのは何か意図があるの?

と、聞き手の池田憲章氏に聞いていたので笑ってしまった。

 そして、最後は平山亨氏。…いや、まあ、実相寺監督に話を聞きに行くくらいなんだから、平山Pのところにも行くんだろうけど、それにしてもよく行くよなあ。

青春とは叛逆の時代

叛逆の中からこそ新しい創造が生まれる。

完成度よりも何よりも

このエネルギーに敬服する。

 …一応褒めてくれている、はずだ。ただ、少し怒っているようにも見えるのは、気にしすぎだろうか?  

 

 『DAICON FILMの世界』に掲載されている以上、ゼネプロ寄りの意見になるのは当然とも思えるので、『イスカーチェリ』側の意見も載せなければならない。というわけで、『イスカーチェリ』VOL.26のおたよりのページで「みんなで華激(ラディカル)しませう、ゼネプロ批判」という特集が組まれているので、それを紹介する。「しませう」というのが80年代っぽい、のかな?

 

 なお、ここで断っておくと、本稿ではこの後SF雑誌の投稿欄に寄せられたおたよりをいくつか取り上げていくつもりなのだが、著名人または公人と確認できない方の名前は基本的にイニシャルで表記していく。取り上げるおたよりの中に投稿者自身のプライヴァシーに関わる内容が含まれるものがあるため、たとえペンネームであったとしても、名前を記すのは避けた方がいいと考えたためである。その点は、読者のみなさんにもご理解をお願いしたい。

 

 さて、話を戻して、『イスカーチェリ』VOL.26から最初に紹介するのは、沼野充義氏のおたより。…自分でも名前を知っている東大の先生の名前が出てきてちょっとビックリしたが、沼野氏が『イスカーチェリ』に参加していたのを知らなかったのは我ながら不勉強だったと反省しつつ、沼野氏のおたよりを紹介してみる。『イスカーチェリ』P.126~127より。

(前略)大日本とかいう映画の件、興味深く読ませてもらいました。この間たまたま友人が送ってくれた週刊文春野坂昭如が戦争ごっこの流行について書いてましたが、どうもパラレルな現象に思えます。こういった流行の底にあるのは“思想”ではなくて、“軽薄”な大衆(少年少女)文化なのですから、右翼ときめつけたところであまり意味はないのではないでしょうか。

(中略)

たとえばハーケンクロイツイカレポンチの青少年の間に流行していても、そういった連中はその現実的意味・歴史的背景を知っているわけではなく(へたをすると第二次大戦で日本がどこと組んで、どこと戦ったか知らないような連中もいるかも知れません)、単に“かっこいいから”、“大部分の良識的な大人たちが眉をひそめるから”そういうものをはやらしている、ということになるのでしょうか。これはしかし、日本のようなのどかで、外国人との直接の接触が殆どない特殊な国だから特に可能なわけで、たとえば、「ドイツには絶対足をふみ入れたくない」というユダヤ人がそのへんにごろごろしているアメリカでくらしていたら(中略)、ハーケンクロイツに“現実的意味”が不可避的につきまとうということは、自明の理です。

(中略)

 ところで、これは小生の商売柄、気になったことの一つですが、“パロディ”というコトバは、あまりに誤用されているのではないでしょうか。パロディというのは、元来、模倣することによって原作を茶化し、こけにするもののことで、単に面白おかしく、ふざけてつくった作品のことではありません。“大日本”がパロディだとしたら、いったい、何を嘲笑しているのですか? 安手のSF映画、それとも右翼の反ソキャンペーン? もし後者だとすれば、これは波津氏らの批判は全く見当はずれで、高度の批判精神をもった作品だということになりますが、それだけの批判精神はこの映画の製作者にも、それを見て喜んだ観衆の大部分にもないでしょう。いずれにせよ、こんなものが“パロディ”の名に値しないのは明らかなことであり、この種のgeneric termの誤用はつつしむべきでしょう。

(後略)

  …さすがは学者さんというべきか、かなり手厳しい。ただ、『大日本』はパロディに値しない、と言われても当のゼネプロは「いや、あれはただの飲みの席のバカ話だから」とあまりこたえないかもしれない。沼野氏の意見はむしろ、『大日本』は右翼や自民党政府を茶化している、と擁護していた人の方がこたえるのかもしれない。あと、個人的に面白く思ったのは、日本が「外国人との直接の接触が殆どない特殊な国」という指摘で、『イスカーチェリ』側は『大日本』を「排外主義」と批判していたが、そもそも「外」の存在に鈍感だから排斥しようとも思わないまま、ああいう作品を作ったのではないか? と思えてきた。

 次は山田和子『NW‐SF』編集長(肩書は当時のもの)のおたより。P.128より。

 (前略)私、SF界の状況には殆ど関心がないもので、「愛国戦隊大日本」問題とやらもまるっきり知らなかったのですが、今号のイスカの記事を読んで、改めて、こんなにもひどいものかと、いささかの感動をおぼえつつ(!)あきれかえってしまいました。当の映画を全く見ていないことをまず明言した上で、イズムの岡田・武田対談を読んで、単純に申します。あのお二方は言葉も、表現ということも、その他諸々も、要するに何も考えていない方々なのでしょう。私などが、ごくごく普通に考えるには、あの対談のお二方の言葉は、最低限、ものを考えることのできる人間んからみれば……他に言葉がありませんね。ただただ何も考えていない、としか言いようがない。右翼という言葉を与えるのも、それこそ右翼に対して失礼でありましょう。

 冷静にして知性を感じる意見である。山田編集長と比べても波津氏はやっぱり怒りすぎだ、と思わざるを得ないし、冷静な文章の方が感情的なものよりずっと説得力がある。「右翼に対して失礼」というのもその通りなのではないか。 まあ、「右翼に対して失礼な右寄り」「左翼に対して失礼な左寄り」は今でもいるよな、と余計なことを考えつつ、次のおたよりへGO。

 次は田波正氏のおたより、なのだが、この田波氏は殊能将之氏のことだろうか? 

