通勤電車で読む『ひとりみの日本史』。おもしろかった。

大河ドラマがおもしろいのでTwitter大河ドラマ関連のリストを作って覗いているのだけれどそこで見かけた本で、読んだらおもしろかった。著者の人はちくま文庫で『源氏物語』個人全訳をしていたりもする、古典もののエッセイストのひと。鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』の「誰もが生涯に一度は結婚するのが当たり前という生涯独身率の低い「皆婚社会」が成立」するのは十六・十七世紀になってからのこと、というのをはじめ、歴史学や人口学の知見を引きつつ、おもに古典文学に出てくる独身者のことを紹介している。

通勤電車で読む『今日もテレビは私の噂話ばかりだし、空には不気味な赤い星が浮かんでる』。

統合失調症のひとが経験を描いたコミックエッセイ。

通勤電車で読む『続・ゆかいな仏教』。続編があった。

『ゆかいな仏教』を再読したとここに書いた(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2024/05/06/195734)とき、書影を貼り付けるために検索したら続編が出ているのを見つけた。で、読んでみた。ひとつなるほどと思ったのは、極楽浄土についての疑問。前の本で書かれてたように、仏教というのはブッダと同じように「覚り」に到達して解脱することが目標で、それは自分自身で到達するしかないものであるけれど、阿弥陀仏というのはひとびとを極楽浄土に連れていくことができるってことになっている、極楽浄土というのはゴールじゃなくて、とてもいい環境なので修業がはかどって次に生まれるときに「覚り」に到達して解脱できるのだよ、ありがたや、ということらしい。しかしそんなにいい環境であるなら、極楽浄土でいいです、べつに覚らなくても結構です、という人が出てくるんじゃないかと。なるほど!そういう問いはありえるね。そしてじっさいにたぶんいま、ごくふつうのしろうとの持つ程度のイメージだと極楽浄土=ゴール、なのだよな。
あとは、キリスト教だと神がキリストを地上に遣わしたのが2000年前の一度こっきりなのはちょっと少なくないか?なんでもっとしょっちゅう出てきてくれないのか?また仏教だと、人は誰も仏性をもつといいながら、実際に覚ったブッダから次に覚る弥勒菩薩まで五十六億年ってのはちょっと間が長すぎないか?という疑問のくだりは笑えた。なるほどキリスト教でいえば、次にキリストが出てきたらそのときは最後の審判なわけなのですべての歴史が終わっちゃうわけで、つまりキリスト教の時間感覚というのは、キリストが出てきてから次にキリストが出てくるまでの「宙づり」の時間を生きているということになって、しかも「時は迫れり」ってわけでいつキリストが再び現れて最後の審判の日が来るのかわからない、間近かもしれない、という急迫の中で生きているということだよと。他方、仏教だと、まぁ五十六億年はけっこう遠いにせよ、覚りを目指して修行の道を歩むってことが重要なんで、歩むぞ、歩んでるね、ってなりさえすればまぁ100年でも100億年でもまぁおなじことだと。まぁね。

通勤電車で読む『裁判員裁判の評議を解剖する』。会話分析。

このところ通勤電車で読んでたのを、連休をはさんで読了。以前読んだ『裁判員裁判の評議デザイン』(2017)(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2020/02/24/134648)がおもしろかったけど、執筆している人は部分的に重なっているみたい。本書は2023年の本。たぶんより会話分析っぽいかんじ。また、前の本でも紹介されていた「付箋紙法」も取り上げられている。やっぱりよさげだね。それで、前の本もだったし本書でもそう言われているけれど、裁判員裁判の評議の研究というのは、会議の研究と重なってる。

帰省中に読んでた『ゆかいな仏教』『百鬼園事件帖』『百鬼園随筆』。

ゴールデンウィークで帰省。それで以前から帰省したらのんびり読もうかなと思っていたのが『百鬼園事件帖』という本で、あるとき、なんか本屋さんの「もうすぐ返本するから買うなら今!一期一会!」というカゴに入っていたのを買ったもの。中身は全然知らなかったけれど、『吾輩は猫である殺人事件』(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20090719/p1)的な?ものなら面白かろうと思い、また、帰省時になんどとなくちくまの百閒アンソロジー文庫を持って歩いたり(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20170328/p1 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20180507/p1 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2024/01/06/200402)、ゴールデンウィークとか帰省時とかに奥泉光を読んでいた(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20150820/p1 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20170422/p1 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20170508/p1 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2020/04/29/233656 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2022/05/07/102758 )のの、かわりにこの次帰省するときはこれを、と思っていたので。でまぁしかし汽車の中で読む用にふと以前読んだ『ゆかいな仏教』(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20131204/p1)もいいなと思いつき、また、百閒のパロディ小説を読むなら百閒そのものも一冊ということで百鬼園随筆(これも何度も読んだ)をカバンに入れて、帰省。
でまぁ汽車で『ゆかいな仏教』から読みはじめ、やはりわるくない。やはり大乗仏教の説明のところがいいわけで、またこのたび読んでなるほどと感心したのは、薬師如来の救いはたとえばキリスト(教の神)が神的能力(奇跡)によって病を治療するのとは違うよというところ。だって薬師如来は薬壺をもっているでしょう、つまり、現実的な因果関係にもとづいた治癒に導くのである、みたいなところ。ロジックとして一貫しているし、なるほどそのようなやりかたによる救済というのはありうるのかなあと思わせる。
でまぁ実家で『ゆかいな仏教』を読み終わってからこんどは『百鬼園事件帖』を読み始めたら、甘木という学生が主人公で、たしかに内田百閒が登場して、まぁ奇怪な出来事があったり謎が明かされたりする連作で、うん、文体的なことでいうと百閒ではなかったですね。百閒にしては軽いぞ?と思って著者名をみて検索してみたら、『ビブリア古書堂』シリーズというのを書いている人なのだなと。で、しかし、百閒から持ってきたのは、いくつかの設定とかモチーフ、そして幻想譚っぽいところ。なので百閒が好きな人が書いた感はありますね。
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でまぁ、帰りの汽車では『百鬼園随筆』をぱらぱらと読んでいた。