11th Anniversary Kanon


11歳になりました。今日は近所のアトリエでお誕生会です。プレゼントは禁止で、写真とお絵描きを秘密で募り、大きな額でコラージュを作った。
二晩かかった。
写真と動画は先日のフェスティバル、Wels Musicunlimited 23 にて、The Ex のダブルアンコールに飛び入りしたチビ。
仕組んだのはオーストリア人ドラマーのトニー・バックとニッケルスドルフフェスティバルのハンス。
ちなみに香音はトニーの演奏を観て虜になった。目下の憧れらしい。

Life is a readymade Opera.

 クリストフ・シュリンゲンズィーフ、と言うと、日本ではモンドな映画、スプラッタとかグロい映画が得意なドイツ人のカルト映画監督として知られてるようですが、昨夜、ウィーンはBurgtheater にてこの人の、非常に美しく叙情的なごちゃまぜ作品を観てきました。前衛劇という古くさい言葉でくくりたくないし、メディアミックスなんていう、プラッチックみたいな軽い言葉で説明したくもない。まさしくゴチャでマゼな、それゆえ魅力的なステージ。
非常に満足して帰宅し、床に着くと今朝方はなんと、ヤクザに付け狙われる大所帯グループの仲間と、ヤーコの襲撃に備えつつカーテンコールの練習を延々としている、という珍しい夢を見た。特に意味はないと思う。


人の話によるとこの作家は末期の癌を患っているらしく、本編でも彼と同名の「クリストフ」という主人公が癌患者として登場し作家の分身として語り、彷徨い、体験する。
作家自身の病状というあまりにも訴求力の強い事前情報を聞いて、あー、がんばってはるねんやー、観ときたいなぁと思ったのは事実で、そんな自分の動機に一抹の後ろめたさも感じつつ、でも、これほどの前知識って、どうよ、とも思ったりしつつ。


というのは、日本のニュースでも配信され続けていたが、英国版おバカキャラで一躍有名人になっていたジェイド・グッディが末期癌を宣告され、闘病生活をメディアに売り出して露出を繰り返し、そして意外にめちゃあっさりと亡くなったところで、ものすごくいやなタイミングでもあった。
彼女のある種醜悪な売り出し方・生き様はあきらかにサブカル的で到底アートなどたり得ず、高尚さもアカデミックさも崇高さも無縁な彼女が最後に、自分が財産を残すとしたらこれしかできないから、と、あえて闘病生活を特番化してもらって公開し、服役中の彼と結婚し、死ぬぎりぎりまでその身をさらした。そして一財を成した。


 クリストフ・シュリンゲンズィーフについて、末期癌であるとかもしくはゲロゲロなカルトムービーや人間の本質的なテーマへの露悪的な切り込み、アプローチ、というのを知らなかったとしたら、今回の作品「Mea Culpa ~Eine RedyMadeOper」をどう観ていただろうか。あ、いや、彼の一種のセンセーショナルな手法というのは知りませんでした。ので、これは後学。で、知らなかったので、劇中かなりの時間投影されているあらゆる映像について警戒心がなかった、というのが大きかった。虫や蝙蝠や魚もあったかな、あと特殊メイクされた人体とかエキセントリックなキャスト、抽象映像、それにタイポグラフィ、あらゆる映像がひっきりになしに使われていて、ちょっと多すぎるな、とは思った。この人映画作ったら良いのに、とも思った(笑)。作ってんのに!w
しかし、もともと映画の人、と思って観てたら、もしかしたら得意メディアに頼ってんなぁとか、場面のつなぎ方が結構ずっと一緒やなぁとか、そういうことが気になっていたかもしれない。チラッと感じたそういう感覚に、自分自身がリードされてたかもしれない。生の人間がせっかく居るのに、映像と音楽が若干多すぎてもったいない気がしたのは、作中の映像と音楽がとにかく饒舌であったからだけど、これは一夜明けて返す返す思い起こして至る感想であって、観劇中にはすっかり騙されたように引き込まれていたのだけれど。