殊能将之 - Wikipedia

 名古屋大学SF研究会に所属していたとあるから、おそらくそうだと思う。また意外な人が…、と思いながらも、P.128~129より田波氏の意見を紹介する。

(前略)じつはぼくもTOKONで「大日本」を見て“ウケ”ていた一人なのですが、あの映画は確かに面白い。問題は公式の場であるSF大会でやるネタではなかったということでしょう。「大日本」はパロディだから面白いわけでも諷刺があるから面白いわけでも、タブー破りだから面白いわけでもなくて、何の理由づけなしでも面白いのです。沖雅也が自殺したころ、ビートたけしオールナイトニッポンに「空飛ぶ超人・オキマサヤン」などというハガキがきてみんなでゲラゲラ笑ったりしていましたが、「大日本」も同じようなオカシサがある

(中略)

 けっきょく、こういう(中略)笑いというのは内輪ネタなわけで、ゼネプロの人たちは「同じSFファンなんだから」という考えを持っているのではないでしょうか。イズム誌上に平気で『SFの本』の記事を転載するような感覚や、「SF界だけにはこんな人おらへんと思てたのになあ……」という発言にもそれを感じます。でも、一,〇〇〇人単位で人が来るようになったら、もう内輪じゃないしね。

(後略)

 『大日本』の中身を評価しながらも、SF大会で上映すべきでなかった、という『イスカーチェリ』側の批判を半分肯定して半分否定するような内容になっているが、30年以上経った今でも頷ける見方ではないだろうか。ビートたけしオールナイトニッポンの名前が挙がっているのも今となっては貴重で、『大日本』が当時の風潮の中で成立した作品だったことを証明しているように思える。

 もうひとつ、「内輪」についての指摘も重要で、ゼネプロに「これくらいなら許されるだろう」という甘えがあったのではないか、というのは筆者も当時の資料を見ていて感じるところなので、「その1」の最後で取り上げた『アオイホノオ』での描かれ方にはだいぶ違和感がある(『アオイホノオ』に関しては本稿のラストでもう一度触れる)。その点、人が多くなれば「もう内輪じゃない」という田波氏の指摘はクールでなおかつ正しい、と感じる。田波氏(殊能氏)の方が岡田氏・武田氏よりだいぶ年下なのに、どちらが大人かわからない(田波氏は1964年生まれ、岡田氏は1958年生まれ、武田氏は1957年生まれ)。

 最後にM氏のおたより。P.129より。

(前略)

 「反省なき民族」でなくなるためにも、「大日本」をTOKONで上映したことを謝罪させましょう!

(中略)

1.悪夢のスローガン「八紘一宇」をもち出した歴史しらずの心性

2.SF大会で上映し、国際主義を傷つけたという事実。

 この二点万死に値する。一昔前は何千万人の人が殺されている。という所で私は「アピール」を支持します。だけど波津氏の文章のようなかき方は良いとは思えません。仲間うちではいいでしょうけど。 

  …どうしてみんな波津氏に厳しいんだ。ホームグラウンドでもこれではさすがに気の毒になる。

 

 今回、「その2」は、SFイズム』VOL91984年1月発行)の読者投稿欄「読者だってゆってもいいのに」から、おたよりを3つ紹介して終わりにしたい。「その1」で紹介したように、VOL.8の「GENERAL PROTOCULTURE」で岡田氏と武田氏が『イスカーチェリ』に反論したところ、

8号で一番反応が多かったのは、やっぱりというかなんというかゼネプロのページでした。実にいろんな人がおりましてね。

 と『SFイズム』VOL.9、P.121にあるところを見ると、かなりの反響があったようだ(読者投稿欄を担当しているのは細川英一編集長)。では早速I氏のおたよりから見てみよう。P.121より。

 ゼネラルプロトカルチャーはムチャクチャ面白かったです。とてもとても笑えました。うー、なんなんだあれは。うちの大学で活動家まがいのことをやっている人でさえ、「大日本」は面白そうだから見てみたいというくらいなのに。別の視点から見れば右翼を笑い飛ばしているようにもとれる作品なのに(後略)

 (後略)は原文ママ。ここでも「右翼を笑い飛ばしているようにもとれる」と解釈されている。『大日本』を真に受けてはいないSFファンもいるから、『イスカーチェリ』(というよりは波津氏)はそこまで心配しなくてもよかったのでは? という気になってくる。次はT氏のおたより。P.121より。

