なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

そして、怠惰の衣服を身にまとい

 一週間ぶりに実家へ帰る。京阪電車は人身事故でダイヤが乱れていた。電車の窓から見える黒い雲の間から、ぎらっと光る稲妻。わたしまでは音が届かない雷が、たぶんどこかで鳴っている。
 
 雨が降ってもいないのに、ふとした瞬間に雨の匂いが漂うような気がするような6月も、今日でおわり。雨が降っていると天気が悪いなんて、誰が決めたんだろう。わたしは、雨がけっこう好きだ。あの日も、あの日も、時折思い出す大切な日のいくつかは雨だった。6月が特別な一ヶ月だった年もあった。ずいぶん前のことのようにも、ついこないだのようにも思える。時間が伸縮している。

 2018年6月のこと。6月1日。
 父の化学療法の日。ブラッド・メルドーの新譜を聴きながら、京阪電車で待ち合せの駅へ行く。父は散髪したての頭で現れた。さっぱりしたやろ、と襟足を撫でる。この薬は脱毛の副作用はないのです、とドクターから説明された時の嬉しそうな父の顔を思い出す。痩せはしたけれど、見た目は何ともない、健康な人のようだ。健康とは何か、そのこともよくわからなくなってくる。
 点滴に3時間、化学療法の待ち合い室で、津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』を読みすすみ、上巻を読み終える。大学のときに一度だけ行った、阿寒湖近くにあったアイヌコタンのことを思い起こす。もっとしっかり見ておくんだった、あの頃はなーんも考えてなかった。津島佑子が紡ぐ物語は雄大で、読んでいて場所と時間を忘れるほど、夢中になれる。
 点滴後の父と、看護師の話を聴く。毎日2回体温と体重をはかること、排便回数を数えること、外出時はマスクをすること、一日に数回はうがいをすること…。あーたいそうなこっちゃ、と父は言う。もう死んだ方がましやなあ、と。そうだね、わたしも死んだ方がましやと毎日思ってるよ。でも死ぬまでは生きねばならず、そこに人生の面白さと悲惨さがあるのだろう。わたしたちは、この世からいなくなるその直前まで、元気でいることを強いられる。

 6月8日。
 東京日帰り出張。8時3分の新大阪発に乗って行き、18時30分の品川発の新幹線で帰る。台風5号が接近中で、滋賀県あたりで大雨が降り出した。新幹線はひるむことなく走り続けて定刻どおり。京都あたりでは雨が上がっていた。
 帰りの新幹線ではビール500ml缶2本飲みつつ、「文学界」7月号をめくる。村上春樹の『三つの短い話』、最後の〈チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ〉が非常に好きで、3回立て続けに読んでしまった。村上春樹にはこの手の書きぶりを、今後も続けていってもらいたい。

「死はもちろんいつだって唐突なものだ」とバードは言った。「しかし同時にひどく緩慢なものでもある。君の頭の中に浮かぶ美しいフレーズと同じだ。それは瞬く間の出来事でありながら、同時にどこまでも長く引き延ばすことができる。東海岸から西海岸くらいまで長くーあるいは永遠に至るほど長くね。そこでは時間という観念は失われてしまう。そういう意味では、わたしは日々生きながら死んでいたのかもしれないな。

 帰ったらチャーリー・パーカーのレコードを聴こうと楽しみにしていたのだが、NHKラジオの聴きのがしサービスで、「すっぴん」の是枝監督のインタビューと、町田康宇治拾遺物語の朗読をじっくり聴いてしまう。高橋源一郎は、巨人ファンでさえなかったら、もっと評価したい人なのだが。巨人ファンだからなあ。
 NHKラジオのこのサービスと、radikoのタイムフリーとエリアフリーのおかげで、我が家のラジオ生活は劇的に改善された。すばらしい。聴くものがありすぎて困る。