 ジェイド・グッディのことは随分前にネットで読んで、面白いけどあまりの露悪趣味に辟易したものの、特に関心も続かなかったのは、おそらく動いてしゃべってる彼女を見たり、テレビやメディアで意に反して唐突に目にする、不本意にその姿を見せつけられる経験がなかったからだろう。
ほんの一行で彼女の所行を説明するなら、英国版ドキュン一家の寵児、といったところ。
両親はろくに働かずヤク中、躾や教育など受けてないに等しいという、ごく普通の英国家庭(苦笑)に育ち、リアリティ番組でその無知無教養、粗暴さ恥知らずっぷりを余すところなく披露。英国底辺層の象徴的な彼女を面白がってメディアは取り上げて、彼女は一躍有名人。人心とはことさら不思議なもので、目が慣れてくるとブスだけど可愛い、バカだけど頭良いと、自分が何に惹かれてるのか錯覚してしまう人続出で、彼女をセレブにまで引き上げてしまう。
本人がどんどん勘違いするのを内心あざ笑いながら面白がってちやほやしているんだよ、と言う意見も多いようだが、それがほんとならさて、本当に醜悪なのはどちらだろうか。


「Mea Culpa」はラテン語で、“自分のせい”みたいな意味らしく、欧州人に訊くと誰もが「とってもカソリック的な言葉」と言う。カソリックって、何でも神様のせいやと思ってたのに!w
美術は回転舞台を常に廻しながら展開してゆく。最初はアーユルヴェーダのクアホスピスで、湯治客の中に紛れ込むクリストフと恋人。クアハウスには老人が多く、元オペラ歌手やエキストラ、ベテラン俳優にずぶの素人などその混じり具合はなかなか味がある。患者や医者に扮したオペラ歌手が有名な歌曲やアリアを歌うが、オペラに興味も知識もないわたくしも退屈せぬ、嫌みのない程度で展開してゆく。ダイアローグはもちろん独語で、ちょっと早くなるとたちまちついて行けなくもなるのだけど、断片的な理解をつなぎ合わせてゆけば、一部始終の理解を必要としていないのは感じとれる。


っていうか、台詞が理解できないと作品を理解できないなど誰が思い込んでいるのか。
維新派を10年以上観ているが、言葉の洪水と言われるようにあふれ返って混沌とするほどの語彙をきちんと聞き取るのはほぼ不可能だし、役者も台詞を届けるために用意された人々ではない。
また逆に、台詞が極めて少ない芝居が果たして理解し易いものなのかと言えば決してそうではない。
もしくは歌舞伎の会話を、聞いてるだけで即座に理解できる日本人は現在、果たしてどれほど居るだろう。
かつて日本を訪れたジョン・レノンは歌舞伎を観劇し、まさしく感激して言ったという。
「なぜだろう、台詞も仕草の意味もまったく知らないのに、よくわかるんだ」ジョンさん、号泣していたらしい。
だからわたしは、言葉がわからないから楽しめないとは思わないし、言葉でできる理解はまぁ究極後付けでも良いと思うし、ほんとに良い役者がつかう言語がわからんでも、良い者は良い。そして、台詞表現のトレーニングに執着した古くさい芝居には、ほんとうに辟易してしまう。言霊はそんなところには宿らない。
もちろん、皮肉や知恵や知識やウィット満載のダイアローグすべてを聞き取って理解できた方が良いに決まってるたいていは、というのは当然すぎてあえて書かない。しかし会場のほとんどを埋め尽くしたと思われる独語話者の誰よりも、自分が一番作品理解から遠かったとも、決して思わない。


とはいえ台詞のいちいちに反応して笑うような忙しさもない身なので、時折ふと今朝目にしたばかりのジェイド・グッディの最期について頭から離れない。
英国の保険事情、医療サービスの現状も日本や米国同様、相当課題を孕んでいるらしいけれど、何よりも個人的にショックだったのは彼女は定期検診を受けていたということである。子宮頸癌という、比較的自覚症状が意識されにくい癌であったことに加えて、彼女は先駆けて2度3度と、定期検診で“異常なし”と言われていたらしい。だから、見つけた時には末期だった…というのである。
人生の中で、幼少時より何の努力も教えられず、ダイエットの努力すらやり遂げられず放蕩の限りを尽くしたらしい彼女であるが、それでもしかし、この運命を「あなたのせい」と、誰が言えるだろう。