 GENERAL PROTOCULTUREについて……困ったな。読んでて頭にきたんだけど、そうするとこちらが「アホ」になってしまってその衝動を具体化出来んかった。

 波津という人も阿保らしいけど、あの悪口は、あの二人にもそのまま返したいよ。もっとも、それを自慢にしてるんだろーけどさ。

 しかしこの二人、頭いいなあ。こういう批評をいちばん効果的な方法でやっちゃったんだから。

 それでも「笑えりゃいーんだ」風な思想はインテリ臭が鼻について、俺は嫌いだ。文句あるか。くそ。

 …山田編集長が「何も考えていない方々」と評した岡田・武田コンビがここでは「インテリ臭」と評されているのだから人の見方は実にさまざまである。あと、波津氏を逆上させた「GENERAL PROTOCULTURE」の漫才調の対話体が『SFイズム』の読者には効果的かつ魅力的に見えていたのだろう、というのも感じられる。それではラストのおたより。P.121~122より。

 General Protocultureの記事、まことに残念である。「愛国戦隊大日本」の製作者たちこそ、真に、日本の明日をうれえる、愛国者にちがいないと、感動していたのに、あんな、アカの抗議に、自分たちの力作を冗談だとは!! もともと冗談だったというなら、今すぐ「愛国戦隊大日本」という名を返上せよ!!

 KAL撃墜事件を君たちは、何と考えているのか?

 まちがいをみとめ今からでも、訂正し大日本国民に、いや、天皇陛下に、おわびするべきだ。何らかの意思表示がなければ、それなりの対策をたてさせてもらう。我々とて、あれだけの大作の上映会をつぶしたくはない。是非善処されたい。

(ひきょうなようで残念だが、我々の行動を事前にはばまれてはこまるので、住所・氏名、ふせさせていただく)

 …あー、昔からいたんだなー。こーゆー、冗談なのか本気なのかよくわからないことを言ってみんなを困惑させる人。だってこれ、1984年当時でも全然面白くないでしょう。

ゼネプロの二人に見せたら、口を揃えて、「アホちゃうか」と述べておられました。

 と担当の人も言っているし(P.122)。でも、四半世紀以上経過してから見てみると、あまりにもスベり倒していて、逆に面白くなっているから不思議だ。「事前にはばまれてはこまる」も見ようによってはかわいらしい。ヴィンテージもののどんずべりだ。

 

 この文章を書いていて初めてほっこりした気分になったところで「その3」につづく。でも、次は全然ほっこりできない話題だったりする。

 

戦後SF事件史---日本的想像力の70年 (河出ブックス)

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スペース・オペラの読み方 (ハヤカワ文庫JA)

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開田裕治 怪獣イラストテクニック (玄光社MOOK)

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ウルトラマン誕生 (ちくま文庫)

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泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~

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徹夜の塊 亡命文学論

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ハサミ男 (講談社文庫)

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『愛国戦隊大日本』論争をざっと見てみた(その1)

 『愛国戦隊大日本』DAICON FILMが自主制作した映像作品で、1982年8月に開催された「日本SF大会」(通称「TOKON8」)で上映されたものである。いわゆる「戦隊もの」のパロディではあるが、アマチュアの作品としてはクオリティはかなり高く、参加したスタッフの中に後にプロとして大成した人も何人かいたこともあり(赤井孝美庵野秀明岡田斗司夫といった面々)、今でも伝説的な作品として評価されているようだ。上映時には会場の観客から好評を博したようなのだが、その内容を問題視する向きもあり、また批判に対して制作者も反論したため、その一連の経緯は「『愛国戦隊大日本』論争」として記録ないし記憶されている、ということになっている(たとえば巽孝之『日本SF論争史』など)。

 

 今回はその「『愛国戦隊大日本』論争」について考えてみよう、というわけなのだが、この論争については既に長山靖生氏が『戦後SF事件史』(河出ブックス)の中で中立的な立場から簡潔にまとめていて、実際のところ、それを読めばこの論争については十分に理解が得られるはずである。今回当ブログは長山氏のまとめからこぼれ落ちた部分もあえて取り上げてみる次第なのだが、まあ、せっかく調べてみたのに書かないのもなんだから、という貧乏性のなせるわざ、と言えなくもない。

 記事の構成としては、まず第1回で論争の主な流れを説明した後で、第2回で論争に対する反応を紹介し、第3回で論争の背景にある事情を説明してから、第4回で論争にまつわるある問題を取り上げてから総括する、という予定になっている。

 また、「ざっと」とタイトルに書いたのは、この論争に関する資料すべてに目を通しきれていないのに加えて、『大日本』上映時に幼稚園に通っていた筆者が当時の空気を理解できるはずもなく、どうしてもリアルタイムを知る方と見解にずれが生じてしまうと思われるので、その辺を考慮したうえのことである。筆者の見方に疑問があれば、どうかご指摘していただきたい。

 

 前置きが長くなったが、本題に入る。

 まず、『愛国戦隊大日本』について説明しておいた方がいいのだろうが、ググればすぐに動画自体も出てくるだろうし、ウィキペディアで項目も立っているからそちらも参照してもらえれば。

愛國戰隊大日本 - Wikipedia

…と思ったのだが、それではいささか手抜きな気もするので、ゼネラルプロダクツが発行していた会報「パペッティア通信」Vol,1・3(1982年11月発行)P.10~11「君は知っているか⁉ 愛国戦隊大日本」よりストーリーを抜粋する(ゼネプロは岡田斗司夫氏らが運営していたSFショップ)。

 ストーリーはというと、まあサンバルカンやゴーグルVを考えていただければ話は簡単。女性1人を含む5人の若者が超人的パワーをもった戦隊、大日本に変身。巨大ロボット・ダイニッポンと大日本戦艦を使い、北から日本を征服せんとやって来る秘密組織「レッドベアー」に立ち向かう、というお話。