 6月10日。
 神戸でビアンカ・ジスモンチトリオのライブ。たいへん堪能。ビアンカの背後の席にすわり、演奏の一部始終を、聴くだけではなく、しっかりと見る。ピアノの鍵盤の上を、なめらかにすべるように魔法のように動き続ける手。いいメロディには言葉は要らんな。CD買ってサインしてもらう。マタキテクダサイ、アリガト。
 帰宅して、タイムフリーでバラカンビート聴きつつ、ワインとちくわの穴にチーズとキュウリを入れたものに、ブラックペッパーマヨネーズをつけて食べ、山田稔さんの『こないだ』を読む。
 明日からまた仕事とは、到底信じられず。

 6月18日。
 朝、地震。地下鉄が止まり、どうするか迷った末、1時間10分ほどかけて、歩いて会社まで行くという社畜的行為に及んでしまい、自分自身を激しく軽蔑する。会社に着いたはいいがエレベーターは当然とまっており、勤務フロアである18階まで階段で上がるハメとなり、自分を叱咤激励しつつ階段登山を行い、ほうほうの体で自分のデスクにたどり着いた途端、地下鉄は動き出し、業務用のエレベーターも作動して、なんかわたしももういい年なんだし、もう少し「じっくり機を待つ」ってことを、学ぶべきなんじゃないだろうか。
 働いて定時に帰り、天王寺の居酒屋で地酒三合のむ。

 6月26日。
 送ってくださった『ぽかん』7号が、さまざまな請求書やダイレクトメールなどとともに届いていた。掃き溜めに鶴。
 書いておくことの尊さは、その時はそんなにわからなくても、あとになって、しみじみ感じる。生も死もそんなにかわらないこと、はじまりは終わりをふくみ、終わりははじまりをふくんでいること、忘れてもまた思い出すこと。そうやって反芻される記憶に何度も助けられてきた。おそらくはこれからも。そんな気持ちがつまった本だと思います。

いつも見るものとは違ふ冬の月

自宅の白壁にプロジェクターで投射した、映画『シングルマン』を観ながら、新しい年を迎えた。コリン・ファース演じるジョージが、拳銃で頭をぶちぬいて死のうとしているシーンで、近所の寺が一斉に、除夜の鐘をつきはじめた。闇から聞こえる鐘の音は、映画の中のジョージの絶望と重なって、この世の終わりにふさわしく聞こえたが、ジョージは死ぬことができなかった。まだ、この時には。
トム・フォードが撮った2作目『ノクターナル・アニマルズ』は、昨年観た新作映画の中ではトップクラスに面白かったが、やはりわたしはこの1作目『シングルマン』が、ひどく好きだ。何度繰り返し観ても飽きず、観る度に発見がある。
今このとき、記憶の中に、忘却の中に、過去の中に、未来がある。決して取り戻せないものの中に。

今日は、冬休み最後の日。始まればあとは終わるだけなのは、貴重な休日も退屈な会議も同じこと。何をしていても時間は同じに過ぎるのだ。いや、違うそうじゃない、時間は過ぎたりしないのだ、時間は…。と毎度考えることは同じ、とにかく現実問題は時間のことより、のび放題にのびすぎた自分のこの髪の毛だ。というわけで、憂鬱とふたり連れ、テクテクうねうねと街を歩いて、髪を切りに行った。時折、みぞれのようなものが降り、とても寒い。途中、小学生が2人ほど入りそうなスーツケースを転がして歩くカップル風の旅行者に、四天王寺までの道順を尋ねられる。韓国の人だった。そんな大きな荷物持って寺へ行くの?と、英語が全く出てこず、日本語で言ってみたが、サンキュー、ありがとう、と笑顔がかえってきただけで、通じなかった。というか、通じなかったのかどうかもわからなかった。サンキュー、気をつけて。四天王寺はいいところだよ。

美容室で髪を切っている間も、雨か雪かよくわからないものが降っていた。暖かい室内から眺める薄いグレイの空。今年の抱負は?と聞かれて答えられなかった。抱負なんてものはないし、考えようと思ったこともない。日本語でも言えないことはある。
レコードを買い過ぎないこと。観たい映画を見逃さないこと。読む本を買うこと。つまらないとわかっている飲み会にはいかないこと。時々はここに日記を書くこと…。

