日記

とみいえひろこ/日記

2027.05.07

ネラ・ラーセン  植野達郎/訳『白い黒人 パッシング』、『もうひとつの声で 心理学の理論とケアの倫理』キャロル・ギリガン  川本隆史山辺恵理子、米典子/訳、コルム・トビーン 伊藤範子/訳『巨匠』、石川憲彦 高岡健/訳『心の病いはこうしてつくられる』、『シリアにて』フィリップ・ヴァン・レウ/監督・脚本 など。

先に言いたいこと、仮説があって、という感じがして途中で読むのをやめていた本。取り出して、淡々とつづけて書かれてある事例を読むうちに、誰の言っていることも選択も分かると思う。ジャネットの、デニースの、サラの、無数の人の、選択と、選択の前に何をどう受容してきたか、受容する体にどの定義域を与えられてきたか。

睦月都『Dance with the invisibles』

十七月の夜のカタン 娘はいまゆめみるごとく領地拡げて

 

4月の日曜の夜、睦月都さん『Dance with the invisibles』を読む会をしました(「かばん」のそこここ 4月28日(日)21時-)。

 

「娘」って誰で何なんだろう、誰にとってなんだろう? この娘はいったい誰とカタンというゲームをしているんだろう?
ひとつの読み方として、「十七月」という月は存在しないから、という話が出て。
発言にあったように、存在しない月の夜にいる存在しない娘がたとえば、「娘」を「娘」と呼ぶ「わたし(=連作中の「母」の実際の(「実際の」というのもなんか変ではある)娘)」とカタンのゲームをしているとしたら、「ゆめみる〈ごとく〉」だからここも裏返り、現実的に領地を拡げているということになる。

 

もし、ここで書かれている(そう、「書かれている」)「娘」が、生まれなかったもの、ないもの、この世界ではないということになっているもの、この世界では生き残れなかったものなら、
同時に、この世界でないところで生き残り生き延びているものなら、生んでいないから「母」という名でないわたしだけがそれを知っているものなら、内部にいながらわたしとはまったく別のシステムで生きる他者であるものなら。


その他者が領地を拡げてゆくのに任せ、自分の内部にある、ある場所を明け渡していくということのたまらない気持ちよさ、清しさ、規則正しさを思った。明け渡していくことではじめてそういう場所が自分の内にあったと知り、知ったと同時に失うことで、残された自分をかなしみとともに知っていく気持ちよさ。

そして、内部を「自分の内部」だとわたしが思っていたその根拠はどこから来ていたんだった? とも思う。


「娘」って誰で何なんだろう。私が想像していたのは、「わたし」の「母」が思う「娘(=わたし)」のことを、母になり代わって「娘」と呼ぶことで想像して捻出しようとする「娘」という存在やその背景にうごく何かだった。歌になる前の黙った時間の激しさ。

 

 

 

・当日、話のなかで出た歌の一部

 

手をとればワルツは円を描きそむ飴色の午後のひかりのなかへ

 

SNICKERSにあめりかのやはらかなビニール 会ひたき人と会へるだけ会ふ

 

わが飼へる苺ぞろりとくづほれてなすすべもなし春の星夜に

 

飼ひ猫が春の小庭にあそびては連れかへりくる蜘蛛・蜥蜴など

 

 

この歌が好きで、と人が話すのを聞いて、自分が刹那的に思うこと、また自分が長く抱えて思っているはずのこと、自分が好きだと感じることなど、なんだかそんなに、どうでもいいことだなあという気持ちになった。
「自分が」こう思った、このことがこのように好きだった、という感情の動きの、どこまでが自分の思いだと言えるだろう?