(中略)

大日本の5人のメンバーはそれぞれ日本を象徴するものを名前としている。

アイ・カミカゼ(神風 猛)

アイ・スキヤキ(白滝 肉夫)

アイ・ハラキリ(切原 弾児)

アイ・ゲイシャ(舞子 ユキ)

アイ・テンプラ(衣 あげる)

 また、それぞれ必殺技を持つ。カミカゼはゼロセン特攻パンチ、スキヤキは白滝肉がらめ、ハラキリはハラキリボール、ゲイシャは色街遊び天国と地獄、テンプラには油地獄・きつね色。(詳細はぶく)

 5人で行なう必殺技は天誅ボールといい、5色のボールを1つにまとめて敵にたたきつけるのである。これで怪人はやられるのだが、

 当然、巨大化する。

 ここで大日本戦艦が出動するのである。その内部には、帝釈天號、毘沙門天號、外率天號の三機のメカが搭載されており、合体し巨大ロボ・ダイニッポンとなる。

 ダイニッポンは日本剣をもち、愛国富士山返しで怪人を真っ二つにするのだ。

 敵・レッドベアーは、総統デス・マルクスのもと、ジャボチンスキー将軍とツングースクキラー女隊長が手下の怪人を使い日本を侵略せんものと狙っているのだ。その要塞デスクレムリンにはMIG-31をはじめありとあらゆる兵器が搭載されている。

 延々と引用してみて、悪ふざけ以外の何物でもないな、と思わざるを得ないが、かつて筆者もこれとよく似た特撮パロディネタをラジオ番組に投稿して読まれていたので、あまり強くは言えない(30年前から自分と同じようなことを考えている人がいた、と思うと感動しなくもない)。あと、ソ連が崩壊した今となっては、おちょくられているはずの政治的な要素に危険を感じるどころか「なつかしい」としか思えない、という点に「歴史の皮肉」らしきものを感じてしまう。

 ここで問題となるのは、作品のネタおよびストーリーそのものは「悪ふざけ以外の何物でもない」のだが、全力で「悪ふざけ」をした結果、作品自体はかなりクオリティの高いものになっている点である(『大日本』の制作秘話については岡田斗司夫『遺言』を参照されたい)。それで「TOKON8」の観客に大ウケし、今でも伝説的な作品として語り継がれているわけだが、それと同時にそのせいで反発を招いたとも言える。作品のクオリティが低ければ単なる悪ふざけとしてスルーされていたかもしれないのに、クオリティが高いおかげで無視できなくなってしまった、というわけである。

 

 『愛国戦隊大日本』批判の急先鋒に立ったのはSFファンジン『イスカーチェリ』である。

イスカーチェリとは - はてなキーワード

 同誌VOl.24に掲載された堀秀治「TOKON8大長編非公式レポート」にはこのようにある。同誌P.88~89。

(前略)しかし、波津(引用者註 博明)氏に限らず、多くの参加者、とくにイスカーチェリ同人諸氏を顔面蒼白にさせるだしものが、プログラムの最後に登場した。大阪の営利団体ゼネラルプロダクツ製作の八ミリ映画「愛国戦隊“大日本”」である。

 タイトルを見ると、だれもが“日本国家”を笑いとばす痛快なパロディかと思うはず。ところが、内容はおどろくべき低水準の排外主義プロパガンダであり、何と、製作者たちは、本気で「大日本帝国万才」を叫ぶのである。

(以下『愛国戦隊大日本』のあらすじが詳述されているが省略)

  ところで、“ゼネラルプロダクツ”がそのために、七度生まれかわって奉公したいとかいう“大日本帝国”による、想像を絶するアジア人大虐殺はほんの四十年ほど前の話。製作者らが、職業的な右翼なのか、あるいはこれらが絶望的な無知によるものなのか、それは知らないが、いい年をして、世にこれほどの恥をさらすこともあるまい。まあ、せいぜい商売に熱を入れるのがよろしいんじゃありませんか。(後略)

 とりあえず、堀氏が『愛国戦隊大日本』の内容をパロディやジョークなどではなくストレートに受け止めていることがよくわかる(なお、「堀秀治」は波津博明氏の変名である、と後に波津氏自身が明かしている)。また、この論争を考えるうえで見逃がせないもうひとつのポイントもここで出てきているのだが、それは後で説明するので、読者のみなさんはこの文章を頭の片隅に留めておいてほしい。

 それだけでなく、VOl.24には『愛国戦隊大日本』を批判するイスカーチェリクラブとしての「緊急共同アピール」も掲載されている。8ページにわたる長文なので要点を抜粋すると、

 

1.内容を問題視。「極右政治映画」と判断せざるを得ず、パロディだとしても笑って済ませられるものではない、と批判。

2.TOKONでの上映を問題視。海外からメッセージが寄せられ、作家を招待しているSF大会において「排外主義」的な映画をメインホールで上映したことを批判。

 