2017年、読んだり観たり聴いたりしたもので、心に残ったもの。本は、高村薫『土の記』、テジュ・コール『オープン・シティ』、カズオイシグロ充たされざる者』。映画は『立ち去った女』『ベイビー・ドライバー』『ムーンライト』。音楽はコーネリアス

12月の日記を書きたかったけど時間切れ、これからすき焼きの支度して、赤ワインを呑むのだ。今夜は、残念ながら、月は見えない。

死とプルトニウムの歌

大岡さんの方まで主人と散歩に行く。大岡さんの家は雨戸が閉まっている。何だか懐かしくて家のまわりを一まわりする。人が住んでいない家には、庭にも雨戸やテラスにも、そこの家の人の息や仕草が漂っているようで、却って人臭く生まなましい感じがするのは何故かしら。テラスに脱ぎ放してある雨ざらしのゴム草履や、きれいに洗ってつまっている空きびんの箱。外の水道の蛇口につけ忘れたままの水色のゴムホース。髪にひっかからないように、垂れてきた枝をビニール紐で束ねてある裏庭の松の木。白樺の枝で作った、坐ったらすぐこわれそうな腰掛け。犬の糞。これはデデのだ。
ほかの家の庭先にも入ってみる。軒に吊るされ放しの風鈴。テラスにおちている櫛と鏡。ストローの入ったままのコカコーラの空きびん。床下に風で飛んでいる麦わら帽子。
私のうちも戸がしまっているとき、誰か入ってくると、こんな風に思うのかな。

誰かの不在ほどその人の存在を強く感じさせるものはない。今はもういない、もう会うことはできない、でも確かにその人がここにいたその痕跡を、いつも求めて生きている。
去年、初めて『富士日記』を通読した。引用したのは、一番心が動かされた文章。武田百合子はその大きな目で、見えるものをあるがままにしっかり見ようとしていた。

今年もお正月が来て、また去っていこうとしている。
時間をかけて用意したおせち料理も、元日だけでほとんど食べ終えてしまった。たんまり買い置きしていたお酒も、何故かどんどんなくなってしまって、何故ってまあそれはのんでしまったからなのだが、思うに、わたしがここに日記(のようなもの)をあまり書かなくなってしまったのは、本や映画や音楽に耽る合間に、つまらぬ月給仕事に振り回されて面倒なことになっているということももちろんあるけれども、夜や休日に酒を飲み過ぎて、正常な精神状態でいる時間がかなり少なくなってきていることが、原因として考えられるのではないだろうか。しかし、酒量を減らすくらいなら死んだ方がましなので、今年はまともでない状態でも書けるときは書こうと、今は思っている。

出かけようと外に出たら、裏や隣の寺に墓参りに行く人とよくすれ違う。お正月にお墓参りするのもいいものだなあと、去年亡くなった伯父さんのお墓に行ってみようかと少し思ったけれど、当初の予定通り、映画館の暗闇にまぎれてしまった。
伯父さんがもう長くないとわかった数ヶ月、そして亡くなった後もずっと、物心ついてから伯父さんと交わした会話や一緒に行った場所でみた景色、伯父さんの笑い顔や口癖や、背中の感じや歩き方とか車の運転の仕方とか、祈るような気持ちでいろいろ思い出している。思っているだけで、わたしは伯父さんに何も伝えることはできなかった。でも口に出さなかったから伝わってないって何で言えるんだろう。今はまだ自分の延長線上にあるこの思いを、墓参りという形式にのせることはできない。だから、墓へ行くのはやめようと思った。

心斎橋でウェイン・ワン《Smoke》を観た。95年に京都河原町にあった京都朝日会館で観て以来。こんな良い映画だったのかあ。若い時にはこの映画の本当の良さはわからないわ。年をとるのも無駄じゃない。煙草屋の前の同じ場所で、毎日同じ時間に撮られた写真を1枚1枚アルバムをめくって見るシーンと、最後のトム・ウェイツの歌声はほぼ反則に近く、帰って本棚からオースター『トゥルー・ストリーズ』引っ張りだして、大好きな『ゴサム・ハンドブック』を読んだ。