おそらく事前知識を得ていなくとも、劇中随所にちりばめられた死をめぐるメタファーや時には直接的表現の羅列があり、主人公はイコール作家でその彼は末期の癌患者でもあることは、作品の土台となっている。
何をとってももう、まだ若く才能豊かな芸術家が癌を抱え死に直面してなお叫ぶように作る作品である。(実際二幕ではかれ自身が登場し、舞台いっぱいに大写しになった映像を指し示しながら、オーケストレーションとまさっしく競うように声を上げ全身で語る。演出家の登場が与える緊張感は最大限に効果を上げ、裏腹に鍛えられていない声(もしくは萎えをみせる声)がまた、その場一帯に別の緊張感を与える。)
感受性にスイッチがあるならオフにしたくなるくらい、あらゆる音色や情景、感情、エネルギーが矢継ぎ早に投げかけられる。訴求力が強すぎる。あまりにエモーショナルである。
さまようクリストフが様々な人の独白を聴き、応え、時に黙ることを繰り返し、人々は時に可笑しく、時にいらだち、時に嘆きながら語るのは、彼らもまたクリストフの分身であるかのように。
総合芸術の骨頂、とも言うべき、饒舌な表現力が洪水となって押し寄せてくる一方、我々がこんなにも引き込まれるのはなぜか。演劇好きの隣人が今日観る演目の作家の名を聞いて一言、ああ、超モダンな!と言っていたように、アカデミックで難解で高尚(であることは事実でもある)と評される作品に、どうしてこう直情的に引き込まれてゆくのか。それはほかでもない、最早死も癌も、作家が悲劇的に独占している物語では、ないからだ。
回転舞台を彷徨い、時に逆行する“クリストフ”も、その奥に篝火のように存在するクリストフも、不治の病や死という己の悲劇を抱え込んで独占することなく、さらしているからだ。
そしてわたしたちも、もはや誰かの死はあまりに日常であり、舞台の上の高尚な死を気安く見物できる今を生きていない。クリストフをみつめるまなざしが、自分を、誰かを、そしてまた彼を、三次元四次元的に重ね続ける。


 もの凄い利益を上げた若き末期癌女性のいわば御臨終SHOW を英国の、特に中産階級以上の“分別ある人々”は醜悪と批判したらしい。癌や死は、売り物にされるべきではない。と言う。粛々と死んでゆけ、と言うのか。
言うまでもなく、これまでも今もこれからも、癌だってどんな不治の病だって死だって、売り物にされてきた。有名人が死んだら本が出る。告知されたら本を書き、生還したら本を書き、再発したって本を書く。
闘病生活のドキュメントなんていくらでもあるし、映画にもなっている。
それをなぜ、彼女の件では叩くのか。一向に理解に苦しむけれど恐らく、彼女のそれはあきらかに金目当てであり(公言している)、高尚さも気高さも美しさもみとめられないハズだから、ではないか。テレビで傲慢な人種差別発言を繰り返し、美容整形と虚栄の限りを尽くし、醜悪な生き様をうんざりするほどさらし続けた彼女の、いやらしい死に様までも見せつけられたくないと言う、反発。死してなお、選別される生のクオリティ。


 壮大な遺言のような舞台上で、夢のような幻のような情景はどんどん展開して、観るものは夢見心地と悪夢の間を延々行ったり来たり、揺り動かされる。
当方のような場末の記録でネタバレに配慮するのは若干自意識過剰な気がするものの、マナーとしてラストの詳細報告は控えますが、ラストは見事でした。
物語が終焉へ向かってゆく頃から、克明にやり取りを思い出せるくらい、すんなりと胸に落ちてきたエンディング。
たいていこういった、大風呂敷を広げた大スペクタクルって、エンディングは似てしまったり無理矢理終わっちゃった勘が残ったりが多い。凄く多い。が、特にオチがあったわけでもないのに、きちんとお話を終えてくれた。ということに至上の救いを感じました。


僕は特別でもないし、何も誰も、特別なことなどないのだよ。だから、気にしないで。


クリストフ・シュリンゲンズィーフって人は、なんて優しくてチャーミングな人なんでしょうね。
長々と、素晴らしい芸術家の一世一代の作品と、英国のメディアが生んだクリーチャーみたいな女史の最後っ屁を愚鈍に書き並べて、どっちかを穢したりとか持ち上げたりとか、したかった訳ではないのですよ。ごめんなさいね。
ただただ、劇場で、ある人の描く物語に迷い込んで、彼や、彼女や、遠くの誰かや隣の誰かを、自分もそして再び彼や彼女を重ねて、思い、眺め続けたその果てに、最後のメモにサラリと言葉を残してもらったみたいで。潔く後味が良かったのでありました。それだけです。から、気にしないで・・・。


ReadyMadeOper。あらかじめ作られたオペラ。なるほどね。人生なんて、そんなもんなんでしょうか、先生! だとしたら、まぁオペラでもソープオペラでも、どっちだっていいじゃないのね。ね。




http://www.mea-culpa.at/container.html

100回のため息とお花いっぱいの誕生日

 きのうは久しぶりに自分の誕生日だった。一年ぶり! うちは我が誕生日と結婚記念日が合同なので節目感あふれるのだが、今回お父ちゃんは維新派御一行様とニュージーランド公演中。記念の夜、お父ちゃんは松本座長とツーショットでバーに居たらしいが、わたしは自宅で宴会を主催。
お父ちゃんが居ない寂しさを酒と喧騒でかき消せと思い立ったが、さすがに翌日のカタヅケ物の山を見ると、ため息100回。誰かの不在について気をまぎらわすために人を集めても、肝心な人がいないと何の埋め合わせにもならないと言うことを思い知った次第であった。 