ということのようだ。メッセージ本文も一応見ておいた方が雰囲気がつかみやすくなるはずなので、一部抜粋してみる。『イスカーチェリ』VOL.24、P.69より。

 いかにパロディ仕立てであれ、あるいは製作者の本来の意図がどうあれ、現実には、この映画はア・プリオリに承認された日本国家権力を価値の中心に置いたうえで、流行していた右翼の“教科書赤化”キャンペーンや“ソ連脅威論”に無批判に乗っかり、ソ連を仮想敵国に仕立てて、徹底的に戯画化したうえで、その撃滅を肯定的に描き、さらにソ連に限らず、赤として総称される一切の反体制派、“異端分子”への“警戒”を呼びかけるという、目を疑いたくなるような、極右政治映画であると断ぜざるを得ません。これはまさに大政翼賛映画ではありませんか。世の急速な右傾化の波が、SF界にもはっきりと押し寄せつつあることを感じさせます。

 怒ってるなあ。また、『大日本』のような作品が単なるパロディとして作られたとは考えにくく、「一部の政治色の強いスタッフ」が主導していたのではないか、という推測もされているが、後年の岡田氏らの行動を考えてみると、「ゼネプロの人たちそこまで考えてないと思うよ」と真顔で言いたくなってしまう。

 なお、TOKONの実行委員会は『大日本』のフィルムを事前に確認しなかったものの、前日に岡田斗司夫氏から口頭で説明を受けていた、と「緊急共同アピール」にはあるので、ゼネプロ側は一応の手続きは踏んでいたものと思われる。

 

  それでは、ここで、『愛国戦隊大日本』論争のおおまかな流れを簡単に記しておく。

 

1982年8月 TOKON8で『愛国戦隊大日本』上映

  12月 『イスカーチェリ』VOL.24で『大日本』への緊急アピール掲載

1983年5月 『パペッティア通信』VOL.4で深川岳志氏が『イスカーチェリ』に反論

   7月  『SFの本』VOL.3に波津博明氏の『大日本』を批判するコラムが掲載

   8月  『DAICON FILMの世界』VOL.1に4コママンガ「イスカーチェリくん」掲載

   10月  『SFイズム』VOL.8の「GENERAL PROTOCULTURE」第1回で岡田斗司夫武田康廣両氏が『イスカーチェリ』に反論

  12月  『イスカーチェリ』VOL.25でゼネプロ批判の特集

1984年7月  『イスカーチェリ』VOL.26で波津博明氏によるゼネプロ再批判、「おたよりのページ」でもゼネプロ批判

 

 他にも細かい動きはあるのだが、これだけ押さえていればとりあえずは十分なはずである。それではひきつづき論争を見ていく。

 まずは、『イスカーチェリ』からの批判に対する『パペッティア通信』VOL.4での深川岳志氏の反論だが、要点をまとめると、『大日本』は右翼を賛美しているわけではなくむしろ茶化しているのであって、それを右翼の賛美と捉えた『イスカーチェリ』こそ「頭の中が真っ赤に染まった人間」ではないか、というものである。なお、お断りしておくと、『パペッティア通信』VOL.4を入手できなかったので、この部分は『イスカーチェリ』VOL.25に転載された深川氏の文章に拠っている。この論争では、イスカーチェリ側もゼネプロ側も、反論する際に相手方の文章を「引用」ではなく「転載」しているのが、いささか奇妙ではあるのだが…。

 次に『SFの本』での波津氏のコラムだが、これは『イスカーチェリ』に掲載された緊急アピールとほぼ論旨が同じなので省略する。

 さて、『イスカーチェリ』から批判されたゼネプロも黙っていたわけではなく、『SFイズム』VOL.8から連載がスタートした「GENARAL PROTOCULTURE」第1回「スタージョンの法則」で反論している。この回は岡田斗司夫氏と武田康廣氏、いわゆる「大阪芸人」コンビの掛け合いで話が進んでいくスタイルをとっていて、冒頭はこんな感じである。

岡田(以下:岡)「いやー武田さん、ウケましたねー」

武田(以下:武)「うん、ぼくもあないにウケるとは思わなんだ。やっぱりSF大会来るような人間は、タチの悪い冗談好きやねんなあ」

岡「こんな映画つくっても誰もおこらんと笑てる、いうのがSF大会のエエとこですねぇ。他の世界やったら必ず青スジ立ててゲキドするマジメブリッコが出て来るもんですが…」

 「こんな映画」というのはもちろん『愛国戦隊大日本』のことで、岡田氏の「こんな映画つくっても」云々は、『イスカーチェリ』批判の前置きになっている。「大阪芸人」コンビは上に掲げた堀秀治氏のTOKONレポートについてこう述べている(ここで『イスカーチェリ』を「転載」している)。

岡「た、武田さん。プッハハハ」

武「なんやねん。ハハハハハ」

岡「言うてもええですか?」

武「言うてみいな。プッハハハ」

岡「こ、このレポート書いた堀秀治ていう人、ア、アホとちゃいますか」

武「ワーッハハハハハ。あんた、そら言うたらアカンで。ヒーッヒヒヒ。せめて『〇〇』という具合にフセ字で」

岡「ほなら、この人ア〇でおまけにド〇ク〇で〇〇〇が〇〇〇〇〇……」

武「ひ、ひどい事言うやっちゃなあ」

 「述べている」と書いたけど、コケにしている、というのが正しいか。それにしても懐かしいノリである。ふた昔前の同人誌のあとがきかフリーペーパーのような。まあ、こんな風に毒を吐いているのはあまり見た覚えはないけれども。