状況として必要ないときでも笑顔を浮かべること。怒りを感じているとき、みじめな気持ちのとき、世界にすっかり押しつぶされた気分のときに笑顔を浮かべることーそれで違いが生じるかどうか見てみること。
話すことが尽きてきたら、天気を話題にすること。(中略)天候ほど人々を平等にするものはない。天気は誰にも、どうすることもできない。天気は我々みなに同じように作用する。富める者も貧しい者も、黒人も白人も、健康な人も病める人も、天候はいっさい区別しない。私に雨が降るときはあなたにも雨が降るのだ。
毎日同じ時間に自分の地点に行くこと。一時間のあいだ、その地点に起きることをすべて観察し、その前を通り過ぎたりそこで立ち止まったり何かしたりする人すべての動きを追うこと。メモを取り、写真を撮ること。こうした日々の観察を記録にまとめ、人間について、もしくはその場所について、あるいはあなた自身について何か学べるか見てみること。
そこに来る人たちに微笑みかけること。可能な限り、声もかけること。言うことが何も思いつかなかったら、まずは天気の話を。

そうだ。天気の話をしよう。

去年は映画館で55本の映画を観た。これでも何とかがんばったほうだ。選りすぐって、これはほぼ間違いないという作品だけを観ているので、ベスト10とかそんなのはなく、それぞれがそれぞれに良い映画ばかりだった。あ、一つだけダメなのがあった。《FOUJITA》。小栗康平の考えてることはようわからん。一番びっくりして、画面に釘付けになったのは、シャンタル・アケルマンブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン》。機会があればぜひもう一度観たい。2016年に観た最後の映画は《親密さ》だった。3年ぶりに観たけど、やはりすばらしい。《ハッピーアワー》もよいが、わたしは断然《親密さ》が好きだ。この映画を観てから、電車ではほとんど坐らず、ドアの側に立って、空を見上げるようになった。人の行動を変える映画だと思う。

今年もいろんなもの見聞きして、感想のひとつやふたつ、書いていけたらいいなあと、思ったりしています。

あまいラブレター

先週一週間分の日記を、30分くらいかけて書いたのに、保存する前に消えてしまった。何なんだ、チクショー。腹がたつから全然違うことを書くことにする。

今朝は起きたら、まだ電気がついていた。電灯とラジオをつけたまま寝る癖は子どもの頃からでいっこうに直らない。布団のそばのスタンドライトは枕元を煌々と照らし、眼鏡はあちらの方角に放り出され、本はひろがったまま、栞は身体の下で半分に折れている。冬ならライトを消してあと2時間は寝るけれど、5月の午前5時はもう充分に明るくて、裏の寺の小僧がつく鐘の音も曇天に響いて、もう寝る気がしなくなった。珈琲を淹れて、夜中に読んでいた本の続きを読んだ。

映画『バードマン』を観て、レイモンド・カーヴァーを読みたくなった人、きっといるような気がするけれど、わたしもそうで、全集の2巻と3巻、『愛について語るときに我々の語ること』と『大聖堂』をがっつり、読み直してしまった。

思ったこと。高校生のときに京阪丹波橋駅前の本屋で中公文庫を買ってから、もう何度読んだか数えきれないけれど、『ぼくが電話をかけている場所』は、本当に素晴らしい一篇だ。大人になって読むと、その凄みがしみじみわかる。いずれ自分もカーヴァー本人や、小説の登場人物たちのように、自分の人生を持てあまし、扱いきれなくなって、アルコールの闇の中に逃げていくのではないかと思ったこともあったし、今も思っている。でも、『ぼくが電話をかけている場所』には、落ちてしまったところからしか見えない希望のようなものが描かれている。井戸の底で区切られた青空を眺めるみたいに。どん底で見上げる空から注ぐ光が、どれほど目にしみるか。
カーヴァーの小説では、愛はもう「今」「ここ」にはない。それはいつも、語られるものであり、思い出されるものであり、後悔するものであり、手繰り寄せては手からこぼれ落ちるものである。自分ひとりの身体の中に、抱え込んでいるものである。