しかしながら、宴会は良いもので(ウヒヒ)、今回茶目っ気のつもりで「おプレゼントのことはどうか忘れて下さい。私は日本人でシャイで、そして誕生日のプレゼント交換は我々の文化にはありません。真実です」と嘘丸出しの冗談のつもりで書いたら、ほとんどの人が真に受けてプレゼントの代わりにお花を持って来た。
自分だけのためにもらう花としては記録的にたくさんのお花をもらって、花瓶では足りず白いホーローのお鍋に生けた。イケバナの国の人とは到底思えぬ措置である。
また一方で、遠方の友人知人からもメールにて、花の写真を頂いた。どうやら南ドイツの早春の花、東アフリカのハイビスカス。ありがたいなぁと思いつつうっとり眺める。デジカメでぱちりと撮られた写真も、昨今では本当に美しく、野の花の透明感までモニターの中で輝いている。
お鍋いっぱいの花もほんとうに色とりどりで、午後になって雨の合間の光を受けて、きらきらしてる。

病気と手術を経験してから、長〜いオマケ人生を享受している気でいるが、ここ最近面白い仕事もぼちぼち入りなかなかの充実であるものの、なぜかその充実と裏腹に、厄介でしつこい鬱ともぼちぼち対峙している今日この頃。
自然、自分の誕生日にもイライラぶつぶつ、文句とため息を垂れ流しているのであるが、長い長い宴会から一夜明けて、鍋の花に水をやりつつ、その純情な可憐さに地味に感動をおぼえたりして。ほんと、お花ってきれいですねー。


誕生日だと言うのに宴会主催者だと言うのに、内心は陰気臭い気分で過ごして、100回のため息とともに片付けを終えやれやれと休憩しながら、いつものようにふと、死んだ友達を思い出す。私の中にずっといる死んだ人達…。
そう言えば、南ドイツの野の花の写真を送ってくれた友達は、もうすぐパートナーの一周忌を迎えると言う。
お墓や仏壇に手向ける花って、すぐ枯れちゃうニギヤカシのカザリモノ程度にしか思っていなかったけれど、こうして贈られた花を抱きしめるように眺めていると、お花が死んだ人達の伝言を運んできてるような気がしてくる。それぐらい、何かを主張してるように見えてくる。
残念ながらその伝言は容易に解読できないのだけど、みずみずしくってキラキラしてることに変わりはない。
なんか、キラキラしながら、無性になんか言いたそうに見える。お花が。


みなさんありがとう、無事お誕生日、終わりました。
大原さん、市川さん、そちらでお元気ですか? 文句言いながらも、好きな音楽をほどよい音量で流して友達と呑むお酒は、格別でした。
そこに音楽があると、救われるものですね。
ぶんちゃん、もうすぐ三回忌ですね。早いね。 ぶんちゃんの分も、香音を大事にするね。
チャイナ。最近香音、アフリカ人のジェンベの演奏を観たがるのは、君のいたずらでしょう。ありがとうね。

ほんと花って、枯れちゃうからヤなんだけど、この花達は枯れるまで/枯れるほど、大切に眺めていようと思う。

みなさんありがとう。

生きていく私なのよ。

 いろいろ書いときゃイイこともあるのに、天の邪鬼に筆の重い、指さき重い私です。

昨夏は久しぶりにジャパンにも帰った訳で、思うトコロもそりゃありましたがね何ともね。
日本語で書いている限り、かなりの割合で読者はジャパニーズな訳で、ジャパンに居ることが少ない私よりも伴侶氏がジャパンでレスポンスを耳にすることの方が多いのはそりゃ当然なのですが、「奥さん最近更新してませんね」と夫に問う方々がどうやら後を絶たぬようです。恥ずかしいです。スミマセン。あと、私の知る限り(知る限りであるが)某巨大掲示板群にて唯一、当該ブログがリンクされている板がかつて有ったようで、それもやっぱり旦那氏がらみの引用でありましたので、はてさて不特定多数読者はそっち方面の話題でも御期待でしょうか。相反して特定少数の読者はやはり、香音少女近況などを御期待でしょうか。
どちらも承知しております故、ああ指重し、筆だるし。

