2024年4月27日土曜日

『大人は怖い~ある少女の告白』松井玲子

NEW !

永和書館
194710月発売



★★   大倉燁子の娘




俗っぽい言い方をするなら、二世タレントならぬ二世作家。この本の初刊は戦前の1940年に出た大元社版になるそうで、母親である大倉燁子がまだ現役なうちから、娘の松井玲子も小説を書き始めていた。山下武『「新青年」をめぐる作家たち』によれば、1947年『アサヒグラフ』の取材にて玲子は〝目下は乱歩氏の下に探偵小説修業に通っている〟とレポートされているというけどホントかな?

 

 

 

大倉燁子・初の著書『踊る影絵』(柳香書院)は1935年、森下雨村/中村吉蔵/岡本綺堂/長谷川伸/大下宇陀児/甲賀三郎/江戸川乱歩といった豪華な面々の寄稿によって下駄を履かされ、華々しいデビューを飾った。

 

 

 

片や、玲子の永和書館版『大人は怖い』も母同様に著名人のバックアップを受けており、冒頭には「序にかえて」と題し、北村小松/川原久仁於/村岡花子/山本梅子(白百合高、今の白百合学園の当時の校長らしい)/坪田讓治/窪川稻子/石井漠ら七名の、餞の言葉が載っている。

中でも北村小松の「これはむしろ小説の形をかりた告白集」「外交官を父にもつ上流家庭に生まれながら、父母の不和がもとで、およそ精神的に恵まれて来なかったらしい」といったコメントは、本書を読み解く手助けになろう。

 

 

 

「ピアノの先生」「根ツ子大盡」「遺言狀」「卒業」

「盆栽の花」「大人の世界」「犠牲」

 

 

 

若さゆえか、1940年頃の日本を象徴する風俗や世相の描写は見当たらない。犯罪のような題材もなく、日常における少女のちょっとした心の綾を描いているため、母が大倉燁子だとか、その手の予備知識を一切知らずに読んだら、シンプルな少女小説としか映らないだろうな。でも作品の根底に流れる不穏な女性心理に母・大倉燁子との共通性を僅かでも嗅ぎ取れるのであれば、それなりに探偵小説として読める。

 

 

 

ここで松井玲子の生年に触れておこう。本日の記事を書くにあたり、最も参考にさせてもらった『「新青年」趣味』に掲載されている阿部崇【伝説・大倉燁子-奥田恵瑞氏・物集快氏が語る「物集芳子」の肖像-】では、玲子の生まれた年を1917年(大正6年)としている。一方、webサイト『夢現半球』の大倉燁子の項には、玲子の生年は1926年(大正15年=昭和元年)とあり「ハテ、どちらが正しいのかナ?」と迷ってしまった。

 

 

 

上段にて紹介した永和書館版『大人は怖い』/「序にかえて」の北村小松の寄稿をよく見ると、玲子について「今年廿歳(註/二十歳)になる年若いこの作者」と述べられている。なにげに私、昔から永和書館版『大人は怖い』は大元社版の初刊本に使われていた紙型を流用しているかも・・・とテキトーに考えていた。玲子1926年の生まれだとすれば、『大人は怖い』初刊本の大元社版が発売された1940年の時点で、まだ十四歳。いくら彼女が早熟だったとしても、これでは無理がある。

 

 

 

同じく上段にて言及した1947年の『アサヒグラフ』記事には、玲子は二十九歳だと記載されているらしい。これなら1917年生まれ説とは矛盾しないので、どうやらwebサイト『夢現半球』のほうが間違いだったみたい。ちなみに阿部崇の調査によれば、松井玲子1976年に五十九歳で亡くなったとのこと。玲子の生年が1917年だと納得できたところで、話を『大人は怖い』に戻そう。

 

 

 

永和書館版『大人は怖い』が刊行された1947年、玲子は三十歳(=丗歳)になるかならないかの年。そうすると北村小松の「今年廿歳になる年若いこの作者」という文章とは一致しなくなる。しかし永和書館版が1940年刊の大元社版の紙型を流用しているのであれば腑に落ちる。それでも1917年生まれの玲子1940年だと二十三歳なのだから、この三年の差が気になるといえば気になるけれど、このようにして永和書館版の「序にかえて」の部分は大元社の紙型を使用している可能性があるといえる。


 

 

 

(銀) 今となっては大倉燁子以上に、話題に挙がることも無い松井玲子だけれども、1951年の『関西探偵作家クラブ会報』第40号にて、同年6月の雑誌『探偵クラブ』に発表した短篇「灰色の青年」に対し「平凡なところは親譲りでしてねえ」と茶茶を入れられているのを見ると、当時の業界内では、母親とセットで気に掛けられていたようだ。