 で、この後、波津氏がオランダのSF情報誌『シャーヅ・オブ・バベル』に『愛国戦隊大日本』の一件を寄稿しているのを知った2人はこんなことを話している。

岡「しかし何ちゅうか…。うん、こうなったらしゃーない! 武田さん、新作つくりましょう!」

武「何やいな」

岡「タイトルは『共産戦隊本中華』! アイ・マルクスとかアイ・レーニンとかが、帝国主義の『キラー・ザ・ペンタゴン』の魔の手より人民たちを守る話です。これをつくれば、いくらなんでもこの波津という人の怒りも解けるんとちゃいます?」

武「いや、判らんぞ。また『おどろくべき低水準の排外主義的プロパガンダ』とか言われるんちゃうか。いや、しかしSF界だけにはこんな人おらへんと思てたのになあ……」

岡「こないだの大阪の上映会でも、中学二年の男の子に『程度の低い人や小学生が見たら右翼の作品と思われますよ』と注意されたし。まあ『スタージョンの法則』は健在なり、ということでしょう。あー、アホらし」

 「スタージョンの法則」というのは「全てのものの90%はカスである」という格言である。

 そして、『SFの本』に掲載された波津氏のコラム(これも「転載」している)に事実誤認が多いことに腹を立てた岡田氏は「人類が海から出て、ここまで進化したのは、こんなアホみたいな文章を書くためではない筈です」「おそらく脳ミソは昨日のスキヤキにでも入れて食べたんでしょう」と後年の氏の饒舌ぶりを思わせる独特の言い回しで罵倒した後、武田氏とともに「アホにアホ言うて何がアカンねん!!」とシャウトして話を締め括っている。

 また、『SFイズム』に先立って発行されたDAICON FILMの世界』VOL.1でも、『イスカーチェリ』を揶揄する4コママンガが載っているので、『イスカーチェリ』=洒落の分からないやつ、という認識はゼネプロ側が持っていた共通認識なのだと思われる。

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DAICON FILMの世界』VOL.1、P.39より(現在入手困難な本なので特別に画像を載せる)。

 …さて、『イスカーチェリ』、ゼネプロ双方の主張が出たわけだが(ゼネプロはこれ以降反論していないので最初にして最後の主張になる)、すぐにわかるのは両者の主張が全く噛み合っていない、ということだ。

イスカーチェリ=極右翼賛・排外主義映画

ゼネプロ=ただのシャレで作ったもの

 『愛国戦隊大日本』の捉え方からしてまるで違う。それに、硬質の文章で相手を厳しく責め立てる『イスカーチェリ』とくだけた対話体で相手を揶揄して嘲弄するゼネプロ、という具合にスタイルも異なっているので、一口にSFファンと言ってもひとくくりにはできない、と思うばかりだが、ここまで考え方とスタイルが違うのではそもそも「論争」が成り立つのか? とも思える。共通の基盤をある程度有していないとコミュニケーションすらとれないのだ。

 個人的な考え方を述べさせてもらうと、『イスカーチェリ』が怒っている、頭に血が上っている、というのはわかりやすいところだと思うが、実はゼネプロも結構感情的になっている感じがある。さっさと頭を下げて陰で舌を出すこともできたのに、まともにやりあってしまっている、というのが四半世紀を経てこの問題をわざわざ掘り起こしている筆者の勝手な意見なのだが、ゼネプロには感情的になる理由があったのではないか、という気もしている。その点は第3回で説明したい。

 

 さて、ゼネプロからの反論を受けて、『イスカーチェリ』も83年12月発行のVOL.25で「ゼネプロ問題」なる特集を組んで、改めて批判しているわけなのだが、特集の出だしが、

ゼネプロ問題の核心は、そのダーティな商業主義とファシズム的体質の結合にある。

なので(同誌P.63)、やっぱり話が噛み合っていない、と思わざるを得ない。ゼネプロが「『大日本』はただのシャレだから」と弁解しても、「シャレで済む問題ではない」と反論しているわけで、堂々巡りは避けられない格好になってしまっているのだが。

 ただ、この特集記事を見ると、最初の緊急アピールから話が進んでいない、という思いもある。表現は違っていても、「映画の内容自体がひどい」「そんな映画をSF大会で上映するなんて」という二つの論点を離れた見方は出てこないのだ。

 それは、ゼネプロに最も強硬に反発している波津氏のコラム「気分はもうファシズムにも言えることで、波津氏はこのコラムで上にあげた深川氏、岡田氏&武田氏から指摘された「事実誤認」に対して反論しているのだが、「主な論点を離れて些末な点に固執していく」「表現が刺々しく攻撃的になっていく」という、論争が泥沼化していく過程如実に表れていて、正直読んでいてあまり楽しい文章ではない(そもそもタイトルからしておっかない)。「気分はもうファシズム」は以下のように締め括られている。『イスカーチェリ』VOL.25、P.83より。

 SFがこれまで、そして今もくり返し描き続け、現実にもさまざまな形態で存在し、また今も存在している全体主義が、これまでのような露骨な軍事独裁ではなく管理ファシズムの形をとって二十世紀末の日本に再び到来しようとしている今、社会と無縁でありうるはずもない「SFファンダム」においても、全体主義の空気は確実に広がっている。管理ファシズム、あるいはハインリヒ・ベルの表現を借りれば「福祉的戒厳状態」といった、いわばソフトファシズムの場合(それこそ、実はSFが一貫して描き、告発しつづけてきた現代―未来型の典型的全体主義なのだが)。全体主義の実体は(誤解を恐れずにいえば)、その気分そのものともいえる。想像力の中で描きつづけてきた悪夢が現実になろうとしているとき、SF人に要求されるのは、何よりも冷徹な現実認識と、強じんな批評性であろう。当面の危険を看過して、来たるべき全面的な管理ファシズムに対処することはできない。そして、今世紀末から来世紀にかけて、おそらくは最大の問題になるはずの、このコンピューター化された全面的管理ファシズムへの主体的対処を閑却して、二十一世紀の文学としてのSFを云々するなど、全く無意味な行為といわざるをえない。あえて“ゼネプロ問題”をとりあげつづける所以である。