箇条書きとまではいきませぬが、それらのニーズをおさえつつ、近況というかそこそこ書いてみようかなと。

  • 12月

が、間近に迫っております。まじかよ。まったく督促の声が聞こえないものの、物理的な〆切として11月には上げんといかんだろう、と思われる発注を受けており、四苦八苦。あれは去年、アルバム『Golden Green』収録曲の“原詞”を書いたりしましたが、ひょっこり今回もお声をかけて頂き格闘中です。これについては後程ゆっくり。今度は日本語です。悲願の藤野家舞ちゃん作曲です。ルンルンです。で、たっぷり時間があったはずの

  • 11月

だったんだけど、取材のつもりでハンガリーの国境の街へ行ってみたり、ああその前に、コドモの誕生日のために久しぶりに帰国したお父ちゃんが胃痛でダウンしてしまい看病のふりなどしていた11月。その前には梅哲が遊びに来てました。テニスコーツ+梅田哲也の録音を聴かしてもらって、梅ちゃんが梅ちゃんの音で、かなり“ちゃんと”曲に寄り添ってて笑えた。録音のコンディションの都合で梅の音が小さかったのもあって、町蔵がソロになってからの曲のノイズギターみたいなのよね(どっちも音が小さいから不満、と言う共通点さえも)。ある意味、「歌モノに寄り添うノイズのお手本」みたいな音の並べ方!  梅ちゃんお疲れ! でももっと弾けろ!
そんな梅ちゃんがC17でパフォーマンス。電気容量オーヴァーなのか、お得意の扇風機をオンにした途端に一発停電という、事故さえ味方につけるのはいつもの才能。本人が「エーッ」って落胆すんのもいつもながら可愛い。

  • 10月

は、そうあの公演、『BULL』。こっちはやっぱりそう、スッタモンダ。
終わったら清々しい開放感と充実感で万々歳…と想像していたわりには、反省の鉱脈を掘り当てたみたいに次から次へと反省点。特に本番中に失敗したとかじゃ、ないんだけども。
しかも、観にきてくれた友人たちは誰もがコンテンポラリーなアートとかミュージック…の人達だったもので、悲しいくらい芝居が大不評なのであった! 故にみんな、音楽を褒めてくれたりするんだけどもね。複雑ですよね。

しかし、こうして40を前にして遂に音楽に手を伸ばしてしまい、やんわりとタッチしてしまって、心境の大変化が面白かった。
ライブを観に行くばかりでなく、ライブハウスでもバイトしたし(笑)、コンサートやフェスのオーガナイズもかじり、録音の現場にもかかわったりしつつ、いっつも音楽のまわりをウロウロしていた私であるが、音楽を作ってみるって言う、直接タッチすることに挑戦してしまって、ふと気がついたら、音楽好きーって、生まれてはじめてふつふつと思ったかも。音楽好きー音楽だいじーって、ストレートに実感するようになった。コンプレックスだったのね、今までは愛憎入り乱れてたのかも。
今はごーく自然に、「もっと音楽やりまーす楽しいでーす」って言えるし、そして音楽聴くことがぐーんと増えました。そして、こんな楽しいことを独占していたミュージシャン諸君にもう、プンスカです。



夏ねー、夏。暑かったねぇ、日本。

ゲリラ豪雨ってのが流行語大賞には成らんのでしょうか。凄かったすね。しかし実はさきがけること6月7月、ウィーン(欧州)でも同様にありましたの、ゲリラ豪雨。こっちではゴルフボールとか握りこぶし大の雹(ヒョウですよ、ヒョウ)がなんども降ってました。傘が大破する可哀想な人の多かったことよ。で、くるりツアーでの“ゲリラ雨”と“ゲリラーメン”の聞き間違い事件。これは未だ、当地の“ラーメンぐらい知ってる日本ツウ”に説明するとウケてます。


今年の帰国は長かったので、大奮発して仮住まいを用意して頂き、ゆっくり帰ったはずでしたが…、結局後半には電話する時間すら足りなくなるくらい、忙しくなってしまった。バンドツアーという、人様の都合にあわせて動いてるって言うのもあったしね。
役得でいくつかの対バン様と夏フェスをちょっこら覗かせて頂いた訳ですが、9mmとかマスドレとかなかなか見応えのある若者のバンドを観れたのはメデタかった。しかし、ほかの大半はつまらなかった。本当につまらないものが多かった。驚くほど。あまりにもつまらないものが多かったので、大阪のブリッヂ界隈で威勢の良かった通称ゼロセダイがどうしてああまで持ち上げられ、そして大半が今もガンガンやってんのか、逆にわかった。特殊なんだ。大阪のあのゴチャな奴らは特殊に強くて過敏でビンビンで、それに慣れてしまったら格好だけのロックバンドとか、ほんとにぬるくてつまんないのなー。
ということで、夏フェス行くぐらいなら大阪のHOPE県とかMIDI-SAI行く方が絶対イイ! 真理!!