 


・読む会の前に、惹かれて付箋を貼っていた歌のいくつか。
これらの歌に心動かされたり止まったりした自分も、なんとなくもう遠く他人のように感じる。なぜ、どのように、どこが好きだったのか、たぶん今でも言葉で説明できるけれど、そのときの自分をすっかり失ってしまい、別の自分としてこれらの歌を(これらの歌の生まれる前の場所に流れている複雑でたくさんの何かを含んだ歌を)眺めている。この感じは、複数を表す「s」や「たち」の存在を感じる感じに通じているのかもしれない。

 

爪たてて無花果を割く ほんたうにほしいものなら誰にも言はずに

 

さみしさに座るキッチン ほろびゆく星ほろびゆく昼のかそけさ

 

三十歳になるのは この世にひとりぼつちみたいな表情をやめたこと

 

胸が痛むといふ言葉さへ鮮しく秋の林を乾かす風が

鮮・あたら

 

靴ずれを見むと路上にかがむとき雨の路上の音量あがる

 

行行重行行 ワルシャワに十一月の初雪が降る

行行重行行・ゆきゆきてかさねてゆきゆく

 

 

睦月都『Dance with the invisibles』

2024.05.02

ジャーメイン・グリア 寺沢恵美子 山本博子/訳『更年期の真実』という本を読んでいる。ほんとにおもしろくて、同時に、やっと、今という時間に今を、遅れずに早まらずにつかまえることができるようになってきているようにも思う。

私はとくに産後5年ほどがひどく、そのほかほとんどすべてずっとひどかったと思う。当時もうすうすわかっていたけれど(わかっていながらそういうことにするとやっていけない状況があると思っていた。けれど実際は、いつも、案外、手がある、はずではあるのだと思う)、わりと大きな割合で、「ホルモンバランスの乱れ」として括られるもののなかにいるわたしと目の前のものごと、そしてそれらを包む基盤や仕組みのようなもののなかで起こること、起こして見てみたかったこと(自分がどこにいて何者か、それが信用できるものなのか、わたしはそれを信用することにするのか、といったこと)がわたしにとってはそういうことだった、ということでいいと思う。確かめたい、確認したい、という思いがつよかったと思うけれど、確認しても確認しても終わりがない。

ものの見方、付き合い方を分かっていなかったから/いないから、すべて無駄な確認作業だったし、遊んでいるだけだった。「確かめたい、確認したい」というのはただそのときのわたしの言語化のひとつがそうだっただけで、そこから意味を掘っていくのはほとんど意味がない。言語化された/されずにいるそれはわたしにとって何か、というのをつくっていく経験、つくっていく遊びのほうが、意味がある。今はそちらに寄った頭でものごとをみる。

最悪のことはほんとうに避けたいので、真面目に、できるだけ、自分のうちそとで何が起こっているのかよく見たいと思う。当時もなんとかしようとしていたし、見ようとしていたのは確かで、でも今という時間にずっとのれずじまいだった。が、それはそれで、そうだったんだな、と思う。ベストを尽くしてこれだったから、これで仕方がない。そして、これが最後だと思うから、今回こそ、何かをなんとかしたいとつよく思っていると思う。が、つよく思うことでまた同じことになるのでは駄目で……

 

私は手放してはならず、その絵の終りを見失い、これまで苦痛に耐えて凝視してきた全体像の意味を見失ってはならないのだ、私はここで持ちこたえねばならない、さもないとその絵はかすんでしまいこの連鎖は失われるだろう。

ヒルダ ドゥリトル『フロイトにささぐ』から/ジャーメイン・グリア 寺沢恵美子 山本博子/訳『更年期の真実』)

 

 

石川憲彦 高岡健『心の病いはこうしてつくられる 児童青年精神医学の深渕から』など。

何も進まないという印象がずっとあるし、こまごまとしたひとつひとつのことがなんとかほんとうに少しずつ進んでいる、雑然としながら。

2024.04.30

葉のなかを流れる樹液を解明するには、根の秘密がわからなけりゃあならない。

 

パトリック・シャモワゾー 星埜守之/訳『テキサコ』

 

