琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】センスの哲学 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

服選びや食事の店選び、インテリアのレイアウトや仕事の筋まで、さまざまなジャンルについて言われる「センスがいい」「悪い」という言葉。あるいは、「あの人はアートがわかる」「音楽がわかる」という芸術的センスを捉えた発言。
何か自分の体質について言われているようで、どうにもできない部分に関わっているようで、気になって仕方がない。このいわく言い難い、因数分解の難しい「センス」とは何か? 果たしてセンスの良さは変えられるのか?

音楽、絵画、小説、映画……芸術的諸ジャンルを横断しながら考える「センスの哲学」にして、芸術入門の書。
フォーマリスト的に形を捉え、そのリズムを楽しむために。
哲学・思想と小説・美術の両輪で活躍する著者による哲学三部作(『勉強の哲学』『現代思想入門』)の最終作、満を持していよいよ誕生!


 「洋服や外食先のセンスが悪い」と言われ続けて生きてきた僕には、「センスが良い人」に憧れと嫉妬心があるのです。

 だいたい、「センス」って何なんだよ、誰がその良し悪しを決めているんだよ、どうすれば「センスが良い」と褒められるようになるんだよ、って。
 
 「センス」という言葉は、けっこう都合よく使われがちで、「自分好みではない」というのを「センスが悪い」と言う人もいれば、「才能がない、飲み込みが悪い」のを「あの人はこの仕事のセンスがない」と評する人もいるのです。
 
「あなたが選ぶ服はカッコ悪い」「そんなに不器用、無愛想では、この仕事には向いていない」と、ストレートに言うと角が立ってしまうようなときに「センス」が登場してくることが多いイメージです。

 さて、実は、この本は「センスが良くなる本です」


 そんなふうに『現代思想入門』の著者の千葉雅也さんに言われたら、「センスに不自由な人」として半世紀生きてきた僕としては、とりあえず読むしかない。


fujipon.hatenadiary.com


 率直なところ、この本を読んで、「わかった!」という、すっきりとした気分にはなりませんでした。
 (今の世の中で評価される)センスというのは、現代アートと同じで、それなりの「文脈」みたいなものの流れのなかにあるのだけれど、それをただなぞっただけでは、かえって「つまらないもの」になってしまう。
 

・最初の定義」センスとは、「直観的にわかる」ことである。


 僕はこの文を読んで、棋士羽生善治さんの著書『直感力』のことを思い出しました。
 「直観」というのは哲学の概念で、直感との違いについて、千葉さんは「まあ今回は気にしないでおきましょう」と仰っています。
(それはそれで、「違い」が気にはなるのですが)


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 この『直感力』という新書の中で、羽生さんはこんなふうに述べています。

 直感は、本当に何もないところから湧き出してくるわけではない。考えて考えて、あれこれ模索した経験を前提として蓄積させておかねばならない。また、経験から直感を導き出す訓練を、日常生活の中でも行う必要がある。
 もがき、努力したすべての経験をいわば土壌として、そこからある瞬間、生み出されるものが直感なのだ。それがほとんど無意識の中で行われるようになり、どこまでそれを意図的に行っているのか本人にも分からないようになれば、直感が板についてきたといえるだろう。
 さらに、湧き出たそれを信じることで、直感は初めて有効なものとなる。


 「センスがいい」というのは、「生まれつきの才能」のように思われがちだけれど、実際に「直観(直感)」の元になっているのは、それまでの様々な経験や試行錯誤の積み重ねなのです。
 ものすごく処理速度が速いから、周りには、何も考えずすぐに答えにたどり着いているように見えるだけで。

 逆に考えれば、「どうせ僕にはセンスが無いよ……」と投げ出してしまうのではなく、ファッションやグルメについて、もっと興味を持って学び、経験を積んでいれば、僕は「ファッションセンスが良い人」になれていたのかもしれません。
「センスが無い」と言われ、自分でもそう思い込んでしまうことによって、ファッションに興味がなくなり、自分から遠ざけてしまうことによって、「直観力」を磨く機会を失ってしまったのです。

 もちろん、生育環境や才能の影響も少なからずあるので、天才ファッションデザイナーにはなれない可能性が高いのですが、「着ている服のセンスが良い人」くらいにはなれたかもしれません。

 ただ、この「センス」というのも、結局のところ、評価するのは他人であることが多いし、人の価値判断の軸なんて曖昧なものではありますが。
 権威とされている人が褒めたことがきっかけで、「稚拙な作品」が「自由でのびのびとした表現」に変わってしまうことも少なくありません。

 いろんな話題、見えるもの、味、温度感覚など異なるリズムの流れがあり、それらは別々のトラックの波形で、それらが合わさることで、そのまったりした状況の交響曲のようなものができる。感覚というものを、このように複合されたシーケンスとして捉える。
 さて、そうすると、センスとは何か。さまざまなジャンルにまたがるセンスは、抽象的に、音楽的リズムとして捉えられる。