昨日は、京都に行って、勧業会館とホホホ座で、よい古本をたくさん買った。探していたものもあった。夕方、岡崎をフラフラ散歩していたら、京都市美術館の前庭で〈中上健次ナイト〉というものがはじまって、やなぎみわの移動舞台車が出ていたので、観に行った。移動舞台車、前から観たかったのだ。中上健次のことは、あまりよく知らなくて、「枯木灘」は読んだけどしんどくて、「赤い髪の女」は好きで2回観たけど、それくらい。最初の朗読と唄と演奏みたいなよくわからない出し物をぼんやり観ながら、デコトラみたいな移動車の上を、鳶のような鳥が2羽ほど昏い空にむかって飛んで行くことのほうが、何となく中上健次っぽいような気もした。よく知らないけれど。
中上健次といえば、数年前乗ったタクシーの運転手が、大阪の街はようわかりませんわ、私は和歌山出身なんでねえ、というので、和歌山のどこですかと聞くと、熊野ですと答えるので、中上健次と同じですねえと何の気なしに言ったところ、お客さん中上健次のファンなんですかと、身を後部座席に乗り出して興奮気味だったので、わたしは特にファンでもないけど、そうかなあ、なんてごまかしていたら、そうか中上健次はどうのこうのと、やはり同郷の著名人というのは感慨深いものがあるらしく、降りるときに、いい話ができたからと、運賃を100円まけてもらったということがあり、中上健次には足を向けて、というか、和歌山には足を向けて寝られない、とことがあって、まあ思い起こすことといえばそれくらい。

日中は暑いけど夜は窓を開けていると涼しい。
そんなつもりじゃなかったけど、連休日記になってしまった。

はじめからそのつもりだった

さっき、弁当用の塩鮭と卵を買いに近所のスーパーに行ったついでに、花見をしてきた。雨上がり、寺の塀越しに、垂れ下がるピンクの花びら。女の人がひとり、スマートフォンで写真を撮っていた。枝にはまだまだ蕾もあったが、散ってるものもあって、地面にへばりつき雨にぬれて誰かの靴に踏まれ車にも轢かれていた。それでも花は花だ。桜の季節は地面ばかり眺めてしまう。

今朝、2週間前から読んでいた、長谷川郁夫『吉田健一』(新潮社)を読み終えた。この2週間、ほぼ、吉田健一のことばかり考えていた。来る日も来る日も思っていた。吉田健一のことを思って、そして酒を呑んでばかりいた。この本を読み始めてから、次々と送別会、歓迎会、その2次会、懇親会、なにかの打ち上げ、ワイン会、利き酒会(そんな会もあるのだ)、友人に誘われて居酒屋へ、疲れてひとりでふらりと居酒屋へ、など、夜の時間に酒が異常に絡みだし、14日間のうち10日か11日は飲み屋で呑んで帰った。この評伝はほとんどのページ、酔った頭で読んでいた気がして、それはいかにも「吉田健一」を読むのに似つかわしい。
まあとにかくこの先、古本屋と古書市でせっせせっせと買い揃えて家の本棚に並べている吉田健一の小説、評伝、随筆を、読みついでいく時間が自分にあるのだと思うだけでも、本当に本当に本当に嬉しく、生きる意味が見いだせる気がするし、もう身体の他の部分はどうなってもいいから、頭と目と肝臓だけは、人生最後のその時まで、まともであって欲しいと願うばかりだ。
吉田健一はすごい人。誰が何といってもそれだけは断言する。