 

阿部崇の大倉燁子研究は非常に価値があり、『「新青年」趣味』だけに埋もれさせるにはあまりにもったいないから、いっそ大倉燁子・評伝でも書き上げてくれると嬉しいのだが、良い仕事をしてくれそうな人に限って腰が重かったりする。

 

Blogでは、わざわざ松井玲子単独のラベル(=タグ)を設定するまでもないので、大倉燁子のカテゴリーの中に一緒に入れておく。

 

 

 


   大倉燁子 関連記事 ■

 

 


 

 


 

 






 

2024年4月25日木曜日

『私は前科者である』橘外男

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新潮社
1955年11月発売



★★★    雌伏の時代




橘外男には自伝的な作品がいくつかある。ところが、それらを付け合わせてみても、必ずどこかしらに矛盾が生じるらしく、「これぞ絶対に正しい!」と言い切れるレベルにまで彼の履歴を確定させるのはかなり難しいみたい。本日の記事を書くにあたり、本書と他の著書を見比べながら一致する部分と異なる部分を洗い出そうかとも思ったけれど、泥沼にハマりそうなので止めた。

 

 

 

公的に流布している橘外男ヒストリーみたいなものはひとまず横に置き、
ここでは本書に沿って彼の青春時代を見てゆくとしよう。
家族の中で一人だけ出来損ないだった十八歳の主人公(=橘外男)を、
昔気質で厳格な陸軍大佐の父親は見放してしまい、
鐡道管理局長の職に就いている(外男にとっての)叔父の住む札幌へと放逐、
そこで監獄にブチ込まれたところから物語は始まる。
(芸者に入れ込んで官金を横領してしまう件については、
ほんの一言二言程度しか触れられていない)

 

 

 

一年ほど〝お勤め〟を課せられたあと、
要視察人扱いながら娑婆に戻った彼(この時点では二十二歳)。
どうにかこうにか、内幸町で瑞西(スイス)人の社長が経営している「外國商館」にもぐり込むものの、〝前科あり〟の身であることが発覚。
それ以降、「淋病専門の薬屋」「傳通院の洋食屋」「待合となんら変わりない割烹旅館」「日雇い労働の土方」「書籍/雑誌・取次會社の返品部」などを転々、人並みの扱いをしてもらえず、社会の底辺を這いずるその惨状ぶりはまるで悲惨小説のよう。

 

 

 

昔を思い出しながら自分自身のことを綴ってゆく作業というのは、想像の産物である小説を創作する以上に頭に血がのぼるのか、話の視点があっち行ったりこっち行ったりしがちだし、なぜか私は『まいど!横山です ― ど根性漫才記』など、横山やすしの自伝を連想した。作家デビューに至るまでの物語だから、明治後期から大正時代なのは確かなんだが、その都度発生する出来事の年度を特定できるほど明らかな手掛かりが逐一記されておらず、その点、曖昧な感じもする。

 

 

 

獄中の顔見知りで、結果的に残虐な殺人を犯してしまう男とはいえ、
共感を抱ける相手に対しては親愛の情を示す。
外國商館・モーリエル商會にて彼のことを色眼鏡で見ずに、
唯一味方になってくれた秘書のクレール嬢、またしかり。
逆に、自分を嵌めたり貶めた者への怒りは消えることがない。

橘外男という人は常に感情表現が白黒ハッキリしているので、
仮面を被り、知らぬ存ぜぬな顔で犯行を続ける探偵小説みたいなものは書けないだろうなあと、つくづく思う。

 

 

 

モーリエル商會の社長と再会、将来の展望がようやく見えてきたところで本書は終わる。若い頃の己の最悪の時代を売りにしたいというより、過去に過ちを犯し行き場を失くしている人達にも何がしかの希望を持ってもらいたい、そんな動機でこの本は書かれているような感想を持った。

 

 

 

(銀) 今日の記事では昭和30年の初刊を用いているけれど、現在でも2010年に出た復刊本(インパクト選書3)にて入手可能。ネックなのは、その版元がインパクト出版会というマイナー出版社ゆえ、実店舗にはあまり置いてないだろうしネット上でも目立たない点。とかくAmazonに在庫が無いだけで、よく調べもせず「その本は現行で流通していない」などと早合点する人が多くて。






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2024年4月23日火曜日

『スパイは裸で死ぬ』島久平

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久保書店
1971年3月発売



★★★     人間蒸発株式会社





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チンピラ「やい、ズベ公。てめえは何者だ。」

玉子「しゃべりません。捕虜は所属官姓名を名のれば、あとは黙秘権を認められます。ジュネーブの戦争条約で決められています。」

チンピラ「なにが戦争条約や。捕虜は捕虜や。野郎ども、このアマを裸にムイてまえ」


 