いろいろな面で進んでいるんだけど、限界へ来て(「限界」へは、こちらから「行く」という感じ)、できなくて眠り、起きて。ここがキャパシティなんだな、と理解する。繊細な物差し、自分の手持ちの物差しがまだなく、比較や、つまらない方法で理解しようとしていたのだと今は思う。

進んではいるんだけど、もう限界や、この方法では終わりという先のことも見えていて、どうしようか、どうにかいろいろやりかたを見つけていかなくてはいけない、というところに何ヶ月かいると思う。でも、やることは、ホビのいうようにほんとうに基本的なことなんだと思う。

調整、修正、見落とし、お詫び、読み落とし、浮遊、動けなさ、靄、見えなさ、わからなさ、届かなさ。遅れ、というのも、いちばんつよく気がかり。

「わからない」に囚われる感じが、ほかのさまざまなもう少し複雑なものに分かれていっているのかもしれない、とも。

 

西澤哲『子どもの虐待 子どもと家族への治療的アプローチ』、『レット・ゼム・オール・トークスティーヴン・ソダーバーグ/監督、春日武彦『臨床の詩学』、『発達障害の精神病理3』、『知的障害の心理学 発達支援からの理解』、『眠る男』小栗康平/監督、小栗康平『哀切と痛切』など。

完璧な海

完璧な海

 

大好きな子は……という名まえ持つ持たされたままそよと受け入れ

犬のような大きな大きなセーターを被るときすこし迷う光に

送料のほうが高くついたのだったっけ桃のクリーム足の甲にも

行けないで/行かないでいる子どもらの姉さんたちの俯いて笑む

舟ひとり漕いでいる気分のあなたB級ホラー映画を観てる

知らないでしょうここ最近はやや深いヨガを私がしていることも

彼の人のドローイングは霧のよう扉も窓も正確に遠く

ポスカ ポスカ 水色のポスカ買いにゆくわたしの完璧な海のために

 

 

 

「かばん」6月号、特別号なのに提出するのを忘れてしまった。もともと締め切りを自分につくることをいちばんの目的に入ったので、8首まとめ。

 

 

川田絢音『雁の世』『こうのとりの巣は巡る』

拒絶への感受性、と、言葉にしたら妙な言葉だけれど、川田絢音の文章を読んでわたしが惹かれるのはそういうあたりなんだと思う。拒絶、への、感受、感受の仕方に惹かれる。だから、惹かれ方も独特でないといけないはず。

 

危ういものが ひとかけらずつあらわれ

受けとめ方もわからないまま

何なのかと思っているあいだだけ

存在する

(「犬が」)

 

もっともっと、深い拒絶。向かい合うものからの、深い絶対的な拒絶。

 

わたしはこなごなのがらんどう

捨てきれなかったものが

置き去りにされる

「窓」

 

川田絢音『雁の世』(思潮社

 

 

もっと。

 

たとえば後から、「再体験、感情の解放、再統合」と理屈づけられ名づけられる回復のありかた、経験のありかた。それ以前の詩、もがく詩、理屈や名前とは深く断絶している詩。ないものを、分かりっこないものを、確かめ確かめ、唯一の守り方を見つけ出すために壊して壊して壊すような進み方の体験を促してくる詩。ないけれどある記憶の確かさのほうを信じ、撫でているような詩。何かのために確かめているんじゃない、できないために、戻れないために、絶対に受け入れられないために、向かい合うものからの拒絶を根拠にしてこちらのありかや受け入れ方をさぐる、さぐるというだけの、そういう詩。さぐりつづけるというだけで、さぐりつづけるという行為に意味が生まれてきてしまったと思えばまた退ける、そういう詩。

 

 

まだ間にあうとわたしは隣り村へ歩いて

それならできる

葦は裂けて揺れ

拾ったばかりの波形の緑の石も

なにひとつ知らされていない

すがりあってこの道を行く

(「仲間」)

 

川田絢音こうのとりの巣は巡る』(アーツアンドクラフツ)