んな中、かつて大好きだったブルーハーツの半分(いや本質的にはほぼ全部)の人と、わりと今も好きなエレカシと、好きになったことなど一度もなかったけどホントにたまたま聴こえた奥田民生。この人らは違った。全然違った。
ブルーハーツの半分の人らは、素晴らしかったよ。居るだけでキラキラ輝いてた。祝福があふれていたよ。もうふたりとも、ルパン3世みたいに細くってさ、余計なものが中身にも外身にもまったく無い。くるりのツアーマネージャー氏が、クロマニヨンズはオフステージでもストイックであるとの話を聞かせてくれたけども、確かにその通りで、ある意味ロックンロール修行僧であった。マスドレのジャーマネが「あの笑顔みてるだけで泣けてきますね」って言ってたけども、まさにその通りで、まったく裏切るところが無く、ロックンロール修行僧の有り難いほどの美しい姿であった。
で、ユニコーンが世代的にぎりぎりズレてしまっている私は、奥田民生にお世話になったことがないんだけど、あの人の声の力にビックリしました。どこかの野外フェスに到着した時、ちょうど通りかかったバックステージで公演最後のワンコーラスが聴こえたんだけども、何!?と思うほど声に力が有ってビックリした。言葉があますことなくちゃんと届いてくる歌声。へぇ〜と足を止めて聞き惚れてたら、終えて降りてきたおじさんは民生はんだった。もう、妙に納得したですよ。
エレカシの宮本君はとっても物静かだった。落ち着きの無いインタビュー映像をそこかしこで散見するけどね。
…って、こういうことを書くのはナニかもしれないんだけど、役得自慢がしたかったんじゃないのよ、嬉しかったのよ。大好きだった、たぶん皆も大好きな人達だけど、何年経っても「ほんものだったよ」ということが。
もっと猥雑に、もっと濃密にこのヨロコビを幾度と内橋さんに語った訳だけど、幸せやな、と言う。
「ずっと好きやった人と、実際に会ってみたり久しぶりに観てみたりして、思ってた通りとか、思ってた以上にやっぱり素敵やったとか本物やったっていうのは、幸せやわ。俺は“生で観てがっかり”とか、なーんやって言うことの方が多かったように思う」と。生で観てがっかりしたのは誰とは言わなかったし、悲しすぎるので聞かなかったが(苦笑)。まぁ、その落胆が、明日への原動力に成ってたっちゅうこともアリかもですがね、彼のバヤイは。
ほんとうに満足だったので、近寄ったり握手やらサインやら記念撮影やら、まったく欲しくなりませんでした。
そういうのは、ほんとにファンと言う人が独占すれば良い。

そうそう、そんなおメジャーな方々に驚喜していたのみならず。


  • 塩屋と下北沢

下北再開発問題を考える集会系のイベント…って言うのもありましたな。
内橋さんはおおたか静流さんとDUOで。再開発って言うのは実は、かなり前(十数年とかかな)に当該地域の議会で可決されたままになってたのが、ここへ来てGo!になってしまい、レディージェーンの大木さんやら地元の人達が食い止めようと反対しているという。

私だってもちろん再開発なんて嫌いだ。
どこも駅を降りたら同じような景観に“再開発”しちゃって、気持ち悪いしつまらない。大型スーパーなんか嫌いだし、個人商店が軒を連ねる駅前なんて、ほんとココロ躍るではないか。
けど、なーんか気が進まんのは、サヨク運動が嫌いだとかそれだけじゃない。家電リサイクル法とか、個人情報保護法の時とかも思ったけど、決まってから慌てて大反対って言うのがね。後ろめたいのよね。
そもそも何で、可決されたんだろう。誰が誰に可決させたんだっけ。そこを大いに反省したいではないか。