チョビひげ社長「おい、処女探偵、こっちを向け。おまえ、本当に処女か」

玉子「そればっかりは堪忍して・・・・・・」

チョビひげ社長「あかん。おまえかて、どうせ一度は散る花やないか。いさぎよく覚悟さらせ」

玉子「わかりました。覚悟します・・・・おかあちゃん、許して、うちは今夜、尊い処女を失います」

 

 




 

以前の記事(☜)でも触れたように、島久平の著書の多くは関西テイストどっぷりな、品の無いエロと笑いをまぶしたハードボールドやアクションもので占められており、そこに探偵小説的な要素を求めてもしょうがない。この「スパイは裸で死ぬ」は、カマトトぶった口振りで人をおちょくり、七変化の変装術を見せる探偵社員・仁切玉子(〝ニギリ・タマコ〟と読む。この名前が何を意味しているかは、本作を読んで確かめて頂きたい)、そしてドスの利いた殺し屋お伝こと高橋伝子、この二人の美女を中心に物語は展開する。

 

 

 

最初のうちはお伝と玉子、どちらが主役なのかよくわからない。お伝の属する人間蒸発株式会社の東京支社長が暗殺され、外国資本の殺し屋連盟が日本の裏社会を狙っているなど、彼女達の身に降りかかる抗争の実情が見えてくるのは、全体の折り返し地点あたり。激しいカー・アクションがあったり潜水艦まで現れる後半よりも、お下劣な肉弾戦で笑わせる前半のほうが、ワタシ的には面白い。

 

 

 

フィクションの世界にまで各種ハラスメントやポリコレを掲げて「あれもダメ、これもダメ」とほざく現代の偽善者どもを嘲笑うかのような、昭和のやさぐれ感が爽快やねえ。この種の島久平の作品は、間違っても大手出版社から復刊されることはあるまい。本日の記事の最上段に取り上げたセリフのような、ヨゴレな趣きのエロと笑いを普通に表現できていた時代のほうが、ずっと風通しがよくて健全だったわ。 

とは言っても、毎日こういう小説ばっかり読まされた日には、すぐ厭きてしまうのも事実。たまに読むのが新鮮でイイ。

 

 

 

 

(銀) こうした島久平の作品を読んでいると、ある意味では小林信彦「唐獅子株式会社」シリーズの先駆と考えられなくもない。もちろん小林は関西人ではなく、彼の小説における関西弁は稲葉明雄らによって入念にレクチャーされたものだ。コテコテのファンキー度は根っからの関西人・島久平に及ぶべくもないし、また、ここまでお下劣な小説を書く度胸(?)を小林は持ち合わせてはいまい。







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2024年4月20日土曜日

美輪さんの横溝正史嫌いは本当だった➋

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一昨日の記事(☜)のつづき。
令和5年11月に立教大学/江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが行った美輪明宏インタビューについて、前回入りきらなかった部分をフォローする。美輪さんを含むゲスト十八組の聞き手を務めたのは、江戸川乱歩記念大衆文化研究センターの後藤隆基。

 

 

 

「横溝正史は好きではない」とおっしゃる美輪さん。
その他には、以下のような発言が私の気を引いた。

 

 

三島由紀夫が「黒蜥蜴の役を演じてほしい」と最初にオファーしてきた時、
初代・黒蜥蜴(昭和37年)を演じた水谷八重子の娘・水谷良重と交友があった美輪さんは、遠慮して一度は断っている。

 

 

黒蜥蜴の役を引き受ける前から乱歩の原作を読んでいた美輪さんの目には、三島由紀夫が脚色し水谷八重子(黒蜥蜴)/芥川比呂志(明智小五郎)が演じた舞台版の「黒蜥蜴」は、自分が頭に描いていたものとはギャップがあったらしい。

 

 

一度断られたら三島由紀夫はそれっきり話を振ってこない人なのに、美輪さんには二度三度と頼みにきたので、根負けして黒蜥蜴役を引き受けることにした。勿論この頃はまだ美輪明宏ではなく丸山明宏名義の時代であるが、便宜上ここでは通して〝美輪さん〟と呼ばせて頂く。

 

 