 …すげえ、としか言いようがない。まさか『愛国戦隊大日本』からこんな話になるとは。とはいえ、こんな話をされてもゼネプロの人らは困るだろうな、とも思う。ただ、波津氏は「GENERAL PROTOCULTURE」を「奇怪な漫才」「駄文」と厳しく批判しているのだけど、岡田氏の「共産戦隊本中華」というジョークに反応していないのは気になった。ゼネプロが「右翼」じゃないと困るのだろうか? と邪推してしまったり。

 

 波津氏は『イスカーチェリ』VOL.26でも「さらなる批判の刃をゼネプロへ―気分はもうファシズム②」というコラムで批判を続けているのだが(やっぱりおっかないタイトルだ)、その中に九州SF大会でゼネプロが上映したというフィルムに触れている。『イスカーチェリ』VOL.26、P.115より。

 男が、本誌25号(ゼネプロ特集)を読みながら、「君たちのいいたいことはよくわかった」とつぶやき、次の瞬間これをまっ二つに引き裂く、というだけの一、二分だという。

 思わず『ブリティッシュ・サウンズ』を連想してしまったが、波津氏は当然これに憤っている。まあ、ゼネプロもやっぱり頭に来ていたんだな、というのはわかるけれど、ユーモアとして成立しているかは疑わしい。

 波津氏はこの後『シャーズ・オブ・バベル』で波津氏に反論してきた山形浩生氏に向かって反論しているのだが、残念ながら山形氏の実際の文章を確認できなかったのでここでは触れられない(ただ、波津氏による要約を見る限り、山形氏はゼネプロを擁護しているというよりは波津氏および日本SFファングループ連合会議を批判している印象を受ける)。また、波津氏のこのコラムでは、ゼネプロによるある行動にも批判が及んでいるのだが、それに関しては第3回で取り上げることにする。それにしても、やはり波津氏の最初のコラムでも感じたことだが、このコラムでも「緊急アピール」以上の話は出てきていない。

 波津氏はゼネプロが表立って反論してこないことに不満を述べているが、実際のところ、この「論争」に乗り気だったのは波津氏一人だけだった、というのが本当のところのようだ。波津氏は『SFイズム』にゼネプロへの反論を送付して掲載の約束を取り付けていたものの、編集部の判断で結局取りやめになっているという。それだけでなく、波津氏のホームグラウンドである『イスカーチェリ』からも批判が挙がっている。同誌VOL.26、P.122の「編集部より」から一部抜粋する(文責は岡本篤尚氏)。

 本誌25号の拙論(特集・ゼネプロ問題「概論」)において、「本誌の貴重な誌面を、こんな不毛な論争に割くのは今回限りにしたい」と書いたのだが、波津氏の執拗な掲載要求に根負けしたのと、「掲載料払うからサァ」の一言によって、またも二〇〇字詰原稿用紙にして七五枚分もの波津論文を掲載するはめになってしまった。

 岡本氏のウンザリした気持ちが伝わってきて笑ってしまうが、内部で批判し合えるというのは健全だな、とも思う(引用していない部分でも波津氏は岡本氏にかなり手厳しくやっつけられている)。

 

  ともあれ、「『愛国戦隊大日本』論争」はこれでひとまず終幕を迎えたわけだが、当事者たちがその後この「論争」をどのように振り返っているか、に触れて第1回を終わることにしたい。まずは波津博明氏の感想。「SFファン交流会」2011年4月のレポートより。

www.din.or.jp

そして1982年、SF大会TOKON8の大ホール企画として、ゼネラルプロダクツ(ゼネプロ)がソ連を揶揄した自主製作映画『愛國戦隊大日本』を上映、波津さんをはじめとするイスカ同人有志がこれを批判したことで論争が起こりました。皮肉にもTOKON8にはイスカ同人がスタッフとして多数参加しており、波津さんも大ホールの司会でした。

 実はTOKON8の数ヵ月後、波津さんたちはゼネプロの上映会に足を運び、『帰ってきたウルトラマン』『快傑のーてんき』などを絶賛したといいます。また、もともとおふざけはイスカも得意とするところ。「だから『大日本』だって、僕らも大喜びしておかしくなかった」と波津さんは言います。それがどうして批判となってしまったのか。

 波津さんのお話を整理すると、その理由は以下の3点になります。

 まず第1に、ゼネプロがスタッフにも内容を明かさず抜き打ちで上映したという手続き上の問題(ただし事前チェックをしなかったスタッフ側にも落ち度はある、と波津さん)。

 第2は、当時与党だった自民党の一部議員が教科書の「左傾化」を非難し政治問題化していたことです。笑いとは権力を引きずり下ろすものだと考えていた波津さんは、ナショナリズムと排外主義を背景とした『大日本』のギャグは、この社会的文脈では弱い者いじめにつながると危惧したのです。