尤もその時は両方ともそういうことが何れあるというのがただそうした仮定だったので、それでなければその晩がそういうものである訳がなかった

今月3月25日はわたしの誕生日で、米朝師匠のお葬式の日でもあった。来年からもう、自分の誕生日がくるたび、米朝師匠のことおもうだろう。これからもうずっとそうだ。
教えてもらったわけでもないのに誰かのことをなんとか師匠、なんて呼ぶのは嫌いだけれど、米朝師匠は物心ついた時から米朝師匠で、あらゆる意味合いにおいて「師匠」な人だから、米朝師匠だけは米朝師匠でいいのだと、勝手に決めている。
米朝師匠の思い出はもちろんまず「味の招待席」。毎日観ていた。あの番組がなかったら、わたしは料理に興味なんてもたなかったし、きっと落語も聴かなかった。サンケイホールでみた独演会、吉朝さんとの親子会での鹿政談、百年目、「米朝よもやま噺」で住太夫さんと話されていた時間、吉朝さんが亡くなった時の憔悴した顔、心の根底から何かを無念におもうとき、人はこういう表情をするんやなあ、という顔だった。

先週のバラカンビートで、Aretha Franklinも3月25日生まれなのだと初めて知った。リスナーに3月25日生まれの人がいて、Aretha Franklinと同じ日に生まれたと知って自分の誕生日が急に誇らしいものに思えたというメイルをピーターバラカンが読んでいるのを聴いて、そうかそうなのか、長年Aretha Franklinのファンをやってきたけど、わたしと同じ誕生日だったとは、そうかそうなのかそうかそうなのかー、と胸がいっぱいになって、それが一番の、今年の誕生日プレゼントだった。

ありきたりな文字は誓って棄てよう

2015年1月2日。しんしんと冷える朝。午前7時30分に起きる。向かいの家の屋根につもった雪が、まだとけず残っている。きのう、大阪市内に降った雪はすぐやんだけれど、元日に電話で話した母によると京都では、急に雪国になったわな、あちらもこちらも真っ白や、とのことで、たいへん積もっているらしい。雪を写真に撮ってメールで送る、と言っていたが、あれからかれこれ12時間も経過しても、まだこない。何かを待つときに、人に期待しないほうがいい。

何という名前か知らないが、雀でも鳩でもない、その中間くらいの大きさの鳥が、屋根の上をつんつんと歩き、雪をついばんでいる。さっきまでぼおっと、15分くらい、窓からそれを眺めていた。それから豆をひいて珈琲を淹れ、日記でも書こう正月だし、とおもい、久しぶりにMacを触った。
でも、それは、ゆうべラジオで、竹下景子による「アンネの日記」の朗読を聞いたからかもしれない。同じ放送局でやっている、市原悦子による「赤毛のアン」の朗読は、まったく耳に入ってこず、頭に何の像も結ばないんだけれど、アンネの文章は、しっかりひとつひとつ、刻まれていった。聞いていて、これは日記ではなく、手紙だと、ふと心におちた。誰かに何かを伝えたくて書いた手紙なんだなあと。

12月のあれこれを。3日。
紹介してくれる人があって、富山から野菜をとりはじめた。メールすれば、その時にとれた旬の野菜を、すぐ送ってもらえる。届いたのは、白菜、赤大根、人参、かぶ、あやめかぶ(上半分が赤で、下がしろのグラデーションになっている)、赤かぶ、下仁田ねぎ、春菊、源助大根、ミラノ大根。根菜が多いが、大根やかぶには全部、葉っぱがついているので、一緒に煮たり、いためたりできる。大根はただ茹でて、味噌をつけて食べるだけでも、甘くておいしい。野菜があると、手抜きしても、美味しいものが勝手に出来上がる気がする。
閻連科『愉楽』を読みはじめる。大好物の2段組みにくわえて、冒頭の数行でわかる間違いのないおもしろさ。40年以上も本を読んでいると、どんなものが自分にあって、なにがあわないか、だいたいわかってくるものだ、まあ、わからないこともあるけど。