こうして黒蜥蜴を演じることに相成った美輪さん。初演時の相手役は天知茂。ただ美輪さんからすると明智小五郎に天知茂をキャスティングするのは反対で、満足いかなかったそうだ。以前の記事(☜)でも述べているが、なぜ天知茂が明智小五郎なのか私もしっくりこない。のちに彼はテレ朝系列のドラマ「江戸川乱歩の美女シリーズ」で明智小五郎を八年間演じるけれど、どちらかといえばA&Aプロダクションを設立する前の怪優っぷりというか、ドロリと睨みを利かせた役柄のほうが、はるかに魅力を感じる。

 

 

江戸川乱歩がこの世を去るのは昭和40年。輪さんの黒蜥蜴初演は昭和43年。
美輪さんの黒蜥蜴を観ることなく、乱歩は旅立った。

 

 

 

 

以後、美輪明宏版舞台「黒蜥蜴」の明智役が次々変わってゆくのは、美輪さんが「これぞ!」と惚れ込める男優がいなかったからっぽい。さもありなん。ちなみに初めて私が美輪さんの「黒蜥蜴」を観劇した時、明智小五郎を演じていたのは名高達男。

 

 

このインタビュー、美輪さんの言うことはどれもウンウンと頷きながら読んだ私だが、(美輪さんの求める明智の風貌は)岡譲司や上原謙みたいな整った顔だそうで、うーん、この点だけはピンと来ないな。いまBlogの記事を書きながら、ネットで岡譲司と上原謙の若い時の姿を眺めているのだけど、ご両人とも名探偵に相応しい雰囲気を持ち合わせているようには、どうしても見えない。ただ私はこの二人の全盛期をリアルタイムで体験していないし、彼らの良さを理解できないのも仕方ないかもな。上原謙の息子・加山雄三とて、私が物心ついた頃には既に中年だったのだから。

 

 

「大阪松竹少女歌劇団の出身だから黒タイツで踊ったりしたんだろうけど、黒蜥蜴はそういう女じゃないから、私は〝ああ、残念なことだな〟と思った」と、井上梅次監督による昭和37年の映画『黒蜥蜴』で主演を務めた京マチ子にも容赦なくダメ出し。このあたり、いかにも美輪さんらしい。

 

 

とはいえ、自分が主演を演じた昭和43年の映画『黒蜥蜴』の監督に深作欣二を呼んだのはいいが、美術のディティールがショボくて自分でも「失敗作だった」と認めている。

 

 

結局のところ美輪さんが舞台でいつまで「黒蜥蜴」を演じたかというと、今のところ平成27年の公演が最後。最近の美輪さんはNHK – Eテレ『愛のモヤモヤ相談室』で見かけるぐらいだが、百歳になるまで、あと十二年もある。長寿でいてもらいたい。

 

 

 

 

(銀) 一昨日の記事 (☜)の中に、たまたま加藤和彦の名前が出てきた。
ザ・フォーク・クルセイダーズ、サディスティック・ミカ・バンド、そしてソロ・・・・加藤が録音した曲の中で私のfavorite No.1は、スネークマンショー1stアルバムにドクター・ケスラーの名で収録されている美輪さんの代表曲「メケ・メケ」のカバーだ。

 

 

サディスティック・ミカ・バンドは2ndアルバム『黒船』の頃、昭和2030年代の日本の歌謡曲をカバーしたアルバム『駅前旅館』を制作しようとしていたが、曲の使用許諾問題によって実現せず。加藤和彦が美輪さんの「メケ・メケ」をカバーしたのは、『駅前旅館』でボツったアイディアに再びトライするのが目的だったとも解釈できる。







2024年4月18日木曜日

美輪さんの横溝正史嫌いは本当だった❶

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 立教大学/江戸川乱歩記念大衆文化研究センター公式HP(☜)に「江戸川乱歩生誕130年記念企画~乱歩を世界にひらく、乱歩からひらかれる世界」と題し、2022年6月から2023年11月にかけて旧乱歩邸に招いたゲスト十八組のインタビューがupされている。その顔ぶれはコチラ。
 

 

①波乃久里子(with 平井憲太郎)

TOBI

③和嶋慎治

④齋藤雅文

⑤辻真先

 

 
⑥河合雪之丞

⑦喜多村緑郎

⑧松本幸四郎

⑨市川染五郎

⑩中村雀右衛門

 
 

⑪佐野史郎

⑫安達もじり

⑬柳家喬太郎

⑭速水奨

⑮室瀬和美/室瀬智彌(with 平井憲太郎)

 
 

⑯倉持裕

美輪明宏(☜)

⑱旭堂南湖

 

 
ゲストに招かれているのは(漆芸家である室瀬和美/室瀬智彌親子を除くと)、江戸川乱歩原作を使用した演劇・映像・二次創作パフォーマンスになにがしかの関わりを持つ面々。波乃久理子の話はちょっとだけ身を入れて読んだものの、探偵小説の副産物に興味を持たぬ私にとって心惹かれる企画ではない。そんな中、要注意人物が一名いる。他でもない、我らが美輪さんだ。