 そして第3は、TOKON8がイスカ同人の尽力により30カ国ものSF関係者から祝辞を送られるという国際色豊かな大会であり、ストルガツキー兄弟を招待するプランもあったことです。実現はしなかったものの、当のソ連から反ソ宣伝ととられかねない映画の上映にもし彼らが居合わせたらどうなっていたか。
 「反ソ集会に参加した危険人物として国家当局の監視を受ける可能性もあったが、ゼネプロにはそうした危険に対する想像力もなかった」と波津さんは指摘します。イデオロギー的にソ連を擁護したわけではなく、『大日本』が国際親善という大会のコンセプトに合致しないばかりか、かえってソ連内部の政治的抑圧を誘発する恐れすらあったがために『大日本』への批判となったわけです。

 しかしこのような論点はまったく理解されなかったといいます。「僕は親ソでもなければ反ソでもない」と語る波津さんですが、世間では、イスカはソ連のSFを翻訳しているから親ソ派なのだという短絡的な見方がまかり通ることになりました。

  波津氏が約30年経ってもブレていないのがよくわかる。その点は尊敬に値するし、波津氏の言い分もより知られるべきだと思う。

 

 次に岡田斗司夫氏による感想。『遺言』(ちくま書房)P.32より。

 実は、SFファンにも左翼系の方々がいて、『愛国戦隊大日本』の噂をきいて本気で怒り出したんですね。

 「悪ふざけが過ぎる」と怒られるならともかく、僕らを右翼だと決め付けて、国粋主義を推進しようとしているとか言い出して、もう、わけがわかんない大騒ぎになってしまったんです。

 僕たちは全員、右翼でもなければ、左翼でもありませんでした。むしろ、右翼か左翼か、二者択一を迫るような輩を一番嫌っていました。

 悪口の的にしていたSFファンの先輩たちが、全共闘世代だったことも、嫌いに拍車をかけていたと思います。

 だからこそ、こんなふざけた作品が作れるわけですね。

 しかしそんな僕たちの思惑や考えなど世間は知るはずもない。

  「噂」というけど、『大日本』を実際に観て批判した人もいるのだけど…。特に波津氏は当日司会までやっていて、だからこそあそこまで強硬な態度に出ている、とも思われる。

 

 そして、武田康廣氏の感想。『のーてんき通信』(ワニマガジン社)P.76より。

 だが、一部からその内容が「反社会主義」「右翼的」であるとして糾弾された。

 まったくばかげた話であった。SFファンの好きな「バカ話」である。見て「アハハハ、アホやこいつら」と笑えばいいのである。よく考えれば(というより考えるまでもなく)「大日本」がそのような思想を含んだ作品でないことはわかるのだが、SFファンといえど「頭の固い人」には理解できなかったようである。

 もともとぼくらの活動を快く思っていなかった人たちが、ここぞとばかりに叩きにかかったという側面もあったかもしれない。ぼくらは古いSFファンから「こんなものはSFではない!」といわれがちだった特撮映画やアニメを「これかてSFやん」という姿勢で取り上げていたからだ。

 

 興味深いのは3人とも全員被害者感情を持っているように見えることだ。波津氏は「自分の言い分が理解されていない」と思っているようだし、岡田氏と武田氏は「思ってもいないことで批判された」と思っているようだ。少なくとも誰も幸せそうには見えない。その点では、『愛国戦隊大日本』論争はあまりいい「論争」ではなかったのかもしれない。

 あと、岡田氏と武田氏が「SFファンの先輩たち」「古いSFファン」を苦々しく思っているようなのも共通しているのだが、まあ、『愛国戦隊大日本』はシャレなんだよね、SFファンが好きなバカ話なんだよね、とゼネプロ側の言い分をひとまず信じたところで、島本和彦アオイホノオ19巻(小学館コミックス)を読んでみると、DAICON FILMのメンバーが飲みの席で『愛国戦隊大日本』の元になるバカ話を語るシーンが出てくる。P.148より。

武田「TOKON 奴らの中に…固い…

ロシアの文学的SFを高尚や高尚やと持ち上げとる連中おるやんか」

岡田「うんうん、おるおる!」

澤村「おるおる!!」

武田「思いきり左なんが敵で…

思いきり右なのが戦隊側で…

おおっ ヤバそうやぞ!」

岡田「ヤバイヤバイ!」

澤村「ヤバイ所がおもろい!」

武田「右の人からも左の人からも怒られるような…

そんなんどないやろ。」

 

 …えっ?

 えーと、これが本当だとしたら、最初から『イスカーチェリ』を狙って『愛国戦隊大日本』を作ったことになって、話が全然違ってくるんだけど大丈夫? 島本先生が脚色したの? 島本先生に話をした人(岡田氏か武田氏?)が盛ったの? わけがわからん!

 そんな風に混乱したところで「その2」につづく。

 

※追記

 現在ネット上で観られる『愛国戦隊大日本』のエンディングで流れるスタッフロールには、「掲載誌」のひとつとして『イスカーチェリ』が挙げられているが、これはおそらくソフト化の際に付け加えられたものだと思われる。これを気のきいたジョークと捉えるか、挑発まがいのタチの悪いおふざけと捉えるかは、人による、としか言えない。

 

戦後SF事件史---日本的想像力の70年 (河出ブックス)

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遺言

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のーてんき通信―エヴァンゲリオンを創った男たち

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日本SF論争史

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