10日。休日。
インフルエンザの予防注射するの忘れていた、とおもい、近所の病院をふらりとたずね、注射してください、と言ってみたところ、受付の白衣の女性はしばし絶句したのち、今日はできません、と断られた。予約をしていただかないと…と、当惑顔の裏には、こいつあほちゃうか、という気持ちが透けてみえるようであった。注射ひとつに予約がいるのかあ。
何かを予防しようというような、常識的なことを考えたのが間違いであったとさっさと諦め、梅田にレコードを買いにいった。先月末に、新しいターンテーブルを手に入れてから、にわかにアナログ熱が高まり、度重なる引っ越しと資金づくりのため手放したレコードを、せっせと中古で買いなおしている。A面が終わったら部屋に静けさがもどり、いそいそと盤をひっくり返して、B面に針を落とすと、音がふたたび広がる瞬間が好きだ。
レコードを聴くようになったのは、毎週バラカンビートで「名盤片面」コーナーを楽しんでいるからかもしれない。9月末にバラカンモーニングが終わったときはえらくしんみりしたけれど、バカランビートを聴いていると、番組としてはこっちのほうが好きだなあと、充分に楽しんで満足しているところに、生きて行くことのどうしようもない薄情さをしみじみと感じる。

13日。
誘われて、大阪城ホール竹内まりやのライブに行った。大阪城ホールというところに足を踏み入れたのは、まったく何年ぶりだろうか、20年近く前に、レニー・クラヴィッツのライブに行って以来ではないだろうか。何のコネなのか、チケットは、アリーナの前から5番目か6番目くらいの席で、ステージはすぐそばにあり、竹内まりやは公演中ずっと目の前をうろうろして歌っていた。
竹内まりやは中学生の頃「ヴァラエティ」をそれこそレコードで集中的に聴いたのと、中森明菜に提供したいくつかの曲しかちゃんと聴いたことがなく、ほとんど思い入れがなくて、せめて旦那が出てきてくれたらなあ、と淡い期待を抱いていたのだが、幕があがって一番に毛糸の帽子をかぶった山下達郎がギターをぶら下げて出てきたのには、まったくびっくりした。これは当たり前のことで、竹内まりやのライブには、バンマスとして旦那がもれなくついてくるらしい。常識やで、と一緒に行った人は涼しい顔をしていたが、わたしは知らなかったのですごく得をした気持ちがし、無知とはやはりある意味、人生を彩るものである。
竹内まりやの最近の曲、散文的な人生賛歌のようなものは正直言ってよくわからないのだが、バックの演奏は厚みとあたたかみがあってどれも聞き入ってしまったし、「プラスティックラブ」における山下達郎のコーラスは、竹内まりやが、わたしが喰われちゃうじゃん、と言うのもうなずける、じつに素晴らしいものであった。
満足して終演。ホールを出ると、雪がちらちら舞う中、林立する木々の向こうに、灯りに照らされた大阪城が見えた。

わたしが書いているものも日記ではない。でも手紙でもない。じゃなんなんだ。

わがままエイリアン

晴れて、あたたかい日曜日。朝、布団を干すとき空を見上げたら、ひこうき雲が何本もくっきりと、青い空に見えていた。ひこうきが残す白い線は、機体が遠ざかるにつれ平べったくのび固まって、当たり前の雲になっていく。

空を眺めるのに飽きたら、珈琲をつくって、金曜日に、会社帰りに買ったばかりの、山崎努『柔らかな犀の角』(文春文庫)を読む。週刊文春に連載されていた読書日記。池澤夏樹から保坂和志武田百合子にフリオ・コスタサル、車谷長吉もあればベケットもあって、田村隆一想田和弘、アルブレヒト・ヴァッカー、佐野洋子、マラマッド、アラーキー森村泰昌も読んでいて、この手当り次第感、脈略のなさが、わたしの読書傾向のバラバラさと似ているのが、とても嬉しい。

テレビで放映されていた『天国と地獄』を偶然みるところ。画面にうつる、25歳の「山崎努」を見ての、老境「山崎努」の感想。

へただなあ、今ならもっとうまくやるけどなあと思いつつ、でもあの若僧の青臭いうっとうしさや稚拙な虚勢の張りようはあの時の姿であってもう絶対に再現できない、演技とはすぐに腐ってしまう生まものなのだ、いや腐ってゆく「状態」そのものなのだ。