 他のゲストとは比べものにならないぐらい、生前の乱歩にゆかりの深い美輪さん。このインタビュー記事に見られる、旧乱歩邸にて佇む美輪さんのフォトは九年前に撮影されたもの。最新の写真であろうとなかろうと、1934年刊の新潮社版『黒蜥蜴・妖蟲』初刊本を手元に置きポーズをとる美輪さんの姿は、私の中に熱い胸騒ぎを呼び起こす。
(本日の記事・左上の画像を見よ)

 

 

乱歩そして三島由紀夫、二人の巨人について半世紀以上、幾度となくコメントを求められてきた美輪さんゆえに、乱歩との初対面時における〝腕を切ったら七色の血が出る〟云々のやりとり然り、こちらが知り尽くしているエピソードに終始してしまうのかと思いきや、このインタビューではつい耳をそばだててしまうような事も語ってくれている。

 

 

  まず、インタビュー冒頭の次の部分だけは至極重要なので、
ここだけは原文をそのまま引用させてもらう。


美輪「探偵小説の作家では、横溝正史さんもいらっしゃるけれど、あの人の探偵は野暮ったくて、舞台も田舎の豪族の家だったり、都会的じゃないんです。だから、あまり好きじゃなくて(笑)。その点、江戸川さんのものは好きでした。退廃的でね。まさかお会いするなんて思いもしませんでしたけれど。」


Blog 2022915日の記事(☜)にて私は、かつて美輪さんが横溝正史を「肥溜めの臭いがする」と言って一刀両断にした話を取り上げている。この発言がいつ、どこの媒体で発せられたものなのか、今でも突き止めてはいないのだが、上記のコメントを読む限り、(〝肥溜め〟とかキツい物言いこそしていないけれど)横溝正史のことは好きでないとハッキリ語っているので、美輪さんの正史嫌いは決してデマではなく本当のようだ。






  要するに横溝正史の人となりがキライというより、小汚い探偵や地方旧家の土俗性が肌に合わないようで、それらの根拠がおしなべて一連の金田一長篇から来ているのは明々白々。「真珠郎」あたりは読んでないのかな~。そもそも若き日の美輪さんは、乱歩以外の日本の探偵小説にどれぐらい接してきたのだろう?それを知る手掛かりとなる資料もまた無いのだけど、美輪さんの美意識からして『新青年』がカルチャー・リーダーだった頃の戦前の探偵小説ぐらいは後追いでなにかしら読んでいるかもしれない。さりとて本格長篇だから高尚とか、そういう観点を持ちつつ探偵小説にのめり込んでいたとは到底考えにくい。




実はこれまでずっと、美輪さんの「横溝正史は肥溜めの臭いがする」発言なるものは、角川春樹のハイプなゴリ押し商法によって大衆が横溝正史ブームに踊らされていたあの年代に発せられたんじゃないかな?と勝手に推測してきた。今じゃまるで、「すべての日本人が角川~横溝ブームに熱狂した」みたいな調子で決め付けているけれど、当時「横溝正史なんてちっとも良いと思わない」「節操無さ過ぎな角川の宣伝がウザイ」「田舎臭いのがイモ」「フケをまき散らす金田一が不潔」などと冷ややかに見ていた人だって少なからず世間に存在していたのを、私はこの目で見て知っている。そんな中の一人が美輪さんではなかったか?







  のちの世になって歴史を捻じ曲げる連中こそ、実に信用ならない。そんな譬え話をしよう。『レコードコレクターズ』という斜陽音楽雑誌があるのだが、この雑誌はある時期から邦楽を扱っても大滝詠一やいわゆるはっぴいえんど人脈ばかりに偏向し、洋楽でもくだらない特集しか組まなくなったため、真っ当な読者からはクソミソに批判され続けている(加藤和彦も小田和正と対談した時、「オフコースってあれだけ実績残してきたのに、音楽雑誌に取り上げられる事って全然無いよね」と暗に日本の音楽ジャーナリズムを皮肉っていた)。




特に呆れてしまうのは、いくら『レコードコレクターズ』の編集部や音楽ライターのナイアガラ推しの度が過ぎるからって、1981年の日本の音楽シーンを語る際、「この年の頂点にあったのは大詠一の『A Long Vacation』だ」とか、臆面もなく言いまくっていることでね。