時を前後して神戸の塩屋に遊びに行った。森本アリ君に遊びに行くと言ったら、有り難いことに旧グッゲンハイム邸に泊めてくれた。
アリ君はもともとお母さんと妹のサラちゃんが言い出しっぺで旧グッゲンハイム邸を取り壊しから救い、地域財産としての活用と存続に日々奮起している。アリ嫁のマキちゃんもすっかり屋台骨として取り仕切っていて頼もしいし眩しいほど。
私らの滞在中にも、アリ君は地域振興の会合にきちんと参加していて、一緒に塩屋を歩くとおっさんおばちゃん、カフェの兄ちゃんと、たくさんの人から声がかかる。
塩屋の駅は小さくてこじんまりしていて、線路の山側にグッゲンハイム邸があり線路の海側はすぐ瀬戸内海。美しい。山側の“駅前商店街”は細い路地が入り組んでいて、陽当たりの良い迷宮感がある。ガタイのでかいアリ君はその路地では到底おかしな取り合わせなんだけど、「どっから帰ってきても、駅を降りたら“塩屋サイコー”って思うんよねー」と言う。東京やニューヨークから帰っても、南欧から帰っても。お題・再開発の筆頭大義“緊急時の消防車の出入りが…”というのにも、アリ君は真っ向から否定して、「そんなんおかしい、消防車に合わせて町づくりなんか。どっからでも十分な給水とホースを整備すればいいことだし、必要ならここを通れる小さい消防車を作れば良い!」。
塩屋の今後について詳しい現状を知らないけれど、資本主義の世の中だし、政府も行政も公共投資の発想が硬直してしまってるし、再開発の罠は常にあるんだろうと思う。その上でアリ君はグッゲンハイム邸を有効に活用して次々と活動実績をどんどん更新しながら“会合”にも顔を出して、睨みをきかせているのだ。はたと気づいた時の、後の祭りにならぬように。

下北は残念だ。塩屋の何倍の規模で、もの凄い数の人々が根城にして、行き交って、独特な街を作ってきたと言うのに。
吉本ばななが作文を寄せていた。運動の中心人物のおじさんが朗読していた。どうやらすごく評判が良かったみたいだけれども、虫酸が走った。
“私は物書きだから書くことしかできない”、と書いてよこしたその作文は、聞き心地良く毒も無く、何も生んでいなかった。
「失うものを惜しむ美文」なんて、誰にだって書けんじゃないのーと、鼻くそをほじる私だった。



そんな、何とも居心地の悪い集会のコンサートだったので、山本精一は痛快でした。言動も、佇まいも、歌も音も。
あの人のバランス感覚は絶妙。最高な絶妙、アンチの塊。魂の塊だった。あの場には、あの人がいたことが救いだったはず。
んな中、精一氏の隣に居たひとが、5年くらい前Phewさんのキリム屋さんを手伝いに行った時おなじく手伝いに来ていたあの人だったとは…! 

山本精一さいこー。山本久土さいこー。ついでに山本達久もさいこー。ついででごめーん。

BULL について

 もうここを更新していないことについては、誰かをちょっとばかし落胆させているかもしれないものの取り立てて驚かせることではないと思うけれど、忙しさに甘えて日頃の音沙汰を軽んじていたことに近ごろ改めて反省せざるを得なく思う。

度重なるご無沙汰になかばあきらめもまじえて、内橋さんに様子を訊いて下さる方々。失礼してほんと、スミマセン。

来週に迫った公演、『BULL』のリハーサルに連日追われている。
ここではかなり唐突であるけれども、先日夏の帰国時お会いした方々には申し上げていた通り、とあるお芝居に音楽を作ることになった。経緯はこんな感じ。

一年前、大学の独語コース秋冬クラスで、とある同年代の女性と知り合った。
イタリア人とアメリカ人のダブルである彼女は最初、自分を翻訳家と言ってたけど、実は彼女は舞台女優としてもすでにアメリカ、イギリス、フランスで活動していた。2人目が生まれてからしばらく休業していたけど、こんどパリで公演した朗読の作品をアレンジしてウィーンで公演しようと思う、とはじめて聞いたのは冬の終わり頃だった。
「あなたが気に入れば、あなたのこと巻き込みたいと思うのよ」とはじめに言ったのは春先だったか。その後、会うたびに構想を聞かされ、思いつくことを話し、そのうちメールで脚本が届き、思いのほか面白かったもので率直に感想を伝えたら、プロジェクトに参加して欲しいという。はじめは制作仕事でも頼まれるのかな、と思い、できなくもないけど、この“個性的な”英語と“可愛らしい”ドイツ語ですよ、ウィーンに友達はいくらかいるけどその人脈はちょっと偏ってますよ、と言うと、「うーん、そうね、…何か、もっとクリエイティブなことを」と言う。
とはいえ脚本は決まっているし、2人芝居のキャストも決まっている。演出家はパリから招くという。脚本には、特にライティングや音楽についての記述も無いので、特に必要な効果もないような…。
夏のある日、ビリーと湖畔のサイクリングに出かけたあと、何気なくこのオファーを話してみたら、ビリーはぱっと明るい顔で言ってのけた。「あなた、音楽しなさいよ」。半信半疑で受け流したものの、あくまでフランチェスカ(俳優兼脚本家)を助けられるんじゃないか、というスタンスで「わたしでもできるかも」と思い至り、打診してみた答えは「“Sound"s Good!」だった。