・音楽であれ美術であれ、インテリアの配置であれ、料理であれ、その「リズムの多次元的な=マルチトラックでの配置」が意識できることがセンスである。そしてその配置の面白さが、センスがいいということになる。


 そうすると、センスの良さとは、「いろんなことに関わる抽象的なリズム感の良さ」になるわけですが、それはとりあえず脇に置いておきたい。センスの「良さ」については、第六章で考察します。まずは、ものごとを意味的にどうするかではなく、そこから離れて、デコとボコ(凸と凹)の問題、つまりリズムの問題として、ただ「どう並べているか」という意識でものに関わり始めたら、もうそれだけで、最小限の一歩としてセンスは良くなっていると言いたいと思います。
 それだけで、何かのモデル=意味を目指して、それが成功する=上手い、不完全になる=下手という対立から脱却して、別のゲームを始めているからです。


・より正確に意味を実現しようとして競うことから降りて、ものごとをリズムとして捉える。このことが、最小限のセンスの良さである。


 どんなことでも、デコとボコの並べ方です。刺激をどのタイミングで出すか。そのタイミングの面白さが、ものの面白さであると言える。

 インターネット以後の今日では、マンガ、アニメやゲーム、ポピュラー音楽といった大衆文化と、過去の「立派な」芸術作品を並べるのも不自然ではなくなりましたが、以前は、文化の上下関係、ハイカルチャーサブカルチャーの線引きがもっと強かった。かつては、映画というジャンルだってまともなものだとは思われていなかった。マンガなんてもちろんです。いまではマンガを読むのも面倒だと思われる時代になっているようですが。
 部分をごく即物的に見る、つまり意味からリズムへ、というのは、立派なものからささいな日常へ、権威から民衆の方へ、という流れであり、その意味でモダニズムなのです。
 リズム=ただの形、色、響きなどは、脱意味的であり、そこに注目する見方を「フォーマリズム」と言います。色や響き、味なども、抽象的に言って「形」だとしましょう。フォーム=形を重視する、というのがフォーマリズムであり、それを先鋭化し、いかにもつまらない部分的な形に注目することで権威的な意味づけをちゃぶ台返しするという「反抗」が一時期流行ったのですが、今度はそれが権威になってしまう結果となりました。その反抗を「ツッパリ・フォーマリズム」とでも名づけましょう。
 本書では、リズム=形を見ることと、大意味が「わかる」ことを両立させたいと思います。かつての「ツッパリ・フォーマリズム」から──いちおう、そういう背景があるということは知っておいた上で──離れる。もっと平熱のフォーマリズムを目指す。
 そのときには、フォーマリズムの極端化をやめて、意味がわかることもまた重要だ、というごく普通の感覚をある程度取り戻す必要があります。


 正直、僕はこの本に書かれている内容をちゃんと理解できている自信はありません。
 そういえば、タモリさんは「意味がないこと」や「リズム」をずっと重視している人で、だからこそ「異質な芸人」とされていたんだよなあ、とか、スタジオジブリのアニメって、ストーリーは結構支離滅裂だよなあ、でも、印象的なシーンが毎回必ずあるな、と考えていたのです。
 先日、舞台の『千と千尋の神隠し』を観たのですが、最後に「ハクの正体」が出てきたときには、なんでいきなりそれで話がまとまっちゃうの?と疑問だったのを思い出しました。あと、千尋カオナシと列車に乗るシーンは、ストーリーは忘れているのに「画」として強く記憶に残っています。

 僕が「わからない」「意味不明で眠くなる」と思っていた作品たちは、「テーマ」や「ストーリーの整合性」にこだわらないというか、あえてそれを外れようとしていたのか。

 ちゃんとしたテーマがなく、観ていて落ち着かなくても、「印象に残る場面」や「ちょっとワクワクする時間帯」があれば、それで十分、という「価値観」があり、それを目指している創作者たちもいる。むしろ、その方が「現代的」なのか。

 僕自身は、この年齢までさまざまなコンテンツに接してきて、最近になってようやく、「支離滅裂なストーリーでも、未完でも、途中ですごく面白いシーンがあれば、それで良いんじゃないか」と思うようになりました。
 人が生きるというのは、どうあがいても「未完」になるものですし。

 この本の表紙になっているロバート・ラウシェンバーグという美術家の作品の「鑑賞方法の一例」も、読んでいて「なるほどなあ」と思ったのです。
 こういう「現代美術の観かた」を知らないまま、「なんかよくわからない、思わせぶりな絵だな」と一瞥して通り過ぎていたのは、もったいなかったな、と痛感しました。

 けっして、簡単とか読みやすい、という内容ではありませんが、少し、世界の見えかたが変わる本だと思います。


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