確かに『ロンバケ』は長期間に亘ってよく売れた。でもネットの普及などまだ先の話である1981年において、大衆が音楽のフレッシュな情報を得るとなると、テレビやラジオが最大のツールであったことを忘れてはいけない。大詠一一切テレビに出ない人だし、ライブ嫌いで人前に出る機会も稀、『オールナイトニッポン』のレギュラーDJをやっていた訳でもない。全国区で見れば彼の認知度はそこまで高いとは言えず、結果的に『ロンバケ』はオリコンが集計する1981年・年間アルバムチャートの二位まで行ったものの、その売れ方はカタツムリの歩みみたいな、地味~なチャート・アクションだった。




あの年の国内音楽シーンを最も席巻したのは決して大詠一ではない。中島みゆきでもなければ横浜銀蝿でもYMOでも松田聖子でもない。シングル「ルビーの指環」「シャドー・シティ」「出航 SASURAI」をチャートのTOP10に送り込み、アルバム『Reflections』が凄まじい勢いでミリオン・セラーになった寺尾聰だったよ、間違いなく。


メインが俳優業である寺尾に強い思い入れを抱いている編集者/ライターなど皆無、ただそれだけの理由で『レコードコレクターズ』は『Reflections』の特集を組もうともしないばかりか、「1981年の頂点は『ロンバケ』だ」などと、うそぶく奴が出てきたりする。誤った情報に騙されちゃいけません。







  すっかり話が脱線したが、偏った音楽ジャーナリズムのせいで1981年における日本の音楽シーンの顔が寺尾聰でなく大詠一にされてしまっているように、あの頃角川~横溝ブームを好ましく思わない人など誰もいなかったかの如く、今の現代人は思い込まされている。そうでもなかったがね、少なくとも私の周りでは。


で、美輪さんが「横溝正史は肥溜めの臭いがする」なんて発言をするとしたら、あたかも正史が乱歩を追い抜いたような風潮にあったあの時期以外に考えられない気がするのだ。徹底して〝粋〟〝洒脱〟なものを好む乱歩贔屓の美輪さんからすれば、(あくまでも推論にすぎないが)金田一耕助や「八つ墓村」みたいなのが罷り通るのは腹立たしかったんじゃなかろうか。



「横溝正史は肥溜めの臭いがする」の話題で、こんなにスペースを費やしてしまった。
残りは次回へつづく。








(銀) 立教大学/江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが行った十八組のインタビューは『乱歩を探して』という単行本に収録され、もうすぐ発売とのこと。



















美輪さんもねえ、乱歩について度々語る機会があったのだから、美輪さんフリークの編集者が一肌脱いで、乱歩や「黒蜥蜴」及びその周辺にテーマを絞り、美輪さんの過去の証言を整理した上で、一冊の書籍に纏めてコンプリートしてみる、なんてのはどうだろう?
もしくは美輪さんが元気なうちに、乱歩についての超ロング・インタビューを敢行するとか。
でも美輪さんの年齢と体力を考慮すると後者は難しそうだし、
なにより、そのような企画を引き受けてくれるかどうか・・・。






2024年2月28日水曜日

『ゴア大佐の推理』リン・ブロック/白石肇(訳)

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仙仁堂
2024年2月発売



★★   リン・ブロックは知らなくても
             ゴア大佐の名前には見覚えがある筈




 日本ではリン・ブロックの作家名より、むしろゴア大佐というキャラクター名のほうで記憶されてきたんじゃないかな。


昭和10年、柳香書院からオファーを受けた江戸川乱歩は「世界探偵小説傑作叢書」と名付けられた一大企画に携わる。乱歩は海外ミステリの普及に貢献すべく、森下雨村と組んで積極的に作品選定・編集作業を行い、井上良夫にも助力を要請するほどの力の入れようだった。当初この叢書は全三十巻のリリースが予定されていた。しかし、フィルポッツ『赤毛のレドメイン一家』クリスティ『十二の刺傷』ミルン『赤色館の秘密』ノックス『陸橋殺人事件』メイスン『矢の家』の五冊を出したっきり、版元の事情で惜しくも中絶してしまう。

 

 

 

(本を買い込んだまま積んでいるだけの本の亡者と違って)純粋に読書を楽しむミステリ・ファンは江戸川乱歩の著書を読み耽り、「世界探偵小説傑作叢書」ラインナップの中に含まれていた「ゴア大佐の推理」とはどういう作品なのか、長年思いを馳せてきたに違いない。そのわりには海外ミステリをいつも取り扱っている商業出版社でさえ、リン・ブロックの作品を刊行する動きは(論創海外ミステリ『醜聞の館』の他には)皆無。戦前の刊行予定から遅れること約九十年、プライベート・レーベル仙仁堂が出したペーパーバックによって日本語訳の「ゴア大佐の推理」がやっと読めるようになった。簡素な本の造りは、POD(プリント・オン・デマンド)ではないらしい。