かくして、わたしの唐突な音楽家デビュー(?)が決まった。

こうして夏の帰国中は、稲田くんや文章くん、はるななどに会うたび、「いやーひょんなことでねぇ。フィールドレコーディングでも録り貯めて、何かできるかなーとか、思うのよ」なぁんて、結構のん気に言っていたのです。
なぜなら… 来年だと思っていたから!!
いやもう、ビックリしました。
日程については、昨冬にチラッと訊いただけでしたから、しかもその時はホントに自分が参加すなんて思ってもみなかった。
帰国後、会場のWEBサイトで公開されたインフォメーションを見て、久々に血の気が引いた。音を立てて。
なんせ、「来年の10月」と思い込んでいたのが、今年の10月だったのである…。
その時点で、内橋さんの次の渡日まで2週間を切っていた。
呆然とする私のそばで、彼は大慌てで入手可能で習得可能そうなソフトウェアを探しまくった。結局、彼が使うソフトの廉価版を購入し、短期集中講座を開いて頂く。続いて、口述作曲に従ってギターを弾いてもらう。録音する。

コツコツコツコツ、内橋さんが日本に戻ってからも日々コツコツ、日夜シーケンサーソフトと選曲に取り組み、奇跡の一ヶ月が過ぎた(大袈裟)。


で、来週。やります。

『BULL』〜ある女性の告白と「共感」についての物語。

選曲するシーンには、親友・稲田誠と亡き大原裕の曲(船戸さんの演奏から)を選んだ。どちらも個人的な思い入れよりもなお、シーンと楽曲のマッチングが素晴らしい。パーパの曲には、脚本家が「…Music, yes, music. ...this is great, this is so, ...special!」という台詞を書き足した。大原さんの曲には出演者2人がすこしばかりダンスを踊るのが付け加えられた。どちらも、劇中可能な最高の敬意を音楽に捧げられた感じで、選曲家冥利につきました。

ほんの小さい小屋で、ほんの数人で手をかけ、おそらくわずかな観客の前でだけ披露される小品ですが、思いっきり大事に作りました。たぶん、大成功します。観に来れない人、成功を祈っておいて下さい。



http://www.wuk.at/index.php/kultur/termin/1630824230/termin_kalender_alles.html

オーストリアの監禁事件について。

…長々と書いたのですが、たった今うっかり消してしまいました。
なんたること。

呆然としつつ、長々書こうとしていたことは、簡単に“理解できる”なんて言うな。しかし知ろうとし続け、考え続け、思い続けなくてはいけない。
加害者はかつて“我々のひとり”であったのだ。(今もそうだ)
被害者と我々をわかつものなど何もないのと同様に、鬼畜と言われる加害者と我々をわかちてくれるものも実はないのだ。
彼等が背負う十字架を、微力ながら我々も背負わなくてはいけないのだ。
鬼畜に背負えと言う十字架だってそうだ。本村さんが背負う十字架だってそうだ。
それが大人だ。社会だ。ということ。




ああ何てちっぽけ。なんてチンケ。





でもいいの。



また改めて書きます。今日、日本語独語の交換授業したヨハネス君が呟いてました。
「興味本位などではなく、ちゃんと知らなくてはいけないと思う。社会として、向き合わなくては。たぶん、今の僕にとっても、何か重要な、大切な事件なんだと思う。」

こんな感じで受け止めているオーストリア人は、切実に多いのだと思われます。かく言う私だってそう思ってるよ。今の自分とこれからの自分にとって、大切な事件なんだと。


一緒に考え続けてくれようと言う人は、これでも読んでおいて下さい。
http://ukmedia.exblog.jp/8766563/

ベルギーとフランスの女性の言葉は、しかと受け止めるべきかと思われます。
ナスターシャちゃんとか、きっこちゃんとかのよりもなお。





追伸。
アクセス解析に常駐する、“ホモ+小学生”、“エロ+幼稚園児”で検索かけてすっ飛んで来る性嗜好のマイノリティ諸君。いいかげんにしなさいよー。そんな検索ワードに引っかかってる当該ブログもどうやねんと言う問題ですが。妄想と自慰はやりすぎると怖いよ。ツキイチぐらいにしときなさい。