小津の映画をあらためて見直したときの文章もよい。

おれはこれまで何をどこを見てたんだ。うかつ、鈍感、脳たりんであった。
これは異界から見た現世の風景だ。いや、末期の眼で見た世界だ。
ここに登場する人たちは、お互いさり気なく助け合って生きている。親子、兄弟、友人、師弟、それぞれが支え合って暮らしている。そしてそういう人々もやがて時が来て死んでゆく。そんな人間たちをカメラがいとおしそうに見つめている。小津は楽園を描いているのだ。浮き世に散在する楽園の破片を大切に注意深くピックアップしているのだ。そこにはただただ懐かしく美しい出来事があるばかり。それ以外の醜いものは一切見ない。断固無視する。その無視にめっぽう力がある。

先週の日記、ところどころ。
16日 日曜日。
キムチ鍋をつつきつつ、バラカンビートを聴いてから、コートを羽織って、難波までレイトショウを観に行く。日曜日の夜に出かけるのは、月曜の襲来を少しでも遠ざけられるような気がして、好き。絶対に、明日に備えて早く寝たりしない。
でも、『紙の月』で、主人公の犯罪をただひとり見抜く小林聡美演じる銀行員は、明日に差し支えるから徹夜なんかしたことない、と言うのだ。定年になったらしてみたいことのひとつが徹夜だと。窓ガラスが打ち破られる前のシーンと台詞全部、よかったわ。何億円も横領して「あっち側」へ逃げるのも、徹夜ひとつに躊躇して「こっち側」に残るのも、あの窓ガラス一枚の差しかない。宮沢りえも、大島優子もよかったけれど、『紙の月』は小林聡美の映画だと、わたしはおもう。

18日 火曜日。
父の誕生日なので、おめでとう、とメールする。ありがとう、とすぐ返事がかえってくる。きょう、ミッキーマウスも誕生日らしいで!、わしと一緒や!と書いてあった。絵文字つきだったけど、わたしは絵文字のことがよくわからないのでここには再現できない。そうなんや、と返信したら、そうやねん、とすぐ返事がかえってきた。父とメールのやりとりをするのは、時に疲れる。
火曜日って、晴れてたっけ?思い出せない。
夜は飲み会だった。2次会まで連れて行かれた。帰りたいけど帰れなかった。USJハリーポッターの話をされた。全くついて行けない。何しろわたしは一昨日初めて、大島優子という人の顔を見たのだ。USJには行きたいと思ったこともないし、ハリーポッターのことは何も知らない。読んだことないの?意外〜、村上春樹は読むのにね、と言われたが、言葉の意味がよくわからなかったので黙っていた。世の中は、わたしの参加できない会話で溢れている。

21日 金曜日。
20時まで残業して帰る。肩が凝って眼が乾いてバシバシする。10人ほど乗ってた帰りのエレベーターで首を左右に曲げたら、ボキッと材木が折れたみたいな音が鳴り響き、隣に立っていた他所の会社のおっさんに変な顔をされた。
疲れたときは本屋で本をみるにかぎる。ジュンク堂に寄り、尊敬してやまない山崎努の文庫と、ビーター・バラカンに惹かれて、数年ぶりに「switch」も買ってしまう。前半しか読むとこないけど。
21時半くらいに家に帰り着き、じゃがいもを剥いて肉じゃがをつくり、ブロッコリーを茹でトマトとオリーブオイルと塩で和える。温めた豆腐にネギをのせて、「春鹿」をちびちびやっていると友人Kより、再来週飲みにいこう、アベノミクスと橋下の悪口言おう、とお誘いのメールあり。あんな奴らの悪口をいう時間がもったいないわ、と思いつつ、都合のいい日を確かめるためにカレンダーを見たら、再来週とはもう12月のことなのだと判明し、滝のように落ちていく時間が見えるような気がした。
寝る前にマルグリット・ユルスナール『アレクシス あるいは空しい戦いについて』を読み始める。須賀敦子の『ユルスナールの靴』を読み返していて、急に読みたくなったため、本棚から発掘した。それはともかく、須賀敦子展は関西には巡回しないのだろうか。全く切ないことだ。
金曜日って、晴れてたかな。二日前のことが、もう思い出せない。