 

 

 

 これがワイカム・ゴア大佐ものの第一長篇。四十二歳の彼はそれほど若くもない年齢だが、この時点ではまだ探偵ではない。軍人の一家に生まれ育ったゴアは恵まれた青年時代を過ごし、第一次大戦が終わって退役したあとローデシアで暮らしたり、中央アフリカ探検隊に加わったりして充実した日々を送っていた。そこへ伯母の莫大な遺産が(彼を含む甥姪へ)分割相続される話が舞い込み、久しぶりに母国イギリスの地を踏む。

 

 

 

ゴアの幼なじみバーバラも今では、話下手でお堅い医師シドニー・メルウィシュの妻。そんな彼女だが、ありし日の軽率な男女関係が明るみになる手紙を握られてしまい、自分の旧友エセルの亭主になった男から強請られ続けている。夫へ実情を打ち明けることができないバーバラに泣きつかれるゴア。その矢先、バーバラを強請っていた男は車の中で奇妙な死に方をしていた。

 

 

 

車はメルウィシュ家のそばに駐まっていたので、死体はゴア達によってメルウィシュ家へ運び込まれる。妻バーバラがゴアに助けを求めているとは露知らず、夫シドニー・メルウィシュは周りに誰もいない自分の診療室で、死体の手の引っ掻き傷を拡大鏡で調べていたところ、一旦メルウィシュ家を発ったとばかり思っていたゴアが急に戻ってきた途端、あらぬ動揺を見せる・・・。

 

 

 

 本書をきっかけにゴア大佐シリーズを初めて体験したほうが、5~6ページにある主要登場人物21人のうち、主人公のゴアを除いた1/3ほどの人々に疑わしい裏の面があるよう感じられて、謎解きをフルに楽しめると思う。というのも、シリーズ第二作以降再び登場してくるサブキャラ達の行く末を知ってしまって本作を読むと、容疑の範囲が狭まり興味を削がれるからだ。


全体を俯瞰すれば、これはリンウッドの街の一角に限定された事件であり、スケール感や度肝を抜く派手な仕掛けは無い。ゴアをはじめ人間臭い登場人物たちの描写は、メロウになり過ぎると厭きてしまうが、その辺は抑制が効いていて、古典ミステリに興味のある人なら、そこそこ楽しめるだろう。

 

 

 

やっぱり気になるのは作品そのものよりも、プライベート・レーベルゆえの翻訳テキストだな。訳者の白石肇について、私は何も情報を持っていない。本書「あとがき」を読むとワセダ・ミステリ・クラブ出身の人らしい。ここでの翻訳文は極力易しい表現を選びつつ、それなりに語彙を使おうとしている痕跡も確かに見受けられる。


近年乱造され続けている非常識も甚だしい同人本のおかげで、この手のものには反射的に警戒心を抱いてしまうのだが、Amazonにおける本書の版元・仙仁堂の販売ページを見てみると〝過去に出した本が「誤字脱字が多い」とレビューを受けたので、再版時に全体の見直しと修正を行った。〟と述べてあった。「どれだけミスがあろうが自分は悪くない。イヤなら買うな!」などとホザくどこぞの老人と違って、この制作者にはまだ誠意が感じられるし、本書にも誤字はあったけれど、それには目をつぶりたい。

 

 

 

とはいえ、東京創元社とか商業出版社のミステリ本でも時折見られる事例なんだが、「ゴア大佐の推理」は1924年(日本だと大正13年)発表作品なのに、その訳文の中で〝ドタキャン〟(252ページ)なんて言葉を使われると、食事の最中に口の中でジャリッと砂を噛んだような違和感が残る。旧い海外小説を何冊も翻訳し、一応プロっぽい顔をしている訳者でさえ時代を無視した言葉遣いをしているケースはあったりするから、翻訳業を生業にしている訳ではなさそうな白石肇を責めるのは、ちと酷かもしれない。然は然り乍ら、こういうのをいたずらに見過ごしていると、その作品と発表された時代との共振性はどんどん失われてゆくんじゃないか?

 

 

 

もうひとつ。バーティー・チャロナー(男性)という登場人物が出てくるのだけど、地の文にて何度も〝チャロナーくん〟と訳されていているのには、どうにも首を傾げてしまう。会話の中で誰かにそう呼ばれるのならともかく、普通は〝チャロナー〟と記すべきだろう。


原文に〝 Mr. Gore 〟とあれば、日本人なら〝ゴア氏〟〝ゴアさん〟などと訳すのが通例。ひょっとすると原文には〝くん〟に相当する英単語が存在している?一~二箇所程度ならばケアレスミスだと判断もできるが、本書には〝チャロナー〟表記と〝チャロナーくん〟表記が少なからず混在していたので、原文を確認するすべの無い私は非常に疑問に思ったのであった。

 

 

 

 

(銀) これから先、昔のミステリやSFが新訳で発売されるたび、その作品の書かれた時代に全くそぐわない言葉で訳された本が増えていくのだろうか。翻訳者の仕事が並以上なら良いけど、ハズレな場合も当然ある訳で、そんな風に翻訳者によって作品の印象を左右されるのが好きじゃないから、意識的に私は海外ものにはどっぷりハマらないようにしてきた。

 

 

 

 
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2024年2月25日日曜日

『想い出大事箱~父・高木彬光と高木家の物語~』高木晶子

NEW !

出版芸術社
2008年5月発売



★★★★   やがて寂しき家族かな





高木彬光の長女・晶子による、一家の内幕を綴ったエッセイ。
内容は【第一章 作家高木彬光の周辺】【第二章 引っ越し話】【第三章 父・母・兄をめぐるエピソード】の3パートにて構成。言わずもがな、最も興味を惹かれるのは第一章。


なにせ私は北国生まれではなく住んだ経験もないので、青森には旅先での良いイメージしかないけれど、高木彬光からしたら冬が長いばかりか、早くに実母を亡くし継母とは確執の毎日だったため、さっさと縁を切りたい暗い故郷でしかなかったようだ。


 

 

昭和24年に天城一から彬光へ送られてきた「〝刺青殺人事件〟評」が高木家に保管されていて、それがそのまま紹介されているのだが、天城の物言いたるやKTSC(関西探偵作家クラブ)の一員らしく、どうにも口さがない。


「戦前戦後を問わず〝日本探偵小説界に於ける最良の作〟の一語につきる。しかし」

「〝刺青〟にはなんとVan Dineがノサバリ通っているのだろう!」

「殊に、小生の如き神経過敏のDSマニアにとって、許し難いのは、
貴兄の提起された古今未曾有・天上天下唯我独尊の名探偵神津恭介君の独創性の不足である。」

「この作を海外の佳品と比較して、(中略)小生の評価は、傑・佳・凡・愚・悪の五作に分ける。(中略)貴兄の作は凡作である。」


天城一のほうが一歳年上ながらも、ステイタス的には彬光のほうが上なのに、代表作をここまでとやかく言われるのだから、探偵作家という稼業も楽じゃない。


 

 

第二章では、晶子の生まれた宇都宮から都内へ高木家が移り住み、経堂~桜上水~豪徳寺~駒場~初台にて暮らした日々が語られている。時代が異なるとはいえ、私も長らく経堂に住んでいたので、ここいらはどこも勝手知ったる街だし、もう親近感しかない。だが鎌倉腰越に居を構えて以降の高木家は良い事ばかりでなく、昭和53年には代々木へ戻ってくるものの、今度は彬光が脳梗塞を患うばかりか、足を切断せざるをえないところまで病が悪化してしまう。

 

 

誰かが他界したり闘病に追い込まれる話は読んでいてツライ。それゆえ第三章の、トンカツ好きなエピソードや父・彬光の遺品整理をボヤくページに至るとほっこりする。彬光は占いにも没頭したので、そっち関連の裏話に頁が多く割かれるのかなと思ったら、一般的に男性より女性のほうが占いに頼りがちな傾向があるとはいえ、晶子は何事も占いに左右される彬光が大嫌いだったそうだ。その気持ち、よくわかる。度が過ぎて信心深くなったり、一度嵌まってしまうと身近な人の忠告も耳に入らなくなるから危ない。

 

 

あとがきで著者は、こう締めくくっている。


「自己中心で我が儘そのものだった父、親であることより妻であることを優先した母、
喧嘩もしなかったけれど仲も良くなかった兄・・・みんな嫌いだったけど、
でも死なれてみると好きだったのかな・・・なんて・・・
決して仲の良い家族ではなかったが、三人を看取った私の、
これは高木家へのレクイエムである。」


う~ん、含みのある言葉だなあ。いやでも晶子さん、誰ひとり仲違いせず、ひたすら幸せしか知らない家族なんて、きっとこの世にはいない筈ですから。
 

 

 
 

(銀) そろそろ高木彬光作品を記事にしなくちゃな・・・と思いつつ、探していた本がライブラリーにて見つからなかったので、前にも少々触れたことのある、このエッセイに差し替えた。高木晶子氏は今でもご健在と聞いている。

 
